時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

17世紀から19世紀を歩く:コートルード美術館展:魅惑の印象派への道

2019年11月26日 | 午後のティールーム

 

 

 

最近では、よほどのことがない限り、一日に二つの美術館、美術展を訪れることはない。国内、国外を問わず、午前と午後にそれぞれ別の美術館を訪れることは、多くの場合、ロケーションの点でもほとんど不可能だ。見る点数も多くなり、印象も希薄になる。なによりも、最近では体力的に厳しくなってきた。ひとつの美術展では、3時間が限度だ。かつてはほとんど一日メモを取りながら館内にいたこともあった。しかし、上野公園の場合は、多くの美術館が集中していることもあって、複数の美術館、博物館を訪ずれることは不可能ではない。晴天にも恵まれ、今回は「ハプスブルグ展」に続き、午後に東京都立美術館で開催中の「コートールド展」(~2019年12月15 日)を歩いてまわった。

 

イギリスにおける印象派の殿堂
コートールド・ギャラリー・コレクション THE COURTAULD GALLERY COLLECTIONとは英国ロンドンのウェストミンスター地区にある美術館のコレクションだ。厳密にはロンドン大学附属コートールド美術研究所 の美術館であり、サマセット・ハウス内に設けられている。比較的小規模なギャラリーであるが、印象派のコレクションは非常に質が高い。ブログ筆者もイギリスに滞在中、2度ほど訪れたことがある。これが美術館と思うほど、雰囲気が素晴らしい。冬に行った時は、中庭にアイスリンクが出来ていて、人々がスケートを楽しんでいた。

コートールド美術研究所は、ロンドン大学を構成するコレッジのひとつで、美術史に特化した教育および研究を専門とする機関であり、美術史研究および保存修復に関して世界最高の研究機関のひとつに数えられている。

今回の展示作品はマネ、ルノワール、ドガ、セザンヌ、ゴーガンなど印象派の巨匠たちの名作が多く、これだけ日本へ来てしまうと、本拠のロンドンの方はどうなっているのかと思ったら、大改修のために他の美術館へ貸し出したらしい、これだけ一度に傑作を見られるのは日本の愛好者にとっては見逃せない好機だ。ここだけで、印象派の精髄を知ることができると思うくらい有名作品が目白押しに並んでいる。

富豪の社会貢献
印象派があまり好まれなかったイギリスにこれだけの作品が集まったのは、やはりコートルード家の貢献があったからだ。同家は17世紀フランスでの迫害を逃れてイギリスに移住したユグノー一族の末裔である。最初は銀細工師として名をなしたが、その後、18世紀末に絹織物業に転業した。20世紀初頭には家族経営で「人絹」 あるいは「レーヨン」として知られる革新的な人工繊維「ビスコース」の製造に乗り出した。コートルード有限会社はその後、ヨーロッパ、アメリカ、カナダに 工場を持つようになり、日本も大きな市場となった。

サミュエル・コートルードがこの会社の会長についた1921年は、同社が急成長、繁栄した次期であり、それによって得られた莫大な企業報酬はこのコレクションを可能にした大きな基盤だった。産業革命の生み出した大企業の富が社会貢献に生かされた好例といえる。巨大企業ビヒモスにも光を生む側面があった。イギリス人は古典派にあまり関心を抱いていなかったが、このコレクションは古典派作品を中心に収集することで、イギリスにおける古典派・ポスト古典派研究の中心となった。

マネの《フォリー=ベルジュールのバー》がポスターに取り上げられているが、このほかの画家の作品も、印象派好きには見落とせない。

ポール・セザンヌ (Paul Cézanne, 1839年 - 1906年)の《カード遊びをする人々》(カードプレイヤー)について考えてみた。このブログでも取り上げたことがある(カラヴァッジョ ・セザンヌ・トウェイン)の流れに位置づけられる。

 

ポール・セザンヌ(1839-1906)
《カード遊びをする人々》 
ca.1892-1896
油彩、カンヴァス
60x73cm 

このシリーズは、1890年代初頭から半ばにかけての晩年のセザンヌ芸術の基点であるとみなされている。パイプをくわえてカードゲームに没頭するプロヴァンスの農民の姿を描いている。描かれている農民は全員が男性であり、カード遊びに熱中して顔をうつむけ、目の前の勝負に没頭している。作品に描かれる主要人物(子供を除く)の数で、3人の作品(2点)、2人の作品(3点)の 計5点が確認されている。制作年次は不明だが、コートールド が所蔵するのは、2人が描かれた作品の2番目と推定されている。最も淡い色彩で描かれたオルセー版が、最も優れていると考えられている。このほかに個人のコレクションになっているものがある。

