時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ふたつの花の来し方

2019年03月31日 | 午後のティールーム


この国の国民にとって、花といえば桜である。誰もが愛し、様々な思いを重ねる桜、その開花の時を迎えた今年の春は、例年と異なり特別な感慨を与えるものだろう。ブログ筆者にとっても、いつになくこころぜわしい。ひとつの時代が終わり、新たな時代が始まるということにとどまらない。この国の未来、そして世界のあり方に様々な思いが心をよぎる。とは言っても到底、ここに書き尽くせる様なものではない。

チューリップの来し方
ここでふと、もうひとつの花のことを思い出した。以前にはしばらく記していたチューリップのことだ。年々、秋に球根を植え、春に開花するのを楽しみにしてきた。今でも相変わらず、秋には球根を植えている。植える時期、植え方、種類などによって開花のあり方が微妙に異なる。しかし、期待を裏切ることなく、春ともに地上に芽を出し花を開く。その自然の摂理にさまざまなことを考えてきた。今年は今、開花の時を迎えている。桜の開花とほとんど時を同じくしている。

「チューリップ・バブル」の真実は
チューリップというと、思い出すのはオランダであり、その黄金時代の光と陰だ。数年前に読んだいわゆる「チューリップ・バブル」に関する一冊の本*のことを思い出した。このテーマに関する書籍の数はおびただしく、一般向けのタイトルだけでもどれだけあるか、チューリップに囲まれるように住んでいる友人のオランダ人に尋ねてもよく分からないという。

「チューリップ・バブル」というと、通説では1930年代半ば、オランダ(ネーデルラント連邦共和国)の黄金時代に、当時のオスマン帝国からもたらされたチューリップの球根が異常に高騰し、そして、1637年には突如として急激に下落し、社会的な混乱と国家財政的破綻を引き起こし、世界史上初めての投機的バブルとされてきた。ある種類の球根は1932年当時の10倍くらいに高騰したとされる。この急騰・下落によって数千の投資家が破産したといわれる。結果として、オランダの商業を中心に、経済も大打撃を受けたとされ、資産価値がその内在価値を大幅に逸脱して下落し、関係筋に大きな損失を与える現象という意味で、後年比喩的にも使われるようになった。

フィクションの支配からの脱却
他方、結果としてもっともらしいが、「チューリップ・バブル」として、必ずしも実証的裏付けがない群集心理的フィクションが多数出回り、リスクが見えない愚かな騒ぎという、事実とは離れたバブル観が作り上げられてきた。このチューリップ・バブルも信頼しうる統計・資料などで理論的に論証されたものではなかった。誇張も多く実態ともかけ離れていたイメージが形成されてきた。その経緯が次第に明らかになり、出来うる限り事実に即した理解への修正がなされるようになった。ここで取り上げるアン・ゴルガーの著作*1もその方向に沿っての大変優れた作品と言える。この著作は以前にも取り上げ近い将来補足をしたいと考えていた。今回改めて読み直してみた。

ロンドン、キングズ・コレッジの初期近代史の研究者アン・ゴルガーは当時の取引資料などを広範かつ詳細に検討し、一般に伝えられる内容とは異なり、当時のチューリップの球根1株の価格は、まずまず穏当なものであり、破産に追い込まれた取引業者や投資家などの数は今日伝えられるほど多数のものではなかったようだ。こうした調査に基づき、彼女はこのチューリップの球根価格の変動はオランダの経済というよりは、当時興隆していた市民階層の生活態度、文化的価値観、彼らが熱狂したチューリップという花の美しさなど、従来通説となっていた狂乱した経済という見方を大きく書き換えて見せた。顧客が好む花の美的・芸術的側面、それを生み出すための科学的努力と模索など当時の関係者が抱いていたチューリップという花について抱いていたイメージ、市場で歓迎される花の球根の育成、市場化、取引の仕組みなどが、当時の史料に立ち返り、再構成されている。

歴史家の目
大変精緻に書き込まれ、それまで流布していたオランダ経済の大きな栄光と狂乱的破滅というイメージとは、きわめて異なったオランダ社会の文化的側面を提示している。これは、フェルメールについての作品だけに重点を置いた見方を改め、画家とその家族をめぐる制作の裏側により着実な光を当てた経済史家モンティアス*2の分析に通じるものがある。

