時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

誰が作品の「美」を定めるのか(2)

2023年05月26日 | 特別トピックス

Christopher S. Wood, A HISTORY OF ART HISTORY, Princeton University Press, 2020, cover

ウクライナへのロシア侵攻が生んだ世界の危機は、かつてない緊迫度で迫ってきた。しかし、気候変動、地震、水害、悪疫、戦争など、途切れることなく訪れる危機的状況に慣れてしまった人類には、ともすれば戦争報道の受け取り方もゲーム感覚になっているのが恐ろしい。映像の向こう側で何が起きているのか、深く考えることなく画面を見ている。

17世紀の美術と危機の関係の探索に踏み込んで以来、今日まで世界が経験した危機の実相を筆者なりに考えてきた。美術もしばしば危機の荒波に翻弄されてきた。極端な場合は為政者などが自分の考えや政策思想に合わないとして、貴重な作品を破壊してしまうような出来事も起きた。例を挙げると、ナチス・ドイツの時代、「
退廃芸術」とされ、消滅に追い込まれた美術作品もあったことはよく知られている。その他にも、さまざまな背景や動機で、損傷、滅失、行方不明となった作品もある。

思いつくままにいくつかの例を挙げると:
レンブラント《夜警》の画面切りつけ、損傷(1975年)

「異教徒のための神」として巨大石仏をタリバンが爆破し、全壊(2001年)

アメリカ合衆国議会議事堂襲撃事件と収蔵品の破壊(2021年)

世界的に有名だが正体不明な覆面アーティスト、バンクシー(Banksy)の作品も毀誉褒貶の対象となっている。

これらは極端な例だが、美術はしばしば時代が生み出した特有の歴史観から影響を受けてきた。

「美」の判定を客観化できるか

美術作品は西洋美術、東洋美術、その他の地域の美術など、広範にわたり、さらに時代性もあって、誰もが納得する「美しさ」の基準を設定すること自体きわめて難しい。同じ作品を見ても、人によって判定の尺度が微妙に異なり、結果として印象に違いが生まれる。美術(史)家たちも多くの人々が納得しうる「美」についての普遍的な価値基準を模索してきたが、確定できずに今日に至っている。

今回はコロナ禍の間に目を通した資料などを紹介しつつ、美術史における「美」の基準について少し考えてみたい。

人類の「美」への関心は、遠くはギリシャ・ローマ時代、あるいはエジプト文明などへ遡って論じられてきたが、諸学のひとつとしての「美術史」の成立は、17世紀ごろに求められるようだ。後掲の著者ウッドによると、16世紀までは、美術史の名に値するような出版物は見当たらないという。

その後の美術史の展開を振り返ると、いくつかの分類、類型化も行われ、学問としての輪郭が形成されてきた。しかし、世界に存在する数限りない美術作品を観るに際して「美」(美しさ)を判定する普遍的な基準、概念は容易には確定できない。

時代や地域の別を超えて、基準としての「美」の流れを一貫して追い求め、提示することはきわめて難しい。ある時代、地域に広く受け入れられた特徴やファッションであっても、他の時代、地域でも同様に認められるわけではない。

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5月21日、広島で開催されていたG7サミット(7カ国首脳会議)においても、G7の提示する論理は、そのまま他の地域に通じるわけではない。注目度が高まっているグローバルサウスの諸国は、自分たちには異なる論理があると主張している。さらに、G7に対立するロシアや中国には、それとも異なる主張がある。彼らは自分たちの考えが正しいと主張するばかりだ。よく言われるように、ある考えが提示されても、「しかし、それは南には当てはまらないのでは?」 (”But isn’t it different in the South?”)という茶化した反論がすぐに出てくる。
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美術史の歴史としての接近

Christopher S. Wood, A HISTORY OF ART HISTORY, Princeton University Press, 2020
著者はニューヨーク大学教諭(美術史)

コロナ禍の直前に出版された上掲のクリストファー・ウッド『美術史の歴史』は、検討対象の範囲は主に西洋美術史の範囲にほぼ限られるが、表題が示す通り、美術史が今日までいかに形成されてきたかを主題としている。時代はほぼ中世末期、AD800年から1960年までが対象とされ、美術観の潮流に合わせ区分され、議論が展開されている。中世末期から現代の美術史論までの美術観の歴史的展開を一貫した視点から分析しようと試みた成果だ。西洋美術が対象であり、東洋、イスラム、アフリカなどの美術がほぼ視野の外に置かれていること、通常の美術史の範囲にはあまり取り上げられないフォーク・アートなどまで含んでいることへの批判もあるが、十分評価しうる力作である。美術史の理解にとってランドマークとなる貢献と評価されている。論評は多面的であり、美術家、詩人、鑑定家、哲学者、そして時には自らを”美術史家”と自称する人たちまで含み、大変興味深い。

