時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

正しく現実を見る

2009年07月29日 | 書棚の片隅から

 7月28日の全国紙の夕刊そして翌日の朝刊は、2009年度の最低賃金額決定について大略次のように報じていた。

 
2009年度の最低賃金額の改定額の目安が発表された。35県を現状維持とし引き上げを見送り、最低賃金額が生活保護支給額を下回る12都道府県に限って引き上げを打ち出した。その結果、引き上げ幅は全国平均で7~9円と昨年度実績(16円)を下回った。景気後退で産業界の負担に配慮し、賃上げより雇用確保を優先する姿勢を示した。  

 昨年は47都道府県すべてで引き上げを示したが、今回は35県を現状維持とした。昨秋のリーマン・ショック移行の急速な景気後退に配慮した。09年の中小企業の賃金改定率がマイナス0.2%と過去最悪だったほか、失業率も上昇。最低賃金の引き上げの余裕がないと判断した。

出所:「最低賃金上げ、35県見送り」『日本経済新聞』2009年7月28日夕刊
(ここでは、『日経』紙を例にしているが、他の一般紙もほぼ同様な内容の報道である。)

 これを読むと、現在の不況下では、一見やむをえない決定のように読める。しかし、この説明で本当に納得する人は、一体どのくらいおられるのだろうか。新聞は「産業界に配慮、雇用確保を優先」と報じているが、果たしてそういうことになるのか。

 実は、最低賃金の引き上げを実施することが、雇用の減少につながる場合は、他の条件を一定とするというきわめて限られた厳しい前提を設定した特別の場合に限られている。現実の社会ではすべての要因がいわば浮動状態であり、静止していない。現実には、それらの要因を固定化し、賃金引き上げと労働コスト(雇用)に限って、経営あるいは経済への影響を純粋に取り出すことはできない。こうした状況で賃金と労働コスト(雇用)の直接的なリンクを無前提に想定することは、かなり危うい推論だ。

多くの選択肢
 最低賃金を引き上げることで、逆に雇用が増加する可能性もある。高賃金・高生産性が唱えられたこともあった。景気が回復しないかぎり、雇用も増加しないが、賃金が上がらないかぎり、消費も増えない。賃金引き上げが、雇用の減少につながる場合から増加につながる場合を含めて、現実にはかなり多様な可能性(選択肢)があるのだ。

  しかも、仮に最低賃金をこの程度引き上げた場合に、失業が増加することを正確に実証することはきわめて困難なことだ。理論と現実の間には多くの媒介項があり、仮に今回最低賃金率が引き上げられる12都道府県について、雇用の減少が発生したとしても、それが最低賃金引き上げに起因するものか、他の要因によるものか、説得力を持って実証することはきわめてむずかしい。健康診断の際の血液検査のように、早急に結論を出すような標本調査はできない。最低賃金引き上げによって、当該地域に雇用減少という状況が生まれるのは、かなり特別な前提を付した場合に限られる。

 このため、最低賃金の雇用への影響に限っても、欧米でも実証研究の結果は、かなり揺れ動いてきた。それもきわめて厳しい条件を設定した上でのことである。この点は以前にも記したことがある。賃金引き上げと労働コストを短絡して議論することは多くの誤解を生みかねない。 政策効果の判定はきわめて難しく、経験の蓄積が必要となる。

仮説と実証の危険な関係
 最低賃金と雇用の問題に限らず、ひとつの仮説をそのまま現実にあてはめて割り切ってしまうという悪弊は数多い。たとえば、移民を労働力に加えることは、それがそのまま国内労働者の仕事を奪うことにはならない。そうした事態が起きる場合は、特別の状況においてである。同様に、労働時間を短縮することも、現実の社会では必ずしも失業減少にはつながらない。団塊の世代の大量退職が労働力の供給不足と失業減少になるといわれたこともあったが、どれだけ真実であっただろうか。

 男女の採用や賃金面での差別の説明に多用されている「統計的差別の理論」にしても、普遍的な理論ではなく、特定の条件の下で適用されるべき仮説にすぎない。世の中で「差別」という現象を生む要因、メカニズムはきわめて複雑で、単一の仮説で割り切れる場合はむしろ少ない。

 さらに危険なことは、ある小さな仮説とそれに基づく実証と称する作業で得られた結果が、いつの間にか一般化されてしまうことだ。アメリカの専門誌の編集に多少携わって経験したことだが、小さな仮説を立てて、モデルを構築し、それに合いそうなデータを使い、計測結果を出す。そしていつの間にか、その結果が一般的な命題として一人歩きしている。

 世界的な課題である仕事(ジョブ)の創出と消滅の仕組みは、実はかなり複雑だ。いかなる点に問題が潜んでいるか。日本では、たとえば玄田有史さんの力作『ジョブ・クリエーション』(日本経済新聞社、2004年)に、的確かつ精緻に展開されている。

暑さしのぎにはならなかった読書
 これらの問題に関連して、暑さしのぎに(?)、The Natural Survival of Jobsという表題の奇妙さに惹かれて、読んだ一冊がある。最初は比較的軽く読めるかと思ったのだが、読み終わって、かえって暑さが増してしまったような感じがしている。内容は玄田さんの作品の方が格段
に優れていて説得的である。

 しかし、このフランス経済学者(Cahuc and Zylberberg)の作品にも学ぶ点はある。実際に2004年のヨーロッパ経済学賞を受賞している。 この作品(フランス語からの英訳)は、読後感はあまりすっきりしないが、ここに例示したような理論(仮説)と現実の間に横たわる数々の問題点を提示している。大きな本ではないが、大変読みにくい作品で、双手を挙げてのお勧めではない。過度に論争的で、イデオロギーの次元へ傾斜し過ぎているからだ。フランス語からの翻訳にも、問題がありそうだ。

