Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

学区体育振興会の総会で

2019-04-27 22:12:54 | Weblog
 町内会の中に「体育振興会」と云う部門があり、その一つが「体力づくり部」である。これは、町民の体力増強を目的とし取り組むところで、町内運動会やハイキングなど主体的に行う部所と聞いた。それ故、町内のことだけを考え行えばよいと思った。しかし、4月11日地区の小学校に、学区連合町内会の振興体育振興会のメンバーが集まるので出席するよう言われた。総勢80名ほどいたが、その中に各地区から集まった「体力づくり部」のメンバー12名もいた。この中に本部の役員もいて、その指示で、学区連合町内会の「体力づくり部」の部長と副部長がを決めた。そこで私は副部長に選任された。適任の若い人も何人かいたが、各人が辞退する中で、大した役でないのでと懇願され、老人に白羽の矢が当たった。

 この流れを受け4月27日(土)2丁目自治会館で学区連合町内会総会が17時30分より開かれた。ここには、本部役員も含めて100名近い人が集まった。初めての学区連合町内会の出席であり、どのようなことになるのか不安であった。そこで、後方の座席に座り配られた「平成31年度、F学区体育振興会総会」の資料を見ていた。この中から私の役は連合町内会の「体育振興会」の専門部員と云うことで、この専門部には、陸上部、ディスコン部、ファミリーバトミントン部、スカイクロス部、体力づくり部があり、各々に部長と副部長がいて、決められた行事を行うことになっていた。この資料には事業計画の年間スケジュールも添付されていた。

 総会は議事に則り、スムースに進行した。特に資料に注文するような意見もなく進んだが、事前に資料の内容を見ていたので大体の流れは把握できた。新しい平成31年度事業計画の中に23の行事計画が記載されていた。その主なものは、本部とスポーツ推進委員が主体的に行うことになっていて、各専門部が行う行事は10程度で、その内私達が行う「体力づくり部」は7月21日の(第一回)グランドゴルフ大会(第一回)、11月11日のハイキング、12月15日のグランドゴルフ大会(第二回)の三回行うだけであった。この行事を成功させるため12人の部員が協力して行うことが分かった。これ以外、学区連合運動会等で、スポーツ推進委員を補佐することも要請された。

 最初、町内の総会で「体力づくり部」と云われたとき、町民の体力づくりのため行動するものと思っていたが、それだけではなく、学区連合町内会の行事にも参加し地域の体力づくりのため行動することになった。私も傘寿を迎えた老人であるが、まだ体力的には老け込む人間ではないと思っている。そんな折、町内会の総会に出席した妻は「体力づくり部」に属するよう話してくれた。聞いた時は「これは若い人が選ばれる部所なのに」と否定的ことを話したが、今は、老人を使ってくれた町内会や学区連合町内会の執行部に感謝しなければならないと思っている。

ミサ曲「Panis Angelicus」を調べる

2019-04-24 21:38:15 | Weblog
 毎年2月に行われるボーカルコンサートに来年も出るつもりでいる。今まで外国の歌を原語で歌ってきたが、来年も同じようにしようと考えている。新しい曲を2曲覚えるのに 以前なら2ヶ月ほどで出来たが今では半年ほどかかる。そんなことから、そろそろ曲目を決めなければと思っている。先日、You Toubeで聴いていると、外国のテナー歌手が歌っている曲に引き込まれた。それは、オペラのアリアでも、外国の歌曲でもなかった。この曲は「Panis Angelicus」と云うミサ曲であった。今までに、この曲に行きあたらなかったことが不思議なくらい好きな曲に思えた。この曲は「天使の糧」と訳され、何人かの日本の歌手も歌っていた。

 そこで、この曲のことを調べた。歌詞は中世の神学者・聖人のトマス・アグィナス(1225~1274)が作り、作曲者はベルギー生まれのセザール・フランク(1822~1890)で音楽院に学んだあとフランスの教会でオルガニスをしながら作曲に励んでいた。彼は、敬虔なローマカトリック信徒で深い信仰心を持ていて、彼の作品は信仰に支えられたものと云える。その音楽は、フランスとドイツの伝統音楽を調和させたものだと云う評価を受けていて、ロマン主義の中で純粋音楽を目指した人であったと云う。彼の代表作「
天使の糧」は、パリのサント・クルチルド教会の合唱長として働いていたころの作品である。

