時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

リベラルアーツ論の源流を訪ねて:西周『百学連環』再読

2022年08月28日 | 書棚の片隅から

西周肖像
森林太郎「西周伝」『鷗外全集』第3巻、岩波書店、1972年、国立国会図書館コレクション

英語のencyclopediaは、日本語ではさしづめ「百科事典」とでもいうことになるだろうか。ところが、その語源を訪ねると、「子どもを輪の中に入れて教育する」という予想もしない意味になる。今回の話はそこから始まる:

英國の Encyclopedia なる語の源は、希臘のΕνκυκλιος παιδειαなる語より來りて、即其辭義は童子を輪の中に入れて教育なすとの意なり。故に今之を譯して百學連環と額す。
(西周「百學連環」第1段落第1-2文)

英語の Encyclopedia という語は、古典ギリシア語のΕνκυκλιος παιδεια〔エンキュクリオス・パイデイア〕に由来しており、それは「子どもを輪の中に入れて教育する」という意味である。そこで、これを「百学連環」と訳して掲げることにしよう。
(上掲部分現代語訳:山本貴光、p.481) 

「輪の中の童子」が「円環を成した教養」となり、西先生の「百学連環」となるかは、上掲の山本氏の推論が大変興味深いので、山本著該当部分(第2章)をぜひお読みいただきたい。


安易な教養ブーム
この数年、書店の棚を見ると「教養」の必要性、身につけ方を掲げた本が多数目につくようになった。しかし、その多くは雑学本に近く、中には一日1ページを読み、一年後読了するころに教養が身に付きますと麗々しく記した本もある。

さらに最近はリベラルアーツ論も目立つようになった。リベラルアーツというと、筆者には前々回に取り上げた西周、さらに筆者が訪問したアメリカでのいくつかのリベラルアーツ カレッジが思い浮かぶ。筆者がかつて在学した総合大学は、この分野の草分けともいえる大学のひとつだが、
新しい形でのリベラルアーツ教育が、絶えず試みられてきた。

西は明治時代にリベラルアーツを「藝術」という訳語として造語した。現代の用法からすると、いまひとつという感じはあるが、日本におけるリベラルアーツ議論に際しては、明治の啓蒙家としての西の思想と努力を欠かすことはできない。リベラルアーツは、元来ビジネスマンに必要な知識、あるいは社会人として身につけるべき教養といった軽い意味のものではない。そこにはギリシャ、ローマ時代以来の長い歴史が脈々と存在するものであることは、西周の著作などを通して筆者も感じ取っていた。

かなり以前の話である。ブログ筆者が世紀の変わり目に当たり、所管することになった大学で、近い将来、大学が目指すべき姿を提示したいと思った。そこでの目標のひとつは、新たな時代環境で考えうるリベラルアーツを基盤とする教育の再編・充実であった。ギリシャ、ローマの時代へ戻そうというのではない。歪みに歪んでしまった日本の大学教育に小さな梁を入れたいと思ったに過ぎない。そのために、明治期に学園創設者が熱意を持って説いた学問の世界についてのヴィジョン、その体系化に、教職員の注意を集めたいと思った。

日本の大学の危機が次第に認識されるようになった21世紀の初頭に当たり、今後の教育の指針を示すことが、教育、運営の責任を負う者の責務であるとの思いが背景にあった。不完全なものであっても、海図と羅針盤なしに激動する教育の世界を漂流することは無責任だと感じた。

言い換えると、大学の未来をいかに設定すべきかという課題である。それまで日本の大学は、国公私立の別を問わず、総じて時代の成り行きに任せ、入学希望者の増加するままに拡大してきたという傾向が多分にあった。教職員の間でも、自分が勤務する大学の将来をどう構想するかという思いは希薄だった。

形骸化が進んだ「般教」
各大学の置かれたポジションで異なってはいたが、総じて大学教育のあり方について、深く考え、検討するという空気はあまり感じられなかった。事態は深刻であった。筆者は大学に勤務する前に日本・外国の企業、国際機関など、異なった組織風土を体験していたが、日本の大学ほど改革が難しい組織も少ないと感じていた。大学は潰れることはないと思い込んでいる教員も少なくない。

