時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

「平和」か「不安」か 〜 ターナーの傑作が伝えるものは〜

2020年08月29日 | 絵のある部屋

J.M.W.Turner, Peace – Burial at sea 
oil on canvas, 87x86,5cm
Tate Accepted by the nation as part of the Turner Bequest 1856
exhibited 1842

J.M.W. ターナー 《平和ー海での水葬》



英国ロマン主義の巨匠ジョセフ・マロード・ウイリアム・ターナー(J.M.W.Turner:1775~1851)の名前は、日本人の間にいつごろ知られるようになったのだろうか。筆者の場合、やはり夏目漱石の「坊っちゃん」に出てきたことで、その名を知ることになった。あの有名な場面である。

「あの松を見給え、幹が真直で、上が傘のように開いてターナーの画にありそうだね」と赤シャツが野田にいうと、野田は「全くターナーですね。どうもあの曲り具合ったらありませんね。ターナーそっくりですよ」と心得顔である。ターナーとは何の事だか知らないが、聞かないでも困らない事だから黙っていた。――『坊っちゃん』(1906年)

その後の人生で、ターナーの作品にはかなり出会った。特に、17世紀の画家たちの世界に深い関心を抱き、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールと同時代のロレーヌ出身の理想的風景画家クロード・ジュレ(ロラン)の作品を探索していた頃、クロードから大きな影響を受けたターナーについてかなり知見を深めることができた。ちなみに、イギリスではクロード・ジュレは、クロードとファースト・ネームで呼ばれる事が多い。いうまでもなく、ターナーは今ではイギリス屈指の国民的画家である。

比較的最近では、筆者の知るかぎりでは、下記の企画展が晩年の画家の作品を展示した。会場のテート・ブリテンはターナーが国に遺贈したほぼ全作品と関連資料を所蔵している。いわばターナーの殿堂である。画家の作品数は極めて多い

特別展「LATE TURNER PAINTING」。2014年9月10日~2015年1月25日開催。

筆者にとって、画家の作品で印象に残るものがいくつかある。そのひとつが、ここに掲げた《平和ー水葬》(Peace - Burial at Sea) と題した画家晩年の名作である。長年、仕事場の壁にポスターを掛けていた。そして昨年急逝した
イギリス人の友人WBも同じようにしていたことをふとしたことで知った。本年4月にケンブリッジで追悼の会が開催されるはずであった。

画面中央へ配されているのは汽船(帆布も併用する蒸気船?)と思われる。そこには立ち上る黒煙と共に深い影が落ち、帆先の部分まで黒色で支配されている。そして汽船を分断するかのように一本の光の筋が縦に入れられ、観る者の視線を強く惹きつける。さらに画面上部にはやや白濁した色の空が広がり、また画面下部では汽船を反射し黒ずむ水面が描き込まれている。しかし、画題がなにであるかは、説明がないと分かり難い。一見したかぎりでは、なにを描いたかすぐには分からない不思議な作品である。

中央部の煙突のようなものからは黒い煙のようなものが吹き出している。画面全体は黒色系統の暗色が支配しているが、焔のような光源で照らし出された船体、空などが画面にかなりの明るさを与えている。船上では何が起きているのか明らかではない。

もともと本作品は、八角形の画面で展示・公開されていた。色彩について最も注目すべき点は、晩年期のターナーの特徴とされる黒色の使用にあるとされる。本作の対画として展示されたナポレオンの晩年を描いた《戦争-流刑者とあお貝》に用いられている燃えるような赤色や黄色の色彩と対照的に、この作品では青色を始めとした黒色など、寒色系が主色として使用されている。この色彩使用は画家も読んでいたヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの『色彩論』に記される「青色・青緑色・紫色は落ち着き無く、過敏で不安な色彩」の具現的描写であると考えられている。また当時としては「不自然な暗さ」と批判も大きかった汽船部分に用いられている黒色は、画家の死に対する不安を象徴していると推定されている。

