Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

声楽の発表会

2010-10-31 23:55:44 | Weblog
 10月31日(日)は2年に一度の声楽発表会である。この発表会はS学苑「名曲をうたう」で学んできた生徒がその成果を発表するもので青葉通りに面したEホールで行われた。
 生徒は33名が、各々選んだ曲を約半年間練習して今日に臨んだ。
 私が歌う曲は「プロバンスの海と陸」である。この2ヶ月ほどは毎日練習した。原語で歌うので
発音の練習に多くの時間を費やした。何とか歌えるようになったものの、発音が違っていて、先生からは何度も指導された。しかし一度間違って覚えたものは中々直るものでなく、その修正に多くの時間を費やした。
 その次は旋律に合せて歌うことである。この歌い出しは、4/4拍子の4からであり先生からは「声はよく出ているが、出だしが合わないのは残念です。聞く人も良い評価は得られない」と注意された。このことは2週間前の練習時に言われたが、これも概ね上手く歌いだすことができるようになった。
 私はこのような舞台で歌うのは3回目である。最初は「からたちの花」次はオペラ愛の妙薬から「人知れぬ涙」であった。今回はオペラ椿姫からアルフレッドの父親が歌う「プロバンスの海と陸」である。このオペラは中学生の時東京芸大の卒業演奏会があり、その時始めて聴いた曲であり、一度は歌いたいと思っていた。バリトンの曲であり、ちょうど私の年齢に合った歌であると思った。
 朝9時からゲネプロが始まった。この時点ではまだ緊張することもなかった。一人づつうたい、先生から最後の指導を受けた。私は4番目であったので、直ぐ順番が廻ってきた。舞台に立ったが上がることはなかったし、歌いだしと、発音の違いを気をつけて歌った。自分なりに概ね良好な出来であったと思った。その時は、先生からは何の注意もなかった。きっと発音が悪いが、ここで注意したら本番でそれを気にして、萎縮した歌になるのではないかと思ったからではないか。それでも同僚が「堂々として歌ってよかったですよ」と褒めてくれた。
 今日は友人のIさんと妹のSさん、姪のMさん、それに妹の友人が来てくれた。
 会場には私のように生徒の親、兄弟、子供等が来ていて、本番が始まる午後1時には、会場には150数名の人がきてくれていた。歌う順番は4番目であり、直ぐ歌う番が来た。
 このときも緊張はあまりなく、大きな声で歌おうと思って舞台に立った。この歌はオペラのアリアであり、忠実な旋津より、感情を込めて歌うことに心掛けた。約4分ほどの歌は短く感じた。
 終わった後は安堵感にしたっていた。そして皆さんが歌う曲を客席で聞いた。皆さんも本番は良いできであった。あとは場所を替えて反省会を行った。ピアノを弾いたNさんが個人個人の評価を的確にしてくれた。私のことも褒めてくれた。この席で私は余興にマジックを披露した。

パソコン修理

2010-10-29 23:16:32 | Weblog
 昨夜ブログを書こうとパソコンを起動したが、画面が出ない。何度か試みたが同じであった。いよいよパソコンが壊れたかと思い、内部の資料が壊れていないか気になった。
 今回の故障は、簡単に直るものではないような気がした。それは1ヶ月ほど前から、前兆と思える事象があった。起動しなかったり、起動してもマウスが動かなかったり、画面にすだれ様の模様が点滅して動かなくなった。これはおかしい、早く修理業者を呼ぼうと思いながら今になってしまった。今まで画面がおかしくなっても、強制的に電源を切り、改めて電源を入れることを繰り返へすと、何とかパソコンは機能していた。それが昨夜完全に起動しなくなった。
 今朝直ぐメーカーに電話で連絡話しながら、言われる通りにキーボードを打っていったが、一時間ほどかかったが、結果としては直らなかった。
 メーカーからは「修理するのでパソコンを送って下さい。7日ほどかかります。そしてハードデスクのデータは保障できない。もしハードデスクを壊すことなく取り出すには、別途費用がかかること」等話があった。そこで販売店にも同様の話をしたが、メーカーと話した内容とほぼ同じであった。
 この修理に一週間以上かかるうえ、データの保存することを考えると概ね10日以上かかりそうで、修理代もさることながら、その間パソコンの扱いはできないことに悩んだ。
 そこで電話帳で、市内のパソコン修理業者に電話した。フリーダイヤルであったが、住所と氏名を聞かれ、数分すると担当者が出て「午後の2時頃に家に伺います」といった。この時点で、直るとの確信はなかったが、対応してくれたことをありがたいと思った。
 この業者は名刺から生活救急車、JBR株式会社と言い、生活の中で発生するトラブルを解決する会社のようであった。
 その担当者は30代の身体の大きな人であったが「私はパソコン以外知りませんが、会社にはいろいろな専門知識をもった人がいて、各々対応していますので」と言って、修理に当たっての費用等の説明があった。それから2時間ほど、パソコンに向かい合って故障箇所の抽出をしていった。そばについて、話しながらであったが、パソコンについてよく知っている。パソコンから出る小さな音から「ハードデスクの表面が傷んでいますね。あまり強制操作をしないで下さい」と言ったり「画面が遅いのは、セキュウリティーを多種使っているので、互いにけん制しているので、1つだけにしましょう。こんなことを言ってパソコンをクリーニングしていった。
 結果は「大きな欠陥は見当たらないので、操作に問題があったと思われます。強制操作はできるだけしないようにしてください。そうすれば、あと半年は持ちます」とのことであった。経費は思ったより安く、その後はスムーズに動いている。結果であるが近くのパソコン業者に頼んだことは良かった。

