Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

M君の通夜

2010-05-31 22:23:03 | Weblog
 今日は2つのことについて記す。一つはOB会静岡地方本部の総会である。4月以降OB総会に3回出席している。何故そのように多いのかと言うと、国鉄が民営分割して数社に分かれたが、そのOB組織も各々分かれた。私が属するOB会は、東海地区のOB会で東海鉄道OB会と言いJR東海とJR貨物東海支社のOB組織である。その下部組織に東京、静岡、名古屋、大阪に地方本部があり、その下に支部がある。その各々に出席したことであり、今回は静岡地方本部OB会の総会である。
 総会は静岡駅近くのT会館でAM10時30分から開かれた。26支部から支部長と事務局長の52名、それに来賓としてJR東海、JT貨物の支社長等を招いて60名近くが出席した。
 内容は平成21年度の事業報告と決算報告、それに平成22年度の基本方針(案)と予算(案)の審議それに現状報告等があった。それらは静岡OB支部総会、東海鉄道OB会総会と同じような内容であり割愛する。しかし全てに言えることは、OB会組織が減少の傾向にあることを、今後どのようにしていくかの議論が多かったと思う。定年の延長や本体JRの退職者が少ないことにもよるが、OB会に魅力を感じず、入らない人も多いのが現状である。そして高齢者が多いことから、死亡等で減少する人員は加入者を上回っていることも事実である。
 とは言えこの総会はS鉄道管理局在職当時の人達と会えたことは良かった。
 PM3時ごろ、家に帰えると妻から留守中にM君が死んで、通夜と葬儀の連絡があったことを聞いた。M君は私がJR退職して関連会社のN社いたとき、同じようにN社に入って来た後輩である。そして私が辞めたとき、引き継いだのは彼であった。新幹線の大型機械保線の検修技術は彼をおいていないと言われた人間であった。その彼も3年ほど前にN社を辞め、湖西市で元気にいると聞いていた。年賀状からも変わった様子は伺えなかった。それが突然の訃報である。享年68歳はいかんせん若すぎる死であった。
 通夜は今日PM6時から湖西市あらい斎場で、葬儀は明日AM10時から、同じ斎場で行われるとのメモがあった。明日、当時の仲間と葬儀に参加しようと考えたが、明日は、別の用事があることを思い出し、急遽通夜に行くことにした。直ぐ家を出て、新幹線で浜松まで行き、新居町駅に着いたのはPM6時少し前であった。タクシーで斎場まで行ったが、既に通夜は始まっていた。
 ここへ来るまで、もしや間違いではないかとの思いもあったが、祭壇に飾られた彼の遺影を見て現実であることを知った。しめやかな通夜であった。奥さんや子供さん、お孫さんに囲まれた、落着いた余生が感じられた。
 当時の何人かの友人が来ていたが、会釈のみで余り深い話はしないで帰ってきた。人間のはかなさを感じた。彼の冥福を祈る。

