時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

17世紀の色:裏から見た作品(5)

2021年10月27日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋
                     最下段に上級者向け(?)クイズがあります。

20世紀初め、長い忘却の闇から発見された時は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという稀有な画家の作品や生涯については、ほとんど謎に包まれていた。しかし、その後、新たな作品の発見と研究は急速に進んだ。今日ではこの画家が、いかなる画業生活を送ったのかという点については、かなりのことが明らかになっている。この画家の数少ない作品と断片的な史料についての多方面にわたる分析と知見の蓄積が進んだ成果と言える。

この画家の手になると思われる50点余りの作品は、今日ではフランスに限らず、アメリカ、日本など世界中に拡散して保蔵されている。そのため、全ての作品が一堂に集められるというような機会はほとんど期待できない。そのため、1996-7年のNational Gallery of Art, Washington,D.C.やKimbell Museum での特別展などが開催された時には、アメリカ各地に所蔵されている10点の作品についての科学的研究が一挙に進んだ。

ラ・トゥールがいかなる修業を行ったかという点については、依然として不明なことが多い。しかし、この時代に活動していた画家のほとんどはその作品も生涯もほとんど知られることなく歴史の闇に埋没してしまって知られることはない。幸いラ・トゥールは、その卓越して見事な作品の故に、多くの研究者の調査と探索の対象になってきた。

史料の調査、研究が進み、徒弟、遍歴の時期を除く画家の生涯もかなり明らかになった。ラ・トゥールの若い時代の画業修業は不明だが、後年この画家自らが親方として徒弟を採用した記録が残っており、この時代の画業修業の輪郭を思い描くことができる。

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N.B.

ラ・トゥールの5番目で最後の徒弟であったジャン・ニコラ・ディドロの徒弟契約書(1648年9月10日)によると、期間は4年間とされ、親方の馬の世話、手紙を届ける使い、食事の給仕をするなどが定められている。ディドロは「顔料を砕くこと、画布の地塗りをすること、絵画に関わる全てのことを行い、配慮すること、必要が生じた場合、人物を描き、またデッサンの際のモデルを務めることが求められる」などが記載されている。
17世紀のヨーロッパにおいて、画家としての職業生活を送るについて、徒弟制度の持つ重みについては、これまでも記したことがある。3〜4年の徒弟生活を過ごし、職人となったとしても、作品が売れなければ生活してゆくことも難しい。ラ・トゥールの工房で修業した5人の徒弟のうち、画家となったことが判明しているのは1名、なかにはロレーヌ公国の兵士となった者もいる。残り3人の消息は分からない。画家になったと思われる1名にしても、その後の行方、作品も不明である。

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ラ・トゥールの制作手法
画家はそれぞれ自らの制作のスタイルを持っている。当時の画家の多くは、あらかじめ対象をデッサンしておいて、それを参考にしながらカンヴァスに向かって制作を進めていったとみられている。これに対して、ラ・トゥールはほとんどデッサンはしなかったのではないかと考えられている*。この画家は通常は直接カンヴァスに輪郭を描いていたようだ。前回記したように、ラ・トゥールは作品に署名、年記を記したものが少なく、《聖ペテロの悔悟》はひとつの基準とされている。

ラ・トゥールの手になったのではないかと推定される 
デッサンも数は少ないが発見されている。しかし、カンヴァスに描かれた作品に比して、デッサンは後世に継承されて残ることが少ない。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《農婦》、サンフランシスコ美術館

《農夫》《農婦》はいかにして描かれたか
この2作は画家ラ・トゥールの作品では比較的初期のものと考えられている。さらにカンヴァスのサイズなどから、一対の作品として制作されたと考えられている。地塗りからは少量の鉛白、黄橙のオーチャー、そしてbone black(骨炭、顔料)が発見されている。全体としてクールな灰白色の色調になっている。ラ・トゥールは2作ともに下絵を描くことなく、暗い赤褐色のような色のスケッチで直接カンヴァス上に描き始めている。しかし、全体の輪郭をスケッチしてから部分を描き始める、あるいはグリザイユという手順ではない。手法としては17世紀に広く使われていたらしい。幸いラ・トゥールと同時代の画家であるル・ナン兄弟が、この手法を使った未完成の作品が残されている。ラ・トゥールも《農夫》Old Man で空間を確定するために使っている。ル・ナン兄弟がアトリエを開いた時と、ラ・トゥールがルーブル宮に滞在した時は記録上は1年違いであり、両者の間に接触があったかもしれない。