17世紀のヨーロッパは、その先端にあったオランダのような近代的市民層の勃興によって全てが支えられていたのではなく、現代世界のように、絶えざる戦争、気象変動、飢饉、悪疫、貿易などの国際的関係、政治、宗教的衝突など、多くの要因によって揺れ動いていた。

桜と同様にチューリップの開花期間は短い。二つの花が咲き誇る様を眺めながら、しばし花と人間の関わりを考えていた。

 


References
*1 Anne Goldgar, TULIPMANIA: Money, Honor and Knowledge in the Dutch Golden Age, Chicago: The university of Chicago Press, 2007.

*2 John Michael Montias. Vermeer and His Milieu: A Web of Social History. Princeton: Princeton University Press, 1989.

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強い意志を持った女性画家:アルテミジア・ジェンティレスキ

2019年03月24日 | 絵のある部屋


一見、眼を背けたくなるような恐ろしい光景だ。二人の女性が、大きな男の首を切り落とそうとしている。とりわけ右側の女性は左手でしっかりと男の頭を押さえ、右手に握り締めた劔で、まさに男の首を切り落とす瞬間である。もう一人の女性は召使いなのだろうか、両手で男の首をしっかりと抑え込んでいる。

描いた画家は?
17世紀美術に詳しい方は、描いた画家はカラヴァッジョではないかと思われるかもしれない。当たらずとも遠からずである。宗教画とは思えないほどのリアリスティックで残酷な描写に、その点を想起されるのだろう。実はカラヴァッジョも同じ主題で制作しているのだが、リアルで残酷な描写という点ではカラヴァッジョを凌ぐほどだ。

種あかしをしよう。描いたのは、17世紀バロックのイタリア人女性画家アルテミシア・ジェンティレスキであり、カラヴァッジョの画風を継承したイタリアン・カラヴァジェスキのひとりである。

未亡人ユディットが、彼女に邪な思いを抱き、執拗に言いよるアッシリアの将軍ホロフェルネスが眠っている間に、召使いの手を借りて、敵将の首を落とすという場面である。ホロフェルネスはユディットの町ベテュリアを焼き滅ぼそうとしていた。旧約聖書にはない話だが、外典からとった主題である。

画題は:
beheding of Holofernes by Judith
Altemisia  Gentileschi
oil on canvas, 100 x 162.5cm, ca.1620
Galleria degli Uffizi, Florence 

アルテミジア・ジェンティレスキ《ホロフェルネスの首を斬るユディト》1611-12, 100 x 162.5cm, ウフィツィ美術館、フィレンツェ 

17世紀の西洋美術は、日本ではあまり知られていないことが多い。宗教画が多く、主題についての知識がないと、理解が難しいことも影響しているのだろう。しかし、その作品が描かれた背景、画家などに知るほどに、現代画では得難い時代の深み、画家の人柄、過ごした人生のさまざまなど、多くを知ることができ、しばしば離れ難くなる。ブログ筆者もその一人だ。

折しも、英誌The Economist 美術欄が、この作品と画家の過ごした人生のことを取り上げていた。最近はこの画家を主人公とした映画、劇、小説などが制作され、およそ400年近い時空を超えて、現代の出来事に共鳴するのではないかと、多くの関心を集めた。

父も娘も画家だった
アルテミジア・ジェンティレスキ(1593-1652/3)はローマに生まれた。父親オラジオ・ジェンティレスキ(1565-1639)も画家であった。二人ともいく人かの画家の影響を受けつつ、カラヴァッジョの影響を受けたカラヴァジェスキとして今日にもその名が残る。実際には、バロック風の穏やかな作品が多い。

この《ホロフェルネスの首を斬るユディト》のテーマでは、カラヴァッジョも同じ主題で制作しているが、この作品の方がはるかに迫真力がある。バロックおよびルネサンス期に好まれて描かれた主題である。ルーカス・クラーナッハ兄、ルーベンス、ティントレット、レンブラントなども描いている。この主題は女性の力と情熱を示す話として、映画、小説などでさまざまに使われることが多い。制作後、400年近くを経た今日、現代の課題に共鳴する主題として選ばれるのだろう。

