時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

巨匠の重み:レンブラントをめぐって

2021年03月30日 | 書棚の片隅から


Rembrandt The Complete Paintings: 350 Years Anniversary Edition, Edited by Volker Manuth, TASCHEN, 2019/09/22, 743 pages  cover


最近はIT技術の進歩で、世界の美術館などが所蔵する絵画や彫刻作品でもweb上で、かなり鮮明に見ることができる。しかし、作品の大きさ、画材や紙質など実際に展示されている実物を見ないと分からないことも多々ある。さらに、個々の作品の鑑賞、展覧会図録、美術研究書など、どうしても印刷物として手元に置いてゆっくり確認したり、解説を読んだりしたいものも多い。

最近折に触れ眺めている美術書の1冊に、17世紀オランダの巨匠レンブラントRembrandt Harmensz. van Rijn (1606–~1669)の没後350年を記念して編纂、発行された絵画の全作品図録がある。レンブラントの絵画作品330点全てを収録した圧倒される一冊である。圧倒されるのはレンブラントという稀有で偉大な画家が残した成果にとどまらない。作品の世界を伝える媒介としての書籍というメディアに投入された凄まじいばかりの努力である。印刷、製本という技術が到達した最前線がいかんなく具体化されている。

17世紀オランダ絵画の黄金時代は多数の素晴らしい画家を生んだが、レンブラントは図抜けて傑出した存在である。この画家は外国へ行ったことはなかったが、多くの絵画ジャンルにわたって、きわめて影響力のある芸術作品を残した。とりわけ、肖像画はユニークであり、突出している。光と影と線影の醸し出す絶妙な表現は、比類がない。技法については油彩画とエッチングは抜群に素晴らしい。しかし、今日その作品は世界中に分散し、全てを見ることは研究者であってもほとんど不可能に近い。ましてや時間の制限なく、鑑賞することなどとても考えがたい。

そのため、こうした出版物は画家とその作品を愛する人にとっては得難い一冊でもある。印刷、製本技術の驚くべき進歩によって、膨大な作品とその解説、研究成果までがXXLな一冊に収められている。

筆者が専門としてきたのは経済学の一分野だが、半世紀近く17世紀の美術や文化にもかなりのめり込んできた。とりわけ、大学教育と経営の責任を負った時期から、若い人たちが今後の複雑多岐な世界で生きてゆく上で、リベラルアーツ教育の必要性を痛感してから、文学、美術、音楽などの文化的領域への関心が深まった。いつのまにか、身辺に画集など美術書などが累積するようになった。コンクリートを打った別棟の移動書庫はとうに満杯となり、床暖房のある仕事部屋にまで進出し、床が耐えられるか心配な状況だ。

ふと気がついたのは、経済関係の書籍と比較して、美術書は形状も大きく、重量もかなり重いものが多いということだった。経済学関係の書籍では、筆者の周囲にある限り、さしずめ辞典類ぐらいが最大のものである。一冊の重さはさほど驚くものではない。

他方、
美術書の重量についてブログにも記したことはあるが、最近のいくつかの書籍を見ていて、よくもこれだけの印刷物にまで仕立て上げたという思いがする。とりわけ、ここに取り上げるレンブラントの図録は圧巻である。

最初に驚くことはその重量だ。正確に秤量したわけではないが、30kgくらいあるかもしれない。足にでも落としたら、ほとんど間違いなく、大変な負傷となる。
床から机上に移すだけでも一苦労する。膝の上に乗せてページを繰るなど、とてもできない。


実際の重さはこうした画像ではとても実感できない。

収録された708点の描画作品は今回初めてと言われる抜群の色彩再生で、314点のエッチングは純粋な線画再生技術で、印刷、収録されている。これらを全て目にすることでレンブラントという画家の類い稀なる鋭い観察眼、巧みな手技、感性の深さを目前にすることができる。レンブラントが単なる画家という域を越えた稀有な人間であることを知らされる。『ベルシャザルの饗宴』(ロンドン・ナショナルギャラリー蔵、1635年)から『テュルプ博士の解剖学講義』(マウリッツハイス美術館蔵、1632年)まで、一貫してほぼ全ての作品を体系的に一望できる。

