時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

時代の空気を伝える画家(9):印象派とのつながり

2023年11月28日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


師弟の自画像:ヴァレット(左)とラウリー(右)
Cecilia Lyon, ADOLPH VALETTE & L.S.  LOWRY, Prose Book Publishing, 2020, cover



L.S.ラウリーは、今やイギリス現代美術を代表する画家のひとりとしての評価が確立しているが、しばらく前までは、ロンドンの一部の批評家などからは、イギリス北部の地域だけを描いている例外的画家という評価もあったようだ。ラウリーしか描かない(描けないというべきか)《工業風景》やマンチェスター地域の工場街の作品などから即断し、この画家はヨーロッパ大陸の美術界を席巻してきた印象派の伝統を継承していない異端の画家、あるいは”日曜画家”などの受け取り方もあったようだ。この点は以前にも記したことがある。


しかし、これは大きな誤りであった。ラウリーは画業を志した頃から、アドルフ・ヴァレット Adolph Valette という優れたフランス人画家の指導を受け、印象主義についての綿密なレッスンを受けていた。

彼らは1905年、マンチェスター美術学校 Municipal School of Art in Manchester で出会い、教師と生徒の関係となった。ヴァレットはラウリーに印象主義を教示、パリなどの最新の動向を伝達した。二人の間では、モネ、ピサロなども大きな関心事になっていたようだ。

学芸員として美術学校に勤務していたセシリア・リヨン Cecilia Lyonは二人の師弟関係について詳細な探索を行い、これまで知られていなかった数々の事実を発見した。その成果は、2020年に上掲の研究書として出版され、注目を集めた。

詳細は同書に委ねるとして、ラウリーの作品から、印象派の影響が感じられるいくつかを紹介してみよう。


L. S. Lowry, Still Life, c.1906, oil on canvas, 23.5 x 33.5cm 
ラウリーがマンチェスター公立美術学校在学当時の「静物画」習作。
(Lyon p.59)



L.S. Lowry, Portrait of the Artist’s Father, 1912, oil on canvas, 46.1 x 35.9 cm
ラウリーの《父親》肖像



ラウリー《母親肖像》再掲




L.S. Lawry, Sailing Boats, 1930, oil on canvas, 35.5 x 45.5cm
L.S.ラウリー《ヨット》

ちなみに、息子ラウリーが画家として生きることに最後まで賛成しなかった母親が、唯一好んだ作品と言われる。母親思いであったラウリーは、この絵を自らの死まで自室に掲げていた(Howard p229)。



続く


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時代の空気を伝える画家(8):地域の人々を描き尽くす

2023年11月22日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


L.S.ラウリー《二人の子供と女性》
リアリスティックな写実でもなく、コミカルでもない作品は、ラウリーの独断場でもある

L.S.ラウリーの作品数は非常に多く、油彩、スケッチなど多彩な画題で2000点近いとも推定されている。私蔵されている作品も多く、正確な作品点数は未だ分からない。一見すると、多少の絵心があれば誰でも描けそうな小品もあり、画家が有名になってからは多くの贋作が出回っていると言われる。しかし、画家の作品を見慣れている人には、真贋はやはり分かるのだ。

いくつかのカタログは存在する。例えば、Micher Leber and Judith Sanding (1988) 2013では440点の作品の所在が確認されている。


いくつか、代表的な作品を見てみよう。



An Old lady in a Wheelchair, 1953, oil on canvas, 24 x 33cm
《車いすの老婦人》
ROSENTHAL p.201

車椅子に乗った老婦人を一人の若者が、どこかへ伴走している。身体は不自由だが、容貌、目つきはしっかりとしている婦人である。他方、若者は容貌からもなんとなくコミカルな印象を与える。一見なんの変哲もない光景ではある。

高齢化が進んだ日本では、いまや日常の風景になっている。しかし、20世紀半ばのイギリス北部の工場街では、人目を惹く光景だったのかもしれない。この作品は、インパスト impasto として知られる厚塗りの技法(絵の具を肉厚に塗り、その上に透明色を塗る時の下地拵え)が使われているが、ラウリーは通常とは異なり、画面下部の壁のように、縦に深い彫りを加え、画面全体としても深みを感じさせる、この画家の個性が十分盛り込まれた作品となっている。画家はかねてから作品の背景には心を配ってきた。小品で画題も分かりやすいが、画家はかなりの意欲を持ってカンヴァスに向かっていることが伝わってくる。

