Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

OBの懇親

2018-08-30 23:19:45 | Weblog
 鉄道関係の会社を退職し14年が過ぎ時の流れの速さに驚嘆いている昨今である。現職時代は日々仕事におわれ落ち着いて考えることもなかったが、退職してからは、時間もあり確りした目標を持って生きようと考えたが、その考えは、退職後のほんの短い期間だけで、それ以降は惰性で生きている。それでいてそんな生き方は良くないと思いまた考え直す。こんなことのくり返しであるが時間もあり、その上誰からも拘束されることがない生活は、そうした考えを先送りし気が付けば、何もしない自分がいる、これではダメだと思い考え直すその繰り返しをしている。  こうしたことも世間との接点が少ないことも一因かと思う。だからと言って始めたわけではないが、むかし勤めていた時の同僚と会うのは楽しみである。この会を行うようになったのは、5~6年ほど前であった。それは、中の一人が大病を患ったが元気を取り戻した。その快気祝いを兼ね集まったのが最初であった。それからは年の3~4回懇親会を行うようになった。最初は、4人で会ったが段々人数が増え今回は7人が参加するようになった。年齢は全員が70代で私が一番上になっていた。住まいはみんな静岡の近郊に住み、一人を除いては私と同様ブラブラ過ごしている。  今回初めて参加したのはAさんで、後期高齢者になったが未だに働いていた。彼に電話したとき、もう75歳を過ぎたので家に居るだろうと話すと奥さんが出て「まだ主人は勤めています」と話した。その後電話があり、この会に入ることを喜び今回参加した。7人は、8月30日午後6時に静岡市南町の居酒屋にに集まった。前回集まったのは3月28日であったので5か月ぶりで前回と変わらない元気そうな顔が揃った。しかし、みんなどこかにいうところを持っていて毎日が病院通いだと云う人が多かった。そのはずで全員が健康寿命と云われる年齢を過ぎていたが、話しは今でも元気であることを証明するような話ばかりであった。皆さんよく話し、よく呑んだ。私もビールで始めたが、いつの間にか冷酒を呑んで陽気になっていた。  話をAさんのことに戻すが、彼は仕事は出来るし人望もある。私と同じ関連会社にいたがそこの定年前に某溶接会社からどうしても欲しいと引き抜かれていった。今は、その社長から信頼され「会社にいるだけでいいから居てほしい」と頼まれ今も働いているとのことであった。彼は、むかしと同様元気で明るく振舞っていた。もう一人、気になった人がいた。それはBさんと云い、新幹線品川新駅の改設で人一倍苦労したそれ人であった。その後JRを退職し私と同じ会社に来てくれた。やはり優秀で私も助けられた。しかし、そこを退職してから体調を崩し今はいろいろな病院で治療を受けていると聞いた。まだ完治してないが出席してくれたことはありがたい。次回は忘年会を兼ねてということで解散した。元気で再開することを楽しみにしている。

菩提寺の大祭

2018-08-24 22:00:22 | Weblog
 菩提寺(帝釈寺)では8月24日大祭を行う。夜店も花火も打ち上げられ檀家や近所の人達がたくさん集まり賑やかである。境内には特設のステージが設けられプロの芸人や地域の人が歌や踊りを披露し近隣の人達を楽しませてくれる。規模は小さいが地域のお寺で、このような御まつりを行い賑わうのを私は知らない。また、この祭は同宗のお坊さんが20人近く集まり読経するが本堂に響き渡る合奏は見事である。その中でも中国唐代の訳経僧 玄奘三蔵がインドから持ち帰り翻訳した16部600巻(漢字にして約480万字)を転読(経典を扇のように広げ)する「大般若経」は見ごたえがある。

 今日は、台風20号の影響で時折強い雨が降る生憎の日となったが、本堂には150人近い檀家や近郷の人が集まった。昨年は天気も良かったので300人近くの人が集まったので今日は少ない感じであったがこの雨ではやむ負えない。それでも雨宿りしながら子供さんずれの家族など200人近くは境内にいた。案内によると ≪1461年当時、疫病苦しむ人々の救いとして帝釈天をおまつりし。祈願したところ、たちまち平癒しそれ以来夏病みしない仏様・雷除けの仏様・家内安全・商売繁盛として信心を集めるようになった≫と云われ、このお祭りが続いていると云う。

