Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

庭の風情

2008-06-30 00:26:14 | Weblog
 雨に紫陽花はあう。よく使われる言葉であるが、どうしてなのかは良く分らないでいる。
 考えてみると紫陽花は花も大きいし葉も大きい。それでいて派手な花ではない.
日陰やこぼれ日が差し込む処などで咲いていると似合う花だ。大輪の花は長い間咲き続き、薄い色から段々濃い色となる。色も青、紫、赤があるが、薄紫が一番映えると思う。赤っぽいものは、薄赤色であっても私のイメージとして合わない。それほど弱わさを感ずる花だ。そして小さな花びらが一緒になって、しっとりと咲いているのが雨に合う花といわれる所以かと思う。
 今日は梅雨前線上を低気圧が進んできており、強い雨が断続的に降り続いている。樹木はこの雨を喜んでいるようであるが、幹の細い草花は溜めた雨の重さで幹が垂れたり、花の根元で折れたりしている。
 こうしたことにならないよう、添木をして幹を縛っておいたが、添木もできないような小さな花は、地べたに花びらをつけて何とも哀れな姿をしている。
 宵待草は先端に咲いた黄色い花は、幹が伸びて高くなったが雨に負けて花びらがよれたようになっている。それに昨夜咲いた花が赤みをおびて萎んでいて姿を見ると、どうも雨には合わない花であると思う。
 グラジョラスも一斉に咲き出したが、この雨で何本かは折れた。やっと咲いて、美しさをみんなに見せようとしたのに残念であろうと思う。数本を切花として部屋に飾った。
 今年も桃が沢山実った。消毒もしなかったし、実に袋もかぶさなかった。それがこの雨で沢山落ちた。見ているときでも大きな音をたてて地面に落ちた。
既に虫に食われているので、あまり食べれるところはない。ゴミ捨てに掘った穴は桃でいっぱいになりそうである。
 ヤマモモの実も昨年ほどは付いていないが枝が垂れるほどなっている。それがこの雨で多くが落ちた。明日にでも拾って、昨年と同じようにジャムでも造ろうかと思う。
 その中でも紫陽花は、雨の重さで枝が折れそうに撓っているが、それでも花は地面につくことなく、頭をもたげて咲いている。しなやかであるが、黙って咲いている。もの言わぬ花である。

町内旅行の企画

2008-06-27 23:28:57 | Weblog
 我が町内会では毎年秋に日帰りの旅行を行なっている。その計画を私がやることになった。前回までは私に前任者であるSさんが行なっていたが、民生委員をやるようになったことから、代役としてやるように言われている。
 この旅行は町内としても大きな行事で参加者も多い。昨年は45人参加したし毎年50人前後の参加がある。
 時期は登呂祭りが10月11日~12日に行なわれるが、多くの人が運営から、神輿、踊り等参加する。その慰労も兼ねて10月下旬から11月上旬に行うのが常となっている。
 まだ時間があると思っていたが、6月6日の月例役員会で「7月の役員会では旅行のことを議題に載せて下さい」と町内会長に言われた。
 7月の役員会も7月6日にある。そのときには幹事役の何人かを選び、候補地を幾つか選定して置かなければならないのか。そんなことを一人で考えていたが、埒が開かない。そこでSさんに電話してどのようにしたらよいか尋ねると教えてくれた。その骨子は以下の通りである。
 1.旅行委員会の設置 町内役員4人 婦人部(旅行委員)1~2人 寿会1人
 2.旅行先(案)の設定3~4箇所 日の設定 募集人数の目標
 3.会費の問題(個人徴収をいくらにするか)・・・町内補助金も考慮
 4.旅行業者の選定・・・・・・2業者以上から見積もりを取る。
 5.旅行委員会で最終決定・・・7月中に会長の承認を得る。
 6.町内定例会(8月)に提案し募集にかかる。
  方法 チラシ、申込書を町内に(役員、区長、班長)回覧し募集、締め切り後旅     行委員が会費を集める。
 上記ことを教えていただき、このスケジュールを持って町内会長の処に行くと「7月の定例会では旅行委員会の設置を提案してください。それは決定したら7月10日頃第1回目の旅行委員会を行なって下さい」といわれた。
 これで旅行までのスケジュールの骨子が出来た。一安心したがいろいろ考えさせられる。町内会はボランティアといっても、地域社会が生活するための組織である。今まで築いてきた町内の運営方法とか、手法を踏襲していかなければならないことが多い。新参者の私はいろいろ教えられる。
 この町内の役員はそうしたことをよく理解した人達がやっており、丁寧に教えてくれる。ありがたいことである。私もここを終の棲家としているので、町内のために協力してやっていこうと思う。
 
