多病息災発達障害者こよりの日常

両手で数えきれない障害と持病を抱えつつ毎日元気に活動中。発達障害の息子たちの子育ても終え、悠々自適の毎日です。

親も子も「卒母」目標で

2018-06-24 07:37:51 | 修業について
「猫本」や「自閉っ子のための道徳入門」を読んでいただいた方は


ご存知だろうが、わが家の育児目標は


「親は子の自立」をめざし、「子は親からの自立」である。


親子で 同じ家に住んではいるが、お互い「大人同士」であるから、


気楽なお付き合いである。


むしろ 年齢を重ね、「老いては子に従え」世代になった私達親を、


子ども達が 支えてくれている状態である。


親にできる事は、固定電話に掛かってきた電話の取り次ぎや、


子ども宛ての郵便や荷物の受け取り、各種支払や振り込みの代行、



「明日は ポークビーンズ作るから トマトの熟したのか、


トマト缶買っとけ」という お使い位である。


夫は おやじタクシーとして 当てにされ、子ども達は


「おやじ運転手」さんには、それなりの代価を払っているようである。


先日 とある方が 私のうわさを聞いて、


他の方を通じて ちょっとお話をしたが、


「発達障害の子の自立は難しい」と思っていらした方で、


実際その方の周囲には 自立や「卒母」ということは無縁の状態のケースが


多いという。


自閉っ子が社会人として また成人男性として 仕事も余暇も楽しんでいる事や、


不登校経験のある兄ちゃんが、その後自分で活動し、


バイトから 正社員になり、職場でそれなりのポジションにいる事も


大きな驚きだったらしい。


「知的障害のある子=家族や専門家・支援者のサポートが必要」


「不登校やひきこもり経験のある子=カウンセラーや医師のサポートが不可欠」


という公式(?)にあてはまらない事が 信じられなかったらしい。


知的障害のある自閉症の子は なかなか社会参加が難しいし、


知的問題がなくとも 発達障害の子、しかも不登校経験のある子は


また難しいケースだと おっしゃっていて、


「知的障害があると難しい、知的障害がなくても難しい、って結局


全部難しいのか~」と


自分の子を自分の思いの向くまま


「がさつ、ぐうたら、ずぼら」をモットーに過ごしてきた私には


よくわからない世界であった。


今日も 自閉っ子は 出勤。日曜は人が足りないので、


自閉っ子は 「シフト入れる?」と 当てにされると


喜々としてでかけていく。夫は「あいつは仕事か~」と


つまらなさそうである。


兄ちゃんも 忙しく、今日は休みだが


正社員になってからは 週休1日の状態で、有給も滅多に取らない。


「やる事と やりたい事が 職場にはいくらでもある」そうなので、


毎日 頑張っているのがわかる。今日は兄ちゃんは休みという事で、


ゆっくり一日を 過ごし、明日また 元気に出かけていくと思う。


自閉っ子の会社は 大阪にもあり、社員役員で大阪へ行っている人も


いて、自閉っ子が会社でする仕事量も 自然と多くなっている。


いつもは 帰宅しても元気な自閉っ子も、最近は帰宅後は休息を取り、


翌日に備えている様子。一晩寝て、翌日は元気に バス停まで


ダッシュしていく姿で、「あ、疲れは残ってないな」というのがわかる。


大阪に出向いてお助けする事はできないけれど、自閉っ子や兄ちゃんは


自分達が その分働く事で、私はささやかな額でも募金や義援金という形で


ほんの少しでも お役に立ちたいと思います。







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支援につながらない事のメリットその3

2018-06-21 19:56:26 | 発達凸凹
わが家の子ども達が 発達凸凹だという事を、


園や 学校には伝えた。


発達凸凹の子どもや大人に対して、