グリザイユ grisaille: 全体を灰色の濃淡で描く画法。


The Le Nain brothers, Three Men and a Boy, National Gallery, London
未完成作品:ラ・トゥールの手法と類似する手法 painted sketch が使われている。

《農夫》《農婦》の2作については、ラ・トゥールは衣装の織地の描写に力を入れていたと思われる。とりわけ《農婦》のエプロンの描写にそれがうかがわれる。拡大して見ると、画家が費やした絶妙な手腕の成果がうかがわれる。


ラ・トゥール《農婦》部分

今日判明している研究結果では、ラ・トゥールはこの2点の制作に際して、一貫した手法で段階的に制作を進めたことが判明している。それによると、画家はモデルの顔の部分を最初に描き、次に衣服に移り、最後に背景に取りかかっている。色彩についても、明るい、軽い色の部分を最初に描き、続いてより色調の濃い部分へと移っている。

《農婦》の白いブラウスの部分が描かれた後に、より濃い色のヴェストとスカートに移っている。


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《農夫》、サンフランシスコ美術館



クイズ:農夫の杖はどの段階で描かれたか
ここで読者の皆さんにクイズをひとつ。
上掲の農夫が手に持つ杖(4)は、画家の制作のどの段階で描かれたのでしょうか。 回答例:(1)→(2)→(3)→(4)
(1) 背景の壁
(2)床(地面)
(3) 人物


答:(3)→(1)→(4)→(2)
「杖」は「人物(農夫)」に次いで「背景の壁」が描かれた後「床」が描かれる前に描かれています。言い換えると、杖は床の前(上)に置かれていません。地塗りの上に直接描かれています。


Reference:
Melanie Gifford et al. Some Obbservations on Georges de La Tour`s Painting Practice
Georges de La Tour and His World, ed. by Philip Conisbee, National Gallery of Art, Washington, New Heaven; Yale University Press, 1998


続く





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17世紀の色:裏から見た作品(4)

2021年10月21日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

コロナ禍が収束するか不明なままに、2年が経過しつつある。クリスマスも目前になった。この時期にふさわしいと思われるテーマを選んでみた。
あなたは次のどちらの絵がお好みでしょうか。

下段の2点の画像はカラヴァッジョ (1571-1610)とジョルジュ・ド・ラ・トゥール(1593-1652)という17世紀を代表する巨匠が,同じ主題《羊飼いの礼拝》the Adoration of Shepherds を描いた作品である。イタリアとロレーヌという風土も反映するのだろうが、両者の作品が与える印象はかなり異なり、きわめて興味深い。制作に当たっての画家の考え、手法などには注目すべき差異がある。その点を知ることは、この二人の巨匠の作品理解にとって極めて意義のあることに思われる。

1609年に制作されたカラヴァッジョ《羊飼いの礼拝》は、画家の作品の中では傑作のひとつと言われるが、この画家の代表作というわけでは必ずしもない。制作の時期、この粗暴な画家は大きな罪を犯し、追われる身にあった。


二人の画家に共通するものは、画面に漂う夜の静寂と容赦ない光の氾濫からの休息である。柔らかな光が聖母と幼な子に集中する。しかし、画面を輝かせる光の根源は何処か分からない。

 カラヴァッジョの作品は、聖母マリアとその手に抱かれた幼な子キリストに見る人の視線が集中し、祝福に訪れた羊飼いたちとの間には微妙な間隔がとられている。画面から伝わってくるのは、この画家特有の強いリアリズムであり、昼とも夜ともつかない黒褐色が優った暗い色調の中に人物が浮かび上がっている。背景は納屋の壁だろうか。よく見ると、微かに牛の頭のようなものが描かれている。


Michelangelo Merisi da Caravaggio, The Adoration of the Shepherds,
oil on canvas, 314x211 cm,Messina, Museo Regionale

 他方、ラ・トゥールの作品では、見る者の視線はまず中心に眠る幼な子イエスに集まる。それと共に左側の聖母マリアとみられる女性の姿と表情にも自ずと視線は向かうだろう。幼な子は世界で一番可愛く描かれているともいわれ、独特のおくるみ dwinddling 姿とともに、見る人の網膜に残る。