 ただ、読みにくい本ではあるが、労働経済に関わる問題に対する場合、どんなことに注意しなければいけないかという著者の意図はひしひしと伝わってくる。

 ひとつの重要なレッスンは、政府が昨今のように多数の失業者に直面した場合、彼らを雇用の場に戻すためには、きわめて多額な資金とコストを投下しなければならないということだ。失業はひとたびそれが発生してしまうと、その減少のためには多大な支出と犠牲を払わねばならない。失業を経験する人の苦難はいうまでもない。今の世界は、その苦しさをいやというほど味わっている。

 失業をできるだけ生まない経済を創るために、なにをすべきか。現実は仮説の通りに動いているか。別の可能性はないのか。大勢に流されず、時には常識や通念とされることも疑ってみよう。現実は複雑だができるだけ正確に把握する目を養わねばならないと思う。日本の将来を定める大事な選挙を控えた今、次の世代のためにも目前の問題への対応と併せて、広い視野への政策転換を心がけることも必要だ。



Pierre Cahuc and Andre Zylberberg, translated by William McCuaig. The Natural Survival of Work: Job Creation and Job Destruction in a Growing Economy. MIT 2006.

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扉は開かれたか

2009年07月26日 | 移民の情景

  遅ればせながら評価の高い映画『扉をたたく人』The Visitor を見た。移民問題ウオッチャーとしては、見ておきたい作品のひとつではあった。これまでかなりの数の移民にかかわる作品を見てきたが、佳作であることは間違いない。  

  ストーリーについては、すでに新聞映画欄(公式サイト)その他でかなり紹介されているようので、触れることをしないが
9.11以後のニューヨークの光景が興味深かった。たとえば、スタッテンアイランドへ行くフェリーからの景色だ。ワールド・トレードセンターがなくなったマンハッタンの光景は、どこか別の都市のように映る。  

 作品が対象とする状況は、厳しさだけが目立つようになった不法移民への対応だ。ブッシュ政権が果たし得なかった包括的移民政策の暫定状況が生みだしたものだ。アメリカに居住している1200万人近い不法移民のかなりの部分が経験している日常の光景でもある。オバマ政権に移行してから、新たな政策は提示されていない。政策の全体像が欠けている中で、現実の対応は不法滞在者という最も弱い人たちに最も厳しい。幸い数は少ないが、本質的には日本の不法滞在者対策にも通じるものがある。  

 オバマ大統領も就任以来、大不況をはじめとするs難問山積に支持率も低下傾向にあり、移民政策へはほとんど手がついていない。それでも選挙遊説中から公約している以上、秋以降にはなんらかの動きが生まれるだろう。

 タイトルの日本語訳『扉をたたく人』(原題:The Visitor)は、よく考えられたものだが、それでも色々な見方が可能だ。思いがけないことから、自分の心の底深く閉ざされていたものに気づかされる大学教授の主人公ウォルター(リチャード・ジェンキンス)の姿。国際経済学者として「開発途上国と経済発展」の研究に過ごしてきたことに虚しさを感じている。世界は進歩しているのか、それとも後退しているのか。とりわけ、多数の移民を送り出すアフリカの実態を見るかぎり、主人公ならずとも、経済学そして先進国の果たしてきた役割に虚しさを感じる
かもしれない。移民をめぐる状況が、その一端を示している。形式化した学会と同僚との付き合い。これまでの自分の人生はなんであったのか。

  愛する妻にも先立たれ、心の空白を埋めるためにと思って始めたピアノの教習も、60歳を過ぎてはと冷たく告げられる。傷心の主人公は、思いがけないことで知ることになったシリアからの不法移民の青年クレフが演奏するアフリカン・ドラム、ジャンベによって新たな力をもらう。虚ろな心を抱えた主人公が頼るものは、わずかにジャンベだけだった。その響きは閉じたウォルターの心を少しずつ解きほぐす。そして自らも多少関わってしまったことで生まれた友人の苦難をなんとか救いたいと、新たな生き甲斐と力を感じるようになる。青年の母親とのはかないロマンスもそれを支える。

 しかし、その努力が実らないと分かった時、エピローグで主人公が地下鉄のプラットフォームで、人目をかまわずジャンベを打ち鳴らす姿は、なにを暗示するとみるべきだろうか。アメリカで合法市民としての地位を得ている大学教授とは誰も思わないに違いない。気の触れた初老の男がジャンベを叩いているとしか見ないだろう。逮捕されシリアへ強制送還された不法移民の友や、図らずもロマンスの相手となった友人の母親がアメリカへ戻ることはない。友も失った主人公に残されたものは、ジャンベひとつ。これから、なにをたよりに生きて行くのか。

 原題の邦訳は、よく考えぬかれたものではあるが、なぜ原作者は、
The Visitor(訪問者)としたのか。登場する人物の誰もが、この世界で安住の場を持てず、心ならずも漂泊の旅を続けている。国家の厚い壁、そしてそこでは市民といえども、安住しているわけではない。The Visitor(訪問者)は、心の安らぎの場を見出し得ず、あてどなくさまよい歩く現代人の姿でもある。

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セルフ・サービス社会の明暗

2009年07月24日 | 労働の新次元

 

自販機の氾濫
 イギリス人の友人が日本に来て、町中の自動販売機の多さに驚いていた。確かに大都市などでは100メートルおきくらいに、清涼飲料水、コーヒーなど各種のドリンクの自販機が林立している。きれいに管理されているものもあるが、汚れ放題で商品の確認がやっとというものもある。夏には冷たい飲み物、冬には暖かい飲み物など、管理も大変だと思う。

