Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

ピアノの打上会

2018-04-29 21:09:24 | Weblog

 4月28日17時45分から静岡共同参画センター・アザレアでピアノ発表会が行われた。このピアノ教室は年に一回の発表会であるが自分の才能の無さを感じ1年ほど前に止めた。それ以降はピアノに触れることもなく現在に至っている。このピアノ教室は、幼児等子供さんが多く通っているが60代~70代の大人も5人ほどいる。3ヶ月ほど前、同年代の人で、今も習っている生徒のIさんから手紙をもらい発表会の実施とその後の打上げ会に参加してほしいことが書かれていた。ピアノ教室の皆さんに会えることから出席することを手紙で伝えた。

 発表会の会場は6階の大ホールで行われ、大人の発表が18時以降であることからそれに間に合うよう出かけた。以前多い時は10人近い大人の発表者がいたが今回は5人(男3人、女2人)であった。5人の方はよく知った仲間であったが皆さん想像した以上に上手く演奏した。もし私が続けていてもとても弾けないレベルの上手さであった。曲目も歌謡曲からクラッシックまで生徒が選んだ曲を指導してくれるので楽しそうに弾いていた。私も再度戻りたいとの気持ちになったが、1年のブランクは大きくとても取り戻しことができないことを感じた。最後に先生の素晴らしい演奏があり終わった。

 打上げ会は駅南のNという居酒屋であった。先生を入れ7人である。ビールで乾杯し皆さんが発表会までの苦労話や歌にまつわること聞いていたが、その内に私がどうしてやめたのか、再度戻って一緒にやりましょうと云った話になったが良い返事は出来なかった。このメンバーは、先生を除いて昭和14年生まれが3人、あとの3人も昭和一桁生まれである。そんなことから、Iさんが云った。「まだ私たちが元気なうちに先生のコンサートをやりましょう。これも小規模のもので食事をしながらみんなもピアノを弾くと云ったものです」と云った。これは前回のときも提案していたが、私が場所を探すことになっていた。そんな話があって、近いうちに行うことと云うことになった。

 酒も入り盛り上がったが私が場所を探してほしいと云った雰囲気である。それは5~6年ほど前、一度開いたことがあったからでみんな乗り気になった。しかし実現するには難題も多い。ピアノがある場所は探しても、以前ピアノ教室に通った人も含めても10名程度しかいない。それに先生の都合や経費のこと、その連絡などどうするか。ピアノ教室に通っていない私がどこまで出来るか。そんなことを考えると頭が痛くなった。近いうち先生と相談しよう。

 


梅の害虫駆除

2018-04-28 22:01:29 | Weblog

 3本の梅の木に今年はたくさんの実が付けた。毎年5kg程の梅を収穫し梅干など作っていた今年は10kg以上の梅が取れそうである。3本の内一本は実を取るため30年ほど前に購入した白梅で、あとの2本は紅梅と白梅で正月用の松竹梅の鉢植えのものを地に移したものである。実を取る梅からは例年通りの梅が生ったが、正月用の梅も今年はたくさんの実が付いている。しかし、最近になって梅木から、毎日自然摘果した小さな実が落ちるようになった。それは日に日にひどくなっていったのでよく見てみた。

 すると、幹や枝に3㎜大の光沢のある丸いものが連続して付いていた。これは「タマカタカイガラムシ」という赤褐色のロウ状の塊になった害虫で、メスは、その中に100個ぐらいに卵を産み羽化すると小さな白い幼虫が這い出しロウ状の塊を作る。そして幹や枝に口ばしを突き刺し養分を吸って成長する。これは厄介な害虫で駆除するには取って焼却するか、冬の間であれば石灰硫黄合剤を散布すれば良いが、今となってはオルトラン、スミチオンなどの薬剤散布がある。しかし実を収穫するのでこれもできない。非常に厄介な害虫で以前同様のことが起きたが、冬の間の処置などして何とか正常になった。しかし、完全に除去できないでいて今回また大量発生したものと思う。確かに木自身も弱っていて葉の付き具合が悪かった。

