Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

セカンド・オピニオン

2017-03-29 22:27:53 | Weblog

 4月6日K総合病院で手術を受けることになった。これは昨年1月胃の内視鏡の手術のとき全身のCT検査で異常らしきものが見つかった。それは大したことでないと思ったが、その後定期的観察期間を経たのち11月に腫瘍であると言われ、今年1月手術が行う予定であった。そのとき医師に話したのは「2月に、どうしても行わなければならないこれがあるので、それが過ぎるまで手術を延期していただけないか」ということであった。それはすぐ了解されたが、その後も体調が悪くなることもなく普通に生活してきた。その手術する部位は、声に影響を及ぼすところであり出来るなら手術をしないで済ますことができないかと思っていた。しかし病院は手術に向け進められ3月17日予定通り全体の検査が行われ、手術の日程が決められていった。

 この17日の段階で一縷の望みを託し、医師にセカンド・オピニオンを受けたいことを話した。医師にすれば、今になってなんてことを言うかと、あまりいい気持ちでなかったのか「手術を取りやめますか」と話したが、私は「手術の日は確保していただき、気持ちを整理するためセカンド・オピニオンをお願したい」と話した。そのことは何とか承知してくれ、S総合病院でセカンド・オピニオンを受けることになった。3月29日指示された午前10時30分にK総合病院から預かった資料を持ってS総合病院に行った。

 受付を済ませ30分ほど待つと、診察室に呼ばれた。男性の40代後半の立派な医師であった。彼は事前に預かった資料を見たり、またDVD画像に映された部位を確認しながら言った。「腫瘍の部位は、大きくはないが今手術によって摘出することを良いと思います。貴方の年齢から、今なら手術はできますが、より高齢になり部位が大きくなったり、体力的に大変になりますので今の手術を勧めます」と話した。そして声が嗄れることについても聞いたが「これは人によって違いますがその影響はあります」といった。このことが一番心配であったが、医師は、貴方の年令から声が嗄れることを心配することはないでしょうといった感じで話した。

 病院を出たときの足取りは重かったが、手術はやむ負えないという気持ちになっていった。そして仮に声が嗄れたり出なくなっても仕方ないと思った。長い間歌うことで楽しい思いをさせてもらった。今後も続けられるかダメになるかもしれない。しかし考えてみれば、今までが恵まれすぎたのでないかと思う。手術によってどのようになるかはわからないが、いかなる結果になろうともそれに従っていこう。

 


歌の一日講座

2017-03-26 20:13:52 | Weblog

 一ヶ月ほどに音楽のカルチャー講座の先生から「歌ひととき夢気分」とのタイトルで音楽講座を開設する旨話があった。この講座は3ヶ月に一回実施するもので、今までの講座とは違ったクオリティーの高いものを目指したいこと。また、このメンバーで市中に出てボランティア活動も行きたいとのことであった。今まで講座がパターン化したものであったので、どのように変わるか興味はわいた。そして、既存の音楽教室とは違った新しい分野に広げることも期待した。先生からは事前に楽曲の一つに「コロラドの月」もあり、同クラスの人と合唱するよう言われていた。

 静岡駅ビルの7階の会場で3月26日午後1時30分から行われた。20人ほどの人が集まったが、その半数ほどは、今までに会ったことがない人であった。年齢も20代の人から70代の老人までバラエティーに富んだ人達で、若い人には負けそうであったが、私たちも今までにないエネルギーは感じた。また今回5人の男性の参加したことも心強かった。なお同じ講座からの参加者は4人であって思ったより少なく感じたが、ここで歌う「コロラドの月」は何とか成功させたいと思った。集まった人の中には、本格的ダンスをするペアーもいたし楽器等を持っての参加者もいた。どのようになるかといった期待が段々大きかった。

 講座はスタートした。初対面の人も多く最初は皆さん遠慮しているのか、いつもの声は出ていないように思った。私自身も緊張感から、最初はうまく声が出なかった。しかし発声練習から最初のポピュラーな曲を歌ううちに、段々調子が出てきた。20分ほど経った頃先生から「コロラドの月」を同クラスの人と歌うよう指名された。そこで4人(男性2人女性2人)は前に出た。事前に暗譜していたが譜面は持って前に立ち大きな声で感情も込めて歌った。終わって一礼すると大きな拍手が返ってきた。ホット一安心であった。その後ピアノの伴奏以外にカスタネットやタンバリンといった小さな楽器も入って皆さんと一緒に歌い踊った。

