Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

「トロイメライ」の曲

2016-11-30 21:58:55 | Weblog

 ピアノ教室で、「トロイメライ」の曲に挑戦している。譜面は多少アレンジはあるものの原曲に近いものであった。今年の4月先生にこの譜面を見せ練習したいというと「貴方には難しすぎるので、もっと易しい曲にしたらどうですか」を云った。私は直ぐ「頑張るので何とかこの曲に挑戦させてほしい」と無理やり承知してもらった。ドイツの作曲者シューマンの作品で、A-4一枚のやや短めの曲で、そこにはTranquillo(♩=60)とあり、ゆっくりとした旋律は、静かで心が洗われるような曲であった。自分なりに半年ぐらいで弾けるようにしたいと思った。

 それなりに努力したなら可能だったかもしれない? しかし半年以上たった現在も、のつこつとした状態で、曲のイメージとはとど遠い音しか表すことができないでいる。具体的に言うなら譜面を見ながら右手は弾けるものの両手で弾くと何の曲かわからない状態である。それでも来年末ぐらいに予定されている発表会までには時間があるからと高を組んでいた。

 しかし11月24日の稽古の時、先生から諦め気味に「この状態では発表会までに間に合うか心配です。この曲を諦めて、もっと易しい曲に変えたらどうですか。次回までに別の曲を持ってくるのでその中から選んでください」と言われた。未だこのような状態であり、先生はさじを投げた感じであった。それに対して私は何も言えなかった。その日は、云われたことにショックで、それから約一週間は、必ず1時間程度ピアノの前に座り弾いてきた。そして左手だけなら♩=50ぐらいで弾けるようになった。しかし両手で弾こうとすると、めちゃくちゃな音になってしまっている。それでもこの曲を諦めたくないと思う。

 しかし流れは、先生が言う通り、易しい曲を次回から練習することになると思う。そして発表会ではその曲を弾くことになるかもしれない。不本意であるが、そのようになると思う。そこで先生には内緒で、これからも独自に練習し「トロイメライ」を弾けるようにしたいと思っている。完成までにもっと時間はかかるかもしれないがやり遂げたい。そして「トロイメライ」の意味を調べた。 ≪シューマンは「子供の情景」なる13曲からなるピアノ曲集を書いた。その中の7曲目で、「夢」を意味する題名を持った小曲は、美しい親しみやすい旋律ゆえに、曲集の中でもとりわけ有名となっている。素朴な外見にもかかわらず、不規則な拍節法など、特有の複雑な書法も見られ、高度な内容をもった音楽である≫とあった。 難しい曲のはずであった。

 

 


弥生の壺

2016-11-27 21:52:28 | Weblog

 登呂遺跡で発掘された出土遺物775点が平成28年度、国の重要文化財に指定された。これを記念して平成28年9月17日~11月27日まで登呂遺跡周辺でいろいろの催物が開催されている。その一つとして、登呂博物館で他の遺跡から出土したものも含めた特別展が開かれている。ここには登呂遺跡から出土した遺物の他に愛知県の朝日遺跡や奈良県の唐子・鍵遺跡や佐賀県の吉野ケ里遺跡からの出土品も展示されている。また弥生時代のものとして最初に発見された土器(東京都文教区弥生町東京大学構内で発見されたもので、この地名を取ってこの時代を弥生時代としたという。この土器は東京大学総合研究博物館に保存されている)が今回特別に貸出されて出展している。

 日本の弥生時代の土器が、登呂遺跡博物館に集積展示されていることは、考古学に興味を持っている人にとっては見逃せない展示である。私も登呂博物館に出かけた。今日が最後に日であり、駐車場はほぼいっぱいの状態であった。小さな子供さんを連れた夫妻や高齢の男性も多いように感じたが、特段混み合っている感じではなかった。博物館の一階は最近リニューアルされたのか、弥生体験展示室が出来ていて竪穴住居、高床倉庫、祭殿、水田が再現されて子供達が中に入り弥生時代の生活を興味深げに体験していた。

 二階は特別展の会場となっていた。私は”弥生”の由来が出来た東京で発見された弥生式土器に興味があった。それは部屋の一番目立つところにガラスの囲いの中に納まっていた。黄色がかった土器できれいな形で出土されたようで光の加減か光沢を感じた。他の土器と違て気品があった。1000点以上の遺物は、土器や石の矢じり、それに木鍬、木をくりぬいた船などに混じって弦を張った大小幾つかの楽器かあった。これは登呂遺跡で発見されたもので現在の琴の原形のようであった。そして登呂の遺跡は朝日遺跡や唐子・鍵遺跡の物に比べ装飾や加工など乏しいように思ったが、ここからは弥生時代の平和な農村の生活があったようだ。

