Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

母の四十九日忌

2014-05-31 22:31:14 | Weblog

 夏のような日差しが照り続く一日となった。今日は母の四十九日忌の法要の日である。法要は正午から、母のきょうだいと私共子供達、それに孫、曾孫を含めて23名が菩提寺に集まった。少し早めに行こうと11時00分ごろ家を出たが、お寺に着くと既に三島の弟家族が来ていて、お墓の掃除等済ませていた。持っていった生花を入れ替え、新しい位牌と七日塔婆を持って本堂に入った。和尚さんに挨拶し、今からの進め方等話してから礼拝堂に案内された。

 仏教では四十九日の法要は重要なことである。死亡してから、四十九日までを中陰(中有)と云い、母の霊魂はこの世から黄泉の世界に旅立っていくと云われている。これは万物が輪廻転生の中で、次の生が決定するまでの期間と云われる。それ故、残された家族は7日毎にお経を詠み、それを七回繰り返す。これが中有であり、この期間遺族は死者の決定(けつじょう)を仏様にお参りする。仏教に疎い人間にとって判りにくいことであるが、和尚さんの話を聞くと「生きるものは全て輪廻転生する。その過程で四つのことを繰り返す。それを四有と云い、死有、中有、生有、本有の転生を繰り返す。中有はその一過程であるが次の生有への決定の期間である」と云った。和尚の読経に合わせみんなで合奏したが、きょうだいや孫たちは、読経ができる人が多い。皆の声が良く聞こえた。

 日本人の多くは、宗派の違いはあるが死後お寺のお墓に入る。それは仏門に入ると云うことで、仏教の教えは知らないがそれが当たり前のことのような気がしていた。それ故仏教はほかの宗教と違い葬式仏教と云われる所以かと思った。私もそのように思っていたし今でもあまり変わっていない。それは日本の風土が作りだした独特の多神教の国となり温厚な仏教が定着していることを感じた。読経が終わったあと和尚さんが説法をした。概要は「私共は自分で生きていると思っているが、生死は、自分では決められない。それは誰かによって生かされているからです。その造物者を仏教では仏様と云い、現世での生き様が次の転生を決めていく。誰もが我欲を持ち満たそうと思う。しかし生きると云うことは互いに分かち合うことであり、そこに我慢が必要になる。それが仏教の教えの基本である」このような教えであった。

 母の死後から今日を迎えるまで、中々平常心でいることが出来なかった。しかし月日が経ち、少しずつ自分の生活を取り戻しつつあることを感じている。この母の四十九日忌はその節目になってくれればと思う。精進落しの席では、きょうだい達もそうした雰囲気を感じているようであった。三島の弟がお礼の言葉を話したが、そこにも母への感謝とそれを乗り越えて行く気持がこもっていた。

 


マジックボランティア(西奈)

2014-05-28 23:49:56 | Weblog

 一週ほど前であったが、「あすなろ会」の会長から電話があり「マジックのボランティアが急遽5月28日(水)の決まったが出てもらえないか」と打診があった。場所は市内西奈にある老人ケアーセンターで午後12時30分に集まるということであった。あすなろ会のボランティアは5人ほどが一時間ほど行なうが、その参加要請であった。しかし参加するメンバーは4人だけで15分ほどの時間で演技するよう言われた。マジックはトリックで常に練習していないと演技は出来ない。前回4月上旬に行ってから一ケ月半ほど過ぎたので、じっくり予習をして臨むつもりでいた。

 しかしこの一週間雑用に追われ練習する時間がなかった。それでも昨夜は準備も兼ねて三時間ほど練習してみた。今日の午前中は練習に当てようと思っていたが、小道具のガラスのコップが割れる等トラブルがあった。汎用のコップと違いそれを購入しようと3軒ほどの店で探したが、丁度よいものがなく、探すのに手間取り練習が出来なかった。今回の介護施設は初めて行くところであり、早めの12時には家を出た。着いたのは12時30分前であったが、メンバーの3人は既に来ていた。この西奈ケアーセンターは、中規模の介護施設で、20名ほどの利用者がきていた。場所も利用者の部屋の机等を片付け、そこで行うことになった。

 4人が各々15分ほどかけ、マジック、傘回し、南京玉簾等を行った。利用者に喜んでくれたが、私は少し準備不足もあって納得する演技は出来なかった。思うに、この利用者も生前の母と同じぐらいの人が多くいた。演技しながら、母や弟のことを思い出させてくれた。母と弟は、最近までこうした施設に世話になっていて、こうしたボランティアの人達と言葉を交わし喜んでいた姿である。しかし2人は、もうこの世にいない。そのことを思うと観客と一緒になって楽しむ感覚になれなかった。そうした感情を出すまいと思ったが見る人はきっと分ったのでないか。

