塚田盛彦のつれづれなるままにサッカー

世界中で親しまれているサッカー。このサッカーをフィルターとして、人間社会の構造に迫っていきたいと思います。

今日は小雨模様の天気でした。

2009-09-30 23:16:40 | 日記
 僕の住まいは長野にあるのですが、昨日と今日は小雨模様で、いささか肌寒い天気でした。皆さんもそろそろ秋の支度をはじめているのでしょうね。明日は衣替えですし。
 サッカー観戦の際、雨は本当に困ってしまいます。スタジアムに着いたとき、雨がひどくなっているのかどうか、様々な予測をたてて準備をしますが、出発前からひどい雨模様の時は、観戦自体をあきらめてしまうこともあります。
 夏場の場合、ひどい暑さと熱中症や日焼けの心配もありますが、雨に比べたらまだましかな。そう思います。少なくとも雨で視界が遮られる心配はありませんからね。まあ僕が寒がりということもありますが、雨よりはおひさまの下で、観戦したいですよね。
 
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憎らしいほど強かった90年代のACミラン

2009-09-29 23:17:46 | 日記
 「ターンオーバー」という概念は、90年代前半のミランが生み出したものです。現イタリア首相のベルルスコーニ氏が、ミランのオーナーであることは有名ですが、彼の大号令のもと、国内リーグの優勝と当時まだチャンピオンズカップと呼ばれた、今のチャンピオンズリーグを手中におさめるため、カップ戦のための11人と、セリエA用の11人と区分けし、選手の体力と集中力を温存しようとしたのです。
 今も過密日程は大きな問題ですが、当時のミランはゾーンプレスという、更に体力と集中力を必要とする戦術を取り入れてました。指揮官はサッキからカペッロに変り、戦術の縛りは幾らか緩やかになってはいましたが、このターンオーバーの導入で、問題の解決をはかろうとしたのです。
 しかし選手達の評判は今ひとつだったようです。どんなに疲労がたまっていても、選手達が最も輝く場所は、当然芝の上になります。ですから休んでいては、自分の存在価値を示す事ができなません。
 当然ですが、カペッロは国内仕様と欧州仕様で選手11人を、まるまる変えていたわけではありません。必要不可欠な選手は、国内、欧州関係なく起用され、大きな成果をあげていきます。もちろんその影で、満足に出場機会を与えられない選手もいるわけです。
 例えば1993年のトヨタカップのため、ミランは来日していますが、先発FWはルーマニア代表のラドチョウと、フランス代表のパパンでしたが、彼らがミランで活躍した姿を思い出せる方は、相当のミランフリークではないでしょうか?(他のFWはサビチェビッチにマルコ・シモーネ、マッサーロ)
 僕が思うにターンオーバーは、より選手間の格差を広げてしまったように思います。指揮官がどんなに知恵を働かせても、ピッチに送り出せる選手は14人と数が決まっています。
 出場機会に恵まれている選手は、試合勘も鈍らずコンディションを整える事が容易です。しかし恵まれない選手は、いつくるかわからないその瞬間の為に、全精力を費やさねばなりません。
 これは心身ともにはかりしれない疲労を覚えて当然です。ですからこうした選手は、じぶんが移籍するか、もしくは監督交代を我慢するしかありません。ミランの場合は控えの選手が去っていくことで、チームのまとまりが守られた形になります。
 とはいえ、この分厚い選手層がミランの勝利のサイクルに貢献したことは事実です。ですが90年も半ばになると、ミランは危機的状況を迎えます。それは90年代前半の栄光を知る者にとっては、考えられないほどの凋落でした。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

僕が見ているサッカー番組

2009-09-29 00:53:24 | 日記
 今回はミラン関係の話をお休みして、僕が見ているサッカー番組をお伝えします。
 我が家は衛星放送が無い為、海外サッカーは月曜日スポルトの名物コーナー「マンデー・フットボール」、J1を含むサッカー雑学は、日曜日のやべっちFCで、それぞれ情報を得ています。
 特にやべっちでは、2週間に1度の割合で、元日本代表の名波選手が解説を手がけていますが、僕は非常に好感を持っています。
 コメントそのものは短いのですが、的を得ている事が多い上、他の解説の方には無い、視点の鋭さがあります。9月27日の放送では、「今の日本代表に足りない物」と言う事で、広島の佐藤選手と柏木選手、横浜Fマリノスの渡邊選手をとりあげていました。
 僕自身渡邊選手は代表で使えるレベルにあると考えていたので、この特集は嬉しかったです。
 皆さんも贔屓の解説の方の視点と、自分の視点の違いを比べてみると、新たな発見があると思いますよ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゾ-ンプレスとサッキ、そしてロベルト・バッジョ

