Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

龍雲寺を訪ねる

2018-11-28 23:08:24 | Weblog
 検査で県立病院に行った帰り、病院の近くにある戦国時代の大名今川氏親の正室である寿桂尼を祀る龍雲寺を訪ねた。先日慈悲尾にある今川氏親の菩提寺・増善寺を訪ねたが、正室の寿桂尼の墓がなかった。そこで寿桂尼がどのような生涯を送りこの龍雲寺に眠っているのか調べた。寿桂尼は藤原北家出身で高位の公家の娘である。その彼女が京都から守護大名であった今川氏親のもとに嫁いできたのは当時今川氏は東海一の弓取りと云われた大名であったからだと思う。

 今川氏親との間に3男一女をもうけている。長男・氏輝、次男・彦五郎、3男・義元、一女は瑞渓院(北条氏康の正室)である。その頃の、今川氏の勢力圏は三河から伊豆まで勢力下に治めるほどの勢いがあった。しかし氏親が53才で亡くなり、慈悲尾の増善寺に葬られた。この時の寿桂尼は30代後半から40代前半の年齢であったと思う。その時、嫡子氏輝は幼く成人するまでの間、「尼御台」と呼ばれ発給文書には寿桂尼が氏輝に代わって行っている。この氏輝、彦五郎も若くして相次いで死去、後を継いだ義元も桶狭間の戦いで無念の死となった。その後を継いだ孫の今川氏真も支え戦国の世を生きた。今川義元の時代までは勢いがあったが、今川氏真になると周りにいた大名達は今川氏の領地を簒奪しようと狙っていた。そんな中でも寿桂尼は「尼御台」として氏真を援けながら波乱の人生を閉じている。年齢は80才に近い年齢であったと云われている。

 寿桂尼は死の直前「死しても今川の守護足らん」と言い残し、駿府・今川館の鬼門の方向である龍雲寺に埋葬された。死して9ヶ月後に武田信玄が駿河に侵攻、時を同じくして徳川家康も遠江に侵攻し今川氏は滅亡の道を辿った。龍雲寺は、静岡から北街道を東進し、沓谷3丁目を右折し100mほど入った谷津山の北麓にあった。寺社は平成7年に建て替えたとあるが寂しさを感じさせる小さな寺であった。この境内の細い裏道(幅40cm)を登って70mほど入った所に2対の4輪塔(5輪塔の一輪が無くなっている)があった。一つは寿桂尼の墓、一つは妹の黒木方の墓という。塔は傾いていて今にも朽ちそうな状態であった。とても今川家を支えた人の墓とは思えなかった。本堂前に、寿桂尼 生誕6百年記念で建立した石碑があった。その碑文に「とつぐ」と書かれた文字があり、父親の中御門宣胤が駿府に下る娘に贈った印判で、寿桂尼の発給文書に使われたものとあった。

 寿桂尼の生涯は、今川氏を盛り立てようと奮闘した一生であった。しかし、最後まで守ろうとしたがそれは報いられなかった。残った今川氏真は、戦うと云うより逃げ回って敗れた感じである。その後は徳川の庇護を得て徳川幕府では「高家」として明治維新まで続いたと云う。それでも寿桂尼の無念さは消えない。






























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施設OBゴルフコンペ

2018-11-26 22:01:12 | Weblog
 昨日はバス旅行で疲れたが、今日は「施設OBゴルフコンペ」の日であり朝5時30分には目が覚めた。楽しみにしていて気持ちも入っていた。7時に友達のIさんが家に来てくれ、それに便乗ゴルフ場に向かった。今回のコースは「リバー富士CC」で12年ぐらい前までメンバーとしてよく利用したコースである。それ故上位入賞を目指したいと思った。

