「教養は死んだか」(PHP新書・加地伸行著)という本を読み始めています。”はじめに”の冒頭から興味ある話が始まっております。
私も以前から感じていたのですが、日本と中国では「あの人は教養がある」という言い方の意味合いについて微妙な違いがあるように思えました。
この本によると、日本においての「教養」とは<知識的>な意味合いを示していて、茶華道や神社参拝など日常から離れた<作法>や毛筆で書をたしなめるなど<伝統的技術>なども含むのだそうです。
これに対して中国のいう「教養」は<人格的>で(道徳的に立派な人)という意味合いなのだそうです。「教養」というのは「教え育てる」ことで、知識の習得とともに<しつける>ということが重視されます。「教養のある人」は最大の賛美なのですが、すぐれた人徳をも持ち合わせた人はそう多くはいませんので、安易に使える言葉ではないようです。
知識量の多さを示す日本的な意味合いの「教養」は「博学」というのだそうです。本来、知識を習得することによって人格も形成されていくものでしたが、知識形成と人格形成が別途のものとなってしまったのが昨今です。
東北アジアにおいて知識とは儒教などの古典知識を意味していたそうですが、言われてみると面白い分岐点を思い出しました。江戸時代後期に日本では新井白石や本居宣長らが儒教の陽明学や朱子学について学び、どちらがすぐれているか論議をしておりました。日本では儒教ではなく儒学になり、武家人たちの「知識」になったのですが、大陸や半島では儒教(確か朱子学の方だったと思います)として生活に深く入り込んでしまったがために、押し寄せる西洋化の波に乗り遅れたという皮肉な結果と、19世紀から20世紀にかけての混乱に巻き込まれていきます。
時代の分岐点では「教養」を「知識」の枠にとどめていた日本は幸いしたのですが、人と同様、国も成長するとともに人格を問われるようになります。蓄えた知識(あるいは経済)をどう使うか問われるようになったのは成長の証でしょう。
今日的な「知識」に関しては圧倒的に情報量に差のある日本と中国関係ですが、情報を選び思考し咀嚼することが重要なので、感覚や感性が問われます。
知識と人格が見事に分離してしまった日本ですが、人格について評価のものさしがないことが今のシステムになじめないところでしょう。知識は言葉なくしてありえません。物を思考することも言葉で思考しなければなりません。すぐれた理論をうちたてようとしても言葉が違えば伝えることさえできません。対して人格は言葉にあらわせないものですから、立居振舞などで感じ取ってもらえるものです。外国との異文化コミュニケーションは人格のぶつかりあいです。信頼は実はあいまいなもので、人柄と人柄に芽生えるのであって、紙の上に書けるような約束ではありません。誰しもそのあいまいなもののために努力していることだろうと思います。
学ぶことよりも学んだことを暮らしに繁栄させたり、自分を育めるように心がけてはいるのですが、脂肪となって腹の周りにまとわりついて役に立たないのが現状です。
私事の予断となりますが、この本の中で「仰げば尊し」の歌詞について触れています。2番の歌詞に「身を立て、名をあげ、やよ、はげめよ」について、この歌詞は「立身・揚名」という「考経」の一節から用いた言葉だと説いています。(立身行道、揚名於後世、以顕父母、考之終也)「身を立つるには道を行い、名を後世に揚げ、以って父母を顕すには、考の終わりなり」。「立身」というのは出世することではなく「立派な人間に磨き上げる」ことなのだそうです。
磨き上げてすぐれた人格を育み、後世に名を残すような人間となっても、父母をいたわり敬うことが「考」のもっとも大切なことです。と、私なりに解釈しています。
小学生の頃卒業式の練習で「やよ、はげめよ」のフレーズを「嫌よ、禿げるの」と替え歌にして、ぶん殴られたことがあります。そのときの先生に、「先生の恩など忘れてもかまわないが、この言葉がこの歌の中で一番大切なのだ。」と、散々怒られました。なるほど確かにそうだとこの歳になってわかりましたが、仰げば尊い人はすでに墓の中に入ってしまっており、誉めてもらうこともできません。