 半世紀近く前に、サンフランシスコで自販機の店オートマット(自動販売機による24時間営業カフェテリア)を経験した時は、なるほど便利なものだと感心した。しかし、入るのは一寸勇気がいる雰囲気だったし、これが食生活の未来の姿のひとつかと思うと、あまりにも味気ない感じを否めなかった。

 その後の日本でこれほどまでに自販機が普及するとは予想しなかった。日本中で、これだけの数の自販機を日夜動かすために、どれだけの発電所が動いていることか。自販機は確かに便利だが、明らかに過剰な設置ではないかと思う。しかし、ほとんど真剣に議論の対象とされたことがない。日本人はあまりにもその利便性に慣れすぎてしまっているのではないか。省エネ、都市の美観という点からも、多すぎる自販機はなんとか適正な配置にできないだろうか。日本に設置されている自販機は、2008年時点で526万台(内、切符など券類自販機は42,800台)との統計がある。

目を見張る進歩
 
日本のように変化の激しい現代社会では、多少のことでは人々は驚かなくなっている。鉄道などの駅の改札口に駅員の姿が見えなくなって長い年月が経過した。銀行へ行っても、かつてのようにカウンターで行員と話す機会は激減した。ほとんどの仕事は、ATMですんでしまう。最近の自動改札のシステムなど、確かに画期的だ。あの磁気カードの認識の早さは驚異としかいいようがない。大都市ラッシュ時の雑踏など、とても人手では対応できない。日本のような大量輸送システムが発達していないイギリス人の友人は、ラッシュ・アワーの駅頭の改札状況を見て仰天し、写真を撮っていた。

  失業が深刻化すると、ひとつの原因として、仕事が中国や東南アジア諸国など低賃金の国へ流出しているとされる。たとえば、アメリカ人にはそうした考えを持つ傾向が強い。しかし、そればかりではない。機械化・ロボット化を通して、顧客へ仕事を肩代わりするセルフ・サービス化が進行している。しかし、その評価はなかなか難しい。

セルフサービス化の評価
 高齢者は機械操作が苦手な人が多く、窓口で係員と対面で用事を済ませたいと思う人が多いようだ。ATの前で立ち往生している高齢者をよく見かける。年金受給日の郵便局の窓口などは長蛇の列だ。他方、若い世代は機械に慣れており、対面での処理はむしろ煩わしいと思うのか、自分でやることを選択する。

 自動化は確かに設置側には有利だ。最近はスーパーマーケットでも、レジに並ばず、顧客が自らバーコードを機械にかざしてチェックアウトするセルフ・スキャンニング・レジ・システムを導入するところも現れた。1台の機械は従業員25人分の仕事をするという。しかし、レジ係の人と話をするのを楽しみにしている客も多いようで、予想したほど普及しないらしい。オックスフォードのスーパーの店先の片隅で、毎朝紙コップでコーヒーを飲みながら、世間話をしている高齢の人たちを見ていた。きっと一日で、ほとんど唯一話をすることができる時間なのだろう。

 日本の労働力が急速に減少してゆくことを考えると、機械化は不可避でもあり、望ましいことかもしれない。しかし、セルフサービス化は、消費者にかなりの努力を要求する。最近は機械の画面表示などもかなりわかりやすくなったが、対応に苦痛を感じる人々も多い。

 ガソリンスタンドでも、セルフ・サービス化が浸透するかに思えたが、2割程度らしい。撤退もあると聞く。10年ほど前、イギリスで暮らした時に最初は面食らったが、すぐに慣れた。セルフ方式しかないとなれば、否応なしに使わざるをえない。

 こうしたセルフサービス化の結果は、なにをもたらすのだろうか。セルフサービス化によって消費者に転嫁された努力の部分は、いかなる形でサービス価格の低下に反映するだろうか。「セルフサービス化社会」については、かなり以前から語られているが、雇用との関連でも多くの問題が未検討のままに残されているように思われる。


 

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ハドソン川探検記念日

2009年07月21日 | 回想のアメリカ

 

 少し旧聞になってしまうが、7月4日はアメリカ独立記念日だった。さらにあまり知られていないが、この日はニューヨーク市にとっても特別の日であった。あの航空機着水全員救出の出来事で有名になったハドソン川の探検記念日だ。

 北米大陸で知名度の高い河川というと、西の方では怒濤のごとき赤い水で知られるコロラド川、中南部ではマーク・トゥエインの川として知られる滔々と流れるミシシッピ川、東部へ来ると、ハドソン川ではないだろうか。アメリカ・カナダの国境を分けるセントローレンス川も、大変興味深い川だ。とりわけ、ハドソン川とセントローレンス川は、4世紀近いアメリカの歴史と文化に深く関わってきた。

 ハドソン川については、セントローレンス川と共に、特別の思いがある。世界の著名な河川では、ほとんど唯一河口から源流に近いところまで流域を
旅をした経験があり、多数の思い出が残っている。この二つの川がアメリカ経済史に果たした役割はきわめて大きい。その一部はブログにも少し記したことがあるが、幸い興味深いことがかなり記憶に残っている。少しずつ記すことにしよう。

五大湖、大西洋へつながる水運
 ハドソン川を河口から遡って行くと、小さな運河の開鑿などによって、オルバニー、トロイなどを通り、セントローレンス川経由でモントリオール、ケベックまで水路で旅することができる。具体的には、南の方から、ハドソン川の主流を経由し、シャンプレイン運河、リシリュー川、シャンブリー運河を航行して、セントローレンス川へとつながっている。
 
 
セントローレンス川の河口付近はヴァイキングが、ハドソン川の河口付近はイギリス、スペイン、ポルトガルの漁船などが、1400年代に発見していたのではないかと推定されている。1524年にはフランス王に雇われたイタリア人航海者ジョヴァンニ・ダ・ヴェラザーノ Giovannni da Verrazano が,ニューヨーク、ロードアイランドなどの沿岸を航海したようだ。彼の名前はニューヨーク、ハドソン川の河口の大橋梁の名前として残っている。