 今からでは薬剤散布も出来ないので下にシートを敷き幹や枝に付いた害虫をワイヤブラシではぎ取ることにした。マスクやゴーグルなど付けて作業をしたが、ブラシで擦ると、白い粉のようなものが飛散した。脚立に乗って作業したが、細い枝に付いたものはゴム手袋で潰して取ったが作業で手間どった。作業中も小さな実がポタポタ落ちたが、その量も枝に付いているものの大部分が無くなるのでないかと思うぐらいの量であった。一本の梅木だけで1時間以上かけて作業した。その後ブルーシートの中に入った小梅と害虫を纏めてゴミ袋に入れたが、シート以外の地面に落ちた害虫もたくさんあったので、それを熊手で集め土と一緒にゴミ袋にいれた。

 あと2本の害虫除去は、後日行うことにしたが、ゴミ袋に入れた害虫と落ちた梅、それに土の量だけで15kg程になった。この処置は、焼却するしかないが、市の回収車では持って行ってくれそうにない。家で焼却するしかないが、まだ2本の梅が残っているので全部で40Kg以上になる。この焼却方法は別途考えることにした。作業後シャワーを浴びたが、のどがイガイガする状態が続いた。普通のマスクであったので、微細な白い粉が気管に入ってしまったように思った。冬に石灰硫黄合剤散布しなかったため厄介な作業が残ってしまった。

 


税制改正セミナーに参加

2018-04-26 23:47:41 | Weblog

 4月26日(木)ツインメッセ静岡で開かれた税制改正セミナーに参加した。これを主催したのはIグループで、母が死んだ時いろいろアドバイスをもらった。その後、幾つかのセミナーの案内がくるようになった。私ども夫婦も高齢になり、遺産は余りないが子供達へどのように相続するか考えなければならない。こんな時Iグループから「平成30年度税制改正セミナー」が開かれることを知った。世事に疎くなり普段のことでも分らないことが多くなったが、税制のことなど、からっきし分からない。そこで勉強のためこのセミナーに参加した。

 午前10時から始まるので間に合うように出かけた。4階の会場には50人ぐらいの人が見えていた。社会に出て間がないような人もいたが。私と同年代の人も半分ほど来ていた。その中に私と同じ鉄道会社に勤めていた人が来ていた。確か営業系統の人でようなあったが、余り面識がなかったので目で挨拶したが会話はしなかった。税制が変わるからと云ってる私には心配なことかない様な気がする。しかし、税のことを知らなかったことから不利益を被ることがないよう考へ参加したが、その方も同じことを感じていたものと思う。私と同年代の人が参加するのは分かるが、何故若い人が関心があるのか分からなかったが、話を聞いて分かった。この若い人は会社で経理など担当している人のようであった。

 このセミナーは、第一部は「事業継承税制」のことで、中小企業等で後継者にその事業を引き継ぎやすくするための税制改正であった。この話は私には門外漢で聞いていても意味が分からなかった。しかし、事業者が高齢になっても後継者がいないため黒字の会社であっても潰すと云うケースが多いことからの改正で何故か納得した。第二部は「相続対策として何をすべきか」であった。のこのことには関心があった。平成27年の、相続税の抜本改正によって申告者数が増え、その割合は26年度が4%程度であったものが、27年度以降は8%台になった。これは中間層の一部からも税を取ろうとするもので当初想定より割合が多かったことから緩和措置が取られたことになったようだ。節税対策など話してくれたが、私に基礎知識がないので完全に理解するまでには至らなかった。

 国の税収は、大きなものから消費税、個人所得税、法人所得税、資産課税などがある。その内資産課税は14%程度であると聞いた。これも大きいが、中で一番大きいのが消費税で33%を占めていると云う。この消費税が導入されてから29年経つが、今10%に上げることが既成の事柄となっている。国の債務は1千兆を超えていてどうしても税収を増やしたいことは分かるが国民の士気を無くすようなことはしてほしくない。