ひとつには、大学における一般教養課程については、形式的な面で制度改革が一段落し、多くの大学が専門課程に進むに先立って、一般教養科目(教養課程)の整備を済ませていて、改革の必要はないと思い込んでいる教員も少なくなかった。。しかし、大学は激しい競争の渦中にあることは紛れもない事実なのだ。そうした中で一部の大学を除き、建物などの建造、改築は進むが、教育内容の充実は進度が遅かった。

当時から日本の多くの大学では、一般教養課程は専門課程よりも一段下という評価がいつの間にか出来上がってしまい、しばしば「般教」の名で学生の間にも軽視する風潮が広がっていた。大学の重点は専門課程にあるので、「般教」は早く済ませたいという受け取り方が強かったように思えた。

確かにリベラルアーツを日本語に訳すと「教養教育」が最も近い。しかし、リベラルアーツはしばしば一般教養課程と重ねて考えられがちな従来型の教養教育とは全く別物なのだ。

リベラルアーツは「般教」ではない
リベラルアーツの原義は、「人を自由にする学問」、「自由学科」のことであり、それを学ぶことで、自由人たる思考・行動の素地が身につくとされてきた。

筆者はたまたまアメリカ、イギリスなどで、研究・教育の機会を経験したが、彼の地で共有されているliberal arts のイメージと内容は、日本で使われている教養教育とは大きく乖離していた。

筆者はリベラルアーツ論の源流に立ち戻って、マンネリ化しつつあった教養課程活性化のための教職員の理解を深めたいと考えた。そこで出会ったのが、西周の著作集だった。大学執務の傍ら、手に取った著作の中に「百学連環」があった。文章全体は決して長いものではないが、文語体にギリシャ語、英語の引用が混じり、現代人にとってはかなり難渋する部分がある。それでも丁寧に読むと、明治人が感じとった当時の西洋の学問体系の地平が見えてくる気がした。それから150年余りを経過した今日、学問の世界はどのように展望できるのだろう。

「百学連環」は西周の著作を集めた全集の第4巻(宗高書房、1960-1981年)などに収められている。しかし、明治期の文語体で書かれた著作は現代人にはかなりハードルが高いものになっている。『即興詩人』など森鴎外の著作の現代語訳が求められる時代である。それでもその後刊行された現代語訳などを参考に読めば、理解に困難を感じることはないだろう。

その後、大学を退職し自由な身になった時にふと手に取った書籍が、山本貴光氏による「百学連環を読む」であった。大変興味深く読了した。ややマニアックな感はあるが、「百学連環」の最善のコンメンタールであると推薦に値する。著者の絶え間ない探索力に支えられた旺盛な思索の過程を辿ることができ、長らく忘れられてきた明治の啓蒙家が描いた学問の世界のマップ・地平のイメージが目に浮かぶようになる。
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山本貴光「百学連環を読む」三省堂、2016年

改めてこの労作を読み返し、もう少し早く刊行されていたならば、と思ったことしきりであった。世俗化し、本来の方向とは別の方向へ走り、定着してしまった日本での「リベラルアーツ」の概念を正しい道に引き戻すことは容易ではない。筆者の始めた試みも、全学共通カリキュラムの導入などに多大な時間をとられてしまった。新たな時代におけるリベラルアーツ再興への関心も育たなかった。数は少ないが、一部の大学は積極的にこの方向へ移行の努力をされ、成功を収めつつある。

リベラルアーツは本来「自由の技術」であり、(一般)教養とは大きく異なる。そこにはギリシャ、ローマ以来の長い語源上の歴史が存在している。現代において『百学連環』の輪郭はどう描けるのだろうか。

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N.B.
リベラル・アーツの起源は古代ギリシアにまで遡り、自由人としての教養であり、手工業者や商人のための訓練とは区別されてきた。古代ローマにおいては、技術(アルス ars)は自由人の諸技術・方策( artes liberales)と手の技である機械的技術・方策(artes mechanicae)に区別されていた。前者を継承するのが「リベラル・アーツ」である。人間社会のさまざまな制約から自らを解き放ち、自由人として生きるための技術と言える。
ローマ時代の末期にかけて、自由技術は七つの科目からなる「自由七科」(septem artes liberales)として定義された。自由七科はさらに、主に言語にかかわる3科目の「三学」と主に数学に関わる4科目の「四科」の二つに分けられた。 それぞれの内訳は三学が文法・修辞学・弁証法(論理学)、四科が算術・幾何・天文・音楽である。音楽がここに入るのは不思議な感じもするが、当時は技術の範疇に含まれていた。哲学はこの自由七科の上位に位置し、自由七科を統治すると考えられた。
その後、時代が下り、13世紀のヨーロッパで大学が誕生した当時、自由七科は学問の科目として公式に定められた。

