Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

ヤマボウシの木

2018-06-27 22:02:44 | Weblog

 朝方霧雨のような雨が降っていた。天気予報は雨の確率は20%未満で日中は曇りとなるとのことであった。今日はTGB大会があり家を8時15分頃出て有度山総合スポーツセンターに向かった。16名のメンバー葉4組に分かれて9時に競技はスタートした。私の組は、男性3人と、メンバーで唯一の女性1人の計4人であった。年齢は概ね70代で、中でも私は一番上であったが体力的には私の方があり、うまくいくかと思った。スコアーは9ホールを2回廻って65であった。これは3人の男性の中では一番良かったが女性の方は55と云う断トツのスコアーであった。全体でも優勝はその女性で、私は8位であった。

 競技は和気藹々楽しくプレーできた。周りの木々は、雲間から差し込む光を浴びて鮮やかに見えた。この敷地内にはいろいろの木々が植えられていて、その中で目を惹いたのは葉の上に真っ白な花がいっぱいに付けいる木があった。これは何の木か話題になった。一人がハナミズキだと云ったが、その木がハナミズキでないことは知っていたのでそうでないことを話したが、その名前が出てこなかった。以前覚えていた名前あったがどうしても出てこない。

 この話は、そこまでで別の話になったが、何とか思い出そうとプレー中も考えていた。この木は、日本原産の木で山のくぼ地などに生殖し、この時期白い花を葉の上にいっぱいに付けてる木であった。聞きなれた名前であったが出てこなかった。家に帰り図鑑を見て調べた。 ≪それは「ヤマボウシ」という木であることが分かった。ヤマボウシは、本州、四国、九州の山野に分布する高さ10m~15mになる高木で冬に葉を落とす。5月~6月になると先端に尖った真っ白い花を枝いっぱいに咲かせる。ヤマボウシの名前の由来は、白い花びらを、頭巾をかぶった法師に見立てて名づけられた。夏の終わりから秋にかけて赤く熟す果実は食べたり、果実酒となる。木の材質は粘りがあり堅いので、木槌や杵、水車の歯車などに加工される。古くから日本人との関わりのある樹木である。春の花もよいが、秋の紅葉も美しい≫とあった。

 ヤマボウシは日本に関わりのある木あったが、間違えたハナミズキの木の由来も調べた。それにハナミズキは「静岡市の木」でもある。この木はアメリカ原産で、日本に植樹されたのは、東京市長 尾崎行雄が1912年桜の木をアメリカに贈った返礼として1915年ハナミズキ60本が贈られてきたのが始まりであった。日本で桜前線と云い桜の開花時期を表すが、アメリカではハナミズキ前線と云う言葉があるようだ。そしてヤマボウシは、葉の上に花を付けるが、ハナミズキは花をつけた後に葉が出てくることが分かった。

 


島田の歌声喫茶で

2018-06-24 21:57:00 | Weblog

 2ヶ月に一度島田で行う歌声喫茶に行くようになって丸三年が経つ。ここに行くようになったのは、友人が、この歌声喫茶を主催していて誘われたのが最初であった。普通、歌声喫茶と云えば、若い人の集まりのように思うが、ここの参加者は皆さんお年寄りの方で、この地区の人たちがほとんどである。男女の比率も半々くらいで30~40人の人が集まる。歌う歌も若いころ流行った歌などがほとんどで皆さん楽しんでいる。ここヘ来て歌ったり話したりして過ごすことが好きな人達の集会である。

 私も静岡から参加し、この中で声を出しているが、皆さんと年齢も同じであり同化していることを感ずる。この歌声喫茶は、午後2時から4時まで行い、前半は主催者から曲が示されみんなでの歌う。後半は、リクエストを募りそれをみんなで歌う。私はいつもリクエストするが、その時曲名を書き演奏者に渡すようにしている。楽器はピアノ、ギター、オーボエなどの奏者がいて伴奏してくれるので、気持ちよく歌うことが出来る。リクエスト曲が演奏されるときは、皆さん自分の席で歌っているが、私は、前に出て伴奏者の横で歌うようにしている。その時マイクは使わないようにして歌う。最初のころは、マイクを使わず前に出て歌うことから皆さんが違和感を感じていないか心配であった。そこで友人に聞くと「全然いいよ」と云われその後もマイクなしで歌ってきた。