 

ボランティアに生きる

2008-06-25 23:49:12 | Weblog
 JRの関連企業を辞めた時、これからは自由な時間を謳歌出来ると考えていた。しかしいざその生活に入ると、中々思うようにいかない。
 家では今まで通りに振舞えないし、家事の分担も回ってきた。肝心の先立つものも自由にはならない。
 老いた母は「毎日ぶらぶらしてないで、勤めに行きなさい」と言う言葉にはズキンとくる。その都度「この年で働いてたら若い人の仕事を取ってしまう」と返すが理解出来ないようだ。こんな立場で退職後の生活はスタートした。
 考えたことは何か社会に還元しよう、出来るなら趣味を活かした還元はないかと。趣味といえば音楽がある。中学から高校にかけ声楽家になりたいと思った時期があったがあきらめた。それは退職するまで考えの外にあったが、それを活かしたボランティア活動をしようと思った。
 そこでボランティア、NPO活動の知識を得るため「静岡市民入門塾」に通って学んだ。そこで老人介護施設、病院、幼稚園等を回ってボランティア活動することを知った。
 必要と思い、S学苑の「ピアノ教室」に2年半近く通っている。しかしまだ人前で弾ける段階ではない。
 静岡男声合唱団にも入った。この専門集団にはもっと上がいた。大勢の中で歌っているが「音程が違う」と注意される始末である。
 またS学苑の「名曲をうたう」では声楽を習っている。ここでは歌曲、オペラのアリアを独りで歌うことが出来る。合唱とは違いハーモニーを気にすることがなく大声で歌える。
 しかしボランティアでは、ア・カペラで歌うだけでは満足してもらえそうもない。そこでマジックを習った。はじめて1年半ぐらいであるが、このメンバーと一緒に施設等を回りマジックを披露している。これも1回~2回/月程度であり続けている。
 上記以外でも敬老の日とかクリスマスの時など皆さんが集まっている所に赴き、歌たりマジックもする。最初は失敗もしたが、慣れてくるとトークを交えながら歌やマジックをやって喜んでもらえるようになった。
 それにT老人介護施設では毎月1回歌っている。始めは日本の歌曲を歌っていたが、皆さんの希望を入れ、明治から昭和にかけての流行歌や軍歌も歌うようになった。
 何時も40人~50人ほどの人が見に来てくれる。先日の大雨の時でも40人近い人が来てくれ一緒に歌った。皆さんの表情が明るくなる。そうした人達から力を借りながら、健康である限りこの活動を続けていきたいと思う。