 午後5時から始まった大般若法要は、檀家のご婦人(16人)御たちの御詠歌から始まった。それに続き「般若心経」を僧侶と檀家の人達が唱え、その後、20人の僧侶が一段と声を張り上げ「大般若経」大合奏(大読経)する。そのさまは雨の降っていたが、その音をかき消すような大きな読経であった。20人の声もそろっていて、合唱団が歌うような統一された声に聴こえた。確か、浄土真宗だったと思ったがお坊さんたちの「声明」を静岡AOI音楽館で聞いたことがあったが、それに匹敵するような合奏であった。普段の読経は、言葉も分からず眠くなることがあったが、この合奏は聴いていても心が洗われるような気持ちになる。

 この檀家席で2人の知人に会った。一人は、私が30代の頃、工事区で太田川橋梁の架け替え工事を担当したが、その時一緒に仕事をした人で4歳先輩であったがいろいろなことを教えてくれた。最近体調を崩し心配していたが元気そうに見えたが、それでも「最近は病院通いが日課になっている」と云っていた。もう一人は、新幹線の職場で一緒であった人で、こうしたときでしか会って話すことがない。彼は現在、東京の新幹線指令に勤務していたが、彼からの情報で昔の仲間たちのことを聞くことが出来た。雨が降っていて、すぐ帰ることは出来なかったが、このため2人の友人と話が出来たことは良かった。

謡曲を学ぶ

2018-08-23 22:00:40 | Weblog
 「敬老の日に何か余興をやってほしい」と町内会長から言われたのは8月上旬であった。2年前まではマジックをやったが、昨年云われたときマジックのネタも切れたので「民謡をやります」と話した。当日は民謡「田原坂」を歌ったが、時間があったので詩吟「川中島」と民謡「武田節」もやった。詩吟を人前で行うのは初めてであったが、袴姿に舞扇を持って自己流で行った。一ケ月ほどの練習であったが何とか形になったと思った。しかし、今年も何かするようにと言われ咄嗟に『「詩吟」と「謡曲」をやります』と話した。昔からと西洋音楽に興味を持っているが、最近、詩吟、謡曲は知るようになった。そこで分かったことは声楽も詩吟、謡曲も腹の中から声を出すのは同じであり基本は同じだと思った。

 しかし「詩吟」「謡曲」は、誰かに教えられたことはなくすべて自己流である。しかし、父は晩年「詩吟」「謡曲」を謡うのを聞くでもなく聞いていた。その時の父は、真剣に取り組んでいたが上手いとは思わなかった。私も父と同じ年齢になったことからか、こうした古典芸能に興味を持つようになった。詩吟は昨年やったので何とかなりそうであるが、「謡曲」は初めてでありどうなるか分からない。妻は「一度も習ったことがない謡曲を人前でやるなんて」と呆れていた。無謀なことをに言ってしまったと今は反省している。しかし、まだ敬老の日まで一か月近くあり自分なりに勉強しようと思っている。

 「謡曲」の出し物は「鶴亀」にした。父が残した謡曲の本の中から、長寿を祝う「鶴亀」が良いと思ったが、よく調べてみるとこれは「能」の作品で、中国唐の時代 家臣が皇帝を讃えるもので、国の繁栄と長寿を祈念する内容であった。本質は違うが敬老の日参加者の長寿を願うことに替えて謡曲「鶴亀」を行うことにした。しかし、謡曲「鶴亀」には2つの地謡があり、一つ目「庭の砂は金銀の 玉を連ねて敷妙の 五百重の錦や瑠璃の扉 シャコの行桁、瑪瑙の橋 池の汀の鶴亀は 蓬莱山の余所ならず 君の恵みぞ あるがたき」2つ目「月宮殿の白衣の袂の色々妙なる花の袖 ・・・・・・・・・・・・・・君の齢も長生殿に 還御成るこそ めでたけれ」があった。これは各々が単独に謡われているようだが、その中から「庭の砂は金銀の・・」を謡うことにした。