実物と印刷との間の微妙な違いなどへの多少の注文などは、霧散してしまう印刷・製本技術の粋が投入されている。現代の技術をもってすれば、ここまでできるという自負を誇示するかのようだ。それには敬意をもって感嘆するが、利用者の観点からすれば、箱入り2分冊などの選択肢は無かったのだろうかと思ったりする。閲覧するには、丈夫で大きなテーブル上に置いて広げるしかない。

もしかすると、こうした壮大な試みは、書籍として最後の到達点に達しているのかもしれない。急速に発達している電子メディアがとってかわる日が近づいている。紙の書籍というメディアが到達した金字塔ともいえるかもしれない。いずれにせよ、レンブラントを愛する人にとっては言葉に尽くせない圧倒的に素晴らしい一冊である。


Rembrandt The Complete Paintings: 350 Years Anniversary Edition, Edited by Volker Manuth, TASCHEN, 2019/09/22, 743 pages



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ひたすら北を目指す人々

2021年03月24日 | 移民政策を追って



人の移動とそれがもたらす影響についての研究は、筆者が関心を抱き、調査に着手し始めた1960年代においては、地味で研究者も少ないテーマだった。

COVID-19のパンデミックが収まらない現在、世界の人の移動には未だかつてない形の変化が起きている。とりわけ移民の動きをみると、世界的に減少が顕著だ。新型コロナウイルスを媒介する人の動きにブレーキがかけられている。その衝撃は想像以上に大きい。世界一の移民受け入れ大国アメリカ、移民政策は政権の座を揺るがす重要問題となっている。

日本では緊急事態宣言の解除をした途端に感染者数が増加し、早くもリバウンドの徴候が顕著になっている。東京都知事は人流の制限を強調している。

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N.B.
パンデミックは移民の流れ、フローに多大な衝撃を与えた。2019年には世界の移民の流れ、フローは約200万人減少したとみられる。
他方、国連レポートなどで、2000年と比較して2020年の統計をみると、自国の外に居住している人たちの数はこの20年間に1億人近く増えた。2000年には約1億7300万人が自分の生まれた国の外に住んていた。その20年後には2億8100万人に増加している。
パンデミックは移民による本国送金を減少させた。世界銀行によると、2020年には低所得、中所得国への外貨送金は780億ドル、総計の14%近く減少したと推計されている。
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バイデン大統領が直面する試練
移民、難民が生み出す影響は、地域によって大きく異なっている。移民・難民はしばしば政権を揺るがすほどの難題を作り出す。近年大きな政治的問題になっているのが、アメリカである。トランプ前大統領は、国境に物理的な壁を建設することを政策の目玉の一つとしてきた。この政策は分かりやすいが、多くの議論を生み出した。壁建設への反対はきわめて大きくなった。トランプは、covit-19も越境者受け入れ拒否の理由とした。

新しい大統領バイデンはもっと上手く対処してくれるのではないかとの期待が高まった。しかし、案に反して、バイデン大統領は思わぬ人道的、政治的問題に直面することになる。

国境を越える子供たち
2020年10月1日、親や保護者に伴われることなく越境した9200人の子供たちが、HHS(Health and Human Servies)のシェルターに保護されていることが明らかになった。2019年以来の記録的数である。収容されているのはティーンエイジャーが多いが、12歳以下の子供も数百人は含まれているという。その多くはテキサスのリオ・グランデ渓谷を渡渉し、アメリカ側に不法入国してきた。子供のみならず不法入国者の数自体も増加している。

こうした不法入国者の多くは、アメリカにすでに入国している家族や本国での貧困や暴力を逃れて、越境してきた。特に中米のグアテマラ、ホンデュラス、エルサルバドルからメキシコを経由してアメリカへ入国を企てる者が急増している。2019年には25万人以上のグアテマラ人が越境を試み、国境警察に拘束された。彼らはバスやトラック、そして徒歩ではるばるメキシコ国境へと北上してくる。

