Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

有料老人ホーム

2008-10-31 22:22:49 | Weblog
 今日の手品のボランティアは葵区にある老人ホームである。
このホームは安倍川沿いにあり、進入路は分りづらかったが近くで見ると、やはり落ち着いた雰囲気を持った建物であった。
 玄関を入ると介護スタッフがシアタールームに案内してくれた。この部屋は45㎡近くあり、周りのソファーが並べられ着替え等を行なうようにと準備された部屋である。今までで一番良い施設だ。
 この老人ホームは4階建ての介護付き有料老人ホームである。交通の便もよいし、町の中心地まで近い距離にある。この老人ホームは今年の4月に開設されたもので、健康、医療、介護それぞれのサービスが連携した高齢者施設である。全てが個室(夫婦可)となっていて、ここに入っていて、屋外に出ることもできるし、旅行をする人もいるとのことである。新しいタイプの老人ホームである。
 手品の仲間「あすなろ会」が慰問の要請を受けたのは2ヶ月ほど前であった。
平日の午後2時からであり、仕事を持っている人は中々参加できない。今回もリタイアした8人が集まった。
 K先生も病気を押して参加してくれた。先生がいると、全体に芯が通って緊張した中で手品が出来る。居るだけで存在は大きい。8人が各々の手品を披露して最後は先生の十八番「浪曲手品」で締めくくった。
 しかし先生の手品に以前の力が感じられない。声にも張りがない。体調の衰えを感じざるをえない。それでも先生は意思で参加してくれる。当人はこうした所に出てくることが励みになるという。無理のないようにと思う。
 この施設に入っている人は、多少生活のゆとりがある人なのか顔に柔和さがあるように思えたし、手品の反応も良かった。
 そんな中に見覚えのある人がいた。私がS鉄道管理局に勤務している時の上司で私より15歳ほどの年配者である。品のある穏やかな人であまり怒られた記憶はなない。
 終わった後その人のところに行き、私を覚えていますかと尋ねると「分っているよ、良いことをしているね」と云ったが後は会話が続かなかった。会釈をして部屋のほうえ帰っていった。少し会話をしたいとの思いがあったが、あまり立ち入ることも出来ずそのまま別れた。
 現職の時は家族にも恵まれ、うらやむほどの人であったが、15年の歳月はどのようになったのか知るよしもない。
 8人はお茶を飲みながら「お金があればこのような所で余生を送りたいものだね」といった会話が、耳に残っている。    10月29日のことを記す。

旅行打合せ

2008-10-29 23:33:05 | Weblog
 町内会のバス旅行が11月20日にある。既に41名の参加者があり、旅行代も集金できた。旅行会社との最終打合せを午後5時に我家で行うことになった。
 旅行会社からUさん、町内会の旅行委員のSさん、Hさんと私の4人である。
旅行の幹事としては、みんなに喜ばれる旅行にしたいと考えるのは誰も同じであるが、初めてのことでありいろいろ考えてしまう。
 それに満席に近い41名が参加してくれたことは、町内の皆さんの協力と旅行委員の皆さんのお陰と感謝している。
 旅行委員のSさんとHさんは一番骨を折ってくれた人であり、今日の打合せに入ってもらった。Sさんは前年の幹事であり、その経験からいろいろアドバイスをお願いしてある。
 Hさんは婦人部の旅行担当者であり、多くの人に声をかけてもらい多数の参加が出来たのもHさんのおかがと感謝している。
 Uさんは、旅行会社の中でも腕利きの営業マンであり、この人に任せておけば大丈夫ではないかと思える感じを受ける。話すと優しい声で話すが、身体は大きく押し出しのきく人である。午後5時には全員が顔を揃えた。
 最初に私から旅行会社への質問と言う形で話に入った。
添乗員の配置の有無、昼食のこと、バス内での施設の使い方、参加人員の変更時のキャンセル料等を聞いた。丁寧に答えてくれて、立て板に水の話であるが、その中で、バスの中ではシートベルトの着用が強く言われた。以前のように参加者がバスの中で動くことは出来ない。
 バスの中での余興等は難しい、バスガイドに任せる以外なさそうである。
考えている旅行の楽しみ方を考え直さなければならないと感じている。シートベルトの規制が強くなるとバス旅行の楽しみ方も変わってくる。
 Uさんが帰った後、3人で旅行委員の分担、町内会からの補助金の使い道等を話した。始めての私より、SさんHさんはバス旅行の企画を経験しているので、私が気が付かないことまで、いろいろ教えてくれた。
まだ20日以上ある。あまり根をつめないで自然体で行こうと考えている。