 楽曲は日本の童話や歌曲、シャンソン、アメリカ民謡など合唱、それに合わせダンスを踊るなどした。うまい人もいれば、とても踊ってるとは言えないような人もいたが各々が陽気に楽しんだ。そんな中で、母親と一緒に参加した目に障害を持った女性が、最初は緊張していたが、音楽が始まると体をいっぱいに使い歌い、そして手拍子する姿に感動した。これは音楽の持つ素晴らしさであり、この女性により良い影響が現れることを願った。次回は6月の下旬に行うとのこと楽しみに待ちたい。


野菜苗を植える

2017-03-24 21:43:20 | Weblog

 先日ジャガイモの種芋を玄関わきの畑に植えた。その時は種芋が少なかったので畑の半分ほどはブラックシートは覆ったままでまだ植えていない。ほかに何か植えたいと思い、3月14日ホームセンターへ行って、展示してある苗のことを聞いたが納得するような苗はなかった。今は丁度、野菜の端境期なのかと思った。その後も何か良いものはないかとホームセンター以外でも探したが見つからなかった。しかしそのままにしておくわけに行かないので、3月24日再度苗を探しに行った。小鹿の「南部じまん市」という農協が運営する販売店に行くと、屋外の花の苗の中にネギ、パセリ、インゲン、トウモロコシといった野菜苗も売っていた。

 そこで出会った人にどのような苗を植えるのが良いか聞くと「サヤエンドウヤやパセリは今植えどきですよ」と推奨してくれた。しかし我が家の畑は小さく、今までに連作障害が何度か出た。そこで昨年まで植えたことがない野菜を選ぶことにした。そして青ネギ4束、パセリ2束、サニーレタス4束を購入した。青ネギは、納豆などの薬味としてよく使うことから、パセリは、刺身のつまだと思っていたが、店の人は食用としてよく売れていますといわれ買った。サニーレタスは、サラダに入れて使ったり、敷物として使っていたのでこれを買った。すべて少ない量であるが我が家の食卓にのる程度の量であり、これで十分だと思った。

 家に帰り昼食を食べてからすぐ植えた。ブラックシートの上から植えるところに竹の棒で穴をあけ、そに倣って、苗が入るような大きな穴を開けていった。シートが被っているので土は乾燥した土になっていた。しかし事前に薬剤を撒いてあるので、改めて薬剤は撒かないで、そのまま苗を植えた。10本の野菜苗であるが私なりに丁寧に植えた。その後水やりを多めにやった。これで玄関横の庭畑は玉ねぎ、ジャガイモ、青ネギ、パセリ、サニーレタスが植えられた。しかしジャガイモだけはまだ芽が出ていないでシートの中に埋まっている。

 販売店で売っているような、きちっと収穫できるかわからないが、場所は南側に面しているので大きく育ってくれればと思う。小さな畑に、今回はいろいろの苗を植えたものだ。これらがうまく育つことを願っている。

 

 


妻が急に寝込む

2017-03-23 22:39:30 | Weblog

 彼岸も過ぎ少しずつ春めいてきたことを感ずる時期になった。私は、冬の間休んでいた朝の散歩を今日から始めようと思いトレーナーに着替え外に出た。6時30分ごろであったが登呂遺跡へ向かって歩いた。そこで何人かの人と出会ったが皆さん私と同じくらいの年配者で朝の空気をいっぱいに吸って元気に歩いていた。たぶんこの人達は冬の間も歩いていたのでないかと思った。今日は、今年初めてであり2kmほどの距離を歩いたが少し汗ばむほどであった。

 7時10分ぐらいには家に着いたが、この時間いつもなら食事の支度をしている妻がいなかった。今日はゆっくりしているな思いながら新聞を見ていると、内線電話が鳴った。妻からで「夜中に下痢や嘔吐があり熱も出た。とても起きれないので自分で朝食を食べてほしい」と言い、「昨夜の食事に中ったのではないかと思う」と話した。すぐ病院に連れて行った行こうと思ったが、午前中(10時30分から~12時)はS学苑の音楽講座があり、これはどうしても行かなければならなかった。そこで行くとき、S病院に診察券を出しから行くことにした。妻には「12時15分ごろ家に帰るので、その時連れて病院に行くから」と言い出かけた。