この作品の対画となる『 戦争-流刑者とあお貝』(別の機会に取り上げたい)と共に1842年のロイヤル・アカデミーで発表された本作は、ターナーのかつてのライヴァルであり、数少ない良き友人のひとりでもあった画家サー・デイヴィッド・ウィルキーが、1841年に汽船オリエンタル号の船旅での途中に起こった海上事故で没し、ジブラルタル沖合へ水葬されたことに対する追悼の含意が込められた作品である。同じくウィルキーの友人であった画家仲間のジョージ・ジョーンズが船上の情景を素描し、その素描に基づいてターナーが本作を仕上げたことが伝えられている。

本作品がロイヤル・アカデミーで発表された際のカタログには「真夜中の光が蒸気船の舷側に輝き、画家の遺体は潮の流れに委ねられた-希望の挫折」との一句が共に掲載された。画題につけられた「 Peace 平和」とは亡き友の鎮魂を祈る画家の心情なのだろうか。

折しも新型コロナウイルス禍に世界が揺れ動く時、この作品に接した人たちはいかなる印象を受けるだろうか。先の見えない現実を前に、多くの人たちが「希望の挫折」を感じる中で、この作品を見る人たちはなにを感じるだろうか。「平和」それとも迫りくる時代への「不安」のいずれだろうか。







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真夏の夜の一冊:ブライズヘッドへの旅

2020年08月21日 | 書棚の片隅から



新型コロナウイルスの世界的拡大で始まった今年の夏は、いつもとは大きく異なるものになった。Stay Home とGo to Travel という相矛盾する耳慣れない言葉が行き交う中で、多くの人はいかに夏をすごすべきか、それぞれに戸惑うことになった。

熱中症のことも考えると、やはり家で静かに暮らしているのが安全なようだ。何度繰り返したかわからない整理という名目で、いつとはなく積み重なってしまった紙の山を崩しては、別の山を作るという愚かしいが、多少は疲れた頭脳が活性化する作業をしている。昔読んだが、十分には理解できず「断捨離」の対象には思いきれなかった書物が現れてくる。

『再訪のブライズヘッド』
その一冊、イーヴリン・ウォーの「回想のブライズヘッド」(1945*)が、目についた。この名作、日本では必ずしも広く知られていない。かつて筆者がイギリス、ケンブリッジに客員として滞在していた頃、友人の大学副学長(ダーウイン・コレッジ学寮長)W.Bを含むフェロー3人の話の中で浮上し、読んだことがあった。「20世紀の小説で後世に残るべき作品はなにか」という話題の中で浮かび上がった一冊である。およそ30冊くらいが話題になった。当時話題となっていた『日の名残り』Remains of the Day もそのひとつだった。その他、W.フォークナー、オルダス・ハックスレー、J. スタインベック、E. ヘミングウエー、G.オーウエル、A.カミュ、J. サリンジャーなどが頭に浮かぶ。

WBは昨年秋に急逝し、今年4月にケンブリッジで追悼の会を開催することが予定されていた。それも新型コロナ禍で中止になってしまった。WBはオックスフォード出身だが、ケンブリッジで人生の後半を過ごした。

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N.B.
*Evelyn Waugh, Breideshead Revisited (1945), 1960
イーヴリン・ウォー(小野寺健訳)『回想のブライズヘッド』(岩波書店、2009年)
本書には英語版でもかなり多数の版があ
る。それに伴い、表紙も上掲のようにさまざまで未読の読者には、内容について異なったイメージを与える。ブログ筆者はシンプルなペンギン版(1962)を参考にした。
邦訳も吉田健一訳などがあり、表題も異なる。今回は小野寺健訳(岩波書店、2009年、全2冊)を参考にした。達意の訳者の手になるこの版は上巻終わりに「解説イーウ”リン・ウォーと『回想のブライズヘッド』」が収録されており、構成上はかなり違和感がある。下巻で最期のページに行き着かない前に解説が出てきてしまうのだ。