 今日の前半の曲は、知った歌もあったが、反戦歌などが数曲入っていて歌えないものもあったが、これも昔の歌声喫茶と同じだなと思った。そんなことをテーブルの皆さんと話した。後半に入って私は「愛燦燦」をリクエストした。少しこの場に合わないように思ったが敢えて挑戦した。今まで「砂山」「からたちの花」などの日本の歌や外国のクラッシックなど歌っていたので、この曲もいいかと思った。伴奏も良かったので気持ちよく歌えた。そのまま席に着いたがみんなの反応は良くも悪くもないと云った感じであった。その後は別の人がリクエストした曲を歌詞を見て歌った。その中には、皆さんの知らないし私も初めて聞いた曲もあったが、リードしてくれる人がいて、その声に合わせ歌った。2時間は楽しいひとときであった。

 終わって、椅子などの片づけをしていると、ピアノを弾いていた男性が見えて「静岡にある合唱団に入らないか」と誘われた。その時は言葉を濁して過ごしたが、その人は「合唱団に男性が少なく入ってほしい」とのことであった。考えたが、年齢のことや時間的に拘束されることなどから迷惑を掛けそうなので断ろうと思っている。


シラス漁か

2018-06-23 21:35:10 | Weblog

 雨が降らない限り朝起き散歩するのが日課としている。今日は、菩提寺のお墓の清掃に行き、そこから前浜の海岸に出て海岸を東に歩き大谷放水路を北上して家に戻るコースを行った。梅雨の時期に晴れ間が広がり空気もきれいで歩いていても気持ちがよかった。その中でも前浜の海岸通りは格別であった。駿河湾の海と、その先に伊豆半島の東海岸を見ながら速足で歩くと、海を渡ってくる風が汗ばんだ身体に爽やかにさせた。歩く海岸通りは1kmほどであるが、信号もなくテンポよく歩ける。ただここは県道150号線であり交通量も多く、イヤホーンで音楽を聴きながら歩いていると騒音で聞こえなくなるほどであった。

 しかし、海岸沿いに並ぶ波よけブロックに当たる波しぶきも気にならないほど静かで、その沖200m~500m程ぐらい海上にも小さな漁船が何艘もが動いていた。ここ数日来ているがこのような光景は今までなかった。多分シラス漁でも始まったのかと思った。5年ほど前にここで同じような光景に出くわせたが、その時は、地元の人なのか、大人の中に子供たちも入って海岸で地引網を引いていた。そこにはシラスがたくさんかかっていた。その時と同じでシラス漁であることが分かった。

 5年前に見たときは、もう少し早い時間であったと思ったが漁船の動きも活発のように見えた。しかし、今日の漁船はそうした活気は感じなかった。多分既に漁を終え、港に帰るまでの一服の時間なのかと思ったが、海上には50艘近くの船が出ていた。多分漁船は、由比漁港、清水漁港、用宗漁港などから集まってきたものであり、動き出すとそれぞれの港の方向に動き出すのが見えた。駿河湾は広いが、魚群探査機でシラスの群れがこの近くに来ていていることを知り、多くの漁船が来ているようであった。歩きながら豊漁であることを願った。

 家に帰り、シラス漁のことを調べた。今年のシラス漁は3月中旬から解禁になっているようで、漁獲量は豊漁年に比べ少なくなっていた。大きな原因は黒潮が蛇行したことによるもので、本来なら海岸近くまで黒潮が近づくのに、ここ数年は紀伊半島から伊豆半島にかけ南側に蛇行し、それに乗ってくるはずの魚類が駿河湾に入りにくい状態になっているとのことであった。そう言えば、以前前浜での地引網は見えなくったし、その時使っていた小屋も廃墟のようになっていた。黒潮の蛇行は、近海漁業にとって深刻であることが伺えた。

 

 


祝典序曲「1812年」

2018-06-22 22:55:51 | Weblog

 静岡の多目的劇場グランシップで8月5日夏の祭典「音楽の広場」が開催される。その中でチャイコフスキー作曲の≪式典序曲「1812年」≫を合唱する。先日の練習でこの曲を習ったが、インパクトインの強い旋律に共感した。私にとって難解な歌であるが本番までには何とかしたい。そこで、この曲のことを調べた。この曲の主題1812年は、ナポレオン軍がロシアに侵攻した年である。最終的にはフランス軍は敗走しロシア軍が勝利した歴史的出来事である。これを題材に曲を作るよう親友のニコライ・ルビンシティンから依頼されたが、最初は余りのり気でなかった。しかし親友からの催促もありやむなく作ることを承諾している。

 この曲は、この戦いを描いた作品で、フランスの国家「ラ・マルセイエーズ」の主題が登場したり、ロシア聖歌「神よあなたの民を護り給え」やロシア民謡「門の前で」も曲中に登場する。合唱部分は、冒頭ロシア聖歌を静かに歌い出す重い空気が流れる。その後フランス軍の攻勢が続き「ラ・マルセイエーズ」の旋律が反復して演奏されロシアにとって厳しい状態が続く。そしてロシア民謡風の主題が現われ、戦いがロシア軍の攻勢になっていく様を表現する。これと同時に「ラ・マルセイエーズ」の曲は次第に勢いを無くなっていく、それを凌駕するように管楽器、弦楽器、打楽器が咆哮し大砲が発射され、山場を越えたことを表現する。そしてロシア聖歌が冒頭とは打って変わって全ての管楽器と合唱が力強く演奏しロシア軍が勝利したことを表現する。

 全体では15分ほどの演奏時間であるが、荘厳でメリハリの効いた音楽は、チャイコフスキーの曲とは思えない異質なものであった。音の強弱も甚だしくpp~ffffまであった。曲の構成は、全部で422小節で作られ、第一部(1~76)はロシア聖歌が主題で演奏され、第二部(77~95)ロシア軍の進行が整えられたことを表し、第三部(96~357)は両軍の激戦を表し、段々ロシア軍が攻勢を強めるさまを描いている。第四部(358~379)勝利を導く様を表し、第五部(380~422)全楽器の強奏から始まり勝利を宣言すると云う内容になっている。合唱部分は、冒頭の1~30小節、そしてロシア軍が勝利を確信して歌う358~412小節である。これはロシア聖歌「神よあなたの民を護り給え」が主題になっている。

 合唱か所を暗譜で歌えるよう努めるが、チャイコフスキーが何故作曲を躊躇したかを想像した。ナポレオン軍がロシアに侵攻したときから依頼まで既に68年が過ぎていてチャイコフスキーはこの戦いを知らないこと。その上彼の音楽の質とは余りに違うことから断り続けたものと思う。そして作曲することになってからは、全霊を集中させ迫力あるこの曲を創り出したものと思上。

 

 


「夏の祭典」のレッスン初日

2018-06-16 22:11:15 | Weblog

 グランシップで行う夏の祭典「音楽の広場」は今回で10回目(合唱参加)を迎える。この祭典に合唱団員として5~6年参加してきたが、今では生活のサイクルになっていてこれに合わせ動いている。私にはレベルが高い感がするが、それでも背伸びして挑戦している。合唱曲は6曲ほどであるがその内数曲は原語の曲をマスターするのは大変である。本番は8月5日で、それまでレッスンの日は8日間が設定されている。これ以外にも参加自由の練習日もあり計11日である。本番まで約1ヶ月半近い日数があるが、この間は練習のため多くに時間を割こうと考えている。

 6月16日(土)は最初のレッスン日で、午後1時30分までにグランシップの練習会場に入った。今日のスケジュールは、前半を男声、女声別の各パート別に行い、後半は男女合同の練習であった。合唱曲の内、外国の歌は3曲で、その中でもチャイコフスキー作曲の「祝典序曲1812年作品49(合唱)、及びワーグナー作曲の歌劇「タンホイザー」より”巡礼の合唱”、それにあと一曲は譜面を見ただけでしり込みしそうなボリュウムであった。これは私にとって初めての曲で、事前に譜面を送られてきたので、それをなぞって見たが、どのように歌うのか全然分からなかった。それでも自分が歌うパート部分はマジックで線を引いて置きは、パート別練習に集中できるようにした。

 合唱指導は昨年と同じN先生で、フレーズごとに丁寧に教えてくれたがパートのリズムさえ頭に入らない。その上原語(ロシア語、ドイツ語)の読みも分からないので、蚊の鳴くような声で歌っていた。しかし、時間が過ぎ、少しずつ声を出している内に段々慣れてきたようであった。それは、多分後ろの席の人が正確に歌っていてそれに合わせて声を出すように努めたことによるものと思った。まだ始めたばかりであり、少しずつではあるが声が出せるようになったことから、初日としては先ず先ずの出来と云えるのえないか。

 それはさて置き、昨年も来ていた知人も多く来ていた。そうした人達は、概ね同年代の人であり来ている姿を見て安堵した。その中で、昨年も親しくしていたMさんもいた。私より2~3歳先輩であり、昨年も一緒にレッスンを受けていたが、本番のときは出てこれなかった。急に体調を崩し出席出来なくなったと聞いた。それ故今年レッスンに参加していたのでほっとした。彼の横に座り一緒に歌ったが十分声は出ていたし体調も回復している様子であった。それだけでもよかった。レッスンは3時間半ほどであったが内容の詰まった時間を過ごし頭がいっぱいと云った感じになった。

 

 


音声喫茶へ

2018-06-14 22:11:00 | Weblog

 カルチャーの音楽教室で一緒に学んでいるMさんから数日前電話があった。それは6月14日午前中に行う音楽教室が終わったあと数人で昼食をしようと云う話であった。そのメンバーに音楽教室で一緒だった数人が入っていると聞いた。授業が終わったあとMさんが食事する場所まで案内してくれた。そこは「無庵」と云い高級感のある店であった。現職時代2回ほど来たことがあったが、それは15年ほど前のことであったが、その面影は残っていた。集まったメンバーは7人で、知らない人もいたが同じ教室に通っていた人達であった。

 食事も美味しかったが会話も弾んだ。そのあと近くの音声喫茶に行くことになった。静岡に音声喫茶があることは聞いていたが行くのは初めてであった。その店はビルの5階にあり、10人ぐらいが座れるテーブルが2か所あった。その一方のテーブルには10人ほどの人が来ていて、歌詞が書いた本を見ながら話していた。多分常連の人のようで慣れた感じであった。私たちのグループの誰かが来ていて知っているようであったが、それ以外の人は、雰囲気が分からず、手待ちぶさたな感じで始まるのを待った。

 この店は、昼の部14時半~16時半まで「みんなの歌声喫茶」として開放されるが、夜の部18時半~22時半まではバンドなどの生演奏が入ることになっていた。これ以外にもグループレッスンの日、ソロの日、フォークの日、シャンソンなど設けられていた。今日は昼間でありピアノ伴奏の女性が一人で私達の接待してくれた。配られた3冊の歌詞集には200曲近くが収められていて、その中からリクエストすることになっていた。時間になり別のテーブルの人達が歌い出した。一人が前で歌い、それに合わせてみんなで歌った。ピアノ伴奏者は、司会をしながらピアノを弾き、お客からドリンクなどの注文にも応じていた。

 私たちのグループの人も紙にリクエスト曲を書いて出した。私は「砂山」「昴」を書いた。今日のお客は私とほぼ同年代の人が多くリクエストした曲も、昭和に歌われた曲が多かった。私が最初に歌ったのは「砂山」で山田耕筰作曲のものを選んだ。マイクを持って歌うと声が割れそうであったので、途中からマイクなしで歌った。気持ちよく歌えたが、クラッシク調の曲で少し硬い感じの歌でありで、ちょっと場違い感が気になった。しかし反応は良かったようだ。その後歌った「昴」もマイクは使わず歌ったが、皆さんに受けたようだ。グループの人達も大きな声で歌い楽しいひとときを過ごした。

 

 


アジサイが見ごろに

2018-06-11 21:54:13 | Weblog

 梅雨入りし雨模様の日が続くと、庭に咲くアジサイも輝いて見える。全てのアジサイに云えるものではないが咲き始めは、白い花弁であったものが、日に日に色を増し紫色に変化してくる。中には最初から紫色のものもあるが、それも色を増し目立つようになってくる。そんなアジサイは、薔薇やヨウゼンカズラのような派手な花ではない。どこか控えめに咲いている感じだ。そんなところが好きで両親が植えたと思うアジサイや、末弟が持ってきて植えた「カシワバアジサイ」、そして川崎の妹が持ってきた「アナベル」「八重のアジサイ」など9本のアジサイが庭に咲いている。

 アジサイは、日本が原産地でその後日本でも改良されてきたが、中国やヨーロッパに輸出されたものも品質改良され、たくさんの種類のアジサイとなって日本に入ってきたと聞いた。それ故近所で見るアジサイもどこか我が家のものと違っているものが多い。しかし花弁が塊になって咲いているのは同じである。我家のアジサイは、昔からあった「一重のアジサイ」「ガクアジサイ」に加え末弟や川崎の妹が持ってきてくれたものがいま咲いている。その各々は個として目立つように咲くのでなく9本がまとまり調和したハーモニーを醸し出しているように咲いている。

 両親はアジサイが好きであった。だから同種のアジサイを庭の隅の3か所に植えたものと思う。それは全て一重の一般的アジサイであったがその色合いは少し違っている。一番南側の塀の脇にあるものは、アルカリ質の土壌であったのか少し赤みを帯びた花弁となって咲いているし、東側の門に近いところにあるものは、株が一番大きく淡い紫色の花を付けている。また駐車場わきのものは丁度道路から見えるように咲いていて、色合いは、白色や紫色、そして赤みを増した花などをつけ、一本のアジサイが虹のようになって咲いている。同種の三本だが、各々が特徴を持った咲き方である。そしてこれ以外、カシワバアジサイは、末弟の性格を表しているように三角錐にまとまった花弁を少し下向きにして咲いている。アナベルと八重のアジサイは、昨年植えたばかりのもので、株は小さいが、真っ白のアナベルと紫色の濃い八重のアジサイは、妹の性格を表しているように凛として咲いている。

 我家の9本のアジサイは、両親や、私のきょうだい達が植えたもので、これらは、この家で育って巣立って行った家族が、その痕跡を残すかのようにアジサイになって咲いているように感じた。そういえば、先日、父の23回忌で来た川崎の妹が「両親が植えたアジサイを川崎に植えたいので花が終わったら挿し木にしおいてほしい」と云ったが、これも同じ気持ちなのだと感じた。

 


父の23回忌

2018-06-09 18:37:54 | Weblog

 父が死んだのは平成7年6月14日であった。月日の流れるのは早く丸22年が過ぎ6月9日(土)23回忌を行うことになった。私には、この歳月が短いように感ずるが、この間に母と末弟も他界したし、きょうだい達の家族も増え変わっていった。変わり映えしないのは我が家だけになっている感じだ。23回忌のことを4人のきょうだい達に話すと、3人は「夫婦で参加する」と云い、川崎の妹は「連れ合いの体調が悪いので一人行くから」と云い7名が参加することになった。

 法要は11時から帝釈寺で行うことから、朝早くお墓に行き清掃と生花など取り替えた。23回の法要に何を着ていくか悩んだが、妻の意見に従い平服で行くことにした。瀬名の夫妻は直接車で行ったが、私は川崎の妹、三島の弟夫妻を静岡駅に向かえ、自動車で帝釈寺に行った。本堂の控室で、雑談していると住職が見え会場に案内された。住職の読経に続き7人はお経をとなえた。読経が続いたが、その中で「般若心経」と「修証義」は弟夫妻は毎日お経をあげていることから暗読していた。他のきょうだい達も、お経の本を読みながらで続けたが本堂に7人の大きのな声が響いた。声を出すことは良いことであるが、独特のお経を照読するのはエネルギーがいるものだ。

 最後に住職から説法があり、先祖を守ることの大切さと50回忌まで続けるよう話された。その後みんなでお墓に行き、読経が流れるになかで一人ずつ線香を上げ拝んだ。考えるに住職は年法要は50年までと云ったが、まだ27年先である。自分の年齢を考えるととても無理なような気がした。どのような形で継承されていくかつらつら考えていた。昼食は、予約してある我が家の近くのイタリア料理店に行った。この店は、きょうだい達も来ている店で個室を用意してくれた。ワインを飲みながらの昼食であったが、きょうだい達の気楽さもあって声は大きくなりよい雰囲気で過ごした。その後は、みんなで我が家に来て仏壇に線香を上げた。その後もきょうだい達の会話は続いた。

 午後4時ごろになって、きょうだい達は帰って行った。静かになった我が家で、これからの父母の法要を如何に続けるか考えていた。されど、こうした法要があり、きょうだい達が集まることで絆が深まることを思った。きょうだい達も各々の家族が増えることで縁はだんだん薄くなっていく。しかし、このきょうだい達はいつまでも仲の良くすることが両親にとって一番良いことである。明確な答えは出せないが身体が続く限り行っていきたい。

 

 


同期と会う

2018-06-04 23:04:38 | Weblog

 I氏は、鉄道学園の同期で現在横浜に住んでいる。彼とは現職時代の大部分を管理局と総局と違った所で過ごしたが、私が新幹線部門に移って一緒になった。勤務地は静岡と東京で違っていたが、会議などでよく会った。そしてJRを退職し関連会社に移ったが、その時も彼と同じ会社であった。勤務地は違っていたが協力し会社のために尽くしたが、今は2人とも悠悠自適の生活に入った。そんな彼と連絡を取り合い1~2回/年は旧交を温めてきた。しかし4年ほど前に彼は最愛の奥さんを亡くし、その後は彼も体調不良などあり会うことを控えていた。今年の一月電話すると「暖かくなったらまた会おうや」と云うことになり6月4日中間地点である熱海で会うことにした。

 駅前の喫茶店に行くとすでに彼はいた。久しぶり(1年半ぶり)に会った彼は、少し元気がないように見えた。奥さんを亡くし生活環境が変わり、そこから立ち直るには時間がかかるものと思った。その後、彼は 足の状態も芳しくないと云っていた。しかし、話す口調は以前と変わらず滑らかで、私も知らないことも良く知っていた。頭は以前と変わらないほど冴えていたのでホッとした。しかし、独り身となってから、自分の最期を考え身内や近所に迷惑がかからない生き方をしていた。同年代である私は、これでいいのかと考えさせられもした。

