時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

誰が作品の「美」を定めるのか:(7)

2023年07月31日 | 特別トピックス

ネフェルティティ胸像
18王朝(アルマナ期 1340年頃)
ベルリン 新博物館 (旧エジプト美術館当時Photo)


普段は見ることもない番組なのだが、ニュース番組に続いて、スイッチを切らないでいた折、偶然にも美術に関わるテーマを扱っていることに気づいた。

2023年7月21日 NHK番組「チコちゃんに叱られる」

「美」の理想を求めて
なぜ西洋美術の絵画、彫刻は裸体が多いのかという議論が行われていた。これについて、コメントをした宮下 規久朗氏(神戸大学大学院人文学研究科教授)は、イタリア・ルネサンス期から遡ってみて、理想とされたギリシャ・ローマ時代には、人間は衣服を着けない裸の状態が最も美しいとされたからだと答えていた。ちなみに裸はヌード (nude, 美術作品の裸体)と同じではない。ヌードとは古代ギリシアから始まりヨーロッパに発達した裸体の造形表現である。

17世紀までに美のヒエラルキーを形づくり、独占したイタリア美術が探し求めた「理想の美」の原点は、ギリシャ・ローマであったことは以前にも記した。ギリシャ人が追い求めた「理想の身体」は,イタリア・ルネサンスの芸術家が学ぶべき最大のテーマとなった。そして「理想の身体」は,古代とルネサンスを強く結びつけた。よく知られる《ダヴィデ=アポロ》から感じ取れるのは,古代の身体の理想像と,それを基礎としつつミケランジェロが自ら創造した彼独自の理想の身体であった。


ミケランジェロ・ブオナローティ
ダビデ像(上半身)1501-1504年
イタリア・フィレンツエ
アカデミア美術館


それでは、なぜギリシャ・ローマではなく、エジプト美術、あるいは東洋美術などの非ヨーロッパ美術などが、理想の美を求めての探求の過程で考慮の対象にならなかったのか。なったとしても排除されたのか、あるいは無視されてきたのか。しかし、それについて十分納得できる論証はない

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イタリア・ルネサンス期においても、kunstkammer, wunderkammer あるいはart-cabinetなどの名称で、エジプト、アフリカ、中東などの珍しい石、宝石、骨董品、ガラス、石などの美術的加工品、鳥などの剥製、新大陸からの珍しい産物などが保管、展示されていた。しかし、これらの文物といえども、主として好奇の目から収集、展示された場合がほとんどだった(Wood, p p .130-31,)。本ブログでも取り上げたペイレスク*のコレクションなどは、その好例といえる。
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これまで取り上げてきたWood (2022)も、その点に論及してはいるが、西洋美術がエジプト美術と交流、競い合うことはなく、独自に発展したきたと述べるにとどまる。彼の著作の記述は年代では800年頃から始まっている。そして西洋美術史はほとんどの場合、16世紀頃までは概して退屈だ。

イタリア・ルネサンス・ヒエラルキーの形成
イタリア・ルネサンスの誕生と形成に伴って、ヨーロッパにはギリシャ・ローマ美術を理想とする一大美術ヒエラルキーが形成された。17世紀には美術家、彫刻家などを目指す若者たちが競ってローマ詣でを志した。「全ての道はローマに通じた」時代である。17世紀ロレーヌなどの画家志望者が挙ってイタリアを目指したことは、ブログでも再三論及した。イタリアでの美術修業は、当時のヨーロッパにおける大きな流れだった。

その後、ヨーロッパ美術の拠点は、オーストリア、フランドル、パリなどへと分散を始める。それと共に、イタリア・ルネサンス・ヒエラルキーの衰退、崩壊が進んだ。

価値の多様化
今日、世に出回っている美術史の本は、概して西洋美術史、東洋美術史あるいは日本美術史などに区分されている。西洋と東洋では美の基準が違うのだろうか。Woodはこの点を意識してか、西洋と東洋その他世界の間にあえて区分を設定してはいないが、議論の対象は圧倒的に西洋美術と言われる領域に限られている。今日では多くの事象がグローバルに展開する時代になっているが、名実共にその名にふさわしい「グローバル美術史」に筆者は未だ出会ったことがない。