 この謡曲「鶴亀」の節回しを覚えているところですが、謡曲は「能」の中で正座して謡っている。しかし、町内の公民館で行うことから座ることは無理である。そこで、立って行うことになるが、装いは、袴に白足袋、舞扇を持って謡うので、「能」のシテが行う仕舞を入れようと思う。一度も経験がない私が自己流で舞うなどもってのほかと云われそうですが、仕舞の基本である「カマエ」とか「ハコビ」ぐらいは覚えて謡いながら舞えたら良いなと思っている。とは言え、本当にできるか心配である。

「歓喜の歌」練習に初めて参加

2018-08-19 22:23:35 | Weblog

 12月9日(日)清水マリナートで「歓喜の歌大演奏会」が行われる。合唱のメンバーとして10年以上参加してきたが、ここの庶民的演奏会は好きだ。毎年6月に結団式が行われ練習がスタートする。この演奏会の目玉はベートーヴェン交響曲第九番「合唱」であり、これを原語で歌うのは、相当の労力を要するが、今まで連続して参加して来ているので概ね歌うことが出来る。それにこれまで、8月5日のグランシップの「音楽の広場」に集中してきたので、これが終わったら、この演奏会の練習に参加するつもりでいた。

 「歓喜の歌大演奏会」は、合唱に250人近く参加していて、6月から21回の練習を重ね12月9日の本番を迎える。この約6ヶ月間の練習で、初めて参加する人でも堂々と歌えるようになる。私が参加した8月19日は7回目の練習日であった。今日の参加者は200名ほどでマリナート中ホールで河村先生の指導で行われた。今日初めて第九の合唱以外の曲が分かった。それは定番である「ふれあい」「わたしの街静岡」以外に「21世紀に残したい”こどものうた”」「365日の紙飛行機」「心の瞳」であった。この内私にとって初めての曲は「心の瞳」だけであのる。しかし、これらは混声合唱曲でありメロデーだけ知っていても歌えないが大きな負担にはならないだろうと思った。

 周りを見ると、「音楽の広場」で一緒に歌った男性が5~6人がいたし女性の中にも何人かの顔を知っていた。最初の一時間は、「心の瞳」など日本語の歌を習った。初めて歌う歌は中々声が出せなかったが、知っている曲はスムースに声が出た。しかし、合唱全体としては未完成であることはすぐわかった。指導した河村先生は、口角をあげて明るい顔で歌う等基本的発声法など教えてくれたがまだそのレベルのようだ。先生曰く「まだ全体の半分程度の出来ですが、本番までには100%以上に仕上がるから心配ないですよ」と云った。この中には今年初めて参加する人も何人かいて、彼らが真剣に取り組む姿が見て分かった。

 後半の一時間は「歓喜の歌」を練習した。皆さん舞台の上に立って、最初のフレーズから通して歌った。まだバラバラの感があったが皆さん声は出ていた。後ろから高音をスムースに歌う数人の声が聞こえたが、私にとって高音「ソ」「ラ」は中々でない。今までこうした高音を出さなかったことにもよるが、今日は特に出にくく感じた。多分これから練習していく過程で少しずと声になっていくのでないか。またフーガの部分も正確には程遠いものであった。これからも練習を重ね、本番には、きれいなハーモニーを醸し出す合唱にしたいと思う。

 


弟から本が届く

2018-08-18 22:31:08 | Weblog

 8月17日に三島の弟から郵便物が届いた。四国八十八ヶ所の寺院を回ったことを旅日記にまとめた本であった。A-4 で110ページほどに、その時々に感じたことを紀行文として纏めてあった。昨年の餅つきできょうだいが集まったとき「今年は四国お遍路の旅を自分の足で歩いてくるから」と云っていたが本当に実行させたのだ。弟は、学生の頃から仏教に興味を持っていて休みのときは京都や奈良のお寺を回り仏像を見るのが好きであった。その後、家庭を持ってからも続いていたが、今は子供達も自立し、また自分の年齢も考え、時期は今しかないと思ったものであった。