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梗概については触れないが、画家である主人公チャールズ・ライダーのローマ・カトリックへの回心(conversion)が暗黙裡に一本の糸となって、ストーリーが展開する。話の舞台となるのは、チャールズが学生時代を過ごしたオックスフォード、次いで実家があり、第一次世界大戦後のイギリスの象徴でもあるロンドン、そして主人公の精神的遍歴、回心にとって最重要な土地ブライズヘッドである。ブライズヘッドは架空の地である。学問、友情、純粋、成長などを育んだオックスフォード、欲望、奢侈、背徳、虚栄、堕落、絶望などがうごめくロンドン、贅沢、洗練、崇高、純粋、神秘などに満たされる究極の場としてのブライズヘッドと、人間の人格形成にそれぞれ異なった重みを持つ。
描かれている世界は、あくまでイギリス社会の最上層を占める上流(貴族)階級の内側である。社会を構成する大多数の中下層階級は視野の外にある。しかし、この恵まれた、しかし多くの問題を抱えた一部の人たちに触れないでイギリス社会を理解することはできないのだ。

小説では20世紀の前半におけるイギリス社会の文化的荒廃の中で、上流(貴族)階級の一角を構成する登場人物の精神的遍歴が描かれている。オックスフォードやケンブリッジはイギリス社会の中ではいわば飛び地のような存在であり、外の社会の世俗性とは隔絶された場所である。ブログ筆者もケンブリッジのコレッジに滞在してみて、その秘密主義、独立性、特異性が継承されていることを感じた。古いコレッジではシニア・フェローになれば、外へ出かけなくとも生活にさしつかえない。今ではほとんどのコレッジが男女の区別なく受け入れているが、かつては原則男子だけであった。小説の主要登場人物の一人セバスチャンも、コレッジに多いゲイとして描かれている。これもコレッジの環境では珍しいことではない。

画家を目指す主人公チャールズが抱く絵画は写真より優れているとの考えに、終生の友人となるセバスチャンは魅了される。
夏休み、セバスチャンはチャールズをブライズヘッドのマーチメイン公爵家の大邸宅に招く。そこはセバスチャンの実家であり、カトリックの教義の下、厳格だが贅沢な貴族の暮らしの場であった。二人はそこで関係を深める。他方、チャールズとセバスチャンの妹ジュリアの恋も、政略結婚が支配する中では実ることはなかった。その後、セバスチャンはアル中の上に、心に大きな傷を負い、モロッコへ流れてアヘン中毒者としてほとんど廃人となってしまう。

時は流れて戦争の時代を迎え、チャールズは上級将校として多くの思い出を刻むブライズヘッドを訪れる。かつてセバスチャン、妹のジュリア、そして母であるマーチメイン公爵夫人が住んだ大邸宅の軍事的接収が任務だった。身近かにさまざまな愛や葛藤に明け暮れた人たちの姿はそこにはない。

‘It’s NOT a bad camp, sir’, said Hooper. ‘ A big private house with two or three lakes. You never saw such a thing.’
‘Yes I did.’ I replied word-wearily. ‘I have been here before.’
 I had been there; first with Sebastian more than twenty years before on a cloudless day in June, when the ditches were creamy with meadowsweet and the sentences heavy with nostalgia. 

