時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

苦難の時代(3): 対比モデルとしてのラ・トゥール

2022年06月21日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


SIMON VOUET(PARIS 1590-PARIS 1649)
Portrait of Simon de Montfort(about 115-1218)
Between 1632-1635
Oil on canvas, 214 x 134cm
Chateau de  Bourdeilles
帯剣貴族の例



SIMON VOUET(PARIS 1590-PARIS 1649)
Portrait of Gaucher de Chatillon (1250-1326)
Between 1632-1635
Oil on canvas, 218 x 137cm
Paris, Musee du Louvre
法服貴族の例
シモン・ヴーエの肖像画の傑作といわれる。


ラ・トゥールという稀有な画家にとって、自らの運命を定めた人生の決定的転機がいくつかあったと考えられる。史料その他からの情報で判断する限り、最も重要な意味を持つものは、1617年、貴族の娘ディアヌ・ル・ネールとの結婚であったのではないか(1617年7月2日結婚契約書、ヴィック)。これによってパン屋の息子ジョルジュは身分制度の階梯を上り、有名画家としてその後の社会的成功に大きな一歩を進める足がかりを得た。

1593年の誕生以来、この時までのジョルジュの画家としての修業過程は、史料の上ではほとんど空白といってよい。しかし、ジョルジュはすでに画家として多くの人が認める芸術的成果を残していたことはほぼ確実とみられる。それなしには、この結婚自体が成立しなかったであろう。残念なことは、この時点でラ・トゥールがいかなる作品を残していたかが、作品年次あるいは史料の上でもほとんど確定できないことである。

身分制の壁を乗り越える
この結婚はアンシャン・レジーム下、貴族(第2身分)と平民(第3身分)という異なった社会身分の間での結婚であった。当時、この身分制度は必ずしも固定的なものではなく、裕福な第三身分は 売官制によって貴族の身分を買うこともあった。「 法服貴族」といわれる。他方、世襲的な 「帯剣貴族」 の中には没落するものも現れていた。

帯剣貴族と法服貴族
帯剣貴族は中世以来の封建(武家)貴族。法服貴族は官職売買制度を通じて司法・財政の官職を獲得し、高等法院などの高級官職につくことで貴族身分に叙された新興貴族。富裕なブルジョアは没落貴族から所領を買って領主となり、高等法院などの高級官職につくことなどを通して、貴族身分に入り込んだ場合もあった。両者の間には時に争いも生じた。


ロレーヌ公国はフランス文化圏に入り、フランスの法体系などを取り入れ、踏襲していた。小国であったため、ロレーヌ公の裁量が働く余地は大きかったと思われる。ちなみに、ディアヌ・ル・ネールの父親はロレーヌ公の財務官の役を果たしていた。法服貴族の範疇に入ると考えられる。

ジョルジュは父親がヴィックのパン屋という平民の身分(第3身分)に属していたが、ヴィックの町での交友関係や粉屋との取引額などから町ではかなり知られた人物で、生活面では比較的裕福であったと推定されている。それでもリュネヴィルでは貴族(第2身分)のディアヌ・ル・ネールの家族との間には厳しい身分制度の障壁が存在した。

ネールの両親がこの結婚に必ずしも同意していなかったのではないかとの推測も成立しうる由縁でもある。

見逃せない代官の先見性
しかし、この難しい状況にあって、こうした懸念を払拭する役割を果たした人物がいた。以前に記したヴィックの代官ランベルヴィエールである。断片的史料から推定しうることは、代官はジョルジュという若者の隠れた芸術的資質を早くから認め、パン屋の父親を説得し、画業修業の道を推薦し、さらには作品の購入まで知人に勧めている。音楽、美術などの隠れた才能を秘めた若者のための活動機会を様々に提供していたようだ。ためらうディアヌの両親を説得し、なんとかジョルジュとの結婚を成立させたのも、ランベルヴィエールの尽力なしにはできなかったろう。ラ・トゥールの画家としての生涯を語るに際して、この人物の役割は欠かすことのできない重みを持つ。

ラ・トゥール家とランヴェルヴィエール家の関係も強まったようだ。一つの例として、1629年にはランヴェルヴィエールの息子とラ・トゥールのいとこが結婚し、リュネヴィルに住んだ事実がある。