 晴天で風もない絶好のゴルフ日和となり、出席者10名は3組に分かれ甲斐コースからスタートした。私はこのメンバーの最年長者であり年齢から云っても距離が短いシルバーティーから打つことが出来たが、同組の2人に合わせレギュラーティーから打つことにした。ゴルフは年齢と共に飛距離が出なくなってくる。以前先輩たちがシルバーティーで打っていたがその年齢を超えた現在もやせ我慢と云うかレギュラーティーで打っている。このやせ我慢はいつまで続くか分からないが、そろそろ限界かなっと感じている。同組の2人を紹介すると、Iさんは3歳年下で、最近体調不良で入院したが回復して出てきた。明るい性格で根っからのゴルフ好きである。飛距離は私より30ヤードほど飛ばしパーオンもできる。そしてハンデは私より2つ良いレベルである。Sさんは今年70歳になったと聞いたが飛距離は私より50ヤード以上飛ばしていた。ハンデは私より10ほどよいが、パープレーも可能なほどうまい人だ。

 3人は和気藹々プレーを楽しんだ。しかし、飛距離で負ける私は、グリーンに上がるまでに1打は多く打っていたし、その上球が安定せずOBも出て一人蚊帳の外と云った感じであった。それでも5番ぐらいからショットが安定してきて2人と同じぐらいのスコアーで纏めるようになった。甲斐コースの残り3ホールは距離もあり難しいコースと云われる。しかし、ここで2人に離されたらダメと思い頑張った。前半甲斐コースのスコアーは私が54、Iさん50、Sさん48であった。昼食を食べ、後半の駿河コースに向かった。1番から4番までのコースは、アプローチが上手くいきボギーで収めた。しかしその後は疲れたのか、2人に後れを取ってダボとかトリプルを出した。2人とは段々差が開いていった。特にSさんは、絶好調でパープレーが続いた。Iさんは最初は良かったが後半は疲れた。結果(トータルスコアー)は私が108、Iさんは106、Sさんは82であった。

 最初の目論見とはだいぶ違った結果となったがハンデ戦であり10人中7位であった。因みにSさんは準優勝、Iさんは8位となった。年に4回実施される施設OB会ゴルフコンペは今年の最後である。来年4月は私達中部地区が幹事であり多分「冨士見が丘CC」で行うことになる。その時までには優勝を目指すくらいのスコアーを出したいと思う。そしてその時は、強がりは止めてシルバーティーで打とうと考えている。

日帰りバス旅行

2018-11-25 22:02:48 | Weblog
 町内会では毎年この時期日帰りバス旅行を計画する。今年は「南信州伊那谷の紅葉と松茸料理」がメインであった。今回の参加者は43名で大型バス満席となった。町内防災公園に集合し7時30分に出発した。昨年は20名ほどしか集まらず既存のツアー会社が募集したものに便乗してのバス旅行であったが、今年はバス一台貸し切りで実施できたことは良かった。バスは国道152号線を北上、中央道を通って駒ケ根に出て、伊那の光前寺を見て、松茸料理を食べてから駒ケ根高原の紅葉を散策する。この間にリンゴを袋に詰め放題のサービスなど受けることになっていた。

 43名の内訳は男性20名、女性23名でご夫妻で参加したのは9組あった。年齢は60代から70代の高齢者ばかりで、皆さん町内の会合等で良く知った人達ばかりであった。役員の方から、ビール、酒、つまみが配られたが家庭料理を持ってくる人などいた。バスの中はすぐ楽しい会話が始まり甲府を過ぎるころにはビールや焼酎の酔いが回って外の景色など見る余裕はなかった。外を見たのは添乗員が「今諏訪湖のほとりを通っています」と云われた時ぐらいであった。私の隣にはYさんが座った。今まで彼とはあまり話したことがなかったが、打ち解けて話すうちに彼の生い立ちやサラリーマンの経歴など聞いた。私もいろいろ話したが経歴は似ていた。彼は私より1才後輩であることも分かった。