町内「ふれあい広場」開催

2010-10-28 22:38:21 | Weblog
 台風の影響か、一日冷たい雨が降っている。急に寒くなったので、妻から灯油を買ってくるよう言われた。つい一週間ほど前まで暑い日が続いたが、この温度変化にはついていけない。
今日は町内会と社会福祉協議会が共同して「ふれあい広場」を公民館で開催する日である。
この「ふれあい広場」はこの町内に住む、一人住いや、高齢者にふれあいの場を設け、地域の皆さんが明るく協力できる町づくりを目指したものである。
 今年は2回目であり、前回も好評であったんで、始まる午後1時30分には40名近い人が雨のなか集まってくれた。こうした会合には女性が多い。男性は役員を除けば2名であり、女性に圧倒される集会となった。
 前回は7月1日開いたが、そのときは市の保健センターから女性のスポーツインストラクターを招いて、高齢者に対する運動機能回復の話と実技を行った。それに前町内会長のSさんがギターを弾いて皆で合唱した。運動したり声を出すことは身体に良い。
 今回は町内に住むKさんが指導して和菓子作りとダーツを行った。和菓子は女性に興味があるようで、笑い声を上げながら和菓子つくりを楽しんだ。男性も慣れない手つきであったが、それでも真剣に和菓子つくりに挑戦した。私もヤツデのような手で、小さく丸めた餡に、色付けした菓子の皮を巻いて、柿、もみじ、ツバキ等を作った。母親と妻にいい土産になった。
 この和菓子作りができたのも、一年間ほど身体を壊していたKさんが回復して、また和菓子作りができるようになったことである。
 Kさんは静岡では有名な和菓子職人で、昔はデパートなどでお客さんの前で、実演したほどの名人である。現在は70歳以上となって、後輩を指導する立場であるが、その腕は衰えていないと思った。一線を退いているものの、このような人が同じ町内にいることは誇りである。
 1時間ほどかけて各人が4つの和菓子を作って、それをパックに入れの土産にした。つくる過程で皆さんが楽しく会話ができたことも良かった。
 そのあとは、お茶など振舞われて、テーブルごとの会話を楽しんだ。時間は30分ほどであったが、あっという間に過ぎた。
 最後はメンバーが2組に分かれてダーツを楽しんだ。
 3mほどの距離から的に向かって投げるもので、楽なように見えたが、矢が中々命中しない。何故なのかとの思ったが、いつの間にか身体機能が衰えてきていることを知らされた。2回の合計で競ったが、点数が出るのは半分程度の人であり、それ以外は2回とも0点と言う人もいた。
 しかしこの過程も楽しいもので、笑いが止まらない。こうしたふれあいの場を設けることで、町内が纏まっていくことをねがっている。それにしても、男性が少ないのが気になるがこうした傾向は何処も変らないようだ。