ジョルジュは結婚後ほぼ2年間、この地域の慣行として生地ヴィックの両親の家で過ごした後、ネールの生地であるリュネヴィルに移住し、画家としての活動を開始する。この時1620年、ロレーヌ公アンリ2世に宛てて、貴族の身分の女性と結婚したこと、そして絵画の技術それ自体が高貴であることを理由に、すべての税金の免除と社会的特権を認めてほしい旨の請願書を提出し、同年7月10日に認められている。

ジョルジュとディアヌの間には、1619〜1636年の間に10人の子供が生まれた。男女それぞれ5人ずつだった。

画家は高貴な仕事
この時に認められた貴族的特権がラ・トゥールのその後の人生において、決定的に重要な意味を持つものとなった。この請願で重要なことは、自らが身につけた絵画の技能自体が高貴なものであるとの主張にある。これは、既にそれまでに、
Deruet, Le ClercCallot などに与えられた待遇と同等のものを意味すると考えられ、ロレーヌ公国がこの地域で他に先駆けて絵画と画家という仕事の地位の高貴さを認めたという意味で特記すべきものであった。

1620年代はロレーヌにとって数少ない繁栄の時であり、文化的にも興隆していた。1630年代に入ると、疫病が大流行し始める。

広くはフランス文化圏にありながら、相対的な自立を確保したいと考えていたロレーヌ公としては、芸術の「高貴性」を称揚することで公国の規範の一端としたいと考えたのかもしれない。ジョルジュは、それを先取りして示すことで、パン屋の息子と貴族の娘との結婚という他力的な要素を希薄化し、請願の中核としたいと考えたのだろう。

リュネヴィルには幸い他の町のように競争相手となる画家もいなかったこともあって、請願は受け入れられた。この請願内容にも恐らくランベルヴィエールの強いアドヴァイスがあったものと思われる。

ラ・トゥールとしては、この特権付与は何よりも望んでいたことであり、その後の画家生活のあちこちで主張されることになった。その結果は様々な衝突、軋轢を引き起こすが、ラ・トゥールにとっては安易に妥協することは、自らが獲得した貴族的地位と特権を放棄することになり、絶対譲れなかった一線であったと考えられる。対応がしばしば横暴、強引なものとして感じられたのも、ある程度仕方がなかったのだろう。

記録の上では、リュネヴィルに移住した後、ジョルジュ夫妻は頻繁に結婚などの証人、子供の誕生に際しての代父母などの役を積極的に務めている。このことはラ・トゥール夫妻が地域などでの人的交流の強化に極めて熱心だったことを示している。

平民が貴族になる方法
アンシャンレジームの下で、ジョルジュの場合のように身分制の壁を越えて貴族となる道は固く閉ざされてきた。しかし、可能性が全くなかったわけではない。売官制のような抜け道は存在した。さらに、現代のように出自などの情報が入手できるような環境がなかったことなどもあって、ひとたび確保した貴族の称号、特権の内容などを客観的に確認することは困難であったと推定できる。そのため、貴族の僭称、誇示などもあったようだ。そうした混迷した状況 (1642年のある事件)を背景とした次の如き小説も存在する。あくまで小説であり、どこまでが当時の事実に基づくものであり、逆に事実ではないかは明らかではないが、17世紀のフランス革命当時の奇想天外な展開が描かれている。他の史料などと併せ考えると、フランスの貴族社会にはかなりの乱脈、混迷した状況が展開していたことが分かる。

ペルッツの小説『テュルリュパン』は、30年戦争(1618~1648)の時代背景の下、宰相リシュリューの大陰謀が渦巻く中、町中の床屋テュルリュパンがいかにして貴族として登場、活躍するかが描かれている。ラ・トゥールと同時代である。小説では、この時代の底流に存在した貴族なる身分の怪しげな実態が巧みに描き出されている。どこまでが事実で、どこからが虚構なのか、判然としないほど渾然一体として、一気に読ませるものがある。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの場合は、パン屋の息子が画家として実績を示し、貴族の娘と結婚することによって、貴族的特権を獲得する実際の話だが、この小説では、町中の床屋が貴族の座に至るまでの信じ難いほどの変転の過程が描かれている。歴史小説なので、虚構なのか事実なのか不明だが、読むほどに魅了される展開である。これは、もう一つのフランス革命といわれる次元の話である。事実、フランス革命には教科書には記されていないような雑然とし無秩序な世界があったことが知られている。