2009-09-28 19:12:00 | 日記
 サッキは1994年のワールドカップ米国大会に向けて、イタリア代表の指揮官に指名されます。前任者のビチーニが、92年の欧州選手権の予選を突破できなかったのです。
 それは同時にサッキの手腕と、ゾーンプレスが改めて認められた瞬間でもありました。
 事実サッキはイタリア代表の基本戦術をゾーンプレスに設定します。予選では敵地でスイスに0-1で敗れてしまうものの、米国へのキップはしっかり手にしました。
 またディノ・バッジョ、ジュゼッペ・シニョーリなど、新戦力の発見もサッキにとっては追い風でした。なるはずでした。
 しかしアメリカの大地は灼熱の太陽のもと彼らから体力と集中力を、容赦なく奪っていきます。おまけに初戦のアイルランド戦で、守備の要、バレージが負傷退場してしまい、いきなり大黒柱を失ってしまいます。
 続く2戦目のノルウエー戦では、GKのパリュウカがレットカードで退場を宣告されてしまう非常事態。ここでバッジョのファンなら、一度は聞いた事があるであろう言葉が生まれます。
 「こいつは気が狂っている。」
 サッキがGK交代の為に、ベンチにに退くように命じた選手は、自他ともに認めるエースのバッジョだったからです。
 実はサッキはミラン時代、聖マルコと呼ばれファンから絶大な人気を得た、オランダ代表のファン・バステンとも諍いを起こしています。サッキはゾーンプレスを遂行する為、選手に一切の妥協を許しませんでした。守備陣がラインコントロールを学ぶ際は、体にロープをつけて、互いの距離感を保っていたそうです。
 つまりゾーンプレスの機能美とミランの栄光は、選手の意見や創造性を犠牲にした上で勝ち取ったものでした。その過酷なストレスに選手は悲鳴をあげ、特にファン・バステンは、オーナーのベルルスコーニに、こう詰め寄ったと聞いています。
 「俺をとるのか、サッキをとるのかはっきりしろ。」
 ご存知のように、イタリアは決勝まで進出するものの、PK戦のすえブラジルに敗れます。PKを外したバッジョの姿は、ハイライトで幾度となく報道されたので、見た方も多いでしょう。
 それ以上にあの交代の瞬間から、バッジョとサッキの間には、生涯歩み寄ることのできない傷が生まれます。その傷はあれから15年の歳月が流れた今も、癒えてはいないようです。
 政治の世界もそうですが、政策を訴える際、長所と短所を簡単な言葉で良いので、僕たちに伝えたら良いのに。と思う事がありますが、サッキはそこまで気がまわらなかったのでしょう。
 「アメリカは予想以上に熱い。ゾーンプレスは君たちの体力を消耗する。戦術が機能しているうちはいい。ただ交代枠を使う権利は私にある。従って交代のためベンチに下がる選手は素直に従ってもらいたい。」
 バッジョは自伝「天の扉」の中で、サッキはバッジョに対して、「アルゼンチンのマラドーナのような存在」と声をかけていたそうです。ですからノルウエー戦の交代劇は、サッキの言い分は矛盾している、裏切られたという心情が心に芽生え、例の言葉を口走ったのではないでしょうか。
 実はバッジョはこの時故障を抱えており、サッキは決勝までの道のりを逆算し、意図的に彼をさげたのではないかと、僕は考えているのですが。
 ただ僕が考えた、上の「」の中のような言葉を、あらかじめ選手にかけておいたならば、ふたりの関係がここまでこじれるような事は無かったのではないかと思うのです。バッジョの交代の際のわだかまりも、少しは抑えられたような気がしてなりません。
 何故ならいつの時代も、国旗をつけ国家の名誉のために戦う男たちな、何より自尊心を尊い物と考えています。ふたりはこの自尊心をひどく互いに傷つけられたと捉えたのでしょう。
 ちなみのこのワールドカップ、ファン・バステンの母国、オランダも出場していましたが、ベスト8でブラジルに破れています。彼は右足首の故障のため、代表チームにエントリーできませんでした。
 果たして彼はオランダとイタリアの敗北と、夢絶たれたサッキをどのように見つめていたのでしょうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

憎らしいほど強かった90年代のACミラン

2009-09-28 02:15:44 | 日記
 最近サッカーに関心を持った方はご存知ないでしょうが、1990年代の欧州サッカーを牽引していたのは、間違いなくACミランでした。特にふたりの指揮官、アリゴ・サッキとファビオ・カペロによって高められた、4-4-2のゾーンプレスは、世界中で猛威を振るい、多くの模倣を生むと同時に、ロベルト・バッジョ、ジャンフランコ・ゾラに代表される名手達が、その存在価値を見出せない時期でもありました。
 でも今から振り返ると、サッキはゾーンプレスの構築に対し、きちんとセーフティネットを用意していたことがわかります。
 サッキは最終ラインをハーフエーラインのあたりに定め、許す限り相手陣内で試合を行うよう選手達を訓練しました。相手をタッチラインに果敢なプレスで追い詰め、奪ったボールをダイレクトパス2、3本をつなぎ、ゴールに結びつける。それは鮮やかな手際でした。
 ここにセーフティネットの一つ目がありますね。そう相手陣内でプレイをすることは、選手の体力を無駄に消費せず、同時にマイボールを維持できる利点があるからです
 また最終ラインに配置した4人の後方には、相手が羨むほどの広大なスペースが広がっていましたが、サッキは果敢なオフサイドトラップで、相手にボールを保持させませんでした。仮にトラップが敗れたとしても、GKは足技に優れたセバスチャーノ・ロッシを起用していました。
 ふたつ目のセーフティネットは、戦術が破綻したときでも、破られた際の保険を選手達に植え付けたことにあります。
 この時期のミランには、イタリア史上最高のリベロ、フランコ・バレージが存在するという恵まれた環境にあったことは事実ですが、サッキの脳内イメージが、絵に描いた餅にならなかった点は、大きく評価すべきですね。ちなみにミランはカペッロ政権の92-93シーズンは無敗で優勝しています。シーズントータルでの失点は15という、驚愕すべきものでした。
 しかしこのゾーンプレスにも、やがて破綻するときがきます。そのお話は次回にまわすことにしますね。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする