Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

訃報に接して

2009-01-31 22:56:42 | Weblog
 昨年の9月に「突然の訪問客」と言う題目でブログに書いた、その彼Kさんが1月30日亡くなった。
 このように早く亡くなるとは思わなかったが、9月に来たとき、少し痩せた感じを受けた。外見は気丈にしていたが、2年前ガンに侵され手術して普段の生活にも戻っていたが、最近腰が痛くなり、今までやっていた店も閉めて、少し休養することにしたと言っていた。そのとき20数年ぶりに見えたことから、何か悟っての訪問ではないかと思った。
 だから今回受話器を取ったとき、いやな予感がよぎったのは事実である。しかし以前会ったときから4ヶ月もたっていないのに、人の命の儚さ感じざるを得ない。
 Kさんは父の姉の子で、父親を早くなくしていたので、父は不憫に思い、よく可愛がった。それにKさんは私より1歳年下であり、同じ静岡に住んでいたので良く遊んだ。
 「鯨が池」にヒシの実を取りに行ったり、メジロを取りに行ったりもした。活発で話の好きな人であり、いるだけで明るくなる人であった。
 そんな彼に父は高校受験の前3ヶ月ほど家にきて勉強の補修をやっていたことを思い出す。
 父はあまり高等教育を受けていないが、その程度のことは教えることが出来た。私もその1年前には同じように父から補修を受けたので知っている。
 その彼も紺屋町で所帯を持って店を構えた。その商売も繁盛していたし、確か3人の子供も成長して独立したと聞いた。やっと肩の荷が降り、これからは夫婦でのんびり、旅行でもしながら、余生を楽しく過そうと思っていた矢先のことであったと思う。
 あんないい人が働きづめで、一生が終わるとは、何とも不公平ではないかと考えてしまう。
 今思うに昨年の9月突然家に見えたのは、自分の寿命が尽きるのが近いことを悟ってのことであり、別れの訪問であったのではないかと思った。
 私も概ね同じ世代である。同期の人間の何人かは、この世を去った。私もいつどうなるか分らないが、いま生かされていることを感謝し大切に生きなければならないと思う。
 彼の葬儀は1月4日行われる。そのときが最後のお別れとなってしまうのか、悲しいことである。

伊豆半島の旅

2009-01-29 18:42:52 | Weblog
 昨日は下田のK温泉で町内研修会議があった。この会議は今年度の反省と来年度の進め方を議論するもので、活動を通してより住民がより参加しやすい組織にするための研修であった。会社にいた時と同じようなことをやったが、何処でもやっていることを感じた。
 ちょうどいいチャンスであり、今日はレンタカーを借りて伊豆西海岸を通って帰ることにした。
 出るときは、あいにく小雨が降る天気であったが、この西海岸を通るのは50数年ぶりであり、その時も小雨が降っていたことを思った。
 そのときは4月の中旬であった。青春の真っ只中であったが、挫折の中で一人旅に出たのがこの伊豆半島であった。三島駅からバスで修善寺、天城トンネルを通って石廊崎、松崎を抜け沼津に出た。確か砂利道を左右に揺れながら走るバスの中で、まだ私より少し若い高校生が、陽気に大声で話し合っていた。何か取り残された自分を感じたことを思い出した。
 しかし今は7人の仲間と陽気に会話しながら曲がりくねった道を走っている。雲見海岸を通る頃には雨が止んで青空が見えてきた。ちょうど富士山が見えたので、降りて海岸を歩き写真を撮った。いつも見慣れた富士山であるが、ここから見る富士山は裾野の曲線が長く見え、雪の白さと、大きな黒松の枝と駿河湾の海が調和して、品格のある富士山に見えた。
 昼食は堂ヶ島の島々が展望できる高台の食堂に入った。案内されたのは3階の畳の間であり外の景色を見ながら、くつろいでゆっくり食事をした。
 この頃には外では数台の観光バスも駐車場に入ってきて、賑わったきた。
 そこから土肥港までは20分ほどであった。ここからはフェリーに乗るだけである。午後2時45分発の清水港行きに乗りこんだ。
 このフェリーには中国人と思える団体が50人ぐらい乗ってきた。まだ30代~40代の夫婦と思える人がみんな1人の子供を連れている。売店で食べもの等買って、大きな声を出して食べていたが、富裕層と思える人達ばかりである。
 中国沿岸部の経済発展はすさましいばかりであるが、そこから生まれた富裕層が
家族と旅行しているものと思う。このフェリーの日本人は私達以外は1組の夫婦の9人だけであった。何かこの船はあたかも中国の中にあって、私達はその様子を見ている異国人のような錯覚を覚えた。
 清水港には午後4時前には着いた。ここからは通い慣れた道であり、海岸沿いの道路を通って静岡に着いたのは4時20分ほどであった。