昨日から今日

2010-05-29 23:55:28 | Weblog
 昨日のPM5時近く、リハビリ病院のTさんから家に電話があった「キャンセルの人があり、部屋が空きました。お母さんをリハビリ病院で預けられます。来週の6月3日か4日のどちらかで、入院の日を決めてください」
 突然の電話であり、内容がよく理解できなかった。そこで「済生会病院から、もうリハビリ病院に移っても良いとのことは聞いていないが、医師の判断が先決ではないんですか」と言うと「診断はどうなっていますか」と聞かれた。
 そのことは何も聞いていないので「分かりませんが、聞いてからにしていただけませんか」と言うと、「リハビリ病院のほうで済生会病院のほうに話します。とりあえず6月4日にリハビリ病院の入ることで準備をしていてください」と言う。
 最近の医療システムは分かりづらい、直ぐ自動車を走らせ済生会病院に行き、担当看護師にその旨を話した。するとその看護師が医師と連絡を取って「医師がまだ病院にいますので会って聞いてください」と言った。
 医師が見えて、そのことを話すと、母の手術したところを見、関節を動かしながら「この状態ならリハビリ病院で始めてもいいですよ。熱が時々出るのは術後間々あることで心配ありません」と言った。
 母は高齢のため、自分からリハビリをしようとする気持ちが薄い。そのためリハビリ病院に早く行ったほうが良いのか、その逆なのか分からないが、医師の話を信じて4日の移ることを承諾した。しかしスッキリした気持ちになれない。
 丁度この時間、妹が来ていて、夕食時の介護をしていた。母をトイレに連れて行ったり、ベットの上で足を折り曲げる等して、リハビリ訓練を行っていた。
 私にはそこまでは出来ないと思いつつ、妹は母が寝たきりにならないよう、懸命になってやっている。私や妻も朝食、昼食時に介護に行っているが、妹の介護は母を何とか歩けるようにしたいとの思いは、私より強く真剣であった。私は1時間程いたが妹を残し家に帰った。
 今朝7時前に犬を散歩させながら病院に行った。この時間は朝食の時間である。既に朝食の準備がされていて、ベットの上に座り食事を食べようとしていた。上手くは食べれないが、手を出さずに見守っていた。味噌汁やお茶を飲むときは、こぼしそうで不安であったが、少しずつ回復している感じである。しか手術した足を動かしたり、立つことは痛いのかしようとはしない。
 あと5日で、リハビリ病院に行くことになるが、環境が変わるし、母が一人で歩こうとしない限り、リハビリは、上手くいかないのではないかと思う。記憶や考える力も弱くなっている母を、苦痛が伴なうリハビリが出来るか心配になる。
 そのことを看護師に言うと、リハビリ病院には専門の理学療法士がいるから、心配しなくてよいですよと言った。安心と不安が交差する昨日から今朝までであった。

3年目の花壇づくり

2010-05-28 21:09:02 | Weblog
 社会福祉協議会の事業の一環として、町内に花を植えることをしている。町内がきれいになるし、南北に通る新久能街道沿いの遊歩道の脇にあるため、その花を多くの人が眺めることが出来る。いいロケーションに花壇がある。ここに花を植え始めるようになったのは、5~6年前からであると聞いたが、一昨年ブロックを積んだ本格的花壇にしようと言うことになって、始めたのが花壇づくりである。今年で3年目になる。毎年4m×1.6m程度の花壇を作ってきたが、今年がスペース的に、最後となる3箇所目の花壇になる。
 今年の花壇づくりは新しい年度が始まる4月に言われていた。この造成は、私が携わってきた、鉄道防災のノウハウの基礎的ことであり、図面引きから、施工まで主体となって行うことになっている。
 今日は町内社協の7人の男性がAM9時に防災倉庫前に集まった。昨年までは女性も来てくれたが、力仕事ゆえ、今回は男性だけで行うことになった。
 その7人は私と同じぐらいの年であり、長時間炎天下での作業には耐えられないと思い、正午までには完了するよう段取りを考えた。
 昨日PM3時から一時間ほどかけ、町内の2人の人に出てきてもらい、遣り方の杭と、ブロックの天端の墨だしは終えた。それに柳の根が張り出していて、ブロック積に支障するため、切り取ってある。
 そして材料となるブロック40個、モルタル5袋、砂10袋、それに赤玉10袋、培養土30袋は用意されていて、防災倉庫に収まっていた。
 AM9時から旧花壇の撤去作業、掘削を行ったが、皆さん力仕事の経験がない人ばかりであり、30分ほどすると、休憩しなければならないほど疲労して来た。何度か一服(休憩)をしながら、AM11時頃にはブロックを積み終え、目地材のモルタルで固定するまでに作業は進行した。
 あとは2手に分かれ、一組は出来上がった花壇の中への土砂入れ(含む培養土等)、もう一組は花壇外側の土の部分を均し、モルタルと同量の砂を加え、水で混ぜ合わせたモルタルを土の表面に薄く均す作業を行った。この頃になると、体力の差が出てきて、動きが止まった人や、汗を掻き過ぎて、脱水症状になったと思える人が出てきた。
 そのような人は休んでもらって、作業を続けた。時間を見ながらの作業であったが、正午には、花壇と周りのモルタル打ち、概ね終わった。
 まだ完成までには、やりたい所があるが、それは後日行うことにした。
 社協会長が「ご苦労さんでした。これで終わりますが、昼食は用意しますから」と言って近くのK食堂に案内してくれた。汗をかいたままの服装で、呑んだビールは旨かった。