当時の女性画家の多くは肖像画、静物画を描くことが多かった。それに対し、ジェンティレスキは男子と同じジャンルで競うつもりだった。そのために時にはあえて殺伐、残酷な主題にも挑戦した。彼女は女性として最初にフローレンスの画家ギルド Accademia delle Arti del Disegno の会員に認められていた。さらに巧みな交渉者でもあり、ミケランジェロの功績を称えるフレスコ画の制作に携わった協力者の5倍の報酬を受けていた。妊娠中でありながら進んで天井画の部分も制作していた。一時は父親
オラジオの作品とされてきたものも見直され、彼女の真作として今日まで残るものはおよそ60点と数十通の書簡がある。

フェミニズムとの強い関連
しかし、彼女の性格を最も如実に示すものは、1612年におけるローマでの裁判所審問記録である。審問内容は彼女が19歳の時、彼女がアゴスチノ・タッシ Agostino Tassi にレイプされたことを供述したものである。タッシ は,彼女の父親(画家)の手伝いをしていたが、娘の才能開花のために遠近画法を教えようと雇った男だった。

この事件はローマで審問にかけられたが、当時の審問は女性にとっては今では想像を絶する屈辱的で拷問のような形で実施されたようだ。それでも彼女は、なされたことは、みんな事実ですと主張し続けた。他方、タッシは起こった事実を否定するように「私は彼女を愛している」と繰り返したらしい。判決ではタッシは無罪と思われたが、短期間ローマから追放された。詳細不明だが、この裁判記録の最後のページは逸失しているようだ。他方、父親オラジオは法王に娘の受けた心身の苦痛に補償を請願していた。当時レイプは女性の権利の蹂躙、侵害ではなく、いわば財産の損傷とされ、その補償が求められていた。この事件は、アルテメシアを現代に共鳴するフェミニストの強力な主唱者として位置づけることになった。

アルテメシアは、しばしば英雄的な女性をカラヴァッジョ風の情熱的で、時に鮮烈な作品として描いた。2018年、ジェンティレスキの《アレクサンドリアの聖キャサリンにおける肖像画》を、昨年ロンドン・ナショナル・ギャラリーが取得した。これによって、同館が保有する2,300点の内、女性による21番目の作品となった。同館の学芸員 Ms. Treves は、ジェンティレスキの位置づけはタッシの暴行の犠牲者というプリズムだけを通して見るべきではないとした。最近の#MeToo時代と言われる状況でもジェンティレスキは、依然として大望を抱いた女性が自分の受けた性的横暴を克服して、今日の地位を築いたという評価になっている。その後、さまざまに論議がなされたが、今日では彼女の人生は性と権力、苦痛と復讐の寓話になっている。それでも今日、彼女は偉大な芸術家でありフェミニストのヒロインになった。

この出来事をめぐって、その後多くの映画、演劇、などが制作された。しかし、およそ400年前の女性に関わる逸話は、今日のフェミニストの考えとは、似て非なるものだとの指摘もある。さらに検討すべき課題でもある。

彼女はその後結婚し、ナポリへ移り、自らの工房を持ち、父親の住むロンドンへ旅したりし、著名な女性画家として生涯を送った。

 

References 

’This soul of a woman’, The Economist March 16th−22nd 2019

ORAZIO AND ARTEMISIA GENTILESCHI, Keith Christiansen and Judith W.Mann
exhibition catalogue “Orazio and Artemisia Gentileschi: Father and Daughter Painters in Baroque Italy,” held at the Museo del Palazzo di Venezia, Rome, October 15, 2001-January 6, 2002: The Metropolitan Museum of Art, New York, February 14-May 14, 2002, The Saint Lousi Art Museum, June 15-September 15, 2002.