街中の光景:喧嘩



A fight, c.1935, oil on canvas, 53.2 x 39.5 cm
《喧嘩》

ラウリーが町中で見かけた光景でしょう。二人の男が掴み合いの喧嘩をしているようだ。物見高い通りがかりの人たちや近所の人たちが成り行きを見守っている。発端は、たわいのない喧嘩なのだろう。周りの男たちも何が争いの種なのかと、見守っている様子。殴り合いなどになれば、多分割って入るつもりなのかもしれない。足元にはあの”ラウリードッグ”まで、描かれている。日頃、変化の少ない工場街では、喧嘩も一つのアトラクションなのかもしれない。結果はほとんど分かっている。

画家は半ば楽しみながら、地域に起きる日常の光景を多数描いている。今日のスマホでスナップショットを撮るような感じなのかもしれない。実際、この作品は画家がマンチェスターの下宿通りで、画家が目の当たりにした光景と言われている。労働者の住む家々が狭いこともあって、こうした出来事も街路上など家の外で起きることが多かったようだ。ラウリーは家賃を集める仕事をしながら、こうした日常の出来事にも絵心を掻き立てられたのだろう。

時代の先端?


Teenagers, 1965, oil on board, 25.5 x 21.5cm
《ティーンエイジャーズ》

1960年代、時代の先端を行く若者たち。極端に誇張された長い脚。コミカルな誇張を含めて、彼女たちの特徴を良く捉えていますね。足下の”ラウリー・ドッグ”も、興味深げに足元を眺めている(笑)。この画家の作品には、こうした辛辣ではないが、風刺の効いた作品も多い。



Mother and Child, 1956-7
oil on canvas, 61 x 51cm
《母親と子供》

ラウリーは初期の「工業風景」シリーズから、多彩な画題へと視点を移しているが、こうした人物画もそのひとつである。椅子に座った母親の膝に子供が座っている。画家の身近にモデルとなった家族がいたのかもしれない。しかし、よくあるリアリスティックな肖像画とは雰囲気が異なり、この画家特有の雰囲気が感じられる。

この端正な容貌の女性と子供を描いた作品には、ラウリーの幼く、安定した時代における家庭の理想の母親と子供の関係についての画家の願望が、ロゼッティ、マドンナなどのイメージと混じり合って具象化されているとの批評もある(Howard, p.171)。

ラウリーはかねてから女性を描くについては、髪へのこだわりとか、いくつかの考えを持っていたとの指摘もあるが、今後の研究に待つとしたい。

References
Michoel Leber & Judith Sanding (1987) Phaidon Press, 2013
T.G.Rosenthal, L.S. Lowry : The Art and the Artist, Norwich, Unicorn Press, 2010

続く
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時代の空気を伝える画家(7)「額縁の外」へ目を向ける

2023年11月12日 | L.S. ラウリーの作品とその時代


L.S.ラウリー《工業風景、ウイガンの光景》
1925年


黒煙を吐き出す多数の煙突と暗黒色、茶褐色などで彩られる多数の工場・・・・・。環境汚染の象徴のような光景。通常の画家ならば、およそ画題とはしないような光景である。L.S.ラウリーの作品でよく知られる《工場風景》”industrial landscape” である。

どうして工場の煙突や煤煙で汚れた工場の建物が美的対象に選ばれるのか、疑問に思う人々もいるかもしれない。世の中にはもっと美しいものが溢れているではないかと。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
N.B.
1888 最初の鉄鋼がサルフォードとマンチェスターで生産され、翌年、圧延工場が開設。この地域はイギリスで最も高い煙突群がある地域のひとつとして知られるようになった。Top Place Chimney の名で有毒なガスを排出していた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


しかし、ラウリーの作品をつぶさに見ていると、そこには世界で最初の産業革命がもたらした恐るべき自然破壊の結果とその過程に生きる人々の姿が、不思議な魅力を伴って描きこまれており、知らず知らずのうちに画面に引き込まれてしまう。その力の根源は、画家が自らが生まれ育った地域と人々に対する深い愛と理解であると思われる。

大きな煙突と暗い空だけが目立つ光景を描いた作品などを見ていると、工業化の進行過程で、土地や家を失い、工場でしか働く場所が無くなってしまった人々への画家の深い思いが伝わってくる。

通常、人々が「美」の対象として思い浮かべるものとは、かなり違ったイメージがそこにある。ラウリーの作品世界は「額縁の外」の社会と一体にして鑑賞されるべきなのだ。画家はそのために、地域に見られる些細な光景でも小さな作品として残している。例えば、街中で見られる物売りや喧嘩など日常の光景を、スナップショットのように描いている。普通の画家ならば、画題としては一顧だにしないだろう。