OB会月例部会から

2010-10-27 23:44:52 | Weblog
 今日は鉄道OB会の月例部会が午後5時から静岡支部事務室で行った。この会議が次月以降の活動について意見交換する場であり、これにより活動が動くことになる。
 それに今回はこの会議に続き、各系統別責任者会議を行うことになっている。この会議は上期と下期に各一回行うことにしてある。上期は6月の定例部会のあと行った。その結果といえると思うが、上期は20名の新会員が加わり、死亡等の脱会者を引いても7名増となった。東海鉄道OB会としては会員の減少が停められないところであり、静岡支部では系統別責任者の尽力で会員増が出来たことを感謝している。そして下期に向けて、会員の確保のため各責任者が一致して取組んでいくことを約す会議として開いた。
 この会議の準備として、名簿等を基にして未加入者の氏名、所在地等を昨日一日かけて作成した。これを調べることは大変であったが、何とかA-4 2枚40名ほどの名簿を作った。これを責任者全員(12名)に配った。
 それに新幹線関係の名簿はA-4、一枚20名を作ったが、これは私とIさん(施設)及びOさん(電気)の3人だけに配布した。
 先ず月例部会議の冒頭最近の情勢について私が話した。それは10月15日に行われた静岡地本主催の支部長会議の様子、これはO静岡地本長の話が主体で内容は「東海鉄道OB会全体として上期をまとめると、会員の減少は続いている。それを停める手段はまだ見えない。今後も模索していくが、各支部において独自の工夫を凝らしてやってほしい。支部長名で各会員に「たより」を出すのも一考であるが、富士宮支部のように、温泉施設を利用しての総会の実施とか、沼津支部が行っている遺族会員が出席し易い総会の実施等、会員皆がOB会に恩恵を受けていることを実感できる工夫をしてほしい」こんな話があった。それと10月21日行われた鉄道OB会連合会全国大会の様子も話した。この内容もOB活動活性化の道を模索したもので、連合会としてはインストラクター制度の普及に力を入れていくこと等話した。
 みんなの反応は、インストラクター制度は活性化に役立つかとかとか、年末には会員全体に支部名が入ったカレンダーを配布することを前回の部会で話したが、その実現はと言った意見があった。
 私からは「今年度承認された予算からは配布する予算は捻出できないこと、故に会として配布を見送ったこと、しかし来年は実施したいことを話した。多少の意見はあったが月例部会は終わった。引き続き系統別責任者会議を行ったが、皆からは未加入者を加入させるには大変であり、短期間では成果は期待できない。期間を下期末の3月を目安に行ってほしいとの話があった。そこで12月末に中間報告と3月末に全体集約することにした。時間は1時間30分ほどで終わったが疲れた。そのあとSさん、Mさんと一杯呑みに行った。

国勢調査の最終確認

2010-10-25 23:11:23 | Weblog
 10月22日、午後6時ごろ市役所の国勢調査の担当者が家に来て、担当した調査箇所の現在までに郵送された調査票の提出状態を書いた封書を持ってきた。ちょうど私が留守であったので、妻が受取ったが「細かい状況が分からなかったので、ただ受取っておいた」私に渡した。
 その封書には「郵送提出等世帯一覧」で2枚の用紙が入っていて、調査票を提出されている家の名字と所在地が書かれていた。空欄になっているところがあり、それはまだ提出されていないことを示していた。
 71軒の内13軒が空欄となっていた。一瞬見たときはあまりに空欄が多く驚いたが、その内4軒は私が大封筒で預かっているし、2軒は10月1日時点で転出していたので7件が未だに調査票を出していないことが分かった。
 その日の夕刻7軒の家を廻ったところ2軒の方に会うことが出来た。その2人はアパートに住む独身者で悪びれることもなく「まだ出してないよ」と言う。「直ぐ書いて郵送してくださいね」と催促したが返事がなかった。2日置いて今日午後2時ごろ、総務省統計局長の公印が押してある「調査票の提出の最終確認について」書かれたA-4の案内書もって7軒の家を廻った。そして私のメモも付けた「調査員の○○です。先日配布した調査票を早急に投函してください。なお分からないことがありましたら下記の番号に電話して下さい」と書いて入口のドアーも隙間にさし込んでおいた。
 午後6時ごろ3人の方から電話があって「調査票は出しましたよ」と連絡があった。そしてKさんという人からは「何時取りにくるかと大封筒に入れてあったが、貴方が来なかった。直ぐ持ちに来てくれ」と言う。直ぐ取りに行ったが、私の対応が悪いような言い方をする。ここは我慢して平身低頭して封筒を貰ってきた。
 残りは3軒である。それは全てアパートの住民であったが、夜の9時ごろ確認したところ、配った案内書と私のメモはドアーにはなかった。きっと読んでくれたものと思った。
 市役所の担当者に電話して、その状況を話したが「そこまでやってくれればいいですよ。後は郵送した調査票を確認して、それでも提出されていない時は、近隣に人に聞き取ることになります。今週末には再度伺いますからそれまでに、地図等を整理しておいてください」とのことであった。
 まだ安心できないが、やることはやったとの思いはある。
 70軒ほどの国勢調査であったが、中々骨の折れる仕事であった。
 