 S学苑から帰り、家に着いたのは12時15分ごろであった。すぐ妻を連れ病院に行くと朝は混んでいた待合室には誰もいなかった。この病院は木曜日は午後休みとなっていた。受付に行くとすぐ呼ばれ妻は診察室に入っていった。妻はノロウィルスに掛かってしまったのではないか心配していたが、医師は「ただ胃腸が弱っているだけだから、胃腸の薬を出しておきます」と言って処方箋をくれた。しかし「何故胃腸が弱ったのか医師は教えてくれなかった」と妻は心配していたが、ノロウィルスでなかったことは喜んだ。

 家に帰り、妻はすぐ薬を飲んで寝た。午後3時ごろ部屋に行くとまだ飲み物も体が受け付けないようで、何も食べようとはしなかった。夕食も食べないといい、丸一日何も食べない状態は続いた。このようなことは初めてであり私も何度か妻の部屋に行って様子をうかがったが食べないことには変わりがなかった。それでも「食べられるようになったらリンゴジュースを飲むので買ってきてほしい」といった。近くのマートに行って買っておいたが今日一日はベットで寝ていた。妻も私も健康寿命は過ぎている。いろいろ悪いところも出てきているが、それでも今は介護は必要なことはない。しかし老齢の病気は、潜伏期間が長く急に出てくることが多いようだ。そのようなことを考えると嫌なことを考えてしまう。これからは一日一日を大切に規則正しい生活をしていこうという気持ちが大きくなった。

 


春の彼岸会

2017-03-20 22:38:52 | Weblog

 彼岸中日の3月20日に菩提寺で彼岸会の法要が行われた。この法要は、毎年春分の日と秋分の日に行われ、すでに10年近く続いている。毎年100名近い檀家が集まり読経と法話を聞いている。彼岸は、中日の日をはさんで一週間をこの期間として在世の人は功徳を積んだり読経やお墓参りを行うよう勧められている。「彼岸」とは、彼方の岸の略で来世(涅槃の地)のことで、今生きている在世を「此岸」というらしい。在世の人は修行によって輪廻を超えた涅槃「彼岸」に近づくようにしなければならない。反対に「お盆」は、彼岸にいる先祖の魂が三途の川を渡って在世(此岸)に帰ってくることでお寺が行うが意味は全然違う。

 今日の法要は住職と4人の僧侶が先導して行われた。集まった檀家の皆さんは、それに合わせて読経を行い45分ほどで終わった。これにより彼岸との距離が近づいたとの感覚はないが合掌することはよいことである。この後大雲寺の和尚が法話を行った。確か毎年この和尚が話してくれたような記憶があるが、いつも含蓄のある話を聞かせてくれる。この僧侶は風格もあり話の組み立てもうまい、高僧と呼ばれる人なのかもしれないかと思った。

 今回も幾つかの話の中で「般若波羅密多」の話をした。それは ≪「般若心経」は7世紀唐代の僧、玄奘三蔵がインドや西域から仏教の経典約600巻を持ち帰り漢語に翻訳したもので仏教の原本となっている。これはサンスクリット等の言語で記されていて大変な作業であった。この現本を、さらに抽出し276字に纏めたのがの「般若心経」である。この経典の最初の言葉「般若波羅密多」とある。これを訳すと「般若」は知恵であり、「波羅密」は[バーラミター]の音写で、意味は「修行の完成」となる。したがって「波羅蜜」とは、「修行の結果得ることができる理想の場所=彼岸」のことである。因って「般若波羅密多」とは彼岸に渡るための知恵を教えている経典といえる。その修行を完成させる期間が、彼岸会の一週間といった。また「波羅蜜」は、具体的には「六波羅蜜」とされ、以下の内容の修行である。①布施 ②持戒=身口意の三業の戒律 ③忍辱=迫害や苦難に耐え恨まない ④精進 ⑤禅定=座禅を修行し心を集中させる ⑥知恵=ものごとの道理を正しく理解する。それぞれ難しい修行であるが、少しでも心を安らかにして実践を目指し行きたいものです。≫こんな話であった。

 私にとって無理なことのように思うが、これを理想として、この期間はこのことを忘れないよう、お墓参りし、お花や線香を供え、真心からの合掌に心がけようと思う。仏教の本髄に触れたような感覚になった。

 

 