「こういう人たちには 特別な才能がある」と主張する人がいる。


子ども達が 何かで 表彰されたりすると、


何人かの人が「この才能を活かした道に進んでは」と言った。


確かに ある点で、他の子ども達より優れている事もあったが、


たまたま その場面で「優秀」と言われただけで、


どこに出しても 誰が見ても 「優秀」という評価が得られる保証はない。


仮に才能があったとしても、それを職業にしていくには、


その才能以外のスキルもないと無理である。


まあ 子ども達自身がその判断をしていくだろうと


私は思っていた。


長男は 自分の好きな事を仕事にできたらいい、と


思った時期があり、専門学校の見学に行った。


しかし そこには自分と同じレベルの学生が わんさかいて、


その中では自分は「並あるいはそれ以下」でしかないと


悟った。試験の後 入学できたとしても、


好きな事以外も みっちり勉強しなければならない。


卒業できたとしても、好きな道に進める保証はない。


自分の周囲の人が「素晴らしい」と言っても、


世間には そのぐらいの人は 山ほどいると


知った事は 良かったと思う。


「好きな事は 趣味として 楽しんで、仕事は別として


考えていく」という結論を出した。今の会社にバイトとして入り、


その後 正社員にならないかと言われ、その後は実績を認められ、


待遇に満足しているようだ。



次男も 好きな職業は あったのだが、


何度も実習を受け、そこで 自分の長所や短所、


その企業で自分が採用されない理由などが


わかるにつれて、「OOが好きです」だけでは


採用されない事を実感していった。


最終的には「自分ができる事」は何か、を


企業にアピールして 今の会社に入社した。


「才能を活かすべきだ」方式で 全員がうまくいく事はない。


好きな事を任せてもらうまでには、したくない他の事もしなければならないし、


好きな事を任せてもらえたところで、実績や収益が上がらなければ


続けさせてはもらえないだろう。


自分で起業するには 資本もいる。


「君は OOが得意だから、それを活かしていきなさい」という言葉は


悪気なく発せられるものだろうが、その結果がどうなろうが


その人が責任を取ってくれるわけではない。


様々な人の意見を聞くのはいいけれど、


最終的には 自分で選んで リスクも自分で負う覚悟で


自分の道は決めていくものだと思う。
















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支援につながらない事のメリットその2

2018-06-17 16:29:29 | 修業について
子ども達に 診断がついた事で、医療に頼る意味がほぼ無くなった。


発達外来は いつ行っても 混んでいて


予約していても 最長3時間待ちという事があった。


たまに 受診するだけで、我が家は2人合わせて


数分で診察終了であるが、他の患者さんは 様々なお話があるらしく、


30分、時には1時間くらい診察室から出てこない時もあった。


兄ちゃんは 特に 目立つ障害ではなかったので、


診察自体あまり好まなかった。


自閉っ子も 最初の受診前の数年で、


私が「このまま育って 10年後もこのままだったら困る」と


思った事を 修行(訓練のような意味だと思ってください)で


一つ一つ消していったので、パニックも 自傷行為も消えていて、


苦手だった 乗り物にも 乗れるようになっていた。


病院に 行くのは 医師の診断書が必要な時と、


知能検査をする時がほとんどだった。


園や学校から 参考にしたいからと 言われた事もあったし、


進路の 節目節目で 学校に説明するには 「医師の診断書」は


親の説明や 考えや 目の前の子どもの様子より(!)