今日では美術活動の拠点は、イタリアにとどまらず、世界各地に拡散した。Woodの「相対主義」がもたらしたひとつの帰結は、自分の文化が形作った尺度を、別の文化の芸術にそのまま適用できないことを意味している。さらに言えば、多様化した対象を正当に理解するために、そこに生まれた多くの異なる概念についての認識が求められる。美術史は関心が拡散して求心力を失ったかのようだ。

コンテンポラリーの確認
ある美術作品が正しく理解されるためには、その作品が生み出された時代と場所において文脈化されねばならない。図らずも、この点はブログ筆者が目指してきた立場に近い。鑑賞者が対面する作品の範囲(額縁に拘束された次元)から思考を切り離し、それが生み出された時代空間へと広がるコンテンポラリー(同時代)の視座が必要といえる。作品が制作された時代が第一義的に重要だが、鑑賞者が立つ時代、現代あるいは今日(これもコンテンポラリー)は、第二義的な位置づけとなる。その関係をいかに理解するか。

しかし、美術史家にとって、この作業は新たな理論構築を求めることになる。しかし、今日、それが実現しているとは思えない。美術史は袋小路に入り込んでしまったようだ。1970年代以降、美術史の世界は一種の文化的健忘症となり、過去への関心が薄れ、かつてのような熱意が喪失している。

先の見えない現代:「現代への執着」と「過去の放棄」
Woodは、『美術史の歴史』の論述を20世紀前半(1960年頃)で終えている。さらに先に進める意欲が感じられない。ある種の文化的悲観主義に陥っているかのようだ。なぜ、20世紀前半で終わるのか。

 Woodによれば、今日の芸術は形式よりも、効果的なスピーチとアクションの可能性の条件、発声とパフォーマンスの間の緊張、イメージの美徳に関わる作品などが主流を占めてきているという(Wood, p380)。美術品という形態、様式も大きく変化しつつある。例えば、アーティスト、バンクシー(Banksy)の作品などは、発見、確認されれば、抹消される前に写真などのイメージが保存される場合もあるが、存在すら不明なままに消え失せるものも多い。

さらに、異なった文化の美術史には必要な場合にのみ、つまり言語の制約などがあり、主要な議論に貢献する場合のみ言及されるようになっている。例えば、ジャポニズムはそれが受け入れ側からその意義、影響を認識された時に限って美術史上のトピックスとなる。

美術品と見做される対象は、その数と多様化が急激に進んだ。商業化もそれに拍車をかけ、現代ではどこまでが美術的考察の対象となるか、ほとんど判然としない。

美術史は終焉に向かうか
美術史は歴史的構築物であったことへの再検討もなされているようだ。これらの試みが、美術を対象とする歴史学の修正につながるだろうか。最近のイエール大学のように、美術の入門コースのカリキュラムを改定、よりグローバルで多文化包括的な方向へと転換しようとする動きもある。しかし、伝統的なヨーロッパ中心の美術史家側の反発も強いようだ。

美術史とは歴史的な構築物であり、その再検討は文化的相対主義ができることを超え、歴史学の修正につながる可能性が大きい。相対性を律する規範は見出されそうにはない。美術史といえども、その規範は固定されたものではなく、流動すべきと考えられるが、現状では美術史自体が、かつてのような目標を失い、終焉に向かっているかに思われる。果たして、美術史の世界は新たな活力を取り戻すのだろうか。


Peter N. Miller. PEIRESC'S EUROPE: Learning and Virtue in the Seventeenth Century, New Heaven: Yale University Press, 2000.

続く
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​ 誰が作品の「美」を定めるのか(6): 相対主義の行方

2023年07月18日 | 特別トピックス


★花の「美」の判定基準はどこに?  
栽培 Photo: YK



”教養本”の氾濫
しばらく前から少し大きな書店の棚を見ていると、美術関係のタイトルが明らかに増えていることに気づいた。しかし、そのかなりの部分はいわば”教養本”とでもいうべきもので、これ一冊読めば美術史が分かるようになるとか、美術を通して歴史が分かるなど、大きなキャッチフレーズを掲げている。いつの頃からか、漫画、アニメなどの媒体も増えた。これらの本の多くは、歴史軸に沿って、有名と思われる画家、作品を並べただけで、これで美術史だろうかと思うものもある。何冊読んでも雑知識は増えても、美術史が分かったことにはなりそうにない。さらに言えば、美術史の側も理論自体が不在ないしは混迷しているので、こうした事態が生まれてくるという事情もある。

