時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

他の人たちの生活: 危機の時代に生まれる文化

2020年05月31日 | 特別トピックス

ケンブリッジ大学キングス・コレッジ前 (Kings Parade St)             YK Photo


新型コロナウイルスの蔓延で、自宅に閉じ込められた生活を強いられた人は多い。急に増えたゆとりの時間の使い方に悩み、フラストレーションがたまったりする人もいるようだ。この期間、人々が何をして過ごしたかという点について、いくつか報道があった。1)「家財の断捨離・掃除」、2) 「家の中でできる運動」、3) 録画や本など眠るコンテンツの消費、  4)動画配信サービスの利用、5) 飲食店のテークアウトの活用などが上位を占めていた(『日本経済新聞』2020年5月30日)。

興味深いことは、こうした大不況期においても、人間の文化活動は衰えることなく、独自の文化遺産が残されていることが知られている。1930年大恐慌時代のアメリカでも、文学や映画、演劇、音楽、建築など多くの領域で後に「ニューディール・カルチャー」と呼ばれる独自の時代文化の形成があった。

長年購読している雑誌のひとつに、危機の時期に記された日記類には、後代の人々にとって慰めや新たな発想の源となりうるものが含まれているとの短い記事が掲載されていた。

 ’The lives of others’  The Economist May 23th-29th 2020

第一次大戦期の日記
そこでひとつの例として挙げられていたのは、ヴァージニア・ウルフ Virginia Wolf *の日記であった。約30年にわたる日記が残されている。この作家の日記はしばしば戦争によって、ブックエンドのように区切られている。彼女が未だ若かった頃、第一次世界大戦(1914 年7月から1918年11月)の時期に記された日記では、他の人々、場所、書籍についての観察は、しばしば意地悪く、偏見が含まれていた。時には歪み、辛辣でもあった。今は知る人も少なくなった1917年のロンドン大空襲の時、彼女は自宅のキッチンで仕事をしていた。

The Diary of Virginia Woolf, Volume 1: 1915-1919 , 1979

N.B.
 ヴァージニア・ウルフ Virginia Woolf (1882年 -  1941年)は、 [イギリスの 小説家 、 評論家、書籍の出版元であり、20世紀 、モダニズム文学の主要な作家の一人。両大戦間期、ウルフはロンドン文学界の重要な人物であり、 「ブルームズベリー・グループ」の一員であった。ジョン・メイナード・ケインズもそのひとりだった。
ウルフの代表的小説には『 ダロウェイ夫人』 Mrs Dalloway (1925年)、『 灯台へ』To the Lighthouse (1927年) 、『 オーランドー』 Orlando (1928年)などがある。

第二次大戦期の日記
第二次世界大戦(1939年9月– 1945年9月)の時期、1940年10月、モダニストとしての名声を確保したウルフは、イギリス、サセックスの自宅で仕事をしていた。この戦争の時代について、彼女はなんとなく積極的、ポジティブな心を保っていたと振り返っている。村の狭い範囲での生活に小さくなっていた時にはおかしなことではあった。暖房などに使う薪は十分買ってあった。友人たちは暖炉の火で隔離されていた。車もなく、ガソリンもなく、列車の運行も不確かだった。それでもウルフ夫妻は素晴らしい自由な秋の島を楽しんでいたと記している。村での静かな日々に心の癒しや慰めも感じていたようだ。

 それからほぼ5ヶ月後、彼女は別の精神的挫折を感じていた。彼女は遺書を残し、コートのポケットに石を詰め、ウーズ川に身を沈めていた。1941年3月末のことだった。

日記はこうした日々に複雑に揺れ動く微妙な心の動きを記しているが、混沌の中に美も見出していた。1904年の父の死去の頃から、ウルフは生涯を通して周期的な気分の変化や神経症状に悩まされた。大変繊細なところもあり、心は絶えず揺れ動き、「落ち込み」depression は頻出する言葉だった。それでも、文筆活動は一生を通してほとんど中断することなく続けられていた。天才的な芸術家にしばしば見られる性向でもあった。しかし、彼女が終生悩まされた病については議論があり、明らかではない。

ウルフはユダヤ人の夫レナードと幸福な結婚をしていながらも、日記に「私はユダヤ人の声が好きではない。ユダヤ人の笑い方も好きではない」と書いている。また、ウルフはレナードのユダヤ人であることを嫌がった自分は「 スノッブ」だったと回想している。こうした点もウルフの複雑な精神状態を伝えている。

ブログの時代
ヴァージニア・ウルフは、ブログ筆者は特に好んで読んできた作家ではない。しかし、かつて過ごしたケンブリッジでの生活の間、何人かの日本からの英文学研究者に出会ったが、そのほとんどがウルフを研究対象にしていることに驚かされた。そうしたこともあって、暇な折に代表的といわれる小説だけは読んでいた。自分で車を運転してサセックスまで行ったこともあった。日記も公刊されていたことは知っていたが、文学は専門でもなく、立ち入って読んだことはなかった。

