Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

きょうだい会(1)

2010-03-31 20:26:46 | Weblog
 3月30日翌日にかけ伊豆長岡にある「三養荘」で、母を囲んでの「きょうだい会」を行った。
母は91歳の高齢であり、5人の子供達も、末弟も還暦を迎えたし、長子の私も古希を過ぎた。みんな身体に何か言うところが出てきた、老人となったが全員何とか生きている。
 母は、子供達と会うことを喜ぶし、母親が子供達を諭すような注意もする。足は相当弱ってきたが、杖を持って、歩くことは出来る。
 この母が歩くことが出来る内は、みんなで会って温泉でも行き、親孝行の真似事をしようと始めた「きょうだい会」も5年ほどになる。この間10回ほど近くの温泉回りをしてきた。
 この伊豆長岡にも何度か来たが、狩野川と放水路が交わる広大な一角にある「三養荘」のことは分かっていたが、外からは樹木で覆われ中を見ることができない。このような所に泊るのは、どのような人なのかと思いながら、羨望の気持ちをもって通り過ぎていた。
 そして考えた。ここできょうだい会を行うとしたら、母が歩ける今の内しかないと思い、インターネットを開いた。
 そこで、Gネット宿予約サービスを見ると、「三養荘」が最近Gネットの宿に加入し、期間限定なのか、低廉な価格で、宿泊可能とあった。直ぐ予約し今回の「きょうだい会」となった。
 AM10時30分に、母と一緒に自動車で家を出て、三島の弟のところで、みんなと落ち合った。
瀬名の妹は、社協会の行事があり遅れることになったが、5人は近くのうなぎやで昼食を食べ、そのあと、桜が満開の三島大社を散策した。多くの人が出ていたが、桜の枝にたたずむカワセミが、池の小魚を狙っている光景を見た。カワセミの青色が、桜の花に合う色だと思った。
 その後PM3時前に2台の自動車で「三養荘」に向かった。
 新館玄関前には、正装した3人の男性が迎えてくれた。きょうだいは、ラフな服装であったので、失礼ではなかったかと後で反省した。
 部屋は廊下を隔てて、母と妹が「藤袴」男3人の部屋は「須磨」であった。
 三養荘は4万2千坪の広大な敷地に、本館10棟、新館30棟の計40棟がある。その全てが瀟洒な数寄屋造りの和風建築邸となっていた。
 4人は、直ぐ母を車椅子に乗せ、日本庭園を歩いた。そこは私達だけで誰もいない。この素晴らしい庭園を独り占めしていいのかとの思いがよぎった。
 多くの種類の樹木と池、芝生、それをめぐる小路と木立のあいだから見える数奇屋造りの建築が何とも言えない配置で、心静かに過ごすことができる贅沢を、その幽玄の世界を感じさせる。
 川崎の妹が昨日、横浜の三渓園に行ったが「この庭園は比較にならないほど良い」と言った。
 私も、幾つかの日本庭園を見てきたが、多くの人が集まる庭園とは比較にならない自然の美しさを案じた。
 母も満足したような表情をしている。遅れてきた瀬名の妹も加わり美の感動に酔った。
 