 歌詞は、ラテン語で「Panis angelicus Fit panis hominum Dat panis coelivus Figuris terminum O res mirabilis Manducat Dominum Pauperu Servus et humilis Pauper pauper Servus et humilis」と短いが、楽曲では、これを2回繰り返し、前奏と終奏も入り、全体は荘厳な宗教音楽となっている。これを直訳すると「天使のパンは、人のパンになって、旧約の前表を全うした。ああ感嘆すべきことよ、貧しきもの、しもべ、卑しきものが主を食しまつるとは」となる。これだけではどうも分かりずらいが、聖書の中には「天使のパン(糧)」と云う言葉がよく出てくる。ここから「天使のパン」とはイエス・キリストの教えを云っているのでないか、この教えを信ずることによって人間は救われる。それは、貧しき人、しもべ、卑しき人であっても同様である、と云う内容ではないかと感じた。

 今、この曲を、携帯用のリコーダーに収録し、時々聴いている。聴いているときは口ずさむことは出来るが、リコーダーがないとメロディーも出てこない。まだ、こんな段階であるが、何とも荘厳な曲である。これから歌詞を覚え暗譜で歌えるのは6月末までにはしたいと思っている。年を重ねると、こうした宗教音楽が好きになってくるものなのか。

夏みかんの花が咲く

2019-04-23 22:18:58 | Weblog
 4月10日に、我家の2本の夏みかんの木から160個ほどの実を収穫した。毎年同じぐらいの量であるが、今年の実は、昨年のものより大きいように感じた。そして以前のものは、酸っぱさがきつかったが、今年のものは市販の夏みかんと遜色ない味になった。多分肥料を施したり土が固まらないよう何度も鋤いてきたことが良かったのかと思う。樹木や野菜は、手を掛けて育てれば、それに応えようとしてくれるものなんだ。採った夏みかんは、近所の人や友人、それにきょうだい等に送ったが何とも気持ちの良いものである。

 夏みかんの木は、いま葉の間から白い花を咲かせ、全体を覆うようになった。どうも今年は生り年のようで、花の量が多く感じる。その一部は既に地面に落ち地面も白さを増している。その木の下を通り、枝などに触ったりすると、花びらが落ち身体に当たる。それは、さくらの花びらなどと違って、直線的に落ち重量感を感じる。今年もたくさんの実を付けてくれるものと思うが、今は枝や葉が伸び木の内側に陽がさしこまないようになっていたので、枝の剪定作業をすることにした。花が咲いているこの時期に枝を切るのかと思ったが、夏みかんの木は、花が咲いてから実を付けるまで約1年かかる。そうするとこの時期しかないように思った。

 陽が木の内側まで入るようにするには、相当数の枝を切らなければならない。その切った枝にもたくさんの花が付いていて、それを切ってしまうことに躊躇する感じもあったが、これから付ける実を陽を当て、大きく育つためにもやらなければならないことと云い聞かせ行った。その量は一本の木の1/4ほどの枝葉の量になった。それでも枝を切った後の夏みかんの木を見るとすっきりした枝ぶりになっていた。その枝に付いた花は、まだ全体が白く覆われた木であることには変わりはなかった。その花は、爽やかな香りを周辺に届かせ、その勢いも何故か増して届けてくれた。収穫したあとの木は養分をとられ弱っているはずであるが、それを感じさせない。そこで、御礼の追肥をすることにした。牛糞に化成肥料を加え、木の下を耕しすき込んだ。

 この木を育て10年以上が経つが、最初の頃は、どうしていいか分からずそのままにしたり、たまに枯葉を土の中にすき込んだりしてきた。それは結果として失敗することも多かったが、段々わかってきた。夏みかんにも生り年やそうでない年もあることを知り、それでも木にやさしく育てることだ。そして収穫したあと、地面を耕し鶏糞や牛糞をすき込むことや、実が付くようになったら、苦土石灰を施し付き過ぎた実を摘果することを覚えた。一本の木から80~100個ほどの実を残し育てること。これが私にとって一番良い方法であるように思う。今年も成長を見守っていきたい。 

