時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

時代の空気を伝える画家(13):工業化を描いた画家

2024年02月01日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


Lowry, Laurence Stephen (L.S. Lowry 1887-1976); Coming from the Mill, ca.1930, The L. S. Lowry Collection
L.S.ラウリー《工場から帰る》

この作品は、以前にも記したが、L.S.ラウリーの「マッチ棒人間」matchstick menが多数描かれた《産業風景》シリーズの中で、最もよく知られたものかもしれない。当初はパステルで描かれ、その後10年近く経って油彩画として制作された。制作時期は1930年代、世界的な大恐慌の最中であった。作品はその後サルフォード市美術館によって購入されたが、L.S.ラウリーは「サルフォード市がこの作品を購入してくれたことは大変嬉しい。というのは、この作品はこの地で最も特徴的な工場風景を描いたものだから」と述べている(S. Rhode, L.S.LOWRY: A LIFE, 2007, p.65)。

大きな会社と思われる建物から、多数の労働者と思われる人々が次々と出てきて、帰宅の道を急いでいる。彼らは誰もが同じように、1日の労働に疲れ果てたように無表情で前屈みに、黙々と歩いている。人々があたかも個性を奪われたように、歩いている光景は、資本主義社会が生み出した労働者という生産手段を持たない多数の人々を的確に象徴しているようだ。

背景には、黄色に点灯された窓が並ぶ巨大な骨組みが、薄暗い午後の空に立っていた。工場では、一様に頭を下げた、小さな、打ちひしがれたような、黒い人影が何百と働いていた。画家はこの光景を、何度も見るとはなしに呆然と眺めていた。

後年、L.S.ラウリーは自らが画家を志すことを決意した時として、1916年、午後4時頃、サルフォード郊外のペンドルベリー駅で列車に乗り遅れた時、プラットフォームから見たアクメ紡績会社の建物であったと述べている。

Acme Mill, 250 Swinton Hall Rd, Pendlebury
この建物は1906年に the Acme Spinning Co. Ltd. として建築され、イギリスで最初にランカシャー電力会社の電力で操業した紡績工場として知られている。6階建の建物で、L S Lowry’の作品‘Coming from the Mill’ (1930).のインスピレーションを生んだ工場として知られている。1969年に解体された。
当時の写真は Salford Local History Libraryに残されている。


経営者の軍隊
大恐慌時代、L.S..ラウリーは次のように話したといわれる:

本当に効率的な全体主義国家とは、政治的ボスが率いる万能の幹部と管理職の軍隊が、強制される必要のない奴隷の集団を支配する国家であろう。

L.S.ラウリー(L.S. Lowry 1887-1976)という画家は、作品、生涯の過ごし方、その他多くの点で稀有な人物であった。今日では、大変人気のある( popular)画家だが、流行に乗った当世風(fashonable)の画風ではなかった。この画家を著名にした「マッチ棒人間」 といわれる独創的な人々の描き方も、その理由のひとつに挙げられるかもしれない。この画家の画風を「範疇化」categolize することができない。他の人々が真似をしても、なかなかラウリーのようには描けないのだ。

L.S.ラウリーは、現代イギリス美術の流れにおいても、かなり特異な存在であった。彼は画家を志す心情として、産業革命の発祥の地 マンチェスターにおいて、自らをその地に置き、その展開の実態を地図上で描き出したいと述べていた。そのため、イングランド北西部を主たる活動領域とし、その地域から出ることはほとんどなかった。産業革命はアメリカでも展開したが、L.S.ラウリーという画家は、今日までほとんど知られていなかった。

工業化・資本主義化を描いた画家
画家は、イギリス北西部に生まれ育った特異なリアリズム画家として、その生涯のほとんどを過ごした。イギリスの北部と南部との経済的・文化的断裂は深く、近年ではサッチャー首相の時代に大きな問題としてクローズアップされた。L.S.ラウリーはイギリスに特有な『工業化』industrialisation, そして資本主義の展開の姿を、絵筆をもって独創的に描き出した画家であった。

「マッチ棒人間」は、イギリス北西部で展開した産業革命の過程で見られた機械化に対する個性を奪われた人間のクローンと考えられる。工業化によって生み出された労働者階級の実態については、多くの作家が書いている。しかし、絵筆をもってその状況を克明に描いた画家は少ない。L.S.ラウリーはイギリス産業革命の盛衰を、ヴィジュアルに記録した歴史家の役割を果たしたといえる。

政治的には、L.S.ラウリーは、保守党支持者であったと思われる。当時は労働者であっても保守党に投票していた。労働党が未成熟であったことも影響している。ちなみに、イギリスで最初の労働党政府が、ラムゼイ・マクドナルドの下に成立したのは、1924年のことだった。

しかし、後に労働党党首、首相を務めた ジェームズ・ハロルド・ウィルソン
James Harold Wilson, Baron Wilson of Rievaulx、(1916年 – 1995)との知己も生まれ、晩年の思想的立場は分からない。

L.S.ラウリーが、マッチ棒人間を描いた作品は、マンチェスター近郊のサルフォードにあるラウリー・ギャラリーに多く収められている。



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N.B.  参考:大恐慌までのサルフォードの変化

1888年 最初の鉄鋼がサルフォードとマンチェスターで生産され、翌年、圧延工場が開設。この地域はイギリスで最も高い煙突群がある地域のひとつとして知られるようになった。Top Place Chimney の名で有毒なガスを排出していた。

1901年 国勢調査でサルフォードはイギリスで最も死亡率の高い地域のひとつとなった。主たる原因は劣悪な住宅事情とされた。

1903年 「女性社会・政治組合」Women’s Social and Political Union(WSPU)がサルフォードに設立された。

1904年 ラウリーはマンチェスターのThos.Alfred & Son事務所の事務員に雇われる。

1909年 家庭の事情でラウリー一家は恵まれたヴィクトリア・パークから工業地域であるサルフォードのペンドルベリー、ステーション・ロードへ移住。ラウリーは、初めて 自宅から歩いて綿工場、炭鉱で働く労働者で混み合う町中や時にはクリフトン、スウィントンなどの人影少ない田舎や畑のある地域へ行くようになった。そして、サルフォードの美術学校でパートタイムで描画を習い始める。

1910年 ラウリーは前職の事故・火災保険会社を解雇され、ポウル・モール不動産会社の家賃収集人となる(1952年に退職するまで勤めた)。

サルフォードのTrafford Park(世界最初の工業団地)完成。

マンチェスターとサルフォードの人口が95万人に達した。綿工場、炭鉱、鉄鋼鋳造、エンジニアリング、鉄道、運河、ドックなどの発展が寄与した。

キング・ジョージV世の戴冠式の月、イギリスは歴史上最大のストライキを経験。125万日の損失。

1920年 大戦間にイギリスの南北格差が広がる。要因は不況が北部の工業地帯に打撃を与えた反面、南部が繁栄したため。

*炭鉱が民有化されるにつれ、政府と労働組合の対立が激しくなった。暗黒の金曜日、運輸・鉄道組合が争議中の炭鉱労組を支持するために、ストライキを要求しないと宣言。鉄道・運輸、炭鉱労組間の3者連携を終わらせた。

ラウリーは労働史におけるこの時期の暗澹とした空気を《ストライキの集まり》The Strike Meeting 1921として、スケッチとして残している。さらに《濡れた地上の炭鉱》Wet Earth Colliery, Dixon Fold 1924(鉛筆画)も現存。石炭生産は急速に減少。

1924年 最初の労働党政府、ラムゼイ・マクドナルドの下に成立。

1928—38年にかけ、ラウリーはパリのSalon d’Automne and Artistes Francaiseに作品展示。

1929年 大恐慌
サルフォードの住宅状況は劣悪のまま。950戸のうち、94は庭なし。67戸は外の水道を使う。152戸はボイラーがない。129戸はトイレット共用。

1930年 でにイギリスの失業者数は230万人に達する。サルフォードでも4人の内、1人は失業していた。
The Housing Actは、スラム問題について初めて包括的な対処を目指し、地方に全てのスラムを撤去するよう指示。

《工場から帰る》
1931 年  マンチェスターの人口は766,311のピークに達した。ある調査によると、サルフォードの一部は全国でも最悪のスラムと判定された。

財政危機の最中、総選挙が実施され、ラムゼー・マクドナルド率いる連立内閣は、公務員、教師、その他の公的な従業員の賃金切り下げを実施。

失業者の賃金切り下げに反対しての’Battle of Bexley Square’として知られるサルフォードの失業者のデモ

アメリカから発した大恐慌は、イギリス北西部の造船、炭鉱、繊維産業に大打撃を与え、失業率は50%を越えた。南部、中部のある地域では4%程度に止まっていた。

1933年  マンチェスターは市のスラムを全廃する計画に着手。15000件の家が対象となった。古い家の破壊と新たな家の建築が同時に行われた。

1936年  ラウリーはマンチェスター・アカデミーに参加。Royal Society of British Artistsの会員に選ばれた。

ジョージ・オーウエルは彼の『ウイガン波止場への道』執筆のための調査でマンチェスターを訪れた。彼は3d.しか手持ちがなかったので、小切手を現金化しようとしたが、断られた。彼はブートル街の警察で保証をしてくれる弁護士を紹介してくれるよう依頼したが、断られた。オーウエルは知らない町で一文なしの状態となった。『恐ろしく寒かった。街路は煤煙でひどい黒色になって凍りついていた』と回顧している。

Clark and Wagner, Notes に依拠
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Reference
T.J.Clark and Anne M. Wagner, LOWRY AND THE PAINTING OF MODERN LIFE, Tate Publishing,2013
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時代の空気を伝える画家(12):英国版「お宝鑑定団」?

