時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

恐慌の中に花開く生活文化

2020年06月30日 | 特別トピックス



世界レベルでの新型コロナウイルスが蔓延するに従って、混迷の度は日に日に高まり、将来への不安も強まっている。偶然に見たTV番組『ズームバック 落合陽一/エコノミー」(教育TVl2020年6月25日)で考えさせられた。といっても、ブログ筆者は、教育、メディア・アーティストその他の分野で多彩な活動を展開しているこの人のことをほとんど全く知らない。

番組の目的は混迷した時代の「半歩先を読む」ということにあるらしい。稀代な天才と言われる若者がその課題に挑戦するというのがウリのようだ。番組自体は詰め込み過ぎで、理解するには苦労した。テーマに掲げられた時代の「半歩先を読む」ということは、「一寸先は闇」といわれる複雑怪怪な世の中で、いかなる天才であっても科学的な意味では不可能に近い。しかし、ブログ筆者も多少記したことはあるが、長い歴史軸の延長上に起こりうるリスクをある程度の確率で予想することは全く不可能というわけではないと思う。

進行のテンポが早すぎ、理解にやや困難を感じたが、番組の中で落合氏が「大恐慌の時に人々がいかなる生活をしていたか」ということを知りたいと述べていたことに、あれと思った。最近、このブログで筆者が細々と試みていることは、1930年代のアメリカに始まり世界に拡大した「大恐慌」the Great Depressionの時代に立ち戻り、人々の生活実態など、実際にいかなる時代であったかを不完全ながらも推察してみたいということにあった。

これまで残っていた記録や伝承に見る限り、この時代は大恐慌の最中であり、企業の倒産、破産、失業、病気など暗いイメージで塗りたくられていた。

しかしウオール街の株式大暴落から始まった1930年代の現実に見る限り、アメリカでは株式市場の低迷、失業者の増大などの暗い実態が存在したにもかかわらず、「1930年代文化」と称されるように、文学、演劇、音楽、スポーツなどの文化活動は予想を裏切り、さまざまに花開いていた。

今日、われわれの生活に溶け込んでいるさまざまな技術、製品なども、この時代に発明、発見されているものが多い。建築分野でも、歴史的建造物として今に残るクライスラービル、コカコーラ本社、ゴールデンゲートブリッジなどもこの時代に建造されている。さらに、この大恐慌期を締めくる1941年の真珠湾攻撃から始まる世界大戦に備えた軍事的開発が多方面で展開していた。

当時の日本は迫りくる大戦の予兆を感じつつ、国民は暗く不安な時代を過ごしつつあったが、アメリカの大恐慌期は、圧倒的な軍事力を背景に世界に君臨していたこともあり、大恐慌期にあっても、独自の豊かな文化的発展があったことが最近の研究で明らかになったいる。前回記したのは、その中での文学的側面であった。

生活文化の開花
さて、このたびの新型コロナウイルス感染を避ける自粛期間の間に目立ったことのひとつは、TVや新聞などのメディアで、家庭における調理や料理の番組が急増したことだ。ウイルス感染を防ぐためにできうる限り、不要不急な外出を避け家庭に留まるという必要から、ある意味では当然のことであるかもしれない。
そんなことを考えながら、古い資料を片付けていると、少し興味深い記事が目に止まった。アメリカ人の好きなホット・ドッグ、グリルド・チーズ・サンドウイッチ、ミルクシェーキ、チョコレート・チップ・クッキーなどは、ほとんどが大恐慌期の1930年代に生まれた食べ物らしい。

人気を呼んだクッキー
今回取り上げるチョコレート・チップ・クッキーは、今からおよそ82年前の1938年にマサチューセッツ州ウイットマンにあった著名なレストラン、トルハウスを経営していたルース・ウエイクフィールド夫妻が作り出したレシピから生まれたといわれている。このクッキーは最初はアイスクリームの付け合わせとされていたが、その後急速に独自の菓子として有名になった。1939年末、夫妻はこのレシピによる商品化を図るが、無償でネスレ社にレシピを譲渡してしまった。夫妻にとっては、取り立ててユニークさを誇示できないと思ったらしい。実際、その頃までには評判を聞きつけて、およそ75種類のクッキーのレシピが世に出ていた。

