Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

能楽公演

2019-09-08 20:13:15 | Weblog

 9月7日(土)グランシップ劇場で「能楽入門公演」が上演された。これは、伝統芸能の「能楽」にスポットを当て、多くの人達に、能楽を親しんでもらうため開かれた公演であった。私自身3年ほど前から「能楽」に興味を持ち、。今までに数回鑑賞する機会があったが未だ分からないことが多く見るたびに新しい発見がある。この入門公演は、能楽の基本の「謡」の体験や「仕舞」の立ち振る舞い、そして現在に至る歴史など分かりやすく解説してくれた。

 会場には、800人近い人が見えていたが、概ね50代から70代ぐらいの人で占められていたが、若い中高校生らしき人も10%ほどが見えていて、「能楽」が若い世代に浸透していることを感じた。今は学校教育でも「能楽」を扱う学校もあるようで、私達が育った頃とは違って古典芸能に親しもチャンスが多いようだ。また、後で分かったが、数10年前から、静岡でも一流の能楽師が来て能楽教室を開いているようで、その参加者の10代から20代の4人の学生が舞台で能楽を披露してくれたが、堂々とした立ち振る舞いであった。

 その後、能楽師による「謡曲」の発声を、観客に教えてくれた。それは「大典」と云う謡で、これは新しい時代を祝う歌で、新元号の 令和元年10月22日は天皇即位の礼では、この「大典」が謡われることになっている。この謡曲は、大正天皇即位の時、作られたと聞いたが、昭和天皇から平成天皇に代わったときは、前天皇が崩御され新天皇が即位するまでの間が短く、「大典」で祝うことも出来なかったため、約100年ぶりに披露する謡曲であるとのことであった。この曲は、「君が代」を題材にしているものの令和時代が、国土豊かにして、世界に国から慕われる国になることを宣言するような曲であった。能楽は、能、狂言、式三番で構成され、式三番は、「翁」「神歌」など行うもので、今回上演された「一人翁」もその一つであるようだ。これも古より、御代を寿ぎ平和と皆様方の幸せを祈り奉納する祝典の舞で神聖な雰囲気の中で舞が踊られた。

 最後に、これからの能楽界を担う若い観世三郎夫さん(1999年生まれの観世流シテ方能楽師)が半能(高砂)を舞った。これも代表的な能の祝言曲で、広く親しまれ、長寿や夫婦円満などを願いを込められたもので、若い観世三郎夫の舞は、踊に切れがあり流れるような動きに観客は魅せられた。この謡曲は、9月16日町内の敬老会で、私が謡うことにしていて参考にしようと思ったが、余りのレベルの違いから、ただ聴くのみであった。今までは洋楽の舞台でも圧倒されてきたが、能楽の舞台もそれに劣らない迫力あるものを感じた。


Food Festivals 2019 in 静岡

2019-09-01 22:17:13 | Weblog
 8月は、暑さからか、無気力で鈍った生活が続いていたが、9月に入り改めようと考えた。今日は、9月1日(日)これからは、建設的日を過ごそうと思っていた矢先、朝9時ごろ近所の友人から電話があった。「今日葵区若葉シンボルロードでイベントがある。午前10時に2丁目のバス停からバスで行くので来てください」と云った。イベントが何か聞くと、「””Food Soniic 2019 in 静岡””と云い全国から集まった美味い食事を販売する」と云った。余り乗り気でなかったが、いつも世話になっている人であり、誘ってくれたのでイベントに行くことにした。
 
 バス停に集まったのは3人で、私より3歳ほど先輩の男性である。バスに乗り市役所前で降りるとす、すぐ会場の青葉シンボルドーロに出た。気温は34度ほどで、店舗のテントを挟んだ青葉通りには、人の波でごった返していた。概ね若い子供ずれの夫妻か、若いカップルの姿ばかりで、私達のような老人グループ(80代)は、場違いな感じがしたが、知っている人もいないので、この人の波の中を、300mほど並ぶテントを覘きながら歩いた。11軒ほどの店舗は、概ね関西から来ているようで周りに良い匂いをただよらせていた。何か食べようかとしたが、テント内の椅子は全て埋まっていて空く気配はない。それでも何とか座る場所を見つけ、そこから一番近い店舗(菜美ら)の前に並んだ。この店は唐辛子の辛さが効いたスペアリブが売っていた。それを3人前頼み、クリーミーな泡が特徴なプレミアム・モルツを呑むことにした。
 