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土曜日のスケジュール

2010-10-23 22:56:32 | Weblog
 この一週間は、いろいろなことがあって疲れ気味である。今日もハードな一日となった。
身体的疲労が蓄積して、頭は重いし、精彩がないことを感じている。
 しかし今日も何とか乗越えようと思う。午前11時30分までに東海軒会館で行う現職時代の職場のOB会に出席することにした。往復はがきが来た以降、この会議に出席するか、間際まで迷ったが、欠席は自分に逃げるとの思いがあり、出席する旨手紙を出した。
 この会は、私が2年間現場長として過ごしたところであり、懐かしく感ずるところであるが、国鉄時代の末期の職場で、荒廃していて人間関係で苦労した思い出がある。
 出席者は25名であったが、以前は60~70名のOBが集まり盛大に行われていた。しかしJRになって断層が出来たのか、年配者が目立つ会となった。写真撮影後、宴会となった。今日は午後2時からS学苑の「名曲をうたう」で独唱することになっていて、酒は呑まないことに決めていた。酒を呑まないで話すことは気分が乗らない。それでも何人かと話したが、自分自身いやに冷めた感覚であることを思った。2時間は長く感じたが、何とか締めが入って終わることになった。
 直ぐ駅ビル7Fの「名曲をうたう」の会場にいくと、1組、2組の生徒約30名が集まっていて、10月31日に行う発表会で合唱する曲の練習を行うことになっていた。曲は「めぐる季節」「埴生の宿」の2部合唱である。まだ完全にマスターしていないが、先生からは「暗譜で出来るようにしてください」と言われた。引き続いて各々が独唱する曲を歌った。私は2番目に歌うことになって「プロバンスの海と陸」を歌った。今日は体調の悪く、何故か高音が出なく、かすれた声になった。その上次回は発表会であり、それまでに何とかしなければならないと思った。そして先生は一人ひとりに丁寧に教え、午後5時を廻るまで指導してくれた。家に帰ったのは午後6時近くになった。
 午後6時からは町内で登呂祭の反省会が公民館で開かれている。直ぐ公民館に向かった。
今年の登呂祭は、他の行事と重複したため、2日目には協力したが、貢献の度合いはあまりない。それでも他の役員の皆さんは、気持ちよく迎えてくれた。反省会には50名ほどの人が見えてくれたが、女性が6割男性が4割と言った感じであった。
 ここでは少しビールを飲んだ。話の中で今後の登呂祭のやり方に、いろいろな提言があった。皆さんは昔のような盛り上がりを期待している。役員はそれに答えていかなければならないと思った。その後は恒例である副会長のSさんのところで打上げを行った。
 疲れがピークに達していたが、何とかもった。午後10時には家に帰った。

