旅行から帰ってから鎌倉時代に「陣屋」の地に別邸を構えた和田義盛のことについて調べた。彼は平安時代末期から鎌倉時代前期に活躍した三浦半島を拠点とした三浦一族の人である。源氏の棟梁 源頼朝が挙兵し鎌倉に武家政権をつくると初代侍所別当に任ぜられている。侍所別当とは、御家人(武士)を束ねる長官で武門の最高職である。そんな地位になった義盛であるが、頼朝が挙兵し最初の戦い「石橋山の戦い」では、平家方の大庭景親に撃退されている。この時、和田義盛勢は酒匂川の増水で間に合わず三浦に引き返す途中平家方の畠山重忠の軍に遭遇し海路安房に逃げる。この地で源頼朝を迎えている。
安房に集結した頼朝方の残党は、再挙を図り、各地の武士に参陣を呼び掛けている。和田義盛は、上総広常の使者として参陣を願うが良い返事が貰えないでいた。しかし、頼朝は安房を発し隅田川に達したところに広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。これは頼朝の器量しだいでは打ち取るつもりであったと云う。しかし、頼朝の威厳に打たれ心服する。その後も義盛と闘った畠山重忠の軍も参陣し、数万騎の大軍となり源氏の本拠鎌倉に入った。1180年10月駿河国「富士川の戦い」で平維盛率いる平家方を撃破する。鎌倉に戻った頼朝の入御の儀式では、重盛は居並ぶ御家人の最前に立った。
その後義盛は、罪人の処断や平家と対峙する遠江国への派遣などしているが、木曽義仲や一の谷の戦の軍中ではその名が見えない。1184年8月、頼朝の弟の範頼が平家追討のため鎌倉を発向するが、義盛は、範頼の軍奉行として従軍している。山陽道を進軍し九州へ渡り、平家の退路を遮断する戦略であった。3月25日源平最後の決戦地壇ノ浦の戦いでは、範頼の軍は陸路に布陣し、海戦を行う義経の軍を支援した。義盛もを船に乗って散々に戦ったと云う。合戦は源氏の勝利し平家は滅亡する。この後、大功のあった義経と頼朝が対立するが、義経の軍奉行であった梶原景利が讒言したのも一因であった。義経は、源頼朝に鎌倉に入ることを願うが許されず、京で挙兵するも失敗、奥州藤原氏のもとに逃げる。その後の義経の末路は、よく承知のとおりであるがその戦いに義盛も参戦し軍功を上げている。
1190年の源頼朝上洛に際して義盛は先陣を賜っている。この時も朝廷より左衛門尉に任じられる。頼朝が1199年正月に死去し源頼家が2代将軍になると義盛は宿老として13人の合議制に列する。その年の10月梶原景時が結城朝光を讒言する事件があり、これを知った御家人たちが激怒し、諸将66人の連署で梶原景時弾劾状を大江広元にへ提出、頼家が知るところとなり景時は失脚、京に向かう景時一族が静岡清見寺関で吉川氏に討伐され滅んでいる。その後北条氏と頼家の愛妾の実家である比企氏との抗争が発生、比企氏は滅亡する。頼家も修繕寺にて殺害され弟の実朝が3代将軍になり、北条時政は、初代執権に就任する。そして1205年には「畠山重忠の乱」「牧氏事件」などがあり北条時政から代わって北条義時が2代執権となる。1209年義盛は上総の国司の職を望むが断られている。1213年、北条氏を打倒しようとする陰謀が露見し、義盛の子や甥の胤長が関与していることが明らかになり処罰を受け家屋敷も奪われる。重ね重ねの義時の挑発に対して、義盛は反北条派を誘い挙兵を決意する。しかしこの謀反を義時に通報され、鎌倉由比ガ浜で討ち取られる。享年67歳であった。
(追記) 和田義盛は、弓の名手であり、武勇において御家人の尊敬を受けた人物であった。しかし、侍所別当として全体を見る配慮に欠けた面があった。それ故戦時には優れた武勇を発揮しても平時には、皆を纏める力がなかったものと思う。単純・愚直な義盛は権謀術数に長けた梶原景時や北条義時に利用され、挑発に乗ってしまった結果最後は和田一族が亡びる結果となってしまった。
安房に集結した頼朝方の残党は、再挙を図り、各地の武士に参陣を呼び掛けている。和田義盛は、上総広常の使者として参陣を願うが良い返事が貰えないでいた。しかし、頼朝は安房を発し隅田川に達したところに広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。これは頼朝の器量しだいでは打ち取るつもりであったと云う。しかし、頼朝の威厳に打たれ心服する。その後も義盛と闘った畠山重忠の軍も参陣し、数万騎の大軍となり源氏の本拠鎌倉に入った。1180年10月駿河国「富士川の戦い」で平維盛率いる平家方を撃破する。鎌倉に戻った頼朝の入御の儀式では、重盛は居並ぶ御家人の最前に立った。
その後義盛は、罪人の処断や平家と対峙する遠江国への派遣などしているが、木曽義仲や一の谷の戦の軍中ではその名が見えない。1184年8月、頼朝の弟の範頼が平家追討のため鎌倉を発向するが、義盛は、範頼の軍奉行として従軍している。山陽道を進軍し九州へ渡り、平家の退路を遮断する戦略であった。3月25日源平最後の決戦地壇ノ浦の戦いでは、範頼の軍は陸路に布陣し、海戦を行う義経の軍を支援した。義盛もを船に乗って散々に戦ったと云う。合戦は源氏の勝利し平家は滅亡する。この後、大功のあった義経と頼朝が対立するが、義経の軍奉行であった梶原景利が讒言したのも一因であった。義経は、源頼朝に鎌倉に入ることを願うが許されず、京で挙兵するも失敗、奥州藤原氏のもとに逃げる。その後の義経の末路は、よく承知のとおりであるがその戦いに義盛も参戦し軍功を上げている。
1190年の源頼朝上洛に際して義盛は先陣を賜っている。この時も朝廷より左衛門尉に任じられる。頼朝が1199年正月に死去し源頼家が2代将軍になると義盛は宿老として13人の合議制に列する。その年の10月梶原景時が結城朝光を讒言する事件があり、これを知った御家人たちが激怒し、諸将66人の連署で梶原景時弾劾状を大江広元にへ提出、頼家が知るところとなり景時は失脚、京に向かう景時一族が静岡清見寺関で吉川氏に討伐され滅んでいる。その後北条氏と頼家の愛妾の実家である比企氏との抗争が発生、比企氏は滅亡する。頼家も修繕寺にて殺害され弟の実朝が3代将軍になり、北条時政は、初代執権に就任する。そして1205年には「畠山重忠の乱」「牧氏事件」などがあり北条時政から代わって北条義時が2代執権となる。1209年義盛は上総の国司の職を望むが断られている。1213年、北条氏を打倒しようとする陰謀が露見し、義盛の子や甥の胤長が関与していることが明らかになり処罰を受け家屋敷も奪われる。重ね重ねの義時の挑発に対して、義盛は反北条派を誘い挙兵を決意する。しかしこの謀反を義時に通報され、鎌倉由比ガ浜で討ち取られる。享年67歳であった。
(追記) 和田義盛は、弓の名手であり、武勇において御家人の尊敬を受けた人物であった。しかし、侍所別当として全体を見る配慮に欠けた面があった。それ故戦時には優れた武勇を発揮しても平時には、皆を纏める力がなかったものと思う。単純・愚直な義盛は権謀術数に長けた梶原景時や北条義時に利用され、挑発に乗ってしまった結果最後は和田一族が亡びる結果となってしまった。