聖母マリアの姿はその表情とともに注目を集める。突如として自らが負うことになった重い位置と役割に戸惑っているような複雑な面持ちである。画家の深い思索の表れといえる。画面全体の印象はカラヴァッジョの作品と比較すると、狭い空間に羊飼いを含めて隙間なく描かれ、親しい者たちが寄り集まったような暖かな感じを与える。人々の間から子羊が藁の一本を差し出しているのも、ほのぼのとした温かみを与えている。ヨセフと思われる右側の男性がかざす蝋燭の光で、夜ではないかと思われるが、いかなる場所であるかはまったく分からない。全体に鄙びた雰囲気が漂っている。

ロレーヌの画家ラ・トゥールにとって、作品《羊飼いの礼拝》は、今日に残された作品数が極めて少ないこともあって、この画家の制作に当たっての思想、制作手法を知る上で極めて貴重な意味を持っている。制作年代はカラヴァッジョよりも30年くらい後の時代である。1640年台のロレーヌは絶え間ない戦乱の地であり、さらに頻繁に発生する飢饉と度々襲ってくる悪疫に、人々には苦難が絶えなかった。日々の生活には安心の時が少なく、未来への不安感に絶えず苛まれていた。わずかに城郭で囲まれたリュネヴィルの地は、城外の災害、災厄から、かろうじて城民の生活を遮っていた。

Georges de La Tour, The Adoration of the Shepherds, oil on canvas, Paris Musee du Louvre



Georges de La Tour, details                                    Caravaggio, details


Georges de La Tour, details

美術史の発展の過程で、単にカンヴァスの表面に描かれたイメージの段階に止まらず、制作の手法や材料にわたって、作品をひとつの記憶の場として科学的に分析する領域が生まれた。絵画は単に画布に描かれたイメージの次元に止まらず、それが生まれた時代、画家の人生と一体化した作品として理解しようとの試みである。その試みの一端を記しておきたい。

稀有の天才だが荒くれ者であったカラヴァッジョは、ダークブラウンのカンヴァスをしばしば使い、下地に直接的、一気に絵筆を使っている。これに対して北方ネーデルラントのカラヴァジェスティやロレーヌのラ・トゥールなどの間には、背景などの色調に微妙な違いが見られる。

科学的手法の成果
この点を解明するに、赤外線写真、紫外線蛍光写真、X線写真、絵具層断層面の調査(クロスセクション)などによって、画家の制作の跡をできる限り、深部に渡って厳密に探索して作品の新たな読み方を提示する試みがなされてきた。署名や年記の不明な作品あるいは経年劣化した作品の修復について、科学的手法を活用して、制作当時の画家の意図を確かめ、対応する。

滅失、逸失などで現存作品数が極度に少なく、署名や年記の記載が少ないラ・トゥールの作品については、この観点からの調査、研究で多くの知見が生まれ、蓄積されてきた。フランス博物館科学研究・修復センターを中心に、内外のいくつかの美術館などが研究を行なってきた。

最初の貢献はX線写真である。X線は鉛白のような物質には吸収されるため、写真では明るく写る。一方、土性顔料やグレーズなどは通過する。このように各層の厚さや成分によって違いが生まれ、画像が形成される。制作者か後世の修復家の手になるものかも判別できることがある。

Glaze:厳密な定義はないが、通例では顔料を少量含む被覆加工をいう。特質はその透明性にある。不透明、淡色の顔料を用いた場合は、<ぼかし> scumblesと呼ぶ。

画家ラ・トゥールは結婚後、妻の生まれ育ったリュネヴィルで工房を持ち、画業生活を送った。度重なる戦乱、火災などで、この間に制作されたであろう多数の作品は逸失・滅失し、今日でも世界中で50点余りの作品しか残存していない。上掲の作品はフランス王からロレーヌの総督に任命されたラ・フェルテ Marquis de La Ferte に市民から贈られたものであったがために、幸にも今日まで継承されてきたとも思われる。画家には市民に課せられた税金から700Fという多額が支払われた。

