Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

作曲家「ベッリーニ」のこと

2016-01-31 18:06:48 | Weblog

 ヴィンチェンツォ・ベッリーニが作曲した歌曲「優雅な月よ」は優美で抒情的な旋律を生かした名曲である。2月7日この曲をAOI音楽館で歌うことにしているが、ベッリーニについては、あまり知らないので調べた。彼は1801年にシチリア島のカターニアで生れ、パリ近郊で没したクラシック音楽の作曲家である。オペラの作曲家として有名であり、ロッシーニやド二ゼッティと共に19世紀前半のイタリアオペラ界を代表する天才であった。父親も祖父も音楽家であり、音楽を学ぶ前から作曲を始めたと云う神童であったと云う。しかし彼は34歳の若さでパリで亡くなっている。

 彼は18歳でナポリの王立音楽院に入学し、24歳のとき音楽院内で公演されたオペラの処女作『アデンソンとサルヴィーニ』が認められ、その後『海賊』等、幾つかのオペラを書いている。1831年30歳のときオペラ『夢遊病者の女』をミラノで発表、大好評を博しているし、同年オペラ『マノン』1835年1月にはオペラ『清教徒』をパリで発表している。この『清教徒』を演奏してから、9ヶ月後の9月23日34歳の若さでこの世を去っている。彼が残したオペラ作品は11曲で、全て優美で繊細な旋律のオペラで、「オペラのショパン」と称されているとあった。その多くは今でも演奏されている。べッリーニの肖像からも、優しく品のある顔であるが病弱な印象は拭えない。

 彼はオペラ以外、幾つかの歌曲を残しているが、その大部分は死んでから「遺稿」として発見されたものと云われている。この歌曲「優雅な月よ」もその一つである。こんなに美しい曲なのに、どうして生前発表しなかったのかと思うが、34歳の若さで病死してしまったことからその意図は分らない。しかし、この曲はべッリーニがナポリの王立音楽院に在学中だった1824年頃(23歳)の作と云われている。≪夜空に浮かぶ月を眺めながら恋人を思う気持を心を込めて歌う曲で≫。甘く優しく、ゆったりとした旋律は誰もが共感できる歌であると思う。

 私が、この曲を聞いたのは、まだ半年ほど前のことだったが、直ぐこの曲を歌いたいと思った。それはイタリア歌曲にない美感覚があった。彼が生れたシチリア王国はイタリア的色彩が強い国だと思った。現在シチリアはイタリアの一部であるが、この優美で繊細な曲はそれとは全然違うものに思えた。聴けば聴くほど、この曲にのめり込んでいった。今回歌うが、この素晴らしい旋律の流れを止めないよう滑らかに歌い上げたいものだと思う。それが叶うか分らないが頑張るつもりだ。


冷たい雨の日

2016-01-29 22:22:00 | Weblog

 1月の気候は、寒暖の差が激しい。暖冬と云っていたが、今日の雨は冷たい霙が降るような寒さである。暖房を効いた部屋で、本など読みながらゆっくり過ごしている。今日は午後1時からTBG交流会を行う予定であったが、この雨で中止の連絡を取った。第四半期は、私とYAさんが当番であり、設定から運営までやらなければならないし、中止の連絡も全メンバーに行ったところだ。既に準備したTBG交流会では茶菓子も次回の2月2日(火)に回すことにした。

 窓越しに、雨の様子を見ていると、ムクドリの群やスズメ達、それにカラスも庭に降り餌を探している。こんな日では餌となる虫などは地面に出てくるはずがないと思うが鳥が群れを作って地面に降りてきた。そこは昨日ブロッコリーを収穫をした後、根から引き抜き、その後を耕したところである。土は柔らかく掘り起こしてあり、土の中にいた幼虫など探しに来たのかな。しかし雨は降っているし、餌を探すのも容易ではないようだ。しかし鳥たちは、声も出さず黙々と餌を探している。

