Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

社内報が届く

2008-01-31 21:11:39 | Weblog
 JR東海を退任してから、関連会社のN社に12年間お世話になった。JR時代は転勤の連続であり、家族を連れての転居は常であった。そんな生活にピリオッドを打ったのは、平成2年静岡に住む両親と同居してからである。それから現在まで
ここを終の棲家として地元に溶け込む生活を心掛けている。
 N社は東京に本社があるが、それでも12年間静岡の支店に勤務させてもらった。ありがたいことである。
 こうしたケースは稀であり例がない。静岡駐在が支店に昇格したばかりであり、最初は苦労もしたが、2~3年経ってからは多少余裕が出てきた。マンネリ化してはならないと自分自身にモチベーションを高めるため、目的を持って努力したことを思い出す。
 東京に転勤の話もあったが、理由を付け丁重に断った。
 しかし同じところに居たことから、静岡ならではの仕事も覚えたし、人間関係も上手く構築できたと思っている。辞めてからも懐かしく思い出されるし、いい経験をした。
 そんな折、N社の社内誌が届いた。
この社内誌は四半期に一度発行されるもので、私が在任中に創刊号が発行されたもので、内容の変更は多少あったが、基調に流れるのは安全への啓発と取組みである。在任中頼まれて2度ほど寄稿したが、社員の心に訴えるものにしようと苦労して書いたものだ。届いた社内誌も、社長の寄稿文は、「気持も新たに次の10年へのスタートを切ろう」であり、会社幹部からは「作業責任者が真のグループリーダーになるために」「サテライト部故障時の暫定モード作業について」「1人ひとりカケガイのない人を肝に命じて」と言ったタイトルの文章が書かれている。
 鉄道の安全を担う重機械群(保守用車)を扱う会社であり、軌道狂いを1mmの精度に守る仕事である。
 一寸した油断が大きな事故に繋がる恐れがあり、日々緊張の連続であった。
夜中に携帯電話がなると、飛び起き対応したし、現地にも急行した。問題があれば徹夜もして原因を究明して対策を講じてきた。
 この社内誌を読んで、そうした過去のことを思い出させる。今こうして自由に生きているが、後輩の皆さんが頑張っていることに感謝をしたい。


DVDの中の父

2008-01-29 21:27:36 | Weblog
 天気予報通り、今日は朝から霧雨のような雨が降っている。暖かい雨である。今まで寒い日が続いたので、そんな感じがした。
 1月下旬であり、この雨で寒さの峠を越してくれればよいものと思っている。
 先日買っておいた牛糞の肥料2袋が、まだそのままであったことを思い出し、午前中に撒くことにした。合羽を着るほどの雨でないので、野良作業用のトレーナーを着て、長靴をはいで外に出た。肥料をバケツに小分けして、春に花が咲き実がなりそうな、木の周りに撒いていった。それをスコップで土に馴染むように均しておいた。全部で2袋×20kg=40kgであり、どこに撒いたか分らないほど、少ない感じであったが、半月ほど前に配合肥料をやってあるので、これで良しとした。1時間ほどの作業であったが、この雨で根に養分が行渡るのではないかと思う。
 その後は、外に出るような用もないので、溜まったCD、DVDを整理うることにした。
 店で買ったCD、DVDはタイトルが付いていてケースに入れてあるので判るが、人から貰った物等は、区別が付かなくなっている。
 これをパソコンで再生してタイトルをつけていく、そんな作業をしていた。
 その中に「熱海(H6.5)」とタイトルが付いたDVDがあった。これを見るのは始めてである。パソコンに繋ぐと平成6年5月1日川崎の妹夫婦が、両親を連れて熱海を旅行した時の画面が出てきた。10分ほどのビデオであるが、その時の会話も入っていた。父はまだ元気であり、1人で歩いたり写真を撮っている姿が映し出されている。母も今のように背中が曲がることなく、くつろいだ感じで映し出されている。今から13年8ヶ月前にとったビデオである。その当時私にはDVDについての知識がなく、そうしたものを写し出す機械もなかった。だから義弟が作ってくれたDVDは見ることもなく、ただ積んであったものである。
 母を呼んでビデオ見せると、懐かしそうに見入っていた。 父はこのビデオを撮った2年1ヶ月後には他界しているので、元気に映し出されているのは、これが最後であると思う。我家にとっては貴重なビデオとなった。すぐ妹のところに電話して状況とお礼を言った。妹も喜んでいた。