種芋を植える

2017-03-18 21:49:01 | Weblog

 ジャガイモを作ろうと3月14日ホームセンターに種芋を買いに行ったが売り切れてなかった。2日前には店頭にあったものが、この間にすべて売れてしまったのだ。残念であったが、店員に「どこかで売っているところを教えてほしい」と聞くがわからないとの返事であった。今年がダメかと諦めていた矢先、瀬名の義弟から「少しなら分けてやる」と言われ10個ほどの種芋を持ってきてくれた。これをつい先日、庭畑をコンクリートブロックで囲み整地したばかりのところに植えるつもりでいたのでよかった。

 畑には、すでに石灰を撒き牛糞、鶏糞、糠など混ぜ掘り起こし整地してあたが、再度鍬で掘り返し断面が台形状になるように整地した。ネットで調べると台形の上部に深さ20cmほどの溝を作り、その溝に30cm間隔に種芋を芽を上にして植え、種芋と種芋の間に肥料をまいてから土をかぶせると書いてあった。しかし、この畑には種芋を植える前に畑全体に肥料をまき混ぜ合わておいてあったので、種芋を40cm間隔に、幅もあったので2列にし肥料もやらずに植えることにした。それは∮25cmほどの坪堀にし、そこに種芋を置き上から土をかぶせていった。これだけ植えても、まだ半分ほどの畑は余ったが、そこには別途何か植えるつもりでいる。

 植えたジャガイモの苗床に多量の水を撒いた。これは芽の成長を促すため最初は水を撒いておくが、その後はあまり水は撒かないようにするのが良いと教えられたからである。地面が濡れたところに黒色マルチシートで覆うことにした。以前購入したあった幅95cmのマルチシートを畑全体に覆い、風等で巻き上がらないよう四方を約1m間隔にT字型止金具で止た。これは家庭菜園の延長であるが、今は畑仕事に段々興味がわいてきて、誰かが見たら農業の知識が相当ある人のように思われそうであるが、実際は、これでよいのか不安でいっぱいである。しかし、玄関脇にコンクリートブロックを積みマルチシートが敷いてある畑を見たなら相当慣れた人が行った作業に見られるだろうなと思った。

 わが庭畑は小さな面積ではあるが3か所あり、そこにネギ、ミニ玉ねぎ、ブロッコリー、さやえんどう、ジャガイモを植えた。量は少ないが、それが日に日に育ってくるのは楽しみである。苗木や肥料など購入しているので大きな出費であった。収穫がどのくらいできるかわからないが、多分差し引きプラスにはならないだろう。しかし、そうしたことを度外視しても土いじりをしたいと思うのは年のせいなのかもしれない。労働することは疲れも尋常ではないが楽しいものだ。


「寿太郎ミカン」が届く

2017-03-16 21:17:58 | Weblog

 庭の夏ミカンはすでに赤みを増し、実はたわわに枝を垂らしている。そろそろ収穫の時期ではあるが、この時期は甘みが増すものと思い、新芽が出る4月上旬まで取るのを待つことにした。温州ミカンは、すでに2月上旬ごろには店頭から消え、今はデコボン、ポンカンなどの品質を改良したものがあるぐらいになった。こんな時期3月16日、三島の弟からミカン箱が届いた。その中には新鮮なミカンが入っていた。こんな時期にミカンが届いたことに驚いたが箱を開けると「寿太郎ミカン」と名称が入っていた。

 中には大小さまざまなミカンが入っていて、食べるととても甘いミカンで皮もしっかりしていた。この時期のものとしては、珍しいものであったので、近所の人にお裾分けして配った。近年は、ミカンを食べる時期が長くなったように感じた。ハウスミカンは7月上旬から出るし、その後、極早生温州ミカンが9月中旬~10月中旬ごろ、早生温州ミカンは10月下旬~12月下旬、そして青島温州ミカンが12月~2月上旬に出回り、これが最後と思っていた。しかし知らなかったがその後「寿太郎ミカン」が出てきた。

 そこで「寿太郎ミカン」のことを調べた。これは沼津市西浦地区で生産されるミカンで、今から約30年ほど前に山田寿太郎さんという人が、青島ミカンの一部に枝の節間が短く葉色の濃い変異枝を発見した。この枝変わりを観察し続けると、たくさん実がなり果実の着色時期が早く、甘みと酸味のバランスの優れた濃厚な味わいのミカンができることを確認した。その後、石川温州やカラタチに接ぎ木をして苗木を育成し、増殖を図り「寿太郎温州」と命名したとのこと。このミカンは大きさが100~120g/個でS~M級が中心で果形は扁平で浮皮が少ないのが特徴であり貯蔵によって風味が増すため、毎年2月中旬から3月下旬に出荷されるとあった。