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激動する現代社会において、世界を見通す手がかりとして、150年近い時空を遡り、日本が理想に燃えていた明治期の啓蒙思想家の知の世界の展望を再体験することは、見え難くなった世界への新たな可能性を提示もしてくれる。西周は当時のオランダ、ライデン大学におよそ2年間滞在し、西欧世界の学問の体系と輪郭を確認し、帰国後日本に生かすための基盤材料とすることを企図していた。そのためには、先進地域である西欧の学問の体系、その輪郭を確定し、学問相互の間の関係を理解することに努めた。「百学連環」の表題はその作業にふさわしい。

複雑さを増し、行動が制限されることが多くなった今日、制約が多くなり生きにくくなった社会で、自らの力で壁を乗り越え、切り開き、自由な発想で生きてゆく術を考えることは、学問に携わる者、これから激動する世界で生きる者にとって、必要なことなのだ。専門化が進み、学問の全体俯瞰ができなくなっている複雑な世界であるからこそ、「百学連環」の視点が必要になっている。西周が現代に立ち戻ったとしたら、いかなる展望と内容で学問の体系を提示してくれただろうか。晩夏の時を迎えたブログ筆者の真夏の夢の一齣である。





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​就活のあるべき姿は:企業・大学の責任

2022年08月20日 | 労働の新次元




コロナ禍の影響もあって、最近はリクルートスーツといわれる服装で、一目で就活中と思われる学生の姿を街中で見かけることは少なくなった。しかし、「就活」(就職活動)といわれる学生が職業に就くための活動はれっきとして存在し、オンライン化などで表面からは見えなくなっているだけだ。就職協定*1がなくなってしまっている今日の段階では、仕事を求めたり、採用する活動の実態は、かなり混乱している。

最近、歴史家(京都大学)の藤原辰史氏が『日本経済新聞』に「就活廃止論1&2」*2 を寄稿されていた。この機会に問題が発生した頃から、ブログ筆者も多少関わったこともある就活廃止に向けての議論を振り返ってみた。

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*1
就職協定とは、 企業と 学校(主に大学)の間における卒業見込み者の就職に関する協定である。法律上の取り決めではないが、企業側と学校側が、自主的に結んでいた 紳士協定である。 1952年に大学、日経連、当時の文部省、労働省から成る就職問題懇談会によって「就職協定」として協定を結ぶに至ったが、青田刈りなど協定違反が続出し、「守られないならあっても意味がない」として 1996年に廃止されている。
その後、2013年には政府の要請もあり、経団連が「採用選考に関する指針」(通称:採用選考指針)を発表し、2016年卒業生から、広報活動は「卒業・終了年度に入る前年度の3月1日以降」、採用選考活動は「卒業・終了年度の8月1日以降」に開始すると提示している。


*2
藤原辰史「就活廃止論1&2」『日本経済新聞』2022年7月27日、8月17日
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1996年の「就職協定」の廃止によって、今日まで続く「就職活動の早期化・長期化」が始まったが、その背景には、企業側の「厳選採用」を目指す動きと、応募する「学生数の増加」という変化を指摘できる。その結果、企業、学生の双方に早く活動を開始しなければとの焦りのような状況が生まれた。さらに、インターネットの普及も就活の形態を大きく変化させた。オンラインでの応募面接なども、珍しくなくなった。職業決定の仕組みは、かなり見通し難くなっている。

この問題については、ブログ筆者も協定の廃止で事態が深刻化した当時、さまざまなメディアで、就職活動のあるべき姿について意見を求められたり、検討委員会の一員として改善案*3を求められたりしてきた。