 ハドソン川の河口は、世界最長の橋といわれるヴェラザーノ橋 Verrazano Narrow Bridge、自由の女神像などで著名だが、河川としての計測の基点は、上流へ少し遡ったPort Imperial Marina というマリーナに置かれていて、ここから上流に向かってプラス、下流に向けてマイナスとして計られている。

 

 マンハッタンの河口から、ケベックまでは水路で568マイルほどの距離だ。ハドソン川は大変変化に富んだ河川であり、その流域は産業革命期以来の多くの企業、史跡、そして自然の美しさに恵まれていて、さながらアメリカ史の一齣一齣が刻み込まれているような思いがする。

 

ヘンリー・ハドソンの航海 
 17世紀初め、オランダ東インド会社はイギリス人
探検家ヘンリー・ハドソン Henry Hudsonを雇い、1609年中国に向けて北西海路の探検を依頼した。当時の探検家といっても多くは一攫千金の野望に駆られた人物も多く、他方新大陸をめぐる各国の利権が渦巻く時代だった。ハドソンは新たな海路の発見には失敗したが、ハドソン川の探検を行った人物として後世に名を残すようになった。ハドソン川、セントローレンス川流域の探検については、ジャック・カルティエ、サミュエル・ド・シャンプレインなどが探検家として知られていて、それぞれ今日にその名を地名にとどめている。

 ハドソンは1609年にこの川をさかのぼる探検行を行い、後に彼の名は川の名前として歴史に残ることになった。しかし、実際にはカルティエ、シャンプレインなども、ほとんど同時期に探検していた。大変興味深いことに、シャンプレイン(Lake Champlainとしてその名が残る)は、ハドソン川を北から南に向けて、そしてハドソンは南から北に遡行しており、その差はほとんど2ヶ月くらいだったらしい。北米の植民時代、ハドソン川流域は、ポルトガル、フランス、オランダ、イギリスなどが競って探検する地域であり、激しい探検競争を行っていたのだ。

 これらの探検家たちによる航海は、狐、鹿、ラッコなど高価な毛皮や木材の交易につながり、オランダの場合は、ビーバーウイック 
Beverwick(今日のオルバニー)に最初の拠点を置くことになった。
 
開発と汚染
 ハドソンは、この川は魚類が豊富であり、沿岸の植物や森林も大変美しいことを見出した。その後、ハドソン川の開発は急速に進み、多くの環境破壊もあった。沿岸に発達した企業は、ハドソン川を廃棄物の投棄場所に使った。ある時期、ハドソン川のある流域には魚などの生物が一切生息しえなくなったこともあった。確かに、何度も訪れたが、上流の一部を除き、水がきれいな川という印象はない。

 1960年代には、環境保全の監視者などが、状況改善の努力を始めた。1972年にはクリーン・ウオーター法 Clean Water Actが制定され、汚染を禁止した。1984年には連邦環境保全局が、ハドソン川の流域200マイルをスーパーフアンド・サイトとして、特別の配慮を必要とする地域とした。こうした努力の結果、ハドソン川の景観は改善され、魚類も戻ってきた。一時はいなくなったハゲタカも、沿岸に巣を作るようになった。魚卵がキャヴィアとして珍重されるちょうざめの養殖を開始した記事をどこかで読んだ記憶もある。

 しかし、問題が解消されたわけではない。流域のウエスチェスターWestchester にはインディアン・ポイントといわれる原子力発電所がある。この発電所は、一日95億リットルの川水を冷却水として使用する。発電所が使用した水は、再びハドソンに戻される。しかし、河川の監視者によると、この温水によって多くの魚類、オタマジャクシ、魚卵などが生息できなくなったといわれている。発電所側はそうした事態は発生していないとしている。また、温度ばかりでなくPCB、発がん性のある毒性の化合物などが流域から流れ込んでいる。

 ニューヨーク市の下水処理システムもかなり老朽化し、豪雨などがあると対応できなくなってきた。そして近年ハドソン川の評判は低迷していた。あの奇跡的な航空機着水の快挙は、ハドソン川の存在を世界に知らしめた出来事となった。

 正確にいうと、ハドソンはこの川を最初に発見したわけではない。いうまでもなく、数千年にわたり先住民族のアルゴンクイン族とイロクオイ族がこの地域に広く展開して居住していた。実際には数百の部族がいたようだ。 

 今年9月には、ハドソンの探検船 Half Moon(二本マストの帆船) のレプリカが建造され、ハドソン川探検の再演がなされることが予定されている。


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薄れた自然への畏敬の念:大雪山系遭難の悲劇

2009年07月19日 | 雑記帳の欄外

Photo: YK 


 大雪山系の遭難事故の報道を見ながら考えたことがあった。比較的最近、この山系の一部に登った。いや
登ったというよりは、中途で登頂を断念したというのが正確だ。

 今回事故を起こしたツアーの出発点となっている旭岳温泉から登り始めたのだが、気候の変化、体調などを考え、途中で登頂を断念、引き返した。ロープウエイなども平常通り動いていたが、かなり濃い霧で視界がさえぎられたり、絶えず天候が変わっていた。ほとんどの人は遠路はるばる訪れたこともあってか、あきらめずに登っていた。引き返すことに多少の未練は残ったが、さほど残念とは思わなかった。

 数分前までは晴れて青空も見えていた山容(上掲)が、見る見るうちにこの下の写真のように濃霧で見えなくなる。夏とはいえ温度は急速に低下して寒い。あたりには雪渓が多数残り、雪解けも進み、登山道を踏み外すとかなり危険だ。



