時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

遥かに望む巡礼の地

2024年03月24日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
サン・ティアゴ・デ・コンポステラへの道

久しぶりに、美術に関するトピックスを取り上げることにしたい。


Fig.1  
以下の記述では、Tajan 画廊のオークション紹介資料 NEWS: Saint-Jacques, Atelier Georges de a Tour en vente le 21 juin 
2023 及びjean-Pierre Cuzinの協力の下に編纂された紹介記事 Nouvelle decouverte concernant Georges de La Tour
Demanche, 18 juin, 2023-18:29, art lorrain.com
を参考にした。


本ブログに長らくアクセスしてくださっている方々、あるいは美術史にご関心のある皆さんは、この画像を見て何をお感じだろうか。

筆者はこれを見て、思わず目を見開いてしてしまった。

ひげと長い髪のひとりの男が、蝋燭の光ではないかと思われる明かりの下で、縦長の文書を読んでいる。男は2つの貝殻がついた灰色の革のケープをまとっている。貝殻の帆立貝 St. Jacques はこの人物が誰であるかをはっきりと示している。
 
男は右手には長い巡礼杖を持っている。これもひとつのヒントだ。そして左手で文書のページをめくっているが、その背後には恐らく燭台あるいは油燭の台が置かれているのではないかと思われる。ロウソクの所在は確認できないが、燭台の一部分が僅かに見えている。

燭台からの光は絶妙な明暗を伴って、書籍のページ、それを読む人の容貌、衣装など、ほぼ全体像をあまねく映し出している。

光のよく届かない足元には、長い衣装とサンダルの部分が確認できる。ラ・トゥールの《大工聖ヨゼフ》を思い起こさせる雰囲気である。

描かれているのは、もはや間違いなく聖ヤコブ(Saint-Jacques, 英語名:Saint-Jacques )である。

この画像を一見して、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールのマグダラのマリア・シリーズのイメージを思い浮かべられた方は素晴らしい慧眼の持ち主である。

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ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの真作とされるマグダラのマリア・シリーズで全身像が描かれているのは、現在判明している限り、4点(the National Gallery in Washington, the Metropolitan Museum in New York, the Los Angeles Country Museum of Art  and the Louvre)ある。その他にも、個人の所蔵を含め、多くの半身像の作品がある。
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大きな衝撃波を伴った発見
この作品、2023年6月21日、パリのタジャン Tajan 画廊でオークションにかけられた。作品を一目見た人たちは、直ちにジョルジュ・ド・ラ・トゥールにつながるものだと直感し、大変な興奮状態になったようだ。

今や17世紀フランス絵画の主柱的な存在である画家である。17世紀ロレーヌという戦争、悪疫、飢饉など、大きな危機の中に生涯を過ごしたこの画家は、今日まで継承されている作品数が極めて少ないことで知られている。

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N.B.
オークションの展示カタログには、下記の表示が付されていた(日本語は、筆者付記):
Spectacular discovery: An unprecedented composition from the atelier of Georges de La Tour
劇的な発見:ジョルジュ・ド・ラ・トゥール工房からの例を見ない作品

Lot 115
ÉCOLE FRANÇAISE VERS 1640
ATELIER DE GEORGES DE LA TOUR
Saint-Jacques. Toile,
132 x 100 CM

FRENCH SCHOOL C. 1640
WORKSHOP OF GEORGES DE LA TOUR
Saint James. Canvas, 52 x 39 3/8 in.

フランス派 C.1640
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール工房
Saint James. Canvas, 52 x 39 3/8 in.
入札基準価格 100 000 / 150 000 €
(この作品、最終的にはコストを除いて、390,000 €で落札された。) 
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来歴 PROVENANCE を読んでみた。要旨を記すと、1920年代以来、ワインの産地で著名なボージョレ Beaujolais の私的コレクションとして存在が知られていたようだ、作品は1967年からは同じ家族が保有してきた。しかし、今は所蔵場所はジュラへ移動している。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品としては近年において、最も重要な発見と考えられる。素晴らしく、広がりのあるこれまで見たことのない構図であり、ロレーヌの偉大な画家について、我々の理解を大きく広げ、深める最も重要な発見だ。壮大なイメージ、リアルな芸術的力、暖かな色合いが素晴らしい。

