病院に駆けつけると、父はまだベットにいたが、処置が終わり地下にある安置室に移そうとしているところであった。それから一時間ほどは連絡やら手続きやらで忙しくどのようにしたか、あまり思い出せない。悲しかったが泣くことも出来なかった。そこから病院が手配した車で一緒に家に帰ってきた。時間は午後6時ごろであった。既に葬儀屋が来ていて段取りよく準備をしていた。
一日置いて16日通夜を行い 17日葬儀となった。
15日の一日があったことは、きょうだい家族にとって心の整理が出来てよかったと思った。このとき母きょうだいみんなで泣いた。
通夜と葬儀は父の人柄を慕ってか多くの人が集まってくれた。香典等の集計から700人ぐらいの人が見送ってくれたのではないかと思った。
父は生前墓地を探していた。実家が曹洞宗であり同じ宗派を探した。そして家から1,5kmほど離れた帝釈寺に決めてあった。きょうだいは父が喜ぶ戒名にすることを願った。三島の曹洞宗法華寺の役員でもある弟晴之の口ぞえもあって、住職とも相談「直心院俊光義雄居士」の戒名を頂いた。
父は家族を大切にしたが、その家族の一員であるくらい飼い犬を可愛がった。名前か悟狼(ごろう)という甲斐犬のオスであったがその犬を連れてよく散歩をしていた。その犬も年齢が15才の老犬となっていたが父が死んだ1週間後に犬も死んだ。私達は父が連れて行ったのだと思った。
父の49日の法要は親族や親しい人に集まって帝釈寺で行なった。その日までに、お墓の建立も出来ていた。仏法では49日まで魂は黄泉に行かず家に留まるという。そのときまでにお墓は建てておきたかった。その精進落しは、登呂の「弥生寿司」で行なった。
今思うと生前の父は早寝早起きで食物にも注意していた。頭も使っていたし年相応の運動もしていた。
私は父が死ぬのは90過ぎて木の枝がポキット折れるような最期を迎えるものと思っていた。それが自転車で転び頭を打ったことが命を縮め死に至ったと思う。
そして長患いすることなく、6ヶ月の自宅での介護と3ヶ月の病院生活を送った。この9ヶ月は今思うと、神様が父と家族の別れを脳裏に残るよう与えてwくれた時間であったと思う。この間は家族は介護による苦痛は残らず、父との絆が強く残る9ヶ月であったと思っている。
一日置いて16日通夜を行い 17日葬儀となった。
15日の一日があったことは、きょうだい家族にとって心の整理が出来てよかったと思った。このとき母きょうだいみんなで泣いた。
通夜と葬儀は父の人柄を慕ってか多くの人が集まってくれた。香典等の集計から700人ぐらいの人が見送ってくれたのではないかと思った。
父は生前墓地を探していた。実家が曹洞宗であり同じ宗派を探した。そして家から1,5kmほど離れた帝釈寺に決めてあった。きょうだいは父が喜ぶ戒名にすることを願った。三島の曹洞宗法華寺の役員でもある弟晴之の口ぞえもあって、住職とも相談「直心院俊光義雄居士」の戒名を頂いた。
父は家族を大切にしたが、その家族の一員であるくらい飼い犬を可愛がった。名前か悟狼(ごろう)という甲斐犬のオスであったがその犬を連れてよく散歩をしていた。その犬も年齢が15才の老犬となっていたが父が死んだ1週間後に犬も死んだ。私達は父が連れて行ったのだと思った。
父の49日の法要は親族や親しい人に集まって帝釈寺で行なった。その日までに、お墓の建立も出来ていた。仏法では49日まで魂は黄泉に行かず家に留まるという。そのときまでにお墓は建てておきたかった。その精進落しは、登呂の「弥生寿司」で行なった。
今思うと生前の父は早寝早起きで食物にも注意していた。頭も使っていたし年相応の運動もしていた。
私は父が死ぬのは90過ぎて木の枝がポキット折れるような最期を迎えるものと思っていた。それが自転車で転び頭を打ったことが命を縮め死に至ったと思う。
そして長患いすることなく、6ヶ月の自宅での介護と3ヶ月の病院生活を送った。この9ヶ月は今思うと、神様が父と家族の別れを脳裏に残るよう与えてwくれた時間であったと思う。この間は家族は介護による苦痛は残らず、父との絆が強く残る9ヶ月であったと思っている。