時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

危機の時代にはラ・トゥールが生きる(4)

2022年02月26日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


ロシアはついにウクライナに侵攻した。ウクライナが大国の間に挟まれた17世紀のロレーヌ公国のように見えてくる。フランス王はロレーヌ公国を神聖ローマ帝国などの外国勢力からパリを守る「緩衝地帯」と考えていた。「緩衝国家」は概して小国が多く、大国の利害の前に翻弄されることが多かった。

度重なる災厄、戦乱の合間、しばし平穏な時を過ごしていた17世紀ロレーヌの世界に戻ってみよう。


ヴィックの中心、ジャンヌ・ダルク広場
Photo:YK

17世紀初頭のヴィック
繁栄の盛期であった1610年時点でみると、ヴィックの人口は5000人くらいであった(2018年時点では約1300人)。同じ時期に19,000人近い人口を誇ったメッスやロレーヌ公国の公都であったナンシーの16,000人に比べれば小さな町だった。城砦で有名なヴェルダンやバールドックなどと比較しても小さかった(Thuillier 2013, p.16)。


今に残る17世紀の町並み
Photo:YK

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N.B.
メッス、トゥール、ヴェルダンの3司教区は、古代ローマ帝国に遡る歴史を誇り、神聖ローマ帝国に属した後、13世紀に自由都市として政治的独立と自由を獲得していた。しかし、1552年にフランス王アンリ2世は、メッスをフランスの保護領とし、総督を任命し、守備隊を駐屯させていた。いいかえると、フランス王の統治下に入ったといえる。そこでメッスの司教は、暫定的に自らの行政上の活動拠点をメッスの南東40kmほどの場所にあるヴィックに移すことを考え、この町に司教館を建ててしばしば滞在した。小規模ながら行政官や顧問官なども移り住んでいた。このため、ヴィックは実質的に司教区の中心的役割を負っていた。代官もヴィックに住むようなり、立派な邸宅を構えていた。こうした状況であったから、司教区はロレーヌ公国の版図の中で、フランスの保護領でありながら、宗教面の独立を維持したい司教によって別途統治されるという複雑な関係を維持していた。
 ヴィックの中でも、市長や参事会会員と司教の代行者の間で、しばしば緊張が高まることもあった。より大きな次元では、ロレーヌは強大なフランス王国と神聖ローマ帝国との狭間に置かれた小国ながら、「国」としての強い意識を維持してきた(Thuillier 1994, p.15)。なんとか独立性を保ちたいロレーヌ公国の微妙な立場は、ロレーヌの住民に絶えず困難と強い圧力を加えていた。こうした状況で、ヴィックの住民の宗教あるいは政治的忠誠のあり方は、かなり複雑で緊張感を帯びたものであった。

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ジョルジュの誕生
 パン屋の夫婦に男の子が生まれた時はヴィックが比較的平静な時期であった。(ジャンとシビルが結婚したのは、1590年12月31日だった)。1592年の長男ジャコブに続いて、1593年3月14日には、ジョルジュが生まれた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールが記録に登場した最初であった。

教区洗礼記録が現存する。Parish records, Municipal Archives, Vic., 公的な住民記録がない時代、教会に残るこうした史料はきわめて重要な意味を持った)。

ヴィックの町で、ジャンのパン屋はかなり恵まれた部類だった。なにしろ、パンは人々の生活を支える主食ともいうべき食料であり、店主のジャンは町でもかなり知られた人物になっていた。毎日の仕事はかなり苛酷なものだったが、石工だった父親の仕事よりはずいぶん楽だと、ジャンは考えていた。社会的には平民として中下層の職人だが、パン屋としての自分の仕事に自信と誇りを感じていた。ジャンは市長や市の参事会員などのお歴々ともつき合いがあり、近隣の粉屋と時には大きな取引もしていた。

 次男になるジョルジュが生まれた時、喜んだ夫婦は早速、洗礼を受ける手はずに走り回った。セイユ川は雪解け水で溢れんばかりだったが、木々には緑色の若芽が見え、ロレーヌに春の近いことを思わせた。

ジョルジュが洗礼を受けたサン・マリアン教会内陣
Photo:YK
ラ・トゥールも受けた洗礼盤
Photo:YK


教会入口

教会入口の鏡板 タンパン PHOTO:YK
教科入口上部に刻まれた鏡板 tympanumは、13世紀末から14世紀初期に製作された。この教会の守護聖人であるサン・マリアンの話を刻んだものといわれる。