今回、偶然にウルフの日記に言及した記事に出会い、この複雑で揺れ動いた精神状態の持ち主であった優れた女性作家が記した日記は、彼女の最善と最悪の精神状態を包み隠さず、読者にも自分たちだけが悩み苦しんでいるのではないことを知らせてくれる。さらに、暗い時代でも時には喜びの瞬間もあることを伝えてくれる。I T上にブログが溢れる今の時代も、次の世代の人たちから見ると、「新型コロナウイルス」大不況期として、固有な特徴を持ったひとつの時代として回顧されるかもしれない。

 

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政策はまたも不在:新型コロナウイルス経済政策

2020年05月28日 | 特別トピックス

 
緊急事態宣言の解除で、新型コロナウイルス対策は一つの区切りを迎えた。医療面での対応は別として、財政支出が伴う国民ひとり当たりマスク2枚、10万円給付の対応は、未だ実現していない地域もかなり多いようだ。

マスク給付は遅れた上に品質もいまひとつ、ほとんど使い物にならなかったとの感想も多く、これで救われたという声も聞かれず、およそ466億円が支出され、大きな国費の浪費となった。必要な時に役に立てない政策は、厳しく批判するしかない。ひとり2枚のマスクで、このたびのウイルス感染から逃れうると政策担当者が考えたとも思われない。

10万円給付も地域によって大きな差異が生まれ、大人口を抱える都市や区部では、オンラインはたちまちパンク状態となり、郵送書類申請に切り換えるところも増えている。今回の事態で初めてマイナンバーカードの存在と重要さを知った人も多く、その申請、更新、暗証番号の設定などで窓口が大混雑している。ブログ筆者もマスク同様、アクセスを諦めている。

多少、この混乱ぶりに行政側に同情?する部分がないわけではない。マイナンバーあるいはマイナンバーカードの説明不足、誤解、反対などが未整理のままに、今日まで推移してきたところで、突如勃発した今回の新型コロナウイルス感染問題である。多くの問題が一挙に行政の窓口に押し寄せることになった。

備えあれば憂いなし
10万円給付にまつわる諸問題は、いつ来るかもしれない次の危機への貴重な教訓となる。給付事務の渋滞・遅れなどの問題を別にすれば、この給付がいかなる経済効果を生むか、受給者の消費、投資、貯蓄などの面での行動について、しっかりした調査、検討が行われるべきではないか。

今回の給付は一回限りで、同様な給付が続けて行われる可能性は少ない。それだけに、こうした給付の経済効果は、効果を正しく掌握しておく必要がある。現在の段階では、ほとんど議論になっていないが、将来ユニヴァーサル・インカム(UBI)などのプランが地域あるいは全国を対象に構想されるような事態が生まれるとすれば、今回の10万円給付は重要な効果判断資料の一部となりうる。これほど大規模な社会実験はとてもできないからだ。それだけに今回の給付も全国的に遅滞なく実施されることが必須なのだが。

必要なのは政策目的の確立
今回の10万円給付は、政府としては「清水の舞台から飛び降りた」くらいの決断なのかもしれないが、政策目的は判然としない。突然の収入減への手当てくらいの認識なのだろうか。数ヶ月給付継続の案も出ているようだが、それならば一層政策目的の確立が必要となる。

ある国際比較によれば、世界166カ国の中で、日本政府が実施した経済支援は国内総生産(GDP)に占める比率で見ると、約2割に相当する108兆円で世界でも最高位にランクされるという。にわかに信じがたい評価でもある。
しかし、中央銀行の対応などを含めると、こうした順位は大きく変わる
(Ceyhun Elgin, BBC 8 May 2020)。

さらに、国民一人当たりの現金給付額となると、香港£985、アメリカ合衆国(£964)、日本(£752)、韓国(£659)、シンガポール(£340)などの順位となる(OECD, BBC)。

こうした経済支援は多くの国が現在も実施中であり、効果を評価するには、一定期間を限定する必要がある。マスクのように配布が長引くようだと、効果測定も難しくなる。いくら良薬を投入しても、タイミングを失すれば期待した効果は上がらない。

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日本語はどこへ行ったのか

2020年05月24日 | 午後のティールーム

「蛙」:ベルリン エジプト美術館蔵
FIGUR EINES FROSCHES

Negade 1 Dynastie, um 3000-2800 v. Chr.
erworben 1905
Elfenbein Hohe 2.7cm・Inv.-Nr. 17569
AGYPTISUCHES MUSEUM UND PAPYRUSSAMMLUNG
Staatliche Museum zu Berlin - Preussischer Kulturbesitz

 


新型コロナウイルスの感染症に関する対応の過程で、いくつか英語が使われている。これまであまり使われたことのない用語だった。とりわけ、気がついたのは次のような言葉だった。

ステイ・ホーム
ソーシャル・ディスタンシング
オーバーシュート
ロックダウン
パンデミック

新型コロナウイルスとともに、これらの英語あるいはカタカナ英語が日本に持ち込まれたが、最初に接した時に国民の皆さんにどれだけその意味が伝わっただろうか。周囲にいる人たちの反応は、説明がないとわからないと思った人が多いようだった。

日本のメディアは、外来語が好きなのか、かなりの数の横文字が日常生活では使われている。筆者は日本人としては比較的長くアメリカ、ヨーロッパの文化に近い環境で、これまでの人生を過ごしてきたが、しばしばマスコミ、メディアで使われる外国語の日本語への移し方の適切さなどで違和感を持ってきた。

