時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

いと高き先に見えるものは:ロレーヌ・ゴシックの残像

2019年05月22日 | 午後のティールーム

ノートル・ダムのガーゴイル 

 

去る4月15日から16日(現地時間)にかけて突如として起きた、パリのノートルダム教会Notre-Dame de Parisの火災の実況をTVで見た。世界にその名を知られた大聖堂の尖塔がもろくも崩れ落ちるという予想もしない衝撃的光景である。瞬時に脳裏に浮かんだのは、どういうわけか、あの9.11の光景であった。考えてもいなかったことが起きると、思いもかけない連想が脳裏で働くようだ。


12世紀に建築が始められ、幾多の風雪を経て今日まで人々の信仰の象徴となってきたあの高い塔(地上高約32m)が、2時間くらいの間にもろくも崩れ落ちた。カトリック信徒でなくとも、驚く出来事だった。何か恐るべきことが起きる予兆ではないかと思った人もいたようだ。実際、9.11後、世界は明らかに変わった。そして今、新たな戦争の可能性が語られている。

*A new kind of cold war, The Economist, May 18th-24th, 2019
 Collision course, The Economist May 11th-17th,2019 

この度の尖塔火災崩落の原因の究明は進められているが、未だ正式には発表されていないようだ。少し意外だったのは、木造部分が燃え、石造りの壁が支え切れなかったとのことだ。何度か訪れたことがある場所だが、壮大な石積み、石像、ステンドグラスの美しさなどに圧倒されて、木造部分がどこであるかは全く気づかなかった。

大聖堂の建設は12世紀、1163年に始まり、1225年に完成したとされている。その後の長い歴史においても、今回のような火災焼失は初めてのこととされる。火災発生後、今日までのわずかな間に世界から邦貨換算1000億円を超える、修復に十分な寄付が集まっていると伝えられる。フランス国民のみならず、この聖堂に対する愛と信仰がいかに大きいかがわかる。他方では、それだけの寄付をする財力がどこかにあるならば、もっと直接に貧困層などのために役立てるべきだとの批判もあるようだ。

ブログ筆者はこれまでの人生でかなりの数の寺院、教会などを見る機会があったいt。フランスではとりわけロレーヌの旅をしている間に、多くの教会、修道院などを訪れた。そのほとんどがノートルダム大聖堂と同じゴシック建築である。

聖堂を築いた人たちの熟練養成
ブログ筆者が専門としてきた領域のひとつは、社会における熟練の形成過程であった。長い信仰の歴史を支えてきた教会の石組みを見ながら考えたことは、それを作った当時の職人たちのことであった。こうした大教会・聖堂などの着工から完成までには、通常の民家などと違って、はるかに長い年月を要すると想定されている。確かにサグラダ・ファミリアのように着工後、数世紀という年月を経ても完成に至っていないというような例もある。しかし、多くの建築は数十年くらいの年月で竣工している。これは建築の依頼者や寄進者などのことを考えて計画、工事を進めるからであろう。今回焼失・倒壊したノートルダムの場合も早ければ数年で復元できるのではないかという推定もあるようだ。実際にはほとんど不可能な予感はするが。

教会建築の現場で仕事をするのは、建築設計家の指示に従って作業にあたる石切工、石工などの肉体労働者である。当時は今日と違って、コンピューターも防塵マスク、眼鏡などもなかった。最大の職業病は珪肺であり、きびしい労働環境であった。粉塵と危険に溢れた職場で、切り出された石を成形し、プランに従い積み上げ、モルタルなどで固定するというきつい仕事である。しかし、人々の信仰の場を生み出す石工には、社会の評価、レスペクトもあったようだ。ギルドの成立も早くからあった。

石工だったラ・トゥールの祖父

ブログに記したこともあるが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの父親ジャンはパン屋であったが、ジャンの父親は石工だった。石工になるためには、親方の家に住み込みの徒弟として入り、親方の仕事を助けながら見よう見まねで技能を体得し、数年の修業を経て、職人として独立することが認められ、さらに経験を積めば、親方職人への道があった。