子供たちの場合は、誘拐、ブローカー、年上の親戚、祖父母などに伴われ、越境を企て、連邦機関によって収容される前に、ひとりになっていると推定されている。子供たちは拘束後、72時間以内にHHSのシェルターに移送、収容さるが、最近は収容能力が限度を越えてしまい、国境付近の勾留施設に収容される場合が増加している。しかし、これも満員の施設が増え、covit-19に感染するリスクも急増している。

アメリカ側は2014年から2019年にかけて越境した約29万人と推定されるこれら保護者不在の子供たちの約4%に就いて、送還などの措置を取り得ただけといわれる。ほとんど何もできていないことになる。

こうした変化はバイデン大統領にとっては予期しなかった大きな政治的脅威となった。共和党支持者の中には、バイデン大統領が甘い政策を採用したからだと批判する者もいる。バイデン大統領はアメリカの政策評価以前に、越境者の本国の政治的・経済的状態が最悪であることが原因としている。政治、経済、社会のあらゆる面で、本国にいられないほど貧困、恐怖、荒廃が進んでいるのだ。しかし、当面、成人の単身者と家族は本国への送還手続きをとらざるを得ない。受け入れるにはあまりに数が多い。アメリカはもはや寛容ではいられなくなっている。

バイデン大統領はどうするか
トランプ大統領の政策に反対して大統領の座に就いたバイデン大統領としては、こうした不法な越境者をむげに送り返すこともできない。仕方なく、「我々は来ないでくれといっているのではない。今は来ないでくれ」と言っているのだとでも表現するしかない。

就任して日が浅いバイデン大統領はかなり対応に苦慮している。できることから迅速に着手してゆくしかない。国境管理、移民手続き・税関などの体制をさらに充実・整備しなければならない。さらに、世界的にも注目を集める難民への対応システムを構想し直す必要に迫られている。自由の女神を奉じる国として、譲れない一線だ。

未来に向けて持続可能な移民政策を目指すならば、アメリカへ合法的に入国できる経路を再検討、再設定し、導入すべきだろう。

移民は国を去る者だけでなく、残る者にも影響を与える。グアテマラの報告書によると、この地域の移民の半数が子供を置き去りにしてアメリカなどへ行く。残された子供の多くはギャング組織に家庭の代わりを見出さざるを得ない。ギャングはもはや単なる犯罪組織ではなく、社会的組織と化している。グアテマラシティで2019年に起きた3578件の殺人のうち、約8割にギャングが絡んでいた。暴力の蔓延が住民が他国へ移住を決意する主な理由の一つになっている。殺人事件で犯人が捕まるのは5件に一件もない。殺人、誘拐ばかりか麻薬貿易など、ギャングの活動は人々や社会の組織に深く入り込んでいる。

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N.B.
バイデン大統領は、中央アメリカ諸国との間で、長期的視野で一定数の難民を受け入れるプログラムを導入することを検討しているようだ。さらに根本的にはこれらの国々の貧困や犯罪などの苦難を軽減するために何ができるか、政策協議を行いたいようだ。すでに、中央アメリカ諸国へ貧困や犯罪などに耐えきれず国外脱出する者を減少させる対応策に40億ドルを拠出する努力をすることを約したようだ。
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Sources:
'The cost of migration', NEWSWEEK 2021.3.9
'Joe Biden faces a humanitarian crisis at the southern border ' The Economist March 20 2021
”Biden’s border crisis” & “Biden’s border bind” The Economist March 20th-26th 2021
‘KEEP GOING NORTH: At the border with William T. Vollmann’, HARPER, July 2019

カリフォルニア生まれのレポーター William T. Vollmann は現地に赴きその実態をHARPER誌に寄稿した。コスタリカ、ニカラグア、ホンデュラスなどの中米諸国からメキシコ経由、アメリカ入国を目指す人々に密着取材し、彼らが旅への途上で、いかなる問題、困難に直面したかを克明にレポートしている。
下掲の図は、彼らがたどった長く危険な経路を示している。



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歴史の軸を溯る(7):ピューリタン革命が生まれたところ

2021年03月20日 | 特別トピックス


ケンブリッジ周辺には、クロムウエルに関連する場所がかなりある。クロムウエルの実家があったイーリー Elyに加えて、クロムウエルの銅像が立っているセント・アイヴス St. Ives 、クロムウエル博物館のあるハンティンドン Huntingdon がある。いずれもケンブリッジから車で30分程度でゆける人口2万人前後の小さな町である。