静グリーのコンペ

2010-10-22 23:40:19 | Weblog
 私が属しているD合唱団の有志で月1回のペースでゴルフコンペを行っている。それが静グリーコンペである。現在母の介護等があり、D合唱団は休団にしているが、このゴルフコンペには誘いの連絡がある。昼間は母がデーサービスに行くことが多いので、今回も出ることにした。
 前回は優勝して、ハンデキャップも上がったので、今回はそのようなことは意識せず、気楽にゴルフを楽しむことにした。因みにハンデは12でありメンバーの中で最も良いハンデである。本来合唱団員で要求されるのは正確に歌うかであるが、それは音程が崩れ、皆からよく注意されていたのでダメである。しかしこのゴルフだけは優越感を持てる。
 行くときは、Yさんの車に乗せてもらっていたが、今回は妻が留守にしているため、母がデーサービスから帰る午後4時には家に帰らなければならない。そのため自分の車で行くことにした。スタートは7時30分からであったので、その30分前にはFゴルフクラブに着くよう家を出た。
 前回のゴルフは9月27日であり、その後は練習もしていないので一ヶ月近くクラブは振っていない。気楽な気持ちでの参加である。
 コンペのメンバーは8名であり、私は一組目で4人がスタートした。因みに最年長のYOさんと一番若手のKMさん、それにハンデが13のKTさんと私である。
 最初のショットは案の定、右のOB杭近くに飛んだが、松に当たり、その根元にボールが落ちた。かろうじてOBにはならなかったが、第2打は出すだけであった。それでもこのホールはボギーで収めた。それ以降は大きなトラブルもなく、前半は終わった。思いのほか良いスコアーの44で廻った。ほかの3人は50台後半の数値であった。
 昼食を食べながら、皆から2連勝のペースですねと言われたが、今までのケースから後半が乱れるもの思い、否定し続けた。
 後半の10番はパー5のロングコースである。ティーショットは良かったものの、セカンドショットがバンカーにつかまり、ここで大たたきするかと思ったが何とか4打がグリーンに乗った。
ここもパー逃しのボギーであった。その後ダブルボギーを一度叩いたが、それ以外はボギー16番まできた。残り3ホールは難しいコースと言われているところであり大崩れしないよう注意しながら進めたが、なんとその3ホールの全てがパープレーで廻り、後半は43で終えた。トータル87のスコアーであった。
 このスコアーは50代のとき86のスコアーを出したことがあったが、それに続く良いスコアーであった。奇跡のようなスコアーであり、自分自身驚いた。その上OBもなかったのは始めてではないか。勿論優勝であった。ゴルフにはこのようなことがあるものである。うぬぼれることなく、今後も続けよう。
 

鉄道OB会全国大会に出席して

2010-10-21 21:37:04 | Weblog
 22年前国鉄が民営分割され、各地域を担当する鉄道会社になって、現在運営している。その各々の会社のOB会を連合した組織がある。その全国大会が10月21日(木)東京ホテルメトロポリタンエドモンドで行われた。私は静岡の支部代表として大会に参加した。
 何故私のような新米の支部長が参加するのか、よく分からないが、こうした大会に推薦されたことは光栄である。指定された静岡発9時36分のひかり506号に乗った。
 東京駅から乗り継ぎ飯田橋駅で降りると歩いて5分ほどでホテルエドモンドに着いた。
 全国から役員、地方本部長、支部代表それに今回表彰される功労者の方、インストラクター表彰者等200名ほどが集まった。それに国会議員や各JR会社の社長等も来賓として出席した。
 こうした席にいるのは私自身場違いな感じがしたが、あまり知っている人もいないので、自然体で大会に臨んだ。見たところ大部分は私より年配者のように見えたが、皆さん元気そうであった。
 午前10時30分から大会は始まり、最初にI会長の挨拶があった。
 その話は概ね以下のとおりであった。「最近気になることが新聞に載った。独立行政法人の鉄道建設・運輸施設整備支援機構にある利益余剰金1.5兆円を業務仕分して一般会計に組み入れようと財務省が考えが載った。これは国鉄、JRが努力して貯めた資金である。これを一般財源として出せとは無謀である。この成り行きを見守っていくが、国会の自民党の先生にも阻止に向け頑張ってほしい。
 鉄道OB活動は、以前は政治的色彩を持った団体であった。それは地交線の問題、年金の問題、医療保険の問題等があり、政治的力がどうしても必要であった。しかしこれらのことは自民党が政権にいたとき概ね解決した。政治活動としてのOB会は終わったと考える。
 OB会の活動は、OBの生活を充実させることである。OBの願望は健康、友人、生きがいの3つに集約され、その願望実現のため頑張っていきたい。しかし残念であるが鉄道OBの数が減少して20万人を切った。その半分は女性であり、この数字は、まだ不十分であると考える。
 OB会の活性化への糸口を掴むため、手段としてインストラクター制度を活用を考えていきたい。現在全国には700人近いインストラクターがいるが、これを1500人に増やし、活動の輪を広げたい。軌道に乗るにはいろいろ問題があるが、知恵を出していきたい。このためOB会本部は勿論、地本も支部の相談に乗ってほしい。これが活性化への道であると考える」このような話であった。
 その後、来賓の挨拶があった。その中から印象に残ったN国会議員の話を掲載する「国鉄改革を経験したJRグループは、素晴らしい企業になった。そして新幹線技術は世界に誇れるものである。この会社に負担を強い、ブレーキを掛けるようなことは絶対にさせない」