町内会の慰労会

2010-03-28 23:59:44 | Weblog
 平成21年度町内会役員の慰労会が公民館で夕方6時30分から行われた。この行事は毎年行っているもので、一年間町内会のため、尽力してくれた区長、班長さんを含めて慰労するものである。
 この準備のため、新しく本部役員になったIさんYさんが奔走してくれた。料理等も工夫して揃え、昨年の時より良くなった慰労会であった。
 30数名の人が集まったが、一年を振返って話の輪が広がった。その会話も女性がリードしているようで、男性は声も小さく元気がないように思えた。30代の人も見えたが、概ね60代の人ばかりである。こうした年代になると、女性はよく発言するし、行動も積極的な人が多いようだ。このような人がいるから、町内活動も纏まりが出ているのではないかと思う。
 今回も20数名が女性であり、10名が男性であったが、明るく話し良い慰労会であった。それに料理や酒も十分であり、2時間ほどの時間が短く感じられた。
 そのあと、役員の一部は、町内会長のところに行き、また呑み直した。男性のみ9人であったが、これが町内の恒例となっているし、意思の疎通が出来て良いことだ。
 ここにはカラオケセットがあり、それも来る目当ての一つになっている。
 このカラオケセットは、歌うと点数が出る装置になっていて、最近購入したものだと聞いた。
町内会長は、ギターを弾くし、音程はしっかりしている。その上、この装置で練習しているので、最初から99点の高得点を出した。その後8人が歌ったが、70点から80点の間で、どうしても90点台は出ない。みんなより多く歌ったような気がしたが、最後に歌った「北へ」で93点が出た。
 どうもこの点数は、上手い下手ではなく、音符通りに声を出してるかの点数のようである。
 PM10時ごろまで続いたが、頃合いを見て解散した。程よく酔い心地で家に帰った。
 この慰労会が今年度最後の行事であり、4月からは、新しい体制になり、会長も代わる。新しく会長は、副会長であったHさんで、私と同じ鉄道出身の方である。年齢は75歳であるが、健康そうであり、温厚な性格である。きっと今まで以上の活力ある町内に導いてくれるものと思う。そして私は副会長の職を下り、本部役員として残ることになっている。
 理由は、高齢で認知症の母のことを考えると、あまり重要な役でなく、軽い役をお願いしたことからこのようになった。しかし出来る限り、新しい会長を支えていこうと思う。
 
 

「アメイジング・グレイス」を歌う

2010-03-27 22:44:48 | Weblog
 一ヶ月振りに、S学苑講座「名曲をうたう」の教室に出席した。今回は、先生の指導で独唱することになっている。その曲目は、アメイジンググレースである。
 この曲はクリスマスソングで、2年ほど前の12月に、皆で歌ったことがあった。その楽譜は英語の歌詞が付いていたが、それを暗譜して、独唱したいと思っていた。そのチャンスは今年の1月になって直ぐ来た。この教室では、発声練習、合唱、そして5人ほどが独唱し、先生の指導を受ける。このとき席順では、未だ私が歌う番はこないはずであった。しかし当日席順の前の2人の人休んだため、私の番まで回ってきた。
 その時は、未だ完全に歌詞は覚えていなかったし、練習不足であった。結果は上手く歌えず、先生から何ヶ所か注意された。私も不甲斐ない出来だったと思った。
 このときまでは、この曲は一回だけで、次回の時は別の歌を歌おうと思っていた。しかしこのことがあり、何とかリベンジしなければと思うほど不満が残る歌になってしまった。
 そして、次回も、この曲を歌うことにして、何度も練習してきた。前回の時より良くなったような感触を持って、今日を迎えた。
 この教室は、1時間30分間であるが、発声練習に30分以上の時間をかける。低音から高音に至るまで、幅広い音域の練習をする。それも正確な声が出るよう工夫して教えてくれる。私が希望する高音域の声の練習には、良い教え方であると思っている。だから、発声練習行った時には、高音も音域も広がったように思えた。
 そのあと、5~6曲ほど教材に使っている楽譜の中から、曲を選定して、みんなで歌い、歌い方などの指導を受ける。
 最後に、7分/人ほどの時間をかけて、先生のピアノ伴奏で、5人/回ほどの人が独唱して、直接指導を受ける。1教室20名であるから、5回目に1回は独唱するチャンスが回ってくる。
 今日の教室も、発声練習、数曲の合唱の後5名の独唱することになった。
 前回休んだので、私が最初に独唱することになった。今回は前回の楽譜(1番、2番の英語の楽譜)に加え、日本語訳した1番、2番を譜面上に手書きしたものを加えた。
 最初は英語で歌った。前回の時より上手く歌えたと思った。先生からは歌についての注意はなかった。まだ3分ほどの持ち時間があるが、先生は「この曲には3番、4番がありますが、それを歌いますか」と別の楽譜を見せてくれた。
 それを上手く歌う自信がなかったことから、「手書きした日本語訳のものを歌っても良いですか」と言うと、頷いてくれた。
 日本語訳は、意味が良く分かるし、歌いやすかった。感情を込め、抑揚をつけて歌った。一箇所伸ばしすぎたところを指摘されたが、それ以外はなかった。これでよかったのか分からないが、私が思うに、先生は前回より良くなったことが分かってくれたのではないかと思った。
 