変化する地塗り
 16世紀から17世紀初め、パリ、フランドル、ロレーヌなどでは、工房での地塗りの方法が変わりつつあった。最初は白亜(chalk: 天然産の炭酸カルシウムの一つ。イギリス海岸、北フランスなど広く鉱床がある)を中心とした白い地塗りが行われていた。その後、少し褐色の色がついた(天然の)土性の粉(鉛白、白亜、オーカー)をリンシド油に溶かして塗るようになっていた。さらに少し黄色味を帯びた白色塗料を塗った。そして最後にもう少し地色の濃い塗料を塗ってよく乾かして仕上げた。

比較的最近行われた上掲のカラヴァッジョの《羊飼いたちの礼拝》(メッシーナ地方美術館)とラ・ トゥールの《羊飼いたちの礼拝》(ルーヴル美術館蔵)の比較研究によると、カラヴァッジョの作品の地塗りは赤褐色を帯びた濃い色だが、ラ・ トゥールの作品の地塗りは白色系で、画家は表面の絵の具を巧みなグレージングで溶かして制作していたことが判明している。これは1620年代初期、カラヴァジズムがヨーロッパを席巻していた頃、ホントホルストやフレミッシュの画家が使った手法といわれる。こうした画材の化学的分析からも、作品年代の推定が可能になったことも近年の美術史研究の成果である(Merlini and Storti, 2010, p.187).

カラヴァッジョとラ・トゥールの制作技法の違いを示すのが、両者の作品の一部を採取した標本の断層面である。これらの標本から知り得た事実については、次回に記すことにしたい。


カラヴァッジョ            ラ・トウール 


続く
2011年11月25日から2012年1月8日まで、パリ、ルーヴル美術館がミラノで開催したラ・トゥール企画展では、《羊飼いの礼拝》と《大工聖ヨセフ》が展示の中心であった。

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17世紀の色:裏から見た作品(3)

2021年10月14日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋


ジョルジュ・ド・ラ・トゥール《聖ペテロの悔悟》1645年の年記、署名が確認できる作品

ラ・トゥールが活動した17世紀には、絵画作品は文字通り画家や工房における手仕事の作品であった。今ならば、画材店でカンヴァスや顔料、絵の具などを購入することは日常のことであり、画家は画布上にいかなるイメージを描き出すかにほぼ専念できる。フランスやイギリスでは18世紀以降は画家養成のため設立されたアカデミーがこれらの作業段階を受け持ったが長続きせず、その後は画材商などの手に移った。この意味で、17世紀の絵画は、画布(カンヴァス)に描かれた部分を含む手仕事作品として存在している。

戦乱・災厄の時代の画家であったラ・トゥールの場合、作品に関わる史料があらかた失われており、作品目録も不確かであるため、僅かに残されたおよそ40-50点の作品の真作確認は困難を極めた。1638年のリュネヴィルの戦火などで、工房や地元の愛好者などが保有していた作品の多くは失われたと推定されている。さらに、当時の画家は必ずしも署名や年記を作品に残さなかったこともあり、真作の確認は多くの時間を要した。現存するラ・トゥール作品の中で、署名、年記が明瞭に確認されているのは、1645年の《聖ペテロの悔悟》(上掲)と1650年の《聖ペテロの否認》の2点にすぎない。

こうした事情もあって、作品の確定、鑑定の作業は今日まで続いている。この点を理解するには、当時の絵画作品が生まれるまでの画家の工房などでの作業についての知識と理解が欠かせない。

工房の役割
17世紀ヨーロッパの工房の作業内容は、親方の体得している知識と技能に基づいており、徒弟制度apprenticeshipというシステムを通して、伝承されてきた。徒弟制度は基本的に契約に基づいており、親方と子弟を徒弟にしたい親などの間で、修業の内容を記した契約を交わすことが普通だった。ラ・トゥールの場合、生涯に5人の徒弟をとっていることが判明しているが、契約書に徒弟がなすべき仕事の内容が明記されている場合もある。例えば、乗馬の名手でもあったとみられるラ・トゥールの場合、徒弟に求められた仕事の一つに馬の世話が含まれていた。徒弟の形態としては、親方の家に住む、「住み込み徒弟」が多いが、両親の家からの「通い徒弟」もあった。