こうした夫妻の謙虚な考えにもかかわらず、クッキーの評判は高まるばかりで、アメリカ人にとって大好物なスナック、果てはワインのつまみとして、大変な評判を勝ち得たのだった。

話題のToll House レストランは1984年の大晦日に火災で焼失してしまったが、レストラン店主は店の中に小さな展示場を設置してウエイクフィールド夫妻とトル・ハウスの功績を今に残している。

史料の筆者は、店でクッキーを頼むのもいいが、まず家でレシピに従いこの歴史的なクッキーを自分の手で作ってみなさいと勧めている。ネットで調べてみると、確かに多くのレシピが公開されている。ご関心のある向きは試してみられると、1930年代のアメリカ食文化の一端に触れることができるだろう。


Source:
’SWEET MORSELS: A HISTORY FO THE CHOCOLATE-CHIP,’ (By Jon Michaud, December 19, 2013


[Vintage chocolate chip cookies recipe | BBC Good Food](https://www.bbcgoodfood.com/recipes/vintage-chocolate-chip-cookies)
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カラーラインがなくなる日は

2020年06月20日 | 書棚の片隅から

  

SOFTWARE 不具合のため、背景等、色彩表示が正常ではありません(修正作業中)


いくど繰り返されたことだろうか
ジョージ・フロイドという人間は決して有名ではなかった。しかし、5月21日黒人(アフリカ系アメリカ人)の彼が、アメリカで47番目の都市ミネアポリスの路上で警官に殺されたことで、その名は世界に広まり、知られることになった。さらに日ならずしてジョージア州アトランタで別の黒人が同じく警官に射殺される事件が発生し、人種差別をめぐる反対運動は世界的な次元へと拡大した。

アメリカに限っても、同様な事件はこれまで数多く発生してきた。その都度、多くの人々が抗議の行進をし、”We shall overcome” の歌声が響き渡った。このたびの出来事でも、黒人に限らず多くの人種からなる参加者が世界の至る所で人種差別反対を叫んでいる。こうしたプロテストはこれまで多くの場合、なんらかの現状改善につながる結果をもたらした。今回も警察制度の改革を含めて、いくつかの対応が導入されるだろう。しかし、人種差別は執拗に生き残る。

一冊の本から
差別には様々な対象が考えうるが、ブログ筆者が最初にこの問題に気づかされたのは、1960年代、アメリカ、コーネル大学院の政治思想史(公民権法)セミナーだった。尊敬するMFN教授からアサインメント史料として最初に指定されて読んだのが、前回ブログ記事で言及したW.E.B.デュボイス(William Edward Burghardt Du Bois: 1868年〜1963年 )の『黒人のたましい』であった。

デュボイスは20世紀初頭のアメリカにおける最も影響力を持った黒人学者で、ジャーナリスト、政治運動家でもあった。この著作は、奴隷解放以降の黒人の歴史、レーシズム、ブラック・アメリカンの闘争を記した大変情熱的で強い意志で書かれた迫力ある著作である。デュボイスはその生涯を道徳、社会、政治、経済面における平等の実現にかけた。

原著は1903年に刊行され、今日ではKINDL版を含めきわめて多数の版が存在するが、以下では英語版、日本語訳版について、下記に依拠した。

W. E. B. Du Bois, The Souls of Black Folk(original: 1903), with a new introduction by Jonathan Scott Holloway, Yale University Press, 2015
Jonathan Scott Holloway の解説がつけられている。

W.E.B. デュボイス(木島始/鮫島重俊/黄寅秀訳)『黒人のたましい』岩波文庫、1992年(同じ訳者による未来社、1965年刊行の改訳)。大変充実した訳注がこなれた本文訳と併せ、1世紀を越える時代の経過を感じさせない。

人種差別問題を身近に
半世紀近くも前のこと、記憶は鮮明に残っている。10人くらいのセミナーで、外国人で非白人は二人だけ、トリニダード・トバコから来たトーマス(後に名門University of West Indies の経済学部長となった。後年、不思議な再会もあった)と私だけであった。トーマス(Tと略称)は年齢も数歳上で、物静かで教養豊かな黒人であった。寄宿舎でも偶然に部屋が隣り合わせだったこともあり、何かにつけては話し合い、教えてもらった。

1960年代後半の時点では、キャンパスに黒人の姿はきわめて少なかった(その後、ある事件が突発し、状況は大きく変わったが、その詳細は後日にしたい)。とりわけ、このデュボイスの著作については、セミナーでもTの独断場であった。それまでブログ筆者はデュボイスのことはある程度知ってはいたが、著作自体を手にしたことはなかった。一読して、この著作を読まずして、アメリカの人種差別問題を論じることはできないことを直ちに思い知らされた。

デュボイスを形容する言葉は実に多様だ。曰く、ニューイングランド気質、中流階級の意気軒昂の思想家、論客、都市社会学者、南部人、パン・公民権アジテーター、編集者、小説家、進歩主義者、核反対平和運動家、注意人物、表看板、コミュニスト、ガーナ人など。(J.S. Holloway, 2005)

こうした形容詞は、W.E.B.デュボイスの人生のそれぞれの時点に当てはまる。1868年、マサチューセッツ、グレート・バリントンに生まれ、奴隷解放以降の文壇、政治の世界で、最も重要で絶えず関心を惹きつける人物であった。W.E.B.デュボイスの人生で基軸を成したのは、やはり公民権運動であろう。

戦う知識人
1903 年に、デュボイスは本書 The Souls of Black Folk を出版した。学者のシェルビー・スティールによると、この 本は「順応と謙虚という黒人種の思想形態に対する激しい反 発」であり、「20 世紀の問題は、人種差別の問題である」こ とを正面から宣言した歴史的著作となった。

デュボイスは、しばしばほぼ同時代の黒人の社会運動家ブッカー・T・ワシン トン(1850~1915)と対比された。ワシントンはアメリカにおいて先住民、黒人などの教育に尽力した教育家であったが、黒人の自立のための自助努力を強調していた。

デュボイスは、ワシントン氏について大略次のように述べた(本書第3章「ブッカー・T・ワシントン氏その他の人たち」参照):
 
彼の理論のせいで、北部でも南部でも白人は、黒人の問題は 黒人に背負わせ、自分たちは批判的かつ悲観的な傍観者とな る傾向があった。しかし実際には、そうした問題は国民全体 で背負うべきものであり、われわれがこれらの大きな間違い を正すことに全力を傾けないならば、われわれすべてに罪が ある。 

その2年後の1905年、デュボイスおよび大勢の黒人知識人が、順応と 漸進主義というブッカー・T・ワシントンの方針に真っ向から反対する公民権組織「ナイアガラ運動」を設立した(場所:カナダ領フォートエリー)。そして「われ われは完全な成年男子参政権を今すぐ要求する!」と宣言し た。彼は女性の参政権についても支持した。ナイアガラ運 動は、1906 年に、ジョン・ブラウンの反乱の地ウェストバー ジニア州ハーパーズフェリーで有名な会議を開催した。しかし、この組織は、組織力・資金力共に 不足しており、1910 年には解散した。

NAACPの設立
1909年、彼らは、デュボイスが組織した「ナイアガラ運動」と、イリノイ州スプリングフィールドの進歩的白人団体を母体として全米 有色人種地位向上協会 (NAACP:NAACP=National Association for the Advancement of Colored People) を設立した。この新組織の 指導層には、多くのユダヤ人を含む白人も含んでいた。デュボイス も指導者の一人として、NAACP の有力な機関誌『ザ・クラ イシス』の主筆となった。  NAACP は、その後、近代公民 権運動の闘いを始めることになる。 

1913 年に、南部生まれのウッドロー・ウィルソン大統領が連 邦政府の公務員の人種隔離を認めたのに対し、NAACP は裁 判によってこれに対抗するようになり、ジム・クロウ法を覆 すための何十年にもわたる法的な闘いを開始した。デュボイ スの指導の下で、「ザ・クライシス」誌は当時の状況を分析し、ラン グストン・ヒューズやカウンティー・カレンなど 1920 年代・ 30 年代のハーレム・ルネッサンスの偉大な作家の作品を掲載 した。同誌の購読者数は 10 万人を超えたとも言われている。