 
 

高齢な母

2008-10-28 23:11:52 | Weblog
 昨日鉄道OB会の懇親会が駅前のAホテル午後4時からあり、160人ほどが集まった。幾つかのOB会の内、これが一番大きなOB会である。毎年この時期行なわれるが多くの先輩が集まるので、極力出るようにしている。そんな席であり酒を注いで回ったが、酌を返されつい飲みすぎてしまった。自分を反省している。
 このOB会に出かけようとしているとき、母が行っている介護施設から電話があった。時間は午後3時を少し回った頃だった。「ふぢさん(母)が急に脇腹が痛がり声も出ないような状態になった。病院に連れて行ったほうがいいと思うが家族に来てほしい」旨連絡があった。
 直ぐ迎えに行くと歩くのも辛そうにしている。直ぐ行きつけのS医院に連れて行き、付き添いを妻に頼んで、私は30分ほど遅れてOB懇親会に向かった。
 バスの中から妻に母の状態を聞いてみると、医師は「内臓には問題がないので、筋か筋肉をひねったものと思う」といって痛み止めを出してくれたと言う。私も少し安心した。
 懇親会を終わって家に帰ると既に母は寝ていたが、脇腹の痛みはまだ続いていたと言う。
 今日午前中に改めてY整形外科に母を連れて行った。この病院はいつも込んでいて、診察まで3時間以上かかった。レントゲンの結果は肋骨は細くなっていて、医者も「骨が細いので咳をしても折れそうですね。それでも骨折した所は見えないので、痛め止めとシップ薬を出しておきます」と言う。
 内臓が悪いのでなく、骨折が見られないので少し安心したが、痛いのは続いていて椅子に座っても、歩く時も顔をゆがめて痛がる。昼食を食べて直ぐ寝かせた。何時もは陽気な母が、あまり言葉も出さず、痛そうにしている。急に弱くなってしまったように感じた。
 90歳と言う年齢は、チョットしたことで急に弱くなるものである。何時も陽気な母がいないのは、家全体がくらい気持になる。
 このまま治ってくれれば良いがと思うが、どうしても良くならないなら、総合病院に行かなければならないか。
 元気そうな母ももう無理がきかな身体である。以前していたコルセットを見つけ胸部に巻いたが少し良さそうである。これからはより注意して見守らないといけないと思った。