2024年01月06日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


L.S.Lawry, A Family, 1958,Rhode p.67
《家族》


今年は年頭から、激甚、悲惨な災害、事故が続発し、日本を暗鬱な空気が覆っている。そこで、少し明るい話題を記してみよう。


これまで記してきた L.S.ラウリーの作品には不思議な引力がある。作品の一点、一点を見ている限り、これが現代イギリスを代表する画家なのだろうかと思う人もあるかもしれない。しかし、いくつかの作品を見ているうちに、次第に引き込まれ、生涯のフリーク(熱狂的ファン)となる人が多い。ラウリーの生涯、絵を描き続けたいという強い意志が人生のあらゆる虚飾や虚栄を拒み、蓄財もせず、画家としての思いを貫いた。40年を越える画業生活の間、未婚で子供もなく、1976年2月に死去するまで、ひたすら制作に没頭した。

描かれた作品は、画題も多岐に渡り、大きさも葉書程度から通常の作品まで、さまざまだ。時には画家がティータイムなどの合間に、手近なナプキンなどにスケッチしたイラストのような作品が、多大な人気を得て収集の対象になったりしてきた。作品によっては、素人でも描けそうな、時にコミカルな印象を与える小品もあるのだが、実際にはなかなか真似できないようだ。

上掲の作品も実在の家族を、ややコミカルなタッチで描いた作品だ。老若男女の家族に犬まで描かれているが、この犬は「ラウリーの犬」といわれるほど、この画家の作品にはしばしば登場する。


ラウリーの人生そして作品は、今日まで多くの文化的残響を残してきた。イギリス社会の歴史、社会、文化など多くの分野のイメージを後世に伝えている。

イギリス社会経済史の追体験
今日では、作品の多くはイギリス北部ランカシャー地域のサルフォード埠頭に、画家の功績を記憶に留めるために建てられたユニークな総合文化施設、ギャラリー・シアターであるThe Lowryが、400点近い作品を所蔵、展示している。遅ればせながら画家の人気に気づいたロンドンのテート・ギャラリーも作品収集に乗り出した。

当時、未だ十分に発達していなかった写真などの画像に代わり、絵画という形で産業革命発祥の地における工業発展の光と影を今日に伝えている。ラウリーの作品を見ていると、ありし日のマンチェスターなどの工業地帯の雰囲気が、工場や街角の風景と相まって伝わってくるようだ。あたかもイギリス産業革命の進行過程を社会経済史の一端として体験しているかのようでもある。

ラウリーはフランス印象派の影響を受け、その技法も習得しながら、「マッチ棒人間」'matchstick man' として知られる独自のスタイルを生み出した。ラウリーがある時、いつもの駅で乗り遅れた列車の到着を待つ間、目の前のアクメ紡績工場 Acme Spinning Millsの光景にインスピレーションを感じ、画家として生涯を歩むことを心に決めたと言われる。

L.S.ラウリーが描いた《産業風景》のシリーズでは、多くの場合、描かれた多数の人物の個々の表情は、判然としないが、当時の工場街や地域に日々を送る人々の生活の雰囲気が、画像以上の近接さをもって伝わってくる。多くの数の人間を描くに、これ以外の方法はあるだろうか。

この画家にはかなりの数の小さな作品があり、画家が身近かな人たちに、さまざまな機会に手渡したりしたものも多く、今日では愛好家の垂涎の的となっている。小さな規模では、絵葉書程度だ。

L.S.Lawry, A Woman Walking, date unkown
《歩いている女性》

私の所有している絵は、真作だろうか:イギリス版「お宝鑑定団」

Are My Paintings Really By L.S. Lowry? | Fake Or Fortune | Perspective


このBBC制作の動画は、父親からラウリーの作品ではないかと思われる絵画を遺贈されてきたが、その後の画家の人気も手伝って、作品の真贋を専門家に依頼する経緯が細かに記されている。ラウリーは、贋作が多い画家である。いかなる手法で真贋が定められるのか、そのプロセスは大変興味深い。最初の部分にコマーシャルがあったりするが、イギリス北西部の美しい光景が見られたり、ラウリーの愛好者にとっては殿堂的存在でもある シアター・ギャラリー The Lowryの内部も見られて大変楽しい。


筆者のイギリス人の友人にある日この話をしたら、そういえば、自宅に2、3点あったかもしれないと興味を示し、近く鑑定に出すとのことだった。しかし、その後も連絡はないので、真作ではなかったのかもしれない。残念(涙)?

日本にもかなりの真作、偽作、コピーを含めて、作品が流通しているといわれる。とはいっても、我が家にはないなあ(涙)。


References
Shelley Rhode, L.S.LOWRY: A LIFE, London, Cadgan, 2007
T.J.Clark and Anne M. Wagner, LOWRY AND THE PAINTING OF MODERN LIFE, 2019


L.S.Lowry, A Boy, date unknown



L.S.Lowry, A Protest March, oil on canvas, 51 x 51cm, Clark and Wagner p.112
《プロテストの行進》

続く
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時代の空気を伝える画家(11): 海を愛した画家

2023年12月24日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

L.S. Lawry,  On the Promenade, Sunderland also called Man Looking out to Sea (1964) oil, on canvas, 34 x 24 cm
L. S. ラウリー《海辺の遊歩道、サンダーランド》(海を眺める男)

老人と海
波風立つ海は、あたかも人生の戦いのようだ。私は生涯を通して海が好きだった。海はなんと素晴らしいことか。そしてまた、なんと厳しいことか。しかし、しばしば思うことがある。もし海が心変わりし、波風も立つことなく、潮の流れも変わることがないとしたら。とどまることなく、ただひたすら流れ去っていくだけであったら ・・・・それは全ての終わりなのだろう。

ひと時も留まることなく移り変わる海。どれだけの人たちが独り、こうして立ち止まり海の尊厳さに対したことだろう
Howard, p.225


画家ラウリーの画業生活にここまで付き合ってこられた方は、この画家の画題の対象が単に「産業風景」indusstrial landscapes に留まることなく、時代のあらゆる領域に及んでいたことに気づかれただろう。

実際、この稀有な画家が描いた対象は、枚挙にいとまがない。産業革命がもたらした暗鬱な工場群の描写に始まり、そこに住み、生活する人々の日常の細々とした情景をあたかもスナップショットのように描いている。その多くは通常の画家ならば、一顧だにしない光景である。画家は地域に溶け込み、目に止まった光景を厭わず描き続けた。半世紀以上を隔てた今日、写真では感じられない、時代の空気が伝わってくる。そこにはほとんど生涯を通して住み続けた地域と人々への深い愛が感じられる。

ラウリーは晩年には制作の対象を風景画の領域にまで広げ、多くの作品を残した。とりわけ、人物が登場していない山や海を描いた作品には、画家の心象風景が映し込まれている。

ラウリーの画業生活をよく知らない人たちが、これらの風景画に接すると、同一人物とは気づかないほどだ。多くの作品には人物などが描かれていない。


ラウリーは1976年2月23日、グロソップのウッズ病院(Woods Hospital in Glossop)で死去。死因は肺炎、88歳。9月、ラウリー最大の展覧会がロンドンのロイヤル・アカデミー・オヴ・アーツで開催された。

ラウリーの海の作品から



L.S.Lawry, Stormy Seascape (1968),  oil on board, 21.6 x 55.9cm, part
L.S.ラウリー《荒波立つ海》部分

ラウリーの小さな海のスケッチだが、画家の海との情熱的な関係ばかりでなく、小さな画面に波立つ海面のリズミカルな動きを巧みに描写している。





L.S. Lawry, Yachts, Lytham St. Anne’s, 1920, pastel on paper, 27.9 x 35.6cm
L.S.ラウリー《ヨット》
どことなく、ターナーの作品を思い浮かべる雲と海。



L.S. Lawry, The Sea, oil on canvas, 76.6 x 102.3cm
L.S.ラウリー
《海》
ただただ、平穏な海


References
Howard, Michael, LOWRY A Visionary Artist, Lowry Press, 2000.
Rosenthal, T.G., L.S.LOWRY: THE ART AND ARTIST, Unicorn Press, 2010.

Wishing you a Merry Christmas !




続く
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時代の空気を伝える画家(10): ラファエル前派への思い

2023年12月15日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

L.S. ラウリー 《アンの肖像》
L.S. Lowry, Portrait of Ann 1957, oil on board, 35.5 x 30.5cm,  The Lowry Collection, Salford


L.S.ラウリーは、アンという女性の肖像を多く残している。画家をよく知る人たちは、描かれた女性アンが実在したことをほぼ疑わないが、それが誰であったかははっきりしていない。アンの様式化された容姿は、明らかに抽象的で理想化されている。実際のところ、ラウリーの心の内はよく分からないところがあるラファエル前派(後段NB参照)のような画面の華やかさは感じられないが、ラウリーが傾倒したロセッティの女性像への彼なりの回答なのかもしれない。実際、ラウリーが収集したラファエル前派の作品は、ロセッティを主とする画家の手になる女性像が多かった。

しかし、ラウリーは収集家である Monty Bloomに次のように語っていた。「ロセッティの描いた女性は、本当(real)の女性ではない。彼女たちは夢の産物だ。彼は多分妻の死によって頭の中に生まれた何かを絵にしただけだ。」(Rosenthal 2010, p.261)。

それにしても、華麗な作風のラファエル前派の作品と、ラウリーの画風は一見結びつき難いように思えるが、ラウリーにとっては「印象派」と並び、「ラファエル前派」が時代を革新する先駆者であるとの思いが強かったのだろう。その一つの代表例が、ラウリーの作品にたびたび描かれている謎めいたアン Ann という女性の描き方であった。ここに掲げたのは、アンを描いたラウリーの作品からの一枚である(上掲)。


画家の複雑な心理
L.S.ラウリーという画家は、作品を数点を見ただけでは、この画家の全容はよく分からないところがある。作品の数も多い上に、画家の関心もきわめて多岐にわたっているからだ。しかし、次々と作品を見ているうちに、いつとはなく引き込まれ、フリークになっていく。

ラウリーの話をイギリス人に話題にすると、自分の家にもプリントが掛かっているよと応じてくれる人は多い。それだけ、家庭にも浸透して国民との距離が近く親しみやすい画家なのだ。

印象派とラファエル前派への強い関心
ラウリーは、ともすると印象派についての理解、習得が浅いのではと批判されることもあったが、その点は前回記したように大きな誤解であることが判明した。さらに、19世紀中頃に勃興したラファエル前派にも多大な関心を抱いていた。なかでもダンテ・ガブリエル・ロセッティ(Dante Gabriel Rossetti, 1828-1882)の作品に深く傾倒していたようだ。そして、生涯の後半から1970年代までは同派の作品を余裕がある限り、熱心に購入、収集していた。最も多く作品を保蔵していた頃は、ロセッティの作品だけで17点もあったといわれる。「印象派」と並び「ラファエル前派」が果たした時代における創造性、革新性に気づいていたのだろう。

ラウリーは、同派の作品、とりわけロセッティ作品を「夜寝る前に」そして「朝目覚めた時に第一番に目にしたい」と言い、自分の寝室に掲げていたらしい。昼間は不動産会社の集金人として働き、夜だけの画業しかできず、晩年まで決して裕福とはいえなかった。しかし、贅沢な生活をすることもなく、自宅には後年、画家の死後、ラウリー自身の作品と彼が所蔵していたラファエル前派の作品を併せ展示する特別展が開催されるほどになっていた。

『ラウリーとラファエル前派』LOWRY & THE PRE-RAPHAELITES: MAJOR EXHIBITION SET TO CELEBRATE LS LOWRY’S LOVE OF 19TH CENTURY ARTIST MOVEMENT
3 September 2018〜24 February 2019.