ジム・クロウ法 Jim Crow lawsは、1876年から1964年にかけて存在した、人種差別的内容を含む [アメリカ合衆国南部諸州の州法の総称。「ジム・クロウ」の名称は、黒人奴隷を題材とする芸人トマス・D・ライス〔1808–60〕の芸能ショーの登場人物名に由来するとされる。

ガーナ人になる
デュボイスは執筆活動を続け、20 世紀における米国の偉大な思想 家の一人としての名声を確固たるものとした。彼は、屈指の 反植民地主義者、そしてアフリカ史の専門家となった。1934 年、汎アフリカ民族主義を提唱してマルクス主義・社会主義 的な思想を強めていったデュボイスは、人種差別撤廃を求め る NAACP と決別した。デュボイスは、90 歳代まで生き、死 去したときにはガーナ国民であり熱心な共産主義者となって いた。 

デュボイスは「アフリカ独立の父」と言われる ガーナの [クワメ・エンクルマ大統領 によって招待され、エンクルマが長年夢見ていた政府の事業、エンサイクロペディア・アフリカーナの編纂を監督した。デュボイスと妻のシャーリー・グレアム・デュボイスは米国籍を放棄し、ガーナに帰化した。デュボイスの健康状態は1962年に悪化し、彼は1963年8月27日に95歳で アクラで死去した。アメリカにおける公民権法制定のおよそ1年前であった。妻のシャーリー・グレアム・デュボイスはエンクルマの失脚後に タンザニアに逃れ、1977年3月27日に80歳で 中華人民共和国で死去して 北京郊外の八宝山革命公墓に埋葬された。

公民権法の成立
ジョンソン大統領による精力的な働きかけの結果、世論の高まりもあり議会も全面的に 公民権法 の制定に向け動き、 1964年7月2日に公民権法(Civil Rights Act)が制定され、ここに長年アメリカで続いてきた法の上での人種差別は終わりを告げることになった。

ブログ筆者はここに記したような背景の下で、「差別」discrimination という現象とその対処のあり方に関心を抱いてきた。日暮れて道遠く、来た道を振り返ると遠くに見えるのは、W.E.B.デュボイスの著書に出会った頃、差別と戦う純粋でひたむきな人たちの姿である。

はからずも6月19日は奴隷解放記念日である。



 

 

 

 

 

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大恐慌期を彩った二人の偉大な女性作家:マーガレット・ミッチェル と パール・バック

2020年06月13日 | 特別トピックス

自書を手にするマーガレット・ミッチェル


新型コロナウイルス感染拡大の最中で起きたアメリカの人種差別反対騒動の影響を受けて、6月11日、米ワーナーメディア社が映画『風と共に去りぬ』Gone With the Wond の動画配信サービスを停止した。同作はアメリカ南部に住む白人の目線で書かれたものであり、奴隷制を肯定するような描写も含んでいるというのが理由のようだ。今後、歴史的背景の説明や批判を追記したうえで再掲するとしている。差別表現の削除や差し替えは、偏見の存在自体を否定することになるとの理由で、行わないとのこと。著者マーガレット・ミッチェルが既に世を去っている今、この判断は妥当と思われる。

『風と共に去りぬ』は世界的名作だが、実はあまりしっかりと読んだ記憶はない。教師だった母親の書棚にあったことは覚えているが、読みふけった記憶はない。しかし、ストーリー自体はかなり知っているので、その後見た映画の影響が残っているのだと思う。1939年12月15日に映画化されて以降、世界的に大ヒットを記録した。

「大恐慌期の文化」
実はこの作品、小説自体は1936年の刊行であり、このブログで最近話題としているアメリカの1930年代「大恐慌期の文化」New Deal Culture の中心的作品のひとつなのだ。『風と共に去りぬ』はいうまでもなく、この時期を代表する作品だが、1920年代「恐慌前」のアメリカのように希望と未来への期待を爆発させるような力を持つと評されていた。そのことは、出版後直ちに映画化されると共に、現在まで続く一大ロングセラーであることからその影響力を知ることができる。

今回の人種差別反対運動の高まりの中で指摘された、マーガレット・ミッチェルの奴隷制への肯定的な叙述などについては、どうして今になってという気がしないでもない。こうした大作家といえども、時代が加える制約から逃れ得なかった。「奴隷制を基礎とした時代への郷愁」のごときものが混入していたことはありうることでもある。そのことを現代人の視点から追求、否定し、削除したりすることは、作品の評価にも影響しかねない。