旅行後記

2018-04-23 20:02:27 | Weblog

 私のきょうだいは全員が70代となりお爺さんお婆さんになった。みんな家庭を持ち苦しみや悩みを持ちながらも毎日を一生懸命生きている。父がサラリーマンで転勤も何度かあったが、その都度、小さな私たちは不安を持ちながら転校した。そんな時でもきょうだい達は仲良くして乗り越えてきた。しかし、今は両親もいないし、末弟も病気で亡くなった。この70数年はあっという間に過ぎたように思う。残った4人は、今人生の末期と云う年をむかえ、どこかに不安を持ちながらも、一緒に楽しく旅行などして生きている。

 話は変わるが、今回に旅行で2つのことを感じた。一つは日本一長い歩道の吊り橋のこと。2つは、東山旧岸邸にあった無患子の木のことである。吊り橋は延長400mであり往復800mと長い。確かに箱根と云う観光地に大きな吊り橋ができて、そこから眺める富士山は雄大であった。しかし、この吊り橋は行き止まりで通り抜けは出来ない。交通手段として建てたものではなく観光の名所として建てたものと聞いた。たくさんの観光客は来ていたが、私には何かむなしいものを感じた。建てたのは民間会社であると聞いたが、観光のため莫大な経費をかけ作り、富士山を眺める吊り橋として宣伝しているが、自然の中に人工的建造物を建て景観も変った。今後を考えるとこれだけでよいものか疑問に思った。

 そして「無患子の木」のことである。旧岸邸の庭にあった木で、調べると熱帯から亜熱帯域に分布している木で、日本には少ないようだ。しかしこの実の種子は数珠や羽根つきの羽根の材料となっている。歴史的に日本の文化を支えた木である。その木が旧岸邸の庭に真正面に植えられ岸首相自身で植えたと聞いた。彼は何を思い植えたのか考えさせられた。岸首相と云えば、戦後アメリカとの間で結ばれた60年安保体制を多くの反対を受けながらも信念を通し締結、以降の日本の安定を築いた人であると思っている。しかし、人間いろいろな考えがあり皆からの評価も分かれるところであるが、この木を見て岸首相の考えの基本が分かったような気がした。

 そこには、太平洋戦争の敗戦によりどん底に落とされたが、日本国は、いつまでも敗戦の患いを引きずることなく生き、そして、強いて言うなら各家庭の患いも無くしてほしいと植えたものではないかと自分なりに解釈した。そこには今後の日本のことを思い無患子の木のようになってほしいとの願いがあったのではないか。丁度旧岸邸の庭に落ちていた無患子の実を拾いそれを持って帰り家にある鉢に植えた。

 

 


箱根に泊まる(2)

2018-04-20 22:26:42 | Weblog

 朝7時に起きそのまま離れの浴槽に向かった。昨日とは別の石の浴槽に入った。少し小さめの浴槽であったが桧とは違った趣があった。朝食を食べてから庭に出たが、手入れの整った植木越しにゴルフ場のグリーンが見えた。朝の日差しの中に数匹の小鳥が木々の間を飛び回っていた。今日も晴れて良い天気になった。チェックアウトは11時でありそれまで雑談して過ごした。帰りに玄関わきの「いちいの木」を見つけた。この旅館の屋号の元となった木であると云った。

 きょうだいで話し小涌谷に行くことにした。その途中に山肌が見える丘陵地が広がっていた。今は野焼きして地面しか見えないが秋には仙石原のすすき野がひろがるところである。そこから大涌谷はに5分もかからなかった。平日であるが駐車場には車が並びたくさんの観光客が来ていた。日本人だと思っていたが、話す言葉は違っていた。多分中国人か韓国人と思う団体客であった。一昨年だったかここの小涌谷からの煙が噴出して規制されていたが今はその範囲も小さくなっていた。ここに来たなら「黒たまご」を食べようと行列ができていて店先に並んだが買うのも大変であった。この卵を食べると長生きするとあり皆が買っていた。石段を登って山に入ろうとしたが、係員から「有毒な物質が出しているのでここからは入れません」と止められた。30年ほど前に来てイオウの噴出しているところを歩いたが今はそれが出来ない。