 

雨の一日に

2010-03-25 23:50:47 | Weblog
 今日も朝から冷たい雨が降っている。旅の疲れか、妻は風邪を引き起きて来れない。熱が38.5℃もあった。母のデーサービスの日であり、朝食を食べさせ送り出した。
 私も疲れている。昨日は鉄道OB会の月例会があり、10名ほどが参加した。話は4月に行うOB会の総会と次期支部長の話であった。このことも疲れる要素だ。
 今日は、やらなければならないことが多いので、どれから手をつけていいか分からない。
近く行うゴルフコンペの幹事のこと、食事の仕度、買い物、町内のこと、それにOB会の総会のこと等である。これ以外に妻が寝込むと雑用も多くなる。
 何とか雑用を済ませていると、三島の弟から電話があった。「上海・蘇州の旅のブログを見たが、空海が中国に5年間行っていたと書いてあったが、中国へは2年間しか行っていないので、直したほうがいいよ」と教えてくれた。確かバスガイドからは空海は寒山寺に5年間滞在し西安に3年滞在したと言ったことを覚えているが、実際はどうなのか調べた。
 それによると、中国に渡ったのは「延暦23年(804年)であり、帰ったのは大同元年(806年)10月である」と書いてある。彼の履歴を見ても、2年間は正しいようだ。
 ガイドも間違えることがあるんだなと思いながら、そのガイドが話した、呉の国の宰相、伍子胥と越の国の宰相、范蠹ことも、もっと知りたいと思った。
 昔読んだ史記に出てきた名前で、有名な戦略家であるとの思いはあったが、忘れてしまっていた。
 本を読むと、伍子胥は、楚の国に生まれたが、楚の平王に無実の罪で、父と兄を殺された。呉に逃れた伍子胥は、呉王闔廬(こうりよ)行人になり、平王への復讐の怨念を持ち続け、そのチャンスが来た時は平王は病気で死んでいた。その墓を掘り、遺体に鞭打った。「死者に鞭打つ」との言葉は、ここからきている。隣国越では王位継承の問題があり、勾践が王位に付いた。戦国乱世の常道である、この時とばかり、越の国に攻め入った。しかし越の宰相で戦略家、范蠡によって呉軍は敗走した。これがもとで、闔廬は亡くなり、太子夫差(ふさ)が、呉王となり、越王勾践への復讐を誓った。三年以内に必ず仇を討つと、新王夫差と宰相となった伍子胥は強い信頼関係が結ばれたかのように思われた。
 再度の呉越戦争で呉軍は、越を会稽山に追い詰めた。ここで伍子胥は手抜きせず、越を攻め滅ぼすことを主張したが、、呉王夫差は范蠡から贈られたに絶世の美人「西施」に目がくらみ、たちまち心を奪われてしまう。伍子胥の諫言も聞かなくなった。そして夫差の佞臣の讒言によって自害させられた。その続きもあるが、中国の歴史は、多種多様の人が出てきて面白い。
 2千数百年前に、伍子胥と范蠹の知力を尽くしての、戦略が蘇州の地にあったことを、改めて思っている。
 
 
 

上海・蘇州の旅(5)