 走り読みしたが、1300kmの遍路道をよく歩ききったなと驚くばかりであった。行程は2月12日から3月23日までの40日間で、途中3日間は足底腱鞘炎で歩けなくなり三島に帰り休んだ。それが完全に治らない段階で、また四国に戻り37日間で踏破した。毎日30km~40kmを連続して歩いた。四国は高い山が連なり雪も降った日も寒さと冷たい雨の日もあったようだがよく回り切ったものだと思った。確かに弟は歩くことが好きで、若い時から各所で行うウオーキング大会などに参加していた健脚であった。しかし、文面からは、歩くことの苦しさが伝わってきた。

 そういえば、2月下旬だったと思ったが、四国を歩く弟から電話があった。「朝6時からのNHKテレビ『小さな旅』で四国お遍路の様子を放映される。そのメインの人ではないが、ディレクターから一緒に入るよう言われカメラの前を歩いた。〇〇日の朝のNHKのテレビを見てほしい」と云われた。その日がいつだったか、今思い出せないが、きょうだい達に連絡しテレビを見た。そこには、お遍路姿の弟がいた。小さくて本人か分からないほどであったが疲れた感じで映っていた。きっとたくさん撮ったがカットされたものと思った。そしてその中では、お遍路さん達を暖かく迎える地元の人達の様子も映っていた。

 読んで感じたのは、1300kmの遍路道は苦行の連続で、ありとても真似できないと感じた。弟もこのお遍路が終わった直後はもう行くまいと思ったと書いてあったが、しかし時間が過ぎた今は再度行きたいと思うと書いてあった。私も、以前はいつかは四国八十八ヶ所を回りたいとの気持ちがあったが、それは軽い気持ちでの願望であったが、読んだ今はそうした気持ちは失せてしまった。そして、この本のタイトルは「1300kmの遍路道 同行2人」となっていたが、それは一人で回っていても、ここに導いてくれた弘法大師と一緒に歩いている心境を同行2人としているものであった。弟が「次は千日苦行などしようか」なんて言わないことを願っている。

 


「Ich Liebe dich」を調べる

2018-08-13 23:16:04 | Weblog

 来年2月にボイスコンサートが行われる。未だ決めたわけではないが、歌うならドイツ語の曲にしたいと考えている。その曲は、先日聴いたベートーベンの「Ich Liebe dich」である。べートーヴェンは交響曲やピアノ曲等多くの楽曲を残しているが、声楽曲はあまり知らない。そんな中で「Ich Liebe dich」はよく歌われている曲で、イタリアの曲のような5線をはみ出すような高音もなく歌えそうである。そこでベートーヴェンとこの曲のことを調べた。

 ベートーヴェン(1770~1822)は、音楽家の家系の家に生まれ、小さなころから音楽の道を志した。父も歌手であったが、呑んだくれのダメ人間であったと云う。16歳のときウイーンで尊敬するモーツアルトとの対面を果たす。しかし、母マリアの突然の訃報でボンへ帰らざるをえなくなり、その4年後にモーツアルトは鬼籍に入ってしまうので、それ以上のつながりはなかった。22歳のときハイドンの師事を受け作曲技法などを学ぶ。しかし、28歳ごろから、自分の耳が聞こえなくなっていくことに気付き、段々進行し30歳になるころには、ほとんど聞こえなくなってしまう。難聴と向き合いながらベートーヴェンは、次々と楽曲を量産していき、34歳から10年間は「傑作の森」と呼ばれる黄金期を迎える。しかし、晩年は「交響曲第九番」「荘厳ミサ曲」など作曲したが、親族との対立や確執、それに音が聞こえないことなどあり、何度か命を絶とうとする。そうした人生であったが「Ich Liebe dich」は彼が25歳のとき、K.Fヘルローゼーの「優しき愛」の詩に曲を付けたものであり純粋な愛を表現したものである。とは言え、この曲の題名は自身が付けたものではなく、後世の人が冒頭の歌詞をタイトルとしたものであるという。

 音楽の才能はずば抜け、誰もが羨むような人生を送れたかと思えたが晩年は苦渋の人生であったようだ。しかし彼も青年期は、恋もしたし多感な時代を過ごした。こうした中で生まれたのが「Ich Liebe dich」であったと思う。この詩を対訳すると  ≪私は君を愛している、君が私を愛しているように。夜も朝も、私たちは心配事を共にしないことは一度もなかった。やさしく耐えれたのも、君と私は心配事を分かち合ったからだ。君は私の悲しみを慰め、私は君の嘆きに泣いた。私の喜びである君に神の祝福がありますように、神は君を守り、私たち2人をお守りください。≫である。