役に立つ場面があり、そのことに びっくりした。


私が子育てをした頃には、まだ 放課後デイなどの言葉は


聞いた事がなかった。あったとしても 受け入れるお子さんの


状態によって、何か規定があったのだろうと思う。


私は 仕事と 介護と 家事 育児をしつつ、


合い間に 子ども達と 遊ぶのを楽しみにしていた。


車で移動中に、見つけた標識や 看板の文字を教えたり、


洗濯物を 入れる時も、かごを いくつか用意して


親子で、あるいは きょうだいで競争して


かごの中に取り込んだ。


たくさん入れた人が勝ち、という日もあれば、


自分の 服を見分けて入れた人が 勝ちという日もあった。


弱視で 体が小さくハンディのある自閉っ子は、ある時


自分のシーツを必死にひっぱり、カゴに入れて「いちばん!」と


嬉しそうに笑った。シーツ一枚でカゴはいっぱいで、自分の物を見分けた事で


加点が付き、兄ちゃんを上回って 文句なしの「いちばん」である。


療育施設では 何をするのか 私には わからないが、


こうして 数分で 親子・きょうだいで できる事を


毎日 積み重ねて行く事は、子ども達の 体作りにいい影響があったと思う。


おやつを食べる時も、一個だったものが 分けた瞬間に 数では 「2」になる。


しかし 大きさは 「半分」である。これは 自閉っ子には 言葉で教えるより


生活の中で 回数を重ねるのがいいと思い、不公平な分け方になっても、


本人が 「おかしい」と気づくまで 見守っていた。


プラスチックのコップは 落としても割れないけれど、


ガラスや マグカップは 割れる事、


紙コップは 割れないけれど、つかむ力加減で


落とさなくても 中身が こぼれてしまう事、などを


日常の中で 体験させた。


大好きなチョコレートも、


包み紙にくるんだ物を 指で取り出すにはどうするのか


自分で やらせた。それができるようになったら、


丸い粒の チョコレートを 出し、指でつぶさないようにする


力加減を 覚えさせた。


積み木や ブロックなど 固さが同じもので 遊ばせていたら、


こういう事を 覚えるのには また別の時間が必要だったかもしれない。


私でしか 扱えない、手のかかる子から、まず 父親や他の家族と関われる事を


目標にし、物を見る事、見た物と自分の距離感を理解できるようにする事、


そして 見た物を きちんとつかんで持てるようにする事を


目標にした。


目と手の協調ができないままで、手に持ったクレヨンで絵を描く事は不可能だし、


鉛筆で 文字を書くことも不可能ではないか、と私は思った。


療育機関の人は 専門家には 違いないが、


わが家の子ども達が 育ってきた環境を 生で見たわけではない。


発達のどこに欠けがあるのかは わかっても、そこに到達するまでの


道のりは 説明しても 全部は理解できないだろう。


自閉症の療育で よく聞く「絵カード」は、私は 使わなかった。


カードは いくら厚いものでも、不器用なうちの子には持ちにくい。


扱いに苦労する道具を使い、他の事を教えるのは難しいだろうと思った。


何を 教えるにしても、その子に扱いやすい物を使った。


弱視の自閉っ子には、白地に 絵や文字が 描かれたカードは


判別がしにくい。


私は ペットボトルの蓋を 集めて、まずは その一つ一つの色や


書かれたデザインの違いを見せて 遊ばせた。


自閉っ子は 自分が好きな お茶や ジュースの蓋を集めて


喜んで遊んだ。神経衰弱のように、裏返しにして 二つ取り、


同じだったら 蓋をもらう。たくさん集めた方が勝ち、というのも


した。それに 飽きた頃に、蓋に丸いシールを張り、文字や


数字を書き、遊ばせた。無理に教えず、様々な形の模様があるなあ、という


段階から 出発した。


小学校入学時までに、覚えた文字は アルファベットの「H」と数字の「2」の二つである。


この「二つしか」覚えられないのか、と思う方もいるだろうが、


私は 満足していた。自閉っ子は 診断した医師に、「一生文字の読み書きはできない」と


言われていた。


しかし 二つとはいえ、文字の違いが わかるようになっていた。


しかも「H」は 線二本を 線一本出つないだ形であり、「2」は


カーブした曲線の最後が まっすぐな線で終わる形である。


「まっすぐ」と「曲線」が 完全ではないにしても 理解でき、


見分ける力がついた事で、私は自閉っ子は この先もっと多くの文字を


見分けるだろうし、時間をかければ 書くこともできるようになるだろう、という


事を 確信した。


他にも 多くの課題が 自閉っ子にも


兄ちゃんにも あったけれど、私は どちらの子の将来も


あきらめてはいなかった。


知的に高い兄ちゃんでも、自閉っ子に及ばない点があったし、


もちろん その逆もあった。


どちらの子も いい面があり、出来ない事もあったけれど、


できない部分は助けつつ伸ばしてやり、最低限の身辺自立や


家事、あいさつをはじめとする会話、公共の場でのマナー、


そうした事を マスターできたら、それぞれ自分で好きな道を選んで


生きていってくれたら、というのが 私の思いだった。


療育機関も病院の医師も、一生付き合うわけではないし、


この子たちの 行く末に責任を持ってくれるわけではない。


私が いなくなっても生きていけるようにしておきたい、というのが


私の 一番の願いだった。


私が 数日家を空けても、他の家族と 落ち着いて過ごせ、


食事をし、夜は 眠る。


子ども達の睡眠障害が 治るまでには 数年を要したけれど、


いきなり寝かせようと力まずに、心身の他の部分から


整えていったことが 結局は 早道だったと思う。

 








発達障害、治るが勝ち! 自分の生き方を自分で決めたい人たちへ
クリエーター情報なし
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支援につながらない事のメリットその1