 スペアリブを肴にモルツを呑んだが、グラス一杯(400cc)であったがほろ酔い気分になった。少し疲れも出てきたので、近くの呉服町通りにある喫茶店に入った。この店も混んでいたが、入り口付近で空いたテーブルに腰かけ3人でコーヒーを飲み疲れを癒した。店から眺める呉服町通りは日曜日とあって賑やかであった。30分ほど休んでから、外に出て静岡駅まで歩いた。街並みがモダンに変わってきたように感じた。
 
 途中から地下道に入って駅に向かったが、駅に近づくと、ピアノ弾く音が聞こえてきた。この地下広場にピアノが設置され誰でも弾けるようになっていて、丁度20代ぐらいの若い男性が弾いていた。確かショパンの曲であったが、弾きなれた感じの人であった。その音に合わせ、口ずさむと若い男性が私に歌うよう促した。躊躇したが「荒城の月」をピアノ伴奏で歌った。30人ぐらいの人が集まっていて拍手をしてくれた。その若い人は、いま大学生で、音楽の先生を目指していると話してくれた。

帝釈寺大祭に出席

2019-08-25 16:05:45 | Weblog
 帝釈寺は我が家の菩提寺で曹洞宗の寺である。徒歩15分ほどの所にあり父が健在であった平成2~3年頃墓地は購入した。その後両親は他界し今そこに眠っていることから、お寺の行事には極力出席するようにしている。彼岸会、施餓鬼会、盆供養、8月24日の大祭などは出かけて説法を聴くようになったが、お経や説法は、最初の頃は、理解できず苦痛に感ずることもあった。しかし、今はおぼろげながら仏教のことが分かるようになったような気がする。だが、これらは檀家として最小限の知識であり、深くは分かっていない。それでも、毎朝の仏壇への拝礼や、週1回ほどの墓参りは欠かさないようにしている。

 8月24日、帝釈寺の大祭に出席することから、事前に、この寺のことを調べた。帝釈寺略縁起によると、開創は寛正2年(西暦1461年)で、京都六波羅密寺、空也上人の門徒 釈量法師が、諸国念仏、歓心のため当地に来儀し衆人の疾苦を憐み、帝釈尊天と護国四天王のご尊像を彫刻祈念した。当時疫病が蔓延し衆人が苦痛悩乱していたことから、立処に霊剣を供え平癒したとあった。因って報恩感謝のため、お堂を建立した。永禄3年(西暦1560年)、大正寺四代長江宗慶和尚を開山として迎え、以降、疾病、雷電の被災なく、特に夏病しない本尊様として信仰を集めた。このことから、真夏の8月24日を縁日として大祭を開くようになった。本尊は帝釈天は、須弥山三十三天部主神であり、仏法の守護、財宝の神として祭られ、家門隆昌・商売繁盛の武神である。それ故毎年8月24日は縁日として花火、演芸奉納し祭典法要が営まれている。また「三十三年に一度」のご開帳を厳修し現在に至っている。

 本堂で行われた法要は17時から始まったが、15名ほどの僧侶が読経するのは圧巻である。玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典は657部で膨大なものであった。その内、16部600巻(480万字)を翻訳し経典にしたのが「大般若経」であると聞いたが、それを15人の僧が空読する様は、聞き応えがあった。この「大般若経」を凝縮(262字)したものが「般若心経」であると云う。集まった檀家衆は200人程であったが、お子さんを連れた家族も何人かいたが概ね常連の檀家が占めていた。その後祈祷して頂いたお札をもらい外に出た。境内には仮設の舞台が整い、近隣から集まった人達が演芸の始まるのを待っていた。屋台も出て賑やかな空間があった。

 私は、その後墓参りを済ませ、境内に広がる芝生に座って演芸の始まるのを待った。案内のパンフレットに、県立大学の生徒が、ア・カペラを歌うようなっていたのでそれを見て帰ろうと思った。しかし、どうも、時間が経ってもア・カペラは始まらなかった。どうも変更になったようで、学生のチアーガールの踊りに変わっていたようであった。それを見てから家に帰った。
 