 この曲の出来た背景を知ると、私が歌うことに違和感を感じる。因って別の曲を選択するかもしれない。しかし、先日ドイツ語でワグナーの曲を合唱したが言葉のイントネーションは好きになった。それ故、言葉だけは覚えようと思う。


文楽「其礼成心中」を観る

2018-08-10 22:34:44 | Weblog

 「文楽」に興味を持つようになったのはつい最近のことである。西洋の歌劇や舞台劇などでドラマチックなものが好きであるが、年齢と共に、舞台は質素で内面を表現する」「能」や「文楽」と云った日本の芸能が素晴らしいと感ずるようになった。今回静岡のグランシップ劇場で三谷幸喜作の「其礼成心中」を「文楽」で表現すると云うことから見に行った。この「其礼成心中」は3年程前に東京で実演したものであるが、評判で再度静岡でも行うことになった。

 「其礼成心中」は、近松門左衛門が実話をもとに「曽根崎心中」を書いたことにヒントを得て、同じ視点で当時の社会現象をユーモラスに表現したものである。「文楽」としてこうした試みをするのは初めてではないか。あらすじは、≪江戸時代の大阪は「曽根崎心中」の大ヒットで曽根崎にある天神の森は心中ブームが巻き起こり、ここで死のうと連日訳ありの男女が集まってくる。森の外れで饅頭屋を営む半兵衛の家は客が途絶え閑古鳥が鳴いていた。そこの半兵衛は、商売の邪魔となる心中を止めさせようとパトロールなどしていたが一向にやまない。そこで心中流行にかこつけた人生相談を行うことを思いつき実行する。これが大当たりして、暮らしは一気に繁盛、贅沢三昧の生活に変わっていく。しかし、こんなことは長く続くものではなく、あるとき商売敵が現われ家も傾き多大な借金を背負うことになる。その原因は、近松門左衛門がその後書いた「心中天網島」が当たり網島が心中のメッカとなった。自分たちが当てたように網島の近くの天婦羅屋が繁盛したことによるものであった。

 半兵衛は、近松門左衛門のところに行き、現状を訴え、再度天神ノ森近くを題材にした「心中物」を書いてくれるよう頼む。しかし、近松は、「『其れなり』の題材を提供してくれるなら書く」と返事をする。しかし、半兵衛は題材が考え付かない。借金でどうしようもなくなった半兵衛は、女房のおかつと淀川で心中するしかないと意を決め淀川に飛び込む。しかし2人とも死にきれず助かってしまう。ぬれねずみとなっているところに、むかし天神の森で助けた男女が現われ「今は夫婦になり商売も繁盛している。これも半兵衛のおかげ」と金子を置いていく。これは、借金を返せるぐらいな金額であった。何とか命拾いをしたが、これを知った近松は心中物の題材が出来たと歓び幕となる≫

 「其礼成心中」は、三谷幸喜氏が描く心中物を「文楽」で面白おかしく表現していた。舞台のあり様も、本来なら演ずる人形が中央にあって、大夫や三味線が隠れるように隅で演ずるところであるが、ここでは大夫と三味線は、舞台の上段で演じるのも新鮮であった。また半兵衛は、人生相談と饅頭の代金として心中者から高額の料金を取ったり、一人娘が商売敵の天ぷら屋の手代と出来ていて騒動になったり、近松門左衛門のところに直談判に行ったりと滑稽な描写も楽しませてくれた。三谷幸喜の多才さを感じさせる「文楽」であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横断で


「音楽の広場」開催

2018-08-05 22:00:58 | Weblog

 「音楽の広場」は、東静岡駅南側のグランシップで行われる真夏の音楽の祭典です。この祭典はオーケストラ員300人以上、合唱団員350人以上、それに児童合唱団30人が参加し、観客数3000人の静岡県では最大の音楽祭と云えます。この「音楽の広場」の由来は、昭和50年代 NHKの音楽番組で、黒柳徹子さんと芥川也寸志さんが司会し、東京フィルハーモニー交響楽団などが出演した人気のある番組が「音楽の広場」でした。当時の演出者 渡壁 輝を招き静岡から同様の音楽祭を発信すると云うコンセプトで始まりました。