油彩画家の工房では、徒弟は先ずカンヴァスを張る木枠を作ることを学ぶ。そして次に多くは地元で織られた1メートル足らずの細い幅の麻布、時には亜麻布を画布として、木枠に釘,鋲、紐などで固定する。次に画布に「目止め」を塗る作業がある。カンヴァスなどの支持体に「地塗り」をする作業だが、大体は徒弟に割り当てられる仕事であった。地塗りに使う塗料は白色系統が主であり、ジェッソ、ゲソ gesso と呼ばれる石膏と水、膠などを混ぜた液体である。白亜や様々な土性顔料が主成分である。

インプリマトゥーラ impurimatura 英 ともいわれる。
「印を付けること」を意味するイタリア語に由来。地塗りの上に塗って絵具の発色を良くする絵具層。「下塗り」ともいう。画布の全面あるいは部分について実施。


地塗りは作品が制作される過程で下地として隠れてしまうが、不透明なため作品の全体的な色合いに影響を与える。画家や作品によって微妙に色調などが異なっている。

ラ・トゥールがどこでいかなる画業の修業をしたかは明らかではない。しかし、当時の周辺事情からおそらく地元ヴィックで活動していた若い画家クロード・ドゴスの工房で、その一部あるいはほとんどを終えたと推定される。工房入りし、徒弟としての修業をしなかった画家もいないわけではなかったようだが、工房に蓄積された情報、技法の量は膨大であり、多くの画家は何らかの形で工房での修業に関わった。そこでの就業は体系化はされておらず、徒弟は親方の身の回りの世話、使い走りなどを含め、On-the-Job-Trainingの形で、画業に必要な知識、技能を習得しなければならなかった。

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N.B. 

 
クロード・ドゴスはヴィックに住み、活動していた。当時ドゴスは20歳くらいの若い親方だった。地域ではかなりの評判を獲得していたと思われる。彼は1607年5月に最初の徒弟フランソワ・ピアーソンFranxois Pierson (僧院長のおい)を受け入れている。1610年には司教区管轄地域の法律家の息子を受け入れている。同時に二人の徒弟を受け入れることは、ヴィックのような小さな町では、よほど大きな仕事でもないかぎりありえない。そうなると、ここでラ・ トゥールが修業した可能性は早くとも1611年以降ということになる。(推定年齢ラ・トゥール18歳)。これは当時の標準的な徒弟修業(12-14歳から開始)には遅すぎる年齢であった。ラ・ トゥールが若い時のドゴスの所で徒弟修業したとは思えない。恐らくラ・ トゥールの若い頃に、通い徒弟のような形で、短い期間、当時の画法の基本や流行などを習得したくらいではないか。そしてドゴスは1611年にはナンシーのかなり富裕な薬剤師の家から妻を娶っていた。1632年ヴィックの聖堂参事会サン・エティエンヌ教会の祭壇画を描き、300リーブルという多額な報酬を受け取っている。このことは、彼がこの地でかなりの評判の画家であったことを示している。1647年、ラ・ トゥールの息子エティエンヌは、ドゴスの姪アンネ・キャサリン・フリオと結婚している(Thuillier 2013, p.23)。
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こうした背景の下で、後世20世紀初頭(191~34年)になって再発見されたラ・トゥールの作品と経歴の探索過程は、多くの謎に包まれたものとなった。その後、数々の謎の解明に当たっては美術史家が果たした貢献は極めて大きいが、作品の解明には科学の力が大きく寄与した。

なかでも、フランス博物館科学研究・修復センターの果たした役割は極めて大きく、1972年の大回顧展以来、作品の解明に大きな貢献をしてきた。さらに1996-97年アメリカ、ワシントン国立美術館、フォトワース、キンベル美術館で開催されたラ・トゥール展の際に、当時アメリカが保有していた10点の作品について、科学的検討を実施した結果が多くの知見をもたらした。いかなる検討が行われたか、次回にその一部を紹介したい。


 Georges de La Tour AND HIS WORLD edited by Philip Conisbee, 1996, National Gallery of Art, Washington, D.C.cover

続く



Reference
エリザベト・マルタン「記憶の場としての絵画ージョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品の科学的調査」『Georges de La Tour ジョルジュ・ド・ラ・トゥール: 光と闇の世界」東京展カタログ、2005年

MELANIE GIFFORD AND OTHERS, ”Some Observations on George de La Tour’s Painting Practice” in Georges de La Tour AND HIS WORLD edited by Philip Conisbee, 1996, National Gallery of Art, Washington, D.C.