美術史に限ったことではないが、長年、筆者は大学などのカリキュラムの編成やその内容を検討することに多くの時間を費やしてきたが、事態の改善は簡単ではないことを、いやというほど気づかされてきた。専門化の悪い面が各所に出て、自分が専門と決めた対象以外、関心がない、分からないなどの人為的な視野狭窄の弊害が目立つようになった。筆者が多くの時間を費やしてきたのは経済学の領域だが、美術を含む文化史などの領域などもかなりの関心を持って注目をしてきた。

第2回に続き、今回も取り上げたクリストファー・ウッドの『美術史の歴史』も美術史はどうあるべきかという点を少し掘り下げて考えてみたいと思い取り上げた一冊である。何人かの知人の美術史家に話をしてみたが、残念ながら読んでいる人は少なかった。

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Christopher S. Wood, A HISTORY OF ART HISTORY, Princeton University Press, 2020, pp.461

本書は、美術史の様々な側面を改革しようとの意欲に満ちている。その背景にある歴史学、特にイタリア、ドイツについての著者Woodの博識には圧倒される。アメリカ、イギリスなどの主要大学院で基本文献に指定しているところも多いことも分かった。
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かなり苦労して取り組んだ結果、本書は近年の美術理論書の中では出色の作品であると感じるようになった。大変重厚かつこれまでの美術史関連文献には見られない広い視野を背景とする力作であり、しかも既存の美術史観にとってかなり挑戦的な内容である。表題とは異なり、純然たる美術史の本ではないことに気づいた。対象はほとんど西洋美術に限られているが、問題の所在は良く分かる。そこで、今回はこの著作を手がかりに、考えたことを少し記してみたい。本書の論点はきわめて多岐に渡るが、ここでは骨格と思われる部分だけに限定する。


美術史の起源については、古くは800年(プリニウス)からヴァザーリ(16世紀イタリア)、ヴィンケルマン(18世紀ドイツ)など諸説あるようだが、一般的には19世紀にようやくアカデミックな分野として浮上したとみられる。長らく、芸術家、批評家、コレクターなどの間で議論され、分類法、評価、芸術の解釈などの諸側面が適切に位置づけられ、文脈化され、蓄積されることで、美術史として成立の過程を辿ったのだろう。

「南」の独占が揺らぐ時
これまで記したように、17世紀末までは、イタリア以外の地域での美術論の書き手はヴァザーリのローカル版に過ぎなかった。「南」(主にイタリア)は、断然、他の地域を圧して独占的ともいえる地位を占めてきた。しかし、その優位も揺らぐ時が来る。


ストラスブール大聖堂 Photo yk

1772年、ゲーテ(Johnn Wolfgang von Goethe)は23歳の時、法律を学ぶため滞在していたストラスブールで、同地の大聖堂を訪れた。壮大なゴシック建築を前に大変感動したゲーテは、大聖堂の主な建築家と思われるエルヴィン・フォン・シュタインバッハに宛てた賛辞として、エッセイを残した。


Goethe: pastel by Gerhard von Kugelgen, 1810
Goethe-Museum Dusseldorf

美術はユニヴァーサルではないか
Woodによれば、このゲーテが残した言葉は「中世が残した成果に全幅の賞賛を与える最初の表現」ともいうべきものだった。ゴシックの長年にわたる累積にゲーテは「強く粗野なドイツの魂」を感じた。後年、彼は美術は決して万人に通じるユニヴァーサルなものではないと結論する。大聖堂のように数百年をかけて建造されてきた作品については、建築家や職工たちの努力の成果が雑然と集積し、どこまでががオリジナルでどこが派生か、誰の作品か、区分できない(Wood pp.167-175)。建築物としては長い年月をかけているだけに大部分はロマネスク建築だが、通常ゴシック建築の代表作とされている。ゲーテは、その累積された結果に感動したのだろう。

もしそうだとすれば、美術についても古典的な形式を通して、「北」(アルプス以北)は、「南」(アルプス以南、イタリア・ローマ)を絶対視してそれに等しくあるいは追いつこうとするべきではない。