紅梅の開花

2008-01-27 17:38:52 | Weblog
 朝8時前に犬の散歩から帰った。日曜日であり、まだ朝食は出来ていないらしい。庭には3日程前に吹いた強風で、落葉等が地面にへばり付いて散乱している。
竹箒を持って掃除をした。むらさきダイコンや大マツヨイ草は、この寒さにも負けずに、地べたに青い葉を出している。深山ツツジの木も枝の先端のふくらみは大きくなっている。今日まで気がつかなかったが、東側の道路に面した紅梅の枝が赤みを帯びその幾つかが赤い花を付けているのを見つけた。
 数日前テレビで静岡の梅の開花のことが言われていたが、それは梅の中でも一番早い、ろうばいの開花のことかと思っていた。まさか紅梅が咲いていたとは知らなかった。
 どうも花は2,3日前から咲いていたらしいが、私が気がつかなかっただけである。妻は既に咲いていたことを知っていたて、驚いた様子はない。
この紅梅は外から見えるところにあり、一番目立つところの木である。
 この紅梅は10数年前、正月用に買った松竹梅の小さな鉢を地植えにしたものである。松と竹はどうなったか判らないが、梅だけは大きく育った。
 この木が高さが1mほどまでは花は枝に間隔を空けずによく付けたが、紅の色が濃く、庭木しては、あまり良いものとは思っていなかった。それが生長して、2m以上の木となってからは、枝が伸び花の間隔が程よい間隔を保ち咲くようになった。道を通る人も眺めて通る、そんな木になった。
 梅の花の咲いている期間は短いが、時期をずらしていろいろの色をした梅が咲く。その近くにある、白梅はつぼみを大きく膨らませていて既に白い花弁を見せてるようになっている。今に開花するが、梅は早春を知らせる花であり、寒い寒いと思っていても、春はすぐそこまで来ていることを感じた。


法多山詣

2008-01-25 23:40:57 | Weblog
 寒さは厳しいものの、風もなく青空の広がる良い天気である。我家では1月の15日前後に法多山に初詣に行くことが恒例となっていた。しかし今年はその日が他に用事が重なり行くことが出来ず、延び延びになっていた。
 朝の天気を見て、今日行くことに決めた。午前中に予定していたことを済ませ、午後1時前に自動車で妻と家を出た。母は昨夜妹が来て、母を預かってくれているので、その心配はない。法多山は袋井市にあり高野山真言宗別格本山の寺院で、寺号は「尊永寺」であるが「法多山」の名が広く知られている。遠州三山の1つで、本尊は聖観音(正観世音菩薩、厄除観世音)厄除け観音として知られ、厄除だんごが名物となっている。私はこの厄除け団子食べることで、一年間の厄除けが出来ると信じている。
 東名高速道路の掛川で降り、右折して8kmほどの距離のところに法多山はある。サッカー競技場のエコバが近くにあり、道路はよく整備されている。午後2時20分には法多山の参道入り口の駐車場に着いた。
 平日の金曜日であり、参道を歩いてもまばらであり、行き交う人は2,3人程度であった。
 毎年行っていた1月15日は成人の日でもあり、お寺の祭りでもある。晴れ着を着た若い人たちが参道を埋め尽くしていたし、道の両側には屋台が並び、人の流れに合せて歩いた。しかし今日はすいすいと歩いて長い階段を通って境内に着いた。
 毎年同じように、参拝後「家内安全のお札」を祈祷してもらい。境内を少し降りた、だんご屋で厄除けだんごを食べ、土産として5箱の団子を買って、だらだらと下り道をゆっくりと歩いた。その途中に祠と池があるが、子供がまだ小学校に上がる前の、小さかった時来て祠に入ったことや池の回りで手作りのむすびを食べたことを思い出していた。入母屋造の仁王門を抜けると駐車場まですぐであった。
 復路は同じ道を通って静岡に帰ってきた。インターを抜けた時間は4時30分頃であった。思ったより早く着いた。家の近くに住む親戚のTさんの家に団子を届け、そのまま瀬名の妹の家に行った。母も居るし団子も届けたかったからである。
 そこには川崎の妹もいたので丁度良かった。残った2箱の団子は、午後7時から行う手品教室のみんなに持っていった。