 そんな雑談をしていると、最初の目的地、伊那の光前寺に着いた。天台宗の寺で信濃五大寺のひとつの名刹である。庭園は国の名勝に指定されていて桧林を借景にして佇んでいた。庭園はモミジなど落葉樹もあったが紅葉の時期は少し過ぎた感じであった。またこの寺院には霊犬早太郎説話でも有名であった。簡単に話すと《この寺の床下で山犬が数匹の子犬を生んだ。その1匹の子犬はこの寺を離れず育った。力強い犬になった犬は早太郎といい近くの人達をよく助けた。あるとき、そこに通りかかった虚無僧が遠江見附村で白羽の矢が立った家の娘を人身御供として神に差し出す恐ろしい仕来たりあることを云った。神様がそのようなことはする筈がないと思い、早太郎を着附村に遣わし棺に入れ神社に置くことにした。その夜早太郎は怪物(猿の化生ヒヒ)と壮絶な戦いをし退治した。しかし早太郎も深手を負い光前寺にたどり着いたが、そこで息を引き取った》こんな説話であった。その後で食べた松茸料理は、期待ほどではなかったがすき焼きは美味しかった。

 山々に抱かれた伊那谷の風景は既に冬景色に変わりつつあり真赤な紅葉は見れなかったが、地域の人の温かさを感じさせられる旅であった。最後に駒ケ根高原で40分ほど散策しバスに乗り込んだ。後はバスに揺られ静岡に帰るだけである。しかし、そのバスの中でも皆を喜ばすためクイズやゲームなどしてくれた。今回は走行距離430kmの長い旅であったがそれを感じさせない楽しい旅であった。

シニア作品展から

2018-11-22 21:54:03 | Weblog
 静岡市市民ギャラリーで11月21日~25日までの5日間葵区・駿河区合同のシニア作品展が開かれている。この展示会に初めて書道の作品3点を出した。それは、額に収めた高村幸太郎の詩「道程」と掛け軸2点、唐の詩人 張継の漢詩「楓橋夜泊」と作者不明の「清風無限好」を書いた。額のものはすぐ書けたが、掛け軸の2点は各々10枚ぐらい書いたが納得いくような物は出来なかった。再度10枚ほどを書いたが同じであった。時間もないのでその中から2点を選び、期日に間に合うよう表装に出した。

 その表装店は直接市民ギャラリーに運搬してくれたので、その後の出来栄えはまだ見ていなかった。今日(11月22日)は午前中S学苑で音楽のカルチャーがあり、それが終わってから一人で見に行った。とても誰かを誘って行くような作品ではなかったことと、初めての展示場であり様子が分からなかったからである。展示室は5個所に分かれていて、第一展示室は絵画、第2・3展示室は手芸・工作、第4展示室は書道・写真、第5展示室は、クラブの紹介となっていた。正面玄関から入り、第一展示場から見て行った。水彩画や油絵など画家が書いたようなものから、趣味で書きだしたような作品までいろいろあったが、全体としては質の高いものが多かった。その中に知人の作品2点を見つけたが素晴らしい油絵であった。第2・3展示室は300点近い作品が展示してあり地域ごとに競って作っている姿が浮かんだ。

 この後第4展示室の書道・写真の会場に入った。大小さまざまな書画が展示されていたが、私の作品がすぐ分かった。最初他の人の作品に比べ見劣りした感じを受けたがよく見ていると下手なりに頑張っているなと思えた。多分書は表装により引き立てられるものであるからかもしれない。中に居る人の話を聞いたが、100歳以上の人の書いた作品を教えてくれた。風格のある書風であったが、筆の衰えは感じられなかった。知人の作品も2点あった。それは、斬新的作品で、太い筆使いと勢いは70点ほどある書道作品の内一番目立っていた。彼女は、音楽を一緒に学んでいるが、歌い方から受ける前向きの姿勢は書道とも共通するところがあった。

