時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

回想のアメリカ:アメリカの深層を訪ねて(1)

2023年03月26日 | 回想のアメリカ


三角貿易のイメージ
アフリカとアメリカを結ぶ線が  'the middle passage'

光陰矢のごとし。このブログを始めてからまもなく20年近くになる。終幕の時は近づいているだが、美術史トピックスを初め、目前に浮かぶ記憶の断片は未だ絶えることがない。
前回、アメリカ南部の社会経済を理解する上で、綿花生産と奴隷制の関係はあまりの大テーマだけに、ブログなどで安易に立ち入ることはできないと記した。しかし、改めて考えると、奴隷制、奴隷貿易、児童労働、人種差別、さらに近年新たな発見もある産業革命の資金的基盤など、その淵源に入り込まない限り問題を真に理解できないことを痛感するようになった。ブログ筆者の頭の中では一通りの整理はついているのだが、読者にとっては難しいかもしれない。そこで、あらすじだけでも記しておくことにした。このブログ、元来筆者の心覚えメモである。

この問題に関わる近年のいくつかの例を挙げてみると(順不同):

★2020年5月末、米ミネソタ州で黒人青年ジョージ・フロイドさんが白人警察官の暴行が原因で死亡、これをきっかけに人種差別抗議運動「ブラック・ライブズ・マター」(黒人の命は重要だ)運動が米国内外で拡大した。

★この事件は、有色人種に対する差別の存在をクローズアップしたが、欧州各国では19世紀まで続いた奴隷貿易や列強による植民地支配を問題視する動きが大きくなった。欧州社会では黒人市民は総人口の中では少数派だが、その由来をたどると、奴隷貿易や植民地支配に行き着く。

★イギリス産業革命の再検討が進み、資金源となった奴隷制の実態、ポルトガル、スペイン、オランダ、英国などによる大西洋奴隷貿易の存続と廃止までの関係国の確執などの再検討などが行われ、新たな歴史的事実の発見もあった。関連して、「資本主義と奴隷貿易」をめぐる従来の論争の再認識も生まれた。

アメリカにおける『地下鉄道』Colson Whitehead, The Underground Railroad, Fleet, 2017.(コルソン・ホワイトヘッド、谷崎由依訳『地下鉄道』早川書房)が、2017年のピュリツアー賞(小説部門)受賞作となった。

★近年では共和党からトランプ大統領が政界に登場、アメリカ国民の間に深い亀裂を生んだ。政権末期、暴徒の国会議事堂乱入(2021年1月6日)など、世界を主導する民主主義国家とはおよそ言い難い出来事にも考えさせられた。

ほとんど半世紀ほど前から、ブログ筆者は歴史的な事件が起きるたびにアメリカ北部と南部の社会経済構造の間に根強く存在する断裂、しばしばアメリカ人の間でも十分理解されているとは思われない問題の複雑さ・深さを感じさせられてきた。

これらの問題の根源が、アメリカがかつて関わった奴隷制と奴隷貿易という非人道的活動とつながっているとの認識は、アメリカ人を含めて強いものではなかった。

=======
ニューヨークでのある処刑
およそ160年前に当たる1862 年の2月21日、『墓場』の名で知られたニューヨーク市の監獄で、ナサニエル・ゴードンの名で知られた男の処刑が行われた。シルクハットに厚手のコートを着た男たちを含め、多数の観衆が見守っていた。ゴードンは1820年制定の奴隷取引を禁止した法律に基づき、悪質な奴隷商人として処刑されることになっていた。当時の大統領アブラハム・リンカーンはニューヨーク市民からの11,000を越える減刑嘆願書を斥けた。そこには長年にわたり根絶のできなかった奴隷貿易についてのリンカーンの強い意志が働いていた。二人の州知事、多数の連邦、州の役人、84人の海軍軍人が見守るなか、絞首刑が執行された。
不法な奴隷貿易が隠密裡に行われていたにもかかわらず、アメリカでは違反者の処罰は数十年にわたり行われなかった。奴隷貿易商人ゴードンの処刑は、アメリカの法の下では、最初でしかもただひとつのものだった(David T. Dixon, 2012, John Harris book review)
〜〜〜〜〜〜〜