コンテンポラリーの視点
このブログで強調してきたコンテンポラリーの視点とは、作品が生まれた時代と現代人の時代とを明確に区別して見ることである。歴史上の出来事である以上、そこには連続性が存在する。しかし、作品が生み出された時代はしばしば遠く離れた過去であり、その時代を律した価値観が、現代人のそれとは相違することは当然ともいえる。可能な限り作品の制作された時代へ立ち戻り、その環境に生きた同時代人の視点に立って見る努力の必要性を指摘してきた。

NB.
マーガレット・ミッチェル Mitchell,Margaret(1900-1949)は、ジョージア州アトランタに生れ、およそ10年を費やして執筆した『風と共に去りぬ』は生涯唯一の長編として1936年に刊行され、ピューリッツァー賞を受賞した。さらに、1939年には映画化もされた。名作の題名は 南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあった アメリカ南部の 白人たちの貴族文化社会が消え「去った」ことを意味するとされる。作家は、1949年8月16日、アトランタで自動車事故のため死亡した。赤信号に気づかず道路を横断したとも伝えられている。

北と南の差異
南北戦争というと思い出すことが、いくつかある。ブログ筆者、生涯の友人であるアメリカ人のB夫妻は、夫は北部ニューイングランド育ち、名門ダートマス・カレッジ卒のスポーツマンで熱心な共和党支持者、妻は南部サウス・キャロライナ生まれ、長じてニューヨークに移住、これも名門女子カレッジ卒業の文学好き、リベラルな民主党支持者で、長らく新聞雑誌切り抜き会社の管理職・経営者を務めていた。ブログ筆者は両家の両親、親戚などとも親しくなったが、いつの頃からか北部育ちと南部育ちの人の間には微妙な考え方や気質の差異があることに気付くようになった。それは食事、育児などを含む生活の仕方にも反映していた。どちらかというと、南部の人の方が家族や親戚の人間関係が密なような感じがした。近年はそうした地域的差異は、かなり薄れていることも確かなようだ。B夫妻の夫も人種差別については、政治的立場とは別にかなりリベラルだった。

北部と南部の差異については、1960年代末、木綿工業の南部移転の調査で、いくつかの工場町を訪れた時の光景を思い出すことがある。ニューイングランド(東北部)とは全く異なる国であるような印象を抱いた。 当時はAFL-CIOの南部組織化キャンペーンが遅々として進まないことも、議論されていた。白人至上主義、黒人に対する制度化にまで到っていた歴史的差別が生んだ断絶ともいうべき事態を深く考えさせられた。

南部文化の片々
ある時、B夫妻の縁で、ニュージャージーの銀行頭取Mc氏の邸宅で開催された新年会に行ったことがあった。頭取は南部生まれの生粋の南部人とのことだった。自宅である大邸宅でこうした会を開くこと自体、当時すでに珍しくなっていたので、連れて行ってくれたのだった。

頭取夫妻はスーツやドレス姿であったが、シャンパンなどのサービスをする人たちの中に、頭に白い帽子を被り、黒い衣服に白いエプロンをかけた黒人の女性が2、3人目についた。友人の目にも留まったようで、今でもこうした人たちがいるのだなと、自分に言い聞かせるように説明してくれたことを記憶している。彼女たちは同家で働く使用人で、かつてのような奴隷ではないのだが、映画『風と共に去りぬ』に出てくるような黒人女性の召使のイメージが立ち居振る舞いのどこかに残っていた。この家の娘さんたちの結婚披露にも行ったことがあったが、盛大なガーデン・パーティで多くの人が招かれ、友人が大変な出費なのだと言っていたのを覚えている。図らずも南部富裕層の文化の一面を目にした思いだった。

もうひとりの偉大な女性作家
話は飛ぶが、実は筆者が魅せられたのは、マーガレット・ミッチェルの『風とともに去りぬ』よりは、パール・バックの『大地』The Good Earthを始めとする一連の著作だった。女史の著作は大変数多く、正式には何点になるのかよく分からないほどだ。100点近くになるのではないか。