 最近は農業技術も進んでいて改良された果物はいつでも食べられるようになった。このことにより私たちは、食べる季節感がなくなり、珍しいものもあまり感じなくなった。しかし、そこに携わった人たちが競争で改良に取り組み新しいものが作っている。野菜にしろ果物でもよりおいしく、糖度が高いものが作り出されている。そこには改良に取り組む生産者の努力を感じさせられる。私も庭にあるキンカンや夏ミカンをもっと甘くできないか、肥料を変えたり、土壌を改良などやっては見たが成果は全然出なかった。やはり片手間で農家まがいのことをしてもダメである。持ち場持ち場とはいえ農業従事者が良いものを作ろうとする努力に頭が下がる。

 

 


庭畑のブロック積み

2017-03-13 20:52:39 | Weblog

 毎年庭の雑草取りは苦になる。そんなことから一部を畑にして野菜など植え収穫を楽しんだほうが良いと考えた。この畑作業はすでに6~7年行ってきた。しかし作物の作るということは難しく失敗の連続であった。特に連作障害はひどく、前年にはよく採れたものが次の年には、収穫が少なくなったり、奇形した実しか出来なかったことなど体験した。肥料についてもしかりで、うまく育つための適量の肥料など、今でもわからない状態が続いている。

 昨年までは日当たりがよい場所を見つけ耕して野菜などを育ててきたが、庭の隅に雑然と野菜が植えられている光景は、未開の地を開墾して作っているような感じであった。そこで今年は春の畑作りをする前に、庭と畑の境界をブロックで仕切ることにした。以前瀬名の義弟からもらった煉瓦50枚は、とりあえず南側に面した約1.5m×2.5mの周りに積むことにしたが、玄関横の約1.0m×8mの畑は、コンクリートブロック(40cm×20cm×10cm)を購入し並べることにした。3月12日にホームセンターで20枚のブロックとモルタル50kg2袋と砂を1袋を購入した。

 3月13日に朝から段取りにかかった。水準器でブロックを並べる箇所に水糸を張り高さを決め、GLから深さ5cmほど掘り砂を敷いて掛矢で転圧しその上にコンクリートブロックを敷き並べていった。この作業は中腰でブロックを扱うため1時間ほどで身体が疲労困憊し作業を中断した。30分ほど休んでからまた取り掛かり並べ終えるまで4時間ほどかかった。その後モルタルを練りブロックに流し込み固定していったが、こうした作業は専門のブロック工が行うもので素人が見よう見まねでできる作業ではなかった。それでも夕方暗くなる前までに何とか作業は終わった。まだモルタルが固まらない状態であったがその出来栄えは、私にとってはよくできたと思った。

 コンクリートブロック作業の前に1.5m×2.5mの畑の周りに煉瓦を並べる作業は行った。午前中の作業であったが、周りを5cmほど掘り水糸で水平を取り、そこに煉瓦を並べたがモルタルでの固定はしないで、煉瓦が動いたらすぐ補修できるようにした。作業は全部でを6時間以上かかった。老体に鞭打っての作業であったが、出来上がった満足感は最近味わったことがない喜びを感じた。この作業を決めたとき、体力のことなど考えて、2~3日ぐらいかかってもよいと思い取り組んだ。しかしやり始めると最後までやり切ろうとする気持ちに代わり完成させたが、この喜びは大きかった。

 

 

 

 


いとこの葬儀

2017-03-11 22:17:08 | Weblog

 父の妹の子で私より6歳も若いAさんの葬儀が行われた。父親は彼が生まれてくる前に戦死したため彼は父を知らないで育った。私の父は、Aさんを不憫に思い私たち子供と同じように可愛がっていた。そのAさんも家庭を持ち2人の子供さんを育て、やっと奥さんと余生を楽しもうと思っていた矢先、病気にかかり10年ほどの闘病生活を経て3月8日亡くなった。しかし闘病生活中であっても、そうした弱みは見せず私たちと親しく接してくれたことには感謝する。