またこのシリーズは、17世紀のオランダとフランスの風俗画の文脈を強く意識した上で、セザンヌ独自に改良して描かれている。このような絵画では、しばしばギャンブルやいかさまの要素が入った光景が描かれたが、セザンヌはもっと単純な設定で、ひたすらゲームに熱中する農民を描いている。モデルはセザンヌの父が所有したエックスの別荘ジャズ・ド・ブッファン  LE JAS DE BOUFFAN で働いていたと思われる。

またカラヴァッジョ などの作品は劇的で深みのある瞬間を描いた作品が中心だったが、セザンヌの肖像画は、ドラマや物語性や人物の性格を特徴づける要素を極力排除している。テーブルには、封がされたワインボトルが二人の間に置かれているだけである。

さらに、シリーズは、1890年代初頭から半ばにかけての晩年のセザンヌ芸術を支える原点であるとみなされている。
 
またこのシリーズは、17世紀のオランダとフランスの風俗画の文脈を強く意識した上で、セザンヌが独自に改良して描かれている。セザンヌはもっと簡素な舞台でどこにもいるような農民に置き換えている。しかし、実際に見ると、絶妙な配置、色使いなど、画家が傾注したエネルギーがじわじわと伝わってくる作品である。
 
また以前は劇的で深みのある瞬間を描いた作品が中心だったが、セザンヌの肖像画は正反対でドラマや物語性や人物の性格を特徴づける要素が欠如している。というより、ことさらそうした要素を排除している。

シリーズの中で、おそらく最も有名であり、最もよく複製されているのが、パリの オルセー美術館に収蔵されたものである。寸法は47.5 x 57 cm と最も小さい。このオルセー版は最も洗練された作品であり、一般に最後に描かれた『カード遊びをする人々』と考えられている。コートルードの作品は、この前に制作されたと推定されている。第3の作品は、カタールの王族が2011年にギリシャの海運王ジョージ・エンビリコスから購入し所蔵するとされており、接する機会が少ない。

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紅葉の上野公園を歩く

2019年11月20日 | 午後のティールーム

 

 

今秋指折りの快晴の日、上野公園(正しくは都立上野恩賜公園)は、紅葉真っ盛り。道路など環境整備も進み、美しい公園となった。ブログ筆者には、子供の頃から親しんだ場所ではある。しばらくぶりに散策を楽しむ。


 

上野公園と云うとまず頭に浮かぶのは、上野動物園(東京都恩賜上野動物園)、同級生のお父さんが飼育課長?をされていた時は、学級全員の社会見学?で、開園時間外に特別に見せていただいたこともあった。子供心になんだか得をした気分だった。 その後、週末など、かなりの回数通った記憶がある。ジャイアント・パンダのいない時代だった。なにかの縁でいただいた上野動物園『上野動物園百年史』(東京都生活文化局広報部都民資料室、1982年)も処分されることなく大切に書棚の片隅に残っている。1936年(昭和11年)、黒豹が逃げた話を聞いたこともある。園内の暗渠に潜んでいて無事捕獲されたらしいが、当時の記録を読むと、かなりの大事件だったらしい。

 

この近辺、上野東照宮の塔が見えたり、並木道も美しい。由緒ありげなこの建物、ご存知の方はおられるだろうか。「旧東京音楽学校奏楽堂」(重要文化財)の看板がかかっている。表示版の説明を読むと、東京藝術大学音楽学部の前身、東京音楽学校の本館校舎として、明治23年(1890)に建築され、日本における音楽教育の中心的な役割を果たしてきた。昭和58年(1983)に台東区が東京藝術大学から譲り受け、昭和62年(1987)に現在の地へ校舎を移築・復元し、「旧東京音楽学校奏楽堂」として一般への公開も開始された。さらに、昭和63年(1988)には、日本最古の本格的な洋式音楽ホールを擁する校舎として、重要文化財の指定を受けている。

2階の音楽ホールは、かつて瀧廉太郎がピアノを弾き、山田耕筰が歌曲を歌い、三浦環が日本人による初のオペラ公演でデビューを飾った由緒ある舞台とのこと。 

平成25年4月より建物保全のため休館していたが、耐震補強や保存修理等の「保存活用工事」や空気式パイプオルガンの修理を終えて、平成30年(2018年)11月2日にリニューアルオープンした。2年くらい前にもこの辺りを通っていたが、気がつかなかったわけが分かった。あいにくこの日は入館できなかったが、近く一度入ってみよう。