2010-03-24 00:07:53 | Weblog
 今朝はAM5時前に起きた。外はまだ暗かったが、6時にはバスに乗って、帰国のため上海国際浦東空港へ向かった。朝食は間に合わないので、サンドイッチが用意されていた。
 ホテルのロビーの椅子に腰掛けての食事となったが、電気も点かないところで食事は始めてであった。中国は、まだ顧客サービスの観点からは遅れている。5つ星のホテルと聞いたが、とても満足のいく対応は出来ていない。ツアーの仲間も同様の意見であったが、発展する上海のホテルとして、改めていくことだと思う。
 今回の現地添乗員は袁さんは、50代の男性であったが、日本語を流暢に話し、中国の歴史や日本のことも良く知っていた。こうした人がガイドをしてくれたので、中国のことが良く分かり、充実した旅行が出来た。袁さんと話したが、上海大学を出て、1年半東京大学に留学したと言っていた。以前桂林に行ったときもそうであったが、添乗員は高学歴の人が多いし、優秀の人のようだ。
 それでも、疲れはピークに達していて、バスに乗ると直ぐ寝てしまった。浦東空港に着いたのは7時ごろであった。
 上海発は9時30分であるので、2時間以上の余裕時間がある。早めに搭乗手続、出国審査を受け
免税店並ぶ通路を、搭乗ゲートまでゆっくり歩いた。25番ゲート改札時間の8時50分には、いつの間にかなっていた。
 帰路の航空機も中国東方航空であったが、満室(120名程度)の状態で定時に出発した。
天気もよく、五島列島から九州を横断して瀬戸内海に入った、3本の本四架橋もよく見えた。そこから静岡空港までは直ぐであった。
 しかし最後でトラブルがあった。静岡空港に上手く着陸したと思った瞬間、また飛び立った。室内は何があったのか、動揺が広がった。そして旋回している。室内放送があり「管制塔の指示で、待機しています」との内容であった。しかし何故一度車輪まで出して着陸した飛行機が、そのまま離陸したのかは分からない。15分ほど経って、今度は空路の反対側から着陸態勢を取った。
 これも地上数10mまで下がったところで、再度頭を上にあげ、旋回し始めた。室内の誰もが動揺している。旋回する左右動も荒いように感じた。いやな予感よぎった。
 そして3度目の着陸態勢に入った。乗客も手に汗して見守った。車輪が着陸する大きな音がして、
何とか到着することが出来た。機内の誰もが、安堵したが、何だったのかと言い合っていた。誰かが「ゴムが焦げたような匂いがした」と言ったが、案内はなかった。
 何とか無事に着くことが出来たが、このようなことは、初めてのことであった。海外旅行がはじめての妻は、飛行機は怖いと言う印象を持ったようだ。
 3泊四日の上海・蘇州旅行は、何とか無事に帰ってくることが出来た。ハードな行程であったが、
中国の理解を深めた旅であった。
  
 

上海・蘇州の旅(4)

2010-03-22 23:35:56 | Weblog
 今回の旅行も3日目となった。昨日はAM7時20分からPM10時頃まで、ハードなスケジュールであったが、今日も同じようにAM7時20分にはバスに乗り込んみ、上海市内の観光に出かけた。
 この上海は、黄浦江の流域に広がった町である。この地は貿易港として発展したが、数百年前までは、漁業と農業の土地であったと聞いた。
 現在は高層ビルが建ち並ぶ、中国最大の都市となったが、まだ狭い道路の奥には古い町並みが残り、急激に発展した町に取り残されたところが、垣間見ることが出来た。
 道路は至るところで、掘り返され、急ピッチで建設が進んでいることが分かる。
 最初に訪れたのは、上海ヒルズ(環球金融中心)である。ここは高さ492m、101階まであり、UAEのブルジュ・ハリファ(609.6m)台北市の台北101(508m)に次いての世界第3位の高さである。このビルは日本の森ビル等が出資して出来た高層ビルである。
 このビルの94階の展望できるところまで登った。晴れていたが、霧かスモックなのかは分からないが、遠くは良く見ることが出来なかった。
 その後黄浦江を挟んで、今に至る政治、経済、文化的原点となる20世紀初頭の租界を映し出す外灘(わいたん)と、経済特区として開発が進んでいる浦東(ほとう)を対比して見ながら濱江大道を散策した。この一角は上海の発展を象徴する建物が並び、近代的整備されているところであった。
 そこからバスで対岸の豫園及び豫園商商城を見学した。豫園は明の時代の役人が作った庭園であり、蘇州の留園と同じような庭園であったが、その周りの豫園商城は18世紀清代に建てられた商業エリアで、みやげ物、お茶、漢方薬等の店が並び、下町の情緒が漂うところとなっていた。
 昼食後は、上海博物館に足を運んだ。ここには、6000年前の遺跡からの発掘したものから、明清時代の物まで、多くの展示物があった。じっくり見るなら一日がかりでも見えきれないほどのものがあり、歴史の深さを感じた。今日は日曜日であり、入口には長い列が出来ていたが、私ども観光客には便宜を図ってくれたのか、直ぐ見学がすることが出来た。
 夕食後は上海雑技団を見に行った。年齢的には、まだ若い人達が多かった。まだ年端も行かない少年少女が、危険と思える演技をこなしていく。話では雑技学校には300人ほどの人が毎年入ってくるが、一年以内に9割ぐらいの人が辞めていくといった。それだけ厳しい訓練に耐えられる精神力が必要であり、それに耐えた人が始めて雑技団員として、晴れの舞台が待っていると思った。
 終わったのはPM9時であったが、帰るバスの車中から、寒空の下、工事現場で働く人達がいた。今は上海世界万博にあわせて突貫工事が行われているものと思うが、中国のバイタリティーを感じた。ホテルに着いたのは、既にPM10時を回っていた。
 