第九合唱練習

2008-10-27 11:49:53 | Weblog
 10月に入って音楽に関わる時間が多い。私のブログも、そのことについての記載が目立つ。秋から冬にかけては全ての活動が緩やかに時の流れに委ねているようである。こうした観照する時期は音楽が受け入れやすいのかと思う。
 私が退職した時、活きているバロメーターとして年末にはベートーベンの交響曲第九(歓喜の歌)を歌おうと思った。
 3年目を迎えて、その気が衰えないのはうれしい。しかし最初の年は6月頃から月2回の練習に通い、且つDVDを買って自動車の中でも聞いて覚えた。正確ではないが暗譜で歌えるようになった。そんなことから今年は練習に行くことも少なくなっている。
 それでも10月に入ったら、行かないとみんなの足手まといとなってしまうと思い練習に参加した。時間は午後7時から9時までの2時間である
 月2回だから4,5回の練習して本番を迎えることになる。少しきついが何とかなるかと思っている。この第九は今年で18回を数える「市民による演奏会」で歌える人なら誰でも参加できるし、合唱団として和やかな雰囲気であり、レベルの高い内容の追求は教える側にあっても、私のようにただ歌いきりたいとの思いだけで参加している人も多いと思う。だから中学生ぐらいから80歳代の人まで来ている。
 この合唱を指導しているKさんと言う方は、年齢は私より上だと思うが、温厚な人で教え方が上手い。直接聞いたことではないが、音楽の教員をされていてこの市民合唱団の育ての親といわれている。私とはあまり面識はないが、私に話しかけてくれた。「よく来てくれましたね。声を出すことによって健康になるし、高い声も訓練によって出るようになりますよ」こんな気さくな言葉をかけてくれる。
 きっと私が中々参加しなかったので、気にかけて話してくれたものと思う。パートはテナーであるが、透き通った声は良くひびく。
しかしこのメンバーには高い声が出る人がいて、合唱の中でも目立っていい声である。私が「良い声ですね、どのくらい高い音が出ますか」と尋ねると「ゲーぐらいですか」と言う。これは第九のテナーが出す最高音である。この音が無理なく出るのには驚く。話すと医師をやっている方で、腹筋を鍛えると高音がぶれなくなると言う。素晴らしい声を聴きながら、私も腹筋を鍛えようと思う。
 外は寒いが、声を出した後は汗が出るほど熱くなる、健康にも良いことだと実感する。車を走らせながらそんなことを思った。
                       10月26日のことを記す。

サクソフォン四重奏

2008-10-26 17:15:04 | Weblog
午後6時30分からSホールで行う「サクソフォン四重奏」を聞いた。サクソフォンと言えばジャズ等で聴く楽器と言うイメージが強い。今日聴くのはクラッシックの四重奏曲である。
 チケットを購入したのは、同じ町内で役員をしているHさんの娘さんがこのメンバーの1人であり、期待される演奏家である。そんなことから今回リサイタルに行くことができた。
 会場に入ると7,8割ほどの入りであった前列から10列目ほどのところに席を確保して周りを見渡すと町内会のSさん、Eさん夫妻も来ている。Hさん夫妻も見つけて挨拶に見えてくれた。
 私の横は女子の高校生であったし、全体的に学生が多いことを感じた。多分学校で吹奏楽をやっている人なのではないか。
 プログラムを見ると、はじめて聴くようなものばかりである。どのような演奏になるか興味が湧いてくる。きっと管弦楽をやっている人にはポピュラーなものかもしれない、横にいる女子学生は、プログラムを見ながら口ずさんでいた。
 この4人のメンバーは女性ばかりである。正規の音楽学校を出てこの地区で演奏活動を行なっているほかに、サックス教室講師や中学校・高等学校で吹奏楽指導をしているとのことである。
 この楽器に興味がある人は分っているはずであるが、はじめての私には、サクソフォンには、音域によってソプラノ、アルト、テナー、バリトンに分かれていて大きさも形も違うことをはじめて知った。
 この音域の違ったサクソフォンによって音域の広い四重奏は、クラッシクと言えども現代音楽を聴いているような錯覚になる。
 しかしよく熟練されているのか、ハーモニーは聴いていて心地よい。夙にクラッシク音楽では、弦楽器がよく知られていて、聴いたり目に触れることが多いが、単一サクソフォンだけの四重奏は珍しいのではないか。しかし今後このような音楽も若い人にはよりポピュラーな形で受け入れられるものと思った。
 そういえば、私も退職後漠とした考えの中で、音楽のジャンルは違うがテナーサックスをやろうかと思った時期があった。しかしその前にピアノと思い習うようになった。今回のサクソフォン四重奏を聴いて、改めてその良さが分ったような気がした。              10月25日のことを記す。
 