 私も母と弟の死を受け止め、段々普段の生活に戻っているつもりでいるが、身体のどこかで、そのことを意識しているのだと思う。今は忌明けの準備等慣れないことに気を取られているが、人と会っても話がはずまなかったり、自分から話そうとする気持が失せていることを感じた。父が死んだときは、私は現職で、母もいたので大きな衝撃でなかったが、今回は違っていた。5月31日には母の四十九日忌法要を行うが、自分が落ち着くのはそれ以降になるのかと思う。


佐佐木信綱の歌碑

2014-05-24 20:12:59 | Weblog

 昨年7月頃から登呂遺跡での朝のラジオ体操は欠かさず行うようにしている。誰かに勧められたわけではないが、腰痛に体操が良いと思ったからである。その腰痛は多少良くなった感じがするが、それに代わって膝の痛さは増してきたように思う。これは年齢からくるものと思い、あまり無理しないように心掛けている。このように長続き出来ているのは犬の散歩も兼ね行うようにしていることからで、朝犬に急かされて行くようになった。体操のあと、登呂遺跡の外周を歩いているが、少し目立たないところに一つの歌碑がある。

 その歌碑には和歌が書かれている。略した字であり、登呂のことが詠まれているが、全てを解読できないでいた。その作者は佐佐木信綱とあったが、国学者で多くの和歌を残している人であることは分ったが、その歌集から探すことは出来なかった。ところが今日その和歌の意味が分った。見ると歌碑の下に小さな文字が口語体で書かれていた。それは「登呂をとめ、阿部をのこらが、歌垣の、うた聲にまじる、遠つ潮さい」とあった。草書体で書かれた歌碑は分らなかったが、これから大凡見当がついた。それは弥生の時代この登呂の若い男女が、歌を交歓し合う風景を幻想的に読んだものであった。佐佐木信綱は昭和22年8月この地を訪れていた。戦後発掘が進んでいた登呂遺跡を見て、そこで30首ほどの和歌を詠んだ内の一編であった。

 佐佐木信綱のことは名曲「夏は来ぬ」の作詞者であることは知っていたが、それ以上のことは余り知らなかった。調べてみると1879年から1963年まで生きた人で明治から昭和にかけて活躍した歌人で、国文学者であった。昭和12年には初めての文化勲章を受賞し、昭和38年12月2日に92歳の長寿で亡くなっている。このことから75歳のとき登呂に来て詠んだもので、戦後の混乱期に弥生の時代に、ここに住んだ若者が歌詠みする様を連想するもので、年齢を感じさせない柔軟な思考を持った人であると思った。

 丁度この時期登呂遺跡の外周の一部には垣根が作られ、卯の花が匂い、かぐわしい香りを放っていた。私が知る佐佐木信綱は「夏は来ぬ」の作者であるが、この垣根の卯の花も、作者のことが考え植えられたものかと思った。この近くには卯の花はここしか見ることが出来ない。そんなことを思いながら、佐佐木信綱と登呂遺跡の関係を連想していた。                       なお彼の苗字が佐佐木と書いたのも、国学者らしく、訪中の折、中国には「々」と云う字が存在しないことを知った。それ以降は佐々木を佐佐木に改めたと載っていた。


四七(よなのか)日

2014-05-22 22:52:04 | Weblog

 今日は母の「四七日」の日である。この間末弟も死んだこともあって、つらく忙しい日が続いた。いろいろすることはあったが、振り返ると何もできていない思いだ。今は寂しいとか悲しいと云ったことより、これからどのようにしたらよいのか分らない感じてある。母と弟を亡くしたのは大きなショックであり滅入るので、気分転換しようと、一ヶ月近く休んでいた音楽の講座を受けた。平常心でと思っていたが以前のような振る舞いはできなかった。声もいつもの声と違ていて自分の声でないような気がした。

 講座を早退し、急いで家に帰った。今日は母の「四七日」であり、既に瀬名の妹や三島の弟が見えていた。午後3時から行う法要は私の都合で午後4時からにしてもらった。仏教では死者の霊は、次の生を受ける四十九日間は、その家に留まると云われている。この間七日毎に死者の生前の罪が裁かれると云われる。そのために残された者は七日毎に読経をし、死者の罪が軽減され成仏できるよう祈ることである。四十九日は七回目の裁きを受け、死者の運命が決まる日と云われ、この日を満中陰(又は満中有)と云い近親者が集まり比較的大きな法要をすることになっている。これは仏教の習いであり、実行する家は多くないと思うが、我家では行っている。