 庭に生っている実は、夏ミカンとキンカン、それにマンリョウに実だけである。先日までは千両の実が生っていたが、いつの間にか鳥たちが食べてしまった。おなじ実であってもマンリョウのみは、何故か鳥たちは食べない。きっと訳があるものと思うが、真赤に連なった8mmぐらいの実は美味しそうに見えるが、それに見向きもしない。夏みかんは、皮も硬いし、実はまだ酸っぱいのでまだ食べられない。そして、この時期一番食べごろなのはキンカンの実である。しかし白い網目状のネットを張ってあり、そこには近づかない。きっとこの網を掛けた人間を恨んでいるのかもしれない。しかし隣の屋根には一匹のカラスが、そのネット越しに見えるキンカンの実を狙っていた。ネットは下が空いているがそこから入ったら、出られなくなると思っているのか?そこでネット上部の継ぎ目のところが、30cmほど空いているところを見ていて、そこから入る方法はないか考えているようだ。しかし10分ほど見ていたが何処かに飛んで行ってしまった。

 動物社会では、食べ物連鎖によって生態系は保たれているとは言われる。こんな雨が降る中でも、全ての生きものは、自分を守り成長するために頑張っている。人間のエゴから、そうした生きものの住む環境は狭められていることも確かだ。しかし彼等は、何の不満も言わず、ただ生きるために行動を起こしている。それに比べ私は、暖房の効いた部屋で、のんびりそれを見ていた。

 

 


介護施設でボランティア

2016-01-27 21:32:41 | Weblog

 新年になって初めて介護施設でボランティアを行った。毎月行っている歌のボランティアであるが、既に10年近く行っているので緊張感は余り感じないがマンネリ化しないよう注意し臨んでいる。それは事前にしっかり時間をかけトークや音程など準備して行くこと。それをしないと話しがとちったり、歌詞を忘れてしまうことがある。今日もそのために午前9時から正午まで当てた。準備した曲は「一月一日」「雪」「富士の山」「ゆりかごの歌」「夕焼け小焼け」などの童謡から「早春賦」「浜辺の歌」と云った日本歌曲まで20曲を選んだ。

 この介護施設は、静岡では大規模な介護施設の一つで6階建の建物で、一階の事務所には30名近い人が働いていて、デーサービス、ショートスティ、常泊する特養施設も持っている。その一階には講習室があり、そこでいろいろな催物が行われる。一ヶ月のスケジュール表が貼ってあるが、歌や踊り、体操やマジックなどのボランティアによる催物が組まれて活動に行われていることが分る。今日のボランティアは、午後2時~3時まで行うことになっている。

 午後1時30分に介護施設の講習室に入った。すると直ぐ車椅子や歩ける人などが集まり始まる午後2時には40人以上の施設利用者が来てくれた。いつも来ているので大部分の人は分っているが、その表情から今日は元気なのか、体調を崩しているのか見分けがつくようになった。そして、この人が童謡を好むのか、歌曲を一緒に歌いたいのかなどの特徴が分る。ここに来るにんは、みんな歌うことが大好きな人ばかりである。そんな人の前で、私は無粋のことだと思ったが、干支「丙申」の話をした。「今年は世の中の良いことが形作られていく年になると云う卦が出ている。皆さんも楽しみにしてくださいね」と云ったが、ある利用者が「そんなことより早く歌いましょう」と催促された。新年の言葉として考えて云ったのに、施設利用者にとってどうでもよいことと思ったのか知れない。直ぐ気を取り直して「一月一日」の歌を皆で歌った。

 その後の歌も、皆さん良く声を出して歌ってくれ最後の歌「今日の日はさようなら」まで続いた。今までで一番多くの人が集まってくれ盛上ったと思った。終わると「ありがとう」と云って皆さんは自分の部屋に帰って行った。今日の反応が良かったが何故だろうと私なりに考えた。そこから、今まで月の中間で行っていたボランティアを、私の都合で、前回は12月3日に行い、今回は1月27日と約2カ月近く空いてしまったことが影響yしたのでないかと思った。


