夏のような日差しが照り続く一日となった。今日は母の四十九日忌の法要の日である。法要は正午から、母のきょうだいと私共子供達、それに孫、曾孫を含めて23名が菩提寺に集まった。少し早めに行こうと11時00分ごろ家を出たが、お寺に着くと既に三島の弟家族が来ていて、お墓の掃除等済ませていた。持っていった生花を入れ替え、新しい位牌と七日塔婆を持って本堂に入った。和尚さんに挨拶し、今からの進め方等話してから礼拝堂に案内された。
仏教では四十九日の法要は重要なことである。死亡してから、四十九日までを中陰(中有)と云い、母の霊魂はこの世から黄泉の世界に旅立っていくと云われている。これは万物が輪廻転生の中で、次の生が決定するまでの期間と云われる。それ故、残された家族は7日毎にお経を詠み、それを七回繰り返す。これが中有であり、この期間遺族は死者の決定(けつじょう)を仏様にお参りする。仏教に疎い人間にとって判りにくいことであるが、和尚さんの話を聞くと「生きるものは全て輪廻転生する。その過程で四つのことを繰り返す。それを四有と云い、死有、中有、生有、本有の転生を繰り返す。中有はその一過程であるが次の生有への決定の期間である」と云った。和尚の読経に合わせみんなで合奏したが、きょうだいや孫たちは、読経ができる人が多い。皆の声が良く聞こえた。
日本人の多くは、宗派の違いはあるが死後お寺のお墓に入る。それは仏門に入ると云うことで、仏教の教えは知らないがそれが当たり前のことのような気がしていた。それ故仏教はほかの宗教と違い葬式仏教と云われる所以かと思った。私もそのように思っていたし今でもあまり変わっていない。それは日本の風土が作りだした独特の多神教の国となり温厚な仏教が定着していることを感じた。読経が終わったあと和尚さんが説法をした。概要は「私共は自分で生きていると思っているが、生死は、自分では決められない。それは誰かによって生かされているからです。その造物者を仏教では仏様と云い、現世での生き様が次の転生を決めていく。誰もが我欲を持ち満たそうと思う。しかし生きると云うことは互いに分かち合うことであり、そこに我慢が必要になる。それが仏教の教えの基本である」このような教えであった。
母の死後から今日を迎えるまで、中々平常心でいることが出来なかった。しかし月日が経ち、少しずつ自分の生活を取り戻しつつあることを感じている。この母の四十九日忌はその節目になってくれればと思う。精進落しの席では、きょうだい達もそうした雰囲気を感じているようであった。三島の弟がお礼の言葉を話したが、そこにも母への感謝とそれを乗り越えて行く気持がこもっていた。