旭岳に残る雪渓

 最近は情報の氾濫、商業主義の弊害などで、山岳、河川など自然への畏敬の念が薄れているのではないか。道路、ロープウエイなど交通手段の発達によるアクセスの平易化、登山者の基礎体力の低下、経験不足などで、危機への対応能力が落ちているのではと思う。登山に限ったことではないが、未知の分野の試みには、常に起こりうる最悪の事態への備えをしておくことが欠かせない。

 

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裁判官と国民の距離

2009年07月17日 | 回想のアメリカ
 

 アメリカという国を知るにつれて、いくつか驚いたことがあった。それは最高裁判事について国民が大変よく知っていることだった。どの判事がいかなる思想傾向を抱き、どんな判決をしてきたかということについて、多くの国民がかなりよく知っている。それは、日本人が最高裁判事について抱くものとは大きく異なっている。

 7月13日、オバマ米大統領が最高裁判事に指名したソニア・ソトマイヨール氏Sonia Sotomayorの指名承認公聴会の実況中継を見た。第一日は、与えられたほぼ七分間に、判事が自分の経歴、法曹としての考えなどを述べ、その後に続く審問の枠組みを提示する。

 どこかに欠陥はないかと、あれこれ詮索し意地の悪い質問をする議員の前で、自分の生い立ち、判事としての考えを正々堂々と述べる姿は感動的だ。小学校3年までしか行けなかった親たちのこと、自分は努力してプリンストン大学からイェール大学法科大学院を卒業し、判事になったこと、弟もがんばって医学部へ入学したことなどを淡々と語る。

 より具体的にはソトマイヨール氏は、検察官、企業訴訟当事者、連邦地方裁判所判事を勤め、10年前に連邦控訴裁判所第2巡回区・NY(NY,コネティカット、バーモント管轄)に加わったことを述べ、判事としての地裁、高裁などでの実績、そしてオバマ大統領の指名を受けて最高裁判事への道が開かれつつあることを冷静に説明する。自分の歩んできた道は戦いのようだが、そこに希望を見出していると述べる。そして、判事としての自分の使命は憲法の擁護にあると語る。

 公聴会二日目、ソトマイヨール氏は、「経験豊かな賢い中南米系女性」が白人男性より優れた結論を出すことを望む、と語った2001年の発言について真意の説明を求められた。この発言はヒスパニック系を中心とする法学部学生に向けた演説の一部だった。上院議員、とりわけ共和党員は、これまでのソトマイヨール氏の片言隻句をとらえては、人種的偏見があるのではないかと詰め寄る。しかし、彼女はまったく動ぜず、淡々と回答する。

 ソトマイヨール氏は自分の発言がこれほど注目されたことはないと述べ、「適切な裁きを下すうえで、人種や民族、性別が有利にはたらくとは信じていない」と明言する。女性初の最高裁判事に就任したサンドラ・デイ・オコナー氏の「賢く公正な判事になる能力を、男性も女性も同等に有している」とほぼ同じ見解を表明しようとしたものの、表現が不適切だったことを認めた。司法哲学について聞かれても、法律への忠誠が自分の志すところであるとして、政治活動的な判事ではないと答える。 

 最高裁判事としての人間性、法曹としての基本姿勢をさまざまにテストされる。どこかに判事としての欠陥はないだろうかと、猜疑心と策略が潜んだ意地の悪い質問が次々と発せられる。しかし、そうした挑発的な質問にも平静さを失わず答えるこの女性は、実に立派であった。テレビを見ている国民にも、物事に動じない冷静な判事であり、公平な審理ができる人物であることが伝わってくるようだ。上院公聴会という舞台設定ながら、そこには国民との交流・対話があることを感じさせる。

 その感動的な情景を見ながら、やはり日本のことを考えてしまう。この国では最高裁判事は、いつの間にか、どこからか任命され、決まってしまう。任命に際して、国民の前での法曹としての見識の開陳など一切ないのだ。固定した枠内で退職者などが出れば、ただそれを埋めるだけである。ほとんど天下りの場と化しているといってもよい。

 建前の上では、最高裁判所の裁判官は、識見の高い、法律の素養のある年齢40年以上の者の中から任命することとされ、最高裁判所裁判官は、下級裁判所の判事、弁護士、大学教授、行政官・外交官から「バランスよく就任するよう配慮される」とされており、前任者と同じ出身母体から指名されることが多い。

 そこには国民との対話などまったくなく、存在する距離感は絶望的に大きい。国民裁判員制度がスタートしたが、制度が国民の心の中にしっかり根を下ろすには、最高裁判事の任命の実態ひとつを見ても、あまりに深い溝があることを感じないわけにはゆかない。
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上を向いて歩こう!

2009年07月14日 | 労働の新次元

白馬の大雪渓を登る人々(友人R.E氏のご好意による)。
雪渓上に蟻の列のようにみえるのが登山者です。  



  就職ガイダンスにかかわるNPOや奨学金基金のお手伝いをしていることなどもあって、転職・就職の相談を受けることが多くなった。大学院進学など新たな充電の機会を考える人もいる。現職とはまったく異なる職業分野への転換を目指す人もいる。ほとんどが、20歳台後半から30歳代、「キャリア形成の半ば」、いわゆる mid-careerの人たちだ。なかには40歳台に入って、転身を考える人もいる。学校を卒業、社会に出て、さまざまな壁や限界を認識した人たちが多い。壁を乗り越えたり、回避しようと考えての転進だ。こうした転換は、これまでの世代にもなかったことではない。かくいう私も同じ経験をした。転職をするなどと告げると、奇異な目で見られた時代だった。しかし、いまや転職経験が無い人の方が珍しいかもしれない。  