老犬の頑張り

2016-01-25 22:16:25 | Weblog

 我家に14歳8か月の老犬がいる。この犬は甲斐犬で主人のことは良く聞く利口な犬である。朝夕の散歩のときなど、人から「いい犬だね」と褒められると嬉しくなる。しかし昨年の冬頃からか少しづつ、足の衰えが目につくようになり、時どき後ろ足が震えるようになった。それでも、散歩は行きたがり、9月頃まで一緒に行っていた登呂遺跡までの散歩もしんどくなった。それ以降は距離は短くし近所を500m~800m程、ゆっくり回ることが日課になっていた。その後、更に距離が短くなり、1月に入ってからは、気が向いたとき散歩する程度になっていた。今は庭で放し飼いにしているが一匹で出て行くことはない。時どき庭を歩いているが、概ね犬小屋で寝ていることが多い。食欲はまだあり、与える夕食はすべて食べるが、以前のような早食いではなくゆっくりと食べるようになった。

 半年ほど前に動物病院に連れて行ったとき、特に指摘された病気はなく「老衰によるもの」と云われた。しかし最近は食事のときは座って食べているので後ろ足が弱ってきたことを感ずる。そんな折、ネットで調べると、後ろ足が震えるのは、栄養のバランスが悪いこと。それを直すには鹿肉を主成分にし海草や大豆等加えたものが良く、粒状にしたものが販売されていた。それを食べた多くに犬が病気が改善されたことが書いてあった。そこで電話をして注文したのは4日ほどで前であった。しかし生産地が遠く九州であることから、輸送に掛かることも聞いた。

 我家の犬の餌は、残飯に犬用缶詰肉を混ぜて与えている。しかしその缶詰も添加物が多く含み、犬にとって余りよいとは言えないらしい。ネットで注文した鹿肉はまだ到着に時間が掛かるのでドックフード店に、鹿肉のジャーキーを買に行った。そこの店員から、馬肉もよいことを聞き、鹿肉と馬肉のジャーキー、それに、若鳥のモモ肉も一緒に購入した。その3種類の肉を混ぜ、朝と夕食に混ぜて与えた。缶詰のときは、美味しくないのか時間をかけ食べていたが、この3種類の肉を与えると飛びついて食べた。今日で4日目になるが動作や歩くのも少し早くなったように見える。それは一寸した兆候であるが嬉しい。

 とは言え、老衰は、目、耳、嗅覚にも現れ、その状態は変わらない。しかし少しでも長く生きてほしい。15年近く一緒にいると家族と同じであり、犬によって癒されることが多かった。昨日ネットで頼んだ業者から、「九州は雪で、交通がマヒし、鹿肉が届くのが少し遅れると電話があった。まだ3種類の肉は半分以上残っているし、その上注文した鹿肉が届いて食べたなら、より回復するのでないかと願っている。


敬老会の新年会

2016-01-24 22:01:35 | Weblog

 先日の1月12日退院して家に帰る途中で敬老会長にあった。その時「1月24日に公民館で新年会を行うが、その余興にマジックか歌をやってくれ」と云われた。病後でもあり大丈夫かと思ったが、まだ2週間近く後のことあり、それまでに体調は整うだろうと引き受けた。マジックにするか歌にするか考えたが、昨年6月20日に富士見学区の「お楽しみ演芸会」でマジックを披露したが、その時の参加者が今回の新年会にも多数来ることから、同じマジックは出来ない。別のマジックを行なえばよいが、そのように多くのマジックは持ち合わせていない。そこで歌にした。

 後日会長に歌にすることを話すと、「今回余興で舞踊や、カラオケ、合唱もあるので唱歌は2~3曲にしてほしい」と云われた。敬老会で歌うのは始めてであり、曲数も3曲以内と云われ少し安心した。考えた末、曲は、「一月一日」「砂山」「初恋」の三曲とした。そして「砂山」は中山晋平と山田耕筰の作曲したものを歌うことにした。模造紙に書いてある歌詞は持って行くものの、暗譜で歌えるように準備した。ア・カペラで歌うが、孫にも衣装と云うが、服装はマジックの先生から貰ったシルバーのタキシードを着ることにした。