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*3

「学生の職業観の確立に向けて:就職をめぐる学生と大学と社会」日本私立大学連盟・就職部会就職問題研究分科会1997年6月

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しかし、それから20年以上経過した現在の状況は、実質的に何も変わっていない。大学側、経営側双方に事態を改善しようという意欲が欠けている。成り行き任せで、今年も同じという事態が継続してきた。

あまりに長い期間、抜本的改善もなく放置されてきただけに、多くの問題が発生、蔓延、定着してしまい、事態を容易に立て直すこともできなくなっている。

改めて考え直してみると、究極の問題は、大学生活において最も重要な時期である最終学年の勉学が就活のために大きく損なわれることについての大学、企業など当事者の責任感が弱く、改善努力に欠けることにある。

この問題に長らく当事者として関わってきた者の一人として、改めて提言したいのは、就活を大学生活と時期的に切り離し、原則、大学卒業後に移行することである。大学生活のあるべき状態をなんとか取り戻したい。就活はひとまず大学などでの学業を修めた段階で、職業を選択する上で必要な行動である。兵役などとは異なり、自らの意思で望ましいと考える職業機会に就くためには必須の期間でもある。他方、大学などの最終年次は、学業の修得の成否を左右する最重要な時期に当たる。卒業論文などの作成もこの時期と重なる。大学のみならず、企業側もこの点を改めて認識すべきだろう。

筆者の経験で分かりやすい例をあげてみよう。ある年、4年生になったゼミ生のひとりが2、3ヶ月ゼミに出席していないことがあった。他の学生はほぼ全員出席していたので、当該学生になぜ出席できないのか尋ねたところ、父親から電話があり、「今は息子の人生を決める重要な時だ。大学側は半年くらい閉講にして、学生のことを考えるべきだ」との厳しい口調であった。筆者も立場上、強く反論はしたが、息子の人生が決まるとまで言われると、いささか答えに苦しむ所もあった。

こうした経験も踏まえた上で長らく考えた結果、望ましい解決は、大学生活と就活を切り離し、後者を卒業後の時期に充当することしかないという結論に至った。大学としては、教育の場としてのあるべき姿を回復、確保することが第一義的に重要なことだ。就活は必要な行動だが、大学生としての必要な課程を全うした学生が対象になるべきだ。諸外国の例を見ても在学中に職業が定まる比率は、日本よりはるかに低い。就職のための活動は、原則卒業後の活動と考えられている。自らの学業習得の成果を語れるのは、本来規定の学修過程を終了してのことである。そのためには、就活をする学生が、大学生活をあるべき形で終了したことを示す示す証明、端的には卒業証書が必要だろう。

卒業証書であるから、常識では卒業式*4の際に手渡されるのが普通である。その時期は、ほぼ統一されており、日本では3月末には終了する。それから数ヶ月が新しい就活の時期となる。卒業論文をもって証書に代えるというのは、普遍的に実施することは難しい。学生の学習成果を示す2次的な証明材料とはなるだろう。卒論を構想、作成するにしても、雑念に惑わされず、専念できる期間が必要だ。

*4
英語で「卒業式」commencement には「始まり、開始」の意味があることにも留意したい。人生の新たな段階に入る一区切りの時と考えられる。

会社訪問を含む就活は、ここからスタートする。全ての候補者が同じ線上に並ぶことになる。卒業証書を授与されていない学生は、就活の対象とならないとすることで、就職市場では最低限の整理が行われる。企業、大学側も、求職、採用に至る活動は、効率的に行われるため、比較的短期間になるだろう。元来、外国で見られるように、採用は通年で行われるものであり、日本のように特定の時期に入社などが集中するのは異例といえる。卒業証書を持っている者は、通年いずれの時でも求職の活動を行えることになる。労働市場の国際化が進む中、こうした次元へ日本も移行することは望ましいことでもある。

この新しい次元への移行に際しては、大学側と企業側の間で、目的達成に必要な最低の条件を整えるためのルールの確認と申し合わせを改めて確認、遵守することが必要である。大学生の在学期間を勉学という本来の活動に当てることは、それに続く就活を後押しすることになり、学生は4年間の学生生活を本来あるべき形で全うできるはずだ。充実した学業の成果を達成した学生を採用対象とできることは、優れた人材を望む企業側にとって本来望むべきことなのだから。これまで見られた在学中に就職先が決まってしまったことで、残された期間が安易に過ごされてしまう例もなくなるだろう。

他の諸国にはほとんど見られない修学の期間を犠牲にしての就活という奇妙な慣行を速やかに消滅させ、本来の大学のあるべき姿を取り戻すことは、入学者の減少を始めとする危機的段階を迎えた日本の大学にとって、真摯に考えるべき重要事項だ。これまでのように安易に流されることなく、教育そして職業選択という重要な活動をあるべき姿に取り戻す時である。


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森鴎外と西周:両雄並び立たず?

2022年08月12日 | 午後のティールーム



2022年は森鴎外(1862〜1922年)の生誕160年、没後100年を記念する年となり、多くの行事、出版、報道などが行われている。

ブログ筆者は森鴎外の著作には、戦後の文字に飢えていた頃に惹きつけられ、当時人気だった大部な文学全集などを通して、主要な作品に親しむと共に、鴎外生誕の地、津和野や文京区の記念館などを訪れたりしてきた。

他方、コロナ禍が始まるかなり前から、重く扱い難い文学全集などを整理する傍ら、いつのまにか近年刊行された未読の短編や周辺の資料などを手にとっていた。断捨離どころか、軽くて読みやすい新訳の文庫版などが増え始め、何をしているのか分からなくなってきた。

西周邸に寄寓した林太郎
ここにいたるには、いくつかの動機があった。そのひとつに森鴎外と同じ津和野の出身であり、先輩でもあった西周(1829〜97年、森家の親戚で、藩の典医の家系、血縁はない)の存在があった。西周は鴎外より33歳ほど年上であり、西・森の両家は極めて近い関係にあった。西周は明治日本の啓蒙思想家の一人であり、西洋哲学者でもあった。しかし、(最近の状況はよく分からないが)同じ津和野の出身でありながら、西周の旧居(生家)跡を訪ねる人は少ないようだ。

森林太郎(森鴎外の本名)が上京し、修業時代の一時期、家族から離れ、ひとり西周邸に住み込んでいた時期があったことは知っていた。公務から解放された後、西周と森林太郎の人的関係は実際にはどんなだったのか、知りたくなった。

偶々、筆者は西周が初代校長を務めた獨逸学協会学校の流れを汲む学園で教育・運営の任を負ったことがあった。その折、公務の傍ら、周囲にあった公刊されていた文献のかなりのものは目を通した。しかし、多忙であったため、いくつかあった疑問を探索し、整理・解明する時間はなかった。


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西周は文久2(1862)年、津田真道、榎本武揚らと共にオランダに留学し、法学、哲学、経済学、国際法などを学び、慶応元年(1865)年に帰国し、徳川慶喜の側近となり、明治になってからは明治政府に出仕し、兵部省、文部省、宮内省などの官僚を歴任した。東京学士会院第2代及び第4代会長、獨逸学協会学校の初代校長を務めた。啓蒙思想家、西洋哲学者。
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1872(明治5)年6月、森林太郎は父に伴われ津和野を離れ、東京へ向かった。そして、森家は故郷津和野の家を引き払い、林太郎の母、祖母、次弟と妹共々、上京し、林太郎だけは父が探してくれた獨逸語を学べる「進文学社」(私塾、本郷壱岐坂)に通うに便利な西周宅(神田西小川町)に寄寓することになった。1872年(明治5年)、西周は43歳、林太郎は10歳であった。西邸にいたのはいつまでか正確には分からないが、たまたま同居していた相沢英次郎*1の記憶では、林太郎は明治6年に西家を去ったとあるので、主人の西周との交流は1年程度であったようだ。

林太郎が西邸に住んだ当時、西周は、すでに留学先のオランダから帰国し、兵部大丞として、宮内省に関連し、官僚として多忙な日々を過ごしていたと思われる。その傍ら、家の造作から食生活までヨーロッパでの体験をさまざまに導入していたようだ。西と夫人升子の日常から林太郎を始めとする西邸に寄寓していた住人は、有形無形に多くを学んだことと思われる。西周が『明六雑誌』(1874年3月創刊)で活躍する直前のことである。働き盛りの西周から見れば、10歳そこそこの若者は、対等の話し相手とはならなかったろう。