叔父さんの死

2008-01-24 23:28:43 | Weblog
 母の3番目の妹の連れ合いが1月20日に亡くなった。78歳であり、まだ早すぎると思える年齢である。D公社に勤め、勤勉実直な人であった。何度かの転勤をを繰り返し定年を迎えた。家の近くで第二の勤め先を見つけ、これから余生を楽しもうと元気に働きだしたが1年後に病魔に襲われ、その後20年近くは病院を出たり入ったりの生活であった。本人もさることながら、家族も大変であったと思う。
 それでも2人の男の子は、教職の道に進み、それぞれが、家の近くに安定した家庭を築いており、安堵した気持であったのではないかと思う。眠るように亡くなったという。
 その通夜が1月23日午後5時30分から在所に近い、清水区の祭事場アイネットで行われた。
 母は、足も悪く歩行も覚束ない状態であったが、義弟の最後のお別れをしたいと出席した。神式での会葬であり、戸惑いもあったが、子供達に支えられながら、お棺に長々と手を合わせていた。
 その後母のきょうだいと孫達は、知っているすし屋で行った。母はそのメンバーに入っていたが、言葉を挟まず柔和な顔をしてみんなの話を聞いていた。
 本葬は翌日同じアイネットで行われた。母は長時間の会葬には無理であると考え、私のきょうだい5人が参加した。妹のTは川崎から、弟達は三島、函南からであったが午前11時30分から始まった出棺前の儀式から、告別式、本葬、精進落しまで参加した。100人近くの人が最後のお別れに集まってくれた。各々の方の御挨拶も心に沁みるものであったが、その中でも4才になる双子のお孫さんが、お別れの言葉と歌を歌い亡きおじいちゃんに聞かせたのは、列席者の涙をさそった。
 人はみな寿命があり、天に召されるものであるが、その魂はこの家庭を今後も暖かく見守ってくれるものと思った。
 精進落しでは、最近あまり会っていない、いとこ達とも何年かぶりかに会った。昔の面影はずっと持っているが、みんなは壮年から老年になる年であり、貫禄と落着きを持った雰囲気のなかで話し合った。
 10年ほど途絶えていた、いとこ会を「これからもやりたいね」との話が出たが、具体的には別途相談しょうと言うことで分かれた。
私には亡き叔父さんがみんなを合わせ「これからも兄弟、いとこ同士が仲良くしてくれ」と言っているような感じがした。

ケアーマネージャー

2008-01-22 22:04:00 | Weblog
 雪の降りそうな寒さである。と云ってもテレビでは静岡の最低気温は0,9度と氷点下にはなっていない。それでも年のせいなのか、寒さを感じる。確かに昨年は水溜りに氷が張ったのに今年になってまだ見ていない。ニュースでは、この一週間が寒さのピークと言っているから、これも温暖化の現象なのかと思う。
 朝10時ごろケアーマネージャーのIさんから「母のことで11時に伺いたいが都合はいいですか」と電話があった。
 Iさんは母のケアーマネージャーで一ヶ月に一度は、母と家族に面談する。昔と違って、今は家族が介護者を抱えるだけでなく、地域で介護をサポートしてくれる制度があり、母のケアーどのようなしたらいいか、専門的に計画する人である。それがIさんである。
 明るい感じの人で、母と妻と雑談しながら母の様子を見てくれる。
今日の母は、機嫌がよく聞かれるままに「私は子供の時から足が速く、運動会ではいつも一番であった」とか「長女であり父親には可愛がられたが、その分母親からは厳しく育てられた」「妹達は私のお古を着ていたので姉ちゃんはいいねと言われた」そんな子供の時の話を話していた。子供の時から二十歳ぐらいのことは鮮明に覚えている。しかしその後のことは忘れがちである。終戦で父が帰ってきたときの喜びとか、戦禍にあったことは覚えているが、記憶はややおぼろになったような感じである。それでもよく話していて、Iさんからは「年は若く見えるし、明るくていいですね。きっと長生きしますよ」と云ってくれた。
 私は「母は、いま認知症の薬を毎日飲んでいるが、副作用で幻覚症状出ると聞いている現にその症状が出るがいかがなものか」と聞いてみたら「ふぢさん(母)が認知症が進んでいるのは遅いと思う。そのままつ続けていけばいいと思いますよ」
との返事であった。
 和やかに、そして明るく話して1時間ほどで帰っていった。母も気持ちよかったのか、その後も楽しそうにテレビを見ていた。
 テレビでは静岡の梅の開花宣言をしていた。昨年より6日遅いがこれは昨年の秋の暖秋の影響であると伝えている。

スポーツジム

2008-01-21 22:46:57 | Weblog
 暦では大寒である。昨夜から降っていた雨は、朝の7時ごろは、雨間のある曇りとなっていた。テレビでは今日一日気温は上がらず寒さは、今年一番であると伝えている。雨間を縫って犬の散歩に出かけた。地面が濡れて入るとあまり行きたがらない。犬は主人が行くならついて行くよと言った感じでついてきた。早めに切り上げると、そのまま犬小屋の奥に入り丸くなってしまった。
 その後、雨が強くなってきて、所々に水溜りが出来るほど降り続いた。
今日は部屋で過そうと、居間の暖房を強くして、読み始めて途中になっている本を読むことにした。リタイアしてから、あまり本は読んでいない。知識は衰えるばかりであり、今年は出来るだけ本を読むことを目標にした。硬い本でなく柔らかい歴史書を読んでいる。
 昼食後の一時期はいつも眠くなるので、本を読むのをやめ近くのKスポーツジムに行くことにした。ここには時々来ているが、スポーツトレーナーがいて指導してくれる。以前に腰痛と足の踝が痛いと言うと、それに合った運動を教えてくれた。いつもランニングマシーンで10km/時の速度で30分ほどやっていたが、それが原因で踝を痛めてしまった。自分の年も考えないで無理したことが原因であり、トレーナーからは、無理することは健全な身体を害することになり、逆効果であることを強く指導されていた。
 午後2時ごろ着いたが、この時間帯来ている人は私と同年配の人が多い。みんなゆっくりと自分のペースで運動機器を動かしている。顔なじみの人も多く、互いに「頑張っていますね、無理をしないように」と言った言葉が挨拶になっている感じである。
 私も無理は禁物といつもの7割か8割りの力で運動しているつもりであるが、つい欲が出て顔をゆがめて運動することもある。それでも踝を痛めてからは、走ったり歩くことは避け、固定の自転車で、あまり負荷を掛けない速度で30分ほど動かした。そんな中に若い人がいて走ったり、重い機具を扱っているが、体力の差を感じざるを得ない。
 風呂に入ると、浴槽で知っている人が「ここで汗を掻いての晩酌は旨い。そのために来ているようなものだ」と言っていた。やはり私も健康維持というより、酒の方を取りそうな気がした。



静かな土曜日

2008-01-19 22:05:08 | Weblog
 昨日は鉄道OB会の初詣で「大雄山道了尊」に行って暴飲暴食をしたので、腹の調子があまりよくない。朝6時に起きトイレに入ったら少しは良くなったようなきがした。午前7時には犬の散歩に出かけ1時間ほど歩いた。寒さはきつく手袋を通しても指の先が痛く感じる。今年に入って一番の冷え込みであると言っていた。
 天気は雲ひとつない晴天である。朝食後母は、南側に面した廊下に出て、籐椅子に座って部屋にまで差し込む日の光を浴びている。母もいつになく安定しているように見える。今日は風一つない静かな土曜日となった。庭の花は3年前に植えた桃色の椿の花が咲いているだけである。よく来ていた小鳥達もこの時期餌がないので鳴き声もしない。
 もみじ等落葉樹は全て葉を落とし、枝の先端は微かに膨らみを見せているし、木々の間の地面にも柔らかな日の光が注いでいる。犬のモモも小屋から出て、日のあたる地面を少し掘ってそこに丸くなって寝ている。新緑の時期や紅葉の時期はそれなりにいいものであるが、このような殺風景の庭も静けさがあり、見ていても心が落着く。そんな中で本を読んでいると眠くなってそのままうたた寝をしてしまった。
目を覚ますと午後3時を回っていた。急いで仕度をしてパルシェで行うSBS学苑講座「名曲をうたう」に参加するため向った。
 新年初めての集会であり、今日は私が歌う番である。予定している歌は「早春賦」である。その中でもキイの高い方の歌を歌うことにしている。
一番高い音はファの音である。この音は私が歌える限界域であり歌えるかどうか試したかった。「今日は高音の方の曲に挑戦します」と言うとK先生は「あなたの声はバリトンであるから低い方がいいですよ」と言ったが、それでも私の挑戦を聞き入れてくれた。
 歌うとその譜のところで声が掠れてしまった。再度歌うがダメであった。先生は
声の出し方、身体の重心の置き方、肩の力を抜くこと等教えられた。
何とか歌うことが出来たが、お粗末な声となった。先生からは「次回もこの歌に挑戦してください」と言われた。丁寧に指導していただいたことに感謝する。
 
 

「大雄山道了尊」初詣

2008-01-18 23:31:13 | Weblog
 今年の鉄道OB静岡支部の初詣は「大雄山道了尊最乗寺」である。昨年は熱田神宮であり、その前には、明治神宮、伊勢神宮、川崎大師等に行ったとのことである。これらは、みんなの意見を聞いて決めたものである。
 今回の参加者は37名であった。午前8時に静岡駅南の東海軒会館前からバスで行った。私は今回が2回目の参加であり、顔馴染の人も多く参加しているので、楽しみにしていた初詣である。
 今日の行程は大雄山道了尊に参拝して、そのあと、箱根湯本の「ホテルおかだ」にて昼食と入浴をして帰ってくるものである。
 役員の皆さんが企画してくれたもので、バスには持ち込んだ酒、焼酎、ビール、つまみが十分あり、酔いのなか会話も弾み、気が付いたときには大雄山道了尊に着いていた。
 この道了尊最乗寺は「曹洞宗に属し全国に四千余りの門流を持つ寺であり、ご本尊は釈迦牟尼仏、脇侍仏として文殊、普賢の両菩薩を奉安し、日夜国土安穏万民富楽を祈ると共に、真人打出の修行専門同乗である。
開創以来六百年の歴史があり関東の霊場として知られ、境内山林130町歩、老杉茂り霊気は満山にめぐり、堂塔は30余棟に及ぶ」とある。
 バスを降り参道の階段を10分ほど上り、本尊に参拝した。そのあと老杉の間をぬって奥の院まで歩いた。程よい疲労感がある散策であった。
 その後バスにて「ホテル・おかだ」に行き昼食をはさんで2時間30分ほど、ゆっくりくつろいだ。大浴場から見る箱根の山々は微かに白い雪肌を見せているが、木々の枝端は赤みを帯び芽吹く準備をしているようである。こうした景色も落着いていいものである。
 十分温泉に浸り、疲れを癒してくれた時間も過ぎ、帰りのバスに乗り込んだ。
外気は雪が舞いそうな寒さであったが、暖かいバスは上着を脱ぎ、また酒を呑んだ。団体バスの旅は、こうしたことが出来るからいい。みんな陽気になっていた。気がつくとバスは富士川のサービスエリアに着いた。ここで15分程休憩して、静岡の東海軒会館前には午後5時には着いた。
 まだ明るい時間であったが、そのまま家に帰った。楽しい旅を企画してくれた役員の皆さんに感謝する。


O氏との話

2008-01-15 23:21:53 | Weblog
 O氏は、現職時代の友人で40年ほどの親交がある。東京と静岡の違いはあるが、互いに切磋琢磨した同士であり、また組織を守るため2人は協力して戦った仲間である。
 会社を辞めたのはO氏の方が2年ほど早いが、リタイアしてからもたまには会って親交を深めている。
 その彼と昨年暮れ電話で会うことを決め、今日熱海で会った。最近は電車に乗る回数も少なくなり、ましてや鈍行列車で静岡~熱海間は長く感じた。改札を出て近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら2時間ほど話した。互いに年なりに年を取ったが、話す内容は、傷を舐めあったり、昔を偲ぶような話ではない。中々薀蓄のある話を聞いた。景気の行く末とか、建設的老後の生き方等であった。たとえば800兆に及ぶ債務を持っている国は政権が変わろうが、この負の遺産が解決しない限り国の形が保たれなくなるであろう。処方箋は簡単には無いがずるずるしていくことが、国の力を無くすことになる。その根本の問題に焦点を当て政治に携わる人はスピード感を持って解決策を講じなければダメだとか。グローバル化の中で外国に出た企業は荒波を経験して成長するが、内需に期待する企業は生きていくのは大変である。ワーキングプアーが拡大するのは、グローバル化に対する対策を打ってこなかったつけだ。など私は聞き役であったが論理的に説明をする。いろいろ勉強していることがわかった。今の政府官僚は、判らないように弱者にしわ寄せがくるような政策を打つ、その対象の一つは老人だと思う。その老人となる我々は今後如何にして生きていったらよいか、と言った真面目な話に終始した。
 老人になると、こんな話になるのかなーと思いながら夢中になった。
 その後場所を替え地下街の居酒屋で呑んだ。酔いも手伝って3時間ほど話したがこの会話はあまり覚えていない。人生で言えば余生である、そうなると言葉に責任を持たなくてもいい感じになり、思ったことを気兼ねなく話した。
 駅に着くと午後8時57分の浜松行きに間に合いそうである。「またな」と短い言葉を交わし分かれた。