 


日がな一日

2009-01-26 18:40:56 | Weblog
 今年の風邪はたちが悪い。熱はあまり出ないが咳が止まらない。先日21日の「鎌倉と城ヶ島の旅」のバス旅行の翌日から喉に違和感があり、その後咳がやけに長く続く。それが今は鼻水まで出るようになった。
 妻は風邪を3週間ほど前に引いて、咳で苦しんでいたものが、今やっと治りかけている。それがうつったものと思う。
 風邪をひいたら薬を飲んで休養を取るのが一番であり、そのようにすればよかったものの、この時期、野暮用が続き、それに出席して帰りが遅くなった。これが原因でこじらしてしまった。
 昨夜も友人Sさんから、繁華街にあるAと言う店で「Yさんの誕生会があるので出かけないか」と誘われていた。それは2週間ほど前であったので行く旨伝えてあった。今ここで断れない。行くだけ行ってそのとき考えようと思って出かけた。
 この店はピアノがあり、歌が好きな人がよく集まる所である。私は常連ではないが、Yさんを知っていたので行くことにした。厚着にマスクをかけていったが、帰りにバス停で30分ほど待っていたのが悪かった。今朝は咳と痰が出て起きることがつらい。朝食も取らずに正午近くまで寝ていた。
 妻からは病院に行くように進められたが、どうもその気にもならない。妻が飲んでいる風邪薬もらい様子を見ていた。
 午後1時ごろ、腹がへったので、寝巻き着の上に丹前を羽織ってダイニングに下りていくと、ちょうど妻が帰ってきた。病院に行った帰りに食材も買ってきたのだ。その中に肉まんがあったので、それを電子レンジにかけ食べた。それにバナナも2本食べた。
 鼻水と咳は時々出るが、何とか起きていられるので、パソコンが置いてある居間兼応接間で過ごすことにした。
 今日は何処にも行かないで、この部屋で新聞でも見て過すことにした。
 庭の犬小屋を見ると甲斐犬モモが、散歩に連れて行ってくれない私を見て、怪訝な顔をしている「今日は散歩に連れて行ってくれないんですか」と話すような目をする。
 犬には「悪いが今日は散歩に行かない」と言ったが分らないだろう。明日風邪が治まったら、今日の分まで含めてたくさん散歩をしてやろうと思う。 外は薄曇の天気であるが、冷たい風が吹く一日となった。

二つの宴会

2009-01-24 23:58:48 | Weblog
 昨夜は風邪薬を飲んで早めに寝た。寝がけに体温を測ったが平熱であったが、夜中に汗をかいて寝巻きを変えた。悪寒がすることはないが、咳が時々出て熟睡は出来なかった。
 朝7時に拡声器で「今日は資源回収日です」という声が聴こえた。町内会が実施する資源回収日である。起きると何とか動けそうであるので、いつもより少し厚着をして参加した。自転車で資源回収車に付いていって雑誌、新聞等を車に入れ込む作業である。マスクをして作業をしたが背中が汗ばんでくる感覚はあったが、咳はあまり出ず30分ほどで終わった。
 いつもは後町内会長のところで雑談して帰るが、今日は理由を言って、真っすぐ家に帰った。午後2時40分からのS学苑の講座とその打上会、それと「あすなろ会」の新年会には何とか出たいと思っている。早く帰って休養を取りたいと思ったからである。
 午後2時頃まで仮眠してから、駅ビル7FのS学苑の≪名曲をうたう≫講座を受けた。喉が荒れて声は出にくかったが、何とか歌えた。
 そのあとK先生にも参加していただき、6FのJ店で簡単な打上会を開いた。
 今日発表会の収支報告ができ、一連の仕事にけりが付いた。そこで幹事で反省会を兼ね打上会をやろうと私が誘ったものである。幹事4人と先生の5人が集まった。男性2人、女性3人であり、私以外酒を飲むような人はいないことから、イタリア料理を出すこの店を予約しておいた。
 それでもワインを乾杯用に1本だけとって、打上会は始まった。最初は硬い雰囲気であったが、時間が立つにつれ緊張感もなくなり、皆さんと良く話した。音楽の話が主体であったが、その人となりが分る楽しい一時であった。
 午後6時頃にはテーブルの上の料理もなくなり、私が概ね1人で飲んでいたワインもなくなった。ちょうどいい時間と思いお開きにした。
 そこから300mほど離れている、新静岡駅近くの居酒屋で、開かれている「あすなろ会」の新年会に向った。午後5時30分から始まっているが、事前に遅れる旨話してある。この会は既に盛り上がっていた。酒もふんだんにあり、コップ酒にして飲んでいる。11人のメンバーは気心が知れた仲間である。料理も鍋物で温まるものが多い。風邪気味の私にはちょうどいい食べものであった。
 余り飲み過ぎないよう注意しながらも、いい新年会が出来た。
  

町内研修旅行の準備

2009-01-23 17:17:40 | Weblog
 あさ6時30分ごろ目を覚ますと雨戸越しに、強い雨音が聞える。今日はD合唱団の大谷ゴルフコースでのコンペがある日だ。昨夜の天気予報は「曇り後晴れ」であったのにと思いながら、これでは中止であろうと思い諦めていた。それでも雨は9時少し前上がっていた。携帯電話が鳴って「みんなゴルフ場に集まっているが、どうしたかね」とKさんからの電話である。
 今から行っても時間が遅れるし、迷惑をかけると思い、謝って欠席する旨伝えた。事前に誰かに確認しておけば良かったと思ったが後の祭りだ。午前中は時間が空いてしまったので、如何して過そうと思っていると、町内会のHさんから電話があった。町内会の研修旅行のことであった。
 1月28日の研修旅行はHさんが幹事となっている。その時私も手伝う旨伝えてあった。電話は「切符の購入や弁当の予約等をしたいので、一緒に駅まで行ってほしい」とのことであった。
 ちょうど私も明日予定している、SBS学苑「名曲をうたう」の発表会の打上会を行なうことにしているので。場所の予約等をしたいと思っていた。
 いいタイミングであり、午前10時出発を約束して車で静岡駅に向った。
 昔はよく利用した駅のみどりの窓口に並んだ。以前はこの窓口も男性のJR社員が多かったが、今は女性社員が主になっていた。
 静岡から新幹線と踊り子号で下田までの行程であるが、踊り子号は海側の座席が取れるのかとか、回数券で買うのと、バラ買いはどちらが得なのか等、細かいことを聞いたが、接客マナーは良くなったことを感じた。7人分の切符を購入した。
 弁当も1階食品館で、いろいろ吟味してやや高めの物を予約した。1人で行ったらこんな吟味は出来ないと思うが、2人だといい安が出て希望通りの注文が出来た。
 あとは、明日の打上会場所の予約である。コンコースの2軒ほどの店に入って聞いたが、パルシェ6階のJ店に決めた。
 日中は晴れ間が出て気温も18℃近くまで上がった。春の陽気となったが、鼻は出るし寒気がする。3日程前から、咳が出たりしていたが、どうも風邪を引いたらしい。帰ったら薬を飲んで休養を取ることにした。
 