儒教について

2019-04-20 22:03:54 | Weblog
 石平氏が書いた文章を読んだことを記す。彼は、文化大革命時勃発した天安門事件における中国共産党の暴走に絶望し、祖国である中華人民共和国と決別した。そして、日本に留学中、孔子や論語の思想が日本の精神に生き続いていることに感激し、日本に帰化することを決めた。その後、中華人民共和国内に広がる反日感情をレポートや書物で出版し、日中関係、中国問題などを論じている。中国で育った彼の論評は、日本人の評論家とは違った視点を持っていて内容も納得させられることが多い。しかし、その反面、祖国の政治体制などを鋭く批判することに、彼の本気度を疑う気持ちもある。

 石平氏は「論語や儒教」について造詣の深い。近著『なぜ論語は「善」なのに、儒教は「悪」なのか』の中で「論語=儒教」に対して疑問を呈している。一般通念では、孔子の言葉が論語であり、儒教の経典は論語にあると思っていた。しかし彼は、孔子が儒教の始祖なのか実に疑わしいと云う。その視点は、孔子が生きたのは、中国春秋時代の紀元前五世紀前半ごろである。儒教が成立したのは孔子の死後300年以上が過ぎた前漢王朝の武帝の時代と云われる。儒教の教説は、以降、清代までの王朝支配の体制教学となった思想で、儒教の基本経典として「五経」を制定して理論的体系を作り上げたことになっている。

 五経とは、「詩経」「書経」「易経」「礼記」「春秋」で、全ての経典が論語をもとにしたものと考えていたが、その後の学問的検証によって「詩経」は孔子が読んだものと云えるが、編集に携わったものではない。そして、孔子は儒教経典の「五経」とも一切関係がないと説く。このことから、孔子が没した数百年後に誕生した儒教によって、彼は名前をうまく利用されただけだったのでないか。これが石平氏の説である。孔子は「論語」の中では、人への「愛」、思いやりの心「恕」、親を大事にする「孝」が大切であることが語られている。まさに相手のことを心から大事にする「礼」があって、人間関係を穏やかにするためのものであるはずだ。

 しかし「五経」の内の「礼記」は、歴史の中で幾多の注記が施されたが、論語の中の「礼」とは、かけ離れた残酷な教学があるという。石平氏は、特に中国の明清時代には、礼記は、人間の欲望や感情を抑圧することを主旨としたものになった。それを代表する事例として女性に「節婦」「烈婦」になることを迫ることが「礼記」に記載されているという。それは、結婚した女性は夫に死なれた場合、再婚は一切許されないという。儒教が発するこのような「殺人」的な礼節は、彼が傾倒した「論語」とは全く異質なものであると指摘している。やはり「論語」と「儒教」は全く別物で、為政者が孔子の名を借りた体制支配の教書であったと思うようになった。私も少し理解できたような気がした。

 

鉄道OB総会にて

2019-04-15 22:22:06 | Weblog
 4月15日(月)ホテルアソシア静岡4F「カトレアの間」で鉄道OB会静岡支部の総会が行われた。今回の出席者は29名と少なかった。現在会員数は300名ほどとなったが、これも毎年少なくなっている。この傾向は、今も続いており淋しさはぬぐい切れない。この理由は、国鉄の分割民営化後、私企業となった各JRとの連携がムースに行かないことや、退職者の減少にあると云える。しかし、同じ鉄路を守ってきた仲間であり、明治期から続いた鉄道OB会組織を何とか継続し、いつの日か盛り返す日がくることを願っている。

 総会において、平成31年度の活動方針が審議されたが、その中でも「会員の確保」が大きなテーマとなった。難しい問題であるが、これにはOB会活動を活発に行う必要がある。JRを退職した人が、この組織に魅力を感ずるものにしていかなければならないというのが結論であった。このため執行部と会員が一丸となって行動することで承認された。何とか昔のような活発な組織にならないと思う。