 仕事を求める人、とりわけ若い世代の人たちは、これからどこを目指すかということをよく考える必要がある。目先にとらわれず、少なくもこの先5年、10年先を見通す努力が必要になっている。神ならぬ身、われわれに未来が読めるわけではないが、人生設計として目標があるとないとでは日々の過ごし方が大きく異なる。目前のことだけに心を奪われ、振り回されていると、いつか再び同じ苦しみを背負うことになる。人間は追い詰められるほど、視野が狭窄化してしまう。  

大きく変わる産業イメージ 
 グローバル大不況というと、ともすればその暗く陰鬱な側面だけが目に映る。しかし、反対側では今まで見たことのない新たな側面が姿を見せている。産業構造の変化はかつてなくドラマティックだ。競争力を失った企業、産業が、朽ちた大木が折れるように消えて行く。デトロイトの風景は様相一変した。他方、ひこばえのように、新しい産業が生まれている。   

 かつて存在した仕事のある部分は、景気が上昇軌道に乗っても戻ってこない。たとえば、20世紀後半の産業界を支配していた自動車産業が消え去ることはない。しかし、少なくもこれまでの自動車産業の輪郭をイメージするかぎり、ひとつの時代が終わったことは確実だ。あの膨大な下請け企業群を傘下に擁するピラミッド型産業組織は大きく変わりつつある。一世紀近くを支配したガソリン・エンジンの時代も遠からず終わる。自動車産業を構成してきた部品・関連産業の様相は激変、必至だ。ミクロで近づきすぎるとかえって分からなくなるが、ある距離を置いてみるとその変容の速度に驚かされる。最初にデトロイトを訪れた頃は、その壮大な光景に驚かされたが、その後の荒廃の速度は想像以上だった。 

 他方で新しい産業がすでにその姿の一端を見せ始めている。医療、環境関連、教育などだ。この領域では不況にもかかわらず、新しい仕事が生まれている。大不況の渦中にあって、多くの先進国の雇用政策は、未だ暗中模索だ。その多くは目前の現象に強く束縛されている。失業者を以前の仕事に、少なくとも類似の仕事の機会に戻すという発想が根強い。しかし、長らく経済活動を牽引してきた自動車、電機、素材などの産業は、基盤が大きく揺れている。修復されるにしても、かなりの時間がかかる。  

資産の棚卸し 
 自分の持っている知識、技能はなにか。身につけた資産の棚卸しが必要なのだろう。これからの人生、どこを目指して生きて行くか。自分がやりたいことで人生を送れるならば、それは最も望ましいことだ。仕事に積極的に打ち込むことができる。働きがいは生きがいとなり、技能も身につく。しかし、その仕事はあなたのこれからの人生を支えるに十分なものだろうか。一生続けるだけのやりがいを感じられるか。これらの点を見定めることが必要だ。  

 そのためには、多くの人の意見を聞くこと、とくに人生の年輪が深い人、多くの労苦を経験した人の考えを聞くことは有効だ。単に聞くばかりでなく、疑問と思うことを納得するまで議論してみることだ。もちろん、最後は自分が決める。

自分の人生:よく考える 
 目標が定まれば、そのためになにをすべきか。時には、回り道をすることも必要だ。充電のための資金と時間を蓄積する、不足している知識と技能を習得するなど、やるべきことは多い。一人の人間に与えられる時間は有限だ。自分が本当にやりたいことを、少しでも早くスタートしておくことが後悔が少ないように思える。若いときほど、展開の可能性が広く大きい。歳を重ねるごとに、自分のできることの限界が見えてくる。これまでの自分自身の人生を振り返ってみても、かなりの紆余曲折を経験した。しかし、無駄な時間を過ごしたとは思っていない。苦労した時代の経験の方が今に生きている。他の人とは異なった経験を積んだということが、むしろ自分の強みだと思えるようになった。学校で学んだことよりも、他の機会に得たことの方が圧倒的に力になった。多くのキャリア形成にとって、学校の与えてくれるものは限られている。社会から学ぶことはきわめて大きい。 

 若い人たちと話をしていると、時々自分の過去をリセットしたいという感想も聞かされる。しかし、コンピューターの工場出荷時のように、白紙の次元へリセットできないのが人生だ。自分が身につけたものを再点検し、経験をプラスに生かすこと、それが次の段階への踏み台になる。過去は人間を次の段階へ押し上げる礎石となる。過去にとらわれず、上を向いて登ってほしいと思う。

「われわれは過去を振り返るのではなく、未来を見つめるべきだ」(バラック・オバマ)

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われわれは長く生きすぎたのか

2009年07月10日 | 労働の新次元

Photo: YK


人生の3段階

  現代に生きるわれわれの人生は、概して3段階から成っている。第一段階は、この世に生まれてしばらく過ごすフォーマルな「教育の時代」だ。義務教育を終えてから高校、大学、さらに大学院まで行く人もいる。第二の段階は「仕事の時代」となる。仕事の内容は、当然人によって異なる。時間的には最も長い。個人差があるが40年前後だろうか。そして、第三の段階は「引退・趣味の時代」だ。それまで働き続け、疲れた心身を癒し、自分の時間を楽しむ時だ。Third Wave「第3の波」の時期という表現もある。

  「ハッピー・リタイアメント」という言葉があるように、西欧社会では、多くの人がこの時が来るのを楽しみにしている。人生の醍醐味は、この時期にあると考える人々も多い。仕事や育児などに忙殺され、失われていた自分の時間を回復できる貴重な時だ。50歳台で退職する人も多い。  

 ところが、近年様相が変わってきた。多くの国で長寿化と年金財政の負担増で、年金支給年齢が引き上げられ、対応して退職の年齢も高まりそうだ。退職しても公的年金など資金的裏付けがなければ、第三の段階も人間らしく生きられないからだ。