〜Evelyn Waugh, Brideshead Revisited 〜

カトリックへの回心
ブログ筆者が本書を最初に読んだ時、十分理解できなかった点がかなり残ったが、とりわけチャールズが最期の段階でローマ・カトリックへの遠からぬ入信を思わせる経路であった。その後の知識の獲得で多少理解が進んだと思うこともあった。そのひとつはイーヴリン・ウォーが1930年に英国国教会からカトリックに改宗していた事実だった。なにがこの作家を少数派のカトリックへ導いたのか。

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N.B.
イギリスでは国王ヘンリー8世がローマン・カトリックから離脱し、英国国教会を作って以来、プロテスタントがカトリックよりも優位に位置していた。そのため、英国国教徒(アングリカン)カトリックは少数派であった。この小説でマーチメイン公爵家のような貴族がカトリック教徒であることはきわめて珍しく、ブライズヘッドの家系に深い影を落としている。小説でも宗教間の微妙な駆け引きが理解を深める上で大きな役割を果たしており、微妙な陰影を落としている。
さらに、小説では明示的には扱われないが、オックスフォード・ムーヴメントOxford Movementというひとつの宗教的運動が影響を与えたともいわれている。オックスフォードを舞台とした「教会には国家や国教制度から独立した神から与えられた権威が存在する」という理念に基づき、教会、文学を含む知的活動、文化に一定の影響を与えた。英国国教会の上層の一部がアングロ・カトリック(イングランド・カトリック)につながるという変化が社会の精神的、物価的面に影響を与えたと思われる。この運動は文学のあり方にも大きな影響を与えたとされる。
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コロナ禍、熱中症の嵐が世界を襲う異例な夏、暑さしのぎの断捨離仕事で再会したこの一冊、案の定一筋縄では行かなかった。一行、一節に考えさせられ、行ったり来たりの時を過ごした。一行に作家の深い思いがこめられている。その間、暑さや新型コロナのことは忘れていた。目指した「断捨離」作業は進まず、本は本棚の片隅に戻された。再び出会うことはあるだろうか。









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繁栄の日々は取り戻せるか:バイデン氏の故郷

2020年08月17日 | 回想のアメリカ

カマラ・ハリス上院議員を来るアメリカ大統領選における副大統領候補に選んだアメリカのジョー・バイデン(Joe Biden)民主党大統領候補が、8月9日ペンシルベニア州スクラントンの鉄鋼工場で演説をおこなった。「より良く立て直す」Build Back Better という経済政策の発表場所として選んだこの地は、バイデン氏の故郷であった。



スクラントンという場所
このスクラントンという地は、図らずも筆者が半世紀以上前、しばしば訪れたところだった。ニューヨーク州の北部に所在する大学院に在学していた筆者は、ニューヨーク市や友人の家があるニュージャージーへの往復には必ずこの場所を通過した。スクラントン、ビンガムトン、エルマイラ(マーク・トゥエインの墓地がある)などの地名は、グレイハウンドなど路線バスの経路でもあり、懐かしい響きがある。

スクラントンで生まれ育ったジョー・バイデン氏は、アイルランド系移民の子孫、宗教はローマ・カトリックの信徒である。J.F.ケネディ大統領の当選で、政治における宗教の壁の一角は崩れた。とりわけプロテスタントとカトリックを分け隔てていた壁は大統領の座への障害ではなくなった。

他方、バイデン氏は家庭については大変恵まれなかったようだ。バイデン氏の家庭は当初は裕福であったが、父親が事業に失敗して以後家計は窮迫し、最初の妻と子供を自動車事故で失うなど、家族の不幸も重なって苦難な日々を過ごした。しかし、政治家としては多大な努力を続けた。選挙区も州を越え隣接したデラウエア州に移転している。努力して民主党中道派を代表する上院議員として、7回の上院議員当選、36年の議員生活を送った。2009年1月にはオバマ大統領の副大統領を努めた。

炭鉱・鉄鋼の町
バイデン氏を育てたスクラントンには良質な瀝青炭の炭鉱があり、広大な露天掘りの炭鉱があった。エネルギー源を石炭火力に依存する鉄鋼業や縫製業で発展したこの地域の中核的な都市だった。しかし、1930年代頃から炭鉱や鉄鋼業の衰退に伴い、地域は衰退の道をたどった。筆者が最初に訪れた1960-70年代、町には活気がなく、寂れた感じは拭えなかった。廃坑になった炭田の規模には圧倒されたが、人影も少なかった。その後、ラスト・ベルトの一角として知られるようになった。しかし、地域再生は遅々として進まず、最近では政治的にも共和党のトランプ大統領が再生を約して圧勝した地域だった。しかし、トランプ氏の地域政策は功を奏していないようだ。

