Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

和田義盛のこと

2018-09-25 18:00:56 | Weblog
 旅行から帰ってから鎌倉時代に「陣屋」の地に別邸を構えた和田義盛のことについて調べた。彼は平安時代末期から鎌倉時代前期に活躍した三浦半島を拠点とした三浦一族の人である。源氏の棟梁 源頼朝が挙兵し鎌倉に武家政権をつくると初代侍所別当に任ぜられている。侍所別当とは、御家人(武士)を束ねる長官で武門の最高職である。そんな地位になった義盛であるが、頼朝が挙兵し最初の戦い「石橋山の戦い」では、平家方の大庭景親に撃退されている。この時、和田義盛勢は酒匂川の増水で間に合わず三浦に引き返す途中平家方の畠山重忠の軍に遭遇し海路安房に逃げる。この地で源頼朝を迎えている。

 安房に集結した頼朝方の残党は、再挙を図り、各地の武士に参陣を呼び掛けている。和田義盛は、上総広常の使者として参陣を願うが良い返事が貰えないでいた。しかし、頼朝は安房を発し隅田川に達したところに広常が2万騎の大軍を率いて参陣した。これは頼朝の器量しだいでは打ち取るつもりであったと云う。しかし、頼朝の威厳に打たれ心服する。その後も義盛と闘った畠山重忠の軍も参陣し、数万騎の大軍となり源氏の本拠鎌倉に入った。1180年10月駿河国「富士川の戦い」で平維盛率いる平家方を撃破する。鎌倉に戻った頼朝の入御の儀式では、重盛は居並ぶ御家人の最前に立った。

 その後義盛は、罪人の処断や平家と対峙する遠江国への派遣などしているが、木曽義仲や一の谷の戦の軍中ではその名が見えない。1184年8月、頼朝の弟の範頼が平家追討のため鎌倉を発向するが、義盛は、範頼の軍奉行として従軍している。山陽道を進軍し九州へ渡り、平家の退路を遮断する戦略であった。3月25日源平最後の決戦地壇ノ浦の戦いでは、範頼の軍は陸路に布陣し、海戦を行う義経の軍を支援した。義盛もを船に乗って散々に戦ったと云う。合戦は源氏の勝利し平家は滅亡する。この後、大功のあった義経と頼朝が対立するが、義経の軍奉行であった梶原景利が讒言したのも一因であった。義経は、源頼朝に鎌倉に入ることを願うが許されず、京で挙兵するも失敗、奥州藤原氏のもとに逃げる。その後の義経の末路は、よく承知のとおりであるがその戦いに義盛も参戦し軍功を上げている。

 1190年の源頼朝上洛に際して義盛は先陣を賜っている。この時も朝廷より左衛門尉に任じられる。頼朝が1199年正月に死去し源頼家が2代将軍になると義盛は宿老として13人の合議制に列する。その年の10月梶原景時が結城朝光を讒言する事件があり、これを知った御家人たちが激怒し、諸将66人の連署で梶原景時弾劾状を大江広元にへ提出、頼家が知るところとなり景時は失脚、京に向かう景時一族が静岡清見寺関で吉川氏に討伐され滅んでいる。その後北条氏と頼家の愛妾の実家である比企氏との抗争が発生、比企氏は滅亡する。頼家も修繕寺にて殺害され弟の実朝が3代将軍になり、北条時政は、初代執権に就任する。そして1205年には「畠山重忠の乱」「牧氏事件」などがあり北条時政から代わって北条義時が2代執権となる。1209年義盛は上総の国司の職を望むが断られている。1213年、北条氏を打倒しようとする陰謀が露見し、義盛の子や甥の胤長が関与していることが明らかになり処罰を受け家屋敷も奪われる。重ね重ねの義時の挑発に対して、義盛は反北条派を誘い挙兵を決意する。しかしこの謀反を義時に通報され、鎌倉由比ガ浜で討ち取られる。享年67歳であった。