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N.B.
ラファエル前派(ラファエル前派、Pre-Raphaelite Brotherhood)は、1848年のイギリスにおいて3人の画家、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ウィリアム・ホルマン・ハント、ジョン・エヴァレット・ミレイ(英語読みではミレース)を中心に、数人の画家を加え結成されたグループ。「ラファエル前派兄弟(同盟)団(Pre-Raphaelite Brotherhood)」という名前は、彼らがラファエロ(1483-1520)以前の初期ルネサンスやフランドル芸術を規範としたことに由来している。

ラファエル前派によると、彼らは初期ルネサンスやフランドル絵画に見られる豊かな色彩と精密な自然描写に理想を見出す一方で、アカデミーの規範となっているラファエル以降の16、17世紀のルネサンスおよびそれ以降の芸術を、構図、色彩など表現方法が全てにおいて規制された抑圧的で不十分なものと考えた。ラファエル前派は、ルネサンス以降のアカデミーの伝統を拒否したため厳しい非難を浴びたが、ラスキンのように擁護者もいた。彼らはラファエルの画法がアカデミックな美術の教え方に悪影響を与えたという考えの持ち主だった。彼らが自らの考えに「ラファエル前派」という旗印を掲げたのはこのためだった。
次第に彼らは社会に受け入れられるようになったが、グループ自体は長続きしなかった。それにもかかわらず、ラファエル前派がその後の世界に与えた影響は計り知れず、特に絵画においては象徴主義の最初の一派として評価されている。19世紀後半の西洋美術において、印象派とならぶ一大運動であった。
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ラウリーとラファエル前派
ラウリーはラファエル前派の画家たちの作品を積極的に収集していた。購入先は主にニューカッスルのストーン・ギャラリー Stone Gallery が多かった。彼はしばしば訪れ、その地のロセッティ協会の会長でもあった。

ラウリーのごひいきの作品をひとつ:



ダンテ・ガヴリエル・ロセッティ
《東屋のある牧草地で》油彩、カンヴァス, 1872年
マンチェスター市立美術館
 Dante Gabriel Rossetti, The Bower Meadow
1850–1872s,oil on canvas,
86.3 x 68 cm
Art Renewal Center 
Public Domain

ラファエル前派というと、下掲の作品を思い浮かべる方もおられるかも:


ダンテ・ガヴリエル・ロセッティ
《プロセルビナ》
Tate London 2014
「ラファエル前派展」2014年

REFERENCE
T.G.ROSENTHAL, L.S.LOWRY: THE ART AND THE ARTIST, Unicorn Press, 2010
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時代の空気を伝える画家(9):印象派とのつながり

2023年11月28日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


師弟の自画像:ヴァレット(左)とラウリー(右)
Cecilia Lyon, ADOLPH VALETTE & L.S.  LOWRY, Prose Book Publishing, 2020, cover



L.S.ラウリーは、今やイギリス現代美術を代表する画家のひとりとしての評価が確立しているが、しばらく前までは、ロンドンの一部の批評家などからは、イギリス北部の地域だけを描いている例外的画家という評価もあったようだ。ラウリーしか描かない(描けないというべきか)《工業風景》やマンチェスター地域の工場街の作品などから即断し、この画家はヨーロッパ大陸の美術界を席巻してきた印象派の伝統を継承していない異端の画家、あるいは”日曜画家”などの受け取り方もあったようだ。この点は以前にも記したことがある。


しかし、これは大きな誤りであった。ラウリーは画業を志した頃から、アドルフ・ヴァレット Adolph Valette という優れたフランス人画家の指導を受け、印象主義についての綿密なレッスンを受けていた。

彼らは1905年、マンチェスター美術学校 Municipal School of Art in Manchester で出会い、教師と生徒の関係となった。ヴァレットはラウリーに印象主義を教示、パリなどの最新の動向を伝達した。二人の間では、モネ、ピサロなども大きな関心事になっていたようだ。

学芸員として美術学校に勤務していたセシリア・リヨン Cecilia Lyonは二人の師弟関係について詳細な探索を行い、これまで知られていなかった数々の事実を発見した。その成果は、2020年に上掲の研究書として出版され、注目を集めた。

詳細は同書に委ねるとして、ラウリーの作品から、印象派の影響が感じられるいくつかを紹介してみよう。


L. S. Lowry, Still Life, c.1906, oil on canvas, 23.5 x 33.5cm 
ラウリーがマンチェスター公立美術学校在学当時の「静物画」習作。
(Lyon p.59)



L.S. Lowry, Portrait of the Artist’s Father, 1912, oil on canvas, 46.1 x 35.9 cm
ラウリーの《父親》肖像



ラウリー《母親肖像》再掲




L.S. Lawry, Sailing Boats, 1930, oil on canvas, 35.5 x 45.5cm
L.S.ラウリー《ヨット》

ちなみに、息子ラウリーが画家として生きることに最後まで賛成しなかった母親が、唯一好んだ作品と言われる。母親思いであったラウリーは、この絵を自らの死まで自室に掲げていた(Howard p229)。



続く


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時代の空気を伝える画家(8):地域の人々を描き尽くす

2023年11月22日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


L.S.ラウリー《二人の子供と女性》
リアリスティックな写実でもなく、コミカルでもない作品は、ラウリーの独断場でもある

L.S.ラウリーの作品数は非常に多く、油彩、スケッチなど多彩な画題で2000点近いとも推定されている。私蔵されている作品も多く、正確な作品点数は未だ分からない。一見すると、多少の絵心があれば誰でも描けそうな小品もあり、画家が有名になってからは多くの贋作が出回っていると言われる。しかし、画家の作品を見慣れている人には、真贋はやはり分かるのだ。

いくつかのカタログは存在する。例えば、Micher Leber and Judith Sanding (1988) 2013では440点の作品の所在が確認されている。


いくつか、代表的な作品を見てみよう。



An Old lady in a Wheelchair, 1953, oil on canvas, 24 x 33cm
《車いすの老婦人》
ROSENTHAL p.201

車椅子に乗った老婦人を一人の若者が、どこかへ伴走している。身体は不自由だが、容貌、目つきはしっかりとしている婦人である。他方、若者は容貌からもなんとなくコミカルな印象を与える。一見なんの変哲もない光景ではある。

高齢化が進んだ日本では、いまや日常の風景になっている。しかし、20世紀半ばのイギリス北部の工場街では、人目を惹く光景だったのかもしれない。この作品は、インパスト impasto として知られる厚塗りの技法(絵の具を肉厚に塗り、その上に透明色を塗る時の下地拵え)が使われているが、ラウリーは通常とは異なり、画面下部の壁のように、縦に深い彫りを加え、画面全体としても深みを感じさせる、この画家の個性が十分盛り込まれた作品となっている。画家はかねてから作品の背景には心を配ってきた。小品で画題も分かりやすいが、画家はかなりの意欲を持ってカンヴァスに向かっていることが伝わってくる。

街中の光景:喧嘩



A fight, c.1935, oil on canvas, 53.2 x 39.5 cm
《喧嘩》

ラウリーが町中で見かけた光景でしょう。二人の男が掴み合いの喧嘩をしているようだ。物見高い通りがかりの人たちや近所の人たちが成り行きを見守っている。発端は、たわいのない喧嘩なのだろう。周りの男たちも何が争いの種なのかと、見守っている様子。殴り合いなどになれば、多分割って入るつもりなのかもしれない。足元にはあの”ラウリードッグ”まで、描かれている。日頃、変化の少ない工場街では、喧嘩も一つのアトラクションなのかもしれない。結果はほとんど分かっている。

画家は半ば楽しみながら、地域に起きる日常の光景を多数描いている。今日のスマホでスナップショットを撮るような感じなのかもしれない。実際、この作品は画家がマンチェスターの下宿通りで、画家が目の当たりにした光景と言われている。労働者の住む家々が狭いこともあって、こうした出来事も街路上など家の外で起きることが多かったようだ。ラウリーは家賃を集める仕事をしながら、こうした日常の出来事にも絵心を掻き立てられたのだろう。

時代の先端?


Teenagers, 1965, oil on board, 25.5 x 21.5cm
《ティーンエイジャーズ》

1960年代、時代の先端を行く若者たち。極端に誇張された長い脚。コミカルな誇張を含めて、彼女たちの特徴を良く捉えていますね。足下の”ラウリー・ドッグ”も、興味深げに足元を眺めている(笑)。この画家の作品には、こうした辛辣ではないが、風刺の効いた作品も多い。



Mother and Child, 1956-7
oil on canvas, 61 x 51cm
《母親と子供》

ラウリーは初期の「工業風景」シリーズから、多彩な画題へと視点を移しているが、こうした人物画もそのひとつである。椅子に座った母親の膝に子供が座っている。画家の身近にモデルとなった家族がいたのかもしれない。しかし、よくあるリアリスティックな肖像画とは雰囲気が異なり、この画家特有の雰囲気が感じられる。

この端正な容貌の女性と子供を描いた作品には、ラウリーの幼く、安定した時代における家庭の理想の母親と子供の関係についての画家の願望が、ロゼッティ、マドンナなどのイメージと混じり合って具象化されているとの批評もある(Howard, p.171)。

ラウリーはかねてから女性を描くについては、髪へのこだわりとか、いくつかの考えを持っていたとの指摘もあるが、今後の研究に待つとしたい。

References
Michoel Leber & Judith Sanding (1987) Phaidon Press, 2013
T.G.Rosenthal, L.S. Lowry : The Art and the Artist, Norwich, Unicorn Press, 2010

続く
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時代の空気を伝える画家(7)「額縁の外」へ目を向ける

2023年11月12日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


L.S.ラウリー《工業風景、ウイガンの光景》
1925年


黒煙を吐き出す多数の煙突と暗黒色、茶褐色などで彩られる多数の工場・・・・・。環境汚染の象徴のような光景。通常の画家ならば、およそ画題とはしないような光景である。L.S.ラウリーの作品でよく知られる《工場風景》”industrial landscape” である。