彼女の人生経歴からすれば、1930年代「大不況期の文化」を代表する2大女性作家といえるはずなのだが、そうした指摘は見たことがない。二人ともピュリツアー賞を受賞し、パール・バックはノーベル賞も受賞している。

NB.  
パール・バック・サイデンストリッカー(Pearl Sydenstricker Buck
(1892-1973)米国ウェスト・バージニア州に生れる。宣教師の両親と共に幼くして中国に渡り、そこで育つ。高等教育を受けるため一時期帰国したのち再び中国にとどまり、中国民衆の生活を題材にした小説を書き始める。 処女作『東の風・西の風』に続き、1931年に代表作『大地』を発表し『大地』は『息子たち』『分裂せる家』とともに三部作The Good Earthを構成すると考えられた。本作でピューリッツァー賞を受賞、1938年に米国の女性作家としては初めてノーベル文学賞を受賞した。1934年、日中戦争の暗雲が垂れ込めると米国に永住帰国。以後、執筆活動に専念し、平和への発言、人種的差別待遇撤廃、社会的な貧困撲滅のための論陣を張った。
1941年にアメリカ人、アジア人の相互理解を目的とする東西協会、1949年に国際的養子縁組斡旋機関ウェルカム・ハウス、1964年に養子を生国に留めて保護育成することを目的とするパール・バック財団を設立。1973年、米国バーモント州で引退生活を送り、80歳の生涯を閉じる。

企業は衰退、創作活動は隆盛
1930年代始めは、経済界の不況を反映して、とりわけ印刷、出版などの活動は著しく停滞、不振を極めたが、新たな創作活動はむしろ活発化した。この時期に生まれ、活躍した小説家、劇作家などは数多い。枚挙にいとまがないが、ランダムに記しておくと、
ユージン・オニール、クリフォード・オデット、マックスウエル・アンダーソン、ソーントン・ワイルダー、リリアン・ヘルマン、ウイリアム・サローヤン、ジョン・スタインベック、ウイリアム・フォークナー、ジョン・ドス・パソス、ゾラ・ニール・ハーストン・・・・・・。

これらの中には、ブログ筆者がごひいきの作者も多く、1930年代アメリカという時代の際立った特徴をあらためて思い知らされる。

その他、音楽、映画、デザインなど、多様な分野で創作活動は活性化し、繁栄し、ニューディール・カルチュアとして知られる独自の次元を生み出した。

新型コロナ期の日本あるいは世界に、後年記憶されるような独自の文化や創造性が見出されるだろうか。次の世代に預ける課題ともいえる。

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静かに考える時:全米人種差別暴動の底流

2020年06月06日 | 特別トピックス

W. E. B. Du Bois, The Souls of Black Folk(original: 1903), with a new introduction by Jonathan Scott Holloway, Yale University Press, 2015

W. E. B. Du Bois(1868–1963)、アメリカではデュボイスと呼ばれることが多く、本人もそれを好んだと言われる。20世紀で最も重要なアフリカン・アメリカン・インテレクチュアルズのひとりとされる。

 

ブログという枠を超えて、時空の軸をさまよっていると、最近起きている出来事の多くに、「デジャブ」(deja vu: 既視感)を抱くことがある。その多くは映像などで見た印象などが脳裏に残っているためだが、稀には自分がその場に居合わせ、強い臨場感が残っていることもある。

このたび、アメリカ、ミネアポリスで起きた警官による暴行で黒人ジョージ・フロイドが死亡した事件とその後の全米への暴動拡大を報じるTV中継を見て急速によみがえってきた光景があった。その記憶のひとコマは1967年のニューアーク暴動に関わるもので、 このブログでも、映画『デトロイト』が語るもので記したことがある。

黒人を英語でなんと呼ぶべきかという点については、アメリカでは長い歴史があり、今日でも必ずしも統一されていない。公的にはAfrican American, Afro Americanなどが多く使われるようになっているが、議論は収束しているわけではない。今回の暴動では「黒人」Blacks と表現しているメディアが多いようなので、当面これに従っておく。