 

上記カタログ・カヴァー 

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労働の消滅と来るべき未来

2019年03月19日 | 労働の新次元

「仕事の終焉」 

THE END OF WORK
The AMERICAN INTEREST
January-February 2018
cover 

 

平成」という時代が終わりを告げようとしている。これまでメディアの一面を飾ってきた社会経済現象でも盛衰が著しく、その終焉が語られる事象も様々にある。このブログに関連する分野で、今回は「仕事」と「労働組合」を取り上げてみる。

ブログ筆者は長らく「労働の世界」を体験したり観察してきたが、1980年代初めに、日米の労働組合の組織率の時系列的分析を試み、いずれの国においても、文字通り画期的な組織化努力がない限り、組合を取り囲む環境は厳しく、その衰退は不可避であることを予想した。さらに、その趨勢を支配する最大要因は、時代とともに変化する産業基盤であることに着目した。組合員数の行方は、彼らが働く産業の盛衰に基本的に依存しており、衰退産業では組合の組織化努力にも厳しい限界があることを示した。その後、他の説明変数を加えた研究なども行われたが、日米共に労働組合の衰退はブログ筆者の示した方向に進んできた。労使の関係が本質的な変化を示してから、すでに久しい。この点を簡単に見てみよう。

2018年時点で、アメリカの労働組合組織率は13.5%、協約のカヴァー率でも14.8%まで低下している(しかも、そのほとんどは公務員関係組合だ。民間部門は7%以下)。日本の場合も、2018年6月30日時点で、組合員数約1,000万人、組織率は17.0%、(内パートタイム労働者については推定8.1%)と同様に低下している。1980年当時はおよそ1,270万人の組合員、30%程度の組織率であったから、その衰退は明らかだ。推定組織率とは、国ごとに差異はあるが、概して雇用者数に占める労働組合員数の割合を意味する。いずれにせよ、この状況で組合が労働者を代表しているとは、到底言えない。労働者の考えを政治や制度改革に反映させるには、まったく新たな経路を構想しなければならない。新しい時代には、新しい器の構想が必要なのだ。この点は新たなテーマとなる。

「労働の終焉」の意味するもの
この変化と並び、しばらく前から欧米のメディアに、「労働の終焉」The End of Work, 「労働者階級の消滅」The End of the Working Class などの表題が目立つようになった。ここでいう「労働」work、「労働者階級」working classとは、概して、鉱業・製造業労働者などに典型的な肉体労働者 manual wokers を意味することが多い。今日では、長年にわたる厳しい労働の跡を掌(手のひら)などに残している労働者の姿も少なくなった。長年にわたる労働と連帯が刻みこまれた誇るべき手といえるだろう。

第二次大戦後、「階級」class という存在が希薄となった日本でも、一時は階級闘争を掲げ、新聞などメディアの一面を占めた大規模な労働争議も発生したが、1970年代半ば頃から急速に姿を消した。「争議」「ストライキ」というような文字もメディアから消えていった。最近では「官製春闘」というように、労働組合側の企画力、交渉力も劣化が著しく、存在意義すら問われている。

第4次産業革命の挑戦
労働者の実体は産業革命の変遷と相まって、大きく変貌した。その含意は様々で、ブログなどに短く記すことは容易ではないが、あえて試みると、18~19世紀にかけてヨーロッパや北アメリカで展開した「第一次産業革命」が歴史に登場する。L.S.ラウリーなどの作品に、その陰影が描きこまれている。

そして、第一次世界大戦前、1870~1914年にかけて、鉄鋼、石油、電力などを背景に、電話、電灯、写真、内燃機関などに代表される新たな発明を生んだ「第二次産業革命」の展開過程は、手短かに表現すれば、「労働の時代」でもあった。「労働者」階級の誕生とその爆発的増大、並行しての「労働組合」の拡大・隆盛の時代であった。しばしば大企業が「巨大怪獣ビヒモス」の名の下に、強大な支配力を誇った。

続いて、「ディジタル革命」ともいわれる産業と製品が生み出した経済的、社会的変化が生まれ、パーソナル・コンピューター, インターネット、関連しての情報通信技術が機動力となっている「第三次産業革命」が、進歩の段階を深めてきた。そして、ディジタル革命が社会全般、そして医療などを媒介して人体の改造にまでつながる「第四次産業革命」の入り口に差しかかっている。その範囲はロボティックス、AI (人工知能),ナノテクノロジー、生化学、3Dプリンティング、車両などの自動運転など広範に渡り、すでにかなりの程度実用化している。