息子のジャンは毎日の過酷な労働を酒で紛らわす父親の生活を見ながら過ごし、自分はパン屋で生きようと決めたのだろう。しかし、パン職人も見かけによらず、厳しい労働を要求されていた。そうした環境から、画家というきわめて先の見えない職業へと移ったジョルジュの生涯は、職業選択・技能伝達という現代的観点からもきわめて興味ふかい。この点はブログにも度々記している。

Theodore Rieger, Chapelles de Lorraine, Est Libris, Metz, 2003


ロレーヌの残像

石工の労働、教会大聖堂の建築の実際の過程は、それ自体大変興味ふかいのだが、記す余裕がない。

今回はかつて辿ったロレーヌの町巡りで、気づいたことを少しだけ記したい。ロレーヌの町や村には今日でも数多くのゴシック建築による教会が残っている。メッスやナンシーのような大きな都市には多数の宗派の異なる壮麗な教会聖堂がある。ゴシック式の建築はその高く聳え立つ先端の尖ったアーチで、直ちに認識できることが多い。

ゴシックは、ロマネスク様式に続き、12世紀頃からフランスを中心に発達した。筆者にとって興味深かったことは、今日に残る教会のすべてが大聖堂のような威容を誇るものではなく、小さな村や町にはひっそりと祠のような姿で残っているものも多いことだった。そして、どんなに小さな教会であっても、いと高き天に向けての希求を示す突出した屋根と十字架で、直ちにそれと知ることができる。その背景には、地域ごとの宗派の分布なども影響しているのだろう。この点に立ち入る余裕はもはや筆者にはなくなったが、宗教改革、カトリック宗教改革の激動の過程では、ロレーヌという地は、カトリック布教の最前線であり、ローマ教会の主導の下で多くの教会、修道院が建造された。

ラ・トゥールが生きた17世紀、30年戦争を含め、この地は数多くの戦乱を経験してきた。17世紀は史上初めての「危機の世紀」として知られる。21世紀、残る時代がいかなるものとなるか。すでに国家間衝突の動きはいたるところに現れている。その行方がいかなるものとなるか、ブログ筆者は知る由もないが、戦争のない平和な世紀であることを祈るのみである。

 

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もう手にとることはないか:E. ヘミングウエイ 『海流のなかの島々』

2019年05月07日 | 書棚の片隅から

 

Earnest Hemingway, Islands in the Stream, cover


最近若い高校生から、比較的読みやすい英語のリーディングスのことを聞かれて、少し頭をめぐらしたことがあった。内容が子供向けではなく、大人になっても印象が残るような本をリストとして教えて欲しいとの難しいご依頼だ。冊数としては20-30冊ぐらいとのご希望だった。長い人生を過ごしてきて、相当の書籍と対面してきた筆者にとっても、かなり難しい要望だ。

『老人と海』を選ぶまで
筆者は英語や文学の専門家ではない。しばらく考える時間をもらった挙句、ヘミングエイの『老人と海』The Old Man and the Sea, 1951 を含む第一次リストを作った。リスト自体については作業途上で、語るべきことは多々あるのだが、今回はこのヘミングウエイの作品を取り上げてみた。その中でもあまり読まれることのない作品『海流のなかの島々』Islands in the Sea, 1977である。ヘミングウエイ ・マニアの間でも、あまり読まれることがないようだ。ひとつには、作者の没後に発見された遺稿が、多分作家の十分な検討なく刊行されたためかもしれない。ちなみにこの作品はリストに入れない。