N.B.
十二使徒の一人である聖ヤコブは、キリストの最初の弟子の一人で、キリストの昇天後は、サマリアの伝道にたずさわった。 その後パレスチナの王ヘロデ・アグリッパのキリスト教迫害の際に捕えられ、エルサレムで殉教したと言われている。スペインの守護の使徒と呼ばれているが、それは、後に発見された遺体がスペインに運ばれ、北西部の都市サンティアゴ・デ・コンポステラ(Santiago de Compostela)に埋葬されたからと伝えられている。中世以来の巡礼地で、聖ヤコブの墓跡に建てられたと伝えられる大聖堂がある。

蛇足だが、ホタテ貝をフランス語では「聖ヤコブの貝」(coquille Saint-Jacques、コキーユ・サンジャック)と呼ぶ。

英語圏で多いジャック(Jack)の名は、彼の名前(ジェイコブ)か、あるいは旧約聖書に登場するユダヤ人の祖ヤコブに因むJamesまたはJacobの愛称である。ただし、ヨハネを表すJohnの愛称である場合の方が多い。なお、フランス語のジャック(Jacques)はヤコブに相当する名前である。

目を見開く斬新な構図
 現存するラ・トゥールの作品で、聖ヤコブを描いた作品は少ない。僅かに継承されてきたのは、《キリストとアルビの12使徒》Apostles of Albiシリーズの中に残る1点のみである。画家が未だ若い頃の作品といわれ、創作時の意図や思考、モデルの人物イメージも、今回発見された作品の人物とは全く異なっている。 今回の作品は、恐らく画家の精神がみなぎっていた晩年に近い時期に制作されたのではないかと推定されている。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《聖ヤコブ》《キリストと12使徒》

鑑定に当たった美術史家、鑑定家などの間では、この作品がジョルジュ・ド・ラ・トゥール工房から生まれたものであることには異論は全くないようだ。しかし、作品が全てラ・トゥールひとりの筆で制作されたかについては、専門家の間で全員一致の判定とはいかないようだ。その理由の一つとして、画家の署名がないことが挙げられている。この画家の作品には、全て署名が残されているわけではないことが知られている。署名をしなくとも、ラ・トゥールの制作であることが当時は関係者の間では自明だったのかもしれない。

このアメリカにある《マグダラのマリア》(個人蔵)の構図は、シリーズの最後の一点ではないかとも言われてきた。焔で書籍のページが捲れていること、光源がこのたび新しく発見された作品では完全に隠されていて、一層の工夫がみられることなど、顕著な注目すべき点がある。そうであるとすれば、画家はマグダラのマリア・シリーズが一段落した後に、新たな構想で聖ヤコブの作品制作に向かったのかもしれない。画家はいったい何を考えていたのだろうか。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《頭蓋骨の前のマグダラのマリア》
個人蔵

脳細胞が活性化する作品
現時点では、この新発見の作品が画家ラ・トゥールひとりの手になる完全な真作であるとの鑑定ではなく、ラ・トゥール工房作となっていることはいささか残念だが、画題の発想から、構図、制作のほぼ全てにわたり、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの意図が貫徹した作品であることには異論はないようだ。

これまでの人生、この画家に魅せられ、ほとんどの作品に対してきた筆者にとっては、できる限り早い時期に、この作品を日本で観る機会が訪れることを願うばかりだ。当時、この画家が抱いた壮大な意図を含め、これまで考えることのなかった新たな地平への展望が広がる瞠目の1点である。







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アメリカ内戦化への懸念と移民政策(4): 高齢者は足元にご注意!

2024年03月16日 | 回想のアメリカ



二人の高齢者の目前にあるのは!  なんと、バナナの皮!

「さあ、スタートは切られた。アメリカの選挙を転覆させる可能性のあるものは何だろうか?」

’AND THEY ’RE OFF’ What could upend America’s election? 




本年11月のアメリカの大統領選は、バイデン大統領と前大統領トランプ両氏の激しい対決になりそうだ。すでにレースは始まっている。しかし、両候補共に、多数の不確定要因を抱え込んでいて、最終結果が出るまでは予断を許さない。第3者の候補が浮上してくる可能性は極めて低いが、ゼロではない。さらに、両候補とも高齢者であり、「老々対決」となることを考慮するならば、任期中に何が起こるかも分からない。不確定要因に左右される、リスクの極めて大きな時代になることはほぼ明らかだ。

ドナルド・トランプ氏の母親は、ヴァイキングの活動範囲であったスコットランドの田舎から移民。祖父はヴァヴァリアの田舎から移民。ジョン・バイデン氏の家族は、アイルランドとイングランドからの移民である。