 この組織の中にインストラクター制度と云うものがある。これは、スポーツ、芸能等に秀でた会員がインストラクターとなり組織の活性化に取り組む制度である。現在静岡支部では12名が任命されている。私も、マジックや歌で任命されていて、今回、バイオリンのTさん、フルートのAさんと私が一緒になり、総会の後の懇親会でコンサートを開くことになった。3人は、4月に入り2回の練習を重ね今日に備えた。司会から紹介され、最初はAさんが、「ロンドンデリー・エア」と「君といつまでも」を演奏した。彼は、静岡フィルハーモニー管弦楽団の奏者で高度のテクニックを披露してくれた。続いてTさんがハーモニカの演奏を行った。曲目は「道ずれ」「北国の春」2曲であったが、これも聴き応えのある演奏であった。彼は91才と高齢であるが素晴らしい演奏であった。この2人に、アンコールがあり他に2曲を演奏した。

 その後、私が歌った。この伴奏でAさんがフルート、Tさんがイオリンを弾いてくれた。歌は「鉄道唱歌」「花」「愛燦燦」「愛」の4曲であった。2人の伴奏を受け、解説を交えながら歌った。最後に歌った「愛」はベートーベン作曲の「Ich Lirbe Dich」である。ドイツ語で歌うことに躊躇したが、Tさんが、最後は原語でベートーベンの曲を歌うと全体が引締まると云われ歌うことにした。反応は良かったように感じた。総会でのこうした余興も会員増につながってくれればと思う。


































































































































 










 

「体力作り部」の集会

2019-04-11 22:34:54 | Weblog
 平成31年度、最初の町内集会があり、10数軒が集まる班の班長になった。これは持ち回りで義務としてやらなければならないと考えていた。しかし、それ以外に「体力作り部」の委員に任命された。この集会に出席したのは妻はであったが「2人とも高齢であり役員は極力辞退していたが『体力づくり部』は平易な役だから」と云われ受けることになった。班長としての分担は、妻が集金など事務的ことを担当、私が資源回収など外で体力を使うことを担当することに決めていた。この「体力づくり部」は私がやるようになった。「体力づくり部」のことを調べると、町内会の中に「体育振興会」と云う部門があり、中に陸上部、ファミリーバトミントン部、スカイクロス部、ディスコン部、体力作り部があり各々に部長を置いて活動するようになっていた。

 町内会の上の組織に連合町内会なるものがある。これは、町内会より大きい地域のことを纏める組織で、登呂まつりとか連合運動会など運営している。その一つに「体力づくり部」も入っていた。妻から「4月11日午後19時30分から富士見小学校体育館で『体力づくり部』の集会があるので出るよう」云われた。数年前まで、私は町内会役員をしてきたが「体力づくり部」がどの様なことをするのか分からなかった。しかし、この「体力づくり部」は、地域の住民の健康づくりのために取り組むもので連合町内会の中で活動するものと思った。

 夕食を食べ、自転車5分ほどの所にある富士見小学校体育館に出かけた。ここには各町内から体育振興会の人達が集まった。そこにはテーブルが6つ置かれていて、その一つが「体力づくり部」の席であった。そこに12名が座った。多分各町内会から集まった「体力づくり部」の人達で、中央に座った女性が話し始めた。この方は、代表理事をしている方で「代表のAです。昨年に引き続いて行わさせていただきますが、私を補佐する副理事の方を2名選任していただきたい」こんな話で始まった。いろいろ聞くと、この部は、グランドゴルフ大会2回とハイキング1回を行うこと。副理事の2名の内1名は、昨年に引き続いてBさんが決まった。あと一人は、新人からと云われ、話したがなかなか決まらなかった。いろいろあったが私がやるようにした。

 ここに来る前、多分連合運動会の運営にも携わると思ったが、「体力づくり部」は、直接携わることはなく、町内の運動会などでは、その決めに従ってほしいとのこと。この「『体力づくり部』は、連合町内会として、地域の体力向上のためグランドゴルフとハイキングを行うが、その場所を決め、広報や下見も行うこと。また、グランドゴルフは、各町内対抗で行うためその準備をお願いしたい」と云った。年齢的に体力も落ちているが、この程度のことなら出来そうである。「体力づくり部」のため頑張ろうと思う。