どうして工場の煙突や煤煙で汚れた工場の建物が美的対象に選ばれるのか、疑問に思う人々もいるかもしれない。世の中にはもっと美しいものが溢れているではないかと。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
1888 最初の鉄鋼がサルフォードとマンチェスターで生産され、翌年、圧延工場が開設。この地域はイギリスで最も高い煙突群がある地域のひとつとして知られるようになった。Top Place Chimney の名で有毒なガスを排出していた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


しかし、ラウリーの作品をつぶさに見ていると、そこには世界で最初の産業革命がもたらした恐るべき自然破壊の結果とその過程に生きる人々の姿が、不思議な魅力を伴って描きこまれており、知らず知らずのうちに画面に引き込まれてしまう。その力の根源は、画家が自らが生まれ育った地域と人々に対する深い愛と理解であると思われる。

大きな煙突と暗い空だけが目立つ光景を描いた作品などを見ていると、工業化の進行過程で、土地や家を失い、工場でしか働く場所が無くなってしまった人々への画家の深い思いが伝わってくる。

通常、人々が「美」の対象として思い浮かべるものとは、かなり違ったイメージがそこにある。ラウリーの作品世界は「額縁の外」の社会と一体にして鑑賞されるべきなのだ。画家はそのために、地域に見られる些細な光景でも小さな作品として残している。例えば、街中で見られる物売りや喧嘩など日常の光景を、スナップショットのように描いている。普通の画家ならば、画題としては一顧だにしないだろう。

ラウリーは《工場風景》の空の色が暗すぎると指摘されたことに怒ったようだが、実際に当時の空の色は画家のカンヴァスのそれに近かったようだ。イングランド北部に留まらず、ロンドンでも「ロンドン・スモッグ」の名で、深刻な公害として1970年代初めまで蔓延していた。ブログ筆者がしばらくアメリカに滞在の後、イギリスへ旅した1960年代末、ロンドンの空気の悪さに辟易したことを今も覚えている。青空の見える日はほとんどなかった。


==========
大気汚染「ロンドン・スモッグ」事件
1952年の12月5日から9日にかけて、ロンドンは濃霧に覆われ、ロンドンスモッグ(Great Smog of 1952, London Smog Disasters)として知られる大気汚染の事件が発生した。大気汚染物質が滞留し、1万人を越える多くの死者が出た。死亡者の多くは気管支炎、肺炎など慢性呼吸器疾患を有する高齢者であった。
このようなスモッグは、19世紀の半ばころから見られており、改善が見られるようになったのは、ヨーロッパとアメリカが1970年代に採用した大気浄化法の結果であった。
==========


画家の独創:「マッチ棒人間」
ラウリーの作品の特徴とされる「マッチ棒人間」も彼の作品の全てに現れる訳ではない。印象派の流れを明瞭に感じさせる作品もある。「マッチ棒人間」もラウリーの独創であり、多くの人間の集まりを表現するに、一人一人の容姿などに多くの時間を費やせない。夜間、昼間の仕事の後、家人が寝静まった後に創作活動に入ったラウリーに最も適した画法なのだ。今日では、この技法を習得するコースまで存在する。

それでもロンドンなどのスノビッシュな画壇には、ラウリーに傾倒しえない人たちもいるようだ。テート・ブリテンなども、ある時期までこの画家の作品を積極的に購入することはなかった。

イギリス美術は、イタリア、フランス、オランダなど大陸の美術家の間では、しばらくは傍流のように見られていたこともあった。一時は、ラウリーは印象派の技法を習得、継承していないなどの誤った見方もあった。しかし、いまや映画化もされ、国民的画家のひとりと言ってよい。

ラウリーの作品の多くは、対象の正確な描写ではない。画家は昼間の仕事の途上などで、気づいた対象をスケッチしていたが、多くは画家のイメージとして残った中心的な概念を基に創作したものだ。例えば、画面に描かれた大煙突にしても、実際に対応する煙突は存在するが、それを正確に描写したものではない。しかし、今に残るモノクロ写真などと比較してみると、見事に当時の雰囲気を伝えている。

作品の一点、一点は、大方の人々の美的観念には沿わないかもしれない。しかし、ある数の作品を鑑賞してゆくと、画家が自ら生まれ育った地域の変容と、そこに暮らす人々の生活風景、その明暗に画家が抱く冷静な視点と愛着が作品を支えていることが伝わってくる。

現場の空気を伝える
ラウリーだけが提示できる独特の世界が創り出されている。今日であったならば、写真を撮ることで済ませてしまう光景を、おびただしい数の人間を丹念に描きこむことで再現している。その結果、およそ写真では表現できない全体の構図、画家の印象などが、格別の魅力を伴って見る人に伝わってくる。

iPhoneなどが普及し、誰もが容易に被写体を写真に撮ることができるようになった時代と比較すると、ラウリーの時代においては写真撮影の機会は著しく限定されてきた。画家は来るべき時代のことなど考えることなく、日々の仕事の合間に、目に留まったあらゆるものを描いてきた。そこには同じ地域に住み、苦楽を共にしている貧しい人々と心を共にするかのような感情が込められている。

今日残る膨大な作品を見ていると、ラウリーの心に触れた対象がいかに広範に及んだかに改めて驚かされる。おびただしい数の人で埋められた街中や海岸の風景があるかと思うと、人影が全くない自然の風景、通りすがりの家の窓に飾られた一輪の花、誰もいない薄暗い坂道、憂いを含んだ母親の肖像、コミカルに自分の生き方を風刺した戯画、そして波と空以外、なにも描かれたいない海の風景など、画題の多様さに驚かされる。



L.S.Laury, Yachts, Lytham St.Anne's, 1920,
pastel on paper, 27.9 x 35.6cm, 
《ヨット、ライサム セント・アンネ》
Source: Rosenthal, p.222


再論すると、この画家の真髄は、数点の作品を見ただけでは分からない。画家の関心と描かれた対象がかなり広いためである。しかし、美術館などで見る作品の数が増えるにつれて、多くの人が知らず知らずのうちに、ラウリーのファンになっていることに気づくだろう。そして、この画家の最大の魅力の根源は、画家の生まれ育った地域と人々への深い愛情であり、ひたすら描くことに生きがいを感じ、世俗的栄誉を求めなかった画家の人柄にある。

Reference
T.G.Rosenthal, L.S.Lowry, The Art and the Artist, Norwich, Unicorn Press, 2010

続く
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時代の空気を伝える画家(6):カンヴァスに生涯を捧げて

2023年11月01日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

「母親ラウリーと息子」映画広告



ローレンス・スティーヴン・ラウリーは、今日ではイギリス人の多くが名前を知っているか、どこかで作品を観ている著名な画家になっている。ほとんど国民的画家と言っても良い。世界最初の産業革命発祥の地、イギリス北部ランカシャー(ストレッドフォード)に生まれ育ち、1976年、88歳で没するまで、ほぼ終生その地で過ごした。ナイトの称号拒絶を含め世俗の栄誉には目もくれず、多くの苦難にも屈することなく、生涯、カンヴァスに対した。

N.B .
L.S. Lowry 1887-1976
1887   11月1日、ローレンス・ステファン・ラウリーは、ストレットフォード(マンチェスター)に生まれる。父親ロバート・ラウリー、母エリザベス。父は中流の不動産業。
ヴィクトリア女王即位60周年記念式典が行われた年であった。。
1888 最初の鉄鋼がサルフォードとマンチェスターで生産され、翌年、圧延工場が開設。この地域はイギリスで最も高い煙突群がある地域のひとつとして知られるようになった。Top Place Chimney の名で有毒なガスを排出していた。ラウリーはこの光景も描いている。

彼が描いた対象の多くは、産業革命後大きく変容した《工業風景》と呼ばれるランカシャー地域の実態であり、そこに暮らす人々の日常であった。普通の画家は目もくれない対象であった。ラウリーは生涯独身、友人はあったが孤独に耐え、地元に溶け込んだ日々を過ごした。

乱立する工場の煙突から吐き出される煙が常に空を覆い、灰褐色のスモッグが辺りを支配していた。画家はその中に創作意欲を掻き立てる対象を見出すと、こまめにスケッチしていた。時には休暇先で目にとまった風景などを、鉛筆、木炭などで、手近なナプキン、封筒の裏などにスケッチし、近くにいた若い人々などに贈っていた。これらのあるものは今では数千ポンドの価値があるとさえいわれている。

ラウリーの作品はその独特な表現もあって、ロンドンのお高い画壇ではなかなか評価されなかった。なかでも画家独創の多数の人間描写は、「マッチ棒人間」matchstick man として時に揶揄され、印象派の技法に沿っていないなど、正当な評価を受けないこともあった。しかし、ラウリーはフランス人画家から印象派の技法を正しく学んでいた

1905  マンチェスター市立美術学校入学 Manchester Municipal College of Art の夜間コース(1905-1915)で学ぶ。アドルフ・ヴァレット Adolphe Valette フランス人の教師がtutorであったが、モネ、ピサロなど印象派の最新知識を伝授した。ラウリーなど生徒に大きな影響を与えた。
1909  ペントルベリーへ移住。その後1915 年まで、Salford School of Art(based in the Royal Technical College on the edges of Peel Park、1915-25)に通った。そこで出会ったtutorの一人、バーナード・テイラーBernard Taylorというマンチェスター・ガーディアンの美術批評家が、ラウリーの作品は暗すぎると助言した。これに応えて、ラウリーはその後真っ白な背景に描くという形で、その後の作品を制作した。

ラウリーの作品は画家の晩年近くまで、なかなか評価されなかったが、その後は急速に人気が上昇し、多くの愛好者が生まれた。しかし、こうした変化にもラウリーは、ほとんど無頓着であった。
        

晩年から今日までBBCを始めとして、画家の生涯、創作活動を題材とした動画、映画が数多く制作されてきた。今回は1957年にBBCが製作した画家の生い立ち、創作活動に関する動画を紹介してみたい。今日のようなカラー化が出来なかった時代の作品だが、それだけに当時の工場街の雰囲気がうかがわれる。


Reference
制作:BBC

続く

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時代の空気を伝える画家(5):貧困、欠乏、危機の中で

2023年10月25日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


郵便切手となったL.S.ラウリーの作品

ガザ攻撃を非難した国連総長に、イスラエルが反発し、辞任を要求するという事態が起きている(2023年10月24日)。

「戦争」という文字が紙面から消える時代は来るのだろうか。こんなことを考えること自体がナンセンスとほとんど誰もが思っている。現にイスラエルとハマスも何度同じことを繰り返してきたことか。

