時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

よみがえるマリア・カラスの世界

2019年04月24日 | 午後のティールーム

 

久しぶりにマリア・カラス(Maria Callas 1923年ー1977年)の歌唱を聞く。と言っても、映画『わたくしはマリア・カラス』の中である。53歳という若さで世を去った20世紀を代表するソプラノ歌手は、その卓絶した歌唱力と華やかな人生のゆえに、やや神格化されてきた。

1973-74年には来日もしており、日本人にもファンは多く、同時代人でもある。しかし、謎に包まれた部分も大変多い。映画は、未だ公開されたことのない未完の自叙伝やこれまで封印されてきたプライベートな手紙、秘蔵映像や音楽などを彼女自身の言葉と歌で綴られる。より素顔に近いマリア・カラス像が描き出されている。

マリア・カラスはかねて筆者のご贔屓の歌手の一人であり、LPのジャケットが近くに置かれていたこともある。しかし、ある時からあまり聴くことがなくなった。その顛末はブログにも記したことがある。

カラスは、ギリシャ系 アメリカ人の ソプラノ歌手。 ニューヨークで生まれ 、パリ で没し、 20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。特にルチア(ランメルモールのルチア) ノルマ、ヴィオレッタ( 椿姫 トスカ)などの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で、多くの聴衆を魅了した。それにとどまらず、その後の歌手にも強い影響を及ぼした。筆者は演歌はほとんど知らないが、偶々歌手の原田悠里さんが最も影響を受けた歌手として美空ひばりとマリア・カラスを挙げていたので、さもありなんと思った。

1938年アテネ王立歌劇場で『 カヴァレリア・ルスティカーナ』( マスカーニ作曲)のサントゥッツァを歌ってデビューした。 1947年には ヴェローナ音楽祭で『 ラ・ジョコンダ』の主役を歌い、 1950年には ミラノ・スカラ座に『 アイーダ』を、 1956年 には ニューヨークの メトロポリタン歌劇場で『ノルマ』を歌ってデビューし、それぞれセンセーショナルな成功を収めた。今日、メディアを通して聴いても、その素晴らしさは直ちに分かる。

カラスの特に傑出した点は、そのテクニックに裏打ちされた歌唱と心理描写、演技によって、通俗的な存在だったオペラの登場人物に血肉を与えたことといわれる。持ち前の個性的な美貌と声質を武器にして、ベルカントオペラに見られるありきたりな役どころにまで強い存在感を現した。

1958年1月2日、 ローマ歌劇場が行った ベッリーニ『 ノルマ』に主人公ノルマ役で出演したが、カラスは発声の不調のため、第1幕だけで出演を放棄してしまった。その結果、場内は怒号の渦巻く大混乱となり、この公演はさんざんな失敗に終わった。

その後、イタリアでのスキャンダルから逃れるようにフランスの 「パリ・オペラ座」 と契約。 1958年オペラ座にておこなわれたデビューコンままを映画化(『マリア・カラス 伝説のオペラ座ライブ』)される。

1973年と 1974年に来日。1974年には ジュゼッペ・ディ・ステファーノ(テノール)とピアノ伴奏によるリサイタルを行った。この1974年の日本公演は前年から始まっていたワールドツアーこれが彼女の生涯における最後の公式な舞台となってしまった。

カラスの私的生活には、取り立てて関心はなかったのだが、映画を見て少し見直した。カラスの最初の夫は30歳年上のイタリアの実業家ジョヴァンニ・バッティスタ・メネギーニであったが、後に オナシス のもとに出奔し離婚。オナシスとの愛人関係は ケネディ 大統領未亡人 ジャッキーとオナシスの結婚後も続いた。その後ディ・ステファーノと恋愛関係に入る。しかしステファーノとの関係も1976年12月末に終わった。

1977年]9月16日、隠棲していた パリ16区の自宅にて心臓発作で、53歳で死去。 遺灰は ペール・ラシェーズ墓地に一旦は埋葬されたが、生前の希望により 1979年に出身地の ギリシャ沖の エーゲ海)に 散骨された。カラスにはやはり青いエーゲ海の血が流れていたのだ。久しぶりにカラスを聴いてみよう。

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茨の道が続く『令和』の始まり:分裂・分断が進む世界

2019年04月20日 | 特別トピックス

 