セント・アイヴスはケンブリッジ、イーリーに続く街道を通って行く。ハンティングドンもその先の隣町である。この辺りは、若い頃に西洋経済史が専門だった恩師のひとりが講義などで常々話題とされていたので、一度は訪れようと思っていた。ケンブリッジにしばらく滞在していた時に、友人を誘ったりして2、3度出かけた。

日本のように道路標識が至るところに目につく国と違って、イギリスは標識が極めて少ない。うっかり見逃してしまうと、かなり先までいってしまう。時々方角を見失った。カーナビもなかった時代、途中経路の村や町など、目印をメモに書き出して出かけることもあった。

ピューリタンのシンボルとして
セント・アイヴスの町の中心 マーケットヒルMarket Hill には、オリヴァー・クロムウエルの等身大の像が立っている。イギリス国内に4カ所ほどクロムウエルの銅像があるそうだが、そのひとつがここに建てられている。クロムウエルが若い頃、エンクロージャー(領主・地主階級が牧羊業や集約的農業を行うために、共有地であった牧羊地などを囲い込み、土地の共同権を排除し、農民が入れない私有地としたこと) に対して、農民の側に立ち、地主たちと戦ったことを感謝、記憶するため、後年農民が自分たちの恩人として1901年に銅像を建てている。印刷された聖書を手にした像は、ピューリタンの新しい生き方を示しているようだ。



小さな町ではあるが、こうした歴史的な場所として、観光客もそれなりに訪れる。町を流れるグレート・ウーズ川 the River Great Ouseには特徴ある橋がかけられていて、白鳥が多数、遊んでいた。この橋は市民戦争の時、クロムウエルがチャールズ 一世の軍隊と戦った時に一部を破壊し、後に再建造された。

ハンディンドン:クロムウエルが生まれた土地
セント・アイヴスから川と並行した道を行くと、まもなく丘の上に町があるハンディンドン Huntingdonが見えてくる。沼沢地が多いこのあたりでは珍しい天然の城塞のような位置にある。ここは1599年クロムウエルが生まれ、家族も住んだ場所でもあり、記念してクロムウエル博物館がある。色々興味深い展示物があるが、クロムウエルの使っていた例の特徴ある広いつばのフエルトの帽子や薬箱、そしてデスマスクもある。興味を惹いた遺品のひとつは、薬箱だった。身体が強健ではなかったクロムウエルは、特に晩年マラリアなどさまざまな身体の不調に苦しんだようだった。薬箱は16世紀、ドイツで作られた精巧で頑丈な物だった。

クロムウエル博物館入り口

クロムウエルは指揮者としても大変有能で、従来の軍隊を再編し、ニューモデル・アーミー(新型軍)として知られる組織の整った軍を作り出し、王党派の騎兵を次々と破り、1645年のネーズビーの戦いでは王党派に壊滅的な打撃を与え、チャールズ一世は議会派に捕らえられて処刑された。議会派の中心となっていたクロムウエルは、指導者としてイングランド共和国の独立を宣言し、共和制(コモンウエルス)を実現し、ピューリタン革命(1642~49年)を成功に導いた。



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N.B.
その後、クロムウェルは 1653年に軍と対立したランプ議会を解散、続けて成立させた 議会も急進派による改革で混乱が生じると解散、国王の座への就任を断り、王権に匹敵する最高統治権が与えられる護国卿(護民官)となった。軍事独裁体制を強化していった。アイルランドを侵略し、実質的な孝王となっていった。1658年 にはフランス・スペイン戦争で英仏連合軍がスペインに勝利した。

1658年にクロムウェルは インフルエンザ(マラリア説もある)が原因と思われる病で死亡し、 ウェストミンスター寺院に葬られた。跡を継いだ息子の[リチャード・クロムウェルは翌1659年に 第三議会を召集したが軍の反抗を抑えきれず、議会解散後まもなく引退し、護国卿政は短い歴史に幕をおろし1660年、王政復古した。