東京国立博物館の周辺も広々として、噴水も美しい。折しも御即位記念特別展「正倉院の世界―皇室がまもり伝えた美―」が開催され、入館まで1時間近い待ち時間だった。
少し横道に入ると、木漏れ日が美しい歩道が続く。

上野公園はしばしば「上野のお山」ともいわれた。一見、平坦に見えるが、意外に起伏があり、こうした岡がある。頂上からは不忍池や弁天堂が眺望できる。

 

丘の上の美しい建物が、東叡山寛永寺の清水観音堂(重要文化財)であることは知っていたが、これまでその由来を詳しく知ることはなかった。清水観音堂は、寛永8年(1631)に東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正により建立された。今回、前を歩いて気がついたのは、画面にも見える輪型(月の輪)だった。由緒ありげで、説明などを読んで見て改めて見直した。月の松といわれ、植木の松を造園技術を駆使した植木職人によって、月の輪のように曲げて育てたものだった。明治初期の台風で被害を受けて永らく失われていたが、浮世絵にも描かれていた江戸の風景を復活させるため、平成24年(2012)12月に復元されたとのこと。

清水観音堂は、江戸時代から名所となり、境内の月の松は、江戸時代の浮世絵師歌川広重の「名所江戸百景」において「上野清水堂不忍ノ池」そして「上野山内月のまつ」として描かれている由。清水堂の舞台から見下ろした月の松には近江の竹生島の宝厳寺に見立てて建立された不忍池辯天堂と賑わいを望む事ができる。

知り尽くしていると思った上野公園だが、なかなか見所が多く、一日楽しむこともできる。日本一の動物園、美術館、博物館が林立し、疲れればカフェやレストランにも事欠かない。東京でもお勧めの場所のひとつだ。

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上野の森、マルガリータ王女に会いに行く

2019年11月16日 | 絵のある部屋


爽秋の一日、上野公園に行く。かねて予定していたが、せわしない日々にとりまぎれ、果たせなかった『ハプスブルグ展』を見る。芸術の秋だけあって、この時期、見たい展覧会が目白押しだ。

まず、国立西洋美術館に行く。『ハプスブルグ展』といっても、オーストリア・ハプスブルグ家に重点が置かれている。本展が日本・オーストリア友好150周年記念行事として企画されたことによる。600年にわたるハプスブルグ帝国の栄華の流れを短時間で辿れるのは、ウイーン美術史美術館が継承しているコレクションから選ばれた展示品が、スポットライトのように散りばめられて、この歴史上の一大名家の歴史を語ってくれるからだろう。

展示品には国立西洋美術館が所蔵するルーカス・クラーナハ、アルブレヒト・デューラーの版画、バルトロメオ・マンフレディ(1582-1622)の《キリスト捕縛》なども含まれている。

訪れた人たちの大方の関心は、第一にディエゴ・ベラスケス(1599-1660)の手になる《青いドレスの王女マルガリータ・テレサ、1651-1673》(1659年、油彩・カンヴァス、ウイーン美術史美術館)に集まっていた。ブログ筆者の脳裏には白いドレスのイメージがあったが、今回はこの作品が貸し出されたようだ。さらにベラスケスの娘婿マーソの手になる《緑のドレスの王女マルガリータ・テレサ》(ブダペスト国立西洋美術館)も並列して展示されている。肖像画としては甲乙付け難い出色の出来栄えだ。

ベラスケスの作品としては、《スペイン国王フェリペ4世 1605-1665の肖像》(1631/32年 油彩/カンヴァス ウイーン美術史美術館)および《スペイン王妃イサベルの肖像 1602-1644》(ウイーン美術史美術館)が出展されており、親戚関係にあるウイーンとマドリードのハプスブルグ両王室の結びつきが分かる。これもなかなか美しい肖像画だ。

そして、マリールイーズによる《フランス王妃マリー・アントワネット 1755-1793の肖像》(1778年、油彩/カンヴァス ウイーン美術史美術館)の前にも大きな人だかりができていた。これも肖像画としては、見事な傑作といえるだろう。王妃はなかなか満足のゆく肖像画家に出会えずにいたが、マリールイーズに出会うことによって、ようやく願いがかなったといわれる。さもありなんと思う出来栄えだ。かつてナンシーで宿泊したホテルが、マリーアントワネットがお輿入れした際に宿泊した場所と知って、歴史をさかのぼった思いがしたことがあった。