大西洋奴隷貿易は、15世紀に始まり、19世紀まできわめて長い時間を要した。300年間で推定1,200万人が奴隷貿易の対象となったと言われる。とりわけ17世紀から19世紀、ポルトガル、スペイン、オランダ、英国などの奴隷商人が、主としてアフリカ西岸で部族間紛争などで捕らえられた黒人住民を「新大陸」(現在の南北アメリカ、カナダ、オーストラリアなど)や西インド諸島向けに奴隷という非人道的労働力の形で貿易の対象とした。

以下の記述は、なぜ奴隷貿易という非人道的な取引が西欧諸国の主導の下で、きわめて長年に渡り継続してきたのかという疑問に関わっている。

上掲のような現代の問題の淵源に一つの答えを提供した最近の研究にJohn Harris(2019)がある。今回はこの研究に準じて、粗筋を追いながら、大西洋奴隷貿易が終わりを告げるまでになぜ長い年月を要し、いかにして上掲のごとき処刑をもって終焉を迎えたかを回顧してみたい。

〜〜〜〜〜〜〜〜
奴隷貿易の重要性を筆者に語ってくれたのは、以前にブログに記したことのある University of West Indies からコーネルの大学院へ来ていたトーマス(後に同大学経済学部長)との交友からだった。専攻も同じ労働経済、社会政策であったこともあり、その後世界各地で開催されたIIRA(International Industrial Relations Assoiation)などの学会でも、顔を合わせることになった。
ちなみに、1979年 に セオドア・シュルツとともに ノーベル経済学賞を受賞した初の黒人であるウィリアム・アーサー・ルイス(Sir William Arthur Lewi(1915年~1991年)の出身校でもある。 1983年アメリカ経済学会会長。
〜〜〜〜〜〜〜

産業革命の資金源としての奴隷貿易
18世紀末にアメリカの ホイットニーが綿操り機を発明すると、アメリカ南部の 綿花プランテーション で黒人奴隷による綿花の生産が増大し、 三角貿易の名で知られる大西洋を舞台とした貿易経路で一角を占め、イギリスへの主要輸出品となった。さらに、19世紀にイギリス産業革命によって綿織物生産が爆発的に増加し、アメリカ綿花への需要が高まった。

西欧諸国は奴隷貿易によって巨額の富を集積し、富裕層をさらに富裕にした。とりわけ、イギリスは、この三角貿易で莫大な利益を得て、産業革命の資金源を確保した。18世紀のほとんどを通じて奴隷貿易はイギリス産業革命初期の資金源だった。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
三角貿易(上掲図)
大西洋間奴隷貿易は3つの部分で構成されていた。すなわち、ヨーロッパからアフリカへ銃火器、火薬、衣類、完成財などが輸出されていた。その対価として奴隷とされたアフリカの人々が交換に使われていた。
アフリカから南北アメリカ(ブラジル、キューバ、ニューヨークなど)へは、アフリカで奴隷とされた人々が奴隷船で輸送されていた(middle passage)。
さらにアメリカからは綿花が輸出され、原料として衣服などの生産に使われた。衣服はアフリカへ輸送され、奴隷と交換された。かくしてヨーロッパ→アフリカ→アメリカ→ヨーロッパという三角形を構成する貿易経路が成立していた。

ミドル・パッセージ the Middle Passageとは、大西洋間奴隷貿易において、アフリカ(西部中央アフリカ)の黒人奴隷を奴隷船に乗せて南北両アメリカ大陸へと運んだ経路を指す言葉である。奴隷貿易の歴史に関心のある人にとっては、常套句なのだが、三角貿易の3地点を結ぶ航路のうち中間の一辺の航路を特定し、こう呼ばれてきた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ハリスは19世紀前半にイギリスが主導して行われた大西洋奴隷貿易の禁止までの過程に着目する。ハリスの労作(2021)では、アメリカが関与した最後の奴隷輸送船と推定される「ジュリア・モウルトン」の一部始終が解明されているが、以下ではその概略を記しておこう。