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N.B.
 1593年3月14日、ジョルジュ・ド・ラ・ トゥール Georges du Mesnil de La Tour はヴィックのサン・マリアン教会で洗礼を受けた(Thuillier 1995,p.15)。今も残る大きな石の洗礼盤だった。洗礼盤の周りには、司祭の他、二人目の息子の父親となるジャン・ド・ラ・ トゥール、母親のシビル・メリアンがいた。代父は日ごろ親しくしている服飾小間物屋のジャン・デ・ヴフで、町の参事会員でもあった。代母はこれも付き合いのあるニコラ・ムニエの妻パントコストに頼んだ。代母の夫は粉挽きを商いとし、セイユ川沿いの水車小屋の持ち主であった。ジャンが日ごろ、パン作りのための小麦やライ麦を挽いてもらっていた。洗礼は生まれた子供の両親ばかりか、教会にとっても重要な行事であった。この時代、出生、結婚、死亡などはすべて教会が関与し、記録していた。
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しかし、ジョルジュに関わる史料上の記録は、前回記したように1615年、推定23歳時までは未発見で、空白のままである。この間、ジョルジュはどこにいたのだろう。


ヴィックの町と歴史については、かなり多くの史料が継承されている。Decomps, Gloc et al, 2011, Vic sur seille le chemin de son histoire, 1992, Guide du Touriste a Vic-sur-Seilleなどを参照。

続く
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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(3)

2022年02月18日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
ヴィック=シュル=セイユの全景
Source:LE CANTON DE VIC-SUR-SEILLE, 2011

画家が生まれ育った環境
17世紀、ラ・トゥールが生まれ育った地ロレーヌは、内部に立ち入るほどさらに複雑な様相を見せていた。843年のヴェルダン条約以来、ロレーヌ公国の領土であったが、1552年フランス王アンリⅡ世がメッス、トゥール、ヴェルダンの司教領を占領していた。ラ・トゥールは1593年、メッス司教領のいわば飛地である小さな町ヴィック=シュル=セイユ に生まれた。その後、1620年頃に妻の実家のあるリュネヴィルへ移住している。ヴィックとリュネヴィルの距離は25kmくらいだ。今日残るわずかな史料から推定されるかぎり、画家は人生のほとんどを両者を含むロレーヌの地で過ごしたと考えられる

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールに関する史料記録は、1593年にヴィックで誕生した時の洗礼記録以降、1616年ヴィックで洗礼代父を務めたとの記録まで発見されていない。その間、1613年20歳の時、親方としてパリにいたとの記録(本人か否か確認されていない)まで、ラ・トゥールに関する有力史料は発見されていない。ブログ筆者は、ラ・トゥールの徒弟修業、遍歴時代を含めて、周辺状況から徒弟修業はヴィック、ナンシーなど、ロレーヌの地域内で行われたこと、イタリアでの修業、長期にわたる遍歴は考えられないとの仮説を提示している。ナンシーから北方諸国への距離は、ローマへの距離よりはるかに短い。

今日のヴィック=シュル=セイユの地図(主要建物の建造年代別)
17世紀以前の建造物もかなり残っている。
Source: LE CANTON DE VIC-SUR-SEILLE


ゴシックの流れの中で
この画家は美術史上では、しばしばバロックの流れを汲むグループに入れられていることがあるが、作品を見るかぎり、リアリズムに徹したゴシックの伝統を色濃く継承していることが分かる。聖人や天使を描いても、そこには光輪(ハロー)や翼は描かれていない。宗教画のジャンルの聖人も画家の周囲にいたと思われる市井の人々がモデルとされている。こうした画風はいかなる風土の中で形成されたのだろうか。この点を探求するについては、画家の生まれ育った17世紀ロレーヌの政治経済・社会的環境を理解することが」欠かせない。

コンテンポラリーの視点
作品の画面だけを見ていても、この画家の制作に当たっての思索、姿勢を知ることは難しい。広く画家が生まれ育った風土、時代の文化的風潮などを一体として理解することで、初めてその真髄に接近することができる。本ブログは、その方向を目指して、小さな知識を積み重ねてきた。画家に関する史料がきわめて少ないだけに、画家が活躍した時代の環境を出来うるかぎり忠実に再現する努力が欠かせない。筆者が目指してきたコンテンポラリー構想のスタンスである。