 今年で第10回目を迎え、静岡の「音楽の広場」として定着してきています。音楽の指揮は、日本を代表するマエストロの広上淳一さん、司会の掘尾正明さんは10年間変わらず出演していますし、毎年、素晴らしいソリスト達も参加しています。因みに今年はソプラノの伊藤晴さん テノールの笛田博昭さん ヴァイオリンの徳永二男さん ピアノの横山幸雄さん等でクラシック界では、名前が知れた人達ばかりです。またオーケストラ、合唱団のメンバーは、700人近くでこの一日の音楽祭のために参加するプロやアマの人達です。

 私は合唱メンバーとして参加し今回で6回目となります。今回の演奏曲名は18曲でマエストロは全曲目を指揮しますが、その内合唱曲は7曲です。その中に「ふるさと」「上を向いて歩こう」など知った曲もありますが、これらは混声4部合唱曲で、セカンドテナーの音域を暗譜するのは苦労しました。しかし、これ以上に大変だったのは4曲の外国の歌でした。特に、祝典序曲「1812年」はロシア語で、それに歌劇「タンホイザー」より”巡礼の合唱”はドイツ語です。練習が始まったのは6月16日でしたが、ロシア語やドイツ語の曲を暗譜で歌えるか不安でした。8回の練習日は必ず参加し、この一ケ月半は、携帯のレコーダーは欠かせませんでした。

 8月5日(日)グランシップの大ホールは満員御礼の垂れ幕が掲げられ音楽の祭典「音楽の広場」は始まりました。最初の「ふるさと」は、会場のライトが消された中で、合唱団員のアカペラで始まりました。2人の独唱が4人になり、8人、16人となり、そして350人が大合唱が会場に響き渡りました。その後歌った祝典序曲「1812年」はロシアがナポレオン軍を破った曲です。私も力強く歌うことが出来ました。その後のソリスト達の演奏も見応えがありましたが、会場が段々盛り上がり最後の「セカンドワルツ」は、3000人以上の大合唱で締めくくりました。観客の皆さんの大きな拍手からも素晴らしい音楽祭になったことを感じました。来年も必ず参加しようと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ゴオヤの実なる

2018-08-03 17:04:46 | Weblog

 6月中旬ごろであったが、庭の隅1㎡ほどのところで収穫したネギが終わり空いていたので、そこにゴオヤの苗を2本植えた。近所の家で、毎年ゴオヤを育てている家があり庇に立てかけるように野菜用ネットが張りそこにはいつも5~6個の大きな実がなっていた。それは夏の日差しを遮るための緑のカーテンの中に隠れるように生っていた。我家でも同様の効果があればと植えたが、収穫より緑のカーテンが主目的であった。そこで家に保管してあった野菜用ネットを軒先に斜めに立てかけ、50cmほど離して苗を植えた。

 ゴオヤは、肥料と毎朝の水やりが大切であることが書いてあり、定期的に肥料を施したり十分な水やリを欠かさす行ってきた。蔓の成長が早いゴオヤは、毎朝見るたびネットを這うように伸び4m程ある軒先まで一ケ月ほどでついてしまった。その間黄色い直径3cm程の花が1㎡あたり4~5個咲いていた。しかし、実がなる様子は中々見ることが出来なかった。その脇にキュウリが植えてあり、その蔓が延びる速さはゴオヤの半分ほどであるが実がなるのは早く、咲いた花の1/3ほどに実を付け、その収穫も早かった。しかしゴオヤは花は咲けども実は中々見つからなかった。毎朝水やりのとき実がなる花を探すのが日課になった。初めて花の下の実らしいものを見たのは7月中旬であった。その時2か所で実がなる花を見つけた。それからは日が経つにつれ幾つか実が付いた花を見つけた。