本ブログで、かねて21世紀は「危機の世紀」となると記してきたが、ウクライナに続き、パレスチナ自治区ガザでの戦争で、その予想は決定的になってしまった。筆者は歴史上、最初の「危機の世紀」とされたラ・トゥールが生きた17世紀以来、危機の時代と美術の関連を追いかけてきたが、地球上に戦争は絶えることがない。

ラウリーと戦争、貧困・・・
第二次世界大戦中、画家ラウリーはマンチェスターの大きなデパートメント・ストアの火災警備員として働いた。その経験は彼の作品で、空中からの光景描写に役に立ったと言われる。

1940年、マンチェスターは爆撃で大きく破壊された。市のヴィクトリア風、エドワード風の建物のおよそ70%が破壊され、650人以上の住民が死傷した。聖オーガスティン・ローマ・カトリック教会(1908年建造)も爆撃で破壊された。破壊された現場は、その後再建される1960年代まで放置されていた。ラウリーの作品には、1945年の破壊された当時を描いたものもあるが、画家は当時、火災警備員、公式の戦争(記録)画家として働いていた。

ラウリーは生涯を通して、イングランド北部、産業革命の中心地において、工業化のもたらした地域の変容を描き続けた。人生後半には、画家として著名になり、画題も大きく拡大し、作品も人気を得るに伴い、経済的にも不自由のない日々を過ごすことができていた。しかし、画家は生まれ育った地を離れることなく、1976年に世を去るまで、サルフォードそしてランカシャー地域の光景を描き続けた。

現代では「美」を体現した作品とは何かという根源的問題について、統一的判定基準はなくなった。「相対主義」は現代の美術史論の重要な基盤となった。ラウリーの作品は、一点、一点を観たならば、これが「美術」と言われかねない作品がないわけではない

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ブログ筆者はこれまで「労働の国際比較」をひとつの研究課題としてきたが、関連してかなり以前からジャック・カロ、ハンス・ホガース、オノレ・ドーミエなどの社会批判を含む画家・銅版画家、20世紀初頭の児童労働、L.S.ラウリーなどの産業革命、労働者実態、社会批判などを主題とした画家、写真家などに関心を抱き、一部を記事にしてきた。ラウリーの作品の一部は、大きく変容した産業社会の断面を描写した歴史的記録作品とでも言えるかもしれない。しかし、ラウリーは他の職業には魅力を感じることなく、画家として生きることを心に決めていた。ラウリーの生涯をつぶさに調べてみると、一貫して印象派の修業過程を経て、若い頃から心定めた画家としての人生を全うしている。
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この時代、産業革命がもたらした工業化の光景、地域の変貌、富と貧困の2極化の様相は、セピア色の写真として、今日に伝わっている。しかし、その多くは工場や地域の荒涼としたイメージであり、そこに生きた人々の日々の姿を伝えるものは少ない。むしろ小説家であるジョージ・オーウエルあるいは時代は遡るが、チャールズ・ディケンズのような文芸作品などから知りうることが多い。

稀有な画家として
ラウリーは通常の画家が見向きもしない工業地帯の風景やそこに住む人々の日常を描いた数少ない画家であった。ヴィジュアルな絵画作品として、写真を遥かに凌ぐ迫真力で今日の我々の目前に迫ってくる。時に一枚一枚は変哲もない日常の光景の一齣であっても、この画家の作品をある程度見ている間に、画家が生きた時代の空気のようなものが画面から感じられるほとになる。

他方、これまでにも記した同時代人の作家ジョージ・オーウエルは、イギリス、インド、ビルマ、スペインなど、イギリスよりも経済的発展が遅れていたと思われる国々を含めて労働者階級の状態についても、多大な関心を抱いていた。『空気を求めて』Coming up for Air の中で、イギリスの郊外(suburb, 都市の外)の環境について、フラストレーションが高まることを述べている。ロンドンなどの大都市から離れた北西部の工業地帯などは、荒廃した知的関心を生むことのない地域だった。この時期のインテレクチュアルと文化的コメンテイターにとって、’郊外的’とは安っぽく、無慈悲で、何の発想も生まないことと同義だった。今日でも残るイギリスの北部と南部の間の断裂とも見える違いは、昨日今日の問題ではない。

しかし、オーウエルは煤煙で汚れ、スモッグのひどいロンドンを嫌い、エセックス州に住んでいた。ディストピアを描く小説家でもあったオーウエルは、社会に蔓延する貧困、堕落、悲惨な事態を当時の小説、調査などを通して熟知していたが、自ら体験する場に出合わせることが少なかった。1936年、編集者ゴランツの依頼で北西部工業地帯を旅する機会を得た。

オーウエルの没後、彼の伝記的、作品評論を書いたB.クリックは、次のような事実を記している:
『ウイガン埠頭への道』を執筆するため(工業地帯の)北部に旅するまでは、大工場の煙突や炭鉱の煙突が煙を吐いているのを一度も見たことがないと言ったということを読んだことがある。・・・・・・・

(中略)オーウエルは、ちなみに、この作品は1936年、イングランド北部工業地帯の失業者の状態についての本を書くように、出版社のヴィクター・ゴランツから委嘱されたものである。ウイガンは、木綿工場と炭鉱の双方の閉鎖と操業短縮のために、失業率が高い地域だった。オーウエルがこの仕事で出版社からもらえる報酬は、彼が1年生き延びるに必要な金額のおよそ2倍であった。
(中略)
オーウエルが、イングランド北部の町で経験した次のエピソードも、彼が北部に抱いていたイメージ通りであることを示している:
ジョージ・オーウエルは彼の『ウイガン波止場への道』執筆のための調査でマンチェスターを訪れた。彼は3d.しか手持ちがなかったので、小切手を現金化しようとしたが、断られた。彼はブートル街の警察で保証をしてくれる弁護士を紹介してくれるよう依頼したが、断られた。オーウエルは知らない町で一文なしの状態となった。『恐ろしく寒かった。街路は煤煙でひどい黒色になって凍りついていた。』と回顧している。

*B.クリック(河合秀和訳)『ジョージ・オーウエル:ひとつの生き方』(B.Click, Georrge Orwell; A Life)上、岩波書店、1983年、pp.354-360



L.S.ラウリー《古い道》An Old Street
Public Domain

画家は1909年「マンチェスター・ガーディアン」の美術批評家D.B.テイラーの色調が暗すぎるとの忠告を取り入れ、それ以前より明るいパレットに切り替えていた。これはそのころの作品である。産業革命を経験した北部工業都市の一光景である。画家が家人が寝静まった夜中に制作していたという事情もあってか、色調も技法も単純化されていた。人影が描かれない多数の「マッチ棒人間」、混色の少ない単色の色使い、単純化された構図など、一見すると稚拙にも見える。しかし、それこそがラウリーという稀有な画家が生み出した独自の世界だった。

続く

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時代の空気を伝える画家(4): 画家と母親

2023年10月13日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


映画『ラウリーの母親と息子』予告編 タイトル 2019年

L.S.ラウリーという画家と作品を理解するには、作品だけを見ていても分からないことが多い。2000点を超える作品の画題も広く拡散し、画家の創作対象も大きく揺れ動いた。

厳しい家庭環境
ラウリーの生涯にわたる生活や家庭環境の変化とともに、制作にあたっての画家の心理状態も平静であるとは限らなかった。なかでも画家が独り立ちするまでの間、生活を共にしていた母親の存在は、大きな影響を残した。両親とひとり息子という家庭は、当初からさまざまな問題を抱えていた。父親が経済的にも困窮し、工場地域へと転居を迫られてもいた。しかし、ラウリーは屈することなく、工場やそこに働く労働者の日々の生活など、普通の画家は考えもしなかった対象を描くことに力を注いだ。

ラウリーの人生そして画業のあり方に大きな影響を与えたのは、母親エリザベスであったと言われている。決してプラスの影響ではない。母親は神経質で内向きであり、自分はピアニストになること、それも一流の演奏家になることを常に思っていたようだ。しかし、それが適わないこともあり、日々鬱屈していた。そして、画家になりたいという息子の願いには陰に陽に反対し、生前は画家として生きることをついに認めなかった。母親は息子の作品をほとんど見ることすらしなかったようだ。

しかし、画業への志を諦めきれなかったラウリーは、「本業を持ち、趣味として絵を描くのは仕方がない」というところまで母親を説得することにこぎつけた。それでも最後まで母親はラウリーの作品を評価することがなかったと言われる。ここまで厳しくされても、母親想いでもあったラウリーは反抗することなくそれに耐え、不動産会社の地代・家賃の集金人という下積みの会社員をしながら、画業を続けた。夜間には美術学校に通い、わずかな時間に制作するという日々であった。母親が寝静まった夜中に、絵筆をとっていた。

ラウリーはこうして神経質で執拗に考えを曲げることのない難しい母親と複雑な相互依存の関係にあった。そうした環境の中で創り出された彼の作品は長い間正当な評価を得ることができず、ロンドンなどの批評家たちが見慣れた作品とは大きく異なる、彼らにとっては、奇妙な表現に映る独特な作品の世界を再評価し始めたのはラウリーの晩年のことだった。

映画になった画家と母親
この画家と母親の関係は、コロナ禍発生の前年、2019年に『Mrs Lowry and Son』(「母親ラウリーと息子」)と題して、映画化された。作品は日本ではまだ上演されていないこともあって、筆者もまだ予告編しか観る機会がないが、この作品で画家ラウリーを演じたのはティモシー・スポール、母親役は名女優ヴァネッサ・レッドグレイヴであった。スポールは、この作品の前にマイク・リー監督による『ターナー、光に愛を求めて』において、国民的画家として知られるジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーを演じた。この画家としての役割を演じるために、ラウリーは3年間にわたり画業に励んだという。その成果は、ターナーに続き、ラウリーを演じる上で大きく寄与した。


上掲予告編 一場面
画家は本業としての不動産会社の地代・家賃集金人としての仕事を日々続けながら、その傍ら画業に専念していた。このような光景は、画家の写真として今日まで数多く残っている。

『Mrs Lowry and Son』は、エディンバラ映画祭で上演され、その後作品を観た人たちに大きな感動を与え、多数の観客がそのままラウリーの名をつけたペンドルベリーの文化施設に作品を観るために足を運んだといわれる。