 三島の弟は、初七日のとき「曹洞宗日課諸経要集」を二冊持って来てくれた。それを妹と妻に渡し、私は、我家にあった「曹洞宗 修証義 般若心経 観音経」を教本にして読経した。最初は読経の速さについて行けなかったが、4回目となると声も出てきた。4人の読経は部屋中にひびき渡った。弟は毎朝読経しているので、暗誦出来る。その声は毎週和尚さんが来て行っているのでないかと思われるような読経である。弟からお経を覚えるよう言われているが、こうして読経すると「般若心経」ぐらいは覚えたいとの思いを感じた。

 その後皆で菩提寺に墓参りに行った。2日前に妹夫妻が墓参りをしていたので、生花もお墓も綺麗であったが再度掃除をした。白木の位牌に張られた紙はノリが剥がれ折りたたむようになっていた。前回来たときノリで付け直したが、また同じようになっていた。これは母が望むことかと思いそのままにした。家から持ってきた小さい塔婆(7本の内の一本)も墓石の横の砂利の上に立てかけた。これで4本目となった。墓石を見ると以前石屋に頼んであった母の戒名は墓石に彫られていた。父の戒名と同じ字体で横に彫ってあった。四十九日忌に向け段々整っている。弟を静岡駅まで送ったが毎週来てくれる弟に感謝した。


ボランティアで行く

2014-05-21 14:30:43 | Weblog

 1か月に一度、歌のボランティアで「Tの家」老人介護施設に行っている。今日はその日であり午前中はその選曲や歌にまつわる話し等、整理して過した。曲はこの時期に合ったものを20曲ほど選んだ。この二ヶ月ほど歌うこともなかったので、声が出るか不安でもあったが施設利用者のことを考え、歌の内容より、一緒になって歌える曲とトークが上手く出来るかに掛かっていると思った。選んだ曲は、世界遺産となった富士山にまつわる曲や新緑を歌った曲が主であった。

 服装は白いワイシャツに、黒のズボン、赤の蝶ネクタイとした。白のブレザーにした。やはり形を整えると気持ちも乗ってくる。午後1時30分に一階の会場に入ると、直ぐ数人の施設利用者が、介護師に付き添われて入ってきた。皆さん、見慣れた人ばかりであったが、来てくれたことに安心した。いつもホワイトボードに模造紙に書いた歌詞を取り替える等手伝ってくれたAさんが「来月結婚しますので、今回が最後です。いろいろありがとうございました」と云った。以前から近いうち結婚すると聞いていたが、今回が最後となることであり残念に思った。幸せになってねと話した。

 集まってくれた施設利用者は30数名であった。一緒にうたう人、黙って聞いている人、感情が出て涙ぐむ人等いろいろな方がいるが、その人達を見ているとその人の過去が凝縮して見えた。最初に歌ったのは「ふるさと」であった。この歌は日本人の心の歌であると思っている。その後は、世界遺産となった「富士山」「うみ」を歌った。この「うみ」は三保の松原から見た駿河湾の景色であると聞いた。富士山の遠隔景観として遺産登録されたものである。そして「茶摘み」「せいくらべ」「若葉」「夏は来ぬ」「宵待草」等今の季節に合った曲を続けて歌った。また「赤い靴」「叱られて」「浜辺の歌」「桜貝の歌」これらは誰もが知っている名曲であり歌った。その中の一つを紹介する。「赤い靴」は静岡の景勝地「日本平」に親子の銅像がある。この歌の題材となった静岡市清水区宮加三で生まれた少女「岩崎きみ」は、母から別れ宣教師に連れられて異国に行った悲しい歌であった。このことも調べて知った。

 声は余り出なかったが、トークで何とかごまかした感じであった。最後に「今日の日はさようなら」を合唱して終わった。皆が歌う声が心地よく聞こえた。歌うことで身体が元気になっていくことを思った。そして集まった人の中に103歳になるOさんが見えなかったことが気になった。終わったあと施設の談話室でコーヒーを飲んだとき、そこの人に聞いた。Oさんは施設にいるが体調を崩し出てこれなかったと云った。来月は元気な姿を見せてほしい。


弟の葬儀に思う

2014-05-20 23:37:37 | Weblog

 末弟の死を中々受け止められなかった。今やっと綴る気持になった。

 『母が逝って3週間経った5月16日末弟は息を引き取った。今やりようのない気持ちである。私より11歳も若い弟は、きょうだいやみんなから可愛がられた。特に母は他のきょうだいが羨むほど可愛いがった。一番下の子で両親と一緒にいる時間が少ないとの思いがあったのかもしれないが、それを感じた。機知にとんだ話や冗談の上手い弟であったが、根はおとなし、甘えん坊の子供であった。それでも反抗期には親を困らせ、両親といた弟を甲府までなだめに行ったことがあった。その弟も社会人になり家庭を持った。2人の子供にも恵まれ、傍からは順風満帆に見えた生活をおくっていた。

 末弟は2歳上の弟と仲がよく、その弟と一緒に仕事をするようになった。何年かして、そこから独立し、塗装会社を起こし人を雇うまでになった。子供達を育て、やっとこれからは自分たちのために自由の時間を過そうと思っていた矢先、身体の異常を感ずる様になった。年齢は57、8歳のころであったが過労から来るもので少し休めば元気になるものと思っていた。このころ私も会社を退職し、きょうだい5人は、母と一緒に一泊2日の温泉旅行をするようになった。最初のころは半年に一度程度であったが、最近は2ケ月に一度は行っていた。最初のころは元気であって、一緒に温泉に入りながら「この旅館は、3年前にうちの会社で塗装工事を行ったんだ」と得意げに話したことを思い出す。

 その彼が、病魔に襲われた。身体の自由を侵される難病であった。それは少しづつ悪くなっていった。約2ケ月毎に行っていた旅行で、5人はよくトランプをした。弟の末梢機能が衰えるのを何とかくい止めようと思いからであった。しかしその衰えは、回数を重ねるたびに酷くなった。病院も何度かかえたが、一向に良くなる気配はなかった。昨年ごろから寝たきりの生活になったが、それでも車椅子に乗せ温泉旅行に出かけた。母は、その様子を見て悲しんでいた。その母が4月25日に他界したが、その葬儀にも参列できなかった。病院のベットでそのことを聞いた弟は、黙って涙を流していた。

 弟の葬儀が、県西部の都市で行われた。私達きょうだい夫妻、甥、姪、仕事をしていた時の関係者など60人近い人が集まった。近親者だけで行うとのことであったが、それ以外にも20名近い人が来てくれた。私が遺族親族を代表してお礼のあいさつをした。話しているとき、弟のことが目に浮かび、声を詰まらせた。言葉が出なくなった。式場全体で嗚咽する声が聞こえた。享年66歳であったが、道半ばで逝った弟のことを思うと今でも気が滅入る。これからも遺族を見守っていく心算でいる』


今日感じたこと2件

2014-05-14 22:44:04 | Weblog

 2つのことを記す。一つは、5月12日、末弟の病状の悪化を聞き、急遽きょうだいで見舞った。その時、川崎の妹は旅行中で来れなかったが、13日川崎の妹と電話で話すと「14日に見舞に行きたいが、兄さんも来てくれないか」と云った。私が「忙しいので三島の弟が近くにいるので一緒にいってもらったらどうか」といい、末弟のことなど10分ほど話した。14日の朝8時ごろ、瀬名の妹から電話があった。「末弟のところに見舞に行くが午後1時に川崎の妹と三島駅で落ち合うことになっている。間に合うように行くには、草薙駅何時の電車に乗ったらいいか」と聞いてきた。妹同士で話し、2人で行くことにしたと話した。

 瀬名の妹は、12日にも行っているので行かないものと思った。案の定、妹も自分の家のこともあり、最初は断わったようだが、義弟が聞いていて「〇〇ちゃんの病状は悪い、またいつ会えるか分らない。家のことは良いから行っておいで」と後押ししてくれたと聞いた。私が断ったので、妹は電車でも行こうとしている。そこで私も思い直し「私も行くから自動車で行こう」と云った。妹は「兄さんはお母さんのこともあり、大変だからいいよ」と私を気遣ってくれた。瀬名の義弟と妹の心根の優しさを感じた。

 二つは、今日妻から聞いたが、それは半年ほど前、末弟の奥さんと妻が話した時の話しであった。それは末弟の奥さんが弟の介護疲れから、娘さんと関西地方に一泊二日の旅行したときのことだ。大阪にいる息子に電話し、一緒に食事しないかと誘った。すると息子が怒って云った「お父さんが病気で苦しんでいるとき、施設に預けて旅行するなんて、お母さんはおかしいよ」と云って食事にも来なかったことを聞いた。息子は30歳で、社会人として働いている。子供のころは甘えん坊でひ弱さを感じがしいたが、今は分別をわきまえ確りしてきた大人になった。その彼が母を諌めたと聞いた。末弟の子供達が成長していることを思った。きっと弟も喜んでいるだろう。

 私のきょうだいは、仲がよく、この10年近く母と一緒に旅行をしてきた。2ケ月に一度ぐらいであったが温泉に入り楽しい一時を過ごしてきた。しかし母が死に、末弟も今は病院に入っている。年を重なると状況は変わってくる。しかしきょうだいは互いに助け合い生きていこうと思う。そうした中で今日聞いた話は、きょうだいの絆を感じたし、それを支える周りの人達がいることを思い厚くなった。


末弟を見舞う

2014-05-12 22:59:49 | Weblog

 今朝7時ごろ、末弟の奥さんから電話があった。私がいなかったので妻が出たが「昨夜医師から話を聞いたが、血圧が下がり、呼吸も浅くなっている。血圧を上げる薬と機械的生命維持装置をつけているが、予断を許さない」との話があった。先日4月22日見舞ったときは、言葉は発しなかったものの、微かであったが表情もあったし顔もあまり痩せていなかった。それから20日しか経っていないが病状は進んできている。そこで急遽見舞に行くことにした。きょうだいに連絡すると、瀬名の妹、三島の弟、それに妻も行くとのことになった。なお川崎の妹は、旅行中で夕方帰ると聞いたが待てないので、午前9時に家を自動車で出た。

 瀬名の妹のところに寄り、東名を通って、三島のインターからは伊豆縦断道路を通って伊豆玉沢で降りた。ここから道路沿いに行くと、三島総合病院は直ぐ着いた。病院入口には三島 の弟が待っていた。来る間状況を話したので、皆悲しげな顔をしていた。病室は3階にあり、以前行ったときと同じ部屋であった。受付で話すと面会は12時以降からと云われたが、病状を話すと面会を許可してくれた。病室に入ると弟は点滴の管が2本あり、機械装置が3台置いてあり、その各々に数字が動いていた。末弟は酸素吸入をしていて、浅い呼吸(病院では深く感ずる呼吸も浅いという)をしていた。血圧は100以下で、脈拍も乱れていた。

 手を触って耳元で「兄さんの〇〇だよ。分るか」と云ったが反応はなかった。何度か話しかけたが同じであった。顏や身体は痩せていたが、手、足先は浮腫んだようになっていた。しかし顔は苦しむような表情はなかった。目は開いていたが、焦点の定まらない感じで見えないのかと思った。妹や、弟、それに妻も耳元で声を掛けた。病室に30分ほどいたが、看護師から、末弟の処置をするのでと云われ、廊下に出た。時間は午前11時少し前であったが、奥さんに電話すると正午には病院に来ると言った。そのまま待合室で待つことにした。

 12時10分ごろ奥さんが見えた。見舞に来てくれたことを感謝したが奥さんも看病疲れで、やつれた感じであった。それでも気丈に振る舞っていた。その後近くの食堂で今後のことなど話したが、誰もが末弟の命が近日中に尽きることを感じていた。重い空気であったが、何かあったらきょうだいが力になるからと云い午後2時に別れ静岡に帰った。自動車の中で瀬名の妹は末弟のことを思ってため息を何度もついていた。

 


母の遺言

2014-05-11 23:47:43 | Weblog

 そろそろ母のものを整理しようと思い、午後になって金庫を開けてみた。確か18年前父が死んだとき金庫を開け中のものを整理したが、中にあったファイルの中身は、概ね忘れてしまっていた。父は几帳面な性格であり、整然と整理されたものが出てきた。必要と思われるものを残し、大部分は整理することにした。その中に懐かしい物があった。昭和6年から昭和20年までの父の軍歴が書かれたものであった。生前に聞いたことがあったが、概ね覚えていなかった。今回初めて出征していた時期が正しく分った。因みに最初の約2年間は内地の中隊に入っていたが、その後、昭和14年中国広東州黄浦に召集されたが、15年解除されたこと。それから1年ほどは鉄道省に戻って仕事をしたが、その後はパラオ島に約2年、半年ほど経った昭和18年12月フィリピン、ミンダナオ島等で討伐作戦に参加生死を分ける戦いをした。終戦になり昭和20年11月日本に帰って来た。この間マラリヤにかかって大変な時期を過ごした。

 金庫の中には父の物が大部分で母は物はあまりなかった。それでも何冊かの手帳と、年金証書などが出てきた。その量は父の物の1/5ほどであって、コンパクトな入れ物の中に入っていた。手帳には日記がつけられていた。その中でも平成10年の日記は一日3行ほどで概ね毎日のようにつけてあった。そこには日々の様子が記されていた。それ以外の手帳は、どれも概ね半分ほどしか書かれていなかったが、平成10年度だけはこまめに書いてあった。

 その手帳の後ろに付いているリマーク欄に「平成10年7月1日遺言状をしるす」と書いた1ページが付いていた。そこには母の生年月日と名前が書かれていた。内容は割愛するが、最後に『兄弟姉妹は仲良くし、両親の顔を思い出して貰いたい』とあった。確かに母の字であるが印鑑も押してなかったので、下書きのつもりで書いたものと思った。今から16年ほど前であり、父が死んで2年ほど過ぎたころのものであった。母はそのことを私には何も言わなったが、自分が亡くなっても子供達は仲良く生きてほしいことを伝える内容であった。

 日記にはその頃の様子が書かれていた。足が弱くなってきたが、毎日続けていた父の墓参りを続ける様子であったり、自分の妹や弟のことや、私達子供たちのことが書かれていた。そして姉妹で美人湯に行って1日過ごした様子など楽しげに書かれていた。今思うと、その頃の母は畳の上に座って両手を前に出して指を握ったり開いたりする運動や、足の指も何度も曲げている様子が目に浮かんだ。そして「いつまでもボケないで、みんなに迷惑を掛けないで死にたい」と言っていたことを思い出した。


野菜を植える

2014-05-10 22:13:33 | Weblog

 昨日記したパソコントラブルは、業者がきて、10分ほどで直した。その技量に驚いたが、彼は「これは初歩的トラブルです」と云い原因を説明した。それはIDもパスワードも正しく入力したがIDの最後の文字の後ろに半角のスペースが出来ていた。何故そのようになったのかは、無意識の内にキーボードをおしたことによるものであると分った。彼はそれを直してくれた上インターナット上の小さな阻害要因も手際よく整理した。そしてネット取扱いの注意事項など教えてくれ1時間ほどで帰って行った。先ずは一安心である。以下はパソコンとは違った事柄を記す。

 先日(5月8日)母の「ふた七日」の法要のとき、瀬名の妹が、ミニトマトの苗を3本置いていった。これは私が、母の死から、早く普段の生活に戻ってほしいとの思いからであると思った。昨年も、ミニトマトの苗を貰い、夏から秋にかけ我が家の食卓に上がった。市販されているような美味しいミニトマトではなかったが、味わって食べた。今年も苗木を育てることにした。植えるところは南に面した建屋の前しかない。そこは昨年ミニトマトを植えたところであり、連作が効かない。迷ったすえ玄関横の花壇がある前の狭いところに植えることにした。

 そこの地面がかたく、つるはしでほぐたうえ耕した。そうすると欲が出てきて、昨年の耕作地にも別の野菜の苗を植えることにした。最初から上手く行くとは思わないが、そこにも鍬を入れた。そしてホームセンターに行き、野菜の苗木を買った。選んだのはナス、キュウリ、ピーマン、枝豆の苗で、各々2本~3本買った。肥料も完熟堆肥、腐葉土、苦土石灰、バーミキュライトを購入した。これが植え込みにj必要の肥料なのかは良く分らなかったが、取りあえずそろえた。

 その肥料を耕したところにすき込み、苗木を植えた。額ほどの耕作地であるが、買ったものを全部植えた。少し込み過ぎた感じであったが、きれいに等間隔に植えた。そして今まであまり使わなかった、父が生前残していった竹を組み立て棚を作った。苗木の内、ミニトマトとキュウリは蔓で伸びるため必要である。近所の畑のものを見よう見真似で作った。棚と云えば市販のプラスチックの棒を組み立てるのが良いと思っていたが、竹でやると、上手く組みたてることが出来た。見ると我ながら上手くできたと思った。父が死んで18年が経つ、この間物置の前に立てかけてあった竹は使うことはまずなかった。無用のものと思い、近いうち整理しょうと思っていた。しかし竹を使って見ると竹には温かさもあり、今やっと父が残した意味と竹の効用が分ったような気がした。