今回の新型コロナウイルスの感染拡大の過程でも、上記のような英語が当然のように用いられてきたが、導入についてはもう少し配慮が欲しかったと思った。

「ソーシャル・ディスタンシング」は「フィジカル・ディスタンシング」へ
ひとつの例をあげてみよう。上記の例で、「ソーシャル・ディスタンシング」social distancing については、最初に使われた段階で、本ブログで少し記している。この言葉自体が大変分かりにくい概念なのだが、WHOは最初使用した時は、現実には一定の「物理的距離」を保つ、 physical distancingを意味したように思われた。ウイルス感染の危険を回避するため、人々が社会の諸活動で近接する場合、感染を防げると思われる距離をとって行動するという内容を伝えたかったようだ。公衆衛生学の分野でsocial distancing がこの意味で使われているならば、その旨の説明が欲しかった。さらに「社会的距離」social distance と「社会的距離を保つこと」social distancingでは意味が異なってしまう。

世界へ新型コロナウイルスが広がる過程で、この用語の分かり難さが表明され、人が互いに近づいて行動する場合には、2メートルくらいの距離をとって行動するという説明がつけ加えられた。要するに説明をしないと正しく意味が伝わらないという問題が起きてしまった。そんなことなら、初めから「物理的距離をとること」physical distancingといえば良かったのではないかということで、最近ではWHOもこちらに切り替えたようだ。さらに、このような重要なガイドラインならば、「(感染を避けるため)適切に距離を空ける」「適度な距離をとる」などの日本語を初めから使えば良いのにと思ったほどだ。

「ステイ・ホーム」は解説がなくとも、なんとなく分かるが、「オーバーシュート」overshoot (目標を越える、外れる)、「ロックダウン」lockdown (封鎖)などに至っては、説明を受ければわかるものの、どうしてわざわざ英語を使わねばならないのかと思ってしまう。日本語を使ったほうが直裁に正しくその意味が伝わると思うのだが。「パンデミック」pandemic (世界的流行病)に至っては、WHOがパンデミック宣言をすることで、ひとつの転機を画するに必要かもしれないが、この言葉に馴染みのない人たちにとっては、どのように受け取られているのだろうか。戦後、英語教育が十分ではなかった環境で育った人には、英語を聞いてすぐに内容が分かるというのはかなり無理なようだ。

 いつにない危機感で受け入れた緊急事態宣言も、ようやく解除の日が近づいた。それにしても鳴り物入りで誇示された国民へのマスク2枚の配布、まだ届かない地域も多いらしい。これも説明がないと分からない。

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遠からず来る時を前に(6): 1930年代「大恐慌」のイメージは?

2020年05月19日 | 特別トピックス

このたびの新型コロナウイルスCovit-19の蔓延による経済への大打撃は、1930年代の「大恐慌」the Great Depression 以来といわれることがある。確かに、このウイルスの蔓延拡大とともに、経済面への影響は急速に深刻化の度合いを強め、グローバル危機の様相を明らかにしてきた。

しかし、多くの人々が口にする「大恐慌」が、実際にいかなるものであったか、その現実を体験、あるいは記憶する人々は、きわめて少なくなった。このところ本ブログで数回にわたり記しているのは、「グローバル危機」といわれる世界史的危機が、いつ頃から発生したかという歴史的認識の確認である。その後、この範疇に入ると思われる世界的規模での経済不況の輪郭あるいは断片について記してきた。

「大不況」をいかにイメージするか
1930年代の大不況については、夥しい文献が蓄積されているが、それだけにその全容を、今日改めて視野に収めることはきわめて難しい。この大不況の終幕については、第二次世界大戦へのアメリカの参戦などにより、民需主体の経済政策の効果を確定することが困難に終わっている。アメリカを中心に行われた大規模な公共事業投資などの経済政策が知られているが、必ずしも共通な認識が得られているとは思えない。

こうした状況で、当時の経済、社会状況を体験しうるひとつの手段が映像、写真、絵画など、視聴覚に訴えるメディアといえる。前回、『LIFE』誌を援用し、その一端を記してみたが、今回も別の例を取り上げてみた。

巨大な造形美
この巨大な建造物の写真、アメリカ 、モンタナ州のフォート・ペック・ダム(Fort Peck Dam) である。このダムは、アメリカ・ ニューディール政策の1つの事業として、 ミズーリ川に建設された。雑誌 『LIFE』創刊号(1936年11月23日号)の表紙を飾った作品である。

この写真を撮った写真家は、マーガレット・バーク=ホワイト (1904 – 1971)
という女性であった。 ニューヨークで生まれ、大学卒業後、活気に溢れる産業都市クリーヴランドで工業製品の撮影を開始した。そしてごくありふれた工場の光景を力強く流麗な産業写真として表現し、大きな注目を集めた。『フォーチュン』誌などで評価を高め、1936年『ライフ』創刊号の表紙を飾り、以後同誌の中心写真家として活躍した。撮影対象も戦争や社会問題に積極的に取り組み、世界的なフォトジャーナリストとして、著名になった。日本でも作品集や作品展が開催されたこともある。