オペラ「ミカド」を観る

2019-08-18 16:33:09 | Weblog
 コミックオペラ(ミカド)が8月17日(土)静岡AOIで上演された。オペラは、西欧で始まり根付いた音楽で、それはイタリアやドイツで開花したものと思った。当時大国のイギリスで何故オペラが繁栄しなかったのか考えたとき、シェクスピアに代表させるような観劇が盛んで、その文化がオペラより上回っていたのでないかと自分なりに考えた。しかし、そうではなさそうである。イギリス独特の音楽、コミックオペラ(英国式オペレッタ)が、大衆演芸として浸透していたからなのかもしれない。日本を題材にしたコミックオペラ「ミカド」は、イギリスのW・S・ギルバートの作品をA・サリヴァンが作曲したもので当時ヒットしたコミックオペラで、歌劇史上2番目(672回)のロングランを記録した作品であったと云う。

 今回聴くまでは、そのような知識はなく、イギリスで作られたコミックオペラとは、どのようなものなのかと云う好奇心もあり足を運んだ。出演者は、静岡を中心にオペラの普及に努めている「オペラ・デュ・ファミーユ」と云うグループで、プロとアマの混声チームのようであったが、オーケストラも備えた歌劇団であった。7年ほど前にも、地区の生涯学習センターで上演したのを聴いたことがあったが、発足して10年近く活動していて、地域に浸透していることを感じていた。

 オペラ「ミカド」は、1860年代から1870年代にかけ、イギリスではジャポニズムブームが流行っていた。東洋の島国日本には、天皇「ミカド」がいて統治していたが、その実態は分からないことが多かった。作者はフィクションで日本をテーマにした戯曲を作った。これが「ミカド」である。その内容は、日本の街「ティティブ」を舞台に、ミカドの息子ナンキブーが、恋に落ちたヤムヤムと結ばれるまでの試行錯誤するストリーで、その中で、罪人の首切りを命ずるミカドやそれを執行する首切り役人ココの葛藤をペーソスの中にもユーモラスに描いていた。最後は、目出度し目出度しで幕になるが、イギリスに根付いたコミックオペラの神髄を見たような気がした。

 イタリア、ドイツで演じられたオペレッタには、その国の重厚さや品格が感じられたが、コミックオペラ「ミカド」には、予想もできないどんでん返しや、ドタバタ感があって見ているものにとって今までに味わったことがない新鮮さを感じた。とは言え、当時のヨーロッパは日本のことを野蛮な民族だと思っていたことを直にさらされ、当時の世界観をさ思いせらされることを感じた。

梅の天気干し

2019-08-09 16:50:26 | Weblog
 暦の上では8月8日は立秋である。しかし、今週は猛暑に見舞われ、日中は部屋でクーラーを付けじっと動かないで過ごしているしかない状態だ。外気の温度は34℃~35℃にも上がっているので、朝に水やりした野菜も葉が茶色に変わってきている。とは言えこの程度の温度は、今まで経験してきたことであるが、年を重なるにつれ身体的ダメージは大きくなっている。しかし、この晴天の日が続いたとき、やるべきことがある。これは、春に梅の実を10kgほど収穫した。この量は、今までで最も多かった。この梅は、南高梅で、大きいのはφ40mmほどの実が付いた。毎年、妻は梅干を作っていたが、しょっぱい梅であった。市販にある塩分を抑えた梅干しを作れないかと、今年は、半分ほどの梅を、私が担当、作り方を参考書から学び減塩梅干を作ることにした。

 最初の梅干し作りの初期段階は、このBlogで記したが、これからは天気干してから以降のことを記す。いままでの過程で2つの方法で減塩梅干しを作ることにした。一つは、梅に砂糖と酢と塩を組み合わせ、ガラス瓶に詰め冷蔵庫で保存してある。二つは、梅と塩、それにホワイトリカーを加え、ガラス瓶がなかったので、ビニールの袋に密閉して詰め、これも冷蔵庫に入れた。2個所に入れた梅は、エキスが染み出て、その中に萎れた梅の実が入っている状態になっている。8月5日から晴天が続いたので、梅の実を天気干しにすることにした。これを網の付いた笊に移し、8月5日から3日間干し続けた。梅エキスも別途天日に晒した。