スクラントンは 一時期、新しい産業が生まれたこともあった。ライト・エイド 創業の地としても知られている。 1962年 に地元実業家アレックス・グラスがスクラントンのダウンタウンに開いた [ドラッグストアは成功し、やがて 東海岸最大のドラッグストアチェーンへと成長した。

しかし、こうした新たな産業が生まれた一方で、地域の主要産業の炭鉱などでは労働問題も起こっていた。この頃の炭鉱労働者は低賃金で長時間労働を強いられていた。ジョン・ミッチェルなどの労働運動家の活動により、炭鉱労働者の労働環境も改善された。 1930年には、スクラントンの人口は143,433人でピークに達し、 フィラデルフィア、 ピッツバーグに次ぐ州第3の都市になっていた。 第二次世界大戦で燃料需要が増大すると、スクラントンとその周辺ではいたるところで石炭の露天掘が行われ、供給を拡大させた。

N.B.
1955年に ハリケーン・ダイアンが引き起こした洪水は市の東部・南部に被害を及ぼし、死者80名を出した。 1959年には南西郊のピッツトンの近くにあったノックス炭鉱に サスケハナ川 の水が入り込み、坑内を冠水させる事故が起きた。死者12名を出したこの事故により、この地での石炭産業はほぼ終わりを告げた。石炭輸送量の減少とハリケーン・ダイアンによる被害で、既に破産寸前に陥っていたデラウェア・ラッカワナ・アンド・ウェスタン鉄道は 1960年 にエリー鉄道に合併され、スクラントンは鉄道交通のハブとしての地位も失った。炭鉱跡の 地盤沈下も大きな問題と化していた。そして、この地には放棄された炭鉱跡や露天掘り跡、そして大量の廃石だけが残された。 1970年代 にかけては、絹をはじめとする織物産業もスクラントンの地を去り、南部や合衆国外に流出した。



地域再生政策が大きな争点に
トランプ大統領は、選挙運動中にスクラントンなどを含むラストベルト地域の再生を公言してきたが、ほとんど目に見えた効果は上がっていない。アメリカでは概してある地域の衰退は、別の地域への人口(労働力移動)で解決を図るという形で対応してきた。典型的にはこのブログにも記したことのあるニューイングランドから南部への木綿工業の移動である。土地、労働力、電力など要素市場で優位な地域への産業移転であった。20世紀初めには、両者の地位は逆転していた。スクラントンで生まれたバイデン氏がどれだけの政策を打ち出せるか、注目していきたい。




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​写真を上回る絵画の力:L.S.ラウリーの世界

2020年08月09日 | L.S. ラウリーの作品とその時代



l.S.ラウリー《早朝》 1954
L.S.Lowry, Early Morning, 1954


このブログで話題としてきた画家のひとり、20世紀イギリスの画家L.S.ラウリー(L.S. Lowry, 1887~1976)の評価が急速に高まってきた。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについてもそうだが、日本でも認知度はかなり上がったと思われ、かなり以前からこれらの画家に魅せられてきたブログ筆者としては大変嬉しい。このふたりの画家の作品は、専門書の表紙に使われることが多い。美術書ではない分野の書籍の表紙に使われることは、作品の社会における浸透度を計るバロメータかもしれない。L.S.ラウリーの作品を表紙に使った例はこのブログで以前にも紹介したことがある。