 
 

上海・蘇州の旅(3)

2010-03-21 13:51:28 | Weblog
 中国は広く人口も多い。最大都市は上海であり3600万人であり、北京は2700万人、蘇州は2100万人と言っていた。しかしこの蘇州は、まだ田園が広がっているし、伸びる要素は大きい。 この地は運河が張りめぐらされ、水の都と言われるし、シルクの産地として有名である。
 この運河は2500年前に造られたもので、中国はチベットを源とした、黄河、揚子江の大河が流れている。しかし、この蘇州の穀倉地には、大河がなく、遡れば旱魃の時もあった。時の皇帝は揚子江から運河をひき、旱魃のない肥沃な土地に生まれかえらせた。
 紀元前4世紀のことである。これは万里の長城より先のことで、一代土木工事であったと思う。
その運河延長は1810kmにおよび、500トンクラスの船が通ることだ出来るとのことである。
 運河の両脇には民家が並び、その民家も3600前のもの、2800年前のものまで、建っている。それは、レンガ造りに粘土のようなものが塗ってあった。日本では、丁度弥生時代であり、竪穴住居の時代であった。当時の中国文化には足元にも及ばない技術の高さを持っていた。
 この運河を船で遊覧したが、幾つかのクレーターと呼ばれる、狭い運河が網の目状にあり、それが大きな運河に繋がっている。台風、地震が来ないこの地区では、古いものも壊れることなく原形を保っている。そこには生活感も漂った風景があった。
 蘇州と言えば刺繍である。中国は国家間のみやげは宝石ではなく、刺繍の織物であると聞いた。それほど手芸技術は、他の追従を許さないすばらしさがある。刺繍研究所でシルクの織物を見学したが、一つの刺繍に一人で一ヶ月以上掛かると聞いたが、針子さんが時間をかけて仕上げていく。この作業は目を悪くするし、同じ姿勢での作業であるため、後継者が育たないと言った。しかしこの刺繍は中国の誇れる伝承していく技術であり、国家として取組んでいると教えてくれた。
 そのあと上海に帰ってきた。夕食前に、、新しく創られた町「新天地」を歩いた。ここは旧飲食街を、モダンな西洋風に建替えた家が並び、軽食やコーヒーなど扱っている。ここには世界中の人達で溢れていた。西洋に行ったような錯覚になった。
 夕食の後は、黄浦江ナイトクルーズに参加したが、夕闇迫る埠頭には、団体客のごった返していた。広い広場には5千人ほどの人が待っている。クルーズに乗るまで1時間ほど待たされたような気がした。香港の夜景は「100万ドルの夜景」と言われているが、バスの添乗員によると「ここは一千万ドルの夜景」と言った。しかし霧が濃いこともあって、香港に優る夜景とは思えなかった。
 後で聞いたが、五月の世界万国博覧会に合わせて、これより倍近くのネオンが灯ると言った。こうした所からも、急速に発展は、調和の取れた夜景になるにはまだ時間が掛かるような気がした。

上海・蘇州の旅(2)