奴隷制廃止への長い道程
1853年秋、キューバの奴隷貿易商人サルヴァドール・ド・カストロが、西中央アフリカから奴隷を輸送し、キューバに売ることを計画し、伝手を求めてニューヨークへやってきた。
カストロは、そこでブラジルの奴隷貿易商人 A・ロペス・レモスに会う。ブラジルは1850年に奴隷貿易を禁止していた。彼らはニューヨーク・マンハッタンでどさくさに紛れ、奴隷貿易を企てた。アメリカは1808年に奴隷貿易を禁止していたので、明らかな犯罪行為だった。しかし、彼らはマンハッタンの南の暗黒街で新たな奴隷貿易を策謀した。
彼らは、ドイツ移民 J・スミス(アメリカ人)を使い船長とし、彼が所有するとの虚偽の名目で、200トンの帆船「ジュリア・モウルトン」(メイン州で1846年に建造)でアフリカ・ケープタウンへ行くとの虚偽の口実で出国承認を得て、水、食料など必要資材を積んで出港した。彼らは、西中央アフリカ、現在のコンゴに近い奴隷貿易港アンブリゼッテへ向かった。

彼らがこうした複雑な手続きを踏んだのは、公海上でアメリカ国旗を掲げることで、イギリス政府が奴隷貿易船を阻止する動きを回避するためだった。イギリス議会は1807年に奴隷貿易を禁じていた。他方、1850年時点でアメリカは奴隷貿易禁止の協定に署名せず、奴隷貿易を黙認していた唯一の国だった。

彼らはアフリカ内陸部を巡回し、コンゴに行き、拉致や部族間紛争の捕虜などで奴隷商人に売られたコンゴ語を話す、主に男子と男の子供(一部は女子)を奴隷として、644人を購入、手枷・足枷の上、刻印し、乗船まで檻に入れていた。その後男子は船倉に、女子や子供は甲板に押し込めて1850年代最後の奴隷上陸地となったキューバへ輸送した。当時の奴隷貿易船の解説にあるように、とりわけ下部船倉に詰め込まれた奴隷は身動きもやっとのほどの空間しか与えられなかった。奴隷の反乱を防ぐ目的ばかりか、イギリス船などの臨検を受けても発見されないという厚い船底の天井だったというから恐ろしい。
劣悪、過酷な45日の航海中、赤痢などの罹患でおよそ150人が死亡した。この劣悪極まる奴隷の輸送は、アフリカ西岸と西インド諸島を結ぶ「中間航路」(the Middle Passage)といわれた奴隷貿易と同義に使われた海路を使った。運搬に使用した奴隷船は、1850年代に残存していたほとんど唯一の奴隷貿易船だった。この最後の10年間だけで、およそ226,000人が奴隷として搬送された。
かくして、奴隷船「ジュリア・モウルトン」は、1854年6月中旬、45日の恥ずべき航海の後にキューバの港トリニダード・デ・キューバに入港した。
キューバ政府はイギリスと共謀してアメリカの奴隷商人に対抗、ハヴァナで船舶を捕獲し、490人のアフリカ人を下船させ、近くのサン・カルロスの砂糖農園へ5年契約で受け入れさせたようだ・船長と乗組員はニューヨークで裁判の結果、違法の奴隷貿易に関わった罪で、1800年法に基づき2年間の収監となった。この奴隷輸送船「ジュリア・モウルトン」は証拠隠滅のため焼却されてしまった。この事件は当時のニューヨークではスキャンダルとしてかなり話題となった。Harrisによれば、これが史上の記録に残る最後の奴隷船だった。

続く

 References:
John Harris, The Last Slave Ship:New York and the End of the Middle Passage, Yale University Press,2021.
Erick Williams, Capitalism and Slavery, 1944.
Alex Renton, Blood Legacy: Reckoning With a Family’s Story of Slavery,
2021




コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

回想のアメリカ(4): 新たなグローバル・サウスの展開

2023年03月11日 | 回想のアメリカ


彼女はいかなる生涯を送ったのだろう:
時代は20世紀初期、アメリカ南部、ノースカロライナ:
「ウイットネル綿工場で働く若い紡績工 spinner のひとり。身長51インチ(1メートル27センチ)。工場ではすでに1年働いてきた。時には夜も……..。何歳からと聞かれ、ためらった後、覚えていないと答えた」(Beckert p.396)