着実な資料論拠の上に書かれており、美術史好きならば手元に置きたいお薦めの一冊である。惜しむらくは、美術史の書籍にも関わらず、収録された絵画などの図版は17枚に過ぎず、しかも全てモノクロのため、初学者向きではないことも注意しておきたい。

ウッドは西洋美術史の歴史軸をいくつかの時期に区分しているが、その出発点は、筆者も想像した通り、ルネサンス・イタリアの美術である。具体的には
ヴァザーリ(1511~74)の『芸術家列伝』である。これを西洋美術史の出発点と考えるのは、適切ではないと考える人は多いのではないか。確かに豊富な資料と作品観察に支えられており、ヴァザーリが意図した同時代の画家列伝自体としてきわめて興味深い。

ラファエロ、レオナルド、ミケランジェロを柱とすることについては、彼らが何が良き芸術かという意味でのセンスを示した画家ということで、異論は少ないかもしれない。リアルな生活描写に近い自然主義 naturalism、ウッドがいうように、彼らの駆使したdisegno (イタリア語:ディゼーニョ, 英 drawing, design 素描)は、「真実とリアルの間の正確な割合」Disegno: the correct ratio between the real and the true (Wood p.187)を達成しているというのは的を得ていると思われる。しかし、この点はさらに議論が必要だろう。

ルネサンス・イタリアというと、「南」の基準ではという先のアイロニーを思い浮かべるかもしれないが、ヴァザーリはヤン・ファン・アイク、アルブレヒト・デユーラーなど、アルプスの「北」側の美術についても、言及はしている。しかし17世紀末までは、イタリア以外の画家の評価は、ヴァザーリのローカル版にとどまっていた。

重厚な本書と格闘していた先週、見計らったように、Royal Academy of Artsから、来年開催のミケランジェロ、レオナルド、ラファエルの企画展の案内メールが届いた。来年のことだが、事情が許せば久しぶりに行ってみたい展覧会である。

Michelangelo, Leonardo, Raphael: Florence, c.1504
9 November 2024 - 16 February 2025


REFERENCES
高階秀爾・三浦篤編『西洋美術史ハンドブック』新書館、(1997) 2002年
ジョルジュ・ヴァザーリ(平川祐弘・小谷年司;田中英道・森雅彦訳)『芸術家列伝』 1~3(白水社 2011年)
Christopher S. Wood, A HISTORY OF ART HISTORY, Princeton University Press, 2020, pp.461

Note
ヴァザーリの美術史上の評価については、下掲の『芸術家列伝1』の巻末に、翻訳者を代表して平山祐弘氏の「ヴァザーリの位置と意味」と題した適切な紹介が掲載されている。


続く
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​誰が作品の「美」を定めるのか(1)

2023年05月12日 | 特別トピックス


新型コロナウイルス感染症が、連休が終わった5月8日から、感染症法上の「5類」に引き下げられた。振り返ると、2020年1月に国内で初めて患者が確認され、4月には緊急事態宣言が日本全国に発出された。その後3年余りの年月が過ぎた。コロナウイルスが日本のみならず世界全域に与えた衝撃と変化についての論評はすでにさまざまな形で出回っているが、総合的な評価にはもう少しの時が必要だろう。

さて、このブログにも閉幕の時が近づいている。開設以来、20年近くになるが、その間、暗黙の内にも考えてきたいくつかの課題があった。そのひとつは、ラ・トゥールやジャック・カロ、レンブラント、フェルメールなどの17世紀ヨーロッパの画家、さらに現代の異色の画家L.S.ラウリーなどの作品を通して、人々が感じる「美しさ beautifulness とは、誰がいかに定めるのか」という問題に納得できる答を見出すことであった。