2010-03-20 18:33:57 | Weblog
 2日目はAM6時20分に朝食をとり7時20分には、バスに乗り込んだ。今日は蘇州観光である。朝の早い理由はラッシュにかかると、渋滞に巻き込まれる前に出発したいとの思いからの措置である。
 上海から蘇州までは100kmほどの距離がある。この間高速度道路を走ったが、見渡す限りの平野が続く、昔は田畑であったが、今は工場地帯となっていた。日本からも多くの企業が、ここに来ている言った。
 蘇州は、昔呉の国の首都であり、日本の四国と同じくらいの面積を有し、歴史の残る町である。
 歴史で有名な呉越同舟、臥薪嘗胆の言葉のもとは、呉と越との戦争がもたらした言葉であり、そのもとが、呉のシルクにあったと言う。またシルクロードは、中国呉のシルクをヨーロッパに運んだ道であった。
 故に中国の歴史を語るとき、蘇州、西安、北京、杭州の地が思い当たるが、その中でも蘇州は一番歴史文化が濃いところと言われている。因みに中国の世界文化遺産が43箇所あるが、その内12箇所が蘇州にある。
 その中から、留園の庭、寒山寺(世界遺産ではない)蘇州の大運河を見学することになっている。
 留園は明代に役人の徐泰時が私家庭園として建設したもので、敷地面積約2万㎡に、重厚な住居、山水、山林、田園の趣を現している。また紅楼夢の大観園が再現した建物や、太湖石の名石冠雲峰、歴代書道家の書が彫られた石碑など貴重なものがあった。中国庭園の代表する一つである。
 寒山寺は寒山和尚が開祖の禅宗の寺である。空海が仏教を学ぶため中国に渡り、2年間ほど滞在したが、数ヶ月間はここにいた。これに遡ること12年前、聖武天皇の招きで渡来したのは、鑑真和上、拾得和尚等一行であり、仏教伝来のため苦難の末渡来した。鑑真和上は日本と中国との橋渡しとなり、唐招提寺を建立し、日本の土となったが、一緒に来た拾得和尚は、10年間滞在して、再度中国に戻った。その帰る前に浜松に東洋寺を建てている。その時拾得和尚は2800冊の本を置いていったという。現在は名前が変って、舘山寺となっている。舘の字は蔵書が多いとの意味を持っているといった。そこから名付けたと言った。その2年後に空海は中国に渡ったが、そこで寒山和尚、拾得和尚から教えを受けた。
 拾得和尚は帰ってから死ぬまでの29年間、この寒山寺で五百羅漢を造った。金箔の五百羅漢は展示してあるが、同じ顔はなく、東南アジアの人の顔であった。鑑真について行った拾得は、才能豊かな人で、唐招提寺の建築も彼の技術によるものであると言われた。1300年前日中の間で、命を賭しての強い意志での交流があったことを思った。因みに「拾得」とは、寒山和尚が、寺の前に捨てられた赤子を拾って得たことから「拾得」と名づけたと聞いた。
 バスガイドが「歴史は木の根、文化は魂」と言ったが、この言葉には東洋人の共通の思いがあったことを感じた。
 
 

上海・蘇州の旅(1)