『平成』から『令和』への改元は、日本社会に回顧を伴う大きな感慨と一抹の明るさをもたらしたかに見える。『平成』の時代は幸い日本の国土での戦争は免れたが、多くの災害(天災・人災)に襲われ、多大な被害を被った地域も多く、新時代へ続く地域の衰退、厳しい人口減など活力の減衰が既に始まっている。少し日が経って見れば、現在そして來るべき未来が到底手放しで明るいものではないことに気づくことになるだろう。

忘れられてはいけない問題
改元で政治経済あるいは社会面の深刻な現実が変わるわけではない。例をあげれば、「平成」の時代で最大かつ深刻な東北被災地の復興、とりわけ核燃料廃棄物の処理は半世紀近い未来まで続き、いつ終結するともわからない。かつてチェルノブイリの近くまで行ったことがあるが、福島の現場を見るとそれを上回る暗澹たる気持ちになる。そればかりか、改元直前の政治的諸課題が後退し「拉致」や「国民統計」をめぐる問題など、顛末がどうなったのか、甚だ危うい状態にある。

今はメディアの報道の大きな部分を占める東京五輪も、長い歴史の上では文字通り一瞬の花火のごときものだろう。他方、人口減少に伴う深刻な労働力不足は、既にいたるところに厳しい問題を生み出している。「外国人材」導入の名の下に検討不足の施策が打ち出されているが、拙速で政策間の整合性がなく、実現可能性に大きな疑問符がつく。助走距離のないままに幅跳びを迫られるようなものだ。

生まれる新たな下層社会
「外国人労働者」ではなく、「外国人材」という馴染みの薄い言葉が使われ始めてから日は浅いが、入国してくるのは労働者という人間であることはかねてから幾度となく強調されてきた自明なことである。しかも、日本人が就労しようとしなくなった分野に限って受け入れられる以上、その労働条件が劣悪なことは、多くの事例が示してきた。福島原発の処理作業まで、当初から外国人労働者を導入するまでになっていることは現実がいかに深刻であることを物語っている。国内労働者の下に外国人労働者を含む低賃金労働者層が作り出されることは目に見えている。

既に公式には受け入れの門は開かれてしまっているが、人材の給源の適否、受け入れ方法、訓練、日本語および人間としての生活に必要な対応など、すべてにわたって準備不足が目立つ。留学生に認められるアルバイト時間を大幅に逸脱し、学生なのか労働者なのかわからなくなっている「留学生」も多い。日本の教育の内容と誠実さが問われている。

日本で働く外国人研修生などの中には、過酷な労働環境に耐えかねて失踪する者の増加などが、以前から指摘されているが、改善されるどころか、増加するばかりだ。人間が入ってくれば、犯罪も増加する。海外に拠点を移し、遠距離から高齢者などを餌食とする詐欺なども多数報じられるようになった。犯罪の手口は日に日に巧妙になっている。「一人暮らし」が住民の3割にも及ぶ現実を直視すべきだ。

グローバルな変化
他方、世界の移民・難民の状況は、近年大きな転機を迎えている。移民・難民を希望する人数は増え、彼らが稼ぎ出す外貨送金の額も傾向的に増加しているが、その人流を妨げる障壁も次第に高まっている。トランプ政権の下では、内外の批判を受け、現在は一時的に停止しているが、ホンジュラスからメキシコ経由で不法入国した難民申請の親子を引き離し、親だけを国外退去させるなどの非人道的とも言える対応もとられた。想像を絶する苦難のキャラヴァンを続けても、難民として認定されるのは15%未満と言われる。

物理的な壁でも防げない
アメリカ南部のアメリカ・メキシコ国境はトランプ大統領の強権の下に既に物理的な壁が建造されつつある。こうした壁は確かに実態をよく知らない一般人には移民・難民の流れを阻止するに有効な手段と目に映るかもしれない。しかし、観光査証などで入国して、査証目的と異なった活動に従事することは広範に行われている。

ヨーロッパもシリア難民の増大などで、国論を引き裂く大問題となったが、今は小康状態といえる。しかし、夏の訪れとともに、地中海などをボートに満載されて、アフリカからヨーロッパへ辿り着こうとする移民・難民も増加するだろう。

既に世界で自分の生まれた国以外の地に住む人口は2億5千万人近くに達している。一般的には、これまでの経験を通して世界の多くの国々が移民入国の増加に反対し、同時に自国の優れた人材が他国へ移住することにも反対する傾向が見出されている。この傾向は細部に入るほどに複雑、流動的であり、地政学的な要因が強くなる。日本の周辺には、人口が大きく、政治的にも難題を抱える国々が多く、出入国管理、共生政策は周到な検討が必要になる。外国人受け入れは日本の命運を定める一端を担っているともいえる。『令和』の時代は、その語感とは異なる苦難な道となることは避けがたい。五輪後の世界をしっかりと見つめることが必要だ。

 

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モントリオールの思い出

2019年04月12日 | 午後のティールーム

 

たまたまTV番組で、タクシーで「モントリオールを走る」(再放送)を見た。これまでの人生でかなりの数の外国都市を訪れてきたが、この都市にはとりわけノスタルジックな思いがある。学生時代に友人たちと貧しいながらも楽しい日々を過ごし、その後は仕事でかなりの回数訪れている。多分50回は優に越えていると思う。友人・知人も多かったが、今は数人になってしまった。

モントリオールとの縁ができたのは最初は1960年代、ベトナム戦争たけなわの時代であった。アメリカの大都市では黄色い衣、を着たヒッピーが目立ち、反戦運動が報じられていた。ベトナム派遣を忌避してカナダへ逃げる学生もいた。ちなみに 1975年4月30日のサイゴン陥落によってベトナム戦争は 終戦となった。

モントリオールとニューヨークは、同じ北アメリカの都市でもかなり違うように思えた。とりわけ、道路や橋など公共資本がかなり荒廃していた当時のニューヨークと比較すると、モントリオールは落ち着いた美しい都市であった。地理的には、セントローレンス川とオタワ川の合流点に近い島であり、川を望む展望が美しい。周辺には多くの景勝地が点在する。このブログでも一部は記したが、日本ではあまり知られていない所が数多くある。一時はこの大河の流域の植民、開発を新たな視点で描いてみたいと思ったこともあったが、その時間はないようだ。それでも、16世紀半ばから1760年までのいわゆる植民地時代、モホーク・インディアンなどの先住民の居住地やジャック・カルティエ広場など、植民者の名前が残る場所など、記憶が鮮明に残る場所も多い。

セントローレンス川は大河であり、流域には広大な大地が広がっている。移民国家としても、一時は混乱もあったが、総体として出入国管理、共生政策が比較的巧みに運営されてきた。北米3カ国の国境で、カナダ・アメリカ国境は比較的静かにとどまっている。先住民との衝突も多かったが、広大な地域の思いがけない所にまで入植者が入っている。

今では、モントリオールはカナダ第二の都市であり、住民の大半がフランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系だが、世界各地からの移民も多い多民族都市になっている。筆者がしばしば訪れた1960-1980年代頃は総じて英語が優位なような印象が残っている。友人、知人も多くは英語が得意な人たちが多かった。ほとんどが移民あるいはその子孫であり、フランス系、ベルギー系、ロシア系など出身国は様々だった。

「北米のパリ」とも呼ばれ、ノートルダム大聖堂などフランス入植者の歴史が色濃く残る。住民の大半が フランス系カナダ人を中心にしたヨーロッパ系だが、市内の人口の約32%は非白人と世界各地からの移民も多い。TV取材の対象となった運転手もほとんど移民で、フランス語が得意な人たちが多かった。今では、周辺地域を含むモントリオール大都市圏の人口は約380万人であり、モントリオール大都市圏の住民の7割弱が 第一言語をフランス語とし、フランス文化の薫り高い異国的な雰囲気、フレンチ系の美食レストランが多いことでも知られる。

他方、都市部の住民の1割強の第一言語は英語であり、19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて英国系移民によって街が発展してきたことから ヴィクトリア朝の建物が多いなど英国文化も色濃く残る。地上を歩いていると、人通りもさほど多くなく、落ち着いた感じがするが、冬が厳しいので地下街が発達していて、暖かくショッピングができる。モントリオール郊外は、北には ローレンシャン山地、夏は キャンプ、冬はスキー などのアウトドアレジャーで賑わう。秋の「メープル街道」も有名だ

大都市の例にもれず、モントリオールも高層ビル群が目立つが、市内のモン・ロワイヤル山(233m)より高いビルの建設は禁止されている。ちなみにこの山頂からの眺望は昼夜を通して素晴らしい。日本には美しい山と川がこれほど町に近く、対比できる大都市が見当たらないが、景観だけで見れば札幌などが近いだろうか。

 

◆「モントリオールを走る」NHKBS! 1月12日(土)【BS1】20:00~20:50の再放送

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