ジョルジュやエティエンヌが各所で見せた貴族的特権への執着は、当時の下級の法服貴族などにしばしば見られた行動でもあった。とりわけ、父親のように画家として生きてゆくだけの技量を持ち得なかったエティエンヌにとってみれば、ロレーヌ公の覚えめでたく一代限りでも貴族として生きることを選択したのは当然であったといえる。




レオ・ペルッツ(垂野創一郎訳)『テュルリュパン:ある運命の話』ちくま文庫、筑摩書房、2022年(Leo Perutz, TURLUPIN, 1924)

Reference
JACQUES THUILLIER, GEORDES DE LA TOUR, Flammarion, 1993, 1997
RICHELIEU: ART AND POWER, Edited by Hilliard Todd Goldfarb
Montreal Museum of Fine Arts. 2003

続く
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​苦難の時代:対比モデルとしてのラ・トゥール(2)

2022年06月10日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:天才〜忘却と再生』
ラ・トゥール没後の「忘却と再発見」の過程を追ったビデオ
GEORGES DE LA TOUR: GENIUS LOST AND FOUND, WITH THE PARTICIPATION OF EDWIN MULLINS, HOME VISION ARTS, 1998


ある日突然、隣国の軍隊が突如侵攻してきて、略奪、殺戮などのかぎりを尽くす。ロシア軍のウクライナ侵攻の話ではない。1638 年、フランス軍がロレーヌ公国リュネヴィルを略奪し、ラ・トゥールの工房も破壊され、市内各所にあったと思われる絵画作品などが焼失、逸失した出来事である。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールはこうした時代環境に生きていた(ロレーヌ公国は現代のフランス北東部に相当し、フランス王国と神聖ローマ帝国に挟まれた小国、縁辺国家であり、大国の利害にいつも翻弄されていた)。

ラ・トゥールは、今日では17世紀フランス絵画界を代表する大画家だが、現代に継承された作品に込められた深い精神性の反面、史料の断片に残る画家の私生活、特に粗暴な行動の間には、しばしば理解し難い断絶があるように語られることが多かった。

とりわけヴィックという小さな町のパン屋に生まれた画家が歴史の闇の中から突如姿を現し、リュネヴィルの貴族の娘ディアヌ・ル・ネールと結婚した後の史料に残る貴族的特権を盾にしたかに見える行動、そして1652年、画家没後以降の美術史における急速な忘却など多くの謎めいた部分もあり、さまざまな推測、話題を提供してきた。

近年、やや人気が過剰に見える同時代の画家フェルメールにしても、没後は長い間忘れられていた。この時代、ヨーロッパの画家で生年、修業の場所、没年などの基本データが正確に知りうるのは極めて少ない。名前さえ残っていない画家の方がはるかに多い。

ラ・トゥールが生きた17世紀、ロレーヌという地域はヨーロッパでも特に激変の波にさらされていた。この時代、画家が自らを語った自伝や論評、自画像などがほとんど存在しないだけに、美術史家などの努力は歴史の闇に深く埋もれてきた古文書などを丹念に調べ、脈絡を見出すパズルのような作業が中心になってきた。今日までに発見、継承されている作品は数少なく、これから発見される可能性もあまりない。





ラ・トゥール誕生、洗礼の銘板、ヴィック サン・マルタン教会(上)
17世紀の面影を残すヴィック・シュル・セイユの街並み
Photo:YK

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N.B.
この時代、古文書などの史料は全て手書きであり、時代の激動に史料や作品の散逸などが起きた過程で、埃などで紙質やインクが劣化し、古色騒然とした文書を読み、画家や作品に関連すると思われる記述を探し出し、背後の事情を類推するという気の遠くなるような作業である。ラ・トゥールの場合、特に同時代の自伝、作品論評と言ったものは一切期待できない。前回記したように1863年までは、修道士ドン・カルメによってロレーヌに残る Bibliotheque Lorraine(1751)に記された11行の文章しか見当たらなかった。その後アレクサンドル・ジョリ が初めてリュネヴィルに残る史料から画家の名前を確認した。言葉の真の意味でラ・トゥールの「発見者」といえる。その後、少しずつ歴史の霧の中から画家の作品、過ごした人生の輪郭がおぼろげながら浮かんできた。史料や作品が豊富に活用できるネーデルラントの画家の世界とは対照的である。そして前回にも簡単に記したように、1915年のフォスの作品発見、帰属確認以降、少しづつ画家と作品が我々の目前に示されるようになってきた。