「額縁の中から」飛び出して
特に、画家が活動した時代と「同時代の人々」 contemporaries、そしてそれとは異なる時代である「現代に生きる人々」の間に存在する作品の認識、美意識の違いに多大な関心を抱いてきた。関連して、ブログ筆者は絵画作品の評価を、人々が目の前にする作品の次元(「額縁の中の世界」)にとらわれることなく、それが生み出された
社会的・文化的環境への広がりの中で行うことに大きな関心を抱いてきた。美術に限らず、永らく専門としてきた経済の分野でも、できうる限り自分の目で確認することを人生観の一部としてきた筆者は、しばしば美術史家などが視野の外に排除してきた、作品が生まれた社会的背景などの諸要因を極力、鑑賞、評価の次元に取り込むことに意義を感じてきた。

ブログも開設以来20年近くを経過し、ようやく最低限の検討素材を蓄積、提示できるようになってきたかなと思えるようになった。幸いブログ読者の間から、本ブログが手がかりになって、やっと当該画家の全体像、そして画家が生きた社会のありようが見えてきたような気がすると感想を述べられる方々が増えてきた。諸般の事情でメモ程度しかブログには記すことができない状況を考えると、筆者にとっては大きな喜びである。そこで、ゴールデンウィークの間に多少考えたことを思考整理の意味で、記してみたい。

ラ・トゥール忘却の謎
ブログ開設当初から記してきたが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールについては、多くの謎がつきまとってきた。そのひとつは、1652年の画家の死後、20世紀初頭、1915年におけるドイツ人美術史家
ヘルマン・フォスによる再発見まで、画家の存在は長らく忘れ去られてきたことである。ロレーヌのパン屋の息子から身を起こし、フランス王の王室画家にまで上りつめ、当時は熱心な愛好者、収集家がいた画家であったにもかかわらず、なぜかくも長い間忘却されてきたのか。これについては、次のようないくつかの説が提示されているが、いずれも推測の域を出ない。

1)ラ・トゥールが画家としての活動の拠点としたロレーヌには美術家、美術品などを継承、後世に伝える風土が希薄だった。度重なる戦争、悪疫、飢饉などによって、美術品などの作品が地域に保存、蓄積されることが困難を極めた。

2)ラ・トゥールが得意としたテネブリズムは1630−1640年のパリでは、衰退していた。代わって、バロックの華麗な古典主義が人気を得ていた。

3)ジョルジュの死後、画家であった息子エティエンヌは、自らの才能を見切り、貴族としての道を選択するようになった。その間、著名な画家であった父親との関係、出自などを表面に出さないように努めたのかもしれない。

これらの諸説についてブログ筆者は、美術作品と時代の関連について、別の仮説を考えていた。ラ・トゥールが忘却されていたかに見えたのは、ひとつには画家の作品に込められた「美」の内容が、その後の時代の求めた美の内容、しばしば流行、好みなどの風潮に合致しなかったことではないか。「
時代の眼」を重視してきたのはそのためである。この点を突き詰めると、美の本質とは何かという問題に行きつく。

美の本質について
ひとつの極にあるのは、哲学者カントに代表されるように、美しさは作品を観る人に関係なく作品自体に存在するとする考えである。確かに美術作品の中には、誰が見ても 客観的に美しいと感じるものもある。その美しさは観る人の立場や思考、趣味などに依存しない。しかし、どの程度に美しいと感じるかという問題は避け難く残る。

他方、同じ哲学者でもデビッド・ヒュームのように、何が美しいか、または私たちが美しいと考えるものは主観的なものであると考えている人たちもいる 。これによれば美しさは見る人によって異なることになる。言い換えると、美しさには順位や程度が存在することでもある。

17世紀ヨーロッパの絵画の世界を見ても、今日まで作品、経歴などが十分確認されている画家はむしろ少ない。しばしば参照される画家、美術評論家のフロマンタンによる1875年のオランダ・ベルギーの絵画を訪ねての紀行文でも、言及されている画家の軽重には近年の評価とは異なる点も多々あり、時代による画家の位置づけにも作品の発見、学術研究の進展などを反映し、往時とは差異も生まれている。ラ・トゥールが画家として多くの時を過ごしたロレーヌのような地域では、作品の長期にわたる安定した継承、鑑賞に耐える風土はほとんど存在せず、作品の市場も画家とその作品を個人的に知るフランスやロレーヌの王侯貴族、収集家など限られた人脈の範囲にとどまっていた。ラ・トゥールの場合は幸い20世紀初頭に再発見されたが、同時代であっても全く忘れ去られてしまった画家も多いことを指摘しておきたい。


フロマンタン(高橋裕子訳)『オランダ・ベルギー絵画紀行:昔日の巨匠たち』上・下(岩波文庫、1992年)



続く
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