 

OB会の交流事業

2010-05-26 23:40:26 | Weblog
 AM8時に静岡駅南口で待っているOさんを乗せ、旧静岡陸軍墓地公園に行った。Oさんは私の先輩で、現在用宗に住んでいるが鉄道のOB活動を熱心に行ってきた人である。
 今日は鉄道OB会と沓谷地区のグランドゴルフ(G・G)愛好者との交流大会が開かれ、そのグランドが、旧静岡陸軍墓地公園であり、それに参加するためである。
 私自身G・Gをやるのは2回目である。余り興味があるわけではないが、OB会の行事として、会員が多数が集まる、こうした活動には極力参加するようにしている。
 この陸軍墓地公園は、配られた資料からわかったが、正確な位置が分からない。インターネットで調べたが、そのような名称はなかった。しかしこの沓谷の一角は、かって市内にあった多くの寺院を、この地区に移築されたことを知っていたので、その一角にあるものと思い車を走らせた。
 北街道を清水方向に進んでいくと、三松のバス停があった。この地区から沓谷2丁目である。
少し行くとG・Gのスティクを持った女性2人が歩いていたので、聞くと直ぐ近くであることが分かった。そこは小学校のグランド程の広さがあり、その周りに大きな木が植えら林のようになっていた。この林間と広場を使って、トリッキーなコースが18ホール作られていた。
 OB会からの20数名と地元の人30名余り、計50名が参加した。この地元の会は「白水会」と言い、メンバーで、G・Gのコースに人工的障害物を作くったり、また独自のルールを作って楽しんでいた。また、その様子を川柳にまとめ披露する等、ユニークなG・Gを行なうグループであった。
 私は地元の2人と回った。一人は女性であったが、この女性は年齢は70代かと思える人であったが上手く、その人に教えてもらいながら回った。もう一人は80代と思える男性であったが、静かで品を感ずる人であった。何とかこの2人についていったが、スコアーの差は大きくなっていった、
 18ホールを2回まわって、トータルで競ったが、上手い人は90台で回った人がいたが、私は125であった。スコアーは悪いが、前回より上達したような気がしたし、あまり気にすることはないと思った。
 その後、入賞者が発表されたり、即興に出来た川柳が10句ほど披露された。その中には、鉄道OBとの交流のこと、新幹線のこと等が入ってものがあった。その即興の川柳の上手さに驚かされた。
 家に帰ったのは正午過ぎであった。それからPM5時から始まるOBの月例部会の資料を纏めた。
今日の「月例部会」は新しく体制のことを話さなければならないし、夕方からはD合唱団の練習もある。余裕のない一日であった。
  