 ここから乙女峠を越えて御殿場に出た。御殿場は何度か来ていたが、安倍晋三総理の祖父の岸信介氏の自邸である東山旧岸邸はまだ行っていなかった。御殿場でも東山地区は箱根山の山麓で明治維新後、西洋人達が別荘地として住んだところで、また多くの文人や政治家達が居を構えたところでもある。この林に囲まれた一角に旧岸邸はあった。この建物は建築家・吉田五十八の晩年の作で伝統的な数寄屋建築の美を表現し、小川の流れる和風の庭の中にひっそりとたたずんでいた。首相を務めた岸信介は昭和45年73歳のときここに転居し、晩年の17年間を過ごしている。居間や和室から見る庭も見応えがあったが、書斎に置かれた大きめの地球儀は、政界を離れても日本と世界のことを考えていたのでないか。

 案内の方が、居間と和室のガラス戸を開けてくれ庭のことを話した。庭は東山を借景した奥行きのある庭であったが、その中に伊藤博文公から贈られた石灯篭とその反対側に吉田茂から贈られた石灯篭があった。そして庭先に無患子(ムクロジ)の高木があった。初めて聞いた名前であったが、この木は岸信介氏が直接植えた木と聞いた。彼が何を思い植えたのか知らないが、きっと国であれ、親が子を思うときの気持ちであれ、無患子(患うことがない子に)であってほしいと願う気持ちが伝わってきた。


箱根に泊まる(1)

2018-04-19 22:44:14 | Weblog

 きょうだい5人は10数年前から母を囲んでの一泊2日の旅行を年3~4回行ってきた。しかし、母と末弟は3年前に一か月ほどの間に続けて亡くなった。両親は生前よく私達に”きょうだはいつまでも仲良くしなさい”と云っていた。4人になったがそのことを守りその後も仲良く旅行など続けてきた。前回は11月下旬舘山寺温泉に泊まり井伊直虎が育った井伊谷等を散策した。今回は4月19日~20日、箱根仙石原の「いちい亭」に泊まり、新緑の箱根路を散策することにした。

 前日は、母の義弟の葬儀があり、川崎の妹が静岡市瀬名の妹の所に泊まっていたので、2人の妹と一緒に集合場所である三島の弟のところに自動車で向かった。昼食は弟が場所を見つけてくれることになっていたので正午には着くよう家を出た。今日は、昼食後、末弟の墓参りをしてから宿泊箇所に行くことにした。

 弟のところに着いてからは、弟の車に乗換え4人で昼食場所に行ったが休店であったので、函南の中華店「陸茶坊」へ行くことにした。ここは以前よく行っていたところであったが最近は行かなくなっていた。この店は、中華の鉄人と云われた陳何某かが料理を出してくれていたところで評判の中華店である。午後1時を過ぎていたが満席であり、しばらく待った。席に着いてから幾つかの料理を注文し、みんなで分けながら食べた。昔と変わらない美味しい料理であった。ここから沼津に戻り末弟の墓参りに行った。ここから箱根に向かったが国一道から旧道に入り1年ほど前に出来た日本一の吊り橋を見ることにした。ここは観光地として作られたもので、吊り橋で通り抜けできなかったが、ここから見た富士山は晴れわたった青空のもと朧にけむり格別であった。箱根峠から芦ノ湖を右に見て三国峠を通って千石原高原に向かった海抜800m程の山間には桜が満開は過ぎているが淡い桃色の花が遠く見えていた。「いちい亭」に入ったのは午後4時頃であった。小さな料亭旅館であったが、おかみが出迎えてくれ2階の間に通された。