出来上がった階層構造とその崩壊
「南」を優位とする美術史のヒエラルキーが次第に崩れた反面では、美術作品とその対象の多様化が進行した。さらには、美術活動の展開に伴い、各分野で明瞭な専門範囲の形成が見られるようになった。

美術史の対象は、芸術分野として一般に認められる作品だけに関心が集中してきた。さらに宗教活動において、コミュニケーション手段としての芸術の使用が顕著に目立つようになる。

「相対主義」観の台頭
Woodが自著の主要テーマと呼ぶものは「相対主義」というべきものであり、現代美術史の基礎とすべき考えだという。相対主義とは時間と空間の双方の意味で作品が理解されねばならない。そして、各時代の各文化にはその時代の芸術を評価するための独自の慣例がある。

歴史の経過とともに、知識の視野が広がったことで、それぞれの社会が適切な基準について独自の考えを持っていることが明らかとなった。言い換えると、自分の文化の尺度を別の文化の芸術に適用することはできない。ひとつの作品の背景には、その時代の社会が培った文化が分かち難く存在している。この過程では「南」のキリスト教、なかでもカトリシズムの靭帯も緩み、切り離される変化も進行した。

相対主義は、別の表現をすれば芸術についての概念のひとつだけでなく、多くの異なる概念を認識することが、現代の美術史の基礎になるといえるのだろう。

さらに、一度は出来上がったかに見えた「南」、象徴的にはローマの美術的優位の階層的体系が揺らぎ、崩れる方向を辿った原因は、美術家にとって重要で意味あるものだが、さらに美的対象として目に映る作品のタイプや対象も劇的に増加した。その結果として、「美」とは何かという根源的問題について、統一的判定基準はなくなった。「相対主義」は現代の美術史論の重要な基盤となった。それを反映するかのように、全体の展望は成り行き任せで、自ら特化した領域だけに視野を限定した見方が増えてきたかにみえる。

しかし、「相対主義」を律するものは何であるのか、疑問は依然として残っている。


続く


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誰が作品の「美」を定めるのか(5):ホガース展雑感

2023年07月02日 | 特別トピックス

ウイリアム・ホガース展を観て

旧聞になるが、「ウイリアム・ホガースの展覧会」が開催されていることを知って、炎天下の6月17日、急遽出かけてきた。運よく展覧会の記念講演が行われる日であった。展示と講演の双方に参加でき、失われかけていた記憶をかなり取り戻し、大変有意義な1日となった。

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特別展「近代ロンドンの繁栄と混沌(カオス)」
東京大学経済学図書館蔵ウィリアム・ホガース版画(大河内コレクション)のすべて(全71点)
2023年5月13日(土)~6月25日(日)
 東京大学駒場博物館




この特別展について知ったのは、[東京でカラヴァッジョ 日記]を主催されているk-carravaggioさんの記事を通してであった。情報過多の時代とはいえ、この記事なしには見過ごしてしまうこと必至だった。改めて感謝申し上げたい。

なお、ホガース Hogath の日本語表記については、ホーガースが原音に近いとの説もあるが、ここでは日本で一般に流布しているホガースを採用している。ちなみに、夏目漱石はホーガースと記載したようだ(近藤 2014, p.348)。

近藤和彦『民のモラル:ホーガースと18世紀イギリス』ちくま学芸文庫、(1993)、2014年
ホガースの研究は今日では質量共にかなり膨大な域に達し、本書末尾には詳細な史料・文献解題が収録されている。
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ほとんど半世紀近くを遡るが、今回の寄贈コレクションの持ち主であった大河内一男先生を囲んで社会政策・労働問題に関する小さな研究会が開催されていた(旧日本労働協会主催、於国際文化会館、事務局筆者)。ある日の研究会で、大河内一男先生から長年にわたるホガースのコレクションとその意義についてお話を伺う機会があった。およそ十点くらいの作品を見せていただいた記憶が残っている。(コレクション寄贈者のひとりであるご長男の大河内暁男先生とも、ロンドンで不思議な出会いがあったのだが、ここでは省略する)。

ウイリアム・ホガース(William Hogarth; 1697-1764)については、それまでに筆者は油彩画を含めていくつかの作品を観たことはあったが、あまり体系的に探索したことはなかった。大河内先生は、18世紀当時のイギリスにおける労働事情、とりわけ貧困発生の実態を中心にお話しされたと思うが、その詳細は記憶にない。ただ、夏目漱石がこの稀有な画家を大変高く評価、賞賛していたこと、また19世紀フランスの風刺画家オノレ・ドーミエ(Honoré Victorin Daumier)についても言及されたことが記憶の片隅に残っていた。



Honoré Daumier, Battle of schools
1855  ·  lithograph  ·  Picture ID: 112826
Private collection
 
ドーミエ《理想主義と現実主義》
絵筆とパレットを剣と盾に見立て、互いに争う画家の有様を揶揄している。
フランス的な遊び心が感じられますね。ふたりの思想の違いはどこに?


このたびの展示で久しぶりに見たホガースの銅版画については、それまで見慣れていたイタリア、フランスなどの油彩画の影響もあってか、以前から美術作品というよりは「時代を映し出す鏡」のような役割を持った作品という印象が強く残っていた。

最近、筆者は「美」とは何か、誰がそれを定めるのかというテーマをしばらく考えていたので、改めてホガースの作品を観ながら、この稀有な画家は美術史上いかなる位置づけがなされるのか、しばらく考えてしまった。

ホガースの作品《べガーズ・オペラ》The Beggar’s Operaには、「鏡の中のように」を意味するラテン語 Veluti in Speculum が記されたリボンが書き込まれているという(未確認)。
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カリカチュリストの流れに
今日では、ホガースは広く「風俗画家」のカテゴリーに入り、その中でも「カリカチュリスト」caricaturistといわれる画家たちの流れに位置づけられているようだ。イギリスでは他国とは異なる
風刺の伝統を感じることもあった。

閑話休題。大河内先生のご関心は、第一義的に、18世紀のイギリス、商業資本主義の時代、ほとんどさしたる規制や規律もなく、急速に拡大していた資本主義的活動が生んだ社会的貧富の格差などが大都市ロンドンを舞台に、いかに展開していたかを銅版画という手段で、時に嘲笑を含めて、生き生きと描いてみせた画家の力量にあったようだ。その位置付けについては、社会的な風俗的主題の中に痛烈な風刺精神を組み込み、独自の道徳的な風俗画様式を駆使して、イギリス美術界の基盤を確立した画家と理解されていたようだ。

ホガースの作品は、しばしば辛辣な風刺、嘲笑的で直裁な表現を含み、今日でも直視していると、色々なことが思い浮かび、時に耐え難くなるようなこともある。さらに、イギリス史、とりわけ当時の社会事情にかなり通じていないと、個々の作品の意味を理解するのにもかなり困難を感じる画題も多い。

加えて、本ブログでも考察の対象としてきたロレーヌの銅版画家ジャック・カロ Jacques Callot (1592-1635)のように、30年戦争における傭兵の略奪、殺傷などを描いた銅版画、あるいはイタリア修業の影響がみられる
ファンタジックな作品などと比較すると、ホガースの表現はかなり辛辣で厳しい印象を受ける作品も多い。問題への迫り方は、イギリス的とも言える独特のシニカルな直裁さが感じられる。

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波乱万丈の画家の生涯
ホガースの作品に込められた鋭い社会批判は、時に嘲笑的でもあり、辛辣でもある。そして、画題に負けず劣らず、画家の生涯も多事多難、劇的でもあった。

展示で配布された年譜によると、ホガースは、1697年、教師の息子としてロンドンに生まれたが、両親の破産・監獄生活を経て、1713年、17歳の時に銀細工師エリス・ギャンブルの徒弟となる。この時代の銅版画家は、技能習得のための場所として、ほとんどこうした選択をしたようだ。17世紀のロレーヌの銅版画家ジャック・カロの場合も、親の反対に抗しながら、ナンシー、イタリアでの修業先を金細工師の所に求めている。徒弟の実態を含め、技能習得過程に格別の関心を抱く筆者にとっては興味深いトピックスである。