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17世紀の色:裏から見た作品(2)

2021年10月08日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋




1972年、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの大回顧展がパリ、オランジュリーで開催された。しかし、40年近くが経過した今では、当時の状況を知る人たちは、きわめて少なくなった。ブログ筆者は仕事でパリに滞在しており、幸運にもこの歴史的な展覧会を見ることができた。オランジュリーでは、当時あまり例を見ないといわれた長い行列ができていたことが印象に残っている。およそ35万人というひとりの画家の作品展としては、記録的な観客数であったといわれていた。

17世紀ヨーロッパの美術愛好者にとっては、それまで散発的に展示されていた多くの謎に満ちた画家の作品が、初めて包括的に展示されたという意味で、きわめて強い印象を残した。ブログ筆者の手元には当時のLe Monde紙の切り抜き(下段に掲示)があるが、美術欄で大きな紙面を割いて、この画期的な展覧会について記している。

「昼の作品」の発見
なかでもそれまで「夜の画家」といわれてきたこの画家について、初めて「昼の画家」としての作品が発見されたことを報じていた。今では画家の名前は知らない人でも、絵は見たことがあるという《
ダイヤのエースを持ついかさま師》が大きく取り上げられていた。あの一度見たら忘れられない顔である。

かくして、この画家の作品には「昼の絵」、「夜の絵」という区分が生まれた。この画家に魅せられ、作品を仔細に見るようになったブログ筆者は、この区分はあくまで後世の美術史家、ジャーナリズムなどの間に生まれた便宜的なものであり、画家自体がそうした区分を意識していたものではないと考えてきた。画家が意識していたとすれば、テーマが宗教的なものか、世俗的なものかのいずれかであったにすぎない。

事実、ラ・トゥールの作品を見ると、「昼の絵」といえども背景は陽の光など自然光を思わせる色は使われていない。背景には、場所を示すような具象的なものは、ほとんど何も描かれていないか、微かにしか描かれていない。この画家は主題を伝えるに不必要と思うものは徹底して描かなかった。代わりに、必要と考えるものは老人の顔の皺から髭1本に至るまで、現代の写真も及ばないと思うほどリアルに描き込んでいる。画面に余すことなく仔細に描きこんでいるフェルメールのような画家とは全く作品に対する考えが異っている。

ラ・トゥールの作品の背景は暗褐色ともいうべき不思議な色で支配されている。色には微妙な濃淡があり、あえて光源らしきものを求めると、蝋燭や燭台が描かれている場合は別として、神の光ともいわれるどこからともしれない光が差し込んでいるだけである。そこで使われている画法といえば、キアロスクーロ*1といわれる明暗の効果を、黒色系の濃淡を持って強調した特異な手法テネブリズム*2であった。ラ・トゥールの色調はカラヴァッジョとは異なるが、カラヴァッジョの影響を受けていると考えられる。イタリアとロレーヌという地域の文化的風土の違いも影響しているだろう。

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N.B.
*1 キアロスクーロ chiaroscuro (Italy)
「明暗」という意味で、画面上に光による明暗の効果を描き出す画法であり、レオナルド・ダヴィンチが創め、その後カラヴァッジョが画法として深め、カラヴァジェスティなど17世紀画家の間に広がった。実際には様々な意味で使われている美術用語だが、17世紀にはスペインのホセ・デ・リベーラ、ローマ在住のドイツ人画家アダム・エルスハイマー、さらにカラヴァッジョ、ルーベンスなどによって充実し、北方の画家、フランスのラ・トゥールなどに伝わり、様々な展開を遂げた。

*2 テネブリズム tenebrism (English)
「暗闇」の意味のイタリア語 tenebra に由来。17世紀に流行した背景を暗くし、人物など主要モティーフに光を当て、明暗を強調した絵画手法。カラヴァッジョの影響を受けたカラヴァジェスティに広く見出される。
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17世紀にあっては、画家は画材の準備から顔料の調達まですべてを自らのできる範囲内で行わねばならなかった。工房における親方、徒弟制度が形成されたのも、そうした下準備を行うためでもあった。カラヴァッジョは自らの工房を持たなかったとされ、社会的にもならず者として逸脱、放埒な人生を送ったため、いかなる形で画業の修業を行なったか定かでない。