 登呂遺跡は約6ヘクタールほどが公園として整備されている。これは他の遺跡に比べ甚だ小さな規模である。先日行った佐賀の吉野ケ里遺跡は5倍ほどの規模であったように思った。そこには柵や堀を巡らせ外敵から守る生活している様子が見えた。登呂にはそうしたものが見つかっていない。そして登呂遺跡周辺には同様な遺跡が点在していて、そこと平和裏に交流を行っていたようである。琴のような楽器が出てきたことは、生活の中に音楽があり陽気に過ごしていた弥生人が想像できた。


西ヶ谷でのTBG大会

2016-11-26 21:20:22 | Weblog

 第3土曜日午前中は駿河TBG記録会の日である。よく晴れた日であり、近所のYさんと自動車で、有度山総合グランドに出かけた。しかし、グラウンドには、自動車の駐車場もいっぱいであり、たくさんの人が見えていた。聞くと静岡市のグランドゴルフ大会がありグランド全体は一日貸し切になっているとのことであった。みんなで相談し、市内葵区西ヶ谷にあるTBGグラウンドに場所を移すことになり、そのまま西ヶ谷のTBGグランドに行った。

 西ヶ谷のコースは以前一度きたことがあったが、有度山のTBGグランドに比べ起伏や木などがあり変化に富んだコースであった。またホール(ゴルフで言うグリーン)は全て砲台になっていて、見るからに難しそうに見えた。15人のメンバーは四組に分かれ各コースから出ていった。私の組の4人は3番コースからのスタートであった。メンバーを紹介すると、Iさんは、この会の会長をしていて、小技は上手くこのコースにも慣れている人であった。Sさんは私より年配者であるが飛距離もアプローチも抜群にうまい人である。Mさんは、メンバーでは一番若いが、最近また仕事をするようになった。それ故休日の日だけ出ているが、昔から安定したスコアーを出していた。それに私である。しかし私は練習もしていないので以前のような良いスコアーは出ていない。

 和気藹々の雰囲気の中でスタートした。しかしフェアーウエーが入り組んでいて、その上馬の背のようになっている。それ故上手く打っても転がりOBになる等中々調子は出なかった。他の3人はこのコースに慣れているのか大きく崩れることはなかった。私ただ一人が蚊帳の外と云った感じであった。前半のスコアーは今までで最悪の41も叩いてしまった。これは15人中最下位であって何とも格好が悪かった。それでも後半は汚名挽回しようと思い出ていった。3番はバディーでよかったものの、4番、5番でダブルスコアーとなった。その後は何とか盛り返し後半の9ホールは終わった。スコアーは30であった。平凡なスコアーであったが前半より11打も少ないことで何とか面目を保った。トータルスコアー71であったが、後半挽回したので少し順位を上げた。

 優勝のトータルスコアーは54であった。これはパープレーであり、このコースが特に難しいコースではなく、コースの特徴をつかんで回れば出るスコアーであると思った。慣れていないコースとは言え、後半挽回できたのでよかったが、上手くなるには大会以外にも練習ラウンドを回るとか、弱点を克服する努力をすることが必要であると思った。しかし、そんなに上手くならなくても、皆さんと一緒にプレーができればよいと言う自分もいた。それでもメンバーの中で中位のスコアーは出すようにはしたいと思った。


免許更新のため予備検査受講

2016-11-25 20:50:58 | Weblog

 運転免許更新のための予備検査・講習受講の知らせが届いたのは8月中旬であった。それによると75歳以上は運転免許証を更新する前に、予備検査と高齢者講習を受講しなければならないことが決められている。この予備検査は記憶力や判断力を調べる検査で別名認知度試験と云われている。この検査内容は安全運転の講習や運転適性診断や運転実技(コース走行)を行うことになっている。この予備検査を受講しない限り免許証の更新はできないことから、指定された自動車教習所で受講する手続きを取った。その受講日は11月25日であった。