「1967年、長く熱い夏」の記憶 
1966年から1967年にかけて、ニューアーク、デトロイトなど全米にわたる一連の暴動が起きた。そのひとつの発端となったのは、1967年7月12〜17日にかけて起きた今回と類似する出来事だった。7月12日、ニュージャージー州ニューアークで交通違反をした嫌疑で、黒人のタクシー運転手を二人の白人警察官が殴打し、死亡せしめたという噂から発した出来事であり、今回と同様に投石、火炎瓶などによる放火などを含む暴動に波及した。大規模な範囲での商店の破壊、略奪も起きている。7月15日には、鎮圧に当たっていた警官の一斉射撃で、女性が死亡する事態もあり、激しい抗議や破壊があった。

たまたま、この時ニュージャージー州エセックスフェルズ(エセックス郡最小の自治体、当時の住民数2,000人くらい、白人中層、上層の住宅地)にあった友人の家に滞在していたブログ筆者は、暴動が収まりかけた時、友人と共に現場を見る機会があった。1950 年代以降、急速に高まりつつあった公民権運動について着目し、調査を続けていた。ニューアークはエセックス郡 Essex County の郡都でもあった。このニューアーク暴動に先立って、西海岸ロスアンゼルスでもワッツ暴動として知られる事件が発生していた。全般的に、黒人の仕事の機会の減少、劣悪化によって、彼らの経済状況が悪化の度を深めていた時期であった。

今では、この時代のアメリカを知る世代は少なくなり、ましてや事件を体験したり、記憶する日本人はきわめて少ないだろう。今回の全米に及ぶ暴動記事でも、日本のメディアでこのニューワーク暴動に論究したものは少ない。黄色い衣を着たヒッピー(記憶に残る限り、ほとんど白人)が、街の各所で目についた時代だった。それでも敗戦国から立ち直りつつあった日本人にとっては、全般には豊かなアメリカというイメージが強く残っていた時代であった。

N.B.
 1950年代]以降、 マーティン・ルーサー・キング]などを指導者に、アフリカ系アメリカ人をはじめとする被差別民族に対する法的平等を求める公民権運動 civil rights movement が盛り上がりを見せる。その結果、 1964年 7月2日 に法の下の平等を規定した市民権法が制定された。

しかし法的な 差別が撤廃され、それゆえに「自由な国家」であることを標榜する現在においても、白人が多数を占めるアメリカ社会で黒人に対する差別意識は根強く残り、白人に比べて低学歴の 貧困層が多い。

ワッツ(ロスアンゼルス)暴動
1965年8月に起きたWatts Riots は、現在はロスアンゼルス市に併合されているワッツ市で起きた暴動であり、白人のハイウエイ・パトロールが道路上を蛇行運転していた黒人男性を尋問したことから発生した。警官が本人と弟、母親を逮捕したことから暴動が発生し、警察官の襲撃から、商店の集団略奪にまで発展した。州側は州兵を投入し、鎮圧する事態にまでいたった。
暴動のあった6日間で死者34人、負傷者1,032人を出した。逮捕者約4,000人、損害額は3,500万ドルと推定された。

戦車が破壊した街
ニューアークの暴動現場には事態鎮圧のため、当時州兵 New Jersey Army National Guardsmen、New Jersey State Policeが出動し、戦車が黒人が多かった地域の建物を砲撃し、街の一画は完全に破壊され、凄惨な地域になっていた。当時の記録では死者26人、負傷者727人、逮捕者1,465人に及んだ。この時は州兵が出動している。

この時見た街の凄惨な光景は今でも目に焼き付いている。市の中心部に近い一帯が見渡す限り文字通り瓦礫の塊のようであり、煙のようなものが至る所に漂っていた。戦車が砲撃した残骸だった。かなり高層の建物もあったと見られる場所だった。

この時代のニューアークは、ニュージャージー州最大の人口を擁した都市であったが、脱工業化と郊外化が人口構成に大きな変化をもたらしていた。工業化で生活環境が変化したことから、白人の中流階級は州内あるいは州外へと移動していった。当時アメリカ最大規模の「白人の逃避」white flight といわれていた。第二次大戦からの白人の帰還兵 たち veteransは、ニューアークから郊外へと移住し始めていた。州を跨ぐハイウエイ、不動産ローン 普及 の恩恵だった。彼らが去った後、市の中心部は黒人の流入で埋められた。しかし、仕事や住宅面での差別は厳しく、彼らの社会的地位や生活水準は貧困のサイクルへと組み込まれていった。そして、1967年の時点では、ニューアークは全米でも黒人が多数を占める大都市のひとつとなっていた。しかし、政治分野は白人が優位を占めていた。

こうした人種面での格付け、教育、訓練、仕事などでの機会の不足で、黒人の住民たちは政治的パワーもなく、経済的には下層市民の地位に押し込まれていた。さらに、彼らの居住地自体も劣悪化し、都市再開発の対象として破壊されていった。住民はしばしば警官の暴力的行為に虐げられていた。住民の50%近くは黒人であり、当時では警察官幹部にも黒人が採用、登用された数少ない都市のひとつだった。

この事件の後、全米各地で暴動の域に達したプロテストが起こっている。警官との対決ばかりでなく、警察や政府機関、商店の破壊、略奪など、ほとんど暴動といってよい状況が生まれた。参加者には若者が多いが、人種の点では黒人に限らず、多くの人種が参加している。


主要な事件だけでも次のような出来事が知られている:
1968年4月キング牧師暗殺、1980年5月マイアミ暴動、1991年3月ロスアンジェルス暴動、2014年5月ファーガソン暴動、2015年4月ボルティモア騒動 

暴動がもたらした破壊の後には、いくつかの改善もあった。市民に占めるニューアーク市の黒人比率は半数近くに上昇した。例えば、ニューアーク市警察本部の警察官に占める黒人の比率は一時期50%近くに上昇したが、その後35%近くであまり変化はない。

ニューアークに限ったことではないが、人種差別問題の根底には様々な要因が働いており、時代の変化とともに社会の根底でダイナミックに動いてきた。脱工業化や郊外化の動きもその要因だった。白人が郊外へと流出した後へ黒人が流入して集住化が進む「インナーシティ」といわれる問題は、ニューアークに限らず、全米の多数の都市で見出されるようになった。ヨーロッパでもイギリスなどの都市で長らく問題になってきた。

公民権法の成立によって、公共分野などでのあからさまな差別行為は見えなくなった。アメリカ史上初めてカトリックの大統領としてのJ.F.ケネディ、初めての非白人のオバマ大統領の誕生など、アメリカの偉大さ、立派さを感じさせることもあった。しかし、それと逆流する動きも依然として強い。法律ができたがために逆差別と言われる現象や陰湿で表面に見えない差別が生まれ、拡大した面もある。

この問題、日本にとっても無縁ではない。少子化による人口の減少に伴い、日本で働いたり、定住を目指す外国人も増えた。しかし、彼らの多くは日本人労働者の下に形成される最下層の市場へと組み込まれてゆく。差別の制度化ともいえる現象だ。

20世紀の問題はカラーラインである(W.E.B.デュボイス)
アメリカの場合は、奴隷制度の過去が根強い影響力を持っている。奴隷解放から今日まで、きわめて多くの主張、運動や論争が行われてきた。アメリカの文化的潮流のひとつを形作っている。この問題に深く立ち入ることなく、今回のような出来事を正しく理解することはできないと言っても過言ではない。

このたびのニュースを見ながら、最初に脳裏によみがえってきたのは、1967年ニューアーク騒動であり、大学院の公民権法(政治思想史)セミナーで、アサインメントとして最初に手にしたのは、20世紀初頭最も影響力を持ったアフリカン・アメリカンの政治的指導者で学者でもあったW.E.B.デュボイスの著作であった。より詳細を紹介する機会があるかもしれないが、この著作で彼は「20世紀の問題はカラー・ラインである」と喝破し、黒人の歴史、人種差別主義、そして奴隷解放以来の黒人の闘争について述べ、道徳、社会、政治、さらに経済の領域における平等について、迫真力ある論説を展開している。その思想は大変強く記憶に残った。新型コロナウイルスと黒人騒動に揺れるアメリカを理解する上で、現代人が手に取るべき一冊ではないかと思う。




☆  たまたま送られてきたNational Geographic 誌が次のタイトルの論説を掲載していた。

Systemic racism and coronavirus are killing people of color. Protesting isn't enough.
After the protests end and the pandemic passes, will anything change for America's communities of color?
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