雨のボランティア

2008-06-23 19:02:46 | Weblog
 時折雷を伴う強い雨が降っている。午前9時23分には静岡地区に大雨洪水注意報が出た。土砂降りの雨である。今日は老人介護施設「登呂の家」でのボランティアに行く日であり午前中はその準備に当てた。
 準備とは、今日歌う歌を模造紙に書いておくことである。これはみんなと一緒に歌うためであると同時に、私自身歌詞を暗記している訳でないので、それを見ながら歌うようにしている。
 曲は既に38曲ほど模造紙に書いてあるが、新しい曲を5~6曲加えて歌うよう心掛けている。今回は昔流行ったポピュラーな曲も選んだ。
 その曲は「人生の並木道」「影を慕いて」「白い花が咲くころ」「知床旅情」「からたちの花」「椰子の実」「さとうきび畑」の7曲を追加した。
 「登呂の家」に着いたが今日は雨が降っているし、あまり多くの人は来られないと思っていたが、午後の2時には40人ほどがの人が来てくれた。大部分の人は前回も来てくれた人達であり、顔見知りとなって私を迎えてくれた。ありがたいことである。
 最初は新しい7曲を歌ったが、よく知っている曲であり合唱をしているような感じであった。その中でも「さとうきび畑」はあまり歌ったことがない歌であり、難しい歌である。数度CDを聞いただけであり、正確に歌える自信がなかったが何とか5番まで歌った。この原曲は11番まである長い曲で中盤以降に盛り上がりがくる曲である。これを歌えるにはとても今の段階では無理であることから5番までとした。楽譜と違った歌い方をしたようなところもあったが反応はよかった。ある男性80歳代と思われる人は「この歌を聴きたかった。千の風よりずっといい」と云ってくれた。
 そのあとみんなの意見を聞いて「荒城の月」「桜貝の歌」「琵琶湖就航の歌」「背くらべ」などを歌った。
楽器もないア・カぺラだけの歌ではあるが、最後まで聞いてくれた。そして「また来月も来てください」という言葉は、気持ちのいいものである。私からも「聞いてくれて有難う」の言葉を返した。皆さんが元気で来月も一緒に歌いに来てくれることを願っている。
 人間誰もが老いていく過程でこのような介護施設にお世話になることは普通のことである。そうした人達に喜んで頂いたことを感謝している。
 今日は一日中雨の降る天気だったが、何故か心は晴れやかである。来月17日にまた来ることになったが再会が楽しみである。

コンサートを聴く

2008-06-22 23:07:50 | Weblog
 強い雨が降る一日であった。天気予報では梅雨の長雨となりそうだ。自動車で妻の買い物に付き合ったあと、午後1時バスで静岡音楽館AOIに行った。今日はどうしても聞きたいコンサートがある。
 コンサートは「桑原京子・啓郎&コール・フェローニア」のチャリティコンサートで、中国四川大地震及び岩手・宮城地震の義援金を送るためと説明があった。
 桑原京子・啓郎夫妻は「名曲をうたう」「ベートゥベンの交響曲弟9(合唱)」等で声楽を教えていただいた先生であり、コール・フェローニアは啓郎先生が指導している女声合唱団である。
 午後2時開演のため、1時30分少し回った頃にはAOIに着いた。既に行列が出来ていて、その後ろに付いた。
 会場に入ったときは既に満席状態で少ない空席を探すのに大変な状態であった。
 見渡すと「名曲をうたう」の生徒や男声合唱団の仲間が多く来ている。一階は無理かと思い2階に行こうとしているとき「名曲をうたう」の友人が手を上げて席を取ってあることを教えてくれた。一階の後部席であったが、丁度聞きやすい席であった。
 オープニングはコール・フェローニアの女性三部合唱曲「ハローシャイニングブルー」から始まった。
桑原啓郎先生の感情込めた指揮は特徴があり、女声合唱団も美しいハーモニーを響かせていた。
 啓郎先生の軽快なトークを交えての歌は時間を忘れさせる。声楽を共にする夫婦は珍しし、舞台でも奥さんを賞賛するのは、普通は大変なような気がするが、啓郎先生の話には嫌みがなく自然に出る言葉にコンサートに厚みを増す。
 今日の京子先生もそれに乗っているのか、澄んだ伸びのある声は会場いっぱいに響き渡らせた。
 それに負けず劣らず啓郎先生の歌もよかった。中でも「荒城の月」はバリトンの声で感情豊かな表現したのが一番よかったような気がした。この歌を独唱の最初に選んだのもそれだけ自信のある曲なのではないか。
 コール・フェローニアも「海鳥の詩」と言う組曲を歌われた。この曲は海に生きる北の鳥達を描いた大作であり、その季節の変化を歌に表すのは大変であったと思う。それも上手く纏まっていた。
 最後はオペラのアリアを数曲両先生が歌ったが、後半になってより張りのある声は観客を魅了するに充分な内容であった。
 終わったあと友人2人と静岡駅コンコース内のR軽食店に入り、ビールを飲みながら歓談した。雨の中楽しい一時を過ごすことが出来た。

