Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

風邪をこじらす

2009-06-28 22:28:32 | Weblog
 北海道旅行から帰ってきた翌朝目を覚ますと、のどの辺が痛い。唾を飲み込むと
のどの奥が当たるような痛さがある。
 うがいをして、朝食を食べる頃には余り違和感が感じなくなっていた。翌日も朝起きると口の中がカッラカッラである。いままでこのようなことはなかった。
しかし、うがいをした後は、普通にしていられるがなんともすっきりしない感じである。風邪でも引いたのかなと思ったが、体温を測ったが、35,5度と私の正常値である。
 その内に鼻水が出てきた。その日は早く寝ればと思い午後10時前には寝た。
熱はないが、夜中に汗を掻くし、日中は鼻水が止め処もなく出てくる。
 やはり北海道旅行で風邪を引いたらしい、忠告も聞かず旅行中半袖のシャツだけで過ごしたことが悪かったのだと思う。
 しかし帰ってからは、庭の手入れや、介護施設のボランティアにも行った。寝込むこともなかったが、2日ほど前から鼻水が出る、余りに鼻をかみ過ぎたので鼻の下が赤くなって痛い。
 今日27日は朝起きると今度はセキが出てとまらない。どうも風邪をこじらせてしまったらしい。頭も痛くなってきた。
 今日いろいろ予定が入っている。午前8時からの、町内の資源回収は理由を言って代わってもらった。
 それ以外約束していた「Sさんの習字展覧会」「名曲をうたう」「知事選居の応援」「合唱団の練習」全てをキャンセルした。
 こんなことは始めてである。こんなときは悪いように考え、新型インフレエンザにでも掛かったのではないかと思っても見た。そこで正午近くに、掛かり付けのS病院に出かけた。いつも込んでいるが、今日はたまたまか空いていてすぐ医者が診察してくれた。
 そこで医者から言われた「ただの風邪ですよ」と、今まで何度か風邪を引いたことはあったが、のどが痛くなって、このような状況が続くことは、今までなかった。
 医者は「安静にしていれば直りますよ」と言って、沢山の薬をくれた。
今日は無理しないで、薬を飲んで寝ることにする。
                     6月27日のことを記す。

 

北海道旅行(7)

2009-06-27 17:50:27 | Weblog
 この旅行の目玉は、寝台列車カシオペアに乗ることである。ツアー参加者もきっとこれを目当てにしているものと思う。
 妻は鉄道が好きであるが、寝台列車の旅は特に好きであるように思う。今まで寝台列車には「ハヤブサ」「富士」「北斗星」と乗ってきた。最初の「ハヤブサ」は
子供達の希望で家族みんなで鹿児島へ行ったが、その後は夫婦だけの旅であった。
 これまでの寝台列車は国鉄時代から走っていたもであったが、今回の「カシオペヤ」はJRになってから、利用者のニーズと技術を駆使して作製した寝台列車であり、人気があると聞いていた。
 私たちは部屋は9号車の11番であった。最初は10号車の予定であったが、水のトラブルがあり事前に急遽9号車に変更になった。
 この寝台・個室のタイプはリビング兼寝室が、一階と二階にそれぞれあり、リビングと使用するときは、ソファーのそばにある折りたたみ式テーブルを使用出来るし、寝るときはソファーを倒すとベットとして利用できる。それにTV.洗面所.トイレなどが完備している。
 私達はその1階にある部屋あった。ちょうど目線がプラットホーム面であり、視界はあまりよくないが、揺れも少なく安定している。
 午後7時ごろまでは外もまで明るく、暮れ行く北海道の景色を眺めていた。
途中の洞爺駅では5分以上停まった。近くから来たのか、カシオペヤの外観を見に自動車の中で、母親と子供がずっと見ていた。きっと子供がカシオペヤが通るのを知っていて、母親にせがんで来たものと思う。私が手を振ると子供が笑顔を浮かべて手を振り替えして来た。きっと鉄道が好きな子であろうと想像した。
 しばらくして12号車にあるラウンジカーに行ってみた。6~7人の大人がそこに座り景色を眺めていた。最後尾車であり、180度以上の視界が広がっているここも中々いいものだ。
 大沼公園を通過する頃は既に日が暮れ闇夜の中を走っていた。
夕食はカシオペヤスペシャル弁当が用意されていたので、小樽で買ったワインを飲みながら食べた。
 ワインを飲み終わるころには眠気がさしてきた。たぶん午後8時頃だったと思う、ベットに作り変え寝た。すぐ眠ったが、振動も気にならなかった。
 午前4時ごろ目を覚ますと仙台近くであることが分かった。そのまま横になっていると、妻も目を覚まし、明るくなってくる外の景色を寝ながら眺めていた。
 上野に着いたのは午前9時25分定刻どうりであった。
雑踏の中を、電車を乗り継ぎ、東京発10時05分の岡山行き新幹線に乗り込んだ。そこからは寝てしまい、静岡に着いたのは11時を少し回っていた。無事に家に着いた。
 今回は往復とも列車の旅であった。便利さでは飛行機に叶わないが、ゆっくりとした列車の旅も、楽しいものであった。    完 
                  6月20日から23日のことを記す。

北海道旅行(6)

2009-06-27 15:38:14 | Weblog
 札幌市内は車窓から眺めた。都会であり道も広いし行交う人も多い。町の中央近くに広大な敷地の北海道大学のキャンパスの横を通った。ここが開拓の精神をうえ付け、北海道の開拓に大きく貢献した大学である。有名なポプラ並木やクラーク博士の銅像は見ることが出来なかったが、印象に残るところである。
 「大通り公園」では、バスを停め写真撮影の時間を取った。噴水のある箇所から、タワーの近くまで歩いた。ガイドの話では、つい先ごろまで「よさこい祭り」がこの公園で行われ全国から人が集まったと言った。
 風が少し吹いていたが、公園の周りにある樹木から、白いものがひらひらと落ちてきていた。確かこの木は「アカシヤの木」ではないかと思った。聞くと「ニセアカシヤの木」と教えてくれた。そういえば「60年安保」の頃流行った西田さちこが歌った「アカシヤの雨がやむとき」がこの光景を歌にしたのではないか、と思った。
 そこから札幌駅はすぐ近くであった。昼食は駅ビルの9階にある「ミクニサッポロ」と言うフランス料理の店である。
 この店のオーナーシェフは北海道留萌出身の三国清三である。日本を代表する料理家であることは、微かであるが知っていた。
 私のような舌がこえていない人間にはフランス料理のことは分からないが、ツアーの団体として入った。
 6人ずつ3つの円形テーブルに着いた。私のテーブルは80代Aさんと60代のBさんご夫妻と一緒になった。
 ここでビールを飲みながら会話した。Aさんはご夫妻とも長野県上田の出身で、現在は所沢に住んでいるという。会社に勤めていたときは、仕事の関係で北海道はよく来ていたが、奥さんに北海道を見せたいと今回のツアーに参加したとのこと。年齢が高齢であるが、博学で機知に富んだ話をした。奥さんとよく旅行をするが、いつもこれが最後との思い来ていると言っていた。妻とは同郷(諏訪)であり、話が合っていたが、仲の良い夫婦である。
 Bさんご夫妻は、上尾から来ているという。生まれは新潟県の日本海近くの○○町と言ったが名前は思い出せない。余り言葉を発しないが、時事や地域のことをよく知っていた。まだご夫妻とも若くて、活動的でありどのような仕事をしているのか私なりに判断するに、作家とか、コンピューター関連の仕事をしている人ではないかと思った。1時間ほどの食事を挟んでの会話であったが、2人とも知的会話のできる人であった。
 食事の後は寝台列車カシオペアの発車時間16時12分までは1時間以上ある。
みやげを、この時間帯で買おうと思っていたので、その後札幌駅コンコース中を歩き回った。

北海道旅行(5)

2009-06-27 00:49:17 | Weblog
 観光バスは午前8時30分にホテル前を出発した。
このバスはジェイアール北海道の観光バスである。名前を留めなかったが、運転手
は愛想の良い、いつも笑顔の40代前半の人であった。
 ガイドさんは、20代後半と思える人で、明るく丁寧に説明してくれた。好感の持てる2人であった。
 私もJRの出身であり、JR北海道が分割民営により、厳しい状況からスタートしたのは知っていた。それから20年が過ぎたが、今のJR北海道はその中で生まれ変わって来たことを垣間見る思いがした。「ジェイアール北海道頑張れ」と声援を送りたい。
 バスは白老、苫小牧を走っていく、原野の中に時々馬とか牛を放牧している緑地が現れる。ガイドの話では馬の牧場は競馬馬の終の棲家として、篤志家が作ったものだと言った。きっと競場馬で財をなした人だと思う。
 ここまで来ると天気は今までのことが嘘のように晴れてきた。
千歳を過ぎて札幌市内に入ってきた、北海道の首都は石狩平野に広がる200万人が住む都市である。ここに来ると原野の多い北海道とは思えない高いビルが乱立している。それを高速道路の高架の上から眺めていた。
 札幌の隣の町が小樽である。そこまで民家が繋がって小樽に入った。
この町は、10年ほど前妻と観光できたところでもある。しかしその時の記憶では運河のある部分とみやげ物店が並んだ場所とは同区画にあったと思っていが、それは違っていて離れた場所にあった。年齢からか記憶が曖昧になっている。
 メルヘン交差点で記念写真を撮って、皆と分かれて、私達は運河沿いの道を歩いた。昔と変わらない絵画とか、小物売りが並んでいた。そこに小さな売り台を出して、輪切りの木に別の細い木を埋め込んで顔などを作って、ペンダントとして売っている人から声がかかった、「お客さん見るだけでいいから」と言ってその小物を説明してくれた。話によると幸福を呼ぶペンダントであると言う。商売っ気がない素朴な感じの人であったので、その一つを買った。1000円であった。それを子供にやるようにと妻に渡した。2時間ほどの間、みやげ物店を回ったが北一ガラス店でワイングラスを買ったぐらいである。
 この町はエキゾチックな雰囲気があり、かって満州や中国との貿易が盛んな頃の雰囲気を感じさせる町である。
 バスに乗ったのは午後1時を回っていた。これから昼食をする札幌に向け走った。
  

北海道旅行(4)

2009-06-26 13:02:59 | Weblog
 登別温泉のホテルは「まほろば」と言った。資料には日本最大級の露天風呂とあると書いてある。今日は疲れたのでゆっくり風呂に入って早めに寝ることにした。 露天風呂は確かに広かったが、この温泉には4つの泉質が引かれていていた。その内の幾つかの温泉に入った。
 夕食も軽めにして、9時には床に入った。
 40数年前登別温泉に来ている。時期は9月末から10月初めであった。男子40数名で、若さ丸出しの旅行であった。その旅館は確か第一滝本ホテルであったと思う。その地下にあった大きな露天風呂は湯煙で遠くが見えなかったが、女性の声が聞こえた。後で分かったがそこは入口は違っていたが、中は混浴の露天風呂であることが分かった。そんなたわいのないことを思い出した。
 朝は5時近くに目が覚ました。朝風呂に行こうかと思ったが、その前にこの近くを散策しようと外へ出た。小雨が降る天気であったが、ホテルの傘を借りて地獄谷のほうに向かった。そこから第一滝本旅館は100mほど離れたところにあった。 そこを左手に見ながら山のほうへ歩いた。まだこの時間では人と会うことはない。そこから5分も行かないうちに地獄谷の駐車場があり、その先は岩肌から湯気が上がっている地獄谷が広がっている。硫黄のにおいがし、流れる川は白く濁っている。それを迂回する散策路をひたすら歩いた。
 途中道が分かれ、右に入ると100mほどいった所に柵で覆われた間歇泉があった。立札に、湯温90度の間歇泉です。危険ですから近づかないでくださいとある。その湯面は静かであったが、5分ほどすると、湯面が盛り上がり、湯が吹き上がった。それを眺めていたが、50cmほどの高さまで吹き上がり静かになった。
 これは小規模であったのかは分からないが、湯気とも靄とも判別できない地獄谷の中で、傘を差して10分ほど眺めていた。
 そこから引き返しもっと奥へ散策路を歩いた。雨の中の静寂と誰とも会わないところを一人で歩くのは少し心細くなる。40分ほど経ったので、もと来た道を帰ることにした。駐車場近くまで来ると、3台の観光バスが止まっていて、団体客が地獄谷を展望できるところに集まっていた。中年以下の親子ずれの集団である。日本語は話していない、中国人か韓国人の旅行者のようだ。大きな声で会話をしている。何かアジア大陸のパワーを感じさせられる光景であった。
 ホテルに着いたのは7時少し前であった。

北海道旅行(3)

2009-06-25 11:38:25 | Weblog
 団体バスは次の目的地に進んだ。日曜日であるのに道路は混雑していないと言うより、余り車は走っていない。
 新緑の中を通って行くと、いくつかの湖面が広がる大沼公園に着いた。天気は快晴となった。ここからみる沼と緑それに駒ケ岳のコントラストはなんともすばらしい。どこかの書物に書いてあったが、この風景は新日本三景の一つと言ってよいと、確かに頷ける。
 昔駒ケ岳の噴火によってこのようなたくさんの沼ができ、左側が高く尖った稜線の駒ケ岳は、アンバランスであるが自然の中で映える。
 時間が45分程あったので、散策路を歩いた。そよ風が吹いて、少しヒヤットする空気を感じた。静岡にないさわやかな空気だ。歩く途中碑があって、新井満がここで「千の風になって」をイメージして作曲したところとなっていた。
 確かにこの雄大な景色から出来た曲であることが納得できる。
 そこからバスに揺られ内浦湾を北上して登別温泉に向う。森町、長万部町を通った。
 この地名から、思い出すことがある。森町のことは第2の職場のN社にいた時のこと、この森町出身者が3人いた。年齢は私より7~8歳若かったがN社に入ったのは一期生と2期生としてである。N社は新幹線の保守をする会社であり、高速鉄道の線路保守する会社である。現在はJRの子会社として成長しているが
、当時はどのような会社になるか分からなかったところであり、本州の学校からは余り応募者がなかったと聞いた。この北海道から不安な気持ちを持って、3人は青函連絡船に乗ったことが想像がつく、幾多の苦労もあったが彼らは会社の中枢として活躍している。その彼らの出身地が森町であり、そんなことを思い出した。
 長万部は、まだ20代で鉄道の学校にいた時の同期の出身地である。彼は電気を専攻していて、私とは別であったが、部活動は同じ道場で私が柔道、彼が剣道をやっていた。長身で背筋がピンと伸びた彼の身こなしは、強くて格好が良かった。
 たまには話したが、それ以上のことはなかった。
 その彼とは10年ほど前東京で偶然あったが、話を聞くとハイビジョン関係の仕事をしているといっていた。年はとっていたが、昔と変わらない紳士であった。
 それだけであるが、この町を通ると彼のことを思い出した。
 長万部を過ぎると、外気温度が下がりこぬか雨が降ってきた。北海道でも支笏洞爺国立公園の南側は山に囲まれ天候の変わりやすいところであるとバスガイドが話したが、登別温泉に着くころには、傘が必要なほど降っていた。

北海道旅行(2)

2009-06-24 20:39:37 | Weblog
 函館駅からバスに乗って湯の川温泉のホテル啄木亭、飛天別館に着いた。ここが今日の宿である。この湯の川温泉は函館から北に2km程のところにあり、平野の中にある。落ち着いたたたずまいであり、土曜日と言うこともあって旅行者であふれていた。午後8時に函館山の夜景を見に行くことになっていたので、その前に入浴と夕食は済ませた。
 夕食は少し量が多い感じであったが美味かった。妻は食べきらないのか、何品かを、私のお膳の上に置いた。それも含めて全部食べた。その中でも特に毛蟹がおいしかった。
 その後バスに揺られて函館山山麓まで行き、ロープウエーに乗った。曇りであり、ややもやがかかったような状況であったが、それでも夜景は見られるものと思っていた。しかし上がり始めて少し経つと、はっきり見えた灯りがだんだん小さくなり、上るにしたがい消えてしまった。それからは、夜景どころではない真っ暗な闇だけが広がっていた。 40年近く前来た時は、すばらしい夜景を見て、感激した。妻は初めてであり何とも残念であった。闇の中での展望台ではどうにもならず、直後に降りることにした。
 ホテルに着いたが、すぐ睡魔に襲われ温泉にも入らず寝てしまった。
 翌朝は函館観光である。昨日と違って、晴れ間が見える天気である。函館・本町の散策時函館山は山頂まで見えていた。
 話を聞くと、この地区は左右を海に面しているため、天気の変動が激しいところであり、一日の内でも函館山が見えたり、雲に隠れると言ったがその通りであった。
 五稜郭はタワーの上から見た。ここからは城郭がはっきり分かり、整備された緑の木々は目映いばかりの光沢を放っていた。これは桜の木らしく、満開時の美しさが想像できる。時間があれば城内を散策したいところであるが、団体旅行のため、バスで次の目的地に向かった。
 私が函館で思う時、石川啄木と土方歳三の2人のことだ。石川啄木は確かな記憶ではないが、函館新聞社に1年か2年過ごしたところである。その地を自分の終焉の地としたことに違和感があった。このことが解明されたわけではないが、海辺にたたずむ彼の像を見て、想像できた。
 土方歳三は、自分の意思とは裏腹に、時代の流れの中でますます孤立感を深めていく過程で、この地を終焉の地としたことの決意を感じた。
 歴史のロマンを感ずる街であり、いずれの日にか、ゆっくりと散策したいと思う。
 

北海道旅行(1)

2009-06-23 15:09:45 | Weblog
 早朝から忙しい時間を過ごして、今東京駅10時56分発「はやて15号」の車中にいる。H交通社が企画した「○○で旅する北海道4日間」の旅に妻と参加した。
 北海道には数度来ているが、6月に来るのは始めてである。この時期の北海道は春から夏にかけての一番良い時期であると聞いていた。函館山の夜景、大沼公園風景、小樽散策、カシオペア寝台列車に乗るのを楽しみにしている旅行である。
 歩くことが困難な90歳の母を連れて行くわけにもいけず、妹達に話したところ「私達が見るからいってきて」と言ってくれた。
 川崎の妹は、今朝7時30分には家に来てくれた。高速道路を使っても2時間ほどかかるが、早く起き自動車で来てくれたものである。
 静岡にいる妹も、母に親孝行できると言って快く引き受けてくれた。
母も2人の妹と過ごすのはうれしいのか「心配しないで行っておいで」と言って
妹達と静岡駅まで見送りに来てくれた。
 この企画は東京駅コンコースの八重洲口東側が集合場所であるが、その時間には間に合わないことから、直接「はやて15号」到着ホームでツアーの皆さんを待った。
 今回のツアーは18人参加であり、年齢も概ね私達と同じ齢の人ばかりである。何人かに話したが、寝台列車カシオペヤに乗るのを楽しみにしていると言う人が多かった。私達も寝台列車に乗るのが大きな目的であり、特にカシオペアは憧れの列車であった。
 車窓から見る景色は緑の森の中を走っているような錯覚するほど、新緑あ多く綺麗であった。静岡で見る緑より若い緑の感じである。北へ向かうにしたがい、新芽が出るのが遅いのか、新鮮な緑を感じた。東北新幹線の最北端八戸駅に着いたのは14時03分、すぐ白鳥15号に乗り換えた。野辺地駅、浅虫駅を通過したが昔来たことがあり、思い出の地である。そんなことを思いながら車窓を流れる風景を見ていると、青函トンネルに入った。
 途中竜飛海底駅で停車した。この場所は青森側にある海底駅で、ここから240mの海底を通って全長53.9kmのトンネルを抜ける。
 私も過って国鉄の土木技術者であった。この海底トンネルで技術者が軟弱地質で苦労したのは良く知っていた。軟弱地質に伴う湧水に苦戦苦闘した人達のことが浮かんだ。その苦労があって、本州と北海道を結ぶ世界一長いトンネルが開通したことを思った。
 トンネルを抜けると、雲間が広がっていて、もやった感じの天気となった。今日の函館山の夜景は大丈夫であってほしいと思いながら過ごすと函館駅に着いた。
 まだ明るいが、時間は17時33分であった。   6月20日のことを記す。 
 
  
 

今感ずること

2009-06-19 10:26:46 | Weblog
 政府が17日に発表した6月の月例経済報告で、景気の貴重判断を『厳しい状況にあるものの、一部に持ち直しの動きがみられる」とし、2ヶ月連続で上方修正した。
 生活実感としてはとてもそのようには思えない。しかし政府が持っている資料を分析して判断したことであり、信用したいと思う。
 そこでこれに関連して、今感じていることを記したい。
 昨年9月ごろから急落した景気悪化は、リーマンブラザースの経営破綻にたんを発したように言われている。しかし視点を変えれば石化燃料によって急速に成長してきた世界経済は限度がきて、行き場を失い景気急落したのだと私は思っている。このことは思い違いであるのかもしれないが、そのように感ずる。
 それは近代100年ぐらいにわたり栄えた先進国が石油等石化燃料を使って伸びてきた経済は早すぎたスピードにピリオッドを打たなければならない時期に来ているような気がする。
 地下に眠る石化資源は、掘削技術が進んだことで大量の資源を簡単に手に入れることが出来るようになった。それにより生活様式は急変し、便利さは格段に良くなった。そして人間の持つ、あくなき快楽への追求は、それに反比例してでる弊害を軽く考えていたふしがあった。ゆえにこれを使う先進社会は大量に使うことで起こる弊害が分かっていながら、弊害を取り除く研究開発に目をつぶり、実害の出て、規制されるまでどんどん使い続けた。
 しかしここに来て、地球規模で大変なことになることが、私のような知識の余りない人まで分かってきた。
 そこで、石油等に変わるクリーンエネルギーへの転換を考えたり、石化燃料でもCO2を排出を抑える技術の開発に力を入れてきた。
 しかし発展途上国は、今まで垂れ流しに使い続けてきた先進国がCO2の排出を15%減らすから、これに倣って削減しましょうといっても、納得出来るはずがない。
 だから国連に加盟している国が排出規制部会で行っている討議も纏まらないと思う。
 要は安いエネルギーを享受し続けた国とこれからこのエネルギーを使って発展していこうとする国が、同じ規制をかけましょうでは拉致が開かない。
 今回の経済不況は、安易に使っていた石化燃料による経済成長が限界に来たものであり、この不況下で思い切ったエネルギーの方向変換しなければならないと思う。それは経済の多少の後退があっても、ここでCO2に出さない技術開発とクリーンエネルギーへの転換をやるべきと考える。
 少し時間もかかるがその技術をもって世界の全ての国が享受出来る仕組みを作る
ことが必要である。
 日本も50年ほど前までは、CO2の排出を樹木が吸収するエコ社会であったのだから。 

昔はエコ社会

2009-06-17 18:20:02 | Weblog
 先日6月10日麻生総理は、温室効果ガス削減の中期目標を2020年までに2005年比で15%削減すると胸を張って発表した。
 しかしドイツ・ボンで開催中の国連気候変動枠組み条約の作業部会は、日本政府代表団が発言しても、会場からは拍手も起きず、冷ややかな空気が流れた。首相が強調した「世界をリードする目標」は早くも出ばなをくじかれた。
 この中期目標は①太陽光発電を現状の20倍に増やす。②新車販売の半分程度をエコカーにする。③新築住宅の8割を次世代省エネ基準に適合させる。などの国内対策が前提である。上記は朝日新聞に載った記事である。
 石化燃料は、ここ100年ほどの間に大量に使用されるようになり、生活様式も急変した。このCO2の排出によって気象の温暖化が進み、いろいろなところに影響が出ている。南極の氷が解けて南太平洋のツバルのように海面が上昇して沈んでしまう状況のところもある。
 日本では高級米の生産地である新潟県魚沼地区の「コシヒカリ」は温室効果ガスの排出によって高級米が取れなくなり、現在は北海道が高級米が取れるところとなった。これは温暖化により、稲作に最適の地であった新潟より寒い地区の北海道に移ったとのことであると聞く。
 そこで、石川英輔著の「江戸時代はエコ時代」を読んだ。
140数年以前の江戸時代は、出したCO2を完全に吸収できる社会を築いていた。
 確かに現在のような便利な文化的生活ではなかったが、自然と共有した合理的な社会であった。
 比較すると、現代の日本人は、平均すると毎日一人当たり約12万5000キロカロリーものエネルギーを使っている。そのうちの約85%は、つまり10万キロカロリーのエネルギー源が石油、石炭、天然ガスなどの石化燃料である。
 われわれは、これだけのエネルギーを消費しながら21世紀の文明生活を営んでいる。しかし江戸時代までの先祖は、人力による消費エネルギーとして計算してもせいぜい一日あたり1000キロカロリー程度であるから、10万キロカロリーに対して1%。計算誤差にすぎない量である。
 この江戸時代は、人力エネルギー以外は太陽エネルギーで、植物を徹底的に利用することでエネルギーの少ない文化を成り立たせていた。
 戦後の日本社会は、より高度の文化的生活を希求し、手近かな石化燃料をふんだんに使い成長してきた。しかしそれも行き詰まり、クリーンな代替エネルギーにシフトする時期に来ている。総理が表明した中期目標では現状を踏襲した削減目標であり、これでは地球を救うことはできないように思う。
 江戸時代のエコ社会を基に、産業構造を見直す削減が必要であるような気がする。