レンブラント・ハルメンス・ゾーン・ファン・レイン(1609-1669)の《使徒パウロ》(1636年 油彩/カンヴァス、ウイーン美術史美術館)

これらの華やかな肖像画に隠れて、あまり観客の目をひかないが、この作品、レンブラントの最も活動的であり、名声が確立されていた頃に制作され、見るからに円熟した技法が駆使された作品だ。その巧みさは展示作品の中でも頭抜けている。

この展覧会、オーストリア美術史美術館の全面協力で成立した感がある。かつて友人を訪ねたりで何度か訪れたが、また行ってみたくなる。図録も手堅くまとめられ、ハプスブルグ家の600年の歴史を知るには良い手引きとなっている。

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ダビンチを育てた工房の世界

2019年11月12日 | 絵のある部屋


レオナルド・ダビンチ(1412~1519)没後500年ということもあって、この大天才画家に関わる番組、展覧会、出版物などが多数目につく。ダビンチの幻の肖像画と言われる「ルカーニアの肖像画」の鑑定作業のTV番組を見る。ダビンチという美術史上に燦然と輝く一大巨匠の作品の鑑定だけに、様々な先端科学技術が駆使されている。今や美術史の研究において、年代測定、作品の真贋、工房作品の判別、後世の修復における加筆など、多くの点で、X線、赤外線反射撮影法、顔料や指紋の分析などの科学技術の協力が必要になっている。放映された画面を見ていると、さまざまなことが思い浮かぶ。ナポリの黄色、赤色のチョーク、スフマートなど、このブログで、17世紀のジョルジュ・ド・ラ・トゥールの画家人生を追っている間に出会ったいくつかのことに思い当たった。この画家も謎の多い画家ではある。

ナポリの黄色
さて、そのひとつ「ナポリの黄色」は、絵具の色名である。14~17世紀に使われていた。ダビンチ も使ったようだ。17世紀、ロレーヌの画家ラ・トゥールの作品ではどこに使われていたか、かつて記したことがあるが、ご記憶だろうか。
組成は アンチモン酸鉛の化合物ph3(SbO)2 で,アンチモン・イエローとも呼ばれる。本来はベスビアス火山の土から採取された黄色の土性顔料で,中世からジリアーノの名で地塗りなどに用いられていた。今ではほとんど使われていないが、当時の色相に似せて,今日では カドミウム・イエロー,イエロー・オーカー,ベネチアン・レッド,ジンク・ホワイトなどの顔料を配合してつくる。絵具としてNaples Yellow (例:Holbein 230)として市販されてもいる。

工房の役割
 今日では、様々な手段で自分の制作に必要な絵具、顔料などの画材についての情報も得ることができる。誰か画家の弟子として入門し、知識や技能を習得せずとも、自分の努力で制作をすることも可能だ。しかし、ルネサンス期から17世紀までは、いかに才能があろうとも、親方の工房に徒弟として弟子入りし、画材、画法の習得をしなければならなかった。フレスコ画や油彩画など、作品の制作に関わる知識や技能を習得するには、独力では得られる知識が限られていた。

この時代の有名画家でも、若い頃の修業歴が不明で、どこの工房で修業したかわからない場合もある。地方の小さな村や町からフィレンツェやローマのような都市に出てきた画家志望の14-5歳の若者にとっては、かなりのリスクでもあった。彼らの間の競争も激しく、脱落する者も多かった。フィレンツェの裏町で暴力、放蕩、犯罪などの世界へ転落し、身を持ち崩す若者も多かった。時代も下り、場所もローマではあったが、破天荒な生涯を送ったカラバッジョは、表と裏の二つの世界を生きた稀有な画家だった。工房に入るにあたっては、多くの場合、親がついてきて親方と徒弟費用の交渉などをしたようだ。

フランスなどの工房では、徒弟の数はせいぜい数人、大体1人が普通だった。他方、フィレンツエの工房では、しばしば10人から20人という数の徒弟がいた。それだけ仕事の量も多かった。大きな教会、聖堂、修道院など、天井画、壁画、祭壇などを受注した工房は、親方の指示に従って、多数の職人が動員されて働いていた。徒弟は受け入れてくれる工房の親方に多額の費用を支払い、ほとんどは住み込み徒弟として、工房か親方の家に住み込み、身の回りの世話もしながら、工房で仕事を手伝い、画家としての知識や技法を体得する仕組みだった。工房入りを許されると、徒弟、そして見習い奉公人として働くことになるが、ほとんど教育の体系らしきものはなく、兄弟子や親方の仕事から見様見真似で技能を盗み取ることで体得する仕組みだった。後世のOJT(On-the-Job Training)である。工房での徒弟修業が終わると、遍歴職人として他の工房へ移ったり、独立して親方を目指す者もいた。