 

蒸気機関車のある風景

2008-06-21 22:53:54 | Weblog
 我家の居間兼応接間は家にいるとき、大部分の時間を過すところである。その部屋に形ばかりのソファーとパソコン 小さな書棚 ピアノが置いてある。ソファーに座って新聞を見たり、仮眠もする。このピアノの上の壁に蒸気機関車の写真が付いたカレンダーがある。二ヶ月毎に替えるもので、いつもその写真を見ながら過ごしていると言っても過言ではない。
 父は鉄道員であったことから、家族は鉄道官舎に住み転勤のたびに官舎も変わった。そこは何処も線路の近くにあった。そんなことから小さい時は蒸気機関車を見て育ったし、機関士になりたいとの夢は持っていた。小学生の時友達が「僕は駅長になりたい」と言ったことに対して私は「蒸気機関車の機関士になる」と話したことを今でも覚えている。
 その後私も鉄道員となったが、蒸気機関車の機関士の道には進まなかった。しかし蒸気機関車には憧れはズート持っていた。長い車両を引き力強く進む蒸気機関車は、男の勇姿とも重なった。そのような人間になりたいとの願望もあった。
 その願望は長い間持っていて、それが私が生きる糧となっていた。同期の人が蒸気機関助士、機関士になったのを見て羨ましく思った。
 私の育った戦後は、廃墟の中から全てが始まったので、力強く切り開いていく蒸気機関車はその象徴であった。しかし時代は変わって、今は日本の数ヶ所で観光用に走っているに過ぎない。
 当時は花形であった蒸気機関車の運転士は、時代の流れの中で転換を余儀なくされ、そのことで苦労したことを聞かされた。
 現在は新幹線の電車が蒸気機関車の数倍の速さで走っている。斜陽化が言われた鉄道を救った新幹線は民営化を経てその進化を進めている。この運転士はさぞや恰好いい職業かと思うが、若い人の憧れは、我々が抱いた蒸気機関車のようにあるのだろうか。ハイテク化された技術や車体のスマートさ速さは蒸気機関車と違った強い憧れがあると思う。
 この写真を見ていると、戦後世の中が力強く躍進していく時それを牽引する蒸気機関車のようなものがあった。それに憧れて自分を重ね合わせ夢を実現させようとする力もあった。それは社会全体に言えるものであったと思う。しかし現在のように政治や経済にしろ、牽引するものが見えない社会は、何か曇り空のような漠然とした不安が先行する社会であるような気がする。スッキリした晴天が続く社会になって欲しと思う。
 カレンダーにある力強く走る蒸気機関車を見ながら、世の中の変遷の速さを感じつつも、そこに力強く切り開く機関車に変わる何かが現れることを願っている。
 この写真を見ながらそんな気持にさせられた。このカレンダーは先輩から頂いたものである。