20世紀中頃のイギリス北部の産業革命発祥の地を描き続けた画家L.S.ラウリーはの知名度は、イギリスでも当初はきわめて低かった。中央画壇の地位を誇るロンドンの美術館や画商たちは概してこの画家を、北部マンチェスターの地方画家としか認めていなかった。しかし、長らく忘れられていたり、注目されなかった画家や作品がなにかのきっかけで急に発見されたり、評価が改まることはしばしばある。

テートも認める
L.S.ラウリーの評価が高まった要因のひとつは、2013年6月から10月にかけて、ロンドンのテート・ブリテンで開催された企画展だった。この時期、デートの誇る作品の多くが内外の美術館に貸し出されていて、運が良かったこともあった。いずれにせよ、この企画展を機にL.S.ラウリーへの注目度は次第に高まり、イギリス全土、そして海を越えてアメリカへも及んだ。過去100年近く、イギリスの美術でアメリカ人にアッピールした画家は数少なかった。フランス画家ピエール・ボナール Pierre Bonnard(1867–1947)の影響を受けたウォルター・シッカート Walter Sickert (1860–1942)などは、その少ないうちのひとりだろう。

筆者にとっては、このユニークな画家の作品に触れた契機となったのは、1984年北部サンダーランドでの日産自動車工場の建設当時、イギリス人研究者との現地調査を行ったことだった。現地でのインタヴューなどの合間にマンチェスターなどを訪れた時だった。ダーラムの大学に勤めていた友人の家には、この画家のコピーが掛かっていた。

L.S.ラウリーはマンチェスター西部ストレッドフォードに生まれ、生涯をその地域で過ごした。産業革命発祥の地の光景を一貫して描いたイギリスでほとんど唯一の画家であった。ラウリーは他の画家たちが制作の対象とは考えなかった煤煙に汚れた工業地帯、煙突の乱立する風景、混雑する工場街、そこに暮らす人々の日常、喜怒哀楽などを独特な画風で直截に描いた。特に1920年代、1930年代の光景は暗く、陰鬱な感じを受ける。しかし、見慣れてくると、この画家がいかに故郷、そしてその地で働く人々の生活を愛し、重視していたかがわかる。

産業地域の記録者
L.S. ラウリーは煙突からのばい煙などで汚れた工場地帯を描いたばかりでなく、そこに住む人々のあらゆる場面を画題にとりあげ、工業地域の記録者のような存在となっていた。この画家の作品、当初は稚拙な作品と受け取られる方もおられるかもしれない。しかし、見慣れてくると、写真では捉えがたい地域の人々の日常の陰影が次第に伝わってくる。時代を超えて生き残る稀有な画家のひとりであることはほぼ確かなことだろう。The Economist誌の最近の表紙( UK edition) では、逆にL.S.ラウリーの作品に発想の源を得て、コロナ問題に揺れる現代イギリスをイメージしようとする試みがなされている。イギリス国内で発展が遅れ、忘れられてきた地域の振興政策を扱う特集テーマだ。大変興味深いが、現代産業社会をL.S.ラウリーのレヴェルでイメージし、描くことは至難なようだ。この画家の作品をある程度見慣れないと、テーマのイメージが湧かないかもしれない。




画家の生涯で1945年まで3度の個展開催の機会はあったが、おおきな注目を集めるには至らなかった。しかし、その過程で1955年にロイヤル・アカデミーの準会員、そしてその後会員に選ばれたことを、画家は大きな光栄と思っていた。晩年は仕事も収入も多くなり、恵まれた生活であったが、生涯独身、外国にも旅することなく、地元のマンチェスター近傍の工業都市を描き続けた。L.S.ラウリーが残した多くの作品を改めて見ると、資本主義が生まれた地の原風景が、写真よりもはるかに深い印象をもって今に伝えてくる。


専門書表紙に使われたL.S.ラウリーの作品《早朝》Early Morning, 1954,details

Tim Rogan, The Moral Economists: R.H. Tawney, Karl Polanyi, E.P.Thompson, and the Critique of Capitalism, Princeton: Princeton University Press, 2007








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