ニンジンの種植え

2019-04-10 18:27:02 | Weblog
 庭の隅で、野菜など栽培するようになってから5年以上が経つ。段々育てることの難しさが分かってきたし、農家の苦労も分かった。特に連作障害を知ってからは、ここに何を植えたらよいか考えることが多くなった。全部で13㎡ほどの狭い土地であるが、これまでに、キャベツ、白菜、レタス、ブロッコリー、エダマメ、トマト、ナス、ピーマン、キュウリ、そら豆、ジャガイモ、玉ねぎ、大根、エンドウ、そら豆など育ててきた。その量の多さに驚いているが最初に植えた苗は概ね失敗であった。それは、肥料であったり、連作障害、土壌のPH値であったが、経験し少しずつわかってきた。
  
 今年の冬は大根を初めて種子から育て、それが我家の食卓に載った。マートで買ったものと変わらなかったが、自分で育てたものは格別の味がした。それ以降は、種子から育てようと、今は小松菜やジャガイモが育っている。それは、高さ10㎝ほどの葉が出て今日の雨に打たれている。しかし、蒔いた種子は、同じころであったニンジンは、まだ芽が出てこない。毎朝水やりをやり、眺めてきたがそれらしい芽は未だに出てこない。読んだ本に、ニンジンは、発芽が難しい野菜で、発芽したら半分は成功と書いてあった。

 そこで再度「ニンジンの栽培方法・育て方」を読み直した。そこには、発芽するのが難しい野菜で、発芽するまでは土を乾燥させないよう細心の注意を払うこととあり、毎朝実行してきた。また、集団で種まきをすると発芽率が良くなることから条播きにして後で間引きするように播いた。そして、播いた後の覆土は種子が隠れる程度の5mmほどが目安に被せた。これもその通りにし、鎮圧が甘いと土が乾きやすいことからよく押されたつもりであった。そして、この野菜の発芽率が低いのは、種子に発芽抑制物質が含まれていることや、種子の寿命は1~2年と短いことから、買った段階から発芽率が低いものがあることが書かれてあった。

 種子を播くときに読んで実施したが、それでもダメなようだ。この本の中には、種まきから10日前後経っても発芽しなければ、種子をまき直す方が良いともあった。種まきから、1週間ほどは、乾燥させないよう不敷布で覆うようにしてきた。それでも変化なかったので、不敷布で芽が出ずらくなると勝手に思い込み、その後は不敷布を取り除いてきた。既に2週間近く経つが、まだ芽が出ないのはおかしい。今思うに、毎日水やりをしてきたが、その量が少なかったのかもしれないと考えた。いま雨が降っているが、この雨で芽が出てくれればよいが、それでも出なければ種子を撒き直そうと思う。

 

 

 










































































某団地のこと

2019-04-05 20:13:30 | Weblog
 4月5日午前中に有度山総合運動公園でTBG(ターゲット・バード・ゴルフ)の大会があった。その時の成績は平凡で特記することはないが、帰りの車で同乗した2人から昼食を誘われた。しかし、まだ正午までに1時間ほどあったので、有度山界隈を車で回ることにした。有度山は開発が進み知らないところが多くなっていたが、運動公園を右折し山頂への道を進んだ。しばらく、林道を進むと道が開け、団地のような所に出た。ここは原野を切り開き平坦にしたところを整備し団地にしたようであった。

 ここは、日本平動物園の南側に面していて、周りが山々に囲まれているものの、ここは太陽の光を遮るところがない空間に家が建っていた。その作りもモダンな家が多く一軒当たりの面積も広かった。しかし、病院らしき建物もないし、コンビニなども見つけられなかった。この団地を後で地図を見ると200m×200mほどのやや小さめの造成地であった。私達3人は、「山中に忽然と現われた団地は、自然に囲まれ他と隔絶した空間で、若ければ一度住んでみたいところだ」と話しあった。そこで車を降り周辺を散策した。