N.B.
ラ・トゥールと同時代のローマに代表されるイタリア諸都市、ロレーヌに比較的近かったパリ、あるいは北方諸都市と異なり、ロレーヌは文化的な先進地域ではなかった。しかし、近くのメッス、ナンシーなどは文化交流の拠点として、独自の蓄積を重ねてきた。距離的にもヴィックに近接していた。さらに、ローマなどイタリア主要拠点との距離、旅行や滞在に要する資金、安全性などと比較して、北方諸国への遍歴は相対的に容易であったことなども、ラ・トゥールの画業修業を推定する条件として挙げることができる。

2003年、17世紀フランスのアイコン的な画家となったジョルジュ・ド・ラ・トゥールを記念して、ヴィックにその名を冠した美術館が生まれた。その前後からいくつかの新しい建造物も生まれたが、町のあちこちには17世紀の面影を残す光景が見出される。

ブログ筆者は何度か訪れているが、最初にザールブリュッケンから訪れた時は、時の流れの中に取り残された町のような印象をうけた。近年でも町の様相には大きな変化がないように思える。ヴィックの町はヴィック=シュル=セイユという小さな郡(Le canton)の中心に位置している。町は城壁と城門で守られていた。町は中心に当たるジャンヌ・ダルク広場を中心に、近くにはラ・トゥールが洗礼を受けたサン・マリアン教会などもある。ラ・トゥールを記念する美術館も広場に面している。

左奥尖塔はサン・マリアン教会
Photo YK

ヴィックの町を探索してみると、多くの興味深い事実が発見できる。幸いヴィックはリュネヴィルのような戦乱による壊滅的な状況を免れている。かつての貨幣鋳造所は現在町の観光案内所として機能しており、真偽のほどは別として画家の血筋を引くとのパン屋まである。街中には17世紀以来の家屋がほぼそのままに残っている。一部の城門も再構築されてありし日の姿を彷彿とさせる。




現在の観光案内所へ改修前の貨幣鋳造所

今に残る17世紀以来の聖母子像レリーフ
Photo:YK

戦乱・動乱、悪疫、飢饉などが絶えなかった17世紀ロレーヌであったが、ラ・トゥールのロレーヌへの郷土愛はかなり強固なものがあったと推定される。パリなどの文化的にも繁栄していた都市への移住も選ぶことなく、ロレーヌの画家として生きる選択をした画家を惹きつけたものはなんであったのか。

REFERENCES
Clair Decamps et al. LE CANTON DE VIC-SUR-SEILLE, 2011







続く
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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(2)

2022年02月11日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋




ウクライナ情勢が緊迫している。ロシアそしてベラルーシの国境付近に演習の名目で集結しているロシア軍は、第二次世界大戦の兵力にほぼ匹敵するともいわれている。ヨーロッパ(NATO加盟諸国)とロシアの間に挟まれ、緊張と危機感に満ちた日々を過ごすウクライナ国民の状況を見ていると、17世紀神聖ローマ帝国(ハプスブルグ家)とフランス王国との間に挟まれた形であったロレーヌ公国の姿が重なり合って見えてきた。ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593~1652)は、この地に生まれ、生涯のほとんどをここで過ごした。

17世紀、ラ・トゥールが生まれ育ったロレーヌの地政学的状況は、このブログでも再三取り上げてきた。今日のロレーヌはフランスの北東部に位置し、美しい農村、山林地帯が展開する平和な地域だが、17世紀は戦争、悪疫、飢餓などが次々と襲う苦難の地域であった。後世、世界史上初めて「危機の時代」と呼ばれることになった。この時期、世界は小氷河期にあったともいわれる。

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*N.B.
ロレーヌの名が生まれたのは、843年のヴェルダン条約でフランク王国が3分され、中央部をロタールが支配、ロタール2世の名にちなんで名付けられたロタリンジー(ロートリンゲン) のがその名の起源とされる。ロレーヌ公国は、神聖ローマ帝国とフランス王国の間で独立を保って生きることを選択した。そして、領土内に3司教区(メッス、ヴェルダン、トゥール)を含む複雑な地政学的状況にあった。ロレーヌ公国シャルル4世(ロレーヌ公在位1624-1675)の時代に、ロレーヌ公とフランス王との対立が高まった。
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混迷の時代、戦乱、悪疫、飢饉
ラ・トゥールが生まれた土地ヴィックからリュネヴィルに移ってからは、画家としての生活は、年を経るごとに安定し、充実したものとなった。画家の天賦の才は、時代の求めるものをしっかりと受け止め、人々の心に深く響く作品へと結実していった。自宅、工房も整い、徒弟も住み込みで本来あるべき形で画業を続ける環境ができてきた。ラ・ トゥールの心もロレーヌの画家として、この地を活動の拠点とすることに傾いていた。つかの間の安定した画業生活だった。