 高齢者の一人身は、人生末期の抱える大きな問題であリ自分ならどう生きれるか考えなければならない。会話では老人が抱えるネガティブな話ばかりでなく、政治や経済のこと、三面記事の話など彼独特のユーモアな語り口で話した。田辺市の資産家がで変死変したことや20台の奥さんのことなど傍で聞いていたら「このぼけ老人が何を話しているのか」と叱られそうな話も夢中になって話した。また、憲法改正や米朝首脳会談の行方なども話題に出た。思想信条は私と違っていたが民主主義の自由な社会を探求するところや、米朝会談では、ここに至るプロセスがあまりに短兵急で、どこかで仕切り直しが必要ではないかと云った話しは一致した。午後3時から3時間ほど話してから、近くの居酒屋に行った。

 いつもならビールを注文して、くだけた話になるのがパターンであったが、彼はノンアルコールを注文した。「もう酒は飽きた」と云っていたが、体調が完全でないことを思った。私も彼に合わせてノンアルコールとしたが、最近のものはビールと変わらず味もよく酔ってしまいそうな感じになった。ここでも、同期の人の消息や、現職時代の苦労話などであったが、振り返ると良い思い出として残っていた。帰りは熱海駅、午後8時10分発の島田行きに乗車し、彼もその後8時17分の東京行きに乗ることで別れた。

 

 


寺で「歴史演談」を聴く

2018-06-02 20:35:27 | Weblog

 退職してから歌を趣味として学んでいるが、それが高じてオペラやミュージカルなどにも興味を持つようになった。シンプルな歌も良いがそこに演劇や踊りが加わることで内容をより充実することを知った。そんなことから演劇に興味を持つようになり、静岡のプロの演劇集団(SPAC)の演劇を何度か見るようになった。このSPAC所属の俳優、奥野氏は、数年前から市内の寺院本堂などで、歴史演談を行っていることを2年ほど前に知り、その後3度ほど聴きに行った。それは、演劇とは違って一人で歴史の一場面を演ずるもので新鮮なものを感じた。

 今回の演題は「鉄舟と次郎長」と云うもので小説の一部を演ずるもので、静岡市駿河区中吉田の曹洞宗のお寺「普濟寺」で行われた。この演目は2年ほど前にも見たものであったが、その時強い印象が残り再度見に行った。今回は、演談に普濟寺住職の平尾氏も加わり、伴奏はオーボエ奏者の漆畑氏が行うことになった。この新しい試みにも興味があった。奥野氏は、言うまでもないプロの俳優で表現力、声の抑揚など前回に増して迫力ある素晴らしい内容を披露した。そして住職の演技も大した年季が入っていることを感じた。あとで話を聞くと彼は高校時代演劇部に入っていて、家業を継がなかったなら演劇の道に進んだような人であった。また、オーボエ奏者は、日本の音大を卒業後スイス国立ベルン芸術大学院を終了し、プロのオーケストラでも演奏している人であった。

 一人で行う演談と違い、複数者での演技には立体感があり、その上オーボエの演奏が、その場の臨場感を醸し出していた。山岡鉄舟は、日本が幕末から明治に向かう時代、迅速果敢な行動により大きな痕跡を残した人物であったが歴史の表舞台では、余り目立った存在とは言えない。これは後世の為政者が都合の良い方向に作り替えたことからかと思う。しかし、史実は変えられないことで、彼とそれを支えた清水次郎長、その橋渡しをした由比倉沢の「望岳亭」の主人の役割は大きかった。3人の命がけの行動と連携が、西郷隆盛と山岡鉄舟との松崎家での会談を成功させ、次の西郷隆盛と勝海舟の江戸城の無血開城に繋がっていったことを分かりやすく演じられていた。

 観客は50名にも満たない少人数であったが、迫力ある演技に観客は魅了したが、この3人の連携に称賛をおくりたい。特に奥野氏の演技は以前より円熟味が増していたことや、それに対した住職の演技も素人とは思えないもので大きな役割を果たしたと思う。そして、演談で初めてオーボエの伴奏で聴いたが、この演奏は、この緊迫した場面には、一番合った楽器であることを感じた。