年金は長寿のご褒美
 歴史的には、ビスマルクが1989年、70歳以上の国民に年金導入をした時、プロシア国民の平均寿命は45歳だった。年金は長生きをしたご褒美のようなものであった。状況はイギリスでも同じだった。1908年、ロイド・ジョージがイギリスの70歳になった貧困者に週5シリングを与えることにした時、貧困者で50歳まで生きられた者は幸運に恵まれた稀な存在だった。そして1935年、アメリカが社会保障システムを導入した時、公的な年金支給年齢は65歳だった。当時のアメリカ人の平均的な死亡年齢は62歳だった。年金財政は安定し、国家はなにも心配する必要がなかった。

 今日、OECD諸国では私的年金は別として、GDPの7%以上を公的年金が占めている。2050年にはこの比率は倍増するとみられる。国家財政にとって年金などの社会保障費用は、きわめて大きな負担となっている。高齢化の進行は労働力不足を生み、そのためにも経験のある高齢者に働いてもらうという動きも進行している。すでに日本のように60歳代後半、時に70代初めまで働いている国もある。団塊の世代の大量退職問題も、憂慮されたほどの大問題とはならなかった。引退したいと思う年齢は、国民性、職業などでかなりの個人差がある。アメリカでも40歳台、50歳台で退職することを楽しみにしていた時期があった。しかし、今では60歳代初めへと移ってきた。

死ぬまで働くしかない時代?
 かつて多くの国で、第二の段階、「仕事の時代」を終えると、人々に残された年数はほとんどなかった。多くの人が死ぬまで働いていた。長寿化によってやっと与えられた黄金の「第三の段階」だが、その基盤は大きく揺れている。 待ちに待った引退の時代を楽しみたいという人々にとっては、年金支給年齢が引き上げられたり、定年年齢が引き上げられたりすれば、期待を裏切る展開となる。「第三段階」への移行の仕組みをいかに設計するかは、きわめて重要な意味を持つ。アメリカのように民間部門の強制定年制を年齢による差別として禁止した国もある。他方、段階的引退の仕組みに期待する国もある。デンマークのように年金支給年齢と平均寿命をインデックス化してしまった国もある。

 国民の平均寿命が長くなったとはいえ、個人の寿命は神のみぞ知る。定年という暦の上の年齢で強制的に労働力から排除する仕組みは、年齢による差別の視点を待つまでもなく、最善の選択ではありえない。自らの意志で人生を選択する自由度をどれだけ
回復、維持できるか。限りある人生の時間、いかに生きるか。根源的な課題が戻ってきた。



Referece
‘The end of retirement.’ The Economist June 27th 2009

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あるイギリス夫人の生き方

2009年07月06日 | 午後のティールーム

余市のウイスキー博物館ステンドグラス

 

  静岡県知事に川勝平太氏が当選したTV
ニュースを見ていると、思いがけないことが記憶によみがえってきた。オリーヴ・チェックランドさん(Mrs. Olive Checkland)のことだ。ケンブリッジとグラスゴー大学の著名な経済史学者であったシドニー・チェックランド教授の夫人であった。負傷で健康に恵まれなかった夫を支え、長年にわたり研究の助手として生活や調査を助けてきた。夫妻共著としての作品も多い。


 1986年夫君の死後、イギリスと日本のつながりに関する研究、執筆に没頭し、立派な業績を残された。たまたま94-95年ケンブリッジ滞在時に知己を得て、ケンブリッジそしてセラダイクの静かなお宅に何度か招かれ、アフタヌーン・ティなどを楽しむ機会を得た。

 その当時、最初の頃の話題のひとつとして出てきたのが、チェックランドさんが著されたIsabella Bird and a Woman’s Right: To do what she can do well であった。その翻訳(『イザベラ・バード 旅の生涯』(日本経済評論社、1995年)をされたのが川勝平太氏の夫人、川勝喜美さんであり、完成したばかりだった。

 当時、チェックランドさんは、日本のニッカ・ウヰスキーの創始者であった竹鶴政孝(1894-1979)の
生涯について調査と執筆をされており、お茶をいただきながら話し相手になって、文献探索などで多少のお手伝いをした。竹鶴は北海道からグラスゴーへウイスキーの醸造を学びに行き、そこで生涯の伴侶となったリタに出会い、周囲の反対にもかかわらず、1920年に結婚、帰国して1934年に北海道余市に後年「ひげのウイスキー」で知られるニッカ・ウイスキーの醸造所を設立したことで知られる*。

  チェックランドさんは当時70歳台半ばでいらしたが、知的活動はきわめて活発で、さまざまなことに関心をもたれていた。とりわけ、日本の明治期の歴史に造詣が深かった。初対面の時から大変親しくしていただいたのであまり感じなかったが、イギリス人にとってはある威厳が漂うのか、The Times Obituary(「タイムス」紙追悼録) *2 によると、ファーストネームではなく、Mrs.Checklandと呼ぶ人が多かったらしい。高齢になっても、自分の信念をしっかりと確立されていたことがそうした雰囲気を感じさせたのだろうか。しかし、優しい方で決して近づきがたい人ではなかった。

 チェックランドさんの調査研究をお手伝いして感じたことは、長年の研究生活の中で身につけた流儀をしっかりと守っていたことだ。トピックスによって、色の異なる手漉きの用紙を使い、重要と思うことはしっかりとメモをとっていた。すでにPCもかなり普及していたが、ノートについても自ら書き留め、自分流のやり方をしっかりと保持していた。2004年に84歳で亡くなられたが、最後まで知的好奇心と親切な心を維持され、私の人生でも心に残る素晴らしい方の一人だ。



Olive Checkland. Japanese Whisky, Scotch Blend: The Japanese Whisky King and His Scotch Wife Rita、(『リタとウイスキー―日本のスコッチと国際結婚』 和気 洋子 (翻訳) (日本経済評論社、1998年)


*2 現在は自動的アクセスはできません。

コメント (6)
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アメリカ人は学校嫌い?