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*1
ここで大きな情報源となったのが、近刊の宗像和重編に所収の相沢英次郎「西周男と鷗外博士」と題した1章である。西周男とは、西が1897(明治30)年に男爵に任じられていることによる。相沢英次郎(1862~1948年、敬称略)は、宗像編によると、教育者、歌人であり、少年時代に叔母升子が嫁した西周邸に預けられ、森林太郎と起臥を共にした。後に三重県師範学校長などを歴任した人物であった。

相沢英次郎「西周男と鷗外博士」(原典『心の花』1926年6月)宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
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林太郎が同郷の親戚としての西周に頼り、東京の西邸に寄寓したのは、西周が43歳頃のことであった。同郷の親戚、年長者などを頼って、書生、家事見習いなどの名目で、住み込んだのは、戦前までは一般に珍しいことではなかった。西周は帰国後、先進国西欧を知る数少ないエリートとして、文字通り働き盛りであった。神田小川町にあった広大な屋敷は、内部は西欧風に設えられていて、生活、とりわけ食生活なども西欧風に変えられていたようだ。相沢がコンデンスミルクやビスケットを味わったのも、西邸であったと記されている。さらに、西は津田真道、加藤弘之、福沢諭吉、神田考平、箕作秋坪などの学者を自邸に招き、料理人を呼んで会食などもしていたようだ(相沢、50〜51ページ)。

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相沢によると、林さん(鷗外博士の当時の呼称)は明治5年に西邸に寄寓し、1歳年下の相沢と同じ室に寝起きしていたようだ。さらに同居していた西の養子の紳六郎(後の西紳六郎男爵、海軍中将)は、林さんの1歳年上という間柄でもあった。相沢は西邸に足掛け5年ほど寄寓していたようだ(宗像、50ページ)。三人ともほぼ10歳近辺の少年であったが、現代の同年代と比較すると、やや長じていたようだ。時には悪戯をして、西男爵に叱られたことも記されている。
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鴎外と西周の関係に大きな影響を与えたのは、よく知られた林太郎がドイツから帰国した後に起きたドイツ人女性との問題だった。エリーゼ・ヴィーゲルトは、1888(明治21)年、林太郎(26歳の時)の帰国と相前後して来日するが、間もなく帰国している。この出来事が一段落した後に林太郎の結婚を急いだ両親に周旋を頼まれた西は、赤松登志子との関係を取り持った*2

その後間もなく1890年に、林太郎は登志子と離婚、それが原因で西の不興を買い、絶縁状態になってしまったと推定されている(中島、18ページ)。離婚の原因、経緯は不明だが、いわば仲人役をした西周の心情はほぼ推測できるような気がする。

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*2 
1889年、林太郎と登志子は結婚、二人は上野花園町(現在の上野池之端)に住んだ。1900年、離婚した登志子が死去。鷗外は翌年40歳で荒木志げと再婚している。
余談だが、ブログ筆者は子供の頃、不忍池周辺に住んだいとこたちとボート遊びなどをした思い出があり、横山大観邸などの記憶を含め、さまざまなことが思い浮かぶ。
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森鴎外が評した西周
西周が亡くなったのは、1897(明治30)年、鷗外35歳頃であったと推定される。状況からして、西周と鴎外の関係が冷却していたことは分かるが、当時二人は日本を代表する知識人でもあり、実際にいかなる公私の関係にあったのかは必ずしもはっきりしなかった。しかし、幸い最近刊行された上掲の宗像編著所収の相沢の追憶が、この疑問にかなりの示唆を与えることが分かった。

さらに、新刊の中島國彦『鷗外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)に下記の興味深い記述があることを発見した。

西の没後の1909(明治42)年、鷗外47歳の時、在東京津和野小学校同窓会での講演の際、郷土の先人西周の名を挙げて、鴎外は「あの先生は気の利いた人ではない。頗るぼんやりした人でありました。そのぼんやりした椋鳥のやうな所にあの人の偉大な所があった」と述べている(中島、19-20ページ)。

この時点で、西周は没しており、鴎外も同郷の先人に対しては冷静に畏敬の念を表するまでになっていたのだろう。ここで興味深いのは西周を「ぼんやりした椋鳥のやうなところにあの人の偉大な所があった」と評していることにある。