しかし、背後ではこうした平和で牧歌的、豊かな地というイメージを、根底から揺るがすような大激動の予兆が忍びよっていた。1620年代後半頃から、ロレーヌは、外国の軍隊が町や村々を次々と破壊、蹂躙し、悪疫が流行する困難な時期へ移りつつあった。

最大の災厄は、30年戦争といわれるヨーロッパの広範な地域で展開した戦争であった。ロレーヌもその中に巻き込まれた。この戦争がいかに過酷で深い傷跡をヨーロッパに残したかについては、今日においてもこの戦争を取り上げた数多くの研究書が刊行され続けていることからも分かる。

このブログでも「危機の時代」「悲劇のヨーロッパ」を分析したいくつかの研究を紹介してきた:





戦争と並び劣らず恐れられていたのは突如襲ってくる目に見えない悪疫の流行だった。悪疫の中ではペストが最も恐れられていたが、ロレーヌは何度かこうした災厄に襲われていた。悪疫はしばしば外国の軍隊の進入に伴って、持ち込まれた。軍隊の兵士のほとんどは、傭兵であった。そのため、しばしば「ハンガリー・ペスト」の名で知られていた。1626~27年もロレーヌではペストが流行し、人々の大きな不安と恐れの種となっていた。こうした災厄の犠牲になるのは、ほとんどいつも農村部の農民たちであった。

リュネヴィルの城門にはこの年、ペストのあった町からやってくる者は、入城を禁じるとの布令が出た。布令を記した画家には1フラン6グロスが支払われ、橋の上にはバリケードが築かれた。1631年、リュネヴィルの記録文書が空白になっている時も、町は激しいペストに襲われていた。

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*N.B.
30年戦争(1618-1648年)
ドイツを中心に続いた戦争。ハプスブルグ対ブルボン王家の敵対とドイツの新旧両教徒の対立を背景に、皇帝の旧教化政策を起因としもてボヘミアに勃発。新教国デンマーク、スエーデン、後には旧教国フランスも参戦。ウエストファリア条約で終了。ロレーヌ公国は戦場となった。ロレーヌの町はスペインやオーストリアのカトリック側に加担し、フランスからの攻撃の対象となった。ロレーヌの町の多くは、皇帝軍とルイ13世の国王軍との争奪戦で完全に破壊された。

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危機の現代を考えるために
ラ・トゥールが残した数少ない作品は、この時代、ローマ、パリなどで活動した画家たちの華やかなバロック風とは全く異なるものだった。イタリアでの修業などの機会が与えられれば、ラ・トゥールにもプッサンなどに代表される壮麗な宮殿画などを制作しうる技量は十分備わっていたと思われる。しかし、この画家は自らが生まれ育ったロレーヌの地で画業を全うする道を選んでいた。その結果はリアリズムに徹した画題に深く沈潜し、同じ主題をさまざまに追求する中で精神性の高い作品を多く生み出すことになった。風俗画の範疇に入る作品にしても、農民の貧しい生活を描いた《豆を食べる人々》などのように、リアリズムに徹していた。この画家の作品は、単に画面に美しく描かれているという次元には止まらない。画家が真に何を描こうとしたのか、カンヴァスの裏面にまで深く立ち入ってみたいという衝動を惹き起こす。

ロレーヌがフランスに併合されて以来、激動の地で画業生活のほとんど全てを過ごしたラ・トゥールは、17世紀フランスを代表する大画家としての地位を不動のものとしている。

現代の世界は、産業革命以降の資本主義展開に伴い、17世紀にヨーロッパ社会が経験したような様々な危機的要因が大きく増幅されてきた。このブログで取り上げてきたラ・トゥール、そして時代を降って、L.S.ラウリーと、全く異なる異なるコンテクストながら、危機の時代における人間のあり方を考える大きな手がかりとなる。

続く





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日本につながっていた​サージェント《カーネーション、ユリ、ユリ、バラ》

2022年02月01日 | 絵のある部屋


このブログではるか以前に取り上げたことのある記事が、10年以上の年月の経過の後に、新聞、TVなどのメディアに取り上げられることが続き、少しばかり驚くことが続いている。

1月30日付けの『日本経済新聞』にアメリカ人画家ジョン・シンガー・サージェント(1856~1925)の《
カーネーション、ユリ、ユリ、バラ》(1885〜86年、油彩、カンヴァス、174x153.7cm、テート・ブリテン蔵)が大きく掲載されていた。日曜に掲載される「美の粋」シリーズの対象としてである。「19世紀園芸の東西交流(1) 植物のハンター、世界をめぐる」と題した第一回に取り上げられている。画中に描かれている植物、とりわけユリに関するストーリーが作品紹介と併せ語られていて興味深い。

サージェントはアメリカ印象派として知られるが、肖像画のエクスパートであった。生涯に3000点近い作品を残したとされている。上掲の作品はごひいきで実物を何度も見ているのだが、筆者の経験では、この絵の前で多数の人が立ち止まっている光景は見たことがなかった。

しかし、今回の新聞記事によると、10年ほど前からこの絵の展示場所を学芸員に訪ねる日本人来館者が増えたとのことだ。日本の「テート・ギャラリー」展に展示されたこともあって、日本人の認識度が上がったのかもしれない。《カーネーション、リリー、リリー、ローズ》はサージェントにとって初めて公立の美術館から購入された作品となり、その後もテート・コレクションの一部として、 テート・ブリテンで展示されている。イギリス印象派の代表的作品と言える。

サージェントは、筆者が好む画家のひとりでもあり、このブログでも何度か取り上げているが、今回取り上げられている作品のコピーは筆者の仕事場にも表装されて置かれている。東洋的で幻想的な雰囲気が漂う作品であり、柔らかで穏やかな色彩は、眺めていて飽きることがない。来歴ではロイヤル・アカデミーの会長がこの作品を高く評価し、テート・ギャラリーがぜひ購入するよう強く働きかけたようだ。当時のイギリス画壇の主流には、美の移り変わる瞬間を描いた作品を評価する風潮があった。サージェントのこの作品はその流れに沿ったものでもあった。

ヤマユリは、ブログ筆者も球根を購入し、庭のひと隅に植えたことがあるが、コロナ禍もあって手入れが悪く植えたままになっている。ヤマユリと野生のユリを交配して、豪華な花を咲かせる園芸品種、オリエンタル・ハイブリッドのカサブランカは、例年大輪の花を咲かせ、楽しませてくれる。

描かれているヤマユリは、はるばる遠く日本の地から送られた球根が、花開いた成果であるようだ。画面に漂う東洋的な雰囲気は、こうした国際貿易の流れがイギリスの地で花開いたものといえる。江戸時代後期、長崎の出島に滞在したドイツの医師・植物学者のシーボルトは2度にわたり、600種類以上の植物を欧州に向けて送った。しかし、そのリストにはヤマユリの名は見当たらなかった。当時の植物輸送の技術で熱帯を通過する過酷な船旅で生きたままの繊細な植物を輸送するのは多くの困難が伴ったようだ。

日本の植物、とりわけ花の球根が貿易の対象として盛んになったのは明治の開国以後であり、プラントハンターと呼ばれる人々が活躍したことによるところが大きいといわれている。ヤマユリの美しさに目をつけ、英国に輸入を図ったのは英国の園芸業者「ヴィーチ商会」のようだ。さらにお雇い外国人のルイス・ボーマーが横浜に設立した「ボーマー商会」もユリ根の輸出で大成功を収めた。輸送途中の湿度管理のために水で練った赤土の泥団子でユリ根を包んで、船に乗せるなど輸送中の管理を含め、多大な努力を払ったようだ。そして英国にヤマユリの球根が届いたのは1862年であったらしい(下掲の新聞記事参照)。

サージェントの作品は1885年の夏にコツワルドのブロードウエイにあるファーナムハウスのイギリス式庭園で制作されたが、完成は86年夏までかかったようだ。その訳は、サージェントは瞬時の光の変化を大切にし、日暮れのわずかな時間を選んで、その雰囲気を描くことに格別の努力を注入したらしい。

この作品については、当時のイギリス画壇には、フランス的だとの批判もあったようだが、画面に漂うイギリス的な雰囲気を評価する人々も多く、結局現在のテート・ブリテンに所蔵されることになった。画面で一際目立つこのユリの花は大変象徴的な意味を含んだ花と考えられてきた。謙遜、傾倒、純粋、無垢などを含意としている。

2人の幼い子供の姿は、夕闇迫る時間、幻想的な雰囲気に溶け込み、見る人の心を落ち着かせる不思議な効果をあげている。

Reference
窪田直子
美の粋「19世紀園芸の東西交流(1) 植物ハンター、世界をめぐる」日本経済新聞2022年1月30日

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