 この界隈は平野が広がっていて、窓越しにゴルフ場が見えた。大箱根カントリークラブと云ったが人気のゴルフ場でこの旅館に泊まってゴルフをする人も多いと聞いた。まだ夕食まで時間があったので弟と浴場に行った。ここからの眺めも良かったがここの浴槽は古代桧が使われていて、そのことが書いてあった。それによると樹齢千年以上の桧が噴火によって湖底に沈み、そのまま残った桧を掘り出し浴槽にしたものであると、古代桧の気を感ずる風呂であった。夕食を部屋で食べながらきょうだいは時間を忘れ話し込んだ。身内とは良いもので話す言葉は全て受けとめることが出来る。他愛もない話であったが眠りについたのは翌日の1時を回っていた。


OB会での余興

2018-04-18 22:09:33 | Weblog

 4月に入り、新しい体制になって組織がスタートするところが多い。このため総会等が開かれているが、私が属する鉄道OB会静岡支部も、4月16日、10時30分からホテルアソシアで総会が開かれ私も出席した。会員は300名ほどのOB会であるが、出席者は35名と少なかった。隆盛を極めた20数年前は500名近い会員がいて100名以上の総会出席者があったと聞いたが、年を追うごとに減少し今日に至っている。寂しいことであるが、未だに減少に歯止めがかからない状態である。国鉄からJRに替わって30年経つがJRからの加入者数は減少していて、組織自身の魅力もなくなったことが原因と云える。

 とは言え、現有体制の中でいかに魅力的運営をしていくかが新執行部の手腕である。今年度は支部長以下執行部が替わった。この過程で意見を求められたことがあったが新しい支部長のもと体制の立て直してほしいと願っている。総会では新年度の事業計画が示され承認された。この内容は代わり映えのしないものに思えたが、承認された以上新執行部はこの事業計画を肉付けし活力をある組織にしてものほしいと願っている。

 総会は1時間ほどで終わり、懇親会に移った。冒頭Oさんがエキジビションとして、電子ピアノを弾き幾つかの曲を披露した。彼は、ボランティアで地域の施設等で演奏しで高い評価を受けている。しかし、静岡では初めてであったが、彼は水戸黄門のいでたちで、主題歌「ああ人生に涙あり」を歌いながら登場した。軽妙なトークを交えての演奏に会場はわいた。そして幾つかのレパートリーの曲を演奏した。最初は、モーツアルトのピアノ協奏曲第21番第二楽章、そして日本の抒情歌「 早春賦」「みかんの花の咲く丘」、シューベルトのセレナーデ、【映画音楽】愛のロマンス(禁じられた遊び)ショパンの「別れの曲」を立て続けにトークを交えながら演奏した。会場の中に歌の上手い人Aさんがいて、即興で舞台に上がり伴奏に合わせ「早春賦」「みかんの花咲く丘」を歌った。そこで私も舞台に上がり、この2曲が出来た背景など話していた。これは自然の流れであったがピアノ演奏と歌は盛り上げた。これまで幾つかのエキジビションが披露されたが、今回のものは一番新鮮なものに思えた。

 Oさんは焼津支部の会員で、JRを退職後、特技を生かしインストラクターとして地域で活躍してる。OBの中には、こうした特技を持った人はたくさんいる。我が静岡支部にも地域で活躍しているインストラクターは何人かいる。いま鉄道OB会が活力を失っているとき、こうしたインストラクターの活用が起点となって魅力的活動ができるのでないかと思った。

 

 

 