 Aさんとは従弟となるが、私たちとの結びつきは大きかった。私が社会人になったころ父は転勤で甲府に行っていたが妹弟たちは、学生であり一年ほどのあいだ彼に家の離れを借り過ごしたことがあった。それゆえ全員で参加したかったが、川崎の妹、三島の弟は、都合がつかなかったため私と瀬名の妹が葬儀に参加した。出棺は3月11日午前10時20分に清水の式場から出るため、午前9時30分に式場に入った。Aさんとの最後の別れであったが、棺のおさまる顔は昔と変わらない柔和な顔で目を閉じていたが、それは化粧をしているとはいえすべてを悟り旅立つ姿に見えた。彼は宗教心を強く持ち、長い間菩提寺の檀家総代をして方丈さんを助けたようだ。そのことによるか分からないが、お釈迦さんとの血脈を結び87代の弟子として天に召されると話した。

 親族、友人等100人近い人とともに日本平中腹にある火葬場で荼毘に付し、菩提寺の鳳林寺に向かった。本葬では7人の僧侶が読経により引導が渡され静かに旅立っていった。彼は、確か40代で母親も亡くし苦労もあったと思うが奥さんと家を守り近所の人や親戚との繋がりを大切にして生きてきた。我が家にも一年に数回は見え、父や母のことを心配してくれたし、新茶の時期になると注文を取ってくれ、たくさんのお茶を持ってきてくれた。それは亡くなる2年ほど前まで続いたが、病気のことには一切触れずじまいであった。

 直会の席でほかに従弟たちと話したが、10年ほどのあいだ幾つかの病気に苦しみ大変な時期を過ごしていたが、それでも家族と旅行をしたり、ゴルフもしていたと聞いた。若い時から苦労し、会社を退職してからも大病にかかり大変であったが、明るく気丈に振舞っていた姿を思うに、こんなに素晴らしい生き方をしているのにどうして彼を苦しめなければならなかったことに世の無常を感じざるを得なかった。しかし2人の息子さんの素晴らしい対応には救われる思いがした。


足の関節痛

2017-03-10 22:39:26 | Weblog

 確か昨年の初春ごろからであったが、右足の第2指の関節部が痛くなった。このころ朝ウオーキングをするようになっていて、これが影響しているのではないかと思った。しかし歩いているときはあまり痛さは感じなく、痛さはそのあとから出てきていた。その痛みも少し時間がたてば忘れてしまうような痛みであったのでいずれ治るものと思い、その後もウオーキングは続けていた。ウオーキングはラジオ体操のあと行っていて日の出が遅く寒くなった11月ごろからはやめていた。また4月頃から始めようと思っている。

 しかし足指の痛みは、ウオーキングをしなくなった11月以降も続いていたが 病院に行くほどのことはないと思う程度であった。風呂などに入った時は足指の屈伸運動などして改善するよう心掛けてきた。4月以降はウオーキングや ゴルフのコンペも計画されているので2月中旬ごろからゴルフの練習場に通うようにした。これが原因なのかわからないが、傷みがひどくなり、時には歩くとき足を引きずるようになった。それは3日ほど続いたので、やみに已まれず以前膝が悪いとき通ったN整形外科に見てもらうことにした。

 この病院は評判がよく患者数も多かった。検診すると半日以上かかることもあったので、患者が少ないと思われる午後3時ごろ出かけた。受付で待ち時間を聞くと「午後5時ごろまでには来てください」と言われその間に別の用を済ませることにした。そして午後5時に再度病院に行き待つが、その後も患者の数は変わらず中々呼んでもらえなかった。やっと呼ばれたのは午後6時30分ごろであった。医師の問診を済ませレントゲンを撮った。その結果は「骨折してないし、関節の異常もなしです。たぶん、その指の付近に力が掛かり関節部の痛みが出たものと思う、それに偏平足も原因の一つかと思う。足専門の整形士が金曜日には見えるのでその時にきてください。またリハビリにも通うようにしてください」と言った。

 午後7時30分ごろ終わったが、骨に異常がなかったことからまずはほっとした。しかしこれからリハビリに通へとのことであり、続けられるか疑問だ。しかし次々回の金曜日には足の整形士が見えることから行こうと思う。今整形病院には多くのお年寄りが来ている。人間の体も使い続けるといろいろのところでガタがくる。これは身体全体が老化していて痛いところも出てくるのだと思う。骨折などは治療するなら元に戻るが、経年劣化したものはなかなかよくはならないのでないか。因ってこれ以上悪くならないよう大切に使うことが肝心であることを思った。