この長い変化の過程で、労働者階級は産業革命とともに生まれ、多くの変化を経て、いま衰退の危機を迎えている。長く「煙突産業」(製造業)を支えてきた労働者の分厚い掌、強靭な肉体に象徴されるような仕事は、今日の社会を動かしている多くの産業では、中心的存在ではなくなってきた。彼らは少数派になりつつあるが、この社会を自らの手で築いてきたという連帯感と誇りを支えてきた。

代わってさまざまなサービス労働者、IT関連労働者が増加したが、彼らの間には第二次産業革命以後に見られたような労働者としての連帯性も薄れ、代わって各種のロボティックス、AIなどとの領域での仕事の争奪が進行している。

「分解する」労働者階級
このように産業の盛衰も激しいが、労働者の世界も大きく変わった。肉体労働者の比重も減少したが、それとともに労働者の世界も多様な形に分解・分裂してきた。主として頭脳で働く労働者と肉体を使い働く労働者の間には越えがたい一線が生まれ、さらに両者共に多様に分解してきた。この過程は今や最終プロセスに入っている。そして、待ち受けるのは肉体的、ディジタル、生物学的特徴でさまざまに多様化した新たな仕事の世界である。

このところ、ブログ筆者のタイム・マシンもかなり忙しく時空をさまよってきた。飛行を止める時も遠くないことを意識するようになった。第一次、そして第二次産業革命の初期については、L.S.ラウリーが描いたようなイメージが残っている。しかし、その後の産業と働く社会の世界像はかなり複雑で予想の域を出ていない。これからの時代を生きる若い世代には、しばしスマホの狭い画面を離れ、来るべき世界がいかなるものになるか、目を凝らすことをおすすめしたい。チャンスもあるが、リスクも大きなこれまで以上に難しい時代が待ち受けていることは確かだからだ。

  

工業の盛衰と共に生きた人々を描いた画家
L.S.ラウリーの世界 

Judith Sandlling and Mike Leber
LOWRY'S CITY
Lowry Press, 2000   civer  

 

 

 

References
Brink Lindsey, ’The End of Work’, The American Interest, Winter 2018Richard Baldwin, The Global Ipheaval, oxford University Press, 2019

桑原靖夫「労働組合の産業的基盤:日米労働組合の組織率分析」『日本労働協会雑誌』1981年11月
________.『労使の関係』放送大学テキスト, 1995年

 

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絵の裏が面白いラ・トゥール(6):「バロック」の流れに抗した「ゴシック」画家

2019年03月07日 | ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの部屋

 

George de La Tour - Dice players -   c.1651, oil on canvas
92.5 x 130.5 cm
Preston Hall Museum, Stockton-on-Tees, Cleveland, UK
bequeathed by Annie Elizabeth Clephan, ca.1630

ジョルジュ・ド・ラトゥール《ダイス・プレーヤー》ca. 1651、油彩・カンヴァス、プレストン美術館(ストックトン)

 

この作品、見覚えのある方がおられるだろうか。本ブログを訪れてくださる方は、ジョルジュ・ド・ラ・トゥール (1593-1652)の最晩年の作といわれる《聖ペテロの否認》にきわめて似ていることに気づかれるだろう。そうであれば慧眼の方である。

聖ペテロの否認》の場合は、画面左側にペテロと女性の姿が描かれている。他方、この作品には、ほとんど宗教的含意や暗喩は見出されない。胴衣のようなものを身につけた若者が蝋燭の光の下で、ダイスプレー(サイコロ遊び)をしており、それを右側の若い女性が覗き込んでいる。左側のやや年上の男はタバコを吸いながら、視線はとりたてて盤上の帰趨を見ているというわけでもない。どうも右端の女性に向けられているようだ。