彼女がこの写真を撮影するためにダムを訪れた時、およそ1万人の労働者が建設現場で働いていたが、アメリカ経済は依然として不安定で先行きがおぼつかない状態だった。この写真はそこに働く労働者の力とそれが作り出す巨大な建造物によって、アメリカの当時の姿を象徴しようとしたものだった。

アメリカ経済の本格的な回復はその後の第二次世界大戦参戦による莫大な軍需景気を待つこととなる。太平洋戦争が起こり、連邦政府は見境のない財政支出を開始し、また国民も戦費国債の購入で積極財政を強力に支援した。1943年には赤字が30%を超えたが、失業率は41年の9.1%から44年には1.2%に下がった。しかしダウ平均株価は1954年11月まで1929年の水準に戻らなかった。

 

マンガ:『必要なのは新しいポンプ』
1935年近くの作品
ニューディールで政府は経済に呼び水を迎えるポンプを作るが、水は至る所に撒かれるばかりで、期待する効果がないと風刺。
Source: Alan Greenspan & Adrian Wooldridge, Capitalism in America: A History, New York: Penguin Press, 2018

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デフォーに取り組むが・・・:パンデミックを考える

2020年05月15日 | 書棚の片隅から

 
このたびの新型コロナウイルスの世界的な蔓延とともに、人類の歴史における感染症、とりわけ世界規模で蔓延したウイルスや細菌との戦いを描いた専門書、記録、啓蒙書、小説など多くの文書がメディアに登場した。ブログ筆者の目についた内外の書籍だけでも優に20冊を越えたのではないか。かなりキワモノもあるようだ。その中でこの機会に、もう一度読んでみようかと思ったのはカミュ、ダニエル・デフォーの著作だった。カミュ*1については比較的最近、放送番組にも取り上げられたこともあったので、とりわけ強い印象が残っていた。この作品を最初に読んだ時の衝撃は忘れられない。
 
*1 NHK 100分 de 名著 アルベール・カミュ『ペスト』(中条省平) 2018年 6月 
 
デフォーについては、『ロビンソン・クルーソー』(1719)を子供の頃、平易に書き下ろした版で読み、その後大学で経済学を志すようになった時、かなり読み込んだので馴染み深い。しかし、同じペストの流行を扱った A journal of the Plague Year (1722)については、カミュほど詰めて読んでいなかった。翻訳で読んだのだが、原著が18世紀初めの刊行ということもあってか、かなり苦労した。1665~66年にロンドンで蔓延したペストの大流行(Great Plague of London)なのに、なぜ半世紀以上経過した1722年になって自ら体験したように書かれねばならないのか、いささか疑念を抱いたためでもあった。1665年当時は、デフォーはまだ5歳だった。
 
同時代人としての想い
しかし、もう一度デフォーを読んでみようという気になった。それについては、別の要因も背中を押していた。このブログでも取り上げている同じ17世紀に、ヨーロッパで大きな問題となっていた魔女審判につながるものがあると感じたからだ。ペストなどの疫病が流行すると、社会の片隅に生きる人たちへの偏見、排除などがしばしば頻発した。事件が起きると、社会の雰囲気も一変した。
 
特にデフォーが執筆に際して感じていたのは、「コンテンポラリー」contenporary (同時代人) の意識ではないだろうか。ロンドンでの大流行から半世紀以上経過しているにもかかわらず、デフォーが、この出来事を取り上げ、Journal (年記)としたのは、自らが後世への記録に残すべき出来事として、同時代人 contemporaries としての思いがどこかにあったのではと思われる。
 
ブログ筆者が17世紀の画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールを追いかけてきた動機の一つは、まさにこの視点だった。17世紀、同時代に生きていた人たちは、この画家や作品をどう見ていたのか。その後の時代の経過の間に、21世紀の人間の視点との間にギャップは生まれていないか。
 
いずれにしても、デフォーのこの作品は、ペストがロンドンを襲った時には子供であった本人が、その後長じて自らの記憶と記録資料の上に、あたかも同時代人が目の当たりにした事実を書き記した体裁をとっている。
 
その意味では、第一級の史料というわけではない。本書は時系列を追った(chronological)体裁をとってはいるが、今日我々が考えるような厳密なものではない。かなり右往左往している。実際、本書はデフォー本人が記録をとって記したというのではなく、デフォーのおじではないかと思われる ’H.F.’ というイニシャルの人物が記したことになっている。イースト・ロンドンに住んでいたこの人物は、記録を残していたのかもしれないが、定かではない。デフォーが展開する叙述の基点は、ロンドンの主要な道路、地区、時には特定の家々で起きた出来事を描写する形で展開している。記された事柄が事実なのか虚構なのか、歴史なのか小説なのかという点についても後年議論が続いている。ジャーナリストでもあり小説家でもあるとの評も有力だ。
 
デフォーの辿った人生の激動についてみると、それ自体がそのまま小説や人物伝となりうる波乱万丈であった。彼が生まれた1660年まで、イングランドも二つの世界に分裂していた。蝋燭販売業だった家に生まれたデフォーの姓で、貴族的な’de’ が’ Foe’の前に付けられているのも、彼が階級class の重みを意識していたからと推定されている。デフォーは14歳まで学校教育を受けていないし、その後もオックスフォード、ケンブリッジのような古典的教養を身につける機会はなかった。それが彼の人生にとってプラスとなったか否かもわからない。
 