実は、鷗外が西周を評した「椋鳥のやうな」*3という言葉の意味するものがすぐには浮かんでこなかった。椋鳥と「ぼんやりした」という表現がうまくイメージとして取り結ばなかった。

池内紀*3によれば「椋鳥」は江戸時代によく使われた表現で、「田舎者」を意味しているとされる。鴎外は西周をその言葉通りの意味で評したのだろうか。鴎外ほど多彩な公私に渡る広範な活動ではなかったとはいえ、西周が残したさまざまな社会的活動、論説などから推測すると、やや複雑な思いがする。西周もオランダに学び、当時としては日本屈指の西欧通であり、『百学連環』などに展開されているように広い視野の持ち主であったからだ。

ちなみに、鷗外が西周の死去とほぼ同時に執筆を開始した海外雑録のような膨大な記述には『椋鳥通信』の標題が付けられている。現代に引き戻すと、その内容はあたかも海外情報ブログのような印象でもある。この時期、「椋鳥」の語に、鴎外はいかなる思いを込めたのだろうか。


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鴎外は1909年『椋鳥通信』と題した膨大な海外通信を始めた。公務で多忙であった鴎外が、こうした海外雑録通信のようなものを書き出した背景は、同書上巻巻末の池内紀氏の大変興味深い解説に詳しい。
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参考文献
森鴎外『椋鳥通信 上・中・下』(岩波文庫)、2014〜15年
ハンディな文庫版とはいえ、3冊の文庫に凝縮された内容は驚くばかりである。編纂、注釈の任に当たられた池内紀氏の適切な解説なしには、とても読みこなせないが、鷗外が楽しみながら書いたと思われる本書は、歴史年表を傍らに時間をかけて読むと実に興味深い。


宗像和重編『鷗外追想』岩波文庫(2022年)
本書だけでも十分に興味深いが、最近、森鴎外に宛てた書簡が、新たにおよそ400通発見されたと報じられており、いずれ公開されると本書と併せ、鴎外の個人的生活の側面に一段と光が当たるだろう。

中島國彦『鴎外〜学芸の散歩者』(岩波新書、2022年)
森鷗外に関する出版物は汗牛充棟ただならぬものがあるが、本書は今日、森鷗外に関心を抱く人々にとって、ぜひ一読をお勧めしたい新たな評伝である。多くの貴重な情報が凝縮されており、日常、手元におきたい一冊である。



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artists@war: 17世紀、戦火の下の芸術家たち:危機の時代を生きる

2022年08月06日 | 特別記事




17世紀:「リシリューの時代」?
Geoffrey Parker, Europe in Crisis 1598-1648, second edition, Oxford, Blackwell, 1979, 2001, cover


17世紀のヨーロッパは、戦争やペストなどの疫病、インフレーション、飢饉(ききん)、さらには魔女審問など、多くの混乱と不安にあふれていた。同時代には地域的に見れば「オランダの黄金時代」などもあったが、歴史学ではしばしば「全般的危機(The General Crisis)」や「17世紀の危機」とも言われている。他方、このブログでも一端を論じてきたように、そこに見出される異常な現象の多くは、著しく増幅した形で今日の世界を襲っている。

すでに3年に近いコロナウイルスのグローバルな感染の拡大、ウクライナへのロシア軍侵攻、各地の森林火災、食糧危機、米中対立など、いずれも地球規模での影響をもたらしている。人類の危機さえ感じるほどだ。

17世紀ヨーロッパの戦史を時系列、国別に概観してみると、いかに多くの戦争がヨーロッパで起きていたかが、歴然とする。とりわけ、17世紀前半には戦争が記録されていない年は見当たらないほどだ。政治的動乱などを含めると、大小の戦乱は西はイベリア半島から東はウクライナにまで及んでいた(Parker 2001, Map 1)。平和より戦争が時代を動かし、支配する起点となっていたと言っても過言ではない。


文化的刺激となった戦争
この時代の芸術活動、文学、絵画、音楽、演劇などの多くが、戦争をテーマとしたり、戦争と強い関連を持っていた。「歴史が取り上げる主題、そして議論は戦争だ」(Sir Walter Raleigh)というのもあながち誇張ではない。

