Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

「歓喜の歌」レッスンに初参加

2015-08-30 22:53:17 | Weblog

 清水マリナートで行う「歓喜の歌大演奏会」の練習は6月14日から行なわれている。このメインはベート-ウェン交響曲第九番合唱)であるが、それ以外数曲を歌う。すべて原語で歌うことになるため覚えるのに苦労する。まして記憶力が減退している私にとって、どのような曲なのか知るまで不安であった。実は8月2日のグランシップでの「音楽の広場」まではそのことに集中していたので、これから本格的に「歓喜の歌大演奏会」のレッスンに参加するつもりでいた。そして8月23日にソリストの村上先生の特別レッスンを受けたが、これは主に基本的発声のことなど教えて頂いたが、実質的「歓喜の歌」のレッスンは今日(8月30日と)からとなった。

 夕方7時までに清水マリナート会場に入った。レッスンは最初の一時間は、別会場で男声のパートの指導をK先生から受けた。本番には男声はテノール、バスを合わせて80人近い人が集まるが今日のレッスンには50人ほどの男性が参加した。ここには新人の方が多く、既に「歓喜の歌大演奏会」に参加していて暗譜で歌える人は、まだ参加しないようだ。

 今年は「歓喜の歌」以外の新しい曲は、「Hallelujah!」と「Ave Verum Corpus」であった。この2曲は、以前歌ったことがあったが、歌うと少し違ったように思えた。知っていたのは主旋律で、混声合唱のテノールの旋律は別の曲を歌っているように感じた。それに男声だけのパート(テノール、バス)で歌うことは合唱曲として違和感もあった。今後レッスンを続けることで歌えるようになるものと思う。後半の一時間は、全てのパートが集まり、Y先生の指導で混声四部合唱のレッスンを受けた。ここで歌うと、男声だけであったときに比べ、聞きなれた曲と云った感じになった。しかしまだ音程は不安定で美しいハーモニーを醸し出すと云った段階には到底至っていない。

 今後12月の本番まで10回ほどのレッスンが予定されている。それまでには言葉と旋律を覚え暗譜で歌えるようにしたい。この「歓喜の歌大演奏会」も今年で25年目を迎える。この演奏会を最初から指導し育ててきたK先生には感謝の気持でいっぱいである。そして今回は「ベートーヴェン交響曲九番」を全楽章演奏することになったと聞いた。資料によると6月12日現在235人が合唱員として参加するとなっている。この参加者を年々増やすことによって、この演奏会が今後も発展させて行かなければならないと感じた。


のぞみ会ゴルフコンペ

2015-08-28 22:42:58 | Weblog

 静岡地区の鉄道OB会のゴルフコンペ「のぞみ会ゴルフコンペ」が8月28日清水区のFゴルフ倶楽部で行われた。以前、この会の幹事をさせてもらったが、3年ほど前に後進に譲り、今は参加することを楽しみにしている。先日現在幹事のHIさんから電話があり「今回のコンペに9人しか参加の申し込みがないが、誰か知っていたら誘ってほしい」話があった。私も何人かに連絡と取ったが、最終的には12名になったことを聞いた。8月のコンペは暑さから不参加の人が多いが、何とか3組のコンペが出来たことにホッとした。

 今日は暑さも和らいでゴルフ日和になった。スタートは9時50分のOUTコースである。コンペが幾つか入っていて、非常に混んでいる印象であった。私は仲のよい友人4人で廻ることになった。この4人は新幹線職場で一緒に仕事をした人達で気心の知れた人ばかりであった。因みにARさんは、ゴルフのハンデはシングルで、我々のレベルとは違い上手い。しかし最近は膝のけがなどありスコアーは以前より落ちたと聞いた。年齢は私より5歳ほど若い。SAさんは、長身(185cm)でドライバーは芯で討つと260ヤードほど飛ぶ。しかしスコアーは良い時と悪い時があるが90台でまわる。年齢は66歳である。SKさんは、まだ現職で職場が東京にあり、単身赴任している。ゴルフ歴は10年ほどでまだ伸びしろが多い。年齢は65歳である。

 私は、トータルスコアーを100を切りたいと思っているが、最近体力の衰えもあり、この目標が難しくなってきた。しかしスタートのショットは4人の中で一番良かった。まぐれであるが気持ちがいい。しかし上がったときはダボであった。その後もショットが左右にぶれた。それでも大きく崩れることもなくOUTのスコアーは49であった。しかし昼食時に景気付にワインを飲んだのが悪かったのかINの出だしはトリプルボギーとなり、その後3ホールで10オーバーとなった。まだ酔いがまわった状態であった?その後は何とか堪えてINのスコアーは53で収めた。トータル102は残念ではあるが今の実力なのかと思う。3人のスコアーはARさんは85、SAさんは92、SKさんは108であった。

 ラウンド中、ARさんがSKさんに、ずっとスイング等指導していた。SKさんは年齢が一番若く伸びしろもありそうしたのかもしれない。しかし、これは基本のことであり自分のスイングと照らし合わせて参考になることが多かった。ARさんにすればSKさんを使って、みんなに教えてくれたのだ。そうした気配りをありがたいと思った。かって同じ職場に勤め年齢差もあったが、ここでは友人として接してくれたことに感謝している。


松の整理

2015-08-26 22:58:57 | Weblog

 「松の剪定が出来たら植木職人と云える」10年ほど前「庭木の剪定」の講座を受けた時、講師が云った言葉である。それは会社を退職したころで、今後庭の剪定作業など本格的にしようと思って受けたものであった。それは3ヶ月を一単位として、月2回の講習であった。講師から「庭木の剪定は松に始まり、松に終わる。この松の剪定が分るまでには少なくても2年はかかる」と云われた。多くの人はその後も続けたが私は3ヶ月でやめた。この時の実習は松の剪定作業だけであった。そこで剪定の初歩的ことを学んだが、松の剪定の奥義が深く、難しく頭に入らないことが多かった。

 講習を受けた時点で父の死後9年ほど経っていた。その間は、松が大きくならないよう、春、新芽が伸びるのをただ摘むだけの作業をしていた。講習を受けてからは、伸ばす新芽と切り取る新芽を選んで剪定をするようにしてきたが、枝ぶりの良い松は出来なかった。大木はないものの、2.5m以下の松は8本あった。これを倣ってきたことをなぞる様に毎年剪定作業をしてきた。雑なやり方であったが作業は一日2本が限度であった。この作業も年齢を重ねるたびに重荷になってきた。それに松の病気なのか、幹に白い苔のようなものが付くようになった。そこで3本を残し切ることにした。

 木は生きものである。30年近く庭木として育てたものを切ってしまってもいいものなのか悩んだ。3年ほど前には、我家の大木、ケヤキ、ヒバ、シュロの木、ザクロなどを切った。その時は菩提寺の和尚に来てもらいお祓いをしてもらってから伐った。今回はそれをやらなかった。木も1m~1.5m程で小さいく、弱々しい松5本を切った。切り口は芯が黒くなっているものもあったが病気かと思った。今回はお祓いをしなかったが、仏壇の父に伐ることを話した。家を建替えたのは平成元年であった。以前からあった木もあったが、その後植えたものの多くなった。それらは大きくなって、春は緑の葉が一面を覆い潤いを与えてくれた。しかし、それは年を追うごとに大きくなり、剪定伐採しなければならないほどになってきた。

 また来年も同様のことをしなければならないと思う。しかしそうすることで庭全体のバランスが保たれている。伐採して出来た空間は、他の木が枝を伸ばし埋めていく。3年前に伐った大木の後も、今はそんな木があったことすら感じさせないように枝が伸び、全体のバランスが出来ている。新陳代謝は自然界の営みである。そのまま放置するなら雑木林のようになり、木の内側が蒸れ枯れて行く。そのことを思うと、人間がバランスよく伐採することもよいのだと思い割り切ることにした。

 


「駿河TBG」のお楽しみ会

2015-08-25 23:46:51 | Weblog

 「駿河TBG」は、静岡市駿河地区のターゲット・バード・ゴルフ愛好者仲間の会である。構成メンバーは60代から80代?までの多少体力に自信がある人達が月に3回市内の会場でTBGを楽しむことにしている。メンバーは16人で、参加不参加は自由である。それ故概ね10人以上の参加者がある。月の内第一火曜日に行なうのが「記録会」と云い、ハンデなしで順位を競う。2回目は第3土曜日で「大会」と云いハンデが加味されて順位を競う。また順位上位者には景品が付く。3回目は第4火曜日に「お楽しみ会」と云い隠しホールを設けるぺリア方式で行う。私にとって3回/月のTBGは運動不足解消のためよい機会だと思っている。

 今回の「お楽しみ会」は8月25日午前9時から有度総合競技センターのTBG場で行われた。参加者は14名であった。4組に分かれて、私の組は4人で行ない1番からスタートした。このメンバーは上手い人が揃った。Kさんは飛ばす距離が図抜け、左右のずれも少ない。このメンバーでは、一番上手い人と云われている。Tさんは新人であるが、若い時からゴルフ歴があり、正確なショットを打つ。TBGもゴルフと似ているスポーツであり、彼はいつも素晴らしいスコアーで廻っている。もう一人のEN(兄)は、年齢は81歳である。以前は良いスコアーで廻っていたが、少し体力が衰えたのか、概ね私と同じぐらいのスコアーで廻る。

 私の目標はKさん、Tさんに如何に離されずに回ることを目標にしている。台風15号の影響で風が強い日であったが、これは誰もが同じ条件であり、OBを出さないよう慎重に打っていった。4番ぐらいまでは3人に負けないスコアーであった。しかし5番のティーショットが風にあおられてOBとなった。しかしその後はリカバーがよくボギーで回ることができた。しかし、そこからKさん、Tさんに少しずつ離れだし、OUTのスコアーは3番目/4人で32であった。INに入り、ショットは良くなってきたが、不運も重なり、狙っていったボールがネットに近付きすぎ、次打は傘の上の上げられないケースが3回ほどあった。OUT、INトータルの結果はTさんは2オーバーの56、Kさんは3オーバーの57、私は7オーバーの61、ENさんは10オーバーの64であった。

 しかし今日はぺリア方式で行ったため正式の順位は違っていた。しかし隠しホールがあっても優勝はTさんで、私は7位であった。TBGが上手くなるには、正しいスイングと、練習を積み重ねしかない。しかし一ヶ月に3回の本番以外は練習していないので、今日のように平均的スコアー(7位)で廻るなら良しとしなければならない。一日で3km以上は歩き、クラブでボールを打ち、和気藹藹回ることが、ストレスをなくし如何に健康に良いかを聞くと、スコアーのことは2の次になる。


島田の「うたごえ喫茶」

2015-08-23 22:40:55 | Weblog

 S学苑の歌の講座に通っている人の中に島田から通っているMさんとNさんがいる。そのNさんは島田市で「うたごえ喫茶」を主催していることをMさんから聞いた『Nさんはご主人と一緒に「うたごえ喫茶」をやっていたが、数年前にご主人がなくし、その後引継ぎ頑張っている。手つくりの「うたごえ喫茶」で苦労もあったが今は流行っている」とのことであった。8月23日14時から行うことを聞き、私も行くことにした。その場所は島田市の郊外にあり地図で調べたが、中々分りずらいところにあった。家を出る前にNさんに電話して、道順など聞いたが、正確には判らなかった。そこで近くに行ったら電話することにして、早めに家を出た。

 藤枝バイパスを通って、東光寺ICを出て左折し、山を右側に見ながら、そのすそ野を進んだ。そこに一軒の釣具屋があったので場所を聞いた。そこから200m程進んだところに、その建物はあった。公民館のようなところで入るとNさんが会場に案内してくれた。室内に8つほどのテーブルが並んだいて、40人近い人が席についていた。私はMさんがいたテーブルに座った。概ね60代から70代ぐらいの方が多く、男性も10名ほどいた。司会者とピアノやアコーデオンを弾く数名の演奏者がいた。彼等はサークル活動の仲間のようであった。

 歌は昔のホークソングのような曲が多かった。事前にリクエストした曲なのか、何曲かはコピーした譜面が配られていて皆で歌った。その後、初めて来た人の自己紹介をすることになり7~8名の方が立って簡単な挨拶をした。私は静岡から来たことを話すと、皆さんは遠くから来たことを喜んでくれた。最初の一時間は、リクエストされた曲を歌い。その後15分ほどフラダンスの皆さんが踊りを披露した。その後、個人的にリクエストできる時間になった。5~6名の方が希望して歌った。私もドイツ民謡の「スタインソング」を申込み歌った。

 40~50年前「うたごえ喫茶」が流行った。その頃私も通い続けたが、ここに来ている人も通い続けた人のようだ。私が音楽に興味を持ったのも、そうしたところに行くようになったことによるが、ここにいる人達もその頃の「うたごえ喫茶」に行き、その良さが忘れられ来ているように思えた。それ故皆さんが歌う声は若々しかった。こうした「うたごえ喫茶」が一地方都市の片隅で、営々として続いていることに感心させられた。そこにはNさん達の芽吹かせようとする思いが伝わってきた。

 

 


介護施設でボランティア

2015-08-22 20:47:58 | Weblog

 介護施設「Tの家」で歌のボランティアがあった。最近は慣れたので予習にあまり時間を掛けなくなったが、それでも2~3時間は予習をする。調べたことを頭の中に入れておかないと皆さんの前に立ったとぎ、緊張して行動がぎこちなくなることが今までに何度かあった。それ故いつもは十分準備する心算でいるが、この緊張感は今も変わらない。一回で14~15曲うたうが、その選曲は昨夜寝る前に予裕を持って20曲を選んだ。それは100曲ほどの曲を模造紙に書いてあるものの中から選んだ。午前10時ごろから準備にかかり、選んだ20曲にからむエピソード等調べ頭の中に入れた。しかし今日は何故か集中できないで午後2時から始まる「Tの家」に行った。

 「Tの家」へは1時30分に着いた。施設利用者も30人ほど集まってくれていて、気持よく皆さんの前に立つ心算でいた。しかし話してみると思うように声が出ない。それでも慣れてくればよくなると思ったが、歌う声も、のどにつっかえて中々出てこない。これでは、いつもの様に楽しい場にすることができない。私も、もどかしいが、そのことは施設利用者は分るようで、全体が盛り上がってこない。皆さんの歌う声も、いつもの様に明るさがなかった。そんな場を感じたのか、一人の施設利用者が大きな声でみんなをリードしてくれた。その人は、Aさんと云う歌が好きな方で、いつも出席してくれていた人である。Aさんはいつもと違った雰囲気を感じ勇気を持って行動してくれたのだ。

 体調も悪く、準備不足もあり不本意な結果であったが、何とか一時間を過ごした。私自身声がのどに引っ掛かるような感じが、この一週間ほど続いていたが、そんな状態で声を出したので症状が出たものと思った。考えるに、8月2日の「音楽の広場」で思いきり声を出した。あれから20日間ほどは、意識して歌うことはしてなかった。多分そのことが原因だと思う。年を取ると、声帯も委縮して、声も出にくくなることは聞いていたが、この様になったのは始めてであった。

 病気でない限り、声が出にくくなっても普段の生活にはたいしたことではない。しかし今回は準備不足も重なり上手くいかなかった。本来、ボランティアは皆さんが明るく楽しい場にするのが使命であると思うが、今回は盛り上がらないものになってしまった。しかしその中でAさんが、私に替わり大きな声を出し皆さんをリードしてくれた。終わるころは全体の雰囲気は和やかなものになっていた。私はこのAさんの厚意に救われた思いがした。


ミュージカルを観る

2015-08-21 22:03:54 | Weblog

 静岡市民文化会館で劇団四季がミュージカル「美女と野獣」を8月2日から行っている。劇団四季は毎年この場所で1か月か2ケ月行なっているが、今回は約2か月間の予定である。オペラは好きで、たまに見ることはあったが、ミュージカルは始めてである。昨年劇団四季が「キャッツ」を公演した時は、ネットで予約したが、一週間以内に振り込まなかったので、キャンセルとなってしまい観るチャンスを逃してしまった。それ故今回は予約しないで、事務局に電話すると「当日券もありますから、直接会場に来て購入してください」との返事があった。

 午後1時30分が開演であり、30分ほど前に会場に着いた。しかし行列することなく入場券は買うことが出来た。場内に入ると若い人が多かった。その中でも小学生高学年から中学生ぐらいの生徒が目立っていた。また両親と一緒に来た幼い子供さんも何人かいた。大人のミュージカルを考えていたので、何か場違いなところに来た感じがした。パンフレッドをよくよく見ると、≪「美女と野獣」は劇団四季とディズニーが贈る、永遠のラブストーリーである≫とあった。このミュージカルは子供用に、よりメルヘンチックに描かれていて、夏休みの時期子供さんに人気があるものになっていた。しかし大人にも十分堪能できる内容であった。

 平日であったがほぼ満員の状態になっていた。この公演は約2か月近く続き、ほゞ連続して行なわれる。「美女と野獣」はよく知られたミュージカルであるが、そこには観客を魅了する演出があったように思う。息を呑むイリュージョンが散りばめられ、そして舞台いっぱいに繰り広げられる華やかな歌とダンス、そして出演者の個性豊かな演技は、観客を劇中に吸い込まれるような感覚を覚えた。それに舞台でのスムースな動きや光の陰影や誇張した音等が相まって舞台を引き立てる効果があった。私も感動したが子供達にとってもより深い印象を受けたことだろう。

 歴史的にはまだ数10年しかたっていないミュージカルは感動を与え、共感を得、今では大きなジャンルを持つまでになった。しかしこうしたものを観ると音楽とダンス、動きのある演技は舞台でオールマイティーさが要求される。これは人間社会にとっても同じで、これだけ目まぐるしく変わる世の中で、一つのことに磨きをかけ表現することにかけるか、野球で言う走攻守揃ったものを目指すのかは、その良否は一概に云うことは出来ない。しかし観る者にとっては、音楽、ダンス、演技の3部門を観賞することができることの方が多く人に支持されるのでないかな。そんなことを考えていた。


旗本 中條景昭こと

2015-08-19 23:04:38 | Weblog

 先日市内教覚寺で牧之原開墾の話を聞いた。これは徳川慶喜を護衛し静岡に来た中條景昭隊長以下数百名は版籍奉還によって生活の糧を失った。その時中條景昭は、皆で話し牧之原開拓に入ることを決めた。そして、当時静岡藩大参事平岡丹波、藩政補翼の勝海舟らに申し入れた。その時の様子は勝海舟座談よれば、中條は「聞くところによると遠江国の金谷原は不毛の土地で、水路に乏しく、民が捨てて顧みざらること数百年に及んでいる。もし吾輩にこの土地を与えてくれださるならば、死を誓って開墾を事とし、力食一生を終ろう」と誓った。彼は300人近い幕臣たちを統率して不毛の台地牧之原に踏み入り苦難の末牧之原台地を大茶畑に造り替えた。

 幕府崩壊によって旗本の多くは、慣れない商業や農業等に転職し生活も一変した。しかし成功したのはほんのわずかで、慣れない仕事で没落していったケースは数多あった。そんな中で、彼は、多くの幕臣を束ね茶農家になったことは成功者と云えるが、過去の栄光を断ち切り、明治7年神奈川県令の就任依頼があったが「自分は茶畑の肥やしになる」と云って辞退した。そして彼は牧の原台地で生涯を閉じている。魅力的人間であり、彼のことを調べた。

 彼は文政10年旗本の庶子として生まれる。青年期、山鹿流、心形刀流、北辰一刀流を習得。13代徳川家定に仕える。幕府が講武所を開設すると剣術教授方に就任する。大政奉還後は、慶喜の身辺警護するため精鋭隊を発足、当代一流の剣客として精鋭隊の頭に抜擢される。慶喜が水戸に退くときも、そして静岡に強制的に移住されることになったときも中條は慶喜に従い精鋭隊とその家族200人と共に静岡に移住する。それ以降のことは、上記に示した通りであるが、徳川の幕臣として最後まで徳川家を守ろうとした武人であり尊敬してやまない。

 同じ旗本の勝海舟より4歳年下であり、最初の旗本の石高はあまり変わらなかった。ただ海舟とは仲のよい友人であったようだ。江戸幕府が崩壊しないで継続していたなら、2人の栄達は中條にあったのかもしれない。しかし海舟は、時代を読む力があった。剣術は直心影流の免許皆伝とあるが武人としては中條の方が上と思われる。しかし海舟は蘭学を学び佐久間象山の知遇を得、またペルー艦隊が来航し開国を要求されると老中首座の阿部正弘は、鎖国を破ることに慎重になり、海防に関する意見書を広く募集した。海舟の意見書が老中の目にとまり、幕府海防掛の大久保一翁の知遇を得る。これが海舟の人生の運をつかむところとなり、歴史上の英雄となった。しかし中條は茶農家として牧之原で77歳の生涯を閉じた。この葬儀委員長は勝海舟が務め、牧の原台地のふもと初倉村の種月院に葬られている。私は彼の生き方が好きだ。


原稿を書く(音楽の広場)

2015-08-16 22:34:07 | Weblog

 8月2日行われたグランシップでの音楽の祭典「音楽の広場」について、OB会報に掲載するため原稿を書くことにした。字数は800字以内である。

 ≪静岡は、音楽の盛んなところである。管弦楽団や合唱団の数は日本で5本の指に入ると云われている。その中でも3000人以上を収容できる会場は東静岡駅脇にある多目的施設「グランシップ」である。この会場で「真夏の音楽祭(音楽の広場)」が行われるようになって今回で8回目となる。国内でこのような音楽祭は他に類がない。

 この音楽祭は、毎年8月の第一日曜日に行われ著名な演奏家も招くが、今回は(マエストロの広上淳一、声楽の佐野成宏、腰越満美、バイオリンの大谷康子等)であったが、250人のオーケストラ、300人の合唱、100人の子供ダンスは圧巻である。演奏者は概ね県内から集まるアマチュアの愛好者であり、3ヶ月近いレッスンを重ね、この一日の演奏会のため練習をする。学生から高齢者まで幅広い年齢層の人がいるが、60代以上の方が多いように感ずる。演奏者の中には、私が知る限り鉄道OBの方は3人いた。現職時代音楽に興味があることは知らなかったが主要なパートを受け持っていた。

 このクラッシックの音楽祭は、劇場で静かに聴くのとは違い観客と一緒になってパフォーマンスする。私は合唱であるが、互いに自分のパートを思いっきり歌い会場に響き渡らせる。これは他では味わえない奮い立つ感動を与えてくれる。フィナーレは会場の皆さんと一緒に「不二の山を望る歌」を歌う。これは万葉集に出てくる山部赤人の長歌に、ホイストの「木星」の曲にのせたもので、よく知られた「田子の浦ゆ 打ち出でて見れば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」がもとになっている。

 この音楽祭は、まだ小さな地方都市からのものであるが、イギリスには100年以上続いている真夏の音楽祭「プロムス」がある。この音楽祭を模したと聞くが、この音楽祭も今後世代を超え発展し「プロムス」に伍して語られることを願っている≫    以上     

 

 

 


真夏の雑草取り

2015-08-15 16:04:39 | Weblog

 天気予報は曇り時々雨であった。今まで連続して猛暑日が続いていて、ばて気味であったが今日やらなければならないことがあった。それは繁茂した駐車場の草刈をすることである。昨夜から午前10時ごろまでに強い雨も降っていたが、その後は遠くで雷がなるものの、時どき晴れ間の出る曇り空が広がっていた。気温も正午ごろ30度ぐらいまでしか上ったがそれ以上にはならなかった。そこで午後3時ごろから駐車場の草取りを行うことにした。妻は賛成しなかったが、頼んで一緒に行ってもらった。草刈機があれば一人で30分ほどで出来る作業であるが、今は故障し修理に一ヶ月ほど掛かると云われた。

 日中の暑さをさけ午後2時30分ごろ家を自動車で出た。駐車場の草の繁茂は、今にも苦情が出るほどで、車のわだちを残し30cm~40cmほどの高さに生えていた。それでも斜面になっている入口付近は、先日アスファルト舗装を行なったので雑草取り面積は60㎡ぐらいである。作業着に着替え、ゴム手袋をはめ、作業時間は2時間と決め、内訳は1時間20分は雑草取り、残り40分は除草薬散布に当てるつもりで始めた。

 1時間20分では雑草取りでは丁寧に出来ないので、繁茂がひどいところから始めた。最初は買ったばかりの柄が長い「立ち切り鎌」を使って行なったが、この鎌は茎が細い雑草では、上手く切ることが出来なかった。結局雑草を手で引き抜くか、小さな鎌で切るしかなかった。1時間20分の作業は休むことなく続けた。汗と泥まみれの重労働となり腰は痛いし、膝も曲らないほどになった。右足は腰から痺れるような痛みも感じた。もうこれ以上はできない限界を感じた。その頃になるとポツポツと雨が降り出してきた。

 除草薬散布は無理かと思ったが、再度出直してくる大変さを考え、仮に雨で流れてしまっても撒くことにした。薬剤は500mmLの液体を、10L程に薄め噴霧器で撒いた。この間も雨は降り続き段々強くなった。作業着がびしょ濡れになり身体まで染みてきた。私が散布している間に、妻はごみ袋(50cm×70cm)に詰めていった。全部で5袋になったが全ては入りきれなかった。残った雑草は、駐車しない隅にまとめて置いた。2人とも疲労困憊して、自動車に乗り込んだのは午後5時30分を回っていた。外食する予定でいたが、家に帰って着替えをしたが、再度外食に出る気力は無くなっていた。      (8月13日のこと記す)