鎌倉と城ヶ島の旅

2009-01-21 22:31:37 | Weblog
 1月21日は鉄道OB会S支部のバス旅行に行った。毎年この時期、初詣を兼ね近隣の神社仏閣にお参りする安全祈願の行事となっている。昨年は箱根「大雄山道了尊最乗寺」であったが、今年は皆の希望で「鎌倉鶴岡八幡宮と城ヶ島」と決まった。
 出発は午前7時静岡駅南口の駿河銀行前からである。今年は役員としての参加であり、早めにと思い30分前には集合場所に着いたが、既に20人ほどの人がバスに乗り込んでいた。OBの皆さんの早い集まりにはびっくりした。
 今回の旅行には、ご夫婦での参加8組に他支部から参加3人を含め全部で43名である。これは大型バスが満席となる状態で、OBの皆さんの期待がうかがわれた。支部長の挨拶のあと乾杯となったが、あとはビール、酒、焼酎、ワイン等が回ってきた。酔いが回ってきたのか、時間が経つにつれあちこちで話す声も大きくなってきた。バスガイドの流暢な案内も耳に届かないほどである。富士川SAまでは、外の風景を見ることもあったが、それ以降は周りの人達との会話で景色を見るどころではなく目的地「鎌倉鶴が丘八幡宮」に着いた。
 平日であり余り混雑していない八幡宮境内の砂利道を歩き、本宮で参拝した。私も今まで何度かきているが、いつも新たな気持にさせられる。樹齢800有余年の銀杏の木も葉を落とし幹だけが異様に太く感じたし、本宮に登る階段も記憶ではもっと高いと思っていたが苦にはならなかった。
 参拝を終えたあとは、三浦半島先端にある城ヶ島の京急ホテルでの昼食と入浴が待っている。この昼食時にも酒を飲む人も多く、盛り上がった宴席となった。余興でAさんがマジックを披露したり、私は城ヶ島ゆかりの歌「城ヶ島の雨」をア・カペラで歌った。事前に北原白秋が詩を書いたときの心境、背景等調べていたので、そのことも披露した。2時間ほどの休憩時間に、風呂に入る人、島を散策する人など思い思いに過した。
 帰りのバスは来た時と同じように横浜ICから東名高速道路に入り海老名SA、富士川SAで休憩したが、車中では、さながらカラオケ大会のような様となった。歌と笑いのなか、時間が過ぎるのも忘れさせる。午後6時前には、無事に駿河銀行前に帰ってきた。
 今日の天気は曇りのち雨との予報であったが、雨が降ることもなく家路に付くことが出来た。
 
 
 

T保育園のボランティア

2009-01-20 17:18:54 | Weblog
 どんよりとした天気の寒い日となった。私も散歩でよく通っている途中に、T保育園がある。家から500mほどの距離のところにあり、先生や親御さんは話したことはなかったが、知っている人が何人かいた。今日は「あすなろ会」が手品をして、園児の皆さんに喜んでもらおうと計画したものである。
 朝9時までにK保育園に集合するようになっている。自動車で3分ほどの距離であり時間前に着いた。
 今日のメンバーは7人であり、病気で心配なK先生も来てくれた。少し痩せたように見えたが声には張りがあったし、背筋も伸びていた感じであった。
 2階の舞台のある部屋に通された。そこには50人以上の園児が先生のピアノで歌っている。
 「あすなろ会」として保育園で手品をするのは始めてである。子供達は活発で、反応は早い。内容が面白いと、何度もやってほしいとせがむし、話が長いと早く手品をやってくれと言う。表情も豊かであり、その表し方も千差万別である。全身を使って表現する子もいれば、品良くして、顔だけで表現する子もいる。それを見ているだけで、楽しくなる。子供達は自由に自分を表現し、屈託なく笑う。これが天真爛漫と言うのだろう。
 手品が始まるとからだを乗り出し、目を見開いて見ている。演者が間違えたり、種が分ると、大きな声を出して、それを指摘する。
 年齢は2歳ぐらいから6歳ぐらいであろうか、年齢差はあるがみんな仲良しである。この時期はいじめはないようだ。
 私の出しものは子供達に喜んでもらえるものをと考え、トランプ、紐、花、花輪と言った分りやすいものにした。
 子供は怪訝な顔をして見たり、出した花や花輪をほしいと言って困らせた。
 他の人達も今までの出しものとは違った、子供が受けるようなものを出していた。決められている1時間はアッと言う間に過ぎた。
 あとで保育園の先生と話したが、今日はインフルエンザが流行っていて、半分以上の子供が休んでいると言う。保育園としてはこの時期子供に感染することが一番心配である。そういえば私共にも始まる前にマスクを配ってくれたが、そう言うことかと合点した。
 今まで介護施設が主であった。これも喜ぶ顔が見れて嬉しかったが、子供達も表情があって良いものだった。

小松帯刀伝を読む

2009-01-19 12:45:35 | Weblog
 大河ドラマ「篤姫」を見る前から、明治維新を推進した小松帯刀は、どのような存在であったか知りたいとの思いは持っていた。
 それは、漠としたものであったが、脳裏から離れない一人であった。
「篤姫」を見て、その人となりが分ったが、大河ドラマに出てくる小松帯刀は主役篤姫に対するものであって、帯刀を知るにはもう少し別の角度から見てみたかった。
 そんな折、三島の弟から、「幻の宰相小松帯刀伝」なる本が贈られてきた。正月に会った時この話をしたことを覚えていて、私に贈ってくれたものである。著者は小松帯刀顕彰会の瀬野冨吉、監修は鹿児島大学教授の原口泉である。
 分厚な本であり、史実をもとに書いているので、実像が分る内容である。
1月19日は、予定していた介護施設「登呂に家」でのボランティアを急遽「インフルエンザがはやっているので取りやめてほしい」旨連絡があったので、今日一日あいた。そこで一気に読むことにした。
 今まで明治維新が薩長土肥の下級武士で達成できるとはどうしても思えず、疑問として残っていた。薩摩藩主、島津斉彬や、久光も江戸幕府を改革しなければならないことは分っていた。公武合体による改革だと思う。しかしそれでは鎖国を解いて世界に伍す力を早急に作る策は出てこない。その状況を一番分っていたのは、
 幕臣の勝海舟であり、その教えを得て実行したのが坂本竜馬、西郷隆盛ではなかったか。そしてその考えを明治維新と言う大きな流れまで持っていったのは、薩摩の軍事力、経済力を動員できる家老小松帯刀であったはずだ。薩摩藩家老の帯刀は、薩英戦争を指揮して、このままでは、日本は世界の列強に植民地となってしまうとの思った。
 又小松帯刀は江戸詰めの時、徳川慶喜と親しい仲であった。こうした中で雄藩連合による政治改革をもくろみながらも、迫り行く変化の中で、二条城における大政奉還を演出し、劇的混乱を抑えたのは小松帯刀の胆力であったと思った。
 薩摩と長州を結びつけた薩長同盟や薩土盟約、勤皇志士や勤皇公卿との会談はほとんどが、京 小松邸で行なわれている。
 このことからも、明治維新により、国を開いた功労者は小松帯刀だとの思いを強くした。
 家老の立場で、島津久光を説得し、且つ西郷、大久保など血気にはやる下級武士
を纏めた小松帯刀こそ一等の人物ではなかったかと私は思った。
 よく人間の儚さを言う言葉に「苗を植える人、育てる人、花を咲かす人、花をめでる人は別の人」と言うが、これらの英傑達も花を見ることなく、この世を去っていった。

D合唱団の練習

2009-01-17 23:08:16 | Weblog
 12月22日D合唱団の忘年会に出席したが、その後の練習には参加していない。年末から正月にかけて、もろもろな用事があって出席できないでいた。
 3日程前Kさんからメールが入った「1月17日の練習は、セカンドテナーのボイトレがあるので、午後6時30分までに集合してください」こんな内容であった。
 今回は参加できそうであったので、参加する返信を打っておいた。
 日中は、母の常備薬が切れそうであるので、二つの病院に行き薬を貰うこと。及び頼まれて「名曲をうたう」のダビングを頼まれていたので、K健康センターに行って済ませた。
 夕食は早めに済ませ午後6時に家を出て、合唱団の練習があるT短期大学に向った。教室には既にセカンドテナー仲間の6~7人が見えていた。
 私にとってグループでボイトレを受けるのは、初めての経験である。
 「ボイトレ」と言う言葉はよく聞くし、この訓練によって声楽的発声法を学ぶことが出来るし、安定した声質が出せるようになる。その上訓練により、声幅を拡張できると聞いた。
 私も年齢からか、高音が出にくくなったことを感じていたので、このトレーニングで高音を出したいと思っている。
 発声練習の指導は、当合唱団の常任指揮者S氏が行なうが、音程の正確さと声の出し方の指導は懇切丁寧である。この指導で私もかなり上達したと思う。
 合唱で重要ことは、グループが同じ音程で歌うことであり、このことのため練習しているといっても過言ではない。しかし言いえて難しいことであり、譜を見て歌っても、ぴったり合うことは稀だという。
 そうしたことからグループが一緒にボイトレを受けることになった。
 曲は今まで何度か歌った曲であったが、一緒に歌うと何度も注意された。確りした絶対音程を持っている人は分ると思うが、みんなの理解度は千差万別である。これを同一レベルまで持っていくには大変なことであると思う。しかし30分ほどの訓練であったが、終わりの頃には音程が揃ってきたことが私にも分った。
 以前は同一パートのグループがボイトレとして練習することに、疑問を持っていた1人であったが、今回の練習で納得出来た。
 7時からの全体の練習では「叱られて」「お菓子と娘」を練習した。この曲は今日が始めての練習であったが、主旋律は分っているが、合唱となると難しいものである。

凍てつく寒さ

2009-01-16 11:33:36 | Weblog
 暦の大寒は1月20日とあるが、今朝の寒さは今年一番である。毎朝欠かさないで犬の散歩をしている。7時から1時間ほどであるが、犬にせかされての散歩だ。
 最近足の状態もよくなったので、ここ1週間ほどは4km程を歩くが、寒さから外気に触れるのは目と鼻ぐらいであとは完全防備の服装で早足で歩いている。
 いつもと同じように、登呂遺跡を通って、そのまま南進する。菩提寺である帝釈寺の父が眠るお墓に線香を手向け、そこから駿河湾の海辺に出る。そこから東に折れ遊歩道を歩いて、久能街道を左折して帰ってきた。
 これだけのコースを回ると犬も満足するのか、帰った後小屋の前の陽だまりで、両足を伸ばし腹ばいになって、満足そうに私を見る。
 しかしコースを短縮したりすると、まだ物足りないと言うように、家の前まで来ても、門を入ろうとはしないで抵抗する。言葉はないが犬の気持が伝わってくる。
 この犬は猟犬として適している甲斐犬であり、寒さにめっぽう強いようである。そうした環境に順応するのか、冬場になると長い毛で覆われる。そして春に夏の毛に生え変わる。そのとき出る冬の毛は防火バケツにいっぱいになるほどである。
 今日に寒さは犬にはなんでもないようだ。
 この寒さを感じたのは、散歩の途中父の墓参りをしたときであった。墓石の水鉢の水が凍っていて、ひしゃくの柄で何度の叩いて割ったが氷の厚さは3mm程あった。水鉢に水を替え、花の水を替えようとしたが、凍っていて生花を出すことが出来ない。今年になって始めてのことである。このようなことは今まで一年に1回あるかないかであった。
 あと雑巾で墓を拭いたが、濡れた雑巾が墓石の上を滑っている感じである。その雑巾に敷いた小砂利が磁石にでもなっているようにくっ付いてきた。
 こうしたことは、寒いところでは当たり前のことであると思うが、温暖な静岡では稀なことであり、今朝の寒さを実感した。
 テレビでは静岡市の最低気温は-1℃であると言う。その程度だったのかと思ったが、この寒さは応えた。
 それでも今日の日中は風のない晴れの天気となった。ブログを書いているこの時間の縁側の先は小春日和のような日が差している。