 作品は第4展示室までで、第5展示室は、2か所のシニアの活動が紹介されていた。それは「足久保生き生きクラブ」と「登呂一丁目楽友会」の活動の紹介であった。各々が年間スケジュールや活動の記録が写真や文章で紹介され活発に行われていることが分かった。これは参考になったがこれを纏めるリーダー達の熱意とそれを理解し、みんなで育んでいる姿は素晴らしい。今回の展示会を見ての感想であるが、地域によって活動の差が大きい。その点から云っても私の地区は物足りなさを感じた。とは言え、役員の皆さんはよく頑張っているのにその差は何だろうか?そんなことを思った。

ショートコースでゴルフ

2018-11-15 22:18:33 | Weblog
 朝夕は寒さがきつく感じたが、今日の日中は風もなく穏やかな日となった。今日(11月15日)はIさんと大谷のショートコースでゴルフをすることにした。それは11月26日の「OB会のゴルフコンペ」の練習を兼ねてのラウンドであったが、もう一つの理由は、Iさんが10月上旬から体調を崩し入院していたことを後から聞いた。それはフラフラし真っすぐ歩くことが出来なくなったからであった。すぐ家に見舞いに行ったが「今はだんだん良くなっているので次回のOB会ゴルフコンペには出たい」と云った。そこで「その前に大谷のショートコースに行こうか」と誘った。彼は[行こう」と2つ返事であった。

 午前9時に大谷ゴルフ場に集まりコースを回ることにした。会った時、彼の体調は完全に戻ったとは言えないように思ったが一緒に回ることを喜んだ。そこで無理はしないようにして、もし調子が悪かったら途中でも止めることにした。私も最近腰痛が出て病院に通っていてコルセットをしながらのラウンドとなった。コースへのリフトに乗り一番のティーグランドのところに行くと3組7人の人が待っていた。30代ぐらいの若い人達であったが奇麗なスイングで一番のショットを打っていった。私達の後からも2組の若い男女のペアーが来ていたが、その前で最初のティーショットを打った。このホールは右側に打ってもショートしてOBになるところである。私のボールはショートしてゴルフ練習場に落ちていった。Iさんはグリーンをとらえていた。打ち直しで打った球はグリーンを少し外れたが、そこから打った球は直接カップに入った。まぐれであった。

 その後、Iさんは7ホールぐらいまでパーかボギーでおさめ体調の悪さは感じなかった。それに比べ私はボギーかダブルボギーと調子は出なかった。8番のティーショットを打った時腰に違和感を感じその後はだんだんひどくなっていった。彼も、疲れが出たのか、その後は乱れだした。それでも、2人ともやめようとは言わないで18ホールを回った。スコアーは通常の1.5倍ほど叩きここに表示するような内容でなかったが、回れたことを喜んだ。彼も段々体調が戻っていることが確認できた内容だった。私の腰痛もひどくなったが耐え難い痛さでもないので養生すれば大丈夫だと思った。

 互いに年をとると色々の病気が出てくるがゴルフが出来たことは確認できたのでよかった。ラウンド中は互いアドバイスしあった。彼の弱点は、グリーン周りの精度が低いことであった。そこでバックスイングに注意するよう伝えた。そして私の欠点は、バックスイングが大きいことと身体がスエーすることであった。これでは方向性が定まらないし飛距離も出ない。スイングはコマを回すように打つことをアドバイスされた。いつの間にかスイングが崩れてしまっていたことを教えてくれたのでありがたかった。

増善寺界隈を歩く

2018-11-14 21:55:10 | Weblog
 静岡にゆかりのある人物として徳川家康が有名であるが、その以前の駿河国主として君臨した今川家のことは余り話題にならない。またその痕跡は各所に残っているが、余り日が当たる存在にはなっていない。そこで今から約500年前栄えた今川家の痕跡を調べることにした。幾つかの痕跡の中から、今川家の中興の祖と呼ばれた今川氏親(今川家7代当主)が眠る慈悲尾の増善寺周辺から調べることにした。増善寺は静岡中心地から安倍川沿いに10kmほど上流に進んだ山間にひっそりと佇んでいた。