その後、長老派が 1660年 にチャールズ2世を国王に迎えて 王政復古を行うと、クロムウェルは墓を暴かれ、遺体は 刑場で絞首刑の後斬首され、首はウェストミンスター・ホールの屋根に掲げられて四半世紀晒された。その後、母校であるケンブリッジ大学の シドニー・サセックス・カレッジ]に葬られた。数百年経った今も、類稀な優れた指導者か強大な独裁者か、歴史的評価は必ずしも定まっていない。

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ピューリタン革命という市民革命だが、歴史書の文字面で理解するのとは異なり、時代を遡り多くの生々しい遺品や記念物を目の当たりにすると、どこからか馬の蹄の音や撃剣の響きが聞こえてくるような気がする。ケンブリッジとその周辺(ケンブリッジシャー)は、単なる学問の地にとどまらない、歴史が生きているところという思いが迫ってくる特別の場所である。


夕暮れのセント・アイヴェス                                                                    Photo:YK


続く
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​歴史の軸を遡る(6) イーリーの輝き

2021年03月13日 | 特別トピックス



(前回の続き)イーリーまで来ながらこの地の壮麗な大聖堂 cathedralのことに触れずにいないわけにはゆかない。この大聖堂はその美しさと規模によって、世界中の教会関係者はもとより建築家や歴史家によって多くの尊敬と賛辞が与えられてきた。実際この壮大、華麗な大伽藍を目にすると、そこに注がれた人間のエネルギーと信仰の力の偉大さがひしひしと伝わってくる。

イーリーは現在でも人口2万人足らずの小さな町である。大聖堂の存在が地域を圧倒している。起源はノーザンブリアン王の妻エテルドレダ St Etheldredaが彼女の修道院を673年にこの地に建てたことに始まる。修道院は200年近く栄えたが、デーン人によって滅ぼされた。しかし、幸いベネディクト派によって970年に再建された。

現在の大聖堂の大きな輪郭は、1081年ロマネスク及びノルマン建築の流れを汲んで構想されてきた。その後長い年月をかけて、拡大と再構築の努力が続けられた。

1996年に「大修復」”Great Restoration” が、1200万ポンド以上の資金を投じて始まり、2000年に完成した。かくして、大聖堂は21世紀を新たな威容を持って迎えることになった。この教会のひとつの特徴は、壮大な建築物と併せて、長年にわたり蓄積された建物装飾などの教会美術、さらに音楽、とりわけ歌唱コーラスの充実で知られてきた。

1300年以上の年月を超えて、この大聖堂はイギリスのみならず、世界にその美しさと壮大さで知られてきた。 11世紀のカヌート王以来、歴代の王や聖人さらにはオリヴァー・クロムウエルにいたるまで多くの人々が関わり、その歴史が彩られてきた。

かつてこの地を訪れる度に書き記したメモもかなりの量になったが、しばらく放置しておいた間に記憶が薄れ、再現に時間がかかる。今甦る記憶の二、三だけ記しておこう。



Octagon の木材骨組み構造(単純化した構図)


Octagon

大聖堂はその美しく壮大な外観、ネイブ nave 身廊と呼ばれる正面入り口、拝廊 narthex から内陣 chancel までの長い空間の美しさ、さらに内部に入ると the Octagonと言われる八角形の塔(右下図中央円形部)の威容がみる人々を圧倒する。床から上空の先端まで40メートルはある。

そして、1349年に完成した大聖堂の一部であるレディ・チャペル Lady Chapelは、この形式の建築としては、イギリス国内でも最大の建造物とされ、その美しさと相まって世界中から人々が集まる所になっている(Lady Chapelは下掲図右上突出部)。




Lady Chapelの音楽


このチャペルはおそらく14世紀中頃につくられたと推定されているが、大変美しいことで知られている。

イーリーの大聖堂を訪れるようになってから何度目かのこと、一番奥まった所にあるレディ・チャペルを訪れた時のことである。小さなゴシック風のチャペルだが、大変魅力に溢れた一室である。大聖堂はこの地の宗教そして最大の観光の目標となっていながら、パリやロンドンのような大都市ではないこともあって、観光客の数は少ない。