2018-06-17 13:07:08 | 支援・制度
私も、息子達も 発達障害である。


私が 自分の障害に気がついたのは、幼稚園に入った頃である。


周囲の子どもは 先生の言った言葉にさっ、と反応して動くのだが、


私は 言葉は理解できても、自分が何をしたらいいのかが


わからなかった。文字を読むのは好きだったので、


あれこれ読むうちに レオ・カナーや ハンス・アスペルガーの名を知った。


12歳の頃である。


自分が 自閉症と呼ばれる子どもの行動パターンにかなり似ている事、


アスペルガーが 「自閉症の子どもに似てはいるが、知的障害が無いタイプ」と


定義した群に 自分が当てはまるのではないかと 思い、


家庭や 園や学校、そして社会で 適応しがたい理由がわかった気がした。


高校卒業後、就職し、結婚し、子どもを授かったが、


子ども達の 行動を見ていて、「発達障害ではないか」という気がした。


しかし 医師や 保健師や その他の人は、「お母さんの気にしすぎ」と


一様にいい、相手にしてもらえなかった。


次男は 生後すぐから こだわりが強く、泣き出すと止まらなくなり、


ついには 息ができなくなり 顔色が青ざめていく。


何とか呼吸をさせようと、背中を叩いたり、あれこれするうちに


そのうち息を吹き返し、顔に血の気がもどるのだが、


小児科医は「泣き入りひきつけ」ですねえ、と言うだけで終わりだった。


ドクターショッピングをする時間も余裕もなかったので、


自分で工夫しながら 子ども達それぞれに合わせた(と勝手に決めた)方法で


育てていった。


下の子が就学の時期を迎える前に、診断はしておきたいと思い、


病院を訪ねたが、やはり「気にしすぎ」で終わりである。


実に楽な商売だなあ、と呆れて帰った。


その後 小児発達外来のある病院に電話を掛けたが、


「紹介状を持って、予約を入れて下さい」である。


近所の小児科が 「気にしすぎ」しか言わないハンコ医者だから


お宅にかかりたいんだけど、と オブラートに包みながら


延々電話をするうちに、電話の回線がつながらない事で


病院も困ったのか、兄弟二人で 紹介状なしで 予約をしてもらえた。


結果は 自閉っ子は その日に「知的障害を伴う自閉症」と診断がつき、


兄ちゃんの方は「検査をしてから 診断を出します」と言われ、


検査の結果 発達障害の診断が下りた。


検査の担当者や 医師からは 「なんとか教室」だの


「言葉のなんたら」とかに 参加してはと 言われたが、


暇もないし、お断りして帰ってきた。


実際 乗り物に乗るとパニックを起こしていた自閉っ子に


乗り物に乗る意味を 言葉でなく 感覚で覚えさせ、


病院に行く意味も 本人に納得させて 連れていくまで


私が 家で 教え込んだのだから、よそのなんとか教室に行く理由はないと思った。


(続)


 

発達障害者支援法は誰を救ったか? 電子版
浅見淳子
花風社

お子さんを発達させたくないというご家庭の存在

2018-06-04 21:27:41 | 支援・制度
発達凸凹のお子さんと、色んな場所で知り合いました。


その中には 親子ともども お付き合いを続けている方も 


何人か いらっしゃいます。


この春も、就職なさったとか、進学なさったとか、うれしいお知らせを


いくつも聞きました。


しかし、傍目には「いいお知らせ」にしか 思えない事も、


親御さんによっては「悩み」になっている事も知りました。


知的にも伸び、体力もつき、成長されたお子さんが


就職されたとの事で、いいお話だなあと思っていましたが、


ご家庭では それがお悩みの元なのだそうです。


お子さんが 発達凸凹ゆえに 困っていたことを


ご自分で クリアし、自分で望んだ企業に就職した事で、


今まで受けていた福祉サービスのうち、受けられないものが出てくるとか。


一般企業の正社員として採用されたそうなので、それだけ能力があれば、


福祉サービスの対象から外れるものがあっても当たり前なので、


それはむしろ喜ばしい事なのでは、と思いましたが、


長い間 「福祉の枠の中で暮らす」ことを念頭に育ててきた


親御さんには、気持ちの切り替えが難しいのでしょうか。


お子さんが立派に成長した事が、悩みというのは、私には


理解不可能です。

















発達障害、治るが勝ち! 自分の生き方を自分で決めたい人たちへ
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