 この3日間は、梅を何度かひっくり返し満遍なく日に当たるように並べ替えた。これは、梅干し作り方の本に書いてある通りにした。それでも梅は、多少萎れが増したようであったが、柔らかさは保っていた。これを、梅エキスと共に2つのガラス瓶に移した。そして、一つの瓶の方には、少ないが200ccほどのハチミツを加えた。これは、説明書に書いてなかったが、梅を食べると、まだ思ったより、しょっぱさが強かったので入れた。二つ目の瓶には、説明書にある通り、酢を400cとハチミツ500gそれに、ホワイトリカー少々入れた。二つ目の梅は、元々砂糖などは入れてなかったので、ハチミツの量を多めに入れた。この2つの瓶を、納戸の暗いところに納めた。

 これからは、如何に長く熟成させるかにかかっていることから、1ヶ月ほどはそのまま置くことにした。減塩であり、カビが生えたりすることを心配であったが、まだそのような現象は現れない。そして1か月後にどのようになっているか期待もあるが、失敗のことも頭を過ぎる。それでも、梅干しづくりに挑戦したことを良かったと思っている。因みに今回使った梅の量は、1.5kgと2.0kgに分けて使ったが、この内一か所の分だけでも食卓に載ればよいと思っている。
 

音楽祭「音楽の広場」本番

2019-08-04 20:45:17 | Weblog
 8月4日グランシップで真夏の大音楽祭が開かれた。この音楽祭は、演奏者と観客で合わせて3000人が、真夏の一日をクラッシク音楽等で彩るもので、今年で第12回目を迎える。年を追うごとに充実した内容となって来ていて、静岡の夏の風物詩として定着している。私は、7年間毎年参加していて、現在は、参加することが生活のリズムであり目標となっている。約300人のオーケストラと300人以上の合唱団は概ねアマチュアの人達であり、これをリードするのが日本を代表するマエストロと、ソリスト達の演奏で、この音楽祭を引き立て格調高いものにしている。

 この音楽祭は、6月9日(日)から練習が始まり、概ね毎日曜日に練習を重ね今日の本番を迎えた。この約2ヶ月間は、この準備に当てることを第一に考え行ってきたが、未だ完成にはほど遠い状態で今日を迎えた。しかし、ゲネプロでは、300人以上の合唱の中で、思い切った表現すると、これが、みんなの声の中で同化し、調和のとれた声となっていることを感じた。合唱の内、男声は、全体の1/4程の人数で混声合唱としてのバランスの取れたハーモニーが醸し出されるか不安であり常に意識するところであったが、マエストロ等からのダメ出しもなく、概ね良かったと判断された。

 そして15時からの、本番の舞台に立った。舞台の袖には「満員御礼」の垂れ幕も出され、観客席は満席の状態であった。最初の演奏は、行進曲「威風堂々」E.エルガー作曲で、イギリス国王の戴冠式等イギリスの重要な局面で最初に演奏される曲である。この音楽祭をプロヂュースした渡壁さんは、今年は令和元年であり、日本が平和へ力強く船出していく年号となることを願って、曲目を選定したと聞いた。私達が合唱した歌劇「ナブッコ」より”行け、我が思いよ、黄金の翼に乗って”歌劇「タンホイザー」より大行進曲”歌の殿堂をたたえよう”もこうした考えから選曲したものである。この合唱曲2曲は、一番難儀した曲であったが、オーケストラの演奏に合わせほぼ暗譜で歌えたように感じたし、合唱全体が今までで一番バランスの良い合唱となったと思った。これ以外クイーンのフレディ・マーキュリーが一世を風靡したポップス曲”We Will Roch You" "We Are The Champions"を、手拍子と床を踏み鳴らしながら全身で表現して歌ったし、オーケストラの演奏やソリストのハイレベルの歌声にも感動した。改めてこの音楽祭のすばらしさを感じた。