カロ・ミオ・ベン

2008-06-20 14:47:55 | Weblog
 明日の講座「名曲をうたう」で私は独唱することになっている。
この講座は月2回(土曜日)開かれ声楽家のK先生から、歌のレッスンを受けるものである。生徒数は17人で1回に5人ほどの人が指導を受ける。
 いつも感ずることであるが、指導を受けて、次回同じ歌を歌うと誰もが見違えるほど上手くなる。それだけ教え方が上手いのか。
 前回は「砂山」を歌った。このときこの曲をここで歌うのは始めてであったが、大きな注意点はなかった。先生からは譜の通りに歌い、感情も入っていて良かったと褒められた。私にとってこの歌は歌いなれた歌であり自然に発声出来たことがよかったものと思う。今回は少しレベルを上げて外国の歌を原語で歌おうと思う。
 考えた末イタリア歌曲「カロ・ミオ・ベン」に決めた。原語で歌うため、昨日南部図書館に行き日本のテノール歌手錦織健のものと、イタリアのバリトン歌手レオ・ヌッチが歌うCDを借りてきた。2人とも原語で歌っている。
 レオ・ヌッチのバリトンの声は深みがあり、何処にも染み入るような声量の豊かさを感じた。音域も錦織健とあまり変わらない感じであった。私の声は先生いわく「バリトン」と言われている。昔はテノールの声が出たような気がしたが、今は努力してもやっとバリトンの音域の声しか出ない。
 2人の声を聴きながら、今私は歌っている。プロの歌い方は出来ないが、発音は出来るだけ原語に近い声にしたいと思って練習している。
 しかし錦織健とレオ・ヌッチと比較しても同じ原語で歌うイタリア独特の巻き舌を使う歌い方は日本語の発声との違いがはっきりしている。
 レオ・ヌッチ声に憧れるが言葉の違い、肺活量の大きさの違いを感じる。これは無理のことで諦めなければならないが、欧州人のつやのある声は日本人には真似の出来ないことなのかと思う。しかしこの2人の歌手に日本の歌曲を歌わせるなら、錦織健の澄んだ声と日本人の感情は外国人のいかなる歌手も到底真似のできるものでない。日本の歌曲の良さも再発見した思いである。
 私が持っている「カロ・ミオ・ベン」の楽譜の一番高い音符はファである。相当高い音であるが、出せない音ではないと思う。何としても歌いきりたい。
 それも原語を暗譜で感情を込めて歌いたい。

友人との飲み会

2008-06-19 14:32:05 | Weblog
 5日程前に友達のOさんから電話があった。「6月末で会社を辞めることになった。いつものメンバーで一杯やりませんか」との誘いであった。
 このメンバーは5人でJR東海を退職して別々の関連会社に入った。同じ会社に入った人もいたが、そろそろ其処も定年を迎えやめる人が出てきた。
 そんな折でので電話あった。このメンバーは半年に一度ほど飲む席を設け、雑談する仲である。その中の年長者は私であり、サンデー毎日は私だけである。
 午後6時30分静岡駅西側国道脇のタイ料理店に集まった。
メンバーはその内4人である。一人(Iさん)は病気で来れなかった。前回の時は健康そうであり、このような席には何をおいてでも出てくる人であったが病気には勝てない。どうか平癒することを願うう。
 集まったメンバーはOさん、KIさん、Yさんと私である。年齢は60歳から69歳までで老人の部類に入る人であるが、みんな気は若く元気であった。青年のように大きな声で話すし話題も若いと思った。
 Oさんも電話では少し元気がないと思ったが、あって見るといつもの元気に戻っていた。聞くと今日社長から退職を勧奨されたという。本人は6月末辞めると思っていたが社長から直接勧奨されると寂しさが湧いてきたという。このことが元気がない原因であった。
 そして7月からは一ヶ月かけ外国旅行に出かけるとのことである。40数年気の休まることがなかったことを考えると、ゆっくり旅行してくることを勧めた。
 KIさんはOさんと同年輩である。私とは時々会っているが今年に入ってから勤めだした。生活には困るのではないが、何もしないことに耐えられなかったようだ。今日は元気に話しをしていた。彼の人をそらさない話術はいつも聴いていて感心する。
 Yさんは未だJRの関連会社に勤めている。能力があり統率力もある。三島の職場にいるが今年は静岡に帰って来てくれるものと思っていた。しかし今回の異動では動かないということである。本人はなんでもないように振舞っているが、生活の拠点を静岡に置いていることでもあり、何とかできないものかと話した。雑談ではあるが3時間ほど酒を飲みながら話した。
 このメンバーも会うようになってから4年程が過ぎた。それだけ年を取って病気も気になるようになったが、いつまでも続けたいものだと願った。
    6月18日のことを記す。 