半世紀近く前のことになる。アメリカの綿工業の史料を探索していた時に、当時の工場で働く児童や女子労働者を写したセピア色の写真のコピーを多数見出した。その中でも格別印象に残る1枚がこの写真である。有名な写真家ルイス・ハインの作品だ。ベッカートの『綿の帝国』にも掲載されている。後に彼女は16歳であったことが確認されているが、その何か思い詰めたような顔が今日まで筆者の脳裏に残ることになった。このことは
本ブログで紹介したこともある。この時代の写真に写る少女や児童には、子供らしい笑顔がほとんど見られない。自らの人生の行方を承知しているかのようだ。

当時は16歳以下の児童が工場労働に従事することは禁止されていた。工場監督官が視察に来て発覚すると操業の停止などの処罰があった。少女はそうしたことを知っていたのだろう。


べッカートの『綿の帝国』を原書で読んだのは2014年の刊行直後であった。長らく関心を寄せていたテーマではあったが、その視野の壮大さと考証の詳しさには圧倒された。これだけの重厚な作品を提示できる研究者はきわめて少ない。全体615ページの内、本文は445ページ、残りの170ページは注や索引に充てられている。

ブログ筆者は、すでに原書刊行の段階でかなり惹き込まれて読んでいたので、ほぼ10年を経過した今、思いがけず邦訳に接し、記憶を再確認するつもりで短いメモ(覚書)を1回だけ残すつもりでいた。しかし、この10年間にもかなりの数の研究、新たな発見もあり、当初の予想を超えて書き込んでしまっている。10年前には思い出さなかった記憶の断片も次々と浮かんできて、記憶の仕組みに改めて驚く。総括の意味で少しだけ追加することにした。

人類が綿糸や綿織布を生み出したのは、約5000年前のインドであったといわれる。その後、多くの大陸へ普及したが、ヨーロッパへ到達したのは、かなり遅い950年頃であった。しかし、ヨーロッパの起業家たちは国家と結びつくことで、短期間に大きく綿業の世界を変容させた。イギリス東インド会社の発展は、その一つの象徴だった。そして、この変化を可能としたのは奴隷制を中軸とした暴力的なシステムだった。ベッカートはこれを「戦争資本主義」 (Beckert pp29-82)という概念で説明している。次の段階で綿業は契約と市場を重視した「産業資本主義」の流れへと移行する。国や地域によって差異はあるが、労働者も自然発生的な抵抗や労働組合活動などを通して一定の地位向上に成功する。

グローバル・サウスへの道
この間に資本主義発展の数々のドラマが織り込まれてきた。中でもイギリス、マンチェスターを中心とするヨーロッパから、新大陸アメリカのニューイングランド、そしてアメリカ南部への産業移転はよく知られている。イギリスにおける綿製品製造業の衰退は劇的であり、世界の多くの地域に、マンチェスターに匹敵するような綿産業地帯が生まれた。アメリカ南部への移動は、北側のアメリカ合衆国内部でのグローバル・サウスへの移動になる。南部の綿は19世紀にはリヴァプールなどのヨーロッパの港へも輸出された。

ベッカートはこの変化を支えてきた大きな力が奴隷制に象徴される「暴力」と農場や工場労働を可能とさせた「強制」であったとして、その分析に多大な努力を傾注している。奴隷制については、多くのことが思い浮かぶが、それを記している時間はなくなった。ただ、アメリカ南部において、奴隷労働は南北戦争で終わりを告げたのではなかった。奴隷制は無くなったが、彼らはシェアクロッパー(物納小作人:収穫物の一部を小作料として収める小作人)へと追いやられた。実態は以前と変わらない、休むことをを許されず、鞭で打たれ働かせられる日々であった。さらに、輸送手段の発達で、世界中各地にマンチェスターのような「綿の帝国」が生まれた(Beckert pp274-342)。

せめぎあう資本家と労働者
ヨーロッパからアメリカ東北部に重心移動した綿業で、屈指の産業地帯となったマサチューセッツ州フォールリヴァーは、多数例の一つに過ぎないが、1920年代の綿業最盛期には工場数は111に達し、繊維業従事者数はおよそ3万人、アメリカ全体の紡績能力の8分の1に達していた(Beckert pp384-385)。