2010-03-19 22:27:17 | Weblog
 3月19日(金)富士山静岡空港から上海・蘇州3泊4日間の旅に出かけた。今回は母を妹達に預かってのもらい、妻と団体観光旅行に参加した。夫妻では始めての外国旅行であり、近場の中から、5月には世界万博が開かれる上海に行くことにした。
 上海までは2時間40分ほどで、上海国際浦東空港に到着した。日本とに時差は1時間であり、現地時間では15時30分であった。
 今回の旅行の参加者は、22名であり、6人の若い家族ずれ以外は概ね私どもと同年輩の夫婦又は、友達同士(6名の女性)であった。
 現地ガイドの袁さんの案内で、バスは上海の中心地部に向かった。この間一時間ほどであったが、見渡す限りの平地であり、そこに農家らしい古い家がところどころにあったが、潅木が茂る広野や畑が広がる中を進んだ。この高速道路に平行して、リニアも走っていて、2本のリニアが、バスを抜いていった。速度は400km/時以上は出ているようだが、これに驚くことはことはないが、5月から始まる万国博覧会の向け、急速に整備していることを感じた。
 都心に近づくと高層ビル群が見えてきた。全体がぼんやりかすむような中に、雨後の竹の子のような勢いで伸びている光景であった。しかしその中に取り残されたような、古い昔ながらの家並みもあった。それは一部取り壊され、道路もところどころ、掘り起こされたいて、そこに労働者が働き、整備が突貫作業で進んでいた。バスガイドの説明では、「上海は眠らない町(不夜城)と化している。労働も昼夜作業で3交代で行っている」と言った
そして「1ヶ月後の万博が始まるまでには、全部整備が終わる」と言ったが、本当に大丈夫なのかと心配になる。
 夕食の前に、豫園の周辺を歩いた。ここは、土産物屋が立ち並ぶ、一番の繁華街で、建物や町の雰囲気は中国の匂いを色濃く残しているところである。この中心に豫園がある。
 日本で言ったら、浅草の浅草寺界隈と言った感じであるが、人の熱気は比較できないほどの熱いものを感じた。
 この豫園は、役2万㎡の敷地内に造られた、役人の中国式庭園がある。この庭園内は3日目に見学することになっているが、今日は夕闇が漂う、ネオンに写しだされた建物の輪郭と、雑踏の中を散策した。その後近くの中華料理店に入った。
 この店は、200人近くが一緒に食事が出来る、大広間に。円形テーブルが並び、既にいっぱいに人で溢れていた。彼らの会話を聞いていると、日本語で話すグループが多く入っていることが分かった。
 私と同じ円形テーブルにはグループの同年輩と思える5組の夫婦が座り、青島ビールを注文したが、コップ一杯のビールは、格別旨く感じた。
 宿泊ホテルは、粤海酒店(THE GUANGDONG HOTEL SHANGHAI)で、上海中心部から15分ほどの所にある、高層ホテルの15階であった。
 
 
 

介護施設訪問

2010-03-18 19:56:49 | Weblog
 静岡と清水を結ぶ、北街道を清水方面に走って長尾川の手前にR介護施設はある。この施設は、始めて訪問したのは、昨年の7月であった。こじんまりとした施設であったが、経営者、介護士、事務員が丁寧な対応が印象に残っている。
 この施設に再度マジックの仲間「あすなろ会」がボランティアで行くことになった。今日のメンバーは男3人、女2人と少ないうえ、私達が、より所にしていたK先生が亡くなったことから、不安な気持ちは拭いきれない。
 今朝、会長のTさんから電話があり「貴方は15分ほどでやって下さい」と話があった。
 今までは10分ほどの時間で行っていたが、今回はメンバーが少ないことから、多めにやってほしいとのことである。
 昨夜のうちに10分間行うマジックの予習(練習)はやったが、それだけでは足りなさそうなので、午前中、急遽別のマジックの練習することにした。
 それはロープを使ってのマジックである。ロープを腹周に1周巻きつけ、その両端を別の人が引張ることで、あたかも、ロープが胴体を貫通するようなマジックである。
 この道具は、メンバーの女性Hさんから貰ったものである。このマジックは、ロープが胴体を通り抜けると言った、ショッキングなマジックであり、女性より男性のほうが、向いているからといってくれた。何度か練習して、不安のない状況で、午後2時から始まるR介護施設に向かった。
 この施設は以前来た時と同じように、施設の皆さんの歓迎を受けた。
 デーサービスとして入所している人達は、20人程度であったが、自分で歩き、考え行動できる、人達のようで、反応も早いし、表情も豊かであった。
 私は3番目に行うことになった。時間も長いので、今まで余りやらないでいた「トランプ」「松竹梅」を最初に披露した。次は「ロープが胴体を貫通」するマジックを初披露した。これは始めてのわりには、反応は良かった。その後3つほどのマジックを披露したが、メンバーの一人が「もう時間が過ぎましたよ」と教えてくれた。
 まだ、用意してきたものがあったが、そこで終わりにした。思いのほか反応は良かったように思えた。その後Sさんが「浪曲手品」最後はT会長の「ティッシュを使っての連続芸」を披露した。最後の2つは、高度のテクニックを使ってのマジックであり、やり方を覚えようと、見ていたが、簡単には盗めそうもないテクニックであった。
 この施設は、以前と同様、明るく全体がまとまっている感じを受けた。

別記 明日(19日)から3泊4日の上海旅行に行きます。帰ったら報告します。