 直ぐ裏には急峻な山を背負い山頂には南北朝期敵対した安倍城址がある。ここは今川氏が南朝方の安倍城主狩野貞長との長い戦乱の末、根拠地を駿河に移したところでもある。増善寺は安倍川から西南の方向に1kmほど行った所にあり、古い山門の脇には駿河三十三個所16番の札所が立っていたが整備された境内とは言えなかった。しかし、この寺の創設は古く天武天皇10年(681年)に法相宗の始祖道昭法師が開いた真言宗の寺で「慈悲寺」と呼ばれていた。密教の寺であり当時人里離れたところにあったと思われる。明応9年(1500年)駿河の国主となった今川氏親は曹洞宗に深い関心を持っていて開祖性寅禅師に帰依し、彼を開山として七堂伽藍を整え曹洞宗に改め、今川氏の菅家増善寺とした。

 約50年前の増善寺を表した図面が境内の掲示板にあったが、浅間神社から一直線に伸びた街道は増善寺に通じていて、安倍川を渡る前に籠上一ノ門があり安倍川、足久保川を渡り仁王門から直線の参道が増善寺に通じていた。今川氏親は1526年亡くなったが、この寺で大葬儀が営まれたとある。氏親の墓所は右に入った所に作られていて、等身大の木造も安置されている。その後徳川家康からの庇護もあって栄えたが、明治初年の神仏分離、廃仏毀釈の中での衰え往時の見る影もない形で今も姿をとどめている。現在の今川氏親の墓所も小さな霊廟に3つの五輪が残っているだけであった。その霊廟に行く途中に大きな五輪塔が2基あったがこれは江戸時代初期の駿府城代であった松平勝政、勝易と夫人の墓であった。またこの境内には観音堂があり、これは奈良時代僧行基が7体の千手観音像を彫り駿河国の寺院に安置した一つである。

 氏親は父義忠と北条早雲の姉北川殿との間に生まれたが、戦国の世で父は地元国人衆い襲われ戦死している。氏親は幼少であり、家督相続では父の従兄弟の小鹿範満と争いが起きたが、仲介の早雲が、氏親が元服するまでの繋ぎで範満が継ぎ元服後返すことになった。しかし返さなかったことから早雲の力も借り範満を殺し駿河館の入り元服している。その後は遠江、甲斐などを攻め領土の拡張を図り安定した領地を治めた。戦国時代を代表する分国法「今川仮名目録」を制定するなどしたが、晩年は中風に掛かり寝たきりになったとあるが、駿河、遠江の領主として確固たる地位を築いた人物である。 

歯医者に行く

2018-11-09 17:10:53 | Weblog
 10月下旬ごろ歯科医院から定期検診のハガキが来た。それは前回の検診から半年経ったことから再検の案内であった。サラリーマン時代はそうした定期検診には行かず。歯が痛んだ時歯医者に行く程度であった。その時も医師からは「定期的に検診をしてください」と云われていたが行かなかった。しかし、退職して間がないころであったが、歯が痛んで数本抜くことになった。そこから定期的に検診に通うようになった。それが今行っている歯医者である。そこに行くようになって医師から言われたのは『このままにしておくと80歳になった時20本の歯が残るか保証できません」であった。

 その時歯周ポケットの深さを測ってくれたが、4mmから7mmほどあり、そこに歯周菌がいること。これも毎日のケアーで改善することも教えてくれた。それから歯磨きは朝夕2回は、必ず歯ブラシ、歯肉ブラシ、歯間ブラシの3本を使い磨くようにしている。そして最近になって朝昼晩の3回磨くようになった。そんなことから今80歳を面前にした年齢になったが24本の歯が残っている。そして半年ごとの検診も10年近く続けてきている。この間歯を失ったことはないので医師から歯のケアーが良いと褒められてもいた。

 歯の定期検診の時は、歯周ポケットの深さ、歯垢の除去、歯の研磨を行ってくれ、歯周菌がいた場合の磨き方など良く教えてくれる。この10年間の最初の頃は1~2本の歯がグラグラするところもあったがそれ以降は、丁寧に歯磨きすることにより歯茎もしっかりしてきたように感ずる。半年前に定期検診を受けたときは上の奥歯の一本に歯周ポケット3mmがあり歯周菌が見つかったがそれ以外はよく手入れされていると云い今後も続けるよう言われた。その後今日まで、何とか歯周菌がゼロにしようと毎日の歯のケアーを行ってきた。一日3回磨くようにもなったが、余りに強く磨くため歯茎が赤くはれたこともあったが実施してきた。今回の検診は11月6日と9日の2日間行ったが、医師からは、よく手入れされていると云われたが歯周菌を0ではなかった。上の歯の両奥の裏側の2ヶ所にいたが、医師は「貴方の年齢でこれだけよく手入れしているのは珍しい」と云われた。

 「帰りに歯周ポケットを磨く棒状の歯ブラシを2本購入したが、半年先の検診では歯周菌のいないパーフェクトの状態に持って行けたらと考えている。いま8020運動というものがある。これは老人になっても健康な歯を維持できるよう80歳での残存歯数を20本以上は確保しようと厚労省と歯科医師会により推進しているものである。1999年には20本以上の残存歯を持っている人は約15%ほどであったが、この運動により2016年には51,2%に増加したとのことである。また噛む力が弱くなったり、歯周菌が肺などに入り病気をこじらせる原因にもなっていることからも歯のケアーは大切なことである。 

劇団公演「咸臨丸事件秘話」から

2018-11-04 22:34:00 | Weblog
 11月4日(日)清水マリナートで行はれた劇団清見潟公演の「咸臨丸事件秘話 夕映えの清水湊」を見た。咸臨丸は、日本で最初に太平洋を往復した軍艦で、幕府の遣米特節団をアメリカに派遣した時の船である。この船に勝海舟や福沢諭吉と云った、明治維新を遂行した人達が乗り込んでいた。しかし明治維新の混乱の中で、幕府海軍奉行の榎本武揚等は咸臨丸を含む軍艦8隻を率い蝦夷地で新国を作ろうと、幕臣たちを乗せ蝦夷地を目指した。しかし銚子沖で台風に遭遇、咸臨丸は故障等があり南西の風に流され駿河湾に入り清水港で修理することになった。しかし、この時点で明治新政府は日本をほぼ統一していて、清水湾内で官軍の攻撃を受けた咸臨丸乗組員は上陸している人を除き全員が殺され海に投げ込まれる事件があった。血の海となった湾内は、新政府に咎められることを怖れ誰も手を出さなかった。そんな中で死体を拾い上げ葬ったのは侠客 清水次郎長であった。

 この事件から1年が過ぎた清水次郎長の家が物語の始まりである。この家に親子ずれの女性が訪ねてきて次郎長の妻(お蝶)に「咸臨丸事件で死んだ林田東之新の妻ですが、夫が死んだ時の様子を知りたく江戸からきました」と云い。お蝶はその時の様子を詳細に話してやる。しかし、死んだはずの林田某は、海に浮かんでいるところを次郎長等に助けられ、清見寺の僧侶として隠れて生きていた。お蝶は、2人を逢わせるが僧侶となった夫は頑なに拒否する。お蝶は粘り強く説得し元のさやに戻るというのがストーリーである。劇中で次郎長が咸臨丸の乗組員を葬ったことで、静岡藩に呼び出された時「死んだ仏に官軍も賊軍もない。もし悪いというなら私が責めを負う」と云った話や日常の些細な会話など散りばめられ楽しく見ることが出来た。