L.S.ラウリー《画家の母親の肖像》1912
Portrait of the Artist's Mother (1912), oil on canvas, 46.1 x 35.9cm

ラウリーはこの肖像画制作に格別の努力をしたことがうかがわれる。

当時、画家の母親は長い病の床にあった。 彼女は以前から病気がちで、夫が死去する少し前から、6年以上病床にあった。ラウリーは唯一の家族として彼女を看護し続けてきた。そして、息子の作品がようやくロンドンの画壇で日の目を見る輝かしい時が来たことを知らされても、彼女は息子の努力を讃えることはなかった。エリザベスは1939年10月12日に亡くなった。

生前、母親は息子の成功を喜んではくれなかったようだ。ラウリーには他に家族はいなかったが、彼の家族をよく知るドラ・ホルムズは後に彼らのことを尋ねられ、こう話していた:「彼(ラウリー)は彼女[母親)のために生き、(作品を見て)微笑んでくれ、一言でも褒めてくれることを望んで生きていた」。この頃、ラウリーは「すべてが遅すぎた」All come too lateと繰り返し言っていたらしい。ロンドンの有名画廊からの個展開催オファーという「遅れてきた春」を喜ぶような心境ではなかったようだ。

ラウリーは作品が人気を得るにつれ、生活も安定し、何の心配もいらなくなっていた。しかし、この画家はいかなる名声も奢侈も望むことなく、ひたすら地域とそこに暮らす人々の生活を愛し、その日々を描くことに大きな喜びを感じて生涯を過ごした。画家ラウリーの作品は、彼が愛したイングランド北部の空気をさまざまに今日に伝えている。


REFERENCE
Shelley Rohde, L S LOWRY: A Life, London: Haus Books, 2007

続く
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時代の空気を伝える画家(3):オーウエルとラウリーの時代

2023年10月02日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

George Orwell, The Road to Wigan Pier, Penguin books, cover


L.S.ラウリー(1887-1976)という画家は、優れてイギリス社会、そしてイギリス美術界に特有の風土を理解することなしには理解が難しいかもしれない。ヨーロッパ大陸、イタリア、フランスなどの絵画と比較して雰囲気がかなり異なる。例えば、ラウリーは、なぜ普通の画家なら画題とすることはおよそないような、黒煙を吹き上げ、大気を汚染し、青空が見えないような工場群、《産業の光景》(industraial landscapes)を描いたのだろうか。

そこには、この画家が生まれ育ち、愛する土地に住む人々の美しい環境が彼らの力及ばないところで、次々と破壊され、無惨にも変貌してゆく厳しい現実を描き残したいという画家の強い思いが込められている。「美」の対象は、人々が表面的に美しいと思うものだけではないと、この画家は主張している。ラウリーの数多い作品に親しんでいると、この画家を数点の作品だけで理解することは到底できないということが分かってくる。ひとりの画家でこれだけ画題が多面にわたる例は少ない。

イギリス北西部の社会文化を理解する
ラウリーの画題は多岐に渡り、作品数も2000点を超えてきわめて多い。その理解のためには作品を生み出したイギリス的な風土、とりわけイングランド北西部の風土への理解が欠かせない。言い換えると、単に描かれた対象ばかりでなく、画家が生まれ育ったイングランド北西部の地域の理解と、その地に住む人々への深い思いやりの心を共有することである。イギリス北部とロンドンなど南部の社会文化的差異は、想像以上に大きなものがある。

今日ではラウリーのファンはイギリス、そして他の国へと広がって、多くの愛好者がいる。しかし、画家の活動がほぼイングランド北西部、マンチェスター、サルフォード地域の労働者階級の多い地域に限られていることもあって、ロンドンなどの画壇や批評家の間には、ことさら画家の力量を軽視する動きもあったようだ。この点は以前にも記したことがある。マンチェスターでは、サッカーのシティのファンは圧倒的に労働者階級が多く、ユナイテッドとは明らかに一線を画している。

イギリスは世界で最初の産業革命を創始した国でもあり、その点からもこの画家の取り上げた画題の多くは、広く他の世界でも受け入れられる素地を内在している。

ラウリーとオーウエル
ラウリーの描いた《産業の光景》の画題のひとつとなったウイガンは、ジョージ・オーウエル(1903-1950:本名エリック・アーサー・ブレア)の『ウィガン波止場への道』の舞台として、著名である。ブログ筆者もイギリス滞在中に訪れてみたが、「波止場」pier というような情緒的、美的感覚を呼び起こすような場所は何もなかった。オーウエル自身が語ったと言われるが、内陸の汚れた川の渡し場を指した冗談のようなものであったらしい。ウイガンは彼にとって産業革命による工業化が生んだ醜さの象徴のようなものだった。

他方、ラウリーはオーウエルのような辛辣な見方を示したことはなかった。この画家が波止場や運河を画題とした作品を探してみると、いくつかの作品が目についた。そのひとつを紹介しておこう。


L.S.ラウリー《運河に浮かぶはしけ》油彩、板、39.8x53.2cm, 1941年
Michael Howard, LOWRY A Visionary Artist, Lowry Press, p.71

描かれた光景は決して手放しで美しいといえる光景ではない。薄暗い空を背景に、左手後方に黒煙を上げている煙突が見える工場地域に流れる運河に浮かぶはしけが描かれている。水面に映る情景からも、運河はそれなりの透明さを維持しているようだ。画面を斜めに横切る粗末な橋とはしけが巧みに構図の中心にありながら、配置の妙を示している。さらに橋の中央には男女二人の寄り添う姿も描かれている。普通の画家ならば、見過ごすような光景である。かなり複雑な構図ながら、工場地域の雰囲気を巧みに伝えている。


ラウリーとオーウエルはほぼ同時代人であった。ラウリーは生涯を過ごしたマンチェスター地域とそこに住む人々を愛し、その変貌を仔細に描いてきた。他方、名門イートン校に学んだオーウエルは、卓越した知性を持った左翼知識人の観点から産業化がもたらした惨状を辛辣に書き残した。1930年代、すでに強固なものとなっていた英国社会の階級的隔壁に鋭い批判を加えた。生まれ育った背景は異なるが、二人の間には工業化がもたらした自然破壊、環境の変貌への共通した思いが流れている。しかし、ラウリーの心情は、常にこの地域に生まれた人々への愛に支えられていたといえる。

〜〜〜〜〜〜〜〜
このところ、オーウエルに論及あるいは関係する記事をいくつか見かけた。単なる偶然かもしれない。イギリスは、2012年1月31日、EUを離脱した。現在のイギリスでは、再編に伴う新たな産業社会の転換が進行しており、その流れから取り残される労働者など、富の蓄積と荒廃が展開している。作家と画家という違いはあっても、二人の心情の底流にはなにか共通するものが流れているように思われる。
〜〜〜〜〜〜〜〜

現代の世界は資本主義の生み出した富と貧困の極度な偏在が、ウクライナ戦争の勃発と相まって、厳しい分断と対立の様相を見せつつある。オーウエルとラウリーという二人の異色な文化人の作品と生き様は、今を生きる我々にとって多くの示唆を与えてくれるのではないだろうか。

References
David Scarrock, “The road to Wigan Pier, 75 years on”, The Observer George Orwell, The Guardian, February 2011.
2011年はジョージ・オーウエルがイギリス北部の生活についての作品を描いてから75年目にあたるため、さまざまな回顧がなされている。

Stephen Armstrong, The Road to Wigan Pier Revisited, 2012/3/8

「現場へ!:パブでたずねた階級意識 オーウエルの道」『朝日新聞夕刊』連載 2023年8月21日

柴田元幸『こころの玉手箱』(2)「愛用のティーポット」『日本経済新聞』(夕刊)2023年9月20日。同氏はほぼ50年近くオーウエル流(A Nice Cup Of Tea で説かれている方法をほぼそのまま踏襲して紅茶を入れているとのこと。




上掲作品部分
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時代の空気を伝える画家(2): L.S.ラウリーの生き方

2023年09月10日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


L.S.ラウリー《ウイガンの産業光景》油彩・カンヴァス、40.5x39.6cm, 1925
Courtesy of Salford Local History Library


描かれているのは産業革命後、世界的に著名となったランカシャー木綿工業の工場群。この地域の湿った空気は当時は繊維工業に最適と考えられていた。林立する煙突からは黒煙が吐き出され、汚れて、青空は見えない。赤い煉瓦建の周囲に僅かに緑が残っている。


Kirkless Iron Works,New Springs, Wigan 
ほぼ同時代、同上地域の写真。今では地域の絵葉書として販売され、コレクターが多い。


今日の同地域の写真。犬の散歩や自転車に乗った子供たちが見られるような光景に変わっている。
Photo credit, Clark and Wagner, 2003

今では有名だが
ローレンス・スティーヴン・ラウリー(Laurence・Stephen・Lowry, 1887 - 1976)といえば、現代のイギリス人の間であれば、知らない人はほとんどないといわれるほど有名な画家である。名前は知らなくとも、どこかで作品あるいはそのコピーなどを見たことがあるだろう。実際、イギリス人の友人たちとは、話題にすれば、かなり興味深い話になることが多い。なにしろ、一国の首相がクリスマスカードに使うほどなのだから知名度も高い。ケネス・クラーク、エルンスト・ゴンブリッジ、ヘンリー・ムーアなど、名だたる美術評論家や美術史家が、それぞれに高い評価を与えている。今や絶大な人気を確保している画家だ


過小評価されてきた画家
しかし、この画家の作品に描かれることが多いイギリス北西部の労働者階級が多く住む地域への偏見、あるいは「マッチ棒のような人間」といわれるこの画家独特の表現に着目されたこともあって、画家の歩んだ道は決して平坦なものではなかった。ラウリーが第一級の画家と認められるようになったのは、画家人生の後半であった。ロンドンのお高い批評家などの間には、暗に当時の画壇に支配的であった「印象派」の流れを汲んでいない傍流の画家というような評価もあったようだ

「マッチ棒のような人間」が描かれた作品だけを見て、人間の個性が分からないと即断する人もいるかもしれない。しかし、これはラウリーが創り出した独自の産物であり、この画家しか描けない世界だ。さらに、2000点近いといわれる作品は、上掲のような「産業の光景」にとどまらず、肖像画、風景画と幅広いジャンルにわたっている。ラウリー・ファンといえども、実際に見たことのない作品も少なくない。