『老人と海』は文体がシンプルで、しかもそれ自体大作ではないので、比較的容易に読めると思ったからであった。話の梗概も比較的知られている上に、なにしろ、ノーベル文学賞の対象に擬せられた。筆者は映画(スペンサー・トレイシー主演)も見ていて、うろ覚えながらいくつかのシーンが眼底に残っている。一時はヘミングウエイの作品には、かなりのめり込み、主要なものはあらかた読んでいた。しかし、今回改めて知らないことが、きわめて多いことに気づき、驚くとともに新たな知識を求める意欲が出てきた。

アーネスト・ヘミングウエイという世界に冠たる大作家は、若い頃からかなり好きではあるが、最も好きな作家というわけでは必ずしもない。しかし、半世紀ほど前になるが、ジャマイカ、プエルト・リコなどの地域の政治経済調査をする時に、文学好きでカリブ海プエルト・リコ出身のアメリカ人の友人ラモン・Q から、スペイン語の手ほどきを受けたことがあった。その時にヘミングウエイのいくつかの作品を読んだ。この作家は言うまでもなく英語で作品を書いているが、短いスペイン語がかなり出てくる。

余計なことだが、ラモンはとびきりの美男子で一緒に街を歩くと、女性が声をかけるほどだった。ラテン系文化の一端を感じた。残念なことに、その後筆者がアメリカでの研究生活に追われている間に音信普通になってしまった。とても残念に思った。若い頃は空軍中尉として日本に滞在した経験もあった。ヘミングウエイは、V1号戦闘機部隊で実戦訓練をしたことを、回想録に記している。彼は「空」のみならず「海」と「陸」に関わる壮大な作品構想を強く抱いでいたようだ。本書『海流のなかの島々』は言うまでもなく「海」が舞台となっている。1940年頃、英独が戦争状態にあった時代、かつてパリで活躍してしていた芸術家がとその家族をめぐるストーリーである。主人公は2度結婚したが、別れてしまい、三人の男子が残された。本書には彼ら全てが登場する。再言するまでもないが、カリブ海の描写は素晴らしい。

壮大なガルフ・ストリーム
さまざまな縁で、ブログ筆者も『老人と海』や『海流のなかの島々』Islands in the Stream を読んだ時、壮大なガルフ・ストリーム(メキシコ湾流)と、そこに散在する島々には格別の思いを抱いてきた。日本で想像するイメージとはかなり異なる激しい様相を呈する海と気象状況がそこにはある。『海流の中の島々』のタイトルが、ヘミングウエイの人生で、いかなるものを暗示しているか。謎ではあるが、なんとなく思い当たるような気がする。しかし、この作品は、構成からして他の作品とは異なっているように感じた。作品としての緊迫度が少し弱い。作家自らが最終的検討に専念する時間が足りなかったのかもしれない

『海流のなかの島々」
ヘミングウエイの作品は、テーマは鮮明で作家の意図はよく理解できた。しかし『海流の中の島々』 という作品は長い間、心の中でなんとなく落ち着かずにいた。フロリダからキューバにかけてのガルフ湾流が流れる地域は、日本から遠く離れた地域であるにも関わらず、不思議と近くに感じていた。作家はハバナ郊外の邸宅で主たる活動を行ったようだ。

この作家の作品には、ほとんど戦争や内乱がプロットとなっている。『海流のなかの島々』でも、彼自身が1942年から43年にかけて、愛するボート『ピラー』号を改装してQボート、つまり囮船にし、キューバ沿岸に出没するUボートの狼群のパトロールに従事させている。作品では主人公がキューバの警備隊との戦闘で、息子を失い、主人公も銃弾に倒れる。なんとなく、ヘミングウエイ 自身の最後の時を暗示するような作品だ。

後年ふとしたことから、この作品が作家が自決する悲劇の10年ほど前、それもほぼ1951年に書かれた作家のいわば最後の遺作であり、しかも作家の生前、唯一刊行されていなかったことを知った。さらに『海流のなかの島々』の一部に当初『老人と海』が構想されていたことも知った。

スクリブナーとの関係
ヘミングウエイはノーベル文学賞授与の対象となった『老人と海』(1954年)を取り除き、残りの部分を第I部「ビミニ」”Bimini”, 第II部「キューバ」”Cuba”, そして第III部「洋上」”At Sea”からなる構成で、現在公刊されている『海流のなかの島々』Islands in the Stream とすることをイメージしていた様だ。このことは、作家の2番目の妻メアリーが、作家の没後、発見された遺稿について、チャールズ・スクリブナー・ジュニアと話し合い、作家の残したと思われる意図を尊重し、そのままに1970年に刊行したという。

小説『海流のなかの島々』自体は、20年近く前に読んだが、この作家の他の小説の方が、構成力という点でもしっかりしていると思った。しかし、もう一度読みたいとの思いが常に残っていた。作家は「陸」「空」「海」の3次元に関わる作品の構想を抱いていたが、アフリカやスペイン、パリなどを描いた小説に比して、「陸」に関わる『河を渡って木立の中へ』(1950年)は批評家の間で、不評であった。

こうしたこともあって、作家は「海」の次元での作品として、「老人と海」を含む「海」を舞台とする大作を構想していたらしい。いかなる理由からか、作家はそこから『老人と海」だけを取り出して作品化し、生前に刊行した。なぜ、作家がそうしたのか、「海」全体としていかなる構想を持っていたのかは、今となっては全く分からない。『老人と海』はこの作家にとって、「海」に関わる作品シリーズのいわば「コーダ」(大きな作品、テーマなどを統括する結び・まとめ)のような役割を持たせようと思ったのかもしれない。

解明しきれていない謎
ヘミングウエイ の人生が、生活面で幸せであったとは言い切れない。失敗に終わった二人の前妻の間に残された3人の息子は、主人公を愛してくれた。しかし、その息子たちもいなくなった時に、真の孤独、寂寞が迫ってくる。そして、その先にあの衝動的に描かれる自決の最後があった。この事実を考えると、この遺稿作は、より深く考える必要があるように思えた。もう一度、手にとって読む時間はあるだろうか。

 

REFERENCES

Earnest Hemingway, Islands in the Streem, Scribner, 1970: Arrow Books (Random House Group, 2012)

日本語訳 ヘミングウエイ (沼澤洽治訳)『海流のなかの島々』上、下、昭和52年、新潮社 

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離れるほどに見える世界:ユトレヒト・カラヴァッジョとヨーロッパ

2019年05月03日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

UTRECHT CARAVAGGIO AND EUROPE, exhibition catalogue cover


『令和』の時代を迎えて、世の中はなにかと騒がしい。しかし、今後この時代が、後世いかなる時代イメージを伴って認識されるかは、まったくわからない。しかし、長い時間を挟むことではっきり見えてくることがある。

このブログで何度もとりあげた16世紀ローマを主たる舞台に鮮烈な印象を後世に刻み込んだ画家カラヴァッジョ(1571-1610)とその画壇への影響力も、その例である。雑事が重なり、今年3月までユトレヒト中央美術館で開催されていたカラヴァジェスティ展(カラヴァッジョの画風・スタイルなどの後継者)の分厚いカタログを読了するには大変時間がかかってしまった。

新たな知見
ユトレヒト・カラヴァジェスティに関する特別展に限っても、これまで1952, 1986/87, 2009年に行われており、今回が4回目になる。ブログ筆者も全てを見たわけではないが、嬉しいことは毎回、新たな知見が得られることだ。この間、特に今世紀に入って、これらの画家についての研究が着実に進んだことを示している。今回もいくつかの指摘に目を開かれた。

検討される地域はイタリア、スペイン、フランス、フランダースに及んでいるが、柱になっているのは、三人のユトレヒト・カラヴァジェスティ、Hendrick ter Brugghen (1952-1629)、Gerald van Honthorst(1592-1656) およびDirve van Baburen (c.1592/93-1624) である。

カラヴァジェスティの生まれた時代環境
17世紀までのイタリア・ローマは、世界のいたるところから文化、芸術の極致を求めて集まる中心地であったが、現代世界は多様化・分散化していて、そうした場所は見当たらない。17世紀初め、とりわけ1600-1630年は2700人近い画家たちがローマに画家として登録しており、そのうち572人は外国人でほぼ同地域に居住し、若い画家たちの中には、住居を共にしていたものもかなりあったようだ。彼らの中で若い画家たちはカラヴァッジョのリアリズムの画風を拡大しようとの集まりもあったようだ(International Caravaggio movement)。ローマは文字通りヨーロッパの文化センターであった。観光客と日本人のやらなくなった仕事を求めてくる外国人が目立つ今日の日本とは大きく異なった状況だ。

何れにしても、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの謎の遍歴仮説もかなりその道が見えてきたようだ。 

ユトレヒトの大きな役割
カラヴァッジョ亡き後のカラヴァジェスティもその知名度、作品評価などによって、かなりの数に上るが、上記の三人はやはり中心的存在である。今回の企画では、年譜に沿いながら、ユトレヒトからローマへ行き、再び故郷へ立ち戻って活動した三人のカラヴァジェスティの位置づけ、その後の伝播、作品の交流・分散などがテーマとして明確に示されている。本ブログで興味の赴くままに断片を記してきたユトレヒト・カラヴァジェスティの全体像が一段と確立されている過程が整理されている。

今回の展示では、ホントホルストの《聖ペテロの磔刑》1616年作が、この画家がローマで活動していた最初の証明として挙げられている。

ホントホルスト《聖ペテロの磔刑》1616年

The Crucifixion of St Peter, 1616 pen on paper, brown wash, 178x265 mm, Nasjonalmuseet for kunst, architlktur of design, Oslo

 

さらにヘンドリック・テル・ブルッヘンの《受胎告知》1629年作 Diest, が、彼の死去の年の作品として展示されている。この作品は見たことがなかった。バビュレンはこれより前の1624年に世を去っている。そして、ホントホルストは次第に以前の古典的スタイルへと回帰している。
 

テル・ブルッヘン《受胎告知》1629年

Hendrick ter Brugghen, The Annunciation, 1629, Canvas, 216.5 x 176.5cm, Signed and dated, Dtadsmuseum De Hofstadt, Diest 

今回のユトレヒト展には78点が出展されたが、1点を除き全て1600年から1630年の時期に制作されており、この時期がユトレヒト・カラヴァジズムの盛期であったことを暗示している。展示カラヴァッジョの作品および16人の同時代の画家たちは、全てローマへ行った第一世代であった。展示にはデ・リベラ Jusepe de Ribera (1591-1652)とマンフレディ Bartolomeo Manfredi (1582-1622)の作品も展示されていたことは、彼らがバビュレンとテル・ブルッヘン を含めて、当時の画家の世界でいかなる位置を占めていたかを知るにきわめて興味ふかい。

機会が許せば、多くの興味ふかい論点も記したいが、その時間は次第に限られてきたようだ。

 

REFERENCE
'Utrecht, Caravaggio and Europe' by Brend Ebert and elizabeth M. Heim


ティールームの話題

* 10連休の影響で遅れて配送されてきた英誌 The Economist April 27th-March 3rd, 2019 は「君主制の免疫」Sovereign immunity  と題し、日本の天皇退位と新皇室の誕生を例に、世界における君主制の変遷を追っている。多くの国では君主制は過去のページの残渣の様に見える。一部の国で君主制が栄えている背景の一つは、民主制の困難さのゆえにあると論評している。20世紀初め160か国あった君主制は今日40か国程度にすぎないと記している。BREXITに悩むイギリスが君主制を維持していることは、日本との対比において興味ふかい。「午後のティールーム」では話題として、ちょっと議論を呼びそうだ。

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