17世紀ヨーロッパの画家の中には、各地の王侯貴族の庇護の下に、作品制作をおこなっている者もいた。彼らは従軍画家のように、しばしば軍隊に同行し、戦争の主要場面を絵画作品として記録してきた。著名な画家と作品の例としては、ヴェラスケス《ブレダの降伏》やジャック・カロ《ブレダの包囲》がある。

ディエゴ・ヴェラスケス《ブレダの降伏》
The Surrender of Breda
Diego Velázquez(1634–35)
Oil on canvas, 307 x 367cm
Museo del Prado, Madrid, Spain

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N.B.
この作品はヴェラスケスの傑作の一点と言われているが、画家が1625年6月5日、80年戦争の間、ブレダの征服をしたスペイン軍将軍アムブロージャ・スピノーラの軍に同行し、1634-35年の間に完成した。画面にはブレダの市の鍵がオランダの所有からスペインへ渡される光景を描いている。戦いは現在のネーデルラント、ベルギー、ルクセンブルグを含む17州がスペインのフィリップII世に対し反乱を起こしたことによる。作品はスペインのフィリップIVの依頼により制作された。
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ジャック・カロ《地図:ブレダの攻略》
1628年、エッチング
123.0 x 140.5cm
国立西洋美術館

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N.B.
必ずしも画家の作品の中では忘れられがちだが、80年戦争の間にネーデルラントで出版された最も情報量の多い地図と言われる。新教徒軍の要衝であったブラパント地方の町ブレダは、10カ月にわたる包囲戦の後、1625年6月5日スペイン軍の手に落ちた。画面中央の城壁に囲まれた小さな町がブレダ。
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戦争が大きな打撃を与えた文化領域
戦争が時代の文化活動に与えた影響は、多様にわたっていた。例えば、音楽は大きな影響を受けた。大規模なコンサートなどはほとんど中止された。多くの音楽家が戦火を避けて中央ヨーロッパから逃げ出した。

閉鎖を余儀なくされたのは、ドイツが多く、the Musikkranzlein (ウオルムス、ニュールンベルグ)、the Convivia Musica (ゲルリッツ)、musical ‘colleges’ (フランクフルト、ミュールハウゼン)などは閉鎖に追い込まれた。多くは財政的な支援が絶たれて存立不能となった。

多くの音楽家、文学者などの芸術家が戦地を逃れて、離れていった。プロテスタントに対する迫害など、宗教上の理由から各地を転々とすることもあった。

ロレーヌでは戦争の拡大と共に、ロレーヌ公の庇護が無くなり、ジャック・カロ、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール、クロード・ロランなどのような画家たちが、それぞれ安全な地へ逃れる状況が生まれた。ドイツなどでは、画家の作品が損傷される、略奪される(特にスエーデン軍が多かったと言われる)、画家が迫害される、殺される、追い払われるなどの厳しい環境悪化が見られた(Parker 2001, p.217)。


30年戦争当時、ロレーヌに侵攻してくる外国軍の中で、スエーデン軍はとりわけ横暴、残虐との噂が流布していたこともあり、その後ドイツの家庭では、ぐずる男の子に手を焼く母親が、(言うことを聞かないと)「スエーデン軍が来ますよ」Die Schweden kommen と脅かしたともいわれる。もちろん、今日では使われない(Geoffrey Parker, 2001, p217.)。さて今ならば?


しかし、この時代、戦争の当事者が長引く戦争に疲弊し、なんとなく休戦状態に入るなどの”ゆとり”があった。平和への希求も強く、平和を求める音楽活動などがあったことも知られている(1627年のミュールハウゼンの会で、音楽家ハインリッヒ・シュルツが「平和の勝利」を意味する Da acem (‘Give us peace’)の作品を披露した例などが知られている。

「美しい戦争なんてあり得ない」 ゼレンスキー・ウクライナ大統領夫人


Reference
Geoffrey Parker, Europe in Crisis 1598-1648, second edition, Oxford, Blackwell, 1979, 2001.
N.A.M. Roger, War as an Economic Activity in the "Long" Eighteenth Century, International Journal of Maritime History, XXII, No.2 (December 2010): 1-18







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