宵待草の花

2008-06-17 21:12:17 | Weblog
 庭には宵待草が群生している。丁度この時期は夕方から朝開けにかけ黄色の一重の5~6cmほどの花を付ける。今の時期では丁度午後6時ごろか、日が落ちる頃合いを見て真黄色の花が咲きはじめる。それは少し大きくなった蕾から黄色な花びらが出てきて20分ほどかけて開ききる。あたかも、蜻蛉か蝉が羽化する時のようにゆっくりと開く。全ての宵待草が同時にゆっくりと開いてくる。そして60から80個の花が一斉に咲く。蛍光色を感じさせるような黄色の花が闇夜に浮かぶ。 このように美しい花が夜しか咲かないことがもったいない様な気がする。
 丁度1mほど離れた所に夜光灯があり、その光の中で咲く宵待草は何ともいえない風情がある。
 庭に群生していると言ったが、昨年までは何の花かも判らず雑草として扱っていた。だから大部分は抜いてしまった。しかし日本の歌曲「宵待草」をある事情から調べることになり、いろいろのことが分った。
 宵待草という花の名はなく、北アメリカ原産で「マツヨイ草」がある。「この花は夏の夕方開花 黄色花で直径5cmほどの花を咲かす。花が終わったあとはくしゃくしゃ状態の赤っぽい色となる」とある。まさに宵待草と同じである。
 きっと「宵待草」の作詞者である竹久夢二がマツヨイ草では、詩情としてしっくり来なかったので宵待草としたのではないかと思った。
 そのことを知って、抜くことなくそのままにしておいた。野生化した花であり、生命力が強い花である。今年も自然に育ってたくさんの花を付けた。
 この花の命は一晩だけである。太陽が上がると赤みをおびて萎んでしまい、次の日には自然に落花する。それでも毎日たくさんの黄色い花を付ける。
 この時期の花は紫陽花、百合、金魚草、グラジョラスと言った大輪の花とか、色彩豊かな花が咲く、そうした中で夜のみ咲く宵待草に何故か愛着を感ずる。そして朝起きるとその花がいくつ咲いたか数えるのが楽しみになる。誰からもこの花の美しさを愛でることもないが、それでも夜の間だけ咲く花に健気さを感ずる。  
 宵待草は与えられた環境の中で一生懸命に生きている。その姿に人の生き方を見ているような感覚になる。

「第73回合唱の集い」

2008-06-15 23:02:12 | Weblog
 静岡市民文化会館には静岡県の各所から集まった合唱団でごった返していた。
今日は第6回静岡市民文化祭の一環として第73回合唱の集い&第53回県民合唱祭が一堂に会して開かれ、74団体の2000人近くの人々が、この晴れ舞台を目指して頑張ってきた。
 従来は静岡市合唱連盟が開く「合唱の集い」と静岡県合唱連盟が開く「県民合唱連盟」が別々の日に行なっていたが、来年にせまった国民文化祭静岡大会のプレ大会も想定して「合唱の集い&県民合唱祭」と銘打って開催したものである。
 この中に私が属する「静岡男声合唱団」も参加している。
 今回は参加団体が多いことからAM10時からPM8時30分までの長いスケジュールとなっている。その中で「静岡男声合唱団」は57番目でPM5時45分からである。
 私が出かけたのはPM3時30分頃であったが、新静岡駅から歩いて市民文化会館に行ったが、途中終わって帰る幾つかのグループとすれ違った。気のせいか、終わった安堵感か表情も柔いで見えた。
 私達の合唱団も4月頃からこの日歌う曲 チロル地区の民謡 「Heidschi Bumbeidschi」及び組曲「雨」より「雨が来る前」の2曲を多く練習してきて、暗譜で歌えるようになった。この2曲は男性曲の優しさと力強さを持った曲で、正確にハーモニーが取れたなら、きっと印象に残る歌になるはずである。
 このため昨日と今日集中的に練習した。先生からも「練習通りに出来ればグー」と言ったお墨付きも貰うまでになった。
 しかし本番では、注意された音程の下がりが出てしまい納得のいく合唱とはならなかったような気がした。
 当合唱団は団員が増え28名となった。若手で声のいい人が入ってきて充実した合唱団になったと思うが、まだ荒削りであるような気がする。
 私も合唱団に入って1年半が経つ、最初は罵声とも取れる歌い方であったが、練習のおかげで微妙な高低はわからないものの、少しは楽譜に合わせて声を出すことが出来るようになった。これが一年半の練習の賜物である。
 私共が歌ったあとも、幾つかの熟練した合唱団が歌っていたが、私は7時より町内会の集会があるため早めに帰った。