 新年会は午前11時30分から始まるが、15分ほど前に会場に着くよう家を出た。しかし、皆さん集まるのは早く2階の会場には既に9割ぐらいの人は集まっていた。役員に「着替えがあるので出る15分前までに教えてほしい」ことを話し、宴席の中に入った。周りには、私が役員をしていた時の顔見知りの人が多く直ぐ盛上った。始まって45分程すると余興が始まった。最初は踊りの先生をしているINさんが踊った。その後私が行うことになったので、直ぐ1階の着替え室に降りた。着換えをして会場に入ると直ぐ司会者に呼ばれ、舞台に立った。町内の皆さんの前で歌うのは初めてであり、最初は声に力みがあったが、トークを入れ「1月1日」「砂山」は何とか歌えた。そして最後に「初恋」を歌った。しかし出だしの音程が高かったのか、一番高音のところが声がかすれて詰った。それでも最後まで歌いきったが初歩的ミスであった。

 皆は大目に見てくれたが、これは私の準備不足である。再度着替え宴会の中に入ったが、皆さんはそのことは振れなかった。その後カラオケや合唱などがあり、最後にビンゴを行い3時間近い新年会は終わった。初めての参加であったが、何か悔いが残る新年会になった。しかし毎年行っていることであり、次のときは、十分準備して失敗のないようにしよう。


キンカン収穫のため

2016-01-22 18:51:42 | Weblog

 庭にキンカンの木が一本ある。今年は豊作の年なのか直径3cm程の大ぶりの実がたくさんついた。その実は黄色に色づき殺風景な庭に明るい色彩を放っている。キンカンは、春から夏にかけ、3~4回白い花が咲き、実を付けると云われる。それ故小さな実や大きな実が混在することがあった。しかし今年は、同様のことを繰り返したものの、生っている実は、大部分は揃った大きさになっている。確か5~6年前だと思うが一度、ネットを張り収穫したことがあったが、実にタネがあり、加工して食用にする知識もなかったので、大部分は捨ててしまった。しかし今年は、粒も揃っているし、生っている実を取って食べると美味しく感じた。そこで今年は本格的に収穫しようと思った。

 鳥たちにとっては、この時期、餌になるものがなく、そのキンカンを啄ばみ、木の下には食べ残し落とした残実があちこちに散らばっている。鳥にとっては貴重な食料であるが、まだ枝に付いた実を突いた跡があり、それを人間が食べることは出来ない。そこで今年は、キンカンの木にネットを張り廻らせることにした。以前も同じようなことをしたが、今は木も大きくなり、以前より大規模のネット張をすることにした。昨年ヤマモモの実を収穫しようと1.8m×10mのネットを購入し5mに切ったものがあった。それを使うが、それだけでは足りなかった。そこで再度同様のネットを購入した。

 5mの長さのネットはホッチキスで止め、3.6m×5mの長方形のものにしキンカンの木の天端に広げ、その長方形の角に長さ3mの野菜棚に使った棒を4本、その中間に更に4本棒を垂らしネットの端に輪ゴムで縛りつけた。そこに今回購入した1.8m×10mのネットを垂らしたネットにホッチキスで止め周りに巻いた。地面から50cmほどは、空いているが、キンカンの木は網笠を被った虚無僧が透明の布を巻いたような格好になった。よる街灯越しに見ると異様な感じであったが、これなら何とかキンカンの実を熟成するまで鳥から守ることが出来そうである。