ホガースの人柄と時代環境
画家の活動の舞台は、18世紀初期イギリスの資本主義が奔放な活動を見せていた時代のロンドンであった。活発な商業活動の中で、ホガースの性格は個人主義的で、政治的にはリベラル、かなり不遜で外国人嫌い、強力な教会や裁判所の影響をあまり受けない、そしてやや粗野なところがあったといわれる。生まれ育った家庭も多額の負債に苦しみ、破産状態で、幼い頃に父親のコーヒーハウスが倒産、負債者のための監獄に収監されてもいる。そうした環境に生まれ育ったホガースは、版画家を志し、銀板細工師のところで徒弟修業を終え、1720年までには自立できるまでになっていた。この年、南海バブル事件が起き、株価の急騰、暴落、そして大混乱が発生した。今日のバブル経済の原型のような出来事だった。ホガースはこれらを嘲笑・風刺する版画集を制作、評判となり、一躍脚光を浴びることになった。さらに当時流行のイタリア好みの建築、音楽などを揶揄し、評判となったようだ。

1728年にはジョン・ゲイの人気オペラから画題をとった最初の油彩画《乞食のオペラ》Begger’s Operaを制作(版を重ね1731年版が最善と言われる)。その後も新奇なアイディアに才覚を発揮し、自分や仲間のために金稼ぎをすることも巧みだった。さらに世の中の虚栄、腐敗、裏切りなどの世俗の事件を数枚の「社会道徳」シリーズとも言える作品に制作し評判を獲得した。これらはホガースの名を高めた作品群となった。《遊女一代記》、《放蕩息子一代記》、《一日のうちの四つの時》、《当世風結婚》、《勤勉と怠惰》、《ビール街》、《ジン横丁》などが代表的な作品である。これらのシリーズのいくつかについて、ホガースは教訓的な内容を盛り込み、制作過程や用紙を簡素化した廉価版を制作している。歪んだ社会情勢を前に、若い世代などへの教育効果を期待したのかもしれない。




ウイリアム・ホガース『勤勉と怠惰』シリーズから《織機で働く二人の徒弟》
William Hogarth, The Fellow 'Prentices at their Looms
織機で同じ仕事をしている二人の徒弟。仕事ぶりの違いは歴然としている。左側に棒を持って立つのは親方。二人の働き方の違いは、果たしていかなることに・・・・・・。
Ref. Paulson, R., Hogarth 3 vols, 1991-1993.

社会政策、美術家の地位向上への試み
広く社会政策的なトピックスでは、ホガースは当時のロンドン所在の病院の役割を重視し、1736-37年には、自分の出生地の近くの聖バーソロミュー病院の階段に、無料で「バロック風」に聖書の場面を描いたりもした。さらに、仲間の画家も誘い、Foundling Hospital (遺棄された子供を養育する病院)の院内に同様な絵画を寄贈し、病院が観覧料で潤うと共に、当代のイギリス絵画の展示場となることを期待した。

これらの点から推察するに、ホガースは単に当時のロンドンの混迷し惨めな状況の記録者としての地位に留まることなく、画業を肖像画などでパトロンに全面的に依存する職業から、美的活動にふさわしい自立した職業に転化させたいと考え、泥沼状態の社会環境で苦闘していた人間でもあった。

その一端として、1735年には彼にとって第二のアカデミーである画塾をサン・マルタン街に開設し、ほぼ20年間、美術論や技法の向上に努めた。ホガースの美術に関わる理論は、『美の分析』The Analysis of Beauty (1735)に収められている。残念なことは、ロンドンに王立美術院 The Royal Academy of Arts(初代院長ジョシュア・レノルズ) が設立されたのは、画家の死後の1768年だった。


他の画家が描こうと思わないものを描く
古いことを思い起こすと話題は尽きないが、本ブログ筆者が長らく関心を寄せてきた現代イギリスの油彩画家
L・S・ラウリー( Lawrence Stephen Lowry; 1887-1976) も、ホガースほど辛辣、嘲笑的に描いているわけではないが、多くの画家が美的対象ではないとして見向きもしない工業化の諸断面を鋭利に描いている。基本的立場は、地域の生活に密着し、画家が見た現実をそのままに描くという姿勢である。興味深い点のひとつに、この画家も地域の病院の実態とその改善に多大な関心を寄せていた。描かれた舞台は時代も異なるが、ホガースのロンドンに対して、産業革命の発祥の地ともいえるマンチェスター周辺の地域である。イギリスの社会思想と美術を繋ぐ細い糸が見えてくるようだ。

今回のような突然の「脱線」は失われた記憶が戻ったり、それなりに楽しいが、「美」とは何かという問いには、ますます答えが出せなくなった。

続く
















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