そして、いまや世界で1億6千万人が機会があれば自分たちもどこかへ移住したいと考えている。これこそが世界の移民を動かしている胎動の源なのだ。同じ移民の子孫でありながら、なにが現在の両候補の間に違いを生んでいるのか。


課題山積の移民問題
アメリカ大統領が関わる政策課題はさまざまだが、とりわけ国民的な論争点となっているのは、経済に次ぎ、移民政策である。現状への対応では、両候補共に問題を整理し、実現可能な政策を提示しなければならないのだが、民主、共和両党の支持者に多大な不満を残している。

N.B. アメリカへの不法移民の急増と、目まぐるしい政策対応の一部については日本のメディアなどでも報じられているが、その実態、全体像はかなり分かり難い。ニューイングランドから南部への産業移転、AFL-CIOの南部組織化キャンペーン、ブラセロ・プランなどの時代から、日米実態調査を含め、断続的ながらも国境の光景を垣間見てきた筆者だが、近年の目まぐるしいばかりの変容には戸惑うことも多い。ひとつ確実なことは、移民問題の重点が国境近辺から、受け入れた国の国境の内側へと移行していることだ。近年では、「聖域都市」問題、「アメリカの地域的政治色の変化」など、「第二の市民戦争」ともいわれる断裂・分断の進行などに象徴される。


現実の変化は大きい。2016年トランプ氏が大統領候補であった当時、彼は何百万もの移民が不法に国境を乗り越えてやってくると主張していたが、任期中はそうした事態にはいたらなかった。


トランプからバイデンへ
アメリカで最後に、包括的な移民制度改革が実現したのはレーガン政権下、1968年であった。それ以降、ブッシュ(Jr)、オバマ政権下で改革が図られたが、議会の賛成が得られず頓挫した。2016年、トランプ大統領が就任後、アメリカ第一主義を掲げ、「国境の壁」建設を主張し、保守色を前面に打ち出してきた。トランプ大統領の非寛容的な政策も影響してか、この時代の不法越境者数はその後の激増と比較すると、安定的とも言える水準で推移していた。

代わって、バイデン大統領の任期が始まると、急激な不法移民の増加に直面することになった。寛容的な政策スローガンを掲げていた民主党政権への期待が、彼らの背中を押したのだろう。

全体として、寛容的政策を掲げてきたバイデン大統領側が、現実の変化に適切に対応できず、しばしば前トランプ共和党政権の非寛容的な厳しい移民規制の方向に傾斜し、これでは「トランプ以上にトランプ的だ」という国民の不満も多く、劣勢に回っているかに見える。


興味深いのは、当選以来、言行が一致しないかに見えるバイデン大統領だが、目前に山積する問題に対するに、必要とあれば、壁の建設など、トランプ前大統領側の政策に大きく修正、近接することも辞さず、臨機応変というくらい柔軟に対応しようとしてきたことだ。議会政治家として長い年月を過ごしてきたしたたかさが発揮されている。

国民の誰もが、移民に関わりがあることに加え、これまでの歴史的経過の中で、実態と対応が多様化と複雑化を重ねてきたこともあり、現代アメリカの移民の実態と問題点のありかを正しく捉えることが極めて難しくなっている。長年、筆者に適切な情報を与えてくれた友人たちも少なくなり、彼ら自身が分からなくなってきたと述懐するまでになった。


移民政策を制約する4つの局面
現在のアメリカの移民制度の改革においては、大統領は裁判所、上下両院の資金、国際法、最大の隣国であるメキシコという4つの面で、それぞれの制約を受けている。

2021年現在、国内には4,700万人の外国生まれの人口を抱え、そのうちの約1,500万人はアメリカ市民権を付与されずに、中途半端な地位に置かれながら国内に滞在する unauthorized immigrants 「法律的に認められていない移民」といわれる人々がいる。少しづつ減少しつつあるとはいえ、その解消には長い年月がかかる。彼らのそれぞれが独自の背景を抱き、判定に際しても多くの時間を要してきた。


アメリカの外国生まれの人口、推定値、2021年
Source: Pew Research Center


他方、フローの面に目を移すと、2023年12月時点では月1万人近い不法移民がメキシコ国境に押し寄せている。こうした激流の如き人の流れに抗しながら、複雑化した現代移民の現実に対処して行かねばならない。

バイデン大統領は、就任後、移民法の改正案 U.S.CITIZENSHIP ACT OF 2021 を上下院に提出したが、もとよりこれで移民に関わる問題の全てに対応できるわけではなく、命令、覚書、布告などを次々と発布してきた。このような移民問題に関する大統領指令 Executive Actions だけでも、2024年現在、500を越えて、トランプ大統領時代の472を上回ることになっている。下院で民主党が数的優位を維持できないこともあって、共和党の反対の前に法案が次々と否定され、実効が上がらないバイデン政権の移民政策の裏では、こうした一般には見えにくい政策対応も行われてきた。多発された大統領令の合法性が法廷で争われることも増えている。

バイデン大統領に政権移行した後、国境の壁の建設中止、入国禁止の取り消し、幼少時親に連れられ入国した人々の在留を認めるなど、寛容的な政策を目指したが、急激な不法移民の国境への殺到など、対応できない事態が生まれた。越境者の数は急増を続け、受け入れ側のシステムは、移民裁判所判事を始め、各種の人員不足が深刻化し、ほとんど対応できない破綻状態となった。国境で遭遇した者の多くはその段階で国境パトロールに難民認定の申請を行い、"credible fear" interviewとも呼ばれるインタヴューを受ける。そこで、'認定の可能性のある者は、概して保釈され、将来の裁判所の判断を待つ。移民裁判所は人手不足が深刻化しており、平均的には聴き取りが行われるまでには4年以上待たねばならない。審査までの間、アメリカ国内に滞在が許可され、半年後は就労も可能となっていた。バイデン大統領になってから、シカゴの市民数を上回る310万人が認められた。さらに、170万人が失効したヴィザのまま、あるいは発見されることなくアメリカ国内に滞在している。


「聖域都市」への集中
さらに、従来は移民問題の中心は、共和党の地盤でもあった南部諸州だったが、産業の発展に伴い、北部への人口移動が増加した。これに加えて、テキサス州のアボット知事が不法移民をバスでワシントンD.C.に移送してから、他の共和党知事もニューヨーク、シカゴ、デンヴァーなど民主党が地盤とする都市「聖域都市」へ移民を送り出した。その結果、受け入れ側の収容能力が無くなり、財政圧迫、地域住民との軋轢など多くの問題を生むようになった。

「聖域都市」サンクチュアリー・シティと呼ばれ、食事や宿泊場所を提供する不法移民のための制度がある都市。民主党系の市長であることが多い。こうした不法移民の大都市への移動は、労働市場がタイトな時にしばしば見られる現象であり、バイデン大統領の失政というわけではない。

変わるアメリカ・変われないアメリカ
アメリカ南部国境を越境する者も背景や目的も、年と共に多様化し、問題の内容も複雑になった。そのため、移民裁判所の判事など、関係者がほぼ同方向の政策イメージを共有しての合意決定が困難なことが多くなった。移民裁判所が迅速に手続きを行えない。難民審問を受けるだけでも平均4年以上かかる。国境警備隊の捜査官から難民担当官、移民裁判所の判事まで、人員不足が決定的だ。判事の出自、背景も様々で、守備一貫した裁定は期待し難い。バイデン大統領が議会の行動とそれに伴う資金投入が唯一の解決策だと主張する理由である。しかし、寛容を旗印とする民主党の移民政策は国民への趣旨の浸透に時間がかかり、実施にあたるスタッフの認識度や考えの統一は時間がかかり、結果として成果が目に見えず、国民の間の不満も高まることが多い。

バイデン、トランプ両候補のいずれが当選しても、大差で勝利という光景は想定し難く、現在までの光景に大きな変化は考え難い。冒頭に記したように、思いがけない出来事で局面が一変するリスクは、かつてなく大きい。国境の南側から見れば、トランプ大統領が再現するとなれば、それ以前に国境を越えてしまおうという動きが強まるかもしれない。

上掲の表紙に論及し、最近のThe Economist誌 March 9th-15th 2024は、考えられる様々な可能性に論及した上で、それ以上の不確実性が来るべき選挙には待ち受けていると記している。

アメリカという国が置かれた状況から民主、共和いずれかの政策通りに移民政策が貫徹する可能性も少なくなっている。このたびは失敗した「ウクライナ支援」と移民政策抱き合わせの超党派案の試みは、今後も形を変えて試みられるだろう。さもなければ、アメリカ社会の断裂、分断は想像を絶する方向へと進むかもしれない。図らずも世界が体験したパンデミックのような全地球的な人間活動の減速でもなければ、アメリカへ押し寄せる移民の激流が収まるとは考え難い。