 その実はよく見ないと分からないほど小さく5cmほど伸びた糸のような茎の先に花を付ける。その茎が微かに膨らんでいてそれが実になることが分かった。それが太く大きくなるのは、実に早く2週間ほどで腕の踝の周りほどの太さになった。それでもまだ大きくなりそうであったが調べると「あまり置きすぎると外側が黄色になり、中の実も赤くなり美味しい。しかし野菜として収穫するのは、実がなってから2週間ほどが収穫期である」とあった。そこで大きさは違っていたが4本のゴオヤを採った。店で売っていたゴオヤより小さめであったが、我家の最初の収穫である。まだ小さな実は付いていて、数えると10個ほどあった。

 今年は、当たり年か、それとも野菜作りが慣れてきたのか春に植えた苗(トマト、ナス、キュウリ、オクラ)は例年になくたくさん収穫できた。各々2~5本ほどの苗を植えたものであるが、収穫期には、沢山採れ食べきれずに冷蔵庫にはいっている。そこでその野菜にゴオヤを加え、近所に配ることにした。店に並んでいるものとは比べ物にならないほど小さく形も悪いものであったが採れすぎたので貰ってもらった。これからもキュウリ、ナス、ゴオヤも当分収穫できそうであり毎朝起きて採るのが楽しみである。


「O mio babbino caro」について

2018-08-01 20:10:19 | Weblog

 プッチーニの歌劇 ジャンニ・スキッキの中で歌う「O mio babbino caro」は女性のアリアで良く歌われている。私も聴いたことはあるが歌ったことはなかった。今回カルチャー講座で「O mio babbino caro」を原語で歌う単独の講座が開設された。カルチャー講座の女性たちは参加することになった。私は躊躇していたが、原音より3音ほど下げた譜面で歌えそうであり参加することにした。全体で27小節と短く覚えやすい内容であった。

 今後2ヶ月ほどは、カルチャー講座でこの歌の指導を受けることになる、この歌劇のことを調べた。≪この曲は、プッチーニの晩年の作品で唯一の喜劇オペラであった。原作は、ダンテ・アリギエーリ『新曲』地獄篇第30歌から採られていて、喜劇とは言え地獄に落ちるような内容である。

 ストーリーは、≪フィレンツェの大富豪ブオーゾが息を引き取るところから始まる。親戚一同の関心は遺言状のことで、巷では全財産を修道院に寄付するとのうわさが流れていた。遺言状を捜し当てたリヌッチョは、皆に渡す前に「この内容が皆にとって満足なものであったなら、僕がラウレッタと結婚することを認めてほしい」と問いかけ承諾を得る。しかし遺言状には全財産を修道院に寄付するとあり皆は落胆する。持参金を見込めないリヌッチョはラウレッタとの結婚は不可能となった。そこにラウレッタの父親のスキッキが登場、リヌッチョは「何とか知恵を貸してほしい」と頼む。娘のラウレッタも「お父さん、もしリヌッチョと結婚できないなら、私はポンテ・ヴェッキオからアウル川に身投げしてしまうから」と歌う。これが「O mio babbino caro」である。

 田舎者であるが法律に詳しく機転が利くスキッキは、遺言状を替える悪事に加担することにする。先ずラウレッタを部屋から立ち退かせ、部屋にいる面々以外ブオーゾの死を知る者がいないことを確認してから、遺体を別の部屋に運ばせる。そこに医師が往診に現れるとスキッキはプオーゾの声色で「もうすっかり良くなったから」と云い追い返す。そして公証人を呼んできて、プオーゾに化けて自分が遺言を口述することを皆に暴露する。公証人が来るまでに変装を手伝わせ、皆に「法律により、遺言状の改竄者とその共犯者は片手を切断されフィレンツェ追放となることから、一同に秘密厳守を約束させる。公証人が来てプオーゾに扮したスキッキッは「手が麻痺しているので口述筆記でお願いしたい」といい、大部分の財産を自分のものにしてしまう。親戚一同は彼を「泥棒、裏切り者」と罵るが如何することもできない。スキッキは若い2人を祝福しながら観客に向かって「これより良い使い途があるでしょうか。当然の報いで私は地獄に行くことになります。しかし、偉大なダンテ先生のお許しを頂いたうえ情状酌量と云うわけにはいきませんか」と云い幕となる≫