 家に帰り林田東之進なる人が実在するか調べた。しかし、調べ方が足りないのかその人物には行きあたらなかった。どうも架空の人物のように思えたが、調べから当時の時代背景が分かってきた。当時の咸臨丸は、台風によって3本のマストは折れていたし修理のため大砲等は陸揚げされていた。乗組員は戦う術もなく斬られ海に投げ捨てられた。狭い湾内であり死臭はひどく誰も賊軍の乗組員を引き上げ埋葬しようとはしなかった。また徳川宗家も70万石の静岡の藩主でしかなかった。それ故、咸臨丸の乗組員を匿うことも助けることも出来なかった。その上、この事件が起きた1868年(明治元年)9月は、明治天皇が京都から東京に遷都のため行幸する時期と重なった中で、この事件が起きている。

 そして事件後の咸臨丸のことも調べた。新政府が引き取られた咸臨丸は、明治4年旧幕臣400名を移民のため乗せ小樽へ向う途中暴風雨にあい函館沖で座礁・沈没したが奇跡的に犠牲者は出なかった。「咸臨丸事件秘話」は、林田某という人物が実在したとしているが描いているが、そレは分からなかった。しかし、明治維新を生きた幕府の人も、その多くは職を失い露頭に迷った。その苦しみは計り知れないものがあった。

「BEAT IT!!」をみる

2018-11-03 22:11:22 | Weblog
 「ラウンドヒル計画」という言葉を知ったのは「BEAT IT!! 新今川物語2018」を見てからである。「ラウンドヒル計画」とは、静岡市民文化会館が主催し、完全オリジナルの舞台作品を静岡の人々の力で継続的に創作し、同時に日常的に舞台でワークショップを行い、静岡独自の文化を創造発信していくプロジェクトであると聞いた。この計画がスタートしたのは2013年からで、その後毎年市民参加の舞台作品を発表している。今回初めて「BEAT IT!!・・・」を見たが戦国の守護大名今川義元も創造的現代風に表すならこのようになるのかと改めて知った。

 今川義元生誕500年の年を迎え、それに因んで「BEAT IT!!・・・」は義元を歴史的見地から描いた作品かと思っていたが全然違っていた。今川義元との関係はあるが、完全な創作で時代を現在に移し今川氏の末裔と織田家の末裔がどのように生きたかを空想の世界、夢の世界で描いた作品であった。会場はほぼ満員の状態であったが、概ね30代以前の若い人達で占められ、私のような老人は探しても見当たらないほどであった。この物語は、空想の世界で、今川を破った織田がそのまま現代に繋がり、織田ジパングなる帝国を首都静岡に築き、世界を三大国の一つとして君臨する。その織田ジパング帝国は日本の頂点で繁栄を謳歌している。その織田帝国にあって、滅ぼされた今川の末裔は、差別されながらもそれでも逞しく生きている。今川の末裔の少女が主人公で、彼女が織田帝国の中で織田家と絡みながら織田帝国の国主と闘いながらも、意思を通し国主を改心させていくストーリーである。ここに至る場面で、戦いや暗殺などの場面もあるが最後は互いに解け合うまでになっていく。

 戦国時代の今川氏、織田氏が生きた時代を想定していたので、幕が上がった時は驚いた。舞台ではビートのきいた強烈な音楽と若い学生のような人々がミュージカル風に踊る場面からは、内容も分からず一幕で帰ろうと思ったほどだ。それほど分からない内容であった。役者が話す言葉はいやに大きく音樂と共鳴し割れ聞き取れなかった。その上物語がどのようになっていくのかも分からず、ここにいることに場違感を感じた。しかし2幕に入ると慣れてきたのか段々わかるようになった。しかし、現代風にアレンジした物語は、私には最後まで納得するものではなかった。

 今静岡では、駿府城内の発掘調査など時代を顧みることが進んでいる。そこには、徳川家康や豊臣秀吉が覇を競た痕跡があり静岡が時代の中枢として存在した地であった。しかし、彼らが競った静岡(駿府)はその少し前まで今川家の領地で繁栄を極めていた。その今川氏は足利幕府の主要姻戚家で、この駿府の地に守護大名として赴任し繁栄した。しかし、今の静岡には今川氏の痕跡は非常に少ない。そんな思いの中での観劇であり何とも複雑な気分であった。