 (追記) 和田義盛は、弓の名手であり、武勇において御家人の尊敬を受けた人物であった。しかし、侍所別当として全体を見る配慮に欠けた面があった。それ故戦時には優れた武勇を発揮しても平時には、皆を纏める力がなかったものと思う。単純・愚直な義盛は権謀術数に長けた梶原景時や北条義時に利用され、挑発に乗ってしまった結果最後は和田一族が亡びる結果となってしまった。                                                                                                                    

鶴巻温泉に泊まる(2)

2018-09-21 23:07:52 | Weblog
 あさ6時には目を覚まし、そのまま外に出て林の中に点在する部屋や庭を散策した。部屋は桐壺、若紫と云った源氏物語に出てくるような人物の名が付けられていた。また明治天皇謁見の間「松風の間」は、旧大名の黒田藩が威信をかけてつくった部屋で明治から昭和にかけて活躍した日本画壇の巨匠、川合玉堂の晩年の屏風が置かれ、「月」に見立てた灯りや「雲」に見立てたに欄間の透かしなどモダンなデザインが施されていた。境内の林は自然のままで春の桜、夏のホタル、秋の紅葉など見ごろの時期は格別だと聞いた。

 朝食時、仲居さんから聞いたが、ここに着いたとき迎えてくれた人が陣太鼓を鳴らしてくれたことを説明した。それは昭和将棋史に残る「陣屋事件」と云うことがあった。これは昭和27年に木村義雄名人と升田幸三八段が、この陣屋で対局することになった。しかし、升田八段は現れなかった。それは彼が玄関から呼んだが誰も出てこなかったことから憤慨して帰ってしまったのだ。これが「陣屋事件」と云われるもので、これ以降陣太鼓を設置しお客さんが見えた時は太鼓を叩いて迎えるようになったと云う。そんなことがあったのかと思ったが、升田八段の気風がそのまま出たように思った。また、館内には代々の当主が収集してきた古美術品が展示してあり、毛利輝元や宮本武蔵にゆかりのある武具をはじめ、武田信玄伝来の鎖帷子や、上杉謙信の十字の槍など鎌倉時代や戦国時代の貴重な品々が飾れれていた。

 午前10時にチェックアウトし、大磯の旧吉田茂邸を見学することにした。ここは戦後の日本の舵取りを担った吉田茂が昭和20年から本邸として晩年まで過ごしたところである。平成21年に火災で焼失したが今は復元したものである。以前御殿場 東山の岸信介の晩年を過ごした邸宅を見学したが、それに比べ質素な感じを受けた。何枚かの写真が飾られていたが、小さな身体であるが、いつも笑みを浮かべている姿は印象的であった。戦後すべて焼け野原となった所から立ち上がり前を進もうとしているとき彼の笑顔は勇気を与えたのでないか。この考えは、岸信介、池田隼人、佐藤栄作などに引き継がれ、今の日本があることを思った。

 そこを出て、川崎の妹が嫁いだ実家の菩提寺に行った。二宮にあり何故このようなところにあるのか聞いたが、旦那の両親は御殿場で育ったことから川崎との中間にある二宮に墓地を設けたと云った。その場所は海岸から1kmほど北に向かった山の麓にあった。生花と線香を購入しみんなでお墓を清掃してから手をあわせた。ここで川崎の妹と別れ小田原から箱根を超えて三島に出た。この頃になると雲間から日が差すようになっていた。弟のところで車を降り、私の車に乗換え瀬名の妹と一緒静岡に帰ってきた。雨に降られた一泊2日のきょうだい会であったが思い出に残る旅であった。
 

鶴巻温泉に泊まる(1)

2018-09-20 23:44:21 | Weblog
 鶴巻温泉は、神奈川県秦野市にある温泉で大きな施設は見当たらないが首都圏に一番近い温泉地である。今回のきょうだい会は鶴巻温泉の「元湯 陣屋」で行うことにした。13年前私が退職したとき母ときょうだいを招待したのが初めであった。それから年に3~4回は一緒に一泊2日の温泉回りをしてきたが3年前に母と末弟が一か月ほどの間隔を置いて他界した。このまま終わるかと思ったが母の口癖である「いつまでもきょうだい仲良くするように」であった。そのことを守ってそれ以降も4人のきょうだい達は、近隣の温泉地を回って親睦を深めてきた。
 
