塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

マラドーナという真の天才を思う

2016-05-04 01:16:44 | 日記
 サッカーに限らず「天才」と讃えられる人物がいます。

 僕が思うサッカーにおける天才の概念は

 「その天才がいたからこそ、新しい戦術が生まれた」
 「その選手がいなければ、サッカー自体すごく退屈していただろう」

 というものです。

 コカインや脱税など問題をいくつか起こしたことは事実ですが、改めてマラドーナは凄いと思いますね。

 彼がいたからこそ、アリゴ・サッキはゾーン・プレスを生み出し、

 「南部が北部のお荷物」
 「彼らはもはやアフリカ」

 を侮蔑され続けたナポリに、自信と誇りを与えたことだけでも、マラドーナの価値がわかります。

 マラドーナがいなければ、戦術の潮流は変わっていたでしょうし、ナポリもアルゼンチンも、優勝には程遠い出来栄えだったでしょう。

 代表ならばバルダーノやゴイコチェア
 クラブならばフェラーラやアレマン、カレカ

 マラドーナがいなければ主役だったに違いない彼らも、マラドーナの前では兜を脱ぎ

 「マラドーナがすべてを解決してくれる」

 と脇役に徹したこと。

 これも大きかったと言えます。

 マラドーナがペレに敏感なのは、天才は天才を知るではありませんが、ペレに自分の面影を感じるためではないでしょうか?

 もし僕の考えが正しいのであれば、メッシはマラドーナの領域に達してはいません。

 マラドーナがメッシを溺愛しているのは、彼が自分以外で初めて認めた存在だから、というほかに、自分の領域に達していないことを感じているためのように思います。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« なでしこリーグが、女性の社... | トップ | 2016年日本代表公式スー... »

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事