 高齢になると運転技術が落ちるし、記憶力や判断力の低下することは、避けられない事実である。確かに踏み間違えの運転事故や高速道路での逆走等の事故は概ねが高齢者である。それ故予備検査を受講しない限り免許更新ができないシステムになっているのだ。しかし、この受講者は、身体機能の低下に不安を持っている人達ばかりであり少し気が重い。午前9時からの受講であり20分ほど前に自動車教習所に行くと、9人(男性5人、女性4人)の高齢者が緊張した面持ちで椅子に座っていた。その中に以前同じ会社に勤めていた同僚がいたが、こうした検査を受けることになったことに苦笑しあった。教官に案内され教室に入った。そこで最初に受けたのは、筆記試験で5つの設問に答えるものであった。問題は易しいもののように思えたが、その中で記憶力をテストする設問があったが、自分の記憶力が衰退していることを知らされた。

 その後動体視力や模擬の運転で交通信号や対抗車両への反応等行い、最後にコースに出て運転実技行った。そのすべてに身体機能の衰えを感じたが、同年代と比較して平均的成績であったものと思った。その中で実技指導官からは、若年者に比べ相当落ちていることを指摘されたことは、自分でもどうすることもできない歯がゆさを感じた。そして検査結果を待ったが、運転するのに概ね適性であるとのことであった。しかしこの予備検査で問題があると判定されたとしても直接免許証取り消しの処置は取られないで、後日警察、医師の診断等受けた後判断が下るとのことであった。受講した9人は、取りあえず運転免許証更新の予備検査に合格した。

 私自身、今回の予備検査で、特に指摘されるようなことはなかったが、年齢と共に身体機能の衰えが進んでいることが分かった。現在は自動車に依存した生活をしているが身体機能は徐々に衰えている。今後は、より慎重な運転に心がけるが、いつの日か運転免許証を自主返納するということを考えた一日であった。


「勤労感謝の日」を考える

2016-11-23 21:26:17 | Weblog

 11月23日は「勤労感謝の日」である。最近は祝日と云っても、国旗を掲げる家も少なく、ただ休日であることのみで、その意義を考える人は少なくなった。私自身11月23日が何の祝日なのかを思い出すのに時間がかかったほどであった。そこで「勤労感謝の日」のことを調べた。「勤労感謝の日」が国民の祝日になったのは、昭和23年7月20日、祝日法が制定されてからである。その中には「勤労をたつとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」との趣旨が書かれている。しかしこの11月23日は、戦後制定されるまで、「新嘗祭」として長い歴史を持っていた。農業国家である日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があった。収穫物に感謝する大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まった「新嘗祭の日」がその起源とある。しかし第二次世界大戦後のGHQの占領政策によって、天皇行事・国事行事から切り離され、改めて「勤労感謝の日」となったものである。

 「新嘗祭の日」は、明治41年9月19日制定の「皇室祭祀令」では大祭に指定され、国民はこの日を祝ってきたが、敗戦により昭和22年5月2日廃止された。これは明治維新後の政府は、この国を神代から続く国家神道を基に国のかたちを進めてきた。それはそのまま第二次世界大戦に突入して敗戦した。GHQは、皇室の行事を国民に押し付け天皇を主権とする国家にしてきたことを嫌い「新嘗祭」を祝日として廃止した。しかし宮中では従来通り行われ最も重要な祭祀となっている。それ故天皇は、五穀の新穀を天神地祇に勧め、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝している。宮中三殿の近くにある新嘉殿にて行われている。

 戦後「新嘗祭の日」は、「勤労感謝の日」として生れ変わったが、戦後教育を受けた私達はそうしたことを知らないで来ている。農耕民族の日本人は、生きていく糧は五穀である。それも七世紀の皇極天皇の時代から続いている(一時応仁の乱から元禄時代に掛け中止している)行事である。その新嘗祭を「勤労感謝の日」に改めたことに違和感を感じる。「勤労感謝の日」なら5月1日のメーデーの日が一番合っているように思う。戦後日本人は、周りの人や他国のことを気にし自己主張しない民族になったような気がする。単純なことではないが日本人の誇りを持ちつづけることも必要であると思う。

 近隣諸国と協調し永遠の平和を築いていくためにも、歴史ある「新嘗祭」を国民の行事として祝日にすべきでないかと思う。いろいろ難しい問題もあるが、これは日本人として大事なことと考える。

 

 


オペラの鑑賞

2016-11-20 23:56:55 | Weblog

 友人からオペラの誘いを受けた。これは静岡を拠点にしたオペラ&合唱の会?「SOLE」が11月19日静岡音楽館AOIで、ドニゼッティのオペラ「ランメルモールのルチア」を行うとのものであった。このオペラは知らないが、ドニゼッティの作品では「愛の妙薬」を聴いたことがあり牧歌的ストーリーに共鳴した。そこでこのオペラを調べると、この第2幕でヒロインのルチアが歌う「狂乱の場」は、悲しみと絶望のあまり錯乱して最後には死んでしまうと言う聴かせどころであり、ルチアを歌う歌手の力量がこのオペラの成功の全てを担っている部分であるとあった。これは一人で15分ほどの間、高音の「ベルカント唱法」で表現し歌い続けるもので、その後のイタリアオペラの劇的な表現の原形となったとも言われている。

 このオペラ鑑賞のため11月19日18時にAOI に行った。会場には400~500人近い人が来ていた。私と同年代の人も何人かいたが、若い人が多く、音楽を目指すと思われる若い人も多く来ていた。既に一階は満席の状態であったが、後席の一つが空いていたのでそこに座った。このオペラはプロのソリストが主要部分を固め、第2幕の婚礼の場面からは合唱や重唱があり{SOLE}のメンバー30人ほどが参加していた。

 このオペラの概要は、17世紀スコットランドが舞台で、ランメルモールの領主の妹ルチアは助けてくれた騎士エドガルドを愛していた。エドガルドは兄の宿敵であったが結婚を約し指輪を交わす。しかし兄の領主は、領土を守るため、裕福な貴族と結婚させようと思っている。そこで兄はルチアを偽り、無理やり裕福な貴族との結婚の契約書を書かせる。しかし後で偽りであることを知り、その貴族を刺して自分も死のうとする。これが「狂乱の場」である。ルチアが裏切ったと思っていたエドガルドは、そうでないことを知り、天国で再会を願いながら自害すると言うオペラである。

 オーケストラが入った完全なオペラでないため、迫力には欠けるところがあったが、やはりルチア役のソプラノ歌手の歌唱力と演技は観客を引き付けた。ルチアという若い女性の役を見事に演じ切っていた。エドガルド役のテノール歌手も魅力を感ずる声であったが。強い声の持ち主で役柄として合っているかと思った。しかし無難に演じていた。そして合唱団はよかった。30人ほどの団員であったが、声の響き演技ともレベルの高さがうかがえた。ピアノ・フルートの人も、うまくオペラを盛り上げ素晴らしかった。これだけでオーケストラに匹敵する効果あったのでないか。情報不足であったが、静岡にオペラに取り組む合唱団があることを初めて知った。

 


「弥生×登呂」シンボジウム

2016-11-19 22:18:42 | Weblog

 平成28年度登呂遺跡出土遺産が国の重要文化財の指定された。これを記念し11月19日市内ユーフォニア会場でシンポジウムが開かれた。この登呂遺跡は1943年(昭和18年)で太平洋戦争のさなか、この地に軍需工場を建設する過程で見つかったものであり、戦後の昭和22年~25年にかけ発掘調査が行われた。この発掘は学生たちのボランティアが主体であったようだが、ここから弥生時代中期から後期にかけここで稲作が行われた村落が存在していることが分かり当時大きなニュースになった。ここからは700点以上の出土品が出たという。これは太平洋戦争で破壊された日本が2000年近い昔ここに農耕村落があり平和に暮らしていたことが分かり、気落ちしていた日本人の心に勇気と希望を与えてくれた発見であった。

 その後、幾たびかの発掘が行われ現在の遺跡像が分かり、その出土品が重要文化財遺産となった。今回の講演は「遺跡から見る 弥生集落のかたち」と題し、最初に登呂博物館館長が登呂遺跡の現状報告を行い、その後、同じ弥生時代の遺跡を持つ愛知県の朝日遺跡、奈良県唐古・鍵遺跡、佐賀県吉野ヶ里遺跡の担当者からの状況報告があった。同じ弥生時代の遺跡でも地域性や取りまく環境の違いがあって、規模や構造、出土品等にも各々特徴があった。その中でも登呂遺跡は柵や環濠も見つからず、当時は穏やかな中で稲作農耕をしていた人がいたことは他との違い平和な印象を持った。

 午後から特別講演として90歳の今でも登呂のことを研究しているA先生から「登呂遺跡調査の意義」について講演した。当時A氏は大学生であったが発掘調査に携わり、戦後の荒廃した本土で目標をなくしている時、我々の祖先が2000年前に弥生の文明を切り開いていったことを思うと勇気が湧いてきと云った。登呂遺跡の発見は、戦後の日本人に大きな希望を与え、発掘開始から一ヶ月も経過しないうちに皇太子殿下(平成天皇陛下)や多くの著名人たちが現場見学に来たとのことであった。現在は調査も進み弥生時代の全容が解明させてきているが、日本人のルーツを知るためにも重要なことで、今回重要文化財に指定されたことは喜ばしいと云ったが、いささか遅きに逸した感があると締めくくった。

 私は、現在登呂の地に住み毎朝登呂遺跡の周りを散策している。ここを歩きながら数千年前この地で水田で米を作っていた人達がいて、ムラを形成し、他の地域のムラと協力しながら文化を築いていったことを改めて思った。そして今ここで生活している私達は登呂遺跡の意義を考え、大切に守っていかなければならないことを感じた講演であった。


町内バス旅行(川越)

2016-11-17 22:08:19 | Weblog

 毎年行われる町内のバス旅行に今年も参加した。昨年は彦根城への日帰り旅行であったが、今年は江戸時代に親藩・譜代の川越藩の城下町として栄えた「川越市」を散策する旅である。この川越は「小江戸」と言われ今も歴史的建造物が多く残り、国から歴史都市と認定されているところである。この東京にも住んだことがある私は、近郊にある川越にはまだ行ったこともなかったし、どの辺にあるのかも知らなかった。そこで事前に調べると、この町は江戸時代以前、江戸を上回る都市であって「江戸の母」と云われていることも知った。

 今回の参加者は38名で、顔ぶれはほぼ昨年と同様の感じで年齢も概ね同年位の人達ばかりであった。指定された集合場所を朝8時にバスは出発した。こうした旅行は夫婦以外、女性は前の方に集まり、男性は後ろの方で酒など呑んで陽気になるのが常である。その中に私も入って家から持っていった缶ビールとつまみを出し、周りの人にも振舞って宴会は始まった。たわいもない話ではあるが、これが丁度良いコミュニケーションになっていて、普段はあまり話したことがない人であっても会話が弾んだ。バスガイドが丁寧に説明してくれていたが、後ろの席では、それは馬耳東風と言った感じで盛り上がっていた。バスは東名高速度道路の厚木ICで休憩した後、どのようなコースを通ったのは分からなかったが、八王子を過ぎる頃、首都圏中央道にいることが分かった。そこから川越まではすぐであった。早いもので、2か所の休憩も挟んでも静岡から3時間で着いた。

 川越の「小江戸蔵里の八州亭」で昼食を食べてから、2時間ほどは自由散策となった。そこで5人ほどで蔵の街「川越」をゆっくり散策した。散策コースは「時の鐘」や蔵造りの建物が仲町から札ノ辻までの500mほどの道の両側に並んでいて昔の風情が感じられた。この地区には多くの観光客が来ていて外国人の姿も目に付いた。ここの散策マップを見ると、この周辺には太田道灌が築いた川越城跡や戦国時代に関東平野の覇権を決する河越夜戦の舞台になった所や、徳川家康のブレーンであった天海が建てた喜多院などもあったが、老人の団体旅行では時間もなく行けなかった。

 帰りのバスは、川越を午後2時に出発し、途中日高市の「サイボクハム」に寄りみやげ等買い、狭山日高ICから首都園中央道に入った。皆さん疲れが出てゆっくり寝ながら帰ろうと思った人も多かったと思うが、町内役員たちがいろいろの企画を披露し車内は笑いの中のいて車中の退屈さもなく過ごすことができた。私も余興にと用意していた詩吟「不識庵機山を撃つの図に題す」も詠ずるすることなく、気が付いたら静岡に着いていた。楽しい旅行であった。


「施設OBゴルフコンペ」で

2016-11-14 22:06:44 | Weblog

 年齢を重ね同僚の中では既にゴルフを辞めた人も多い。そんな中で未だにゴルフができることに感謝しているが、未だ上達したいとの思いは強い。このことを言うなら図々しい人間に思われるかもしれない。ゴルフは年齢とともに下手になり球も飛ばなくなるのは当たり前のことで、それが分かっていても今回のゴルフコンペではよい成績を残したいと準備もしたつもりであった。このコンペは「施設OB会ゴルフコンペ」と言い鉄道部門で施設建設に従事した仲間のOBコンペであり、年4回行なわれている。

 今回のコースは「リバー富士CC」で行うことからもよい成績を残したい気持ちは強かった。ここは以前メンバーとしてよく出かけたところであり思い出の多いコースである。このため、この一週間ほどの間で2回ゴルフ練習場に通い感触を掴んできた。そこから自分の欠点も見つけたように思ったし、その部分を直すこととアプローチはウエッジを固定することがよいことを学んだ。それさえ直せば優勝することも可能かと思った。家を7時30分に出て東名の富士SAにあるスマートチェンジを出るとリバー富士CCまではすぐ近く45分ほど着いた。

 今日は13名が参加していた。静岡県の東部地区2名、中部地区7名、西部地区4名であった。私はSKさん、SRさんと3人で3組目にスタートした。曇り空で、少し寒い感じがしたが、元気よく甲斐コースから出ていった。第一打はフェアーウエーに打ち距離も出ていた。他の2人は林や、ラフであったので、このホールはパーが取れると思ったがボギーとなったが、今日は上手くいくよいうな予感がした。しかしその後は練習で会得したと思えたショットは出なかった。ホームが途中半端なものになり、それを何とか持ち直そうと必死でもがいた。しかし修正できず甲斐コースは、今までで最低のスコアーであった。

 昼食後、駿河コースから出た。SKさんは、飛距離も出るし余裕のラウンドであったが、私とSRさんは、どうしたら上手くいかないのかと考えながらの状況で推移した。OBこそ出なかったが緊張感も慎重さもなくなって来ていた。挽回することなく最終ホールまで来た。このホールも距離が長いミドルホールであったが、気持ちを落ち着け第一打を打った。上手く打てたような気がしたが、SKさんには30ヤードほどの飛距離の差があった。それでも3オンしたがここもダブルボギーとなった。午後からは冷たい雨も降ってきていたので疲労感は限界であった。結果は13人中12位という情けないものであったが、今反省するに、2日間の練習でホームを変え球がまっすぐ飛ぶようになったように覚えたが、これだけでコースに出て結果を残すことはできないことを、そして地道な練習により身体にすり込まれたホームでない限り結果はついてこないことを改めてわかった。


演劇を鑑賞する

2016-11-13 22:17:06 | Weblog

 静岡県川根町を舞台にした演劇「高き彼物」が静岡の芸術劇場SPACで行われた。以前はあまり興味を持たなかった演劇であったが、最近演出者と役者との妙味を感ずるようになってからは時たま行くようになった。SPACでは10月の「東海道四谷怪談」に続いてであるが、今回のストーリーに興味を持ったのも事実である。それは静岡に近い川根町が舞台であって、ノンフィクションなのかもしれないが、この物語が私が30代半ばのころの話であり、それにも興味を持った。

 会場に入ると、ほぼ満員の状態で、前列に近い指定された席に座った。会場には若い人も多く演劇に興味を持った人が多いことを知った。物語の概要は『1978年夏、川根町の雑貨屋が舞台であり、前年友人をバイク事故で亡くした高校生Aは、友人を死なせてしまったのに、友人の過失にして処理されたことへの罪悪感から立ち上がれずいた。Aは、1年経ったその事故現場に来て懺悔の気持ちで一日佇んでいた。近くに住む雑貨屋の主人Bは、怪訝に思いAを家に連れてきて、傷心している彼に対して、時には熱く、時にはおおらかに、心の傷を癒そうとする。そのBも、高校教師のとき、一人の複雑な家庭の学生を救おうと尽力したが、その時の自分の不注意から学校を辞めなければならなくなり実家に戻っていた。AもBも、正しく生きたいと願う気持ちを持ちながら、そこには人には言えない秘密を持っていたのだ。その葛藤の中で笑い、涙、驚きがあり、人間の多面性を享受していく様を巧みに描かれた内容であった』

 この中で好演したのは、雑貨屋の主人Aで、設定された年齢より若く見え、落ち着いた貫禄はなかったが、内面から出る表現は、登場する人物を一つにまとめ、ややもすると深みのない劇になりがちなところを、上手に纏めていた。そのわき役たちもよかったが、その中でA(寡夫)を慕うCは、自分の気持ちを、ストレートに伝えたいのにそれが出来ないもどかしさと、ここぞと思う一場面での演技は彼女の密かさが伝わる名演技であったと思う。それにお祖父さん役の役Dの朴訥とした演技もこの劇になくてならない人物であったように思った。

 この演劇を見て感じたことは、人間は生きてきたことを振り返ると、誰しもがその過程でいろいろの難題に直面してきている。それは、後に大きく引きずったものもあるし、時間の経過とともに解決され、忘れ去られることもある。そうした経験が人間を形つくり年輪として刻み込まれるもので、それが生きていくことだと思う。表面的には、幸福そうに見えていても外面に出さない心に残る傷をどのように解決していくのかを考えさせる内容であった。