 道路わきには桜が植えられ、茶畑もあって、その奥には孟宗竹の山が広がっていた。3人は「タケノコや、野草も採れそうなので良いな」などと話した。その茶畑に60代後半ぐらいの男性が農作業をしていた。その人に「ここは、静かで住みやすいでしょうね」と云うと。その反応は違っていた。彼は「ここは、病院も店もなく、買い物は、山を下りなければならない。また、民家も少なくバスが来ないので、市が一日数回の乗り合いバスを運行してもらっている。団地が出来40年近く経っていて住民の高齢化も進んでいて住むのは大変なんだ」と云った。また「この茶畑も、竹藪が迫っていて、手を抜くと茶畑に竹が生える始末なんだ」と困った様子で話した。たぶん40年ほど前に、この造成地を見たとき太陽がさんさんと降り注ぐ宅地として最も良いと思ったはずだ。規模も50戸ほどの宅地でこれも良いと感じたと思う。しかし、年をとりそれだけのコミュニティーでは、不便を感ずることが多くなっていったものと思う。

 ここは自動車など走らせれば、日本平動物園沿いに降り10分ほどで民家密集地区に出られるし不便はない。しかし、老齢になると行動範囲も狭くなり、ここだけでは不便を感ずるようになった。きっと団地が出来たころは、若い人達ばかりで最高の立地条件であったはずだが、子供たちが離れ残った老人達には、少しきつくなった環境になったと云える。ふと思った。人口減少が言われているが、こうしたところにも、そのことが垣間見たような気持になった。

新元号の発表

2019-04-01 22:33:13 | Weblog
 4月1日午前11時元40分に菅官房長官から新元号が「令和」と発表された。この「令和」の時代が安寧の時代になってほしいと願う。振り返るに「昭和」は、悲惨な戦争によって壊滅的打撃を受け、そこから復興を果たし世界から認められる国になった。それは経済的にも技術でも世界が注視する国であった。「平成」は、その状態を何んとか維持しようとあがいた時代であったように思う。戦争に巻き込まれることはなかったが、大きな災害に見舞われ、それを克服しようとしたが終結できずに「令和」の時代を迎えると感ずる。「令和」の時代は、1ケ月後の5月1日から始まるが「昭和」「平成」に、蓄えた負の部分を克服し、新しい時代を切り開いていってほしいと願う。

 日本の元号について調べた。最初に元号が発せられたのは西暦645年の「大化」からであった。当時中国は、唐の時代で元号を使っていたので模したものと思う。「大化の改新」を進めていた中大兄皇子等は、律令国家をつくろうと考えた。しかし、豪族たちの反対もあり完成したのは西暦701年の「大宝律令」であった。この時まで非継続的に元号が使われたが「大宝」以降は、南北朝に分かれた時代もあったが継続して現在まで至っている。この元号も、災害や疫病等深刻な問題が発生して時などにも変わってきたが、大日本帝国憲法下で、元号に関することも旧皇室典範に明記され、ここでは、譲位と云う言葉はなかった。昭和22年、日本国憲法で現皇室典範が制定されたとき、元号の条文は消失し法的明文はなくなった。しかし、その後も慣例的に元号を用いられてきたが、昭和天皇の高齢化に伴い、崩御した後は元号の法的根拠はなく、無くなってもおかしくない状況になった。1979年(昭和54年)元号法が成立し法的根拠が出来たが、この改正で「一世一元」と譲位の言葉が入った。

 現在世界で元号を持つのは日本国だけである。世界は西暦による年数が一般的になっているが、これはキリスト誕生からの年数でありこれで良いのかとの思いはある。そうしたことからも日本独自の元号は大切にすべきと考える。これから迎える「令和」は、今まで中国の四書五経等から選ばれたものと違い、我国最古の歌集「万葉集」からの引用で「大化」以降248番目の元号となる。「令和」の引用文は『初春令月、気淑風和、梅披鏡前之粉、蘭薫佩後之香』から取っていて、現代訳では「新春の良き月、空気は美しく風は柔らかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香りの如き香りを漂わせている」となる。

 この新元号「令和」に初めて接した時、意味が分からず受け入れるまでに少し時間がかかった。しかし、「令」と云う漢字には「立派な」とか「戒める」と云った意味もあり、元々は、ひざまずいて神意を聞く人の形だと云う。今の時代にあった元号であるように感じるようになった。