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日本でラウリーのことがほとんど知られていないのは、西洋美術史におけるイタリア、フランスへの過度な偏重、それと関連するイギリス美術への過小評価(美と国民性の問題)、その流れにおける印象派重視、現代美術における価値観の分裂と近代以前への美術史の後退、輸入学問に起こりがちな研究者などの視野の狭小、バランスを欠いた美術史教育などの諸要因が重なった結果と思われる。このブログでも取り上げてきた「美」とはいかなる概念なのか、誰がそれを定めるのかなど、これまで指摘した問題とも関連している。ラウリーは、これらの諸問題を考えるにあたって、大変興味深い画家でもある。
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産業が画題に
ラウリーが画題として取り上げた対象の中では、今では「産業風景」’industrial landscapes’  or  “industrial scene”として知られるイギリス北西部の産業の実態が著名だが、そこにはこの画家だけが提示できる独特の世界が創り出されている。今日であったならば、写真を撮ることで済ませてしまうような煙突が乱立するような光景、あるいは多数の人々の行き来などを労を厭わず丹念に描きこんでいる。その結果、およそ写真では表現できない全体の構図、その場の雰囲気などが、不思議な迫力を伴って見る人に伝わってくる。上掲の例からも明らかなように、今に残る当時の同じ場所の写真と比較して、ラウリーの作品の方がはるかに見る人を惹きつけるものがある。

 普通の画家であったならば、制作意欲が湧かないばかりか、場合によっては忌避したい対象である。しかし、ラウリーはこうした対象に積極的に立ち向かった。

 上掲の作品のように、広い画面に黒煙を吐き出す多数の煙突と暗黒色、茶褐色などで彩られる多数の工場群だけが描かれた作品もある。通常の画家ならば、目を背け、およそ画題として考えないような光景である。しかし、ラウリーの作品を見ていると、そこには産業革命が作り出した恐るべき自然破壊の結果とその進行過程に生きる人々の姿が、不思議な魅力を伴って描かれており、知らず知らずのうちに画面に引き込まれてしまう。特に工業化の進行過程で、土地や家を失い、工場でしか働く場所が無くなってしまった人々への画家の思いが切々と感じられる。画家が自らが生まれ育った地域と人々に対する深い愛情が作品を支えている。

18世紀後半、産業革命がもたらした工業化は、多くの人々にとっては教科書で学んだ繊維や鉄鋼、機械工業の写真など、いくつかの光景が網膜に残っているかもしれないが、ラウリーはその後の産業展開の過程で、自らが生まれ育ち、生涯のほとんどを過ごしたマンチェスター周辺地域の景観、人々の生活の隅々までがいかに変貌したかをスナップショットのように、つぶさに描いて今日に伝えた。写真では伝わってこない「時代の空気」がそこに感じられる。美の根源は、対象の美しさではないことが伝わってくる。

ブログでも取り上げた18世紀のイギリス社会を描いたウィリアム・ホガース(1697-1764)は、しばしばシニカルあるいは辛辣に、変わりゆく社会の断面を描いた。他方、ラウリーは産業革命後、20世紀前半のイギリス北部の産業・社会の変貌を地域への愛をもって今日に伝えている。

時代と場所は、あのジョージ・オーウェル『ウイガン波止場への道』(1930)とも重なる部分がある。平穏な人間らしい生活を奪ってしまった工業化の破壊力、そこに生まれた人々の間の大きな貧富の格差と明暗など、通常の画題には登場することはない対象が、カンヴァスに描き出される。

何度かの産業革命を経て、建物や人々の姿も変わり、スマホやAIの時代に生きている現代人にとっては、単なる過去の光景と映るかもしれない。しかし、それらは単なる歴史上の一コマにとどまらず、さまざまな形で今日につながっている。画家は自分の生まれ育った環境が、工業化に伴い、いかに変容したかを克明に描き、写真が伝えられない時代の空気を今日に伝えている。
「働き方の国際比較」を研究対象のひとつとしてきたブログ筆者にとっては、離れ難い魅力を秘めた画家である。

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ラウリーが生涯のほとんどを過ごしたイギリス北西部マンチェスター近傍の地域は、多くの点で世界の注目を集めてきた:
1900 マンチェスターは世界で9番目の人気都市になる。
1901 マンチェスターに最初の電車が導入され、労働者階級にも便利な交通手段となる。
1901年 国勢調査でサルフォードはイギリスで最も死亡率の高い地域のひとつとなった。主たる原因は劣悪な住宅事情とされた。
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画家ラウリーは、その作品にとどまらず、自らの人生の生き方においても多くの人々を惹きつけるものを残した。ラウリーの作品は、彼の生き方と表裏一体であった。それはどのような背景から生まれたものか。その生き様を少しでも伝え、共有してみたい。


References
T.J.Clark and Anne M. Wagner, Lowry and the paintings of Modern Life, Tate Publishing, 2013.
Judith Sandling and Mike Leber, LOWRY'S CITY, The Lowry Centre, 2000.

続く

お知らせ:
このところ、ブログの更改が大変遅れています。取り上げたいトピックスは山積しているのですが、問題整理と入力が遅くなっているなど、ブログ閉鎖の時期もほど遠くないようです。

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時代の空気を伝える画家(1):L.S.ラウリーの生き方

2023年08月21日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



残暑お見舞い申し上げます。

8月も残すところ10日ばかり。しかし、異常気象が常態となってしまった地球では、爽やかな秋はいつのことやら。

熱中症を避けるには、少しでも涼しい室内でスポーツ実況でも見て過ごすのが、有効な消夏法のようだ。

ワールドカップ女子の決勝戦を見ながら、このブログで再三、話題としてきた現代イギリスの国民画家L.S.ラウリー(1887-1976)に関わるお話をひとつ。

今日のイギリスでは大変よく知られた人気画家なのだが、お高いロンドンの画壇筋では、絵はそこそこ上手いが、日曜画家との陰口があるとか。しかし、そうした雑音も最近では画家の圧倒的な人気の前に急速に小さくなっている。今や押しも押されぬイギリス北西部を代表する画家だ。ラウリーが残した膨大な作品を見ていると、映像や音楽では伝えられない時代の空気が目の前に広がってくる。

ブログ筆者がこの画家に格別の思いを抱くのは、ラウリーが多くの批判にも屈することなく、20世紀初めのイギリス産業社会の表裏を淡々と描いてきたことにある。画題の多くはそれまでの画家がおよそ描こうと考えなかった対象であった。画家は1976年に亡くなっているが、その後今日までに整理された大小の膨大な作品を見ていると、現代イギリス社会の貴重な記録になっていることに気づく。写真や文章では知り得ない時代と社会の側面が目前に迫ってくる。美術作品の対象が大きく拡散し、「美」の概念が変化しつつある今、ラウリーの作品は多くの示唆を与えてくれる。これまでの概念では捉え難い「美」の世界だ。

大のサッカーファンだった画家
この画家は生涯を通して大のサッカー(イギリスではフットボールという)好きだった。イギリス人のサッカー好きは、終わったばかりの女子サッカー決勝戦の光景にもよく表れている。スポーツの素晴らしさは、結果が次の機会への向上心を生むことだ。スペインおめでとう! イギリスも、そしてなでしこジャパンも紙一重、健闘をたたえたい。

さて、画家ラウリーの母親は、父親は地元のティームのコーチだったにもかかわらず、あんな乱暴なゲームは大嫌い、考えるだけで頭痛がするという潔癖症の人物だった。

ラウリーが10歳くらいの時、いとこのビリーとベルティは、ラウリーを自分たちのティームのゴールキーパーに据えた。身体を張ってリスクに平然と立ち向かう性格も手伝ってか、ある重要な試合で相手は一点も取れず、ラウリーはヒーローになった。試合後、帰宅したラウリーは泥まみれ。それを見た母親は気付け薬が必要になったほどだったという。以後、ラウリーはいとこたちとは遊ばせてもらえなかった(Shelley Rhode, M is for Match, 2000)。


L.S. Lowry《サッカーを見る》
Shelley Rhode(2000), The Lowry Lexicon


ラウリーは自分の生まれ育った地域を愛した。長じて、地域の貸家業の家賃回収人の仕事をしながら画業を続けたラウリーは、北西イングランドの工場都市マンチェスター、サルフォード近傍で人生のほとんどを過ごした。

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サルフォード(Salford)は、イングランドのグレーター・マンチェスターにあるシティかつ大都市ディストリクトのシティ・オブ・サルフォードの中心エリア。サルフォードエリアの人口は、2001年時点で72,750人で、周辺エリアを含んだシティ・オブ・サルフォードの人口は約21万人。
2000年4月、ここに地域に大きな貢献をした画家L.S.ラウリーを記念して、美術、演劇などの総合文化施設 The Lawry (下掲) が開設された。


正面入り口
(Pier 8 Salford Quays SalfordM5 AZ)
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故郷へ戻った作品
L.S.Lowry, Going to the Match, oil on canvas, 71 x 91.5, The Lowry
L.S.ラウリー《試合を見に行く》

あるべきところに収まった作品
このブログでも取り上げたことのある画家の作品《試合を見に行く》Going to the Match は、1953年に描かれた作品だが、地元のバーンデンパーク・スタディアムでの試合をテーマに画家が描いた多くの作品の一枚である。

この作品、2000年に画家ラウリーを記念して建設された上掲の文化施設 The Lowryが、サルフォードに完成するまで、イギリスのフットボール協会 The National Footballers' Association(NFA)が所有し、随時公的な場で公開されてきたが、地元サルフォードが所有することはなかった。

しかし、財政難に陥った協会が2020年3月クリスティのオークションに出品し、市民の支援もあって記録破りの£7.8mで地元に落札された。そして、作品はThe Lowry のアート・センターの所有となった。サッカー好きなサルフォード市の市長は「これこそ真の勝利だ」と述べた。

今や単にサルフォードを代表する画家に止まらず、イギリス北部を象徴する偉大な画家となったラウリーについては、できうる限り紹介してみたい。日本の美術館で取り上げるところは出てこないだろうか。



Reference
Shelley Rhode, The Lowry Lexicon, The Lowry Centre Ltd, 2001
T.J.Clark and Anne M. Wagner, Lowry and the paintings of Modern Life, Tate Publishing, 2013

「現場へ!:パブでたずねた階級意識 オーウエルの道」『朝日新聞夕刊』連載 2023年8月21日以降
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​写真を上回る絵画の力:L.S.ラウリーの世界