寿会総会で

2018-04-15 22:21:40 | Weblog

 町内の寿会に入ってから5~6年が過ぎた。この会は70歳以上の有志による親睦団体で、町内会の下部組織でもある。しかし私自身これまで特に積極的に何かをすることなく現在に至っている。寿会の行事は、町の清掃や、グランドゴルフ、輪投げ等のスポーツ、旅行、コーラス等ある。しかし、ここで活躍している人は80代の人が大部分でまだ早いとの気持ちはあった。しかし私もその年齢に近づいたのでこれからは活動しようと考えるようになった。それに近所のYAさんが総会への出席を勧められたことも大きい。平成30年度寿会総会が4月15日13時30分から町内自治会館で行われ参加することにした。

 時間の10分ほど前に会場に行ったが、既に満席の状態であったが一番後ろの席に何とか座れた。今回は71名の会員中57名が参加していた。前列に7名の役員が座り、それに向かい合う形で50名ほどの会員が座っていた。総会の内容は、概ねどこの総会と同じで前年度の報告と今年度の行事計画を役員が説明し会員の同意で今年度の計画と予算が成立すると云うものであった。小さな組織であり異議もなく終わるものと思っていたが、そうはいかなかった。この年齢になると他愛のない事でいろいろ云う人がいて役員を困らせた。役員がまとめた資料を深い理由もなく修正を迫るいこともあったが大多数の意見で原案通り成立した。寿会でも、いろいろな意見を言う人がいることを感じた。

 町内400世帯ほどの中で70歳以上の高齢者は200名近くいるようだ。この内50名近くは病気等で活動ができない人。残りの150名は資格があるが入会しているのは71名でいない人は79名である。これは有志の会でありやむ負えないところもあるが71名は少なさすぎる。しかし日本人の健康寿命の平均がの 約男性71歳、女性74歳と記憶しているが、その年齢を過ぎても外に出て活動できる人は少ない。その少ない人の中でも、前出の人の様に他愛もないことを云ったりする。これも老化する自分と闘っての発言のであるなら、ある面認めてやることも必要ではないかと思った。その人もその後はみんなの中に入って和気藹々と話していた。これが寿会の良いところである。

 総会が終わり、同じ会場で輪投げを行った。こうした集会時の恒例行事のようだが、全員を2班に分け互に競うもので、のそれを見て皆は一喜一憂していた。私もこの中に入って輪投げをしたがうまくいかなかった、9輪を投げたが点数は7点だけであった。自分ではもっとハードな屋外活動もできるとの自負はあるが、これからは地域の人との交流を大切に行っていこうと思う。この一歩として町内の清掃活動には必ず参加しよう。

 


そら豆が育つ

2018-04-14 21:10:31 | Weblog

 昨年11月頃であったが、庭に作った小さな野菜畑(1.0m×2.0m程)に雑草が繁茂していたので取って、そこにそら豆の苗を植えた。草むしりするより苗を植えた方が良い程度の気持ちであった。それでも野菜が成長するのは楽しいもので冬の間は高さ50cmほどのアーチ型のネットを被せて寒さ対策をした。3月頃にはネットの高さより苗の高さが大きくなり閊えるようになったので取り外した。既に幾つかの紫色の花が咲いていたので実がなると思ったが、中々実が付かなかった。そこでアーチ形のネットを外し竹棒を何本か立て、そこに目の粗いネットを前面に張った。

 そら豆を植えたものの、実がどのようになるか分からなかった。遅まきながら4月に入ってインターネットで「そら豆の育て方」の映像を見た。そら豆は莢が上に向かって生えること。花が連続して生るので、大きくない実を摘果すること。高さが70cmほどになったら上部を切ること。追肥は1ヶ月間隔ぐらいに鶏糞など与えることなどが分かった。摘果は今からでは遅いが、既に高さ1m程になっていた茎を切ることにした。こうすることで実に養分がいき大きく育つとのことであった。それと鶏糞を追肥として根の周りに撒き土と均した。