今回手にしたのは、たまたま見つけた下記のPenguin Classics版*2である。時間はあるし、翻訳を離れて、原文に挑戦しようと思った。この版、作品理解に関わる史料などが多数付記されていて、大変便利な上に、1966年版へのAnthony Burgesの紹介も掲載されている。表紙もこのテーマにありがちなどぎつさもなく、好感が持てる。粗筋は大体覚えていたので、多分英語版でもなんとかなると思ったが、苦労することになった。そのため、途中から武田将明訳、研究社を横に置いて読むことになった。大変こなれた訳で感謝している。友人のイギリス人の間では、このPenguin版を使った読書サークルが生まれたようだが、英文学専攻でもない日本人にはかなり手強い。
 
大きく変わったロンドンの表情
ロンドンの姿はこの感染症の蔓延で、短期間に異様な変化を見せた。1965年から1966年の18ヶ月の間に、ロンドンの人口の6分の1に当たるおよそ10万人の命が失われたといわれる(異説も多い)。
 
今回の新型コロナウイルスの世界的蔓延を彷彿とさせる叙述が各所に現れる。デフォーの作品の冒頭に出てくる1644 年9月初め、「ペストがオランダに戻ってきた」という部分は、今回の新型コロナウイルス蔓延の発端当時の世界の受け取り方を想起すると、あまりに衝撃的だ。あれは外国のこと、自分たちには関係ないと思っていたことがある日突然、目の前に現れ、自分の問題となる。現代社会では、その感染時間がきわめて短縮されている。
 
当時のロンドンは決して美しい都市ではなかった。ペストの流行で、その光景は異様なまでに変化した。人影は少なくなり、ネズミやノミが目立った。ネズミが媒介するということは、分かっていたようだ。病死した人々の死体ばかりでなく、犬、猫の死骸も目立った。犬が4万頭、猫はその5倍との記述もある。
 
デフォーはロンドンの各地域での出来事を記述し、臨場感をつくり出している。人間の様々な行動、愚かさや悲しさとともに描写されている。奇矯な人物 Solomon Eagle なども現れ、フリート街*2をパレードしたりしていた。パンデミックの影に怯える人間の様々な行動、その愚かさや悲しみが描かれている。感染病についての知識が少なかった当時と今とでは、その現れ方は当然異なるが、人間の抱く不条理、不合理、狂気、偏狭さなど、本質に大きな変わりはない。
 
*2 余談:フリート街はロンドンではかなりよく知られたストリートだが、その変容ぶりは驚くほどだ。1980年代、かつてこの地域に詳しいインペリアル・コレッジの友人に同行して何度か新聞社などを訪れたことを思い出した。その後の変化も驚くほどだ。
筆者稿「フリート街の革命:イギリス新聞産業における技術革新」『日本労働協会雑誌』1986年9月

ソロモン・イーグルについては、デフォーのA Journal of the Plague Year に次のような記述がある:

I suppose the world has heard of the famous Solomon Eagle, an enthusiast. He, though not infected at all but in his head, went about denouncing of judgment upon the city in a frightful manner, sometimes quite naked, and with a pan of burning charcoal on his head. What he said, or pretended, indeed I could not learn.

 
本書を読むには、18世紀ロンドンの地図にある程度通じていないと、興味がそがれるかもしれない。幸い、今日われわれが手にする版(翻訳を含む)には、こうした点への配慮がなされていて、読者には大変有難い。それでも、なんとか読み通すには2ヶ月以上かかってしまった。新型コロナウイルスの脅威はまだ去っていない。
 
 
REFERENCES
 
Daniel Defoe, A Journal of the Plague Year, Penguin Books, 2003

Contents
Chronology
Introduction
Notes
Further Reading
A Note on the Text
A Journal of the Plague Year
Appendix I: The Plague
Appendix II: Topographical Index
Appendix III: London Maps
Appendix IV: Introduction by Anthony Burgees to the 1966 Penguin English Library edition
Glossary
Notes
 
ダニエル・デフォー(武田将明訳)『ペストの記憶』 (英国十八世紀文学叢書第3巻 カタストロフィ]) 研究社、2017年

 

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写真の力 絵画の力

2020年05月11日 | 午後のティールーム


絵画の力、写真の力

ひとりの長い黒衣の男が帽子を被り、マスクをして歩いている。すぐ背後には何やら立て看板らしきものが写っている。中国語らしき文字が読み取れる。その背後には城壁と城塞か宮殿らしき建物があるようだ。人物以外はぼんやりとして夕暮れのような雰囲気である。新型コロナウイルスと関連しているのだろうか。

しかし、説明文らしき見出しには、A LAST LOOK AT PEIPINGの文字が読み取れる。写真右上部には、LIFEと記されている。LIFE の文字の下には小さな文字で次のように記されている。