2020年08月09日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



l.S.ラウリー《早朝》 1954
L.S.Lowry, Early Morning, 1954


このブログで話題としてきた画家のひとり、20世紀イギリスの画家L.S.ラウリー(L.S. Lowry, 1887~1976)の評価が急速に高まってきた。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについてもそうだが、日本でも認知度はかなり上がったと思われ、かなり以前からこれらの画家に魅せられてきたブログ筆者としては大変嬉しい。このふたりの画家の作品は、専門書の表紙に使われることが多い。美術書ではない分野の書籍の表紙に使われることは、作品の社会における浸透度を計るバロメータかもしれない。L.S.ラウリーの作品を表紙に使った例はこのブログで以前にも紹介したことがある。

20世紀中頃のイギリス北部の産業革命発祥の地を描き続けた画家L.S.ラウリーはの知名度は、イギリスでも当初はきわめて低かった。中央画壇の地位を誇るロンドンの美術館や画商たちは概してこの画家を、北部マンチェスターの地方画家としか認めていなかった。しかし、長らく忘れられていたり、注目されなかった画家や作品がなにかのきっかけで急に発見されたり、評価が改まることはしばしばある。

テートも認める
L.S.ラウリーの評価が高まった要因のひとつは、2013年6月から10月にかけて、ロンドンのテート・ブリテンで開催された企画展だった。この時期、デートの誇る作品の多くが内外の美術館に貸し出されていて、運が良かったこともあった。いずれにせよ、この企画展を機にL.S.ラウリーへの注目度は次第に高まり、イギリス全土、そして海を越えてアメリカへも及んだ。過去100年近く、イギリスの美術でアメリカ人にアッピールした画家は数少なかった。フランス画家ピエール・ボナール Pierre Bonnard(1867–1947)の影響を受けたウォルター・シッカート Walter Sickert (1860–1942)などは、その少ないうちのひとりだろう。

筆者にとっては、このユニークな画家の作品に触れた契機となったのは、1984年北部サンダーランドでの日産自動車工場の建設当時、イギリス人研究者との現地調査を行ったことだった。現地でのインタヴューなどの合間にマンチェスターなどを訪れた時だった。ダーラムの大学に勤めていた友人の家には、この画家のコピーが掛かっていた。

L.S.ラウリーはマンチェスター西部ストレッドフォードに生まれ、生涯をその地域で過ごした。産業革命発祥の地の光景を一貫して描いたイギリスでほとんど唯一の画家であった。ラウリーは他の画家たちが制作の対象とは考えなかった煤煙に汚れた工業地帯、煙突の乱立する風景、混雑する工場街、そこに暮らす人々の日常、喜怒哀楽などを独特な画風で直截に描いた。特に1920年代、1930年代の光景は暗く、陰鬱な感じを受ける。しかし、見慣れてくると、この画家がいかに故郷、そしてその地で働く人々の生活を愛し、重視していたかがわかる。

産業地域の記録者
L.S. ラウリーは煙突からのばい煙などで汚れた工場地帯を描いたばかりでなく、そこに住む人々のあらゆる場面を画題にとりあげ、工業地域の記録者のような存在となっていた。この画家の作品、当初は稚拙な作品と受け取られる方もおられるかもしれない。しかし、見慣れてくると、写真では捉えがたい地域の人々の日常の陰影が次第に伝わってくる。時代を超えて生き残る稀有な画家のひとりであることはほぼ確かなことだろう。The Economist誌の最近の表紙( UK edition) では、逆にL.S.ラウリーの作品に発想の源を得て、コロナ問題に揺れる現代イギリスをイメージしようとする試みがなされている。イギリス国内で発展が遅れ、忘れられてきた地域の振興政策を扱う特集テーマだ。大変興味深いが、現代産業社会をL.S.ラウリーのレヴェルでイメージし、描くことは至難なようだ。この画家の作品をある程度見慣れないと、テーマのイメージが湧かないかもしれない。




画家の生涯で1945年まで3度の個展開催の機会はあったが、おおきな注目を集めるには至らなかった。しかし、その過程で1955年にロイヤル・アカデミーの準会員、そしてその後会員に選ばれたことを、画家は大きな光栄と思っていた。晩年は仕事も収入も多くなり、恵まれた生活であったが、生涯独身、外国にも旅することなく、地元のマンチェスター近傍の工業都市を描き続けた。L.S.ラウリーが残した多くの作品を改めて見ると、資本主義が生まれた地の原風景が、写真よりもはるかに深い印象をもって今に伝えてくる。


専門書表紙に使われたL.S.ラウリーの作品《早朝》Early Morning, 1954,details

Tim Rogan, The Moral Economists: R.H. Tawney, Karl Polanyi, E.P.Thompson, and the Critique of Capitalism, Princeton: Princeton University Press, 2007








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遠からず来る時を前に(18): 資本主義盛衰の現場を描いた画家

2020年05月07日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

L.S. Lowry, An Industrial Town, 1944, part


新型コロナウイルス(COVID-19)が世界へ持ち込んだ衝撃は、多くの国が見えない敵との厳しい戦争と受けとっている。最も死者の多いアメリカの場合、死者は62,850人(2020年5月1日時点)に達し、9年間に及んだヴェトナム戦争(1964~1975年)での死者数58,220人を越えている。戦争に例えることは適当ではないとの批判もあるが、極めて厳しい事態であることは疑いない。

二つの世界大戦
前回、F.D.ローズヴェルトが「大恐慌」からの脱却に懸命だった1939年9月1日、ドイツと独立スロバキアの同盟がポーランドに進攻したことで、戦争状態となり、イギリス及びフランスが宣戦布告したことで第二次世界大戦の勃発となった。9月17日にはソ連もポーランドに侵攻した。F.D.ローズヴェルトが大恐慌に対する政策手段として企図したニューディールは予期せざる莫大な軍需の発生によって、強硬克服の政策としての民需の独立した効果を見定めることはできなくなった。しかし、20世紀は二つの世界大戦を経験したことで、「危機の世紀」として、人類の歴史に刻み込まれた。

そして21世紀に入るや、9.11、3.11、リーマンショックなどに続き、新型コロナウイルスの世界的蔓延を迎えた。

COVIT-19が変える産業と社会
新型コロナウイルス蔓延の結末が見えていない段階で、すでに「コロナ後の世界」がいかなるものになるか、見取り図を期待する動きが始まっている。日本では当面は緊急事態宣言がいかなる形で幕を下ろすことができるかに焦点が集まっているが、いずれ同様な議論が活発化するだろう。すでに今世紀に入ってから始まっていた第4次産業革命、Version Four, AI革命など様々なタイトルで呼ばれている新たな産業社会のイメージが、COVIT-19後の世界にどの程度継承されるかという問題にも関わっている。

コロナウイルス後の世界については、感染の収束を待って、これからの検討課題となる。この新型ウイルス蔓延以前に描かれていた世界像やイメージは、そのままではつながらなくなった。それほど大きな衝撃が世界に加えられたことは、さらに言葉を要さないだろう。

この点を多少なりと理解するには、現代の資本主義社会がいかなる特徴を伴って展開してきたかについての検討が欠かせない。しかし、その作業はこの小さなブログの課題ではない。ただ、今後の議論に多少なりと役立つと思われる論点、キーワードについては折に触れて記してみたい。

産業革命を描いた画家
ここでは美術のイメージの力を借りて、第一次産業革命以降、資本主義発展の主流となったイギリスに展開した工業化という変化がもたらした状況を克明に描いたL. S. ラウリーという画家の作品を改めて紹介しておこう。すでにこのブログでもかなり立ち入って紹介をしているが、最近日本でも急速にファンが増えてきたことは、大変嬉しいことだ。作品数が多いので、いずれ日本での企画展も実現する日もあるかもしれない。

ローレンス・スティーヴン・ラウリー  Laurence Stephen Lowry (1887年 11月~1976年2月23日 )は、イングランドのストレットフォード(Stretford)に生まれた画家である。その デッサンおよび絵の多くは、英国の マンチェスターのペンドルベリー(Pendlebury)(同地で画家は40年以上にわたって暮らし、創作活動した)、サルフォード(Salford)およびその周辺地域を題材に描いている。

この画家は通常の画家たちが美術制作の対象とみなさなかった工場や炭鉱、そこで働く労働者や家族の日常生活などのあらゆる面を制作対象とした。第一次産業革命(綿織物と蒸気機関が手工業を)および第二次産業革命(電気と石油が大量生産を大きく加速した)の時代がほぼ対象となる。コンピューターが使用され、単純作業を機械化する第三次産業革命は、ラウリーの晩年くらいに動き始めていた。

画家は他に類を見ない独特の絵画製作のスタイルを発展させ、「マッチ棒男」(”matchstick men”)としばしば評される人の姿を描いたことでよく知られている。その画風は一見すると稚拙に見えるが、仔細に見れば地道な努力を重ねた上で体得した、この画家独自のものであることがわかる。ラウリーは、生涯に約1000点の絵と8000点を超えるデッサンを制作した。

ラウリーの作品には、イギリス産業革命発祥の地を中心に、産業革命がいかに自然豊かな農村社会を変貌させたか、産業革命がもたらした変化がいかに大きいかを独特の迫力ある表現で描いている。ラウリーの作品が与える力強いイメージは、写真より迫力がある。見る者に訴える力は大変強い。この画家の描き出した産業の姿、そしてそこで働く労働者、そして家族が日々を過ごす地域社会の喜怒哀楽がラウリー独特の筆使い、彩色で見事に描かれている。産業革命によって土地から切り離され、資本家に雇われ働く以外に生きる道の無くなった労働者の姿が生き生きと描き出される。

ラウリーの作品は、しばしば人間、とりわけ苦難な環境で働き、生きる労働者や家族の日常を描きながら、時に飄々として、ユーモラスな印象を与える。

L.S.Rowry, MAN LYING ON A WALL, 1967

N.B.
ラウリーが残した作品などの文化的な遺産は、サルフォードの「ザ・ラウリー」は、2,000平方メートル (22,000 ft²)の画廊、彼の絵画のうち55点と278点のデッサンなどが納められ、この画家の作品の世界最大の収集・展示場となっている。 

その他、ロンドンのテート・ギャラリーは、23点の作品を所有している。サウサンプトン市は『浮き橋』(The Floating Bridge)、『運河橋』(The Canal Bridge)および『工業都市』(An Industrial Town)を所有する。その他ニュージーランドのクライストチャーチ・アート・ギャラリー・テ・プナ・オ・ワイフェトゥ(Christchurch Art Gallery Te Puna o Waiwhetu)なども画家の重要な作品を所蔵している。

 

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