このチャペルに入ったところ、どこからか、チェロの音が聞こえた。邪魔をしないよう静かに入ってみると、最奥の窓際でひとりの若い女性がチェロを弾いていた。多分音楽学校の生徒でもあるのだろう、楽譜を前に練習しているようだった。チェロの音は美しくチャペル一杯に響いていた。私たちが足を踏み入れた時には他には誰もいなかった。演奏の邪魔をしないよう、片隅でしばらく美しい旋律を楽しんだ後、静かに退室した。

ステンドグラス
この大聖堂は多くの美しいステンドグラスで飾られていたが、年月の経過とともに、さまざまな理由で破壊され、ほとんど残っていなかった

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N.B.
* イーリーに残るステンドグラスは封建期のものは少ない。残存しているもので最善と言われるのは Lady Chapel で見ることができる。この大聖堂が誇るものは、1840-60年代のヴィクトリアン・グラスと言われる多数の作品であり、その多くは司教座聖堂参事会員CanonであったEdward Sparke が司教であった父親の遺産を寄贈したものである。1845年、エドワード・スパーク の尽力で、教会全体にかつてのステンドグラスの輝きを取り戻したいとの願いが強まった。そして、その後世界中からの多くの寄付、募金などによりその願いは実現した。
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ステンドグラスなどによる教会全体の改修、整備はその後も続き、今世紀になっても継続した。



1972年にはステンドグラス博物館が建造され、全国そして海外の教会で改修や取り壊しなどで不用とされたステンドグラスがここに集められ、展示されるようになった。貴重なものは、内外の博物館などから貸し出され展示されている。

さらに、この大聖堂の魅力は、長年にわたり蓄積されてきた教会音楽、特に聖歌隊の素晴らしさである。ステンドグラスを含めて長い歴史を感じさせる装飾美を鑑賞し、清麗な讃美歌を耳にしていると、世俗の世界の苦悩が洗い流されてゆく思いがする。

Reference
The Ely Cathedral Home Page:
https://www.elycathedral.org/

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歴史の軸を遡る(5):揺れ動くクロムウエル像

2021年03月06日 | 絵のある部屋

国会議事堂前のオリヴァー・クロムウエル銅像

ある時代に一世を風靡し、偉大な人物とされた個人の銅像などが、時代が変わったり立場の違いから評価が変わり、引き落とされたり、落書きをされるという事件がまた増えているようだ。最新のNEWSWEEK誌に掲載された論評によると、英国南部ブリストルでは、奴隷貿易商エドワード・コルストンの像が川に投げ込まれ、ロンドンではチャーチル元首相の像に「人種差別主義者」の落書きがされた。オックスフォード大学では、帝国主義者のセシル・ローズの像をオーリエル・カレッジから撤去すべきとの声が上がっているとのこと。当事者は急遽報告書を発表したり、検討委員会を発足させている。

同誌のコラムニスト、コリン・ジョイスは、複雑な歴史上の人物を単純な悪党に仕立て上げることはばかげたことで、一方的な議論になりかねないと指摘している。


コリン・ジョイス「偉人像攻撃の耐えられない単純さ」NOT A SIMPLE BLACK-AND-WHITE ISSUE, NEWSWEEK 2021.3.9

クロムウエルの銅像は
彼が挙げるひとつの例は、オリバー・クロムウエルの像だ。ロンドンの国会議事堂前に鎧姿で剣と聖書を持った銅像が立っている。実は最近トピックスに取り上げているケンブリッジや東イングランドにはクロムウエルの像や史跡が多い。ここはピューリタニズムの発祥の地なのだ。

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N.B.
オリヴァー・クロムウエル(Oliver Cromwell: 1599~1658)
イギリスの軍人・政治家。清教徒。イングランド共和国初代護国卿。清教徒革命で議会軍を率いて王軍を破る。1649年チャールズ1世をスコットランドに追い、共和制をしき、アイルランドに出征。スコットランド軍を破ってイギリス諸島を平定。51年航海法を発令し、53年護国卿に推されて独裁権を発揮した。
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実はこのクロムウエル、アイルランドにルーツを持つイギリス人の多くも同じだろうが、1649年アイルランドで残虐さで悪名高い鎮圧部隊を率いた。市民は虐殺され、土地は没収されて、多数派のカトリック教徒に差別的な刑罰法が制定された。戦争を機に飢餓と疫病が起こり、多くの死者が出た。