 今回「元湯 陣屋」を選んだのは。1年ほど前であったか?NHKのテレビが「元湯 陣屋」を特集した。それは ≪由緒ある旅館 「元湯 陣屋」は、源頼朝の家臣であった和田義盛の別邸でその後江戸時代大名の本陣として使われたところである。明治維新後、三井財閥がここを買い取り旅館 「元湯 陣屋」としたのが始まりとのことであった。昭和に入ってからも皇室の方々をお迎えしたり将棋や囲碁のタイトル戦の舞台となっていた。そんな「湯本 陣屋」も一時衰退しかけたことがあったが、女将達が改革に取り組み新しく現在にマッチした経営形態を導入し回復を見せた≫・・・こんな内容であった。

 三島の弟の家に集まったきょうだい達は、弟の車に便乗し、鶴巻温泉を向かった。秋雨前線の影響で一日雨が降り続いていたが、あまり気にならなかった。みんな「元湯 陣屋」でゆっくり寛ぐことや、小雨の中でも広い庭園を散策するのが楽しみであった。午後3時ごろ着いたが、すぐ蛇の目の笠を持った人が迎えてくれ陣太鼓を2~3回打った。そこから70mほどの緩い石段を上ったところに玄関があった。ここは丹沢山系のなだらかな斜面に広がった約1万坪の庭園の中にあり豊富な湯量と清い水流は気持ちを癒してくれた。しかし、丁度大浴場は改装中であり入ることが出来なかったが小道を登ったところに木立に囲まれて露天風呂があり先ずここに入った。雨の降る中の露天風呂もなかなか良いものである。それから夕食までは、きょうだいで雑談したが身内の話は他人に言われたら寛ぐ気分が悪くなることも素直に受け止めることが出来たし時間の過ぎるのも忘れて話し込んだ。

 夕食は、別棟の源氏館と云う所で食べた。この館の前に池が広がっていてライトアップされた木々は雨に濡れ幻想的雰囲気であった。その池のほとりに「トトロの木」と云う楠の大木があった。ここの女将は宮崎と云い、アニメ作家宮崎 駿の親戚筋に当たると云った。このトトロの木が宮崎駿のアニメーション「となりのトトロ」に何らかの関係があるのかと聞いたが子供の頃よく遊びに来たと云ったがそれ以上ははっきりしなかった。部屋の返ってからも雑談は続き夜中の2時をまわっていた。木々に当たる雨音だけが聞こえていた。


 

敬老会での余興

2018-09-17 22:52:15 | Weblog
 9月17日(月)の敬老の日、我が町内の自治会館でも敬老祝賀会が行われた。今回の祝賀会への参加は80歳以上の人が対象であった。5年ほど前は確か75歳以上であったので、年々高齢者が増えることから今年は80歳以上となったと聞いた。それでも対象者が136名と今までで一番多かった。その内参加者は80名で、女性が2/3ほどを占めていて女性の多さを感じた。なお米寿以上の方は5名いて元気な姿を見せていた。

 町内役員から余興で何かやってほしいと頼まれていたのは8月に入ったころであった。この敬老祝賀会には5年ほど前から出させていただいている。最初の頃はマジックを披露していたが、3年ほど行ったところで種もつきそうであったので、昨年は袴を付けて「詩吟と民謡」をうたった。今年も言われたとき、昨年と同じとも言えず「謡曲と詩吟それに民謡」を行うことを話した。と云っても謡曲を謡うのは初めてのことで不安であった。ただ、父は晩年謡曲を習っていて、それを聞いていたので、私でもできるのでないかと感じた。しかし、実際に声を出してみるとそんなやさしいものではなかった。そして演目は謡曲「鶴亀」とした。また詩吟は昨年と同じ「川中島」、民謡は新しく「武田節」を行うことにした。約1ヶ月は毎日30分程は練習するようにしてきた。最初は声が出なかったが、その内に謡うことのこつが分かったように感じた。能の中で謡う謡曲は、座って行うが、今回は立って行うため扇子を持って仕舞もすることにした。これは完全な我流であったが、すり足と扇子の使い方は鏡を見ながら習った。

 今回余興を行うのは、日本舞踊のAさん、太極拳のBさん、電子ピアノを弾き歌うCさんと私であった。私は半紙に歌詞を書きそれをホワイトボードに張り付け、生の声で謡い踊った。最初は謡曲「鶴亀」の声を出した時、練習の時と違い上ずった声になっていたが、思い切り大きな声で謡い、我流で仕舞を行った。練習の時とは違った仕舞になってしまったが踊り切った。その後の「川中島」「黒田節」をうたったがわりと落ち着いて出来たように思った。終わって頭を下げたとき皆さんからの大きな拍手を感じた。これは、余り見たこともない謡曲を謡い舞ったことへの珍しさもあってのものであると思った。

 着替えをして、宴席に着いたとき、数人の人が来て酒を注いでくれた。上手く演じたと云うより私のようなものが謡曲を謡い踊ったことに驚いたと云うのが本音のようであった。謡曲は始めてのことであったが、こうしたところで演じさせてもらったことを感謝している。そして私以外の3人の演者もいろいろ工夫して演じてくれたことから、その後の宴席も盛り上がり予定時間を30分ほど延長し幕となった。経験のないことを行い、少し苦労したが皆さんが喜んでくれたことはありがたかった。
 

日本女性が全米オープンテニスを制す

2018-09-11 22:24:59 | Weblog
 9月8日全米オープンテニスを制した大阪なおみ選手に日本中を明るい気持ちにさせてくれた。彼女の母は北海道で生まれ裕福な家庭に育った。父は、ハイチ出身のアメリカ人で札幌で英語の教師していた時に母と知り合い結婚した。この結婚に母の身内はあまり賛成しなかったようで、すぐ家族は北海道を離れ大阪に移った。ここで彼女は生まれたが、日本社会はまだハーフに対する偏見があり苦労したと思う。その彼女も3歳のとき両親と共にアメリカに移った。
 
 父親は、テニスの選手ではなかったが、子供達にテニスを教え彼女等はめきめきと上達した。大阪まゆみが、テニスで頭角を現すようになったのは15~6才の頃であったと云う。その頃の彼女はメンタル面で弱く、弱音を吐いたり感情をストレートに出す少女であったようだ。しかし、体力も付き、球のスピードは200kmを超えるようになっていた。そして全米オープンで絶対女王と云われたセリーナ・ウイリアムズ選手を2-0で下し優勝した。

 この優勝に日本中が興奮した。しかし、この決勝は、相手のセリーナ選手のジャッジを巡って荒れた内容になった。観客はセリーナに見方してブーイングが大音響となりラリーの音もかき消されるほどであった。大阪まゆみには何の落ち度もなく、その重苦しい中でも冷静に試合を進め勝利した。表彰式でもブーイングは収まらなかった。この空気を変えたのは、セリーナ選手のスピーチであった。「なおみは素晴らしいプレーをした。彼女の功績を認め、今をベストの瞬間にしましょう。なおみおめでとう。もうブーイングはやめて!」とファンに呼び掛けた。試合中のジャッジに強く反発したセリーナであったが、それを引きずらないで優勝者を暖かく接し褒めた態度は立派であった。それにも増して感動したのは大阪まゆみの質問に対するスピーチだ。セリーナ選手と対戦した時の気持ちを聞かれ彼女は「質問への答えではないことを話します。ごめんなさい」と前置きし「皆さんがセリーナを応援していたことは知っています。こんな終わり方になってごめんなさい。ただ伝えたいのは、試合を見てくれた皆さんありがとう」と感謝の言葉だった。これで今までのブーイングは全てやみ、観客席から大拍手となった。それ以降の米国メデュアは大阪選手を称賛するニュースに変わった。

 彼女は、どちらかと云えば謙虚で控えめな女性である。古風な日本女性が美徳とにする心を持っていた。ここには母親の育て方や躾があったと思った。その後も続く彼女へのインタビューなどから素直さや誠実さが伝わってきた。彼女へから「言葉の力」を感じた。誰もが雄弁に話そうとするが、そこに装飾や誇大表現はいらない。彼女のスピーチには、雄弁も装飾もない。有るのは素直さと謙虚さとウイットであった。これが画面から伝わってきた。「言葉の力」の大切さを学んだ思いがした。

防災訓練から考える

2018-09-09 19:38:01 | Weblog
 9月は防災月間である。各所でいろいろの防災に関する行事が続いているが、我が町内でも9月9日、数名の消防士と消防車、起震車が来てくれ町内の公園で防災訓練が行われた。住民の防災意識も強くなり約250人の老若男女がヘルメットなど被り集まった。今までに行った防災訓練で一番たくさん集まったように思った。訓練は、起震車で震度7の体験やAED装置による人命救助、消火訓練、緊急時の消防士体験などであった。約3時間の訓練は忘れがちになる災害の備えを考えさせてくれる良い機会になった。

 振り返って見ると、最近は大きな災害に見舞われている。7月6~8日にかけては西日本を襲った「西日本豪雨災害」は300人以上の人の命を奪われたし、9月4日に日本に上陸した台風21号は巨大台風となって関西地区に大きな被害をもたらした。その直後の9月6日未明には「北海道胆振地区地震」は震度7の直下型地震で北海道全域が停電し、土砂崩壊によって40名近くの人が土砂に埋もれ亡くなる被害が発生した。また、昨年は熊本地震で大きな被害があったように近年の日本は、気象、地殻変動が激しくなり災害が起こりやすい状況になっている。日本列島は地理的に台風、地震、火山と云った災害に見舞われやすいところにあり、太古の時代からこの被害と共存しながら生きてきた。因って災害に対する危機意識は世界のどこよりも強く持って生きてきた民族であると思う。

 こうしたことから、日本人は、気象、地殻変動などに対する技術を持っているし、その研究も進んでいる。人工衛星、GPSの発達、深海探査等使って、地殻変動のメカニズムを探知し、その地殻活動の時期等早期に把握する技術も進んでいる。しかし、この事象は、目で確認できないところで発生し、その予知には、時間的タイムラグが伴うことや、正確に把握するまでには至っていない。現状では人的被害をより少なくすることは出来ても0にするにはまだ多くの時間が必要である。それ故私たちは、備えあれば憂いなしの例えのごとく、防災意識を持って忘れずに生きていくしか方法はない。

 今回の訓練を通して、この地区の地盤のことも考えた。近くに登呂遺跡があるように昔から人間が生活するには良い環境のところである。しかし、太古の昔は安倍川の三角州が広がり平野を作ったところであり、そのには、河床の砂礫が堆積したところもあるが、河が淀んでできた砂交じりの泥も混在したところもある。我が町内も防災マップからは、軟弱地盤の上に住宅地が広がっている。その上地下水位は地表から1mほど下がった所にある。このことは、大きな地震が来た場合は、地盤が液状化起こりやすい。今は静かで平穏なこの地も、大地震が来たなら何の処置も出来ないことを感じた。地殻変動の無いことを祈るしかない。

術後の診断

2018-09-07 21:18:17 | Weblog
 昨年4月甲状腺の手術を受けた。以前に痛みとか違和感はなったが、この一年前に受けた消化器のCT検査で甲状腺に異常があることが見つかった。それは緊急を要することではなかったのか、消化器の医師から「消化器の治療が終わったら耳鼻科の検診を受けるように」と云われた。そんなことがあり耳鼻科の検診を受け手術することになった。手術は成功し一週間ほどで退院し普通の生活に戻った。その後、1か月後、3か月後、6か月後、そして平成30年3月一年後の再検を受けた。3月に受けたとき、エコー検査で小さな異物があることを医師から言われは「9月に再検を受けてください。その時CT検査も行います」と云った。しかし、その医師は「4月に転勤しますが、後任には確り引継いでいくので心配はいれません」と云った。

