多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

伯父の口癖

2017-08-14 05:44:18 | 思い出
私の 伯父は、招集され 出征し、戦いを終えて


終戦後 帰国した。


戦争について、また 自身の体験について 


あまり語りはしなかったが、


戦場で何より辛かったのは「飢え」だったと


伯母には 話していたそうだ。


「食うものがないほど 辛い事はない。俺は


もう あんな思いはしたくない。」といい、


「死ぬ前には 腹いっぱい飯食って、それから死ぬんだ」と


言っていたそうだ。



伯父は 私が 正月や盆に 遊びに行くと


あれこれ もてなしてくれた。


私の きょうだいや いとこたちは それぞれ好きに遊んでいたが、


一人で いる事が多かった私を 伯父は気にかけてくれ、


食の細いやせっぽちの 私に 何か食べさせようと


してくれた。私の 好物が 「とうもろこし」だとわかると、


畑に たくさんの「とうもろこし」を作り、そこに ロープを張って、


「ここが おまえの場所だから、食いたくなったらいつでも もいで、


おばあや お前の母ちゃんに言って 茹でてもらって食え。」と


言ってくれた。私は 伯父の家で 毎年 好きなだけ 好きな時に


とうもろこしを食べて、至福の時をすごした。


伯父は、その後 数年して、事故で 亡くなったが、


事故に遭う数時間前に、伯母たちが お茶を飲んでいると顔を出し、


普段は 食べないものを「俺も 食うか」と 手を出し、


その後も いつもは 食事をしない時間に


「今日は 今食ってから 行く」といい、


伯母は 不思議に思いながらも 支度をしたそうだ。


伯父が 亡くなってから、


「父ちゃんは 腹いっぱい飯くってから 死ぬ、っていつも言ってたが、


そのとおり 腹いっぱい食って あの世行ったから、それだけはできてよかった」と


伯母は 言っていたそうだ。


戦場で、色んなことが あっただろうが、なにより辛かった「飢え」。


伯父は 体が 丈夫だったから なんとか帰国できたが、


異国の地で 亡くなった人、


飢えで 栄養失調になり、帰る体力も無くなり、戻れなかった人、


おそらく故郷へ向かう船の中で 亡くなった方もいたのだろうと思う。


お盆に お供え膳を 作る度、こうして亡くなっていった方が、


伯父だけではない事を 思う。戦争だけでなく、飢饉や、災害等で


食べるものがなく、命を失っていった多くの人を偲び、


今 私たち家族が、毎日の 糧を得て 生活できることに


感謝し、今も世界のあちこちで 飢えに苦しむ人が 多くいる事を


忘れないでいたい。


日本で 廃棄される食料の量が、計算上は 今飢えている世界の人々を 養うのに


十分な量だという。私は 高校の時、世界史の先生から


同じことを聞いた。


「お前らが 捨ててる食べ残し、お前らの家の冷蔵庫で腐って捨ててるものを


そのまま 世界に 送ることができてたら、飢えて死ぬ人が どれだけ減るか。


飢えて死んだ人が、お前らの家で捨ててる食い物見たら、


(あれを 捨てずに 私らにくれてたら 死なずにすんだのに)と思うぞ。」


飢え、というものと無縁な 同級生たちは、みなきょとんとしていた。


明日食べるものがないかもしれない、という経験、


今 これを食べてしまったら、もう 次の食べ物はない、という


経験をした事がないのだから、無理もないだろう。


その頃 我が家の経済も 安定し、私は高校に通う事ができていたのだが、


持参する弁当は、同級生の中で 一番粗末な物だった。


時には そのことを からかわれたりもした。


今日食べるものがある幸せ。それに比べたら 貧相な弁当であれ、


食べられる事に感謝しかない。からかう同級生を 哀れにも思った。


今日食べるものが ある事、明日の食料の確保に走り回らなくていい事。


それが ただただ ありがたく、家族で 食卓を囲めることに感謝である。


















 



餓死(うえじに)した英霊たち
藤原 彰
青木書店
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