2009年07月03日 | グローバル化の断面


マーク・トゥエイン『ハックルベリー・フィンの冒険』初版(1885)の口絵
  



  グローバル大不況がもたらした経済活動の下降も、ようやく下げ止まり、底を打ったのではないかとの観測が生まれている。景況感も改善の兆しがあるようだ。しかし、日本、アメリカ、EU、いずれをとっても労働市場の停滞は厳しい。アメリカの6月の雇用統計は、非農業部門の雇用者数は前月から46万7000人減少し、予想を大きく裏切ることになった。失業率も9.5%と前月より悪化している。早期に改善の兆しはない。

 こうした中、アメリカでひとつの論争が生まれている。小学校、中学校などの義務教育課程で、アメリカは他国と比較して授業日数が短いのではとの問題提起だ。アメリカの学校は通常月曜日から金曜日までの午前中と午後の早い時間だけ授業が組まれ、夏の間は3ヶ月間、夏期休暇になる。この長い休暇も問題視されている。しばしば、ヨーロッパ、とりわけフランス人の長いヴァカンスを茶化しておきながら、お膝元の状態には気がついていないようだ。

 平均的な子供たちはこの休暇の間に、授業の1ヶ月分に相当する成果を忘れてしまう。数学については、ほとんど3ヶ月分の成果が消えてしまう。学者の間では「夏期の学習ロス」”summer learning loss” とまでいわれている。さらに、授業が終わった後の長い休暇に、裕福な家庭では父親が子供を教えたり、家庭教師をつけたりできるが、貧しい家庭ではそれもできず、結果として貧富を背景に知的格差が拡大してしまうとの議論まである。

 さらに、国際比較をしてみると、子供たちの学力という点では、アメリカは、中国、韓国などアジアの子供たち、さらにヨーロッパの多くの国々と比較しても、遅れているとの指摘がなされている。カリフォルニアの州立大学では大学の水準を維持するために、新入生の3分の1近くを英語と数学の補習に当てねばならないという事態まで生まれた。

 オバマ大統領も事態を憂慮し、アメリカはもはや「日の出から日没まで、子供たちも親たちと一緒に畠を耕していたような農業中心のカレンダーではやっていけない」と述べ、改善の必要を求めている。さらに、「中国やインドの子供たちは、アメリカ人の子供よりもアカデミックだ」との指摘さえある。

 公立学校の中にはオバマ大統領などの要請を受けて、学年暦を変更し、月曜から金曜日まで朝7時半から夕刻5時まで授業をし、時には土曜日にも授業をするという方針に切り替えようとする学校も生まれている。夏期休暇も2週間程度短くする。アメリカの良い所は、悪いとなると改めるのが早いことにある。しかし、こうした決断に踏み切った学校の数は未だすくない。

 アメリカ人の多くは、こうした変化に乗り気ではない。教員組合などの利益集団の反対も強い。さらにサマー・キャンプ産業なども、商売の機会を奪われると反対している。

 そればかりではない。アメリカには公教育に乗り気ではない文化的風土があるとの説がある。ひとつはセンチメンタリティだ。アメリカ人の子供の原型はハックルベリー・フィンにあるという。彼は学校には余り行きたがらなかった。ハック・フィンは村の浮浪児で、基本的にひとり独立して生活し、社会の秩序に縛られず、自然のままに自由に生きる少年というイメージがある。学校よりは家庭、家庭より個人という流れだ。

 もうひとつは自己満足だ。アメリカの親たちは授業日数を7月、さらに8月まで延長することに抵抗する。父親の負担となりがちな宿題の増加にも後ろ向きだ。しかし、親たちは、教科書にしがみついて懸命に勉強している中国人が、将来自分たちの子供の仕事を奪うのだということを信じがたいようだ。現実はすでにはるか先まで進んでいる。シリコンバレーの企業の半分近くは、インド、中国人など外国人によって創業されたものだ。高い専門性、技能を持った移民労働者の頭脳なしには、アメリカの競争力は維持できない。

 ハックルベリー・フィンは、1885年の出版だ。農業、そして工業の時代は、終わりを告げている。肉体労働は依然として必要とはいえ、そのウエイトは大きく減少した。一日の仕事の終わりに、残った仕事をインターネット上で地球の反対側に送って作業を頼み、翌朝オフィスでその結果を受け取ることが可能な時代だ。

 他方、1980年代、「会社人間」「働き中毒」workaholic とまで揶揄され、世界一の勤労意欲の高さを自認し、義務教育の充実と成果を誇った日本だが、その後国際的にもランキングが急低下している。ハックルベリー・フィンのようなロール・モデルも見あたらないこの国では、教育のあり方についての国民的議論はきわめて少ない。初等・中等教育から大学・大学院まで含めて、日本の教育内容は劣化が著しい。教育水準の低下は、さまざまな次元での国民の議論の質的レベルダウンをもたらしかねない(実際、政治家先生?の低次な議論、どうにかならないかと思うことが多い)。就活のために、週日教室に出ず、会社を駆け回っている学生の実態ひとつをとっても、その影響は「夏期の学習ロス」どころではない。こうした問題ひとつ解決できないことに、関係者は大きな反省をすべきだろう。教育は国の将来を定める。アメリカの議論は対岸の火ではない。

 

 



Reference
“The underworked American” The Economist June 13th 2009.

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