 9月5日の血液検査とCT検査を受け、9月7日に医師の診断を受けることが決まった。この6ヶ月間は、何の異常はなかったが、腹ばいになって本など読むと、首が引張られるような痛みを感じたが、手術部分を触っても特に痛みはなかった。そんなこともあって9月5日のCT検査を受けたときは気になった。そして今日(9月7日)9時~9時30分までにS総合病院の耳鼻科の診断を受けた。待合室で待っている間は不安であった。そこに居る多くに患者さんは誰もが弱弱しく顔色も悪い。多分私も同様な顔をしているものと思った。30分ほど待つと番号が呼ばれ、緊張した面持ちで医師の前の椅子に座った。
 
 新しい医師は前の医師と同じ女医であった。年齢も同じくらいの若い人で、私が名前を云うと、彼女も「新しく来た〇〇です。前任者から確り引継いでいます」と云いCT画面や血液検査の票を見ていたが「特に異常は見つかりませんし血液検査のいいですね」と云い私の首を手で抑えるように触った。そして「次回の検診は2月22日に行います」と云った。異常であることは何も言われなかったのでホッとした。そして再度6ヶ月後に検診を受けることになった。以前同じ病院に掛かった人が云ったが「術後は1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月と受け、その後は6ヶ月、一年と間隔が伸びていった」と聞いたが、6ヶ月の検診を2回受け、また6か月後に受けることになったのは何故なのかと疑問は持ったが先ずは良かった。

 料金を払うため、正面玄関の待合室に椅子に座った。ここにもたくさんの人で溢れていたが、その大部分は老人であった。車いすの人や杖をついた人、子供さんに連れられた人など様々であったが、皆さん無口で、面前に掲げられた番号の付いたボードを見ていた。そのボードの番号が替わるたびに席を立って支払機のところに行った。日本のシステム化された医療と保険制度を思った。良い制度であるが今後も高齢化が進む中でどの様に維持していくのかと。

台風21号で考える

2018-09-04 20:13:43 | Weblog
 最近の気象は、今までの経験では測れない異常気象が続いている。夏の日に40度を超すような気温、北極圏での氷山の凍解、アイスランド島脇での巨大流氷の崩落など、20年ほど前までは余り問題にならなかった。また、最近は、時雨量100mmとか120mmと云った以前は考えられないような大雨が降るようになった。私も鉄道防災の仕事が長かったので知っているが、降雨による防災工事は時雨量50mmで一日の総雨量500mmに耐えうる構造物を作るのが基準であった。だからその範疇に納めるのが設計条件であった。台風の大型化も顕著になり、年間の発生件数も増加しているように思う。

 この気象変化は、地球温暖化によるものであるが、その原因は、人間が生産活動などで排出するCO²であることは紛れのない事実である。多くの学者はこの状況が続くと破滅的状況になると警鐘を鳴らしとているが、このコンセンサスに向かって世界が協同歩調をとる大勢にはなっていない。そこには各国の認知度や経済格差・技術格差がネックになっているようだ。先行きの短い老人がこのようなことを云うのもおかしいが、地球が破滅への階段を速度を早め進んでいるように思えてならない。
 
 前段はそのくらいにして、9月4日(火)徳島県の東端をかすめ関西地区から石川県に抜け北上し北海道に再度上陸した大型台風21号も異常気象によるものと思う。その中心気圧は915hpaと云う大型台風となった。日本に近づくにつれ気圧は上がり確か950hpa程で通過したが、最大瞬間風速は60m以上になり、それに高潮と重なり沿岸部では大きな被害を出した。また大阪湾沖に作られた新関西航空路(関空)では、滑走路の一部が浸水し、また沖合に停泊していた航空燃料用のタンカーまでも、関空と本土とを繋ぐ道路橋に接触し道路橋の橋桁を破壊交通網を遮断することまで起きた。これらは人間の英知が過去のデーターを反映し作った関空とそれを繋ぐ道路、鉄道も甚大な被害を受けている。これも想定外の巨大台風がもたらしたと云うかもしれないが、これは人災であると思う。 地球を考え環境を守り、その上で技術改革や経済活動を行っていく視点を持っていたならこうした大災害には遭わなかったのでないか。今回の台風被害は、地球温暖化によって温められた海水温度が、水蒸気となって膨大な雲を発生させ、それが地球の自転によって左巻きの渦を作り日本に近づいたものである。この水蒸気を発生させた海水温は地球の温暖化であり、その原因が人間が作り出したCO²であることを考えると何とも悲しい。こうしたことを繰り返さない強いリーダーシップを持った人が現われることを期待している。話は戻すが、台風に備え庭の木々の倒壊防止や、植木鉢の避難など事前に行ったため大きな被害はなかったが、たくさんの枝が折れて散乱した程度であった。

舞扇子が届く

2018-09-01 22:53:04 | Weblog
 9月17日の敬老の日は 町内の公民館で敬老祝賀会が催され私も出席する。その時に何か余興をやるよう主催者側から言われた。考えたすえ詩吟「川中島」と謡曲「鶴亀」を行うことを伝えた。しかし、詩吟も謡曲も習ったことはなく、ただ願望だけはあった。そんな素人が何故そのようなことをしようと思ったのか聞かれたら困るが、一言でいうと、詩吟も謡曲も腹から声を出すもので、以前行なった唱歌や民謡と同じと考えた。これは習っている人が聞いたら叱られそうであるがその程度の考えである。そして日本の雅楽に根源があると思われる詩吟、謡曲を行うことにした。  とは言え、人前で行う以上、恥ずかしくないものにしようと8月に入ってからCDを聞いたり、リゴーダーに収録し聴いたりしてきた。今は聴くことに専念しているが、9月に入ったら実際声に出して吟じたり謡って見ようと思う。袴、白足袋は父が残してくれたものを着ようと思う。なお詩吟と謡曲は、声を発するだけで舞うことはないが、特に謡曲「鶴亀」は地謡の「庭の砂は金銀の玉を連ねて敷妙の・・・・・・・」の部分を謡うので本来座って行うもので舞うことはない。しかし、公民館では立って謡うので、仕舞をしながら歌うことを考えている。ただし舞は自己流で行う。しかし、父が残した舞扇子の紙がほつれるて使用できない。そこで、ネットで舞扇子を購入することにした。  そこで京都の扇子店に電話すると、日本舞踊で使うものと能楽で使うものは違い、能楽でも謡曲の出し物によっても違うことが分かった。専門的なことは分からないが、敬老会の余興で使うことを云うと「見栄えがする金色を散りばめた「幻想」と云う品名の舞扇子を薦められた。今日それが届き開けてみた。この色彩から、謡曲「鶴亀」に向いていて良いと思った。これから使い方、舞い方を考えていくことにする。その前にYOU TUBEで仕舞の基本を学ぶことにした。先ず扇子は右手に持って手前に広げること。姿勢は胸を張って目線を水平に保ち、腰を少し前かがみに保ち、まっすぐ立って踊るのが基本のようだ。足はすり足で立ち、進むときは踵をㇵの字型にして進み、回るときは右足を軸に左足の親指を右足の指先に付けて回転するようにする。そして、舞扇子は、概ね右手で腕を外にして持ち、曲に合わせて動かす、その時も大きく舞うように扇を動かす。これが基本のようだ。自己流で行うため単純な動きにしようと思う。  敬老会まで2週間ほどあり、これから毎日時間を決め、謡や、舞を練習することにする。なお、今回の詩吟「川中島」と謡曲「鶴亀」では5分ほどで終わる。主催者側から「10分ほどで纏めてほしい」と云われているので、状況によっては、詩吟と謡曲のほか昨年行う予定で行わなかった民謡「黒田節」を舞扇子を持って歌おうとも思っている。