リハビリ病院を申込む

2010-05-24 21:41:16 | Weblog
 母が骨折で入院して10日、手術して一週間経った。その間熱がでたり、食欲がなくなったり、尿の出が悪くなったりして、一時はこのまま入院が長引くのかと思ったが、昨日人口尿管が取れ、その後は昼間は車椅子で過ごす時間が長くなったし、食欲も出てきた。
 21日の昼食時妻が病院に行ったとき、医師から「診断は、入院加療3週間です。その間に当病院でリハビリも行いますが、その後は専門のリハビリ病院を捜して、そこで機能回復させることになります。早めにリハビリ病院を捜しておいてください]と市内、県内の幾つかのリハビリ病院が記載されて資料を渡された。その中から、一番便がいいと思われる、Sリハビリセンターに、21日の午後連絡を取った。そこのA担当者は「この病院は入院が原則ですが、内容を説明しますので、近い内きて下さい」と言われた。その時約束したのが24日AM10時であった。
 保険証と印鑑を持ってその時間に尋ねると、Aさんが出てきて、1階にある個室に案内された。
 そこで、母の年齢、介護度、母の年金額等いろいろ聞かれた。余りいい感じではなかったが、答えると、申込書が出され、それに記載するよう言われた。記載すると、始めてリハビリのことや、それに伴なう経費等が説明された。
 それによると入院は3ヶ月で、それ以上は行わないとされていた。はっきり聞かなかったが、この3ヶ月は骨折の場合の最長入院日数であることのようだ。
 この間は完全看護で行うが、安全を重視し、無理な機能回復は行わないようにしていること。特に高齢であり、当人が一人で歩くことが出来るまで、直そうと言う気持ちがないと、余り効果が期待できない。こうした高齢者は家で生活したほうが、回復が早い場合がある。こんな話までする。何のためのリハビリ病院かと思ったが、言うままに聞いていた。
 そして最後に一ヶ月の経費が示された。その内容は、一瞬驚くような金額であった。母の医療費は高齢者ゆえ一割であるが、それ以外の経費が掛かるようになっていた。
 今まで母は60年ほど前に、盲腸で入院したことがあったが、それ以外病院に入ったことがなかった。それ故病院に入ることが大変であり、戸惑うことが多くあった。今まで健康な母であったので、今回のようなことははじめてである。
 担当者Aさんとの話は概ね以上であるが、今の医療のあり方を垣間見た思いであった。一つの病院には余り長く置かないこと、その回復に応じて病院を代わり治療する。直ればよいが、悪くなるとそれに合った病院が用意される。それらの病院が系列化しているような気がした。こうした体制でいいのかという疑問を感じた。
 

雨の日の腰痛

2010-05-23 20:02:12 | Weblog
 朝起きると腰が痛いさを感じた。尋常でない痛さだ。以前から右腰がときどき痛むが、腰を伸ばすのが辛いような痛みは今までなかった。雨の影響かと思いながら、今日は母の朝食時の見舞はやめようと思い、テレビや新聞を見て過ごしていた。
 その時(AM9時30分頃)妹から電話があり「昨日の夕食時は、熱が37.4Cあり、食欲もなかった。尿の出も悪かったので、ポカリスエットを200CCほど飲ませたが、今朝の母の様子がどうだったのか。」と聞いてきた。「今朝は腰が痛くて行っていないが、これから行ってみようと思う」と言って電話を切った。
 時間はAM10時を回っていたが、雨の中自動車を走らせ病院に行った。病室では母が入れ歯を外して寝ていたが、私が頬に手をあて揺すぶっても起きなかった。入れ歯を取った母は、死んだ祖母の顔と同じで、見るからに老婆となった。
 強く揺すると、微かに目を開けたが、私を確認できない。大きな声で名前を言うと始めて分かった様であった。寝てばかりいるので、身体も弱ってきているようだし、認知度も進んでいるように見えた。
 うがいして入れ歯を入れ、顔を拭いてやると、何とか以前の母に戻ったようであった。テーブルの上に置いてあるメモ帳には昨夜妹が書いたことが記されていた。「夕食は食欲がなく、茶碗の1/3ほどしか食べなかった。熱は37.4℃で、尿の出が悪かった。尿毒症による膀胱炎が心配なので、人工的に入れてある尿管を早く取ってほしいが、医師の判断であるのでお茶とか、ポカリスエットをたくさん飲ませてほしい」こんなことが書いてあった。
 直ぐ冷蔵庫にあったポカリスエット300CCほど飲ませた。美味しいといって飲んだ。大便をしたいと言うので、看護師に言い、大便をさせたが、その後は車椅子に乗せておいた。リハビリを兼ねてである。5階の廊下を押して3周ほど回ったが、中腰の動作が悪かったのか、腰がまた痛くなった。腰を折った状態で、何度も伸ばそうとしたが、痛くて伸ばしきれない。母をナースステーションに預け帰ることにした。時間はAM11時30分をまわっていたし、昼食時には妻が来ることになっているので、家に迎えに帰った。まだ腰の痛みは取れない。それでも再度、妻を自動車に乗せ病院に送った。一時間ほどして妻を迎えに行った。
帰りの車の中で、三島の孫2人が、お見舞に母のところに来てくれたことを聞いた。その孫の顔を見て、母はそれが誰なのか分かるまで時間が掛かったと言った。入院にている間に認知症も段々進んできているようだ。
 家に帰ると清水区中之郷のSさんが来ていて、以前に頼んでいた新茶を持ってきてくれた。
昨年購入した新茶が丁度切れたときであり、丁度いいタイミングであった。お礼を言ったが、それにしても今日は腰の痛さを感ずる一日である。張薬をつけて様子を見ることにした。
 