 朝方、庭に集まった鳥たちは、ネットを張った異様な光景に、中々近づかなかったが、時間が経つと、1羽のスズメが地面の空いているところから中に入った。そして警戒していたが、少し時間が経つと実を食べ始めた。そこで庭先に出て近づくとスズメは上に逃げようとするがネットに阻まれ中で動き回っていた。網に掛かったスズメのように下が空いていることに気が付かない。しかし2~3分ほどして逃げていったが、その後はスズメが近づく素振りはなかった。もし明日もネットの中に入るようなら次のことを考えなければならないが、それまではこの状態でいこうと思う。

 

 


鈴木梅太郎のこと

2016-01-19 21:50:15 | Weblog

 先日テレビを見ていると鈴木梅太郎のことを話していた。ビタミンを発見した人であったが、その時は何をした人なのか分らなかった。そこで静岡県牧之原市の出身であることを知った。少し時間が経つと記憶の中で小学生か中学生のころ、ビタミンを発見した人であるということを思い出した。しかしそれ以上のことは何もわからなかった。そこで彼のことを調べた。

 鈴木梅太郎は1874年(明治7年)静岡県榛原郡牧之原市堀野新田に農業、鈴木庄蔵の二男として生まれた。14歳のとき上京し東京農林学校予備校に入学、その後勉学に励み1896年(明治15年)帝国大学農科大学農芸化学化を卒業している。1901年ベルリン大学に留学し5年後の1906年帰国し東京帝国大学などで教鞭をとるようになった。1910年、ニワトリとハトに白米で飼育すると脚気の症状が出て死ぬことが判り。糠と麦と玄米には脚気を予防する成分が含まれていることを東京化学界に発表した。その後研究を重ね糠の有効成分(オリザニン)は、人、動物の生存に不可欠な栄養素があることを発見する。この論文をドイツ語に翻訳されたとき「これは新しい栄養素である」と云う訳出されなかったため、オリザニンは世界的注目を受けなかった。1931年オリザニンを純粋単離成功するまで評価は低いものであった。

 その背景に、日本の医学会にも、脚気が伝染病であるか、栄養素の欠乏によるものか意見が分かれていた。ドイツ医学はずっと脚気は伝染病と云う説を唱えていた。そうしたことから鈴木梅太郎が栄養素(オリザニン)を取ることで脚気が治るとの考えを受け入れなかったと云う一面もあったと思う。日中戦争の拡大などにより食糧事情が悪化するまで、脚気による死者は毎年1万人から2万人までになっていた。その後開発が進み、類似のアリナミン等のビタミン剤が社会に浸透するまでの1950年代後半まで毎年1000人以上の脚気で死亡する難病であった。その後、化学も進みビタミンの栄養素が発見されビタミンの欠如での死亡率も無くなった。

 鈴木梅太郎が発見したのは正確にはチアミン(ビタミンB1)であり、世界的にビタミンを抽出したと知られているカジミール・フンクは、ビタミンの名称は彼のものとなっている。しかしビタミンの名称は複数の栄養素の総称と云うことになった。しかしオリザニン(ビタミンB1)は、鈴木梅太郎が、世界で初めてビタミンを発見した人である。このことが世界に伝わっていたなら日本初のノーベル賞が貰えたものと思う。それはさて置き、彼の残した足跡を辿り、その後多くの科学者がビタミン〇〇を発見しノーベル賞の栄誉に輝いている。知名度こそ少ないが鈴木梅太郎であるが日本の誇りである。


今年の干支(丙申)

2016-01-18 23:24:26 | Weblog

 今年の干支(丙申)を考えてみた。以前は年の初めにその年の干支を占い一年の機運を予想することが好きであった。しかし最近は、年のせいなのかそうしたこともやらなくなった。しかし今年は年初に入院したこともあり今はあまり無理もせず安静にしている。そんな折本棚にあった「干支の活学」を久し振りに読んでみて、今年の機運を占った。干支は中国の周代に始まり、戦国から漢代に整ったものと云われている。字の通り「干は幹であり、支は枝」である。一本の草木、生命体が成長、発展、収縮する変化の過程を分類・約説したもので十干、十二支を組み合わせ六十の範疇にしたものと云う。ここには中国三千年近い歴史に裏打ちされたもので、真実であるように思う。