Hermann Voss のイメージ
Source: Cuzin et Salmon (p.15)
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こうした史料の在処は、大別すると画家の生誕の地ヴィック、結婚後、工房を置いたリュネヴィルの古文書保蔵館、司教区関連の文書が保管されているメッスの古文書館、地域の公証人関連史料や過去の司教区のリュネヴィル関連史料が保管されているナンシーの古文書保管所、さらにフランス王の決定に関連する事項、公証人関連史料などはパリの古文書館などに広く散在している。

ナンシーの尖塔  Photo:yk

しかし、多くの文書は現代とは異なり、それぞれの領域で関係者が手書きで記したものであり、古文書専門家が読解に多大な努力を傾注しても、記載された事実と論理まで読み切ることは至難のようだ。

ラ・トゥールの偉大な研究者であったパリゼ Francois-Georges-Parisetは、関連史料の発掘に多大な貢献をしたが、こうした優れた研究者ですら史料の誤読から自由ではなかったとされている。 Thuillier(1993, 1997)に収録されている史料 documentary sources についても、そうした難しさが指摘されている。言い換えると、数行の短い記述が何を意味しているか、専門家といえども読みきれないものが多々残されている(Thuillier 1997, p.242)。今に残るラ・トゥールの数少ない自筆の文書などは、手書きの筆跡も美しく論理的に書かれているが、各所に散在する公文書の手書き文字の断片などは、相当経験を積んだ研究者といえど、読みこなすのは難しい。

ブログ筆者は、かつて友人(社会経済史家、ドイツ人)の古文書探索に同行したことがあったが、文書館の膨大で複雑な収納・整理体系を理解して、目的の文書にたどりつくまででも、大変な労力と推理が必要なことを痛感させられた。

それでもラ・トゥールに関する史料や作品の発掘は、こうした幾多の困難にもかかわらず着実に進捗してきたようだ。筆者がこの画家に魅せられた半世紀ほど前と比較すると、格段の進歩が見られたと思われる。

今回紹介するのは、これまでの画家と作品の発見のプロセスを、レポーターがルポルタージュのように現地で追跡した記録ジョルジュ・ド・ラ・トゥール:天才 忘却と再生と題した貴重なビデオである。このビデオは画家の没後、人々の眼前から突如消えてしまった画家の名声と作品が、その後20世紀に入り、次々と再発見され、然るべき位置があたえられてきた過程を忠実に画像で追っている。この画家の在りし日の残影を示す記録がいかなる場所に保管され、再発見されて行くかが大変印象深く丁寧に映像化されている。残念なことに、今日、このビデオは市販されていないようであり、著作権の点からも動画の詳細を紹介することはできない。ラ・トゥールへの関心が再び高まる中で、再版されることを望みたい。(なお、このビデオは、下掲の解説書ジャン=ピエール・キュザン ディミトリ・サルモン『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』と対をなすような関係で、両者を併せ見ると大変興味深い)。


この地域のワインのラベル

References
Jacques Thuillier, GEORGES DE LA TOUR, Flammarion, 1993, 1997

Jean-Pierre Cuzin, Dimitri Salmon, Georges de La Tour; Histoire d`une redecouverte, DECIUVERTES GALLIMARD,1997(邦訳:ジャン=ピエール・キュザン ディミトリ・サルモン訳 高橋明也監修 遠藤ゆかり訳『ジョルジュ・ド・ラ・トゥール』創元社、2005年)


GEORGES DE LA TOUR: GENIUS LOST AND FOUND, WITH THE PARTICIPATION OF EDWIN MULLINS, HOME VISION ARTS, 1998

続く

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