技術Gの懇親会

2010-05-22 23:51:08 | Weblog
 昭和59年当時、国鉄S管理局保線課に席を置いていた。当時労使間はギスギスした関係が続き、職場は荒廃し、安全を確保する線路も最悪の状態であった。その線路を管理し技術を継承する保線課が、先輩の知恵も借り、技術を継承していく会として発足したんのが「駿府保友会」である。
 この27回目の総会と懇親会が静岡ターミナルホテル・アソシアで、PM3時から開催された。
この会が発足に加わり、それが27年間も続いていることを感謝している。
 今日は、この総会出席まで、いろいろあった一日であった。S学苑講座「名曲をうたう」に参加、途中退席して「駿府保友会」の会場に行った。
 既に何人かの来賓の祝辞があって、入ったときは、現在N社の社長をしているSさんの祝辞の最中であった。当時Sさんは本社にいて、「新しい線路保守体制」と言う合理化を行い、MTT(大型線路保守用車)の全国導入を推進した当事者の一人であった。現在の大型機械による線路保守の形を作った人である。
 彼の話は、現職の若い技術者に「線路保守の奥義は深い、技術者として数値で物が言える人間になれ」と言った話をしていた。
 そのあとも何人かの祝辞があって、Kさんの音頭で懇親会が始まった。
 この会には100名ほどの先輩と静岡支社の現職の社員が参加していた。何人かと話して驚いたのは、KAさんが亡くなったということである。彼は65歳で、我々の仲間では、JR東海の役員をのあと、関連会社の社長をしていたが、最近癌でなかったと聞いた。
 彼は、非常に話が上手く、部下の掌握に長けた人間であった。そして健康管理に気をつけていたので、出世と長寿の二物を与えられて人間であると思っていた。その彼が死んだ。
 静岡にいたときは、いろいろ相談に乗ってもらい、助けられたことが多かったことを思い出す、彼の冥福を祈る。
 そして会話した内2人の話を記す。一人は先に出たSさんである。彼とは一緒に仕事はしたことないが、現職時代彼からフランスからの新しい技術導入の提案があり、実現に苦労したことを話すと、彼は「互いに年をとったので、技術談義は止して、これからは楽しく余生を生きようと思う。現在東京に単身赴任中であるが、実家のある名古屋にある専門書は、一度も見ていない。そのようの技術書はなくても、何の不自由はないので、実家の本は全て棄てたこと。それにたくさん撮ってきた写真は20枚ほど残してこれも全て棄てた。こんな話をした。昔は技術論ではカミソリのような切れ味の話をしていたが、今は頭の中にあるものだけでいい」と達観したことを言った。
 もう一人はOさんで、現在新幹線施設部門の責任者である。
彼とは仕事をしたが、ある時、静岡の「文田の焼肉」を一緒に食べにいった。その時背広に油が付いてしまい、着れなくなったことを面白く話した。
 この会には毎年行っているが、自分が年をとったことを思い知らされる会になった。