LI FE   Vol. 26, No.1  January 3, 1949

これだけの情報で、何を写した写真であるかが分かる方がおられれば、大変な敬意を表したい。

さらに追加のヒントを差し上げることにしよう。

ここに記された年月、そして立て札が中国語であることは、大きな意味を持っている。中国現代史を振り返ると、この年次は極めて重要な意味を持つ。「1949 年」という時点は、中華民国 の歴史的分岐点であると同時に、中華人民共和国の出発点として重要なベンチマークの地位を占め ている。言い換えると、中華人民共和国の成立と中華民国(後の台湾)の大陸拠点喪失という歴史的時点である。

1948年11月、中国本土では、いわゆる三大戦役が終結し、毛沢東率いる共産党は総攻撃で、国民党が拠点を置く大都市を相次いで占領した。国民党にはもはや共産党人民解放軍の侵攻を食い止める余力がなくなっていた。同年12月には、共産党は、蒋介石・李宗仁・陳誠ら43人の戦犯名簿を発表、他方で国民党行政院は、陳誠を台湾省政府主席に任命した。さらに、国民党中央常務委員会は、蒋経国を台湾省党部主任委員をすることを決定している。そして、1949年1月31日には、人民解放軍が北平に進駐した。

時代の転換を写しとろうとした『LIFE』の試み
これらの歴史的経緯を念頭に置いた上で、この写真の種明かし?をしてみよう。歴史のある写真雑誌『LIFE』は著名な写真家アンリ・カルティエ・ブレッソン Henri Cartier-Bressonを、滞在中のビルマ(現在のミャンマー)から呼び寄せ、共産軍が北平進入を目前にして、紫禁城の一部を背景に、中華民国最後の一光景を撮影した一枚とされる。歴史的に決定的な断絶がこの時に生まれると判断したようだ。背景が曇ったように鮮明ではないのは、黄砂の飛来で空気が汚れ、全体が薄暗くなっている。マスクをした黒衣の人物は、当時の学生姿とみられる。

写真雑誌『LIFE』は1936年の発刊で1972年に終刊している。若い世代の方々には、見たことのない人もおられるかもしれない。しかし、刊行されている間は、世界に多数の読者層を持ち、歴史的記録としても貴重な存在であった。このブログでも何度か紹介したことがある(例えば、Bill of Rights 特集)。掲載されている写真が見る者に迫ってきて飽きることがない。歴史を身近なものとして感じられる貴重な記録文献でもある。

このたび、『LIFE誌と写真の力』と題し、同誌が刊行されていた間、その写真を主とした読者への印象と説得力を再検討する記念碑的書籍が刊行された。


LIFE Magazine and the Power of Photography Edited by Katherine A. Bussard and Kristen Gresh, Princeton University Art Museum, Distributed by YaleUniversity Press, New Heaven and London, 2020

ちなみにその表紙は、鉄工労働者が溶接作業を行っている一枚が飾っている。

ブログ筆者は、前回掲載したイギリスの画家L.S.Lowryに代表されるように、人間の働く姿、産業の状態などを描いた作品に、とりわけ関心を抱き、折に触れ紹介してきた。絵画作品と写真の作品の間には、それぞれ特色があり、興味深いものがある。読者はどんな印象をお持ちだろうか。

 

 

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遠からず来る時を前に(18): 資本主義盛衰の現場を描いた画家

2020年05月07日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

L.S. Lowry, An Industrial Town, 1944, part


新型コロナウイルス(COVID-19)が世界へ持ち込んだ衝撃は、多くの国が見えない敵との厳しい戦争と受けとっている。最も死者の多いアメリカの場合、死者は62,850人(2020年5月1日時点)に達し、9年間に及んだヴェトナム戦争(1964~1975年)での死者数58,220人を越えている。戦争に例えることは適当ではないとの批判もあるが、極めて厳しい事態であることは疑いない。

二つの世界大戦
前回、F.D.ローズヴェルトが「大恐慌」からの脱却に懸命だった1939年9月1日、ドイツと独立スロバキアの同盟がポーランドに進攻したことで、戦争状態となり、イギリス及びフランスが宣戦布告したことで第二次世界大戦の勃発となった。9月17日にはソ連もポーランドに侵攻した。F.D.ローズヴェルトが大恐慌に対する政策手段として企図したニューディールは予期せざる莫大な軍需の発生によって、強硬克服の政策としての民需の独立した効果を見定めることはできなくなった。しかし、20世紀は二つの世界大戦を経験したことで、「危機の世紀」として、人類の歴史に刻み込まれた。

そして21世紀に入るや、9.11、3.11、リーマンショックなどに続き、新型コロナウイルスの世界的蔓延を迎えた。

COVIT-19が変える産業と社会
新型コロナウイルス蔓延の結末が見えていない段階で、すでに「コロナ後の世界」がいかなるものになるか、見取り図を期待する動きが始まっている。日本では当面は緊急事態宣言がいかなる形で幕を下ろすことができるかに焦点が集まっているが、いずれ同様な議論が活発化するだろう。すでに今世紀に入ってから始まっていた第4次産業革命、Version Four, AI革命など様々なタイトルで呼ばれている新たな産業社会のイメージが、COVIT-19後の世界にどの程度継承されるかという問題にも関わっている。