ダビンチの工房入り
 1466年頃、14歳のダビンチは、フィレンツェで、最も優れた工房bottegaのひとつであった画家で、彫刻家でもあった ヴェロッキオの工房に入門した。レオナルドはこの工房 で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せた。弟子レオナルドの技量があまりに優れていたために、師匠ヴェロッキオは二度と絵画を描くことはなかったといわれる。ダヴィンチは3年間、この工房において徒弟修業をしたとされる。その後も工房との関係は合計で10年近く続いたようだ。

イタリアやフランスでは、この工房での徒弟修業にはミケランジェロやジョットのような天才でも最低3年、長いと10~15年を要した。しかも、徒弟修業をしたからといって、画家になれる保証はなかった。大工や石工と異なり、持って生まれた才能がものを言う職業であった。多分に才能と運が行方を左右する職業であるだけに、息子が画業を志すと親が強く反対する例が多かった。親たちは、画家はリスクが多いと、聖職者、銀行員、トレーダー、商人などより安定的な職業を勧めたという。ダビンチ でさえ、親との葛藤があったといわれる。時代は下るが、ジャック・カロやラ・トゥールのことを思い出す。願い叶って、徒弟となっても、工房における徒弟や職人たちとの軋轢、横暴な親方などに耐えられず、脱落する徒弟も多かった。

時代は下るが、17世紀、ラ・トゥールの例をみると、生涯で5人の徒弟を受け入れたが、なんとか画家になったことが確認できるのは1人にとどまった。ロレーヌの画家志望の若者が、こぞってイタリアでの修業を望んだのは、フィレンツエやローマでは工房の数が多く、選択の余地が多かったことも背景にあった。

ヴェロッキオの工房で製作される絵画のほとんどは、弟子や工房の雇われ画家による作品だった。一部の作品については、ダヴィンチが担当した部分が確認されているようだ。 例えば『キリストの洗礼』(ウフィツィ美術館、フィレンツェ)は、ヴェロッキオとレオナルドが協同して描いたとされている。ダヴィンチは20歳になる1472年までに、ギルド 「聖ルカ組合」からマスター(親方)の資格を得ている。レオナルドが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなく医学も対象とした ギルドだった。ダビンチが人体の細部にわたる精密なスケッチを残しているのも、こうした背景によるのだろう。ダヴィンチはその後自分の工房を持ち、独立後もヴェロッキオと協同する関係を保っていたらしい。

レオナルドの才能は、絵画、彫刻にとどまらず、建築、工学、化学、冶金学など、およそ1人の人間がこれだけの領域をカバーできるのかと思うほど広範にわたり、ルネサンス期の天才とはかくも偉大なのかということを痛感する。

当時は美術学校など公的な技能養成制度が無かったため、工房という熟練の取得、養成の仕組みは画家のみならず、多くの職業において重要な役割を果たした。今日、多くの国で学校や公的技能養成制度が硬直的で、変化の激しい現実に対応できず、再考を迫られている。そのため、小規模ながら時代の変化に柔軟に対応できる新たな観点からの工房の役割が注目されている。

〜〜〜
モナリザを描き、建築や解剖学も極め,詩人、思想家でもあった“万能の天才”ダビンチが亡くなって500年。ある収集家の自宅に保管されていた「ルカ―ニアの絵」は、世界の美術界の注目を集め、美術史家や科学者らによる分析がフィレンツェをはじめ欧州各地で行われた。顔料から年代を特定し、残された指紋を解析。最新の3D技術で、巨匠ダビンチの素顔を初めて3次元で復元するという試みだ。

TVでは『糸巻きの聖母』(スコットランド国立美術館蔵)、『プラドのモナ・リザ (プラド美術館蔵)など、ダビンチの作品ではないかといわれてきた絵画の鑑定作業が報じられていた。

 


[ダビンチ 幻の肖像画]
NHK-BS1 BS1スペシャル原題:LEONARDO: THE MYSTERY OF THE LOST PORTRAIT制作: ZED & SYDONIA / ARTE FRANCE / NHK(フランス 2018年)11月11日放送

[ダビンチ・ミステリー(1)] 2019年11月10日放送

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