他方、ラ・トゥールはロレーヌという戦乱、悪疫などが襲うことが多かった地域で画家としての生涯の多くを過ごした。しかし、そうした中でも工房を維持し、画業を続けた。ブログ筆者が長年にわたる探索のテーマとしてきた社会における熟練・スキルの蓄積、形成のあり方にも関わっている。

続く

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17世紀の色:裏から見た作品(1)

2021年10月02日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋



ジョルジュ・ド・ラ・トゥールという画家の作品と生涯に惹きつけられて以来、図らずも同時代の多数の画家の作品を見る機会があった。その過程で多くのことを学んだが、ブログでは到底書き尽くせない。ブログ筆者の関心が画家の作品と生涯を一体としてみたいという次元にあるので、半世紀近く見てきた画家でも次々と新たな興味が生まれる。

1972 年のパリ、オランジェリーでのラ・トゥール大回顧展を見た当時を思い起こすが、カラヴァッジョ(1571-1610)の影響を受けたのではないかとの指摘は見られたが、二人の関係についての研究も初期段階にあった。カラヴァッジョに関する研究もその後の国際カラヴァジェスティ・ムーヴメントといわれる研究の進展を思うと、昔日の感がするほどであった。日本においては、カラヴァッジョ?、ラ・トゥール?「それ誰?」といわれたほどの知名度だった。ラ・トゥール(1593-1652)にいたっては、クァンタン・ド・ラ・トゥール(La Tour, Maurice-Quentin de, 1704-88、18世紀フランスの著名なパステル・肖像画家、ルイXV世の肖像画家)と混同されていた美術史家?もおられたほどだった。ブログ筆者も経験した本当の話である。

閑話休題。
これらの画家に魅せられてからしばらくして気づいたのは、作品の背景の色であった。純然たる黒色でもなく、褐色でもない不思議な色である。黒褐色とでもいえるだろうか。

画家や作品によって、濃淡や色調の差異はあるとはいえ、気づけば画面を支配する圧倒的な色である。電灯のような人工の光がなかった時代、昼とも夜ともつかない不思議な色である。

ラ・トゥールについては、しばらくの間「夜の画家」といわれていたが、『いかさま師』や『占い師』など昼光の下での光景を描いたと思われる作品が発表され、それらは「昼の絵」と形容されるようになった。しかし、画家自身は「昼の絵」、「夜の絵」と自ら意識して区分していたわけではなく、後世の美術史家がつけた区分にすぎない。強いていえば、世俗画といえる画題の作品に「昼の絵」という形容区分がなされているにすぎない。

この暗褐色ともいえる独特の色は、17世紀に入り、カラヴァッジョあるいはの作品などに顕著に目立つようになった。現代の美術史研究書などでは、「黒色」の分類に入れられていることもあるが、純然たる黒色というわけでもない不思議な色調である。

同時代の画家でも、カラヴァッジョの影響をあまり受けていない画家、風景画や背景に多くを描き込んでいる画家の作品ではあまり感じられない。ラ・トゥールの生まれたロレーヌは、現代でも夜は灯火が少なく、闇が支配している地域が多いが、リアリズムの画家といえども闇を描くにはかなり苦労したのではないか。17世紀の闇は、神秘で不安や恐怖が支配する空間だった。

この闇、夜を描くに当時の画家たちは、いかなる思いを抱き、カンヴァスに向かったのだろう。この問題について、しばらくメモを記しておきたい。
続く



N.B.
作品の色彩に関わる問題について考えるに際しては、現代における印刷や画像技術の発展が不可欠である。作品に対面し、問題意識を持って観察しない限り、ともすれば見過ごされてしまう。

カタログ、カタログ・レゾネなどの印刷技術の貢献は、この問題を考える場合に不可欠ともいえる。現作品に頻繁に対面できる機会は、一般には極めて限られているからである。
ちなみに、筆者の手元にある1972年のラ・トゥール展のカタロクは、表紙と7点の作品だけがカラー印刷であり、その他は全てモノクローム印刷である。

Exhibition Catalogue Cover
Georges de La tour,
Orangerie des Tuileries
10 mai - 25 September 1972
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