ラウリーは《工場風景》の空の色が暗すぎると指摘されたことに怒ったようだが、実際に当時の空の色は画家のカンヴァスのそれに近かったようだ。イングランド北部に留まらず、ロンドンでも「ロンドン・スモッグ」の名で、深刻な公害として1970年代初めまで蔓延していた。ブログ筆者がしばらくアメリカに滞在の後、イギリスへ旅した1960年代末、ロンドンの空気の悪さに辟易したことを今も覚えている。青空の見える日はほとんどなかった。


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大気汚染「ロンドン・スモッグ」事件
1952年の12月5日から9日にかけて、ロンドンは濃霧に覆われ、ロンドンスモッグ(Great Smog of 1952, London Smog Disasters)として知られる大気汚染の事件が発生した。大気汚染物質が滞留し、1万人を越える多くの死者が出た。死亡者の多くは気管支炎、肺炎など慢性呼吸器疾患を有する高齢者であった。
このようなスモッグは、19世紀の半ばころから見られており、改善が見られるようになったのは、ヨーロッパとアメリカが1970年代に採用した大気浄化法の結果であった。
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画家の独創:「マッチ棒人間」
ラウリーの作品の特徴とされる「マッチ棒人間」も彼の作品の全てに現れる訳ではない。印象派の流れを明瞭に感じさせる作品もある。「マッチ棒人間」もラウリーの独創であり、多くの人間の集まりを表現するに、一人一人の容姿などに多くの時間を費やせない。夜間、昼間の仕事の後、家人が寝静まった後に創作活動に入ったラウリーに最も適した画法なのだ。今日では、この技法を習得するコースまで存在する。

それでもロンドンなどのスノビッシュな画壇には、ラウリーに傾倒しえない人たちもいるようだ。テート・ブリテンなども、ある時期までこの画家の作品を積極的に購入することはなかった。

イギリス美術は、イタリア、フランス、オランダなど大陸の美術家の間では、しばらくは傍流のように見られていたこともあった。一時は、ラウリーは印象派の技法を習得、継承していないなどの誤った見方もあった。しかし、いまや映画化もされ、国民的画家のひとりと言ってよい。

ラウリーの作品の多くは、対象の正確な描写ではない。画家は昼間の仕事の途上などで、気づいた対象をスケッチしていたが、多くは画家のイメージとして残った中心的な概念を基に創作したものだ。例えば、画面に描かれた大煙突にしても、実際に対応する煙突は存在するが、それを正確に描写したものではない。しかし、今に残るモノクロ写真などと比較してみると、見事に当時の雰囲気を伝えている。

作品の一点、一点は、大方の人々の美的観念には沿わないかもしれない。しかし、ある数の作品を鑑賞してゆくと、画家が自ら生まれ育った地域の変容と、そこに暮らす人々の生活風景、その明暗に画家が抱く冷静な視点と愛着が作品を支えていることが伝わってくる。

現場の空気を伝える
ラウリーだけが提示できる独特の世界が創り出されている。今日であったならば、写真を撮ることで済ませてしまう光景を、おびただしい数の人間を丹念に描きこむことで再現している。その結果、およそ写真では表現できない全体の構図、画家の印象などが、格別の魅力を伴って見る人に伝わってくる。

iPhoneなどが普及し、誰もが容易に被写体を写真に撮ることができるようになった時代と比較すると、ラウリーの時代においては写真撮影の機会は著しく限定されてきた。画家は来るべき時代のことなど考えることなく、日々の仕事の合間に、目に留まったあらゆるものを描いてきた。そこには同じ地域に住み、苦楽を共にしている貧しい人々と心を共にするかのような感情が込められている。

今日残る膨大な作品を見ていると、ラウリーの心に触れた対象がいかに広範に及んだかに改めて驚かされる。おびただしい数の人で埋められた街中や海岸の風景があるかと思うと、人影が全くない自然の風景、通りすがりの家の窓に飾られた一輪の花、誰もいない薄暗い坂道、憂いを含んだ母親の肖像、コミカルに自分の生き方を風刺した戯画、そして波と空以外、なにも描かれたいない海の風景など、画題の多様さに驚かされる。



L.S.Laury, Yachts, Lytham St.Anne's, 1920,
pastel on paper, 27.9 x 35.6cm, 
《ヨット、ライサム セント・アンネ》
Source: Rosenthal, p.222


再論すると、この画家の真髄は、数点の作品を見ただけでは分からない。画家の関心と描かれた対象がかなり広いためである。しかし、美術館などで見る作品の数が増えるにつれて、多くの人が知らず知らずのうちに、ラウリーのファンになっていることに気づくだろう。そして、この画家の最大の魅力の根源は、画家の生まれ育った地域と人々への深い愛情であり、ひたすら描くことに生きがいを感じ、世俗的栄誉を求めなかった画家の人柄にある。

Reference
T.G.Rosenthal, L.S.Lowry, The Art and the Artist, Norwich, Unicorn Press, 2010

続く
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時代の空気を伝える画家(6):カンヴァスに生涯を捧げて

2023年11月01日 | L.S. ラウリーの作品とその時代

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ローレンス・スティーヴン・ラウリーは、今日ではイギリス人の多くが名前を知っているか、どこかで作品を観ている著名な画家になっている。ほとんど国民的画家と言っても良い。世界最初の産業革命発祥の地、イギリス北部ランカシャー(ストレッドフォード)に生まれ育ち、1976年、88歳で没するまで、ほぼ終生その地で過ごした。ナイトの称号拒絶を含め世俗の栄誉には目もくれず、多くの苦難にも屈することなく、生涯、カンヴァスに対した。

N.B .
L.S. Lowry 1887-1976
1887   11月1日、ローレンス・ステファン・ラウリーは、ストレットフォード(マンチェスター)に生まれる。父親ロバート・ラウリー、母エリザベス。父は中流の不動産業。
ヴィクトリア女王即位60周年記念式典が行われた年であった。。
1888 最初の鉄鋼がサルフォードとマンチェスターで生産され、翌年、圧延工場が開設。この地域はイギリスで最も高い煙突群がある地域のひとつとして知られるようになった。Top Place Chimney の名で有毒なガスを排出していた。ラウリーはこの光景も描いている。

彼が描いた対象の多くは、産業革命後大きく変容した《工業風景》と呼ばれるランカシャー地域の実態であり、そこに暮らす人々の日常であった。普通の画家は目もくれない対象であった。ラウリーは生涯独身、友人はあったが孤独に耐え、地元に溶け込んだ日々を過ごした。

乱立する工場の煙突から吐き出される煙が常に空を覆い、灰褐色のスモッグが辺りを支配していた。画家はその中に創作意欲を掻き立てる対象を見出すと、こまめにスケッチしていた。時には休暇先で目にとまった風景などを、鉛筆、木炭などで、手近なナプキン、封筒の裏などにスケッチし、近くにいた若い人々などに贈っていた。これらのあるものは今では数千ポンドの価値があるとさえいわれている。

ラウリーの作品はその独特な表現もあって、ロンドンのお高い画壇ではなかなか評価されなかった。なかでも画家独創の多数の人間描写は、「マッチ棒人間」matchstick man として時に揶揄され、印象派の技法に沿っていないなど、正当な評価を受けないこともあった。しかし、ラウリーはフランス人画家から印象派の技法を正しく学んでいた

1905  マンチェスター市立美術学校入学 Manchester Municipal College of Art の夜間コース(1905-1915)で学ぶ。アドルフ・ヴァレット Adolphe Valette フランス人の教師がtutorであったが、モネ、ピサロなど印象派の最新知識を伝授した。ラウリーなど生徒に大きな影響を与えた。
1909  ペントルベリーへ移住。その後1915 年まで、Salford School of Art(based in the Royal Technical College on the edges of Peel Park、1915-25)に通った。そこで出会ったtutorの一人、バーナード・テイラーBernard Taylorというマンチェスター・ガーディアンの美術批評家が、ラウリーの作品は暗すぎると助言した。これに応えて、ラウリーはその後真っ白な背景に描くという形で、その後の作品を制作した。

ラウリーの作品は画家の晩年近くまで、なかなか評価されなかったが、その後は急速に人気が上昇し、多くの愛好者が生まれた。しかし、こうした変化にもラウリーは、ほとんど無頓着であった。
        

晩年から今日までBBCを始めとして、画家の生涯、創作活動を題材とした動画、映画が数多く制作されてきた。今回は1957年にBBCが製作した画家の生い立ち、創作活動に関する動画を紹介してみたい。今日のようなカラー化が出来なかった時代の作品だが、それだけに当時の工場街の雰囲気がうかがわれる。


Reference
制作:BBC

続く

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