強羅で「きょうだい会」続

2010-10-20 22:12:55 | Weblog
 夕食は部屋ではなく食堂であった。そこには若い子供連れ夫婦や、カップルが多くいた。私達のような老人の集団はいなかった。母と末弟は食べるのが遅く、1時間ほど掛けて食べた。料理は美味しかったが、年寄りには量が多かった。
 部屋に戻り、部屋付きの露天風呂に母を入れた。妹達がその手伝いをしたが、母は気持ち良さそうに深い湯船に入っていた。
 その後はきょうだいでトランプをした。単純な「7ナラベ」であったが、これも頭を使い良い刺激であった。手に不自由さを感ずる末弟も、大変そうであったが、手を動かし一緒になってやった。このことがリハビリにるものと思った。
 大の大人(老人)がトランプに興ずるのは、何か滑稽な感じもしたが、子供に返ったような気分になって続けた。
 途中風呂に入ったりして、午前2時ごろまでやった。大きな声を出して笑ったり、悔しがったりしていたので、寝ている母が、隣りに迷惑を掛けると怒った顔をしておきてきたが、防音装置が施されていて外部に漏れることはなかった。
 朝は明るくなった午前8時近くまで寝ていた。窓を開けると外は雨で、晩秋を感ずる景色が広がっていた。
 朝風呂に入ってから、9時30分から朝食を皆で食べた。外は雨であり、どこかに寄って行こうとの意見もなかったので、ゆっくり過ごし午前11時にチェックアウトをした。
 帰りは仙石原を通って三島まで一緒に行くことにした。仙石原のススキはちょうど見ごろであり、黄金に染まったススキを見ながら帰るつもりでいたが、多くの観光客が歩いているのを見て、私達も少し見ることにした。ちょうど雨も小康状態であり少し歩いた。ススキの径に入ってから5分ほどすると、また雨が降ってきた。長雨になりそうな感じであり、直ぐ自動車のところまで引き返した。
 そこからは、三島に向かって箱根を下りていった。
 午後2時近くであったが、以前にも行ったことがあるウナギやに寄った。前回のときも美味しかったので、ウナギの嫌いな瀬名の妹を除いてウナギ丼を、妹も海老天を注文して食べた。
 しかしウナギの好きだった末弟が、いつの間にかウナギより海老天が好きになったことを知った。体調を崩していることが、食の嗜好まで変えたのかと思った。
 三島の弟のところによって、少し話してから、午後3時30分ごろ、近いうち再度きょうだい会を行うことを約し帰ることにした。
 母も満足そうに後部座席で、いい顔をして寝ていた。瀬名の妹を下ろして、我家に帰ったのは午後5時を少し廻っていた。 

強羅で「きょうだい会」

2010-10-19 22:07:34 | Weblog
 その母は5月に大腿骨を骨折し、その後のリハビリに励み、今年の9月には家での生活に戻った。何とか寝たきりにならないで済んだものの、骨折前に比べ老いは急に進んだことを感じる。手摺に掴まって歩くものの、身体的機能も極端に落ちている。
 それに末弟も病いに侵され、まだ60歳になったばかりであるが、不自由な生活をしている。何とか回復することを願っているが、かわいそうでならない。
 以前母が骨折する前は、きょうだいで高齢な母と一緒に年4回ぐらいは、近くの温泉に行き「きょうだい会」をやろうと話した。
 数年続いた「きょうだい会」は、母の骨折で今年の3月以降やっていないが、先日川崎の妹が計画して今日行うことになった。場所は箱根の強羅、雪月花と言う旅館であった。
 母を連れ午前10時前に自動車で家を出た。瀬名の妹を乗せ清水のインターから東名高速度道路を通って三島のインターを降りた。右側のレーンを通って1年ほど前に開通した箱根方面へのバイパスを走った。この道路の交通量は少なく、カーブもあまりないのでスピードが出やすい道路である。現在は国道1号線に交差するところまで開通しているが、道路整備計画では伊豆まで行くらしい。バイパスから国道1号線に出て、そこから大場に出て函南の弟を連れて三島の弟のところに行った。正午前に着く予定であったが、着いたのは0時30分ごろになった。
 箱根方面は三島の弟がよく知っているので、弟の車に乗り換え、箱根を目指した。
 この時間には川崎の妹は、強羅の旅館に着