名古屋でのOB会総会

2010-05-21 21:07:57 | Weblog
 名古屋駅ビルのマリオットアソシアホテルで、平成22年度東海鉄道OB会の総会が行われた。その代議員として出席することになった。静岡地区から6人が静岡駅発AM9時12分発の「ひかり」463号に乗ることになっている。その前に、入院している母を見舞った。
 7時ごろ病院に着いたが、母は目を覚ましていて、来たことを喜んでくれた。
 30分程いたが、家に帰り仕度をしてバスに乗った。静岡駅には9時ごろ着き、新幹線ホームに出たが、乗るはずの5人は見えない。後の「こだま」で来るのかと思い列車に乗った。
 最近は新幹線には余り乗らないが、以前は出張等でよく利用した。その頃に比べ、空席が目立った。特に自由席では、以前座ることが出来ないことがあった。今日は楽に座れた。
 名古屋へは1時間程で着いたが、駅は以前と変らない感じであった。駅ビルの16階が「アイリス」が総会の会場である。
 AM11時から始まるが、30分ほど早く会場に着くと静岡のメンバーは既にテーブルについていた。
 代議員は三島、原、清水、静岡、磐田、豊橋の支部長であり、それにS事務局長も来ていた。
この組織は、東京、静岡、名古屋、大阪の4つの地方本部があり、その各々から集まった27名が参加していた。来賓として、JR東海副社長、総務部長、JR貨物東海支社長が来ていた。
 OB会会長のIさんは前JR東海の副社長で、現在関連企業の社長を兼ねてOB会長として、組織を纏めている。新幹線在職中は会議等でよく会っていたので、総会が始まる前に、挨拶に行った。懐かしく会話したが、私が静岡にいることを喜んだ。
 総会の冒頭の会長の話は「昨年はリーマンショック、新型インフレエンザ、高速道路の値下げ等でで新幹線収入は15%程落ちた。今年もギリシャから始まった信用不安がどのような影響があるか心配である。それに昨年発足した民主党政権は、どのように成るのか、OBとして重大な関心を持って見守りたい。東海鉄道OB会も減少の傾向は続いている。毎年5%ほどの減で平成22年度末には1万人を切るところまできている。組織を守り、老後を豊かで楽しいものにするのがOB会の原点であり、そのため1年を掛け、何をすべきか考えて行きたい」
 JR東海のT副社長は「JR東海の現状とOB会について話があった。JR東海のH21年度は、減収減益である。この原因は既にOB会長が話された通りである。しかし新幹線及びリニヤの海外への売り込み等、政府と一緒になって実施している。結果はどのように成るか分からないが、努力していく。
 OB会については、全体の人員が減っているので心配である。活動を通じて魅力あるOB会にしてほしい。JR東海も支援していく」こんな話であった。
 総会は1時間ほどで終わった。あと懇親会となったが、昔の同僚とも話しができたし、良い意味での情報交換が出来た。
 

マジックボランティア

2010-05-19 10:59:02 | Weblog
 18日AM10時過ぎ病院から帰って、直ぐ風呂に入った。今日はPM2時からマジック「あすなろ会」が、竜双園でボランティアに行くことになっている。
12日の「あすなろ会」集会で、Sさんを自動車に乗せていくことになっている。12時30分にSさんのところに寄り、PM1時までに竜双園に行くつもりでいた。家を12時20分に出て、Sさんのところに行く途中、トラブルを起こしてしまった。それは私の不注意で会ったが、そのため、30分ほど遅れた。
 Sさんから携帯電話が入ったので、その旨を伝え、急いでSさんを乗せ、ボランティアの会場に向かった。今日は5人のメンバーがマジックを披露する。その内2人が遅れたので、相当心配していたようである。謝って直ぐ支度をしたが、マジックは仕掛けがあり、それに時間が掛かるし、衣装等の着替えがあり、今までは1時間前に行くようにしていた。
 しかし開演まで30分しかない。私は服装を替えることはないのでいいが、Sさんは着替えるので大変であった。それでもPM2時の開始時間には、何とか間に合わせた。
 この介護施設は、デーサービスの人が多いのか、しっかりした感じの人が集まっていた。多分50人近くが来てくれているようである。
 この竜双園には昨年6月ごろきている。約一年振りであるが、入居者の何人かは覚えていた。
会長のTさんからは10分ほどの時間でお願いしますと言われ、3番目に行った。
 出し物は5つほど用意したが、最初の「ビンとコップ」は2つの筒に入れたビンとコップが入れ替わるもの、次は牛乳が紙テープになってしまうもの、次はシルバーボールが一瞬のうちになくなったり、ハンカチになってしまうものであった。練習は余り出来なかったが、上手くでき、反応は良かった。これ以外、ロープのもの、増加する花は、時間がなく出来なかった。他の4人は、時間に合せて、演技の出来る人ばかりであり、ちょうど1時間で全ての演技は終わった。
 このメンバーは、年齢的には同じくらいの人ばかりで高齢である。いつ逆な立場になるか分からない年でもある。そしてボランティアすることを生きがいに取組んでいる人ばかりである。こうしたところへは来ることが楽しい。
 家に帰り、20日の鉄道OB会の役員会を招集している。その資料づくりをした。
しかし入院している母のこと、歌のボランティア、マジックのボランティア等があり、この3日程は疲労が溜まってきている。そのため予期せぬトラブルもおきたと思う。
 PM10時近くまで資料を作っていたが、睡魔がおそわれ、上手い資料が出来ない。よく寝て明日頑張ろうと思った。                      5月18日のことを記す。