 野菜を育てることも、なかなか大変なことで、今まで失敗の連続であった。そら豆も肥料が切れたのか実はあまり大きくなっていないし、今は花も咲かなくなった。それでも、小さめなそら豆の莢が上を向いてなっている。そしてこの狭い畑に10本ほどの苗を植えたので、今は密集した葉の中に同色の莢が幾つか見えている。莢の背部が黒くなったら収穫の時期だと云うが、映像では5月中旬には収穫も終わり葉が茶色になりすべてを取り除くとあった。あと一か月ぐらいの間で収穫できるはずであるが、莢の大きなものでも、まだ市場に出ているそら豆の1/3程度の大きさでしかない。それでも、収穫したらそら豆を茹でビールのつまみとして食べるのを楽しみに待ちたい。

 そら豆は、素人でも育てやすい植物とあった。それ故、今までの育て方が間違っていたが、何とか形は小さいがそら豆が食べられそうだ。我家の庭もあまり手を掛けないので夏場は雑草が生え茂るようになる。まだ夏ではないが、そのようにならないように空いているところを掘り起こし野菜畑にした。このため雑草を取ったのでこの時期としてはきれいになっている。しかし、先日苗を買って植えた、キュウリ、ナス、トマトなどの連作のことが心配である。それは、同種類の仲間として、ナス、トマト、ジャガイモはナス科で同種であり3~4年空けないと連作障害が出ることを知った。野菜を育てるのは大変である。

 


ベッリーニの歌曲を聴く

2018-04-13 21:35:08 | Weblog

 4月12日の音楽カルチャーでベッリーニ作曲の「マリンコーニア」を習った。初めてで先生がピアノで弾いてから、みんなで言葉は出さず旋律を歌った。その格調高い美しさに魅了させられた。非常に短い曲で、1分30秒ほどの長さであったが、この中にベルカント音楽の手法がすべて含まれているような曲であった。特にイタリア音楽の特徴である高音はなかったが聴いていて曲の心理が分かるような思いがした。帰ってからYou Tube でこの曲を探し聴いた。何人かの歌手が歌う中で、ババㇿッティーが歌ったものに感銘を受け何度も聴き続けた。

 4年ほど前に、ベッリーニーの曲で「優雅な月」を歌ったことがあった。そのときは、繊細な美しさとやさしい情景が浮かんできた。この時、原語で歌ったが、覚えるのにあまり時間はかからなかったような気がする。きっと言葉と曲とがピッタリ合ったものだったからと思う。しかし、それ以降は彼の曲との出会いはなかったような気がする。当時も確かベッリーニについて調べたがほとんど忘れてしまい再度調べてみた。 

 ≪彼は1801年シチリア島・カターニアに生まれ、パリ近郊で没した作曲家で、主としてオペラの作曲家として有名です。父親も祖父も音楽家で、音楽を学ぶ前から作曲を始めたと云う神童であったと云われています。彼と同世代のロッシーニ、ドニゼッティと共にイタリアオペラの発展に貢献し、のちのヴェルディ、プッチーニのドラマティックなオペラに引き継がれている。1833年、その2年前からパリに来ていたショパンと出会いい2人はたちまち意気投合し親しくなったと云う。「ショパンは、ピアノと云う楽器でベッリーニは作曲を通して美しい旋律や、格調高い世界観を創り出していたのではないか」と云われている。1835年(34歳)『清教徒』を一年がかりで完成、しかし、9月23日短い生涯を閉じた。≫ やはりショパンの曲との共通点があった。

 「マリンコーニア」は、彼が作曲した6つのアリエッタの中の最初の曲である。マリンコーニアは「憂愁」の意であり「憂愁の喜び」と訳すが、憂いを含んだ悲しみと解釈される。そこでこの詩を訳したのに【優しい貴女へ、私は貴女に命を捧げる。貴女の喜びを大切にしない人は、生涯真の喜びを知りえない人だ。 私は神々に貴女との交際を許してほしいと頼む。その願いが聞き入れたら、私は安らかに生き、私は、貴女を必ず幸福にするから】このような内容のようだ。いつか正式に歌ってみたい曲である。