 今年は丙申(ひのえさる)の年である。幹である「丙」(ひのえ)を分析すると、昨年の「乙」(ひのと)がさらに成長して「形が明らかになってくる」ことを表わしている。昨年の成長は自由に伸びていたが、今年はその形がハッキリしてくる年と云える。枝である「申」(さる)は伸びるとか、呻く(うめく)との意味で、枝に付いた果実が成熟して行って、実が固まっていく状況を表わしている。完熟までとは言えないものの形がハッキリしてくるとはどのようなことか考えてみると、それは今まで日の目を見なかったことが形になって現れる年と云えるのでないか。今まで評価されなかったことが評価されたり、気づかなかったことが気づくとか、努力してきたことが、認められる切っ掛けになる年だと思う。

 因みに今年と同じ干支は60年前の1956年であり、その年はどのような年であったのか調べてみると、日本は神武景気に入った年であり、「もはや戦後ではない」と経済白書に記載された。国際的には、日本が国際連合に加盟し、日ソ国交回復した年でもあった。この時北方4島の領土問題は棚上げされ解決されなかったが、今年は期待が持てそうである。ソ連では独裁者スターリンの死後、後継者のフルシチョフがスターリンの横暴ぶりを暴露した年でもあった。石原裕次郎が映画「太陽の季節」に出て、国民的スターになっていくきっかけをつかんだのもこの年である。まさにこの年は、形がハッキリしたような年であった。

 2016年は、昨年までの成長が、形が明らかになっていく年であるように思う。それは来年以降伸びしろが期待できる成長段階の年と云える。老人の私に成長段階と言うのもなんですが、今自分やっていることを整理し足を踏ん張れるものを探して頑張っていくことかと思う。それは、さらなる成長につながることなのかもしれない。社会も、昨年から成長してきたことが実を結ぶ年になるように思う。そんな発見が見られる年にしたいものである。


太原雪斎のこと

2016-01-16 16:12:58 | Weblog

 徳川家康は幼少時代、人質として今川義元のところに預けられた。その時、家康の教育係として学門・軍学を精魂を傾けたと云われるのが太原雪斎である。彼は今川家の家臣で、政治家、軍師 僧侶でもあった。今川義元に仕え、内政・外交・軍事に辣腕を発揮して今川家の全盛期を築き上げた人物である。そして臨済宗の僧侶として、駿府の臨済寺を開寺し、自ら2世住持となり、また京都妙心寺の第35代住持にもなっている。

 太原雪斎(1496~1555))は現在の静岡市清水区にあった庵原城で生れている。父は庵原城主・庵原政盛、母は隣の興津横山城主・興津正信の娘であった。両家とも今川氏の譜代の重臣であった。なぜ彼が仏門に入ったかは調べきれなかったが、最初駿河富士山麓の善得寺に入寺し、その後京都5山の建仁寺で修行、さらに妙心寺に移っている。この頃から秀才との噂が広がり、それを聞いた主君の今川氏親から帰国して今川家に仕えるよう何度も要請されている。しかしこの要請を断ったと伝えられる。1526年今川氏親が死去し、義元の同母兄の氏輝が跡を継ぐが、その氏輝も1536年に死去、継嗣がなかったことから家督相続が発生、この時雪斎は還俗して義元を助け、今川家を引継ぐことに尽力する。その後義元は雪斎を厚く信頼し、政治・軍事の最高顧問として重用する。