フォールリヴァーについては、当時の工場、生活状況がきわめて劣悪、危険な状況であったこと、その改善を求めて労働者の組織化、プロテストが続発していたことなどが、ブログ筆者の関心も引き寄せた。こうした綿業発展の過程での労働条件の劣悪化と労働者の組織化、改善への動きは、ヨーロッパ、アメリカ、日本などのアジアでも広範に展開していた。


1930年代までにアメリカ東部ニューイングランドの綿工業は、イングランドの工場よりもさらに徹底的な衰退を経験した。市場のシェアを奪った国の中では日本の伸びが群を抜いていた。綿紡績業は長らく日本の製造業の中軸であり、競争力も維持されてきた。Beckertは、渋沢栄一(1840~1931)についても、日本の綿業の創設者として、インド、中国、エジプトなどの企業家たちと並び、「グローバル・サウス」の復活の流れに位置付けている。日本製品などの低廉な輸入品に対抗するために、Buy American運動が企図されたこともあった


〜〜〜〜〜〜〜

日本では最盛時には、終夜営業の 紡績工場、1日14時間の 過酷な工場労働に依存する紡績業が発展し、1912年には紡績業が国内産業の5割を占めるほどになった。日米貿易摩擦も生じ、1940年には 日米通商航海条約が廃棄される結果につながった。
Beckert, Chapter 13 The Return of the Global South 参照。

20世紀後半まで、日本の専門・総合商社の中には、綿業を主体として成長した企業もあり、「日綿實業」(ニチメン、双日)、「東洋棉花」(トーメン)など、社名に綿(棉)の文字を含んだ企業もあった。

〜〜〜〜〜〜〜

アメリカ南部の優位
綿紡績業のグローバル・サウスへの移行は、南北戦争後のアメリカで始まった。アメリカは綿業の南部原綿産出州への移行に伴い、自国内にグローバル・サウスを持つことになった。

主たる原綿産出州はSouth Carolina,Texas, California, Arizona, Mississippi, Missouri, Florida 

南部の綿企業は、原綿産出地に近接していたばかりでなく、工場での労働条件も劣悪だった。1905年時点で、綿工業全労働者のうち16歳未満の年少労働者は南部では全労働者数の23%を占めたが、ニューイングランドでは6%だった。南部の労働時間の長さは、週64時間、75時間労働も珍しくなかった(Beckert pp.185-187)。筆者も数多くの写真を撮ったが、保存状態が悪く、今見ると対象が確認できないほど色褪せてしまった。

南部諸州では労働組合もほとんど未組織で、労働法の規制も北部と比較すると、かなり緩かった。1925年には南部の紡錘数はニューイングランドを上回った。1965年にはその比率が24対1までになっていた。

しかし、20世紀後半になると、企業は再び安価な労働力を求めて、南の発展途上国としてのグローバル・サウスへと移転する。今日の世界でも、綿産業の優劣を大きく左右するのは、そこに従事する労働者の労働コストの水準である。南のアフリカ、アジア、南アメリカの発展途上の国々が該当する。中国を含むべきかは論者や文脈で異論がある。

〜〜〜〜〜〜〜
2021年の世界の綿花(実綿)生産量の国別ランキングを見ると、 1位は中国の17,366,363トン、2位はインドの17,204,000トン、3位は米国の11,246,553トン、4位はブラジルの5,712,308トンであった。
Beckert 

2022年には、中国を含む新興国・途上国のGDPは、G7のそれを凌駕した(IMF統計)。
〜〜〜〜〜〜〜

強まる新たなグローバル・サウスの優位
さらに、近年では、ヴェトナム、バングラディシュのような発展途上国が価格競争で中国などを凌ぐまでになった。中国も急激な賃金上昇で、昔日の優位を保てなくなっている。かくして、中国を除くアジア、アフリカ、南アメリカなどの新たなグローバル・サウスが優位を占める時期がかなり続くかもしれない。しかし、筆者には今の段階で明るい未来のイメージは浮かんでこない。かなり、乱気流がありそうだ。



20世紀初頭、1908年、ウィットネル綿工場(上掲)の労働者たち。
圧倒的に年少者たちが多い。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする