時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

危機の時代にはラ・トゥールが生きる(6)

2022年03月23日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋



コロナ禍の行方が未だ定まらない中で突如勃発したウクライナ紛争は、ロシア軍の無差別殺戮の様相を示し、ひとつ対応を謝れば第3次世界大戦へと突入しかねない恐怖感が高まっている。ゼレンスキー大統領のアメリカ議会へのスピーチ(on-line)では、真珠湾攻撃、9.11同時多発テロが言及されていた。同時代人としてふたつ共体験している筆者にとっては、治りきれていない傷を逆撫でされたような思いがした。今日は日本の議会に向けてのスピーチも行われた。大変良く考えられた内容だった。

ロシア軍の侵攻が始まって以来、さらに慄然としたことは、戦争の経過が「劇場化」され、あたかもTVゲームのように報道されていることだ。プーチン、ゼレンスキー、バイデン、習近平などの政治家たちの策略、手持ちの札までが憶測を含めて詳細に報じられ、世界の人々がそれぞれに近未来を推測し、行動している。死傷者の数はあたかも作戦スコアの如き受け取られ方となる。なんともやりきれない思いがする。

上掲のタイトルで記事を書き始めた時には、ロシアの侵攻は始まっていなかった。戦争の手段は人類の未来を断ちかねないほどに恐ろしく発達したが、根底に流れる人間の愚かさはなんというべきだろうか。

ロシア軍が戦況の膠着に苛立って、シリア人傭兵4万人を投入すると伝えられている。かつて読んだ17世紀の30年戦争の光景が思い浮かんだ。常時多数の常設軍を維持できなかった諸侯は、戦乱があると多くの傭兵を雇い、前線に送った。

17世紀、30年戦争小説に見る社会倫理
こうしたTV報道などを見ていると、かつて読んだ17世紀ドイツ・バロック期最大の小説、グリンメルスハウゼン『阿呆物語』に、百姓(農民)や教会のパン竈からパンやベーコンを盗み出した傭兵たちの話があったことを思い出した。この小説は30年戦争を背景としている。バロック小説特有の曲折と面白さが混在していて、ドイツでは多くの専門研究がなされているようだが、今日邦訳で読んでも大変面白く読み通せる。邦訳(望月市恵)は1953年訳なので文体、語彙が現代的ではないが、それがかえって興趣を増す。
30年戦争を直接、間接取り上げている小説はこのブログでも取り上げたように数多いが、『阿呆物語』はその中心的位置にある。

ちなみに、主人公ジンプリチウスは、最初は農村育ちの純真、無知な子供だが、生家が軍隊の略奪にあって森の中に逃げ込み、隠者に会い、読み書き、キリスト教の教えを学ぶ。その後、世俗の世界に出て、軍隊に入ったり、さまざまな経験を経て、自らが隠者になるまでの波瀾万丈な人生を過ごす。ここで取り上げるのは、ジンプリチウスは傭兵の隊長として食糧の缺乏に苦しんだ部下を指揮して、自分は画家(画工)に身をやつし、村に入り込み、教会や村人からパンなどを巧みに盗み出す話である。

現在世界中から大きな関心を集めているロシア軍のウクライナ侵攻においても、食料の補給ルートが途絶えがちなロシア軍兵士が、夜間民家を襲い、じゃがいもやパンを盗み出す行為が報道されている。

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N.B.
第31章「ジムプリチウスは悪魔が司祭のベーコンを盗み、司祭を騒がせたことを語る。」

上掲の章から、その一部を紹介しておこう。主人公の傭兵隊長ジンプリチウスは、戦争の途上、食糧が不足し、部下に教会や百姓(農民)のパン竈を襲わせ、ベーコンやパンを盗み出した。しかし、その後、主人公ジンプリチウスは司祭には100ライヒスタール相当の高価な指輪と共に、次のような手紙を届けている。

以下引用(邦訳のまま):

主任司祭猊下、私は過日森にひそんでいました際に、食糧の欠乏に難儀していませんでしたら、貴䑓の膽を縮み上がらせたりする必要がなかったろうと悔やまれます。温良な貴䑓をお驚かせしたことが全く微生の本意ではなかったことをここに神かけてお誓いするとともに、微生の罪をお宥しいただけることを念じて居ります。
問題のベーコンにつきましては、遅ればせながら代價をお払い申し上げなくてはと考え、拝借しました食糧で餓死を逃れました兵隊一同の供出にかかる同封の指輪を代金がわりとしてお納めいただきたく存じます。これにてご満足いただけましたら幸甚であります。終わりに、貴䑓はいかなる大事に臨まれましても微生を忠實にして誠實な下僕として御想起いただきたく、序でながら微生は貴䑓の教會堂番人殿の眼力に見破られました通り、畫工とは真赤な嘘にて、一部の人々から下名をもって呼ばれている者であります。         猟人敬白

(邦訳:p.293)

滑稽なことに、これに対して後日司祭から丁重な礼状が送られてきた。贈った高価な指輪もどこかの村で略奪してきた代物であることは明白であり、なんとも可笑しい。

さらに、傭兵隊からパン竈を襲われ、パンを全て盗まれた百姓に対しては、部下に代金相当を贈らせている。

パン焼き竈を空にされた百姓には、遊撃隊一同の分捕品の中から黒パン代としてライヒスターレル16枚を届けさせた。・・・(以下略)」(邦訳:p.294)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

いうまでもなく、これは時代風刺を含んだ小説の中の話であり、現実の戦場ではジャック・カロの銅版画に刻まれたような残酷な戦闘、略奪が行われていたのだが、当時の社会倫理の内容、水準が想起されてきわめて興味深い。ロレーヌと地域は異なっても、世俗の状況、パン屋の有様、画工の社会的地位なども推察でき、しばし歴史の時間軸を遡ることができる。歴史上、初めての「危機の世紀」と呼ばれた17世紀の空気を追体験できるかもしれない。


References:
グリンメルスハウゼン(望月市恵訳)『阿呆物語』(上、中、下、全3冊、岩波文庫、1953, 2010 ) (Hans Jakob Christoffel von Grimmelshausen, Der abenteuerliche Simplicissimus, ca 1668,正確な出版年不詳)




続く










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危機の時代にはラ・トゥールが生きる(5)

2022年03月12日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

ジョルジュ・ド・ラトゥールが洗礼を受けたヴィックのサン・マリアン教会
Photo:YK

ラ・トゥールがどこでいかなる画業修業をしたかは、ほとんど分からない。1593年、ヴィックで誕生、洗礼を受けていることは教会記録に残る。その後、長い空白の後、1616年に23歳の時、ヴィックで洗礼代父を務めた記録が確認された。

この時代、ラ・トゥールに限らず、多くの画家の画業修業の実態はほとんど不明である。ラ・トゥールと同時代の画家ニコラ・プッサン(1594-1665)などの場合も修業の過程は今もってよく分からないままだ。ほとんどの画家たちは歴史に名前すら残っていない。同時代の関連史料の探索、蓄積を充実することで、推理を深めることしかない。

ラ・トゥールについても、これまで多くの美術史家などが探索に尽力してきたが、確たる史料は多くは残っていない。状況証拠の積み重ねのような推理に頼る以外にない。このブログでは、これまであまり指摘されたことのないラ・トゥールの出自、才能の発見、徒弟などの画業修業、画家への支援、貴族への社会階級の上昇の過程などを推理してきた。

これまでの記述とやや重複するが、いくつかの注目点がある。第一は、ジョルジュの画家としての才能が見出された環境である。

ジョルジュの家系
ジョルジュは、父親ジャン・ド・ラ・トゥールと母親シビルの間に次男として生まれた。長男ジャコブは1歳年上である。ジャンの家業はパン屋であったが、ジャンの父親は石工であったことが知られている。石工はきわめて過酷な労働を伴う職業であり、ジャンは父親の仕事を見ながら、少しでも楽に見えたパン屋となる道を選んだのだろう。しかし、
パン屋も実は決して楽な仕事ではなかった

ジョルジュは父親のパン屋の手助けを長男ジャコブと共に続けていたが、幼い頃からパン作りに熱意がなく、持って生まれた絵画への関心に急速に傾斜していたようだ。しかし、それが画家への道を選ばせるほどの才能であることに気づき、画家になるための徒弟修業などに踏み切るには、いくつかの条件が必要だったと思われる。この点は、本ブログでも記したジョン・コンスタブル(1771-1837)の場合を想起させるものがある。次男として生まれたコンスタブルには、長男が家業の製粉業を継ぐことに難があっただけに、父親などから多大な圧力がかかり、ラヴェナムの寄宿学校に入った後でも、悶々とした日々を過ごしたようだ。

パン屋になりたくなかったジョルジュ
 ジョルジュの場合も、家業のパン屋を継ぐことには気が進まなかったようだ。しかし、パン職人になることと画家となることには大きな差異がある。パンは当時から最重要な生活必需品だが、絵画作品は評価が難しく需要が限られていてリスクが大きい。何よりも画家として自立できるだけの才能を本当に持っているか、見定めることは極めて難しい。父親としても容易に肯定し得なかったに違いない。パン屋のことは分かっても、画家の世界などほとんど何も分からなかっただろう。





パン屋の仕事を想起させるイメージ(筆者のランダム選定)
Source:Martine Dalger 2005

ヴィックの町は小さく、教会や修道院などの壁画や祭壇画などの仕事も限られていた。さらに、町にはすでに工房を持ち、活動していた画家がいた。小さな町にはこれ以上画家がいても、仕事が得られるとは期待できなかった。

才能を見出す人
この点で大きな役割を果たしたのは、ヴィックの代官
ランベルヴィエールであったことはほぼ間違いない。自らも細密画などを手がけた教養人であり、何よりも若い埋もれた才能を見出すことに無類の関心を抱いていたようだ。息子がジョルジュと学校で同級であったことも、幸いであったと思われる。代官はジョルジュが画家への修業をするに相応しい親方の紹介、画家として独り立ちした後も知人などに作品の入手を勧めたりしていたようだ。隠れた才能を持った若い人を見出すことの重要さを考えさせる。

ジョルジュが画家を志した時、ヴィックには一人の画家ドゴス親方の工房があった。芸術好きな代官とは交流があったと思われる。実際にジョルジュがドゴスの工房で徒弟修業をしたとの記録は発見されていない。ドゴス親方の手になると思われる作品も残っていない。

 代官は画家を志す幼いジョルジュの思いを受け止め、父親ジャコブを説得し、親方画家を紹介するなどの労もとったことはほぼ確実である。そして、長じてはジョルジュと貴族の娘ネールの結婚の仲介もしている。この年、1614年、ジョルジュ24歳であった。代官はこの時まで天賦の画才を持っていたパン屋の若者の成長を見守っていたのだった。
ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという後世に輝く大画家を生み出すについて、最大の貢献をした人物であった。


続く
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危機の時代にはラ・トゥールが生きる〜光が戻る日まで〜

2022年03月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
ロシアのウクライナ侵攻はどこまで行くのか。
「危機の時代」は次第に未来がなくなっている。
「予測できないこと」を予測しているだけだ。
光が戻る日を祈りながら。



コロナ禍で期待したほど注目を集められなかったミラノ開催ラ・トゥール展から:

GEORGES de LA TOUR Palazzo Reale Milano





世界は本当に明るくなるのだろうか
コロナ禍の中、ブログ筆者は先延ばしになっていた白内障の手術を受ける。片目を終わった段階で、辺りの光景が明るくなったことを感じる。素晴らしいことだが、世界は本当に明るい方向へ進んでいるのだろうか。
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