 雪斎は、天文6年(1537年)甲斐の武田信虎との関係改善のため、義元の正妻に信虎の長女を迎え、嫡子・晴信(信玄)に今川家の遠戚である三条公頼の娘を周旋して、両家の間に甲駿同盟を成立させる。このため相模北条氏綱との関係が悪化するが、天文14年(1545年)関東管領の上杉憲政を誘い込み、河東で失った土地を取り戻している。天文15年~天文18年まで織田信秀が西三河に侵入し、松平広忠が援軍を要請したのに対し、雪斎は大軍を率いて3度以上の戦を行い、全て勝利し、一時織田家に奪われていた人質の松平竹千代を今川に取り戻している。天文23年(1554年)甲相駿三国同盟の締結に尽力し、三家の当主を善得寺で会合させたとの伝説も残っている。こうした外交・軍事の活躍が目立つが、天文14年に駿府に臨済寺を開寺し、天文19年(1550年)には京都妙心寺の第35代住持になる等僧侶としての活躍もあった。

 今川義元の右腕として手腕を発揮し、今川家の発展に大きく寄与した雪斎も、人質であった徳川家康の目からは「義元は雪斎和尚とのみ議して国政を執り行ったため、家老の威厳軽し、故に雪斎亡き後は、国政整はざりき」と評している。雪斎の死後、5年経たずして義元は、桶狭間の戦いで織田信長に敗れて討死するが、もし雪斎が生きていたなら、今川家の衰退もなかったし、義元が討死することもなかったのでないかと考える。


八日間の入院(4)

2016-01-15 21:22:53 | Weblog

 今日は成人の日である。きっと街では新成人が華やいだ衣装で歩き皆さんに祝福されているものと思う。しかし、この病院内には外来患者はいないし、病棟の一部は電気も消えているが、この入院病棟では、医師や看護師が普段と変わらず忙しそうに行き来している。私の体調は、ほぼ普段の生活が出来るように回復した。朝食後病棟内にある風呂に入りシャワーを浴びた。熱めの湯をかけたが、これは本当に気持ち良いものであった。しかし上がると胸がドキドキし身体もふらふらした。看護師を呼ぶようなことではなかったが、きっと久し振りの熱い湯に、からだが驚いたものと思った。その後ベットで寝ていたが、昼食を食べたあとパジャマの上にジャケットを羽織り病院の外を歩くことにした。

 外は寒かった。室内は空調で快適な温度に調整されているので寒さは感じなかったが。筋肉の衰えもあり、どれだけ歩けるか分らないが、敷地内南側の道路を西に向かって歩いた。病院西側の南北の道路を、北に向い東西の道路を回って病院玄関まで歩いたが、未だ歩けそうに思った。そこでそのまま南に進み、K小学校のところを右折して歩いた。全長1kmほどの距離であったが疲れはなかった。

 ベットに入るとそのまま寝てしまい午後4時ごろ妻が来るまで寝ていた。明日は退院であり、出来るだけのものを持って帰って貰った。しばらくすると看護師が来てA-4一枚の紙を渡してくれた。それは医師からのもので、次回の受信日は1月19日で採血を行うので午後1時までにに来院することと書いてあった。そして退院後の日常生活についての注意書きもあり、次のようなことが記してあった。・激しい運動は1週間位は避けること。・重労働は次の受信日まで避けること。・飲酒は2週間位は禁止、それ以降も量は控えること。・刺激の強い食事は、一週間位避けること。その他 便秘に注意すること。 睡眠休息をとること。入浴は短時間で長湯は避けること等が記されていた。

 退院に当り考えるに、今までの生活の反省点がよみがえった。若い時は、暴飲暴食し2日酔いなど日常茶飯事であった。それでも健康体であると思い改めることなく最近まで続けてきた。しかしもしものことがあったらと思い、退職後も一年に一回は健康診断を受けてきた。そこで約2年前血小板が少なくなっていることが分りそれがピロリ菌によるものであると話された。これが潰瘍に繋がったかはわからないが、そんなことから昨年、一昨年人間ドックを受診し、昨年10月初めて潰瘍があることが発見された。今回治療して頂いたO医師は、早期発見であり切除すれば治る確率が大きいと云った。本当にありがたいと思ったが、油断はできない。年を取るといろいろなところにガタがくる。そこには病魔が潜んでいることを考えると、より健康的生活習慣を付けなければと思った。(了)