 今回の音楽祭「音楽の広場」は、観客と演奏者が一体となり盛り上がった音楽祭になった。これにはこの12年間携わってきた広上マエストロと軽妙な堀尾司会者の力も大きいことを感じた。しかし、そこには、多くの裏方の人達の積み上げた努力もあったことを忘れることが出来ない。そして、ここに参加できたことを心から感謝している。


 

送り火を焚く

2019-07-16 20:09:32 | Weblog
 7月14日10時ごろ、棚経で我家にお坊さんが見えた。菩提寺の僧侶でなく、若い元気の良い僧侶であった。他の仏教も同じと思うが曹洞宗はお盆の時期になると各檀家を回って棚経を行うのが慣わしとなっている。菩提寺の僧が一人では回り切れないためなのか、同宗の修行僧などに頼み檀家回りをしているものと思う。この若い僧は、10分ほどの棚経を上げ、玄関脇に上げ飾ってある静岡の古刹、洞慶院鉄山の掛け軸を見ながら、個人となった鉄山和尚の話などして、足早に、タクシーに乗って出ていった。

 お盆は、先祖の霊が生前過ごしたところに帰る。それ故、この時期、仏壇の中の本尊や位牌などを出し、霊魂が過ごす精霊棚を作り、そこに移し、周りを竹で覆い、そこに、盆化、里芋の葉、茗荷の葉、柿の葉などを吊るし、霊が休まる所をつくると云われる。それ故、この時期、現世の子や孫たちが集まり、先祖の霊に元気な姿を見せ、安心してもらうのがお盆だと云う。我が家に集まったのは、妹と姪、それに私達夫婦であった。それでも、お盆で4人が集まったのは、多い方である。今までは概ね夫婦で迎えることが普通であった。私も、お盆のことが多少分るようになったのは、家に仏壇が出来てからで、それまでは、死後について考えたことがなかった。それ故子供達にも話したことはなかったので、仏教や死後のことも知らないと思う。近いうちに
話し、お盆や棚経を一緒に迎えたいものだと思った。

 静かなお盆の時期は過ぎ、今日の昼間精霊棚を片付け、位牌などを仏壇の中に移した。12日夕刻、門扉の所で、迎え火を焚いたと同じ場所で、午後6時ごろ、送り火を焚いた。雨上がりの蒸すような天気であったが、松木を焚いて見送った。丁度向かいのYさんも奥さんも送り火を焚いていた。しかし、他には送り火を焚く家はなかった。近所でも仏壇がある家は数軒知っていたが、そうした光景は見当たらなかった。多分別の火に行ったものと思ったが、私が子供の頃、お盆の時期は、父に連れられて家族で父の実家に帰った。その時は、たくさんの親戚が集まっていたことを思い出す。そこでの送り火を焚いたときの賑わいや、その光景はどの軒先でも行われていた。それと比較すると様子が変わってきていることを思った。

 昔は、忙しい時、 「盆と正月が一緒に来たようだ」と表現した。それだけ、お盆は、忙しかったしきょうだいや子供たちが集まる習慣があった。しかし、そうした風習が薄れてきたように感ずる。この考えは私だけで、地方によっては、お盆を盛大に行う所もあるのかもしれない。施餓鬼供養、七夕、お盆での棚経と仏教ではこの時期は大切な時期であり、先祖を送ると先ずは一段落する。それにしても、死後の霊を大切にする仏教で良かったと思うのは私だけなのか。
 

オペラ「タンホイザーの大行進曲」から

2019-07-10 18:17:29 | Weblog
 オペラ「タンホイザー」は上演時間が3時間以上となる大作である。ワーグナーは、幾つかのオペラを書いているが、演奏時間が長く、複雑な内容のものが多いと聞く。このオペラもドリスデンの宮廷歌劇場で初演したときは、聴衆の反応は冷淡であったと云う。しかし、彼の音楽性は素晴らしく上演のたびに、聴衆を陶酔させていったとある。素人の私が言うのも奥がましいが、同時代に活躍したイタリア人ヴェルデーの曲は分かりやすく感ずるが、ドイツ人のワグナーの曲は、何故か分かりにくいと云うのが印象である。

 今度オペラ「タンホイザー」の2幕で歌われる「大行進曲」を、8月4日グランシップで混声合唱で歌うが、今回の曲目の中で、一番難儀の曲である。それはさて置き、今回、オペラ「タンホイザー」について調べた。このオペラは、全3幕で構成されていて、序曲、第2幕のエリザベートのアリア、「大行進曲」、第3幕のヴォルフラムのアリア「夕星の歌」は、独立してよく歌われている。

 このオペラのあらすじは、《中世ドイツでは、吟遊詩人として歌う習慣が騎士たちの中でもあった。騎士のタンホイザーは、領主の親族にあたるエリザベートと清い愛で結ばれていたが、ふとしたことから官能の愛を望むようになり、愛欲の女神ヴェーヌスが棲む異界に赴き、肉欲の世界に溺れていた。あるとき夢の中で故郷を思い出し、この異界から離れることを決意する。 第1幕 異界を脱出したタンホイザーが、故郷を歩いていると領主ヘルマンや親友のヴォルフライと会い彼が帰ってきたことを喜ぶ。そこで、昔のように領主の下で働くことを勧められるが、官能の世界に溺れたことを思い拒否するが、ついに説得される。 第2幕 帰ったその日は丁度歌合戦が開かれ、騎士たちは、女性に対する奉仕愛を歌うのに対して、タンホイザーはヴェーヌスを讃える歌を歌い、騎士たちは彼を諫める。領主は彼を追放処分とし、ローマに行き教皇の赦しが得られれば戻っても良いと諭す。タンホイザーはローマ巡礼に加わることにする。 第3幕 エリザベートは、タンホイザーが赦しを得て戻ってくるよう毎日マリア像に祈り続ける。丁度ローマからの巡礼の団体が戻ってくるが、その中にタンホイザーの姿はなかった。ついにエリザベートは、自らの死を持ってタンホイザーの赦しを得ようと決意する。一人残ったヴォルフラムの前に、疲れ切ったタンホイザーが現われ、ローマ教皇から「永遠に救済させない」と告げられたと言い、再度愛欲の女神ヴェーヌスの所に戻ろうとする。そこにエリザベートの葬列が現われる。我に返ったタンホイザーは、エリザベートの亡骸に寄り添い息を引き取る。そこへ、ローマ教皇からの特赦が下った知らせが入り幕となる。》

 このオペラは、我欲の快楽から抜けだそうとするが、その過程で恋人や友人達を巻き込み最後は死んでいくと云う悲劇である。すっきりしない内容であるが、私達が歌う「大行進曲」は、領主の前で歌合戦に参加する騎士や淑女たちが領主を讃え行進する歌となっている。この情景を意識して歌いたい。

オペラ「ナッブコ」から

2019-07-03 20:02:39 | Weblog
 8月4日(日)草薙のグランシップ会館で音楽の祭典「音楽の広場」が開かれる。「音楽の広場」は12年目を迎え静岡に根差したクラッシクの音楽祭として定着してきている。私は、合唱団員として参加していて、今、この練習に多くの時間を割いている。その中でもオペラ「ナブッコ」より”行け我が思いよ、黄金の翼に乗って”と「タンホイザー」より大行進曲”歌の殿堂をたたえよう”は原語で歌うことから暗譜するに苦戦している。これ以外にも原語の曲を含めて4曲ほど歌うが、フレーズも短く何とかなりそうである。この2つは、骨が折れそうであるが、まだ1ヶ月ほどあるので、頑張りたい。

 このオペラについて調べた。「ナブッコ」は、ヴェルディ(1813~1901)が作曲した3作目の作品で、初めてのミラノスカラ座で公演し大ヒットし一躍有名にさせたオペラである。このオペラの第3幕で演奏される合唱「行け、我が想い、黄金の翼に乗って」はよく聴かれる旋律で、イタリアでは良く歌われている。

 物語のあらすじは、『紀元前6世紀にエルサレムとバビロニアは敵対関係にあり、ナブッコ(バビロニア軍)がヘブライ人(エルサレム)を攻撃し、ヘブライ人は捕らわれの身となる。しかし、この囚人の中に、エルサレム王の甥(イズマエーレ)を愛するナブッコの娘(フェネーレ)がいた。フェネーレは王位継承者であるが、ナブッコと奴隷の間に出来た子(アビガイーレ)このチャンスに王位を奪おうとナブッコを騙します。アビガイーレの挑発に乗せられたナッブコは、捕らわれの人達の死刑執行状にサインをしてしまいます。正気に戻ったナブッコは、死刑執行を止めさせ、ヘブライ人たちを解放し、帰国を許します。フェネーレもナブッコの下に戻りますが、アビガイーレは毒を飲んで死ぬ》と云う内容です。

 この第3幕で捕らわれのヘブライ人がエルサレムの地を思い歌うのが”行け、我が思い、黄金の翼に乗って”です。この物語は紀元前の話ですが、ヴェルディが生きた1900年初頭、イタリアは、オーストリア支配下にあり、バビロニア軍に占領されたヘブライ人が重ね合ったものと思います。それ故、ミラノでのオペラの初演は好評を博したし、イタリアの第2の国歌となった所以であると思いました。

 

ヤマモモのジャム作り

2019-06-30 19:11:28 | Weblog
 20数年前父は、数本のヤマモモの枝を苗床で挿し木にして育てていた。その苗木は、何故か育たなかったが、父は、庭にヤマモモの木を植え実が生るのを楽しみにしていたようであった。しかし、父は、その光景を見ずに他界した。その後一年ほど経ち、駿府公園で植木市に行くと、ヤマモモの苗が店頭にあった。それを購入し庭に植えた。それから数年が経って、実を付けるようになった。その実は、熟すと大きいものは直径3cm程の大きさになった。それを食べたが、甘酸っぱくとても食用にはならなかった。しかし、これだけ大きなヤマモモの実は、珍らしく何とか食用にしたいと考えた。

 しかし、その後数年間は、熟して地面に落ちる実を見ながら、もったいないと思いながらも行動は起こさなかった。食用にしようと行動したのは、それから数年経ってからであった。それは、ヤマモモの木の下の地面にビニールシートを敷き、そこに落ちた実を拾い、そのまま食べたがそれ以上のことはしなかった。今年は、大きな実がたくさんついたことから収穫して、ジャムやシロップにしようと思った。ヤマモモの実が自然落下が始まると、10日間ほどの間に少しずつ落下し、全て落ち終わる。赤や、紫色に熟した実は大きさもまちまちであり、それが地面に落ちたら虫などが付き、傷みも早い。そこで、実が落下する地上1mほどの所に、ホームセンターで購入した不敷布を張りめぐらし落ちた実が、不敷布の中央部に集まるよう細工した。

 この作業は、6月20日に行ったが、それから毎朝、不敷布に落ちた実を、籠に入れ、大きめの実を選別する作業をしてきた。ヤマモモの実は一回に2kgほどが取れ、そこから選別した約半分程(約1kg)のヤマモモを冷蔵庫の冷凍室に入れるようにした。10日間で約10kgほどの実が冷凍室に収まった。そこで、6月29日、ジャムづくりに取り掛かった。ネットでヤマモモもジャムの作り方を検索し、グラニュー糖やレモンもそろえた、作り方を確認しながら始めたが、最初は、失敗しても良いように800gの実を使った。作り方には、幾つかの方法があったが、煮詰めて種を取った果肉に、書かれた量に砂糖を入れ、とろ火で煮詰めた。途中で確認すると酸味が強かったので、砂糖の量を2倍ほどに増やして煮詰めた。

 作業を始めてから3時間ほど経ったが、煮詰めたヤマモモは、トロミは出てこないし酸味も強かった。そこで、書いてないが、ハチミツを100gほどいれ又煮詰めたが、トロミは出てこない。その後1時間ほど煮詰めていくと少しトロミが出てきた。しかし、トロミが出ても、ジャムになるのに、どの段階で火を止めるか分からなかったが勘で止めた。最後にレモンを絞って入れ作業は終了した。翌朝、見ると、まだ水気が多く煮沸が足りなかったようであった。パンに付け食べたが、甘ったるい味はとてもジャムとして使えそうにないものになっていた。