夜間の付添い

2010-05-18 20:52:53 | Weblog
 母が入院してから、妹、妻、私が交代で夜間の付添いをしている。17日翌日は私が付くことになっている。
 母は17日AM10時からオペで骨折した箇所にボールトを埋め込み、骨を固定する作業は1時間30分ほどで終わった。
 半身麻酔で行ったので、機嫌がよくオペ室に入っていったし、終わって部屋に帰ってきてからも普段の顔に戻っていたと妻から聞いた。
 17日はPM2時から「登呂に家」のボランティアで行った。母のこともあり、取りやめようと考えたが、直前のキャンセルでは申し訳ないと思いボランティアに行き歌った。母と同じ、高年齢の人が聞いてくれた。
 帰ったあと、野暮用を済ませ、夕方8時近くに、病院に行った。妹はまで付添っていてくれたが、母は、自分の娘である妹といる時が、一番良いらしく、笑顔で話していた。まだ麻酔が効いているのか、痛みは感じていない様子であった。妹は私と代わり家に帰っていった。
 母は何か話したいようであったが、PM10時には消灯して寝た。オペをした後であり、麻酔が切れたら、痛みが出るのではないかと思ったが、看護師が2時間毎に回ってきてくれ、尿のでかた、熱など計ってくれていた。夜中の2時ごろには、麻酔が切れたのか、むずかる様子であったが、看護師が、直ぐ鎮痛剤を飲ませてくれた。その後は静かに朝方まで寝ていた。看護師が見えるたび私も目を覚ましたが、よく眠れた。
 それにしても、夜間の看護師は大変である。4人の看護師が5Fの患者、多分50人近くいると思うが、その様子を見に来る。何でもなければそれだけであるが、患者によっては、熱が出たり、点滴の管が外れたり、身体が急変することがある。そうしたアクシデントはつきものであり、夜中は一睡もしないで看護してくれた。
 朝方「どうもご苦労様でした、夜間はなにも寝れませんでしたね」と言うと「仕事ですから」と言いつつ「熱は36.5℃、血圧は161、尿の出が少ないので、こまめに水分を取らせてください。血圧も手術のあとですから、上がったと思いますが、心配ありません」こんなことを言って病室を出て行った。そのあと朝食が運ばれ、母に食べさせた。余り食欲はなかったが、半分ほどの量を食べた。
 別の看護師が見えて、「560号室の部屋が空きましたので、AP9時から移りますが、持ってきたものの移動は付添の方が行ってください」と言はれた。 
 個室から4人部屋に移ったが、そこには母と同年齢と思える3人の女性がいて眠っていた。5Fのチーフ看護師から「今日からは夜間の付添はしなくていいです。もし必要な時は、私のほうからお願いしますから」と言てくれた。
 直後妻も見えたので、代わったが、これからは手分けして食事の時に来るようにしようと思った。