コロナウイルス後の世界については、感染の収束を待って、これからの検討課題となる。この新型ウイルス蔓延以前に描かれていた世界像やイメージは、そのままではつながらなくなった。それほど大きな衝撃が世界に加えられたことは、さらに言葉を要さないだろう。

この点を多少なりと理解するには、現代の資本主義社会がいかなる特徴を伴って展開してきたかについての検討が欠かせない。しかし、その作業はこの小さなブログの課題ではない。ただ、今後の議論に多少なりと役立つと思われる論点、キーワードについては折に触れて記してみたい。

産業革命を描いた画家
ここでは美術のイメージの力を借りて、第一次産業革命以降、資本主義発展の主流となったイギリスに展開した工業化という変化がもたらした状況を克明に描いたL. S. ラウリーという画家の作品を改めて紹介しておこう。すでにこのブログでもかなり立ち入って紹介をしているが、最近日本でも急速にファンが増えてきたことは、大変嬉しいことだ。作品数が多いので、いずれ日本での企画展も実現する日もあるかもしれない。

ローレンス・スティーヴン・ラウリー  Laurence Stephen Lowry (1887年 11月~1976年2月23日 )は、イングランドのストレットフォード(Stretford)に生まれた画家である。その デッサンおよび絵の多くは、英国の マンチェスターのペンドルベリー(Pendlebury)(同地で画家は40年以上にわたって暮らし、創作活動した)、サルフォード(Salford)およびその周辺地域を題材に描いている。

この画家は通常の画家たちが美術制作の対象とみなさなかった工場や炭鉱、そこで働く労働者や家族の日常生活などのあらゆる面を制作対象とした。第一次産業革命(綿織物と蒸気機関が手工業を)および第二次産業革命(電気と石油が大量生産を大きく加速した)の時代がほぼ対象となる。コンピューターが使用され、単純作業を機械化する第三次産業革命は、ラウリーの晩年くらいに動き始めていた。

画家は他に類を見ない独特の絵画製作のスタイルを発展させ、「マッチ棒男」(”matchstick men”)としばしば評される人の姿を描いたことでよく知られている。その画風は一見すると稚拙に見えるが、仔細に見れば地道な努力を重ねた上で体得した、この画家独自のものであることがわかる。ラウリーは、生涯に約1000点の絵と8000点を超えるデッサンを制作した。

ラウリーの作品には、イギリス産業革命発祥の地を中心に、産業革命がいかに自然豊かな農村社会を変貌させたか、産業革命がもたらした変化がいかに大きいかを独特の迫力ある表現で描いている。ラウリーの作品が与える力強いイメージは、写真より迫力がある。見る者に訴える力は大変強い。この画家の描き出した産業の姿、そしてそこで働く労働者、そして家族が日々を過ごす地域社会の喜怒哀楽がラウリー独特の筆使い、彩色で見事に描かれている。産業革命によって土地から切り離され、資本家に雇われ働く以外に生きる道の無くなった労働者の姿が生き生きと描き出される。

ラウリーの作品は、しばしば人間、とりわけ苦難な環境で働き、生きる労働者や家族の日常を描きながら、時に飄々として、ユーモラスな印象を与える。

L.S.Rowry, MAN LYING ON A WALL, 1967

N.B.
ラウリーが残した作品などの文化的な遺産は、サルフォードの「ザ・ラウリー」は、2,000平方メートル (22,000 ft²)の画廊、彼の絵画のうち55点と278点のデッサンなどが納められ、この画家の作品の世界最大の収集・展示場となっている。 

その他、ロンドンのテート・ギャラリーは、23点の作品を所有している。サウサンプトン市は『浮き橋』(The Floating Bridge)、『運河橋』(The Canal Bridge)および『工業都市』(An Industrial Town)を所有する。その他ニュージーランドのクライストチャーチ・アート・ギャラリー・テ・プナ・オ・ワイフェトゥ(Christchurch Art Gallery Te Puna o Waiwhetu)なども画家の重要な作品を所蔵している。

 

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遠からず来る時を前に(4):ひとつの整理

2020年05月02日 | 特別記事

 

ニューヨーク、クライスラー・ビルディング眺望

緊急事態宣言が延長されることがほぼ確定した5月1日、そして今日も日本列島はほとんどが真夏日のような快晴だ。例年ならば、連休のさなか、多くの人たちが国の内外、至る所で休日を楽しんでいる時なのだが。

「危機の時代」は「文化の時代」
前回に続き、1930年代のアメリカについて少し記したい。ブログ筆者はかねてからこの時代にある関心を寄せてきた。というのは、1930年代のアメリカは大恐慌によって深刻な経済危機を経験したが、他方、文化面でも「ニューディール文化」New Deal Culture といわれる社会文化的状況を生み出し、注目すべき時代だった。危機をものともせず、社会に貢献する画期的な発明・発見が活発になされた時代であった。この年代の感想を今は少なくなったが、年配のアメリカ人に聞くと、特別な感慨を抱くという人も多い。筆者の友人の両親(今は故人)なども、浪費を避け、ものを大事に扱うなど、苦難な時代の消費パターンが身についた人たちだった。