しかし、上半身だけが画面に現れるこの女性の表情は、なんとなくこの場にそぐわない。もしかすると《いかさま師》に描かれている悪事に加担するジプシーの美女の一人なのか。若者たちの服装は戦塵に汚れた着衣というわけではなく、当時の流行の衣装のように見える。貴族の子弟たちが、宮殿などの一室でダイス・プレーを楽しんでいる光景を描いたかのようだ。彼らの胴着や容貌もなんとなくラ・トゥールの独断場であったリアリズムとは距離を置いた類型化が感じられる。現代のゲームの一場面と置き換えてもおかしくない。しかし、《いかさま師》のようなごまかしや教訓が込められた作品とは異なり、ダイス・ゲーム自体が主題であるようだ。しかし、別の読み方があるかもしれない。ここがこの画家の興味ふかい点でもある。


この作品がラ・トゥールに帰属すとるとなると、なんとなく全体の印象が、他の作品とは異なったモダーンな感を受ける。光の当たった部分と影の部分が絶妙な光のコントラストを示す。

ちなみにジョルジュ・ド・ラトゥールの現在まで残る50点余の数少ない作品で、イギリスの美術館あるいは個人の所蔵として残るものはきわめて少ない。強いて数えれば、この《ダイス・プレーヤー》の他、《聖歌隊の少年》、《乞食》などにすぎない。そしていずれもラ・トゥールに関連するとしても、ただちに真作とは評価されず、画家の工房作あるいはジョルジュの息子エティエンヌ作などの評価がついていることが多い。近年、《聖歌隊の少年》などは真作との評価がほぼ定まったようだ。ちなみに、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品で、署名あるいは年記があるものはきわめて少ない。

こうしたことも反映してか、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの作品は真贋論争の対象になることが多かった。その中でこの作品はやや異質な感を受ける。批評家によっては、ラ・トゥールの作品かもしれないが、晩年の作品であり、しかも画風に「退行現象」が見られると評するものもいる。要するにこの画家に期待されている高い水準に達していないのではないかという指摘である。

確かに最晩年の作品とされる《聖ペテロの否認》についても、その点が指摘されており、ラ・トゥールの作品であるにしても、後期の工房作ではないかとの評もある。その理由としてあげられるのは、主題の評価において迫力が不足している、描かれた対象に一体感、緊迫感が足りないなどの諸点である。

この点の評価は難しい。いかに優れた芸術家といえども、その全作品が優れた出来栄えであるとはいえない。見る人によって凡作に類する作品も当然ある。さらにラ・トゥールがこの主題で制作活動を行なった時期は、もしかすると画家が新たなイメージによる画風の活性化を図った試作の一枚とも考えられる。当時の顧客の嗜好に合わせた作品を模索していた可能性もある。この作品を見られた方は、いかなる評価をされるだろうか。

 さらに、画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは、美術史上の流れでは「バロック」の画家として位置づけられることが多い。しかし、ブログ筆者はこの画家と作品に魅せられてから、そうした評価に強い違和感を覚えてきた。ロレーヌの地を巡って見た多数のゴシックの教会などを見て、その感を強くした。この点については、時が許せば記してみたいこともある。日本におけるラ・トゥール研究の先駆者田中英道氏もフランス・ゴシックの源流として、同様な指摘をされている

16世紀末まで、フランスのルネサンスは文学、思想、芸術、建築などの諸分野で新たな次元への展開を見せるともに、ルネサンスは終末を迎えつつあった。ルネサンスと同様にフランスにおける新たな次元は、当初イタリアにおける文化的開花に即発されたものだった。イタリアでは先駆的な芸術家たちはハイ・ルネサンス美術の自然主義の流れから、最初はマネリズムとして知られる様式へと移行していた。

そして、16世紀末から、次の世紀にかけてバロック・スタイルとして知られる溢れるような古典主義へと移って行った。バロックはルネサンス古典主義からの断絶ではなかった。むしろ発展であった。バロックは新しい古典主義の一つの段階だった。

他方、ゴシックは「野蛮なゴート人の美術」という悪口に由来し、13-14世紀の西欧中世の美術様式であった。フランスやドるイツでは16世紀初頭も残存していた。15世紀のネーデルラント美術は、北方ルネサンス美術に分類されるが、実態は後期ゴシックとも言える。ラ・トゥールはバロックの圧倒的な流れの中で、それに抗しながら生きたゴシック画家だった。

 

田中英道「30年戦争の時代に闇を描いたラ・トゥール」『美術の窓』2005年3月

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