中村紘子を聴く

2008-10-25 12:04:13 | Weblog
 手帳の10月24日には『音楽館AOIで「中村紘子ピアノ公開レッスン」あり』と書いてある。時間は午後6時30分からである。これは確か常葉学園短期大学音楽科のK教授が音楽科の40周年記念に中村紘子の公開レッスンを行なうことを聞いてメモしたものである。
 これまでピアノ演奏を聴いたのは2年程前にロシアのフィリップ・コパチェスキイの演奏会を聴いて以来である。その時15,6歳のコパチェスキイの演奏を聴いて、この年齢で何と素晴らしい音曲を出すのかとその演奏に魅了された。その時丁度ピアノを習い始めたころであり、ピアノの奥の深さを実感した思いがした。
 それ以降はピアノの生演奏は聴いたことがなかった。
 午後いつも行っている運動ジムで汗をかいて、それから行こうと午後6時に家を出た。ちょうどラッシュの時間と重なり、AOIに着いたのは6時40分を回っていた。既に演奏は始まっていた。しばらく会場の外で聴いていたが、演奏が終わったところで入った。
 レッスンを受ける生徒は最初20歳ほどの女性、その後は18歳の男性であった。私の耳では2人とも素晴らしい演奏であり、この人達がこれからの音楽界をリードする人ではないかと思った程だ。
 しかし中村紘子は違っていた。レッスンは生徒に対し正確なアドバイスとユーモアを交えての内容であったが、その端々に鋭く厳しい言葉があり、ピアノを生活の糧としたい若者に対して厳しさと愛情が伝わった。素晴らしい演奏と思った生徒も中村紘子が弾くとやはり技術レベルの違い感じた。
 私には演奏技術はよく分らないが、まだ大人になりきらない18歳の音楽学校の生徒に対して「曲を正確に弾くだけのことなら、世界には同レベルの人は幾らでもいる。その中で輝く演奏家になるには、その曲に秘めた感情を如何に表現するかにある。ロシアのブーニンと言う演奏家がいるが14、5歳で世界有数のコンクールで優勝した人であるが、彼は日本人の若い演奏家は大人になっていないと指摘された。国情の違いか、ソ連邦が崩壊する厳しい環境がそうさせるのか、ブーニンの年で感情を表に出す大人の演奏ができていた。日本人にはそこが足りないのではないか。それが出せる演奏家になってほしい」
 この言葉に重みを感じた。大切に育てられ、苦労を知らない子供は才能に恵まれても開花できないことを暗に言っているのではないか。外国人が置かれている環境と日本人の環境の違いを指摘し、それをも乗越えよという言葉として私は受けた。
 音楽の世界でもそうだが、苦労の蓄積が人間を大きくすることは、どの世界でも
同じであることを思った。

母のことを思う

2008-10-24 12:50:10 | Weblog
 昨夜からか、起きると雨が降っていた。強い雨とはいえないが、静かな雨音を立てて降り続いている。庭の柿の実を食べに来たのか鳥がピーピーと甲高い声を出している。これでまた秋が深まっていくことを感ずる。
 母はデーサービスに行っていない。妻も二階で本でも読んでいるのか、ひと気の感じない静けさである。
 昨夜は3時頃母に起された。「外に誰かが来ているから開けてやってくれ」と云って玄関の上がり框に腰をかけて私を呼んでいる。夜中にこうした幻覚症状が時々現われる。部屋に寝かせたが、そのためか朝8時過ぎまで寝てしまった。
 今90歳になる母の老いを感じながら、昔の母のことを思い出している。
 母は19歳の時父のもとに嫁いで来た。7人きょうだいの長女であったし、早く嫁にとの考えもあって、父と見合いし大船で所帯を持った。父は鉄道省にいたが戦争で3回外地に行った。母は私達子供を抱え保土ヶ谷、池袋と住いを変え苦労した。終戦の時は清水で間借りして私達子供を育てていた。終戦で父は帰ってきたが、その後は転勤のたび宿舎が変わり、環境も変わったが5人の子供を育て、退職後は静岡の地に住いを構えた。そして父を12年前見送った。その後10年ほどは、生け花をしたり、菊づくりをしたりと余生を楽しんでいたが、2年ほど前からは物忘れがひどくなり、認知症が進んできたことを感ずるようになった。それでも身体は悪い所もなく、性格は明るい。
 母方の曽祖父は旗本であり、大政奉還の後、徳川慶喜とともの静岡に来て、ここに住みついた。武士の商法と言われたが生計のため下駄等の塗り屋になって苦労したが、母が嫁ぐ頃は、何人かを使って商売をするようになっていた。私も子供の頃実家に行くと、仕事場があって、その地下室には、塗りたての漆とシンナーの臭いがしていたことを今でも忘れない。
 そんな実家も今は面影もなく、サラリーマンをした弟が構えを変え住んでいる。
 そんなことを自慢する母ではないが、学校に行っている時、名前の前に「士族」書いてあったことを話して「昔は身分制度で士農工商といって、武士の位は高かったんだよ」と言ったことを聞かされた。
 その母も、時々両親のことを思い出すのか、何にもしてやれなかったことを悔やんで涙することが多くなった。そして幻想の世界で両親や父と話している。
 そして私に「両親や父は何処に行ったのか」聞くが、答えに窮することがよくあるが、明るさをもってこれからも生きてほしい。