この時代は、1929年10月のウォールストリートの株式大暴落と1941年12月の日本軍による真珠湾攻撃という衝撃的な出来事で、あたかもブックエンドのように挟み込まれた特異な期間である。

東京オリンピック開催期待の大輪の花火があっという間に消えて、新型コロナウイルスの世界的蔓延で暗転した世界、そこに何が起こり、何が期待できるか。少しタイムマシンを戻してみた。

筆者が初めてニューヨークを訪れた時、最初に出かけた場所の一つに、クライスラービルがあった。親しい友人の父親が、ここに支店を置く銀行の支店長をしていたので、連れて行ってくれたのだった。以前にブログに記したこともあった。当時その銀行、Manufacturerers Hanover Trust Companyは、アメリカの3大自動車企業クライスラー社のメイン・バンクでもあった。クライスラー・ビルは、アール・デコ風の特徴のある美しいビルだった。内部のオフイスも重厚感ある素晴らしい雰囲気だった。スリーピースを着込んだホワイトカラーがゆったりと仕事をしていた。このことは、以前にブログに記したことがある。

この銀行はそれまでいくつかの合併を重ね、下記のロゴを使っていた。
The 1960–1986 Logo



クライスラー・ビルディングは、高さ世界一の超高層ビルを目指して 1928年に着工した。当時、ニューヨーク市内では高さ世界一を狙う超高層ビルの建設で競争の真っただ中であった。この建設は、特に ウォール街の シンボルを目指したウォールタワーと 世界一の高さを競って、当時としては猛烈なピッチで進められた。建設途上でも競争相手の動向に応じて、設計内容を次々と変更した。ここでは省略するが、その沿革を調べてみると、非常に興味深い。

1930年4月、38 mの尖塔を建設途上で追加し319mとなり、クライスラー・ビルディングは完成した。 ウォールタワーを上回り、世界一高いビルの座につくことができた。しかし、翌年の 1931年エンパイアステート・ビルの完成により、世界一の座を明け渡すことになる。それでもアメリカの1920年代の繁栄の歴史を物語るニューヨークの摩天楼の中の傑作である。エンパイアステート・ビルから見たクライスラー・ビルは大変美しい。とりわけ、ステンレスで輝く尖塔部分が大変印象的だ。

クライスラー・ビルの尖塔

平均して一週間で4階分の高さを増していくというペースにも関わらず、この建設工事中に死亡した作業員はいなかったとの記録がある。労災史上でもかなり注目される建造物である。

クライスラー・ビルの他にも、コカコーラ・ビル、サンフランシスコのゴールデンゲート・ブリッジなど、今日でもアメリカの歴史に残る建造物もこの時代に建設された。さらに、世界史の教科書でニューディールの中心事業として必ず目にするコロラド川のフーバー・ダムも当然建造された。

明日の世界を創る Inventing the world of tomorrow
建造物にとどまらず、多くの斬新な発明、その成果物としての製品もこの時代の産物である。例えば、エレクトロン、マイクロスコープ、レーダー、合成ゴム(ネオプレーン)、ナイロン、テフロンなど、記憶に残るものも数多い。ニューヨークの第3の空港ラガーディアもこの時代に着工している。

さらに、アメリカではカラー映画の制作、スウィング・ジャズ、ハリウッドの黄金時代なども記憶に残る。この時代はアメリカの明日を創り出す時代であったとも言われる。

暗い時代の日本
他方、日本は1929年(昭和14年)10月にアメリカ合衆国で起き、世界中を巻き込んだ世界恐慌の影響が日本にも及び、翌1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)にかけて日本経済を危機的な状況に陥れ、戦前の日本における最も深刻な恐慌をもたらした。そして、満州事変、5・15事件、国際連盟、国際労働機関からの脱退、海軍軍縮条約の破棄、2・26事件、日中戦争勃発などで第二次世界大戦への道をひた走っていた。

コロナウイルスが変える国家の盛衰
コロナウイルスの感染に関して、過去の感染症との比較の上で、特徴的とも言えるのは、この感染症の発症、治療、回復に関わる対応が地政学的にきわめて政治化していることである。これまでのグローバル化へ向けての歯車が急速に逆転し、各国の国境の壁が急速に高まっている。人の流れにも逆流が生じている。世界の移民・難民の流れには、注目すべき変化が現れている。

そして、コロナウイルスへの対応いかんが国家の盛衰を定めている。巧みに対応した国は、国力を大きく損じることなく、次の時代へ向かうことができる。他方、失敗した国は、著しく国力を失い、来るべき時代への対応に遅れをとる。

世界的感染の帰趨が未だ定まらない今、すでに「コロナ後の世界」が語られている。こうした大きな危機の後には、政治、経済などの変化が他に類を見ないほど急激に展開することも多い。危機が革新を必然化するともいえる。平穏な時代ではそれまで確立されている諸制度などが桎梏となって実施できないことが、緊急の必要から実行できるようになる。日本は過去の大恐慌の実態から何を学ぶか。これらの点については、改めて記すことにしたい。


[参考]
1910〜1962年のアメリカ合衆国の失業率推移


上掲グラフの青色着色部分は、大恐慌期(1930-40年)。失業率がきわめて高いことに着目。

 

続く

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