そのため、クロムウエルのアイルランド鎮圧を「ジェノサイド(集団虐殺)」と呼ぶ人もいれば、「戦争犯罪人」とする人もいる。こうした事実に基づいて、彼は正当な理由でアイルランド人から憎まれている。

アイルランド人の目から見れば、大災厄の「ジャガイモ飢饉」で大量死が発生したのは大部分がイギリスの統治下にあってのことだとされる。アイルランドの人口は1845~51年の6年間で約4分の1に減った。推計100万人が餓死し、100万人が移住を余儀なくされた。

ジョイスはいう。こうした人物の像を引き倒せということではない。複雑な歴史上の人物を単純な悪党に仕立て上げるほとことほど、ばかげたほど一方的な議論になるという。


確かにクロムウエルの死後の評価は、類い稀な優れた指導者か強力な権勢を誇示した独裁者か、歴史的評価は分かれている。クロムウエルに関する研究は多いが、今日でも政治的立場によってその評価はかなり振幅がある。

大聖堂の町イーリーとクロムウエル・ハウス
前回まで記してきたイングランド東部やケンブリッジで、ブログ筆者が好んで訪れたのは、ケンブリッジから車で20~30分で行ける大聖堂の町イーリー Ely だ。ケンブリッジ滞在中、日本からの友人などを案内したりで、かなりの回数出かけた。

イーリーまでの道も季節ごとに大変美しい。春にはラヴェンダー畑の中を行く。途中はウイッケン・フェンといわれる沼沢地に沿った道である。中世初めの頃はこのあたりは浅い海だったとのことで、定湿地であり、その中の道を進むと、前方の小高い丘のようなところに際立って立派な大聖堂が現れる。世界で「中世の七大驚異」”SEVEN WONDERS OF THE MIDDLE AGES”のひとつに挙げられる。「フェンに浮かぶ船」と言われるように、時には霧の中から尖塔が浮かび出て幻想的な経験をすることもあった。この辺り、フェンと呼ばれる広大な湿地帯が展開していて、霧が立ち込めやすい。

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N.B. ウイッケン・フェンとイーリー大聖堂
ウィッケン・フェン Wicken Fenはケンブリッジシャーのウィッケンの西にある254.5ヘクタールの科学的興味を惹く地帯である。また、国立自然保護区でもある。これは、国際的に重要なラムサール湿地としての国際指定、および生息地指令に基づくフェンランド特別保護区の一部として保護されている。
このフェンの中にあたかも浮かぶ島のように建てられているのが、イーリー大聖堂だ。イーリー大聖堂は、正式には聖三分割教会の大聖堂教会で、イギリスのケンブリッジシャー州イーリーにある英国国教会の大聖堂である。 大聖堂の起源は、西暦672年の聖エテルドレダ修道院教会にさかのぼる。現在の建物は1083年近くに建造され、1109年に大聖堂の地位を与えられた。宗教改革までは、聖エテルドレダ教会と聖ペテロ教会だった。



ウイッケン・フェンの風景 YK

実はイーリーにはオリヴァー・クロムウエルが革命前に住んでいた家がそのまま残されており、博物館と観光案内所になっている。内部はクロムウエルが住んでいた当時を忠実に再現しており、ピューリタニズムの質実剛健な生活を知ることができ、大変興味深い。
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オリヴァー・クロムウエル ハウス
クロムウエルと家族は、1636年から1647年にかけてイーリーに住んだ。その間は政治的にも宗教的にも混乱の時期であった。1649年にチャールス1世の処刑が決まり、一つの転機となった。クロムウエルが護国卿となることで大きな権力を振るった。クロムウエルが住んだこの家は室内も開放されていて、当時の生活を偲ぶさまざまな工夫が凝らされている。



クロムウエル ハウス


ケンブリッジシャアには、イーリー以外にもクロムウエルやピューリタンに関わる遺跡が多い。しかし、今回はこのくらいにしておこう。



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