Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

勝海舟と祖母

2008-05-06 23:34:49 | Weblog
 今日は五月晴れの天気である。庭に出て朝の爽やかな空気を吸う、新緑が発するオゾンのような透き通った空気はこの時期でなかれば味わえない。
 犬の散布を終えて、直ぐ「父の思い出」の編集に取り掛かるが、中々捗らない。パソコンとプリンター(ピクサスMP600)の操作をよく知しらないからだと思う。説明者を見ながら進めている。概ね6割方出来ていると思うが根を入れると疲れる。
 息抜きに、父の母方の実家である静岡市門屋の造り酒屋 白鳥家に勝海舟が滞在していたことが書かれていたので、その時代と如何して滞在したか調べてみたいと思った。
 歴史的検証をもとに探索とはいかないが、祖母の年齢と、勝海舟の滞在した時期ぐらいは判るはずである。
 勝海舟は幕臣であったが、明治維新を推し進め近代日本を切り開いた一人である。徳川慶喜とは幕末の混乱期には何度か意見が対立して、慶喜に嫌われたことは分る。慶喜が描いた維新は徳川幕府も共存共栄であったはずだ。しかし徳川幕府は完全に吹っ飛んだ。慶喜が怒るのは分る。その海舟は明治政府にあって旧幕臣を助けた。横浜港の発展のため10万人を、静岡茶の生産に8万人を送り日本一の生産地にしたのも彼だ。そして晩年にはその慶喜を赦免させるよう働きかけ、おかげで明治天皇の特旨をもって公爵となったし、徳川宗家とは別に徳川慶喜家を新たに興すことが許された。その上慶喜の10男を婿養子にしていることからも、和解出来た。
 この徳川慶喜が静岡の浮月荘に謹慎していた時、慶喜に謁見のため滞在したものと考える。勝海舟は文政6年(1823年)から明治32年(1899年)まで、徳川慶喜は天保9年(1837年)から大正2年(1913年)まで生きた。
 慶喜が静岡に滞在したのは明治2年から明治30年までであり、状況から海舟が謁見できたのは明治20年代であったと思う。その間門屋の白鳥家に滞在したことになる。明治10年生まれの祖母は19歳で父の実家に嫁いできたので、10代のとき海舟が白鳥家に来ていたことになる。
 私が生まれて間がない時、祖母に抱かれた写真がある。品のいい祖母で父も自慢の母親であったという。
 そのような名家から、清水の片田舎(柏尾)の農家に嫁いで来たことは疑問であったが、父が残した随筆をみると祖母が子供達に話した言葉には兄が「日の出の家だったらやってもよい」といったと書いてあった。
 父のことを調べるといろいろなことが分る。