 

91歳の人からの手紙

2008-10-23 13:13:53 | Weblog
 10月は「往復はがき」がよく来る時期である。それは昔いた職場からだったり、学校の同期からであることが多い。このような会には極力出るようにしているが、日が重なったり、遠方からのもので、どうしても出席できないものは、返信用はがきに、便りをくれたお礼と近況、それに出席できなかったことを謝し、会の盛会を願っていることを書いて出すようにしている。
 今日は鉄道OB会の月例会が午後5時からあった。話で特別のことはなかったが、この時期、鉄道OB会懇談会や忘年会、新年会のこと等が話題になった。
 鉄道OB会懇談会は10月28日(火)に駅前のホテルAで開かれる。その「返信用はがき」がここに集まり、出欠が把握出来るようになっていた。
 この鉄道OB会懇親会は国鉄及びJRを通じてこの地方の管理的仕事をした人達の会である。現在600人以上の会員がいる。年齢も60歳代から100歳代まで居て、全国にちらばっているので、出席者はいつも150人程度である。今年も同じくらいであるが、いろいろな先輩諸氏に会えることを楽しみにしている。
 欠席者の多くは「送信用はがき」に、いろいろなコメントを記し今の様子が分るように書いてある。
 その中に私が30代の頃、同じ部で世話になったK先輩の返信用はがきを、発見し懐かしい思いで、拝見させてもらった。正確には覚えていないが以下のような文章であった。
「お招きいただきありがとうございました。現在91歳ですが、妻にも先立たれ、独り身で生活しています。されど至って元気で、毎日ラジオ体操や歩くことを日課にして過しています。6月は大仙から石見銀山、7月は九州鹿児島の篤姫のふるさと、9月は東北地方を旅しました。10月には四国の旅を計画しているので、誠に申し訳ありませんが欠席とさせて頂きます。最近は書くことが不自由になりましたので、ワードで返信させてもらいます」このようなことが書いてあった。
 K先輩は、当時本社からこの地方の課長に転勤してきて2年ほど一緒に仕事をさせてもらった。背筋のピンとした、もの腰の柔らかな紳士であったが、以後地元の名古屋に帰られて退職された。その後伝え聞くにODNの仕事で3年ぐらい東南アジアに技術援助で行っていたと記憶している。
 91歳にしてパソコンをこなし、文章を作り旅行などして余生を楽しんでいるKさんを思い、品格を持った人の生き方はどこか違うものを感じた。
                    10月22日のことを記す。

登呂会反省会

2008-10-20 15:30:27 | Weblog
 10月11、12日登呂祭りが行なわれた。役員としてはじめて参加したが、思いのほか疲れた。その後何日かは疲れが残っていたがやっと正常になったのかと思っている。
 そして今日は午後6時30分から公民館で町内会主催の反省会が行なわれた。
5時15分ごろ電話があった。テレビではゴルフ富士通レディースの最終日であり、不動と三塚がプレーオフで並び競っている場面である。その結着を見たいと思っている時である。
 出ると役員のIさんからで「今公民館にいるが、既に注文した弁当が来ているし、テーブルも並べなくてはならないので、出てきてくれないか」とのこと。1時間以上早いが、直ぐ公民館に出かけた。この町内はいつものことながら準備が早い。既に女性2人が漬物の盛り合わせをスチロールの皿に盛っているし、Iさんは並べたテーブルに弁当や飲み物を並べている。私も手伝ったが、それも10分ほどで終わった。
 まだ時間までに1時間ほどある。雑談して過していると三々五々人が集まってきた。
 45人が出席することになっている。この人達は祭りのあいだ踊ったり、太鼓を叩いたり、山車を引いたりとその他祭りの主役となって働いてきた人である。こうした多くの人の支えがあって、祭りが出来ているもので連帯感の高さを感じた。
 丁度時間になり町内会長の挨拶で宴席は始まった。町内役員は隅のテーブルにかたまっていたが、時間が経つとみんな動き出し所々で車座になって話している。
 とは言え酒盛りをしていると言うより、ウーロン茶やジュースを飲みながら話しているところが多い。
 私は町内のこうした席は初めてであり、知っている人も少ない。あまり目立つのもどうかと思い、同じ席でビールを飲んでいた。
 出席者の年齢は多分私と同じかそれ以上の人であり、女性が2/3以上を占めている感じである。元気なのはやはり女性の方が上であり、声も女性の方が大きくこのまま時間が過ぎると女性に圧倒されそうな感じである。
 午後8時には閉会することになっている。近所の人に迷惑がかかると言うことから、公民館で行なう宴席は8時までと教えてくれた。
 誰が閉会の挨拶をしたか分らなかったが、その内に席を立つ人が増えてきて宴席はお開きとなった。あとテーブルは片付けられ、祭りの反省会は終わった。
 その後役員は誘われ、町内会長のところで2時間ほど過した。ここではほんとうの反省会となっていろいろの意見が出た。これで今年一番のイベントは終わった。みんなにはそんな安堵感がうかがえた。      10月19日のことを記す。
 

現職 OBの懇親会 

2008-10-18 23:46:43 | Weblog
 新幹線関係者の新旧懇親会が18時よりK会館であった。これは現職の社員とOBのコミュニケーションの場であり、JRの現状を知り互いの親睦を深める狙いがあった。この会は平成15年までは毎年行なっていて、この会をみんなが楽しみに待っていた。しかしその後4年ほど開かれなかった。それには理由があったと思うが多くのOBは残念に思い再開を願望した。そして今回新たに会が発足できた。
 総勢80数名の人が集まった。これは以前に比べて少ない感じであったが、関連企業に在籍している人を対象に通知したことによるもので、まだ何人かは漏れている感じである。見渡すと現職OBの比率は3対7ほどでOBが多かった。
 私もこの会の再開を願っていたが、如何せん私共の力ではとても無理であった。やはりもっと大きな力が働かないと出来ないことを感じていた。
 JRを離れて15年近くが経つ、現職時代まだ若かった社員が、管理者になっていることや、退職してから入ってきた人もいて、時代の流れの速さを感じた。しかしこの若い社員が技術を継承して、立派に育っていることをありがたいと思った。
 KさんのようにJRの役員になった人も東京から出てきてくれ、この会発足を喜んでくれた。
 私はこの席で、何人かとOBの組織化について話した。概ねそのことには賛成であるが、発足させるための何人かのリーダーとなる人は、遠慮して中々前に出ようとする人がいない。
 この地ではこうした動きはまだ早いのかといった気持になるが、この時期は機運を高めるためのチャンスであり、止まることのないように進めていこうと動いた。
 何人かと話したが、時間の過ぎるのは早く2時間はあっという間に過ぎた。
JRの担当者が私に中締めの音頭を取ってくれるよういってきた。先輩もたくさんいたので辞退していると、この会を主導的に進めきたNさんが、目で合図してやるように促している。司会者もマイクで私の名前を言って壇上に上がるよう進める。
 最近こうしたチャンスはないし、即興でのトークは苦手である。何とか酒の力を借りてつたない挨拶と一本締めの音頭で締めた。
 JRの幹事からは「来年も10月17日(土)行うので、再会を楽しみにしていてください」と言って私達を見送ってくれた。
 有意義な懇親会であった。