REFERENCE
’The Border, Biden and the election’ The Economist, January 27th, 2024.
'What could upend America's election? AND THEY'RE OFF, The Economist March 9th-15th, 2024,



続く
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遅きに失した最低賃金制度改革

2024年03月03日 | 特別トピックス




地方議会で現在は都道府県別にばらつき、差異のある最低賃金制度を改正し「全国一律」化を求める動きが広がっていると新聞記事が報じている。2023年には、80議会が「全国一律を求める」意見書を採択したとのことだ。

「最低賃金、一律に」広がる〜地方議会で意見書 人口流出に危機感」朝日新聞 朝刊、2024年3月3日

都市との賃金格差が、地方からの労働力流出、人手不足を生むとの危機感が広がり、こうした動きを生んでいるようだ。地域の活性化、再生を推進すべき時代に、現行制度はそれを逆行させる制度になっている。

30年以上前から、今回指摘されているような現行制度の欠陥、是正を指摘してきた筆者からすれば、今さらという感が強いのだが、早急に制度改革を行うべきだと改めて思う。現行制度では、中央最低賃金審議会が目安を定め、それを地方に下ろし、都道府県レヴェルの地方最低賃金審議会がそれぞれの地域に即した?最低賃金を決定、公示するという方式を採用してきた。

この問題について、筆者は納得しうる説明を主管官庁の厚生労働省からも聞いたことがなかった。現行制度への疑問点は数々ある:

1)世界でもこうした地域別の決定をしている国は少なく、G 7ではカナダと日本だけとされている。カナダの如き広大な面積を擁し、労働力移動も容易ではない国ならばともかく、アメリカ・カリフォルニア州ほどの面積に全国土が収まるくらいの日本で、どうして都道府県別にまで細分化して最低賃金額を定める必要、合理性があるのだろうか。労働力引き止めのために、都市に遜色ない賃金を支払っているとの地方企業もある。

東京圏を例にとれば、東京都と神奈川県、埼玉県などの隣接圏の間に僅かな格差を設定する意味がどれだけあるのだろうか。世界的にも類を見ないほど、交通網が発達している日本で、多くの人々が隣接圏から東京へ通勤している。県境を労働市場の境界の代理指標とする意味はほとんどなくなっている。

2)かなり以前から、各種の実態調査に携わった経験から、地方の経営者に最低賃金額を聞いたところ、正しい額を答えた経営者がきわめて少なかったという実態も存在した。現実に支払われる賃金額は地域別の最低賃金額よりも高い場合が多々あった。都道府県別に1円単位で最低賃金額を定める合理的根拠は薄弱で、納得できる説明を聞いたことがない。実態は賃金額が示すイメージとは異なる場合もしばしばなのだ。

3)最低賃金の全国一律化は、中小企業への影響が大きく、倒産が増える恐れがあるとの意見もあるかもしれないが、倒産を招く要因は人口の首都圏など都市への流出に起因する人手不足、結果としての地域の消費減など経済活動の低迷、地域の持つ魅力の喪失、不活性化など、最低賃金額以外の要因の方が遥かに大きい。

4) 厚生労働省の審議会で、毎年提示される最低賃金引き上げ額の目安決定では、「働く人の生計費」、「一般的な賃金水準」、「企業の支払い能力」などが考慮されるが、生計費の都市・地方間格差が大差なくなっていることなども指摘されている。

改めるに憚ることなかれ
地域別の最低賃金審議を廃止すると、衝撃が大きいとの反応に、筆者は移行・緩和措置として道州制レベルの地域圏まで、審議会の数を減らして広域運営するなどの提案をしてみたこともあった。

「急激な変化はゆがみを生む」(厚労省幹部談、上掲朝日新聞記事)と制度の改正、導入に慎重な考えもあるようだが、事実は逆で制度の欠陥がゆがみを生み出している。同様な問題は、技能実習制度の改革などについても筆者は数多く経験している。自分の任期中は、制度改革の提案につながることは報告書などに書かないでほしいと言った当該部門の幹部に、唖然としたこともあった。

現行制度は1958年に制定されており、形骸化が目立つ代表例のひとつになっている。ひとたび出来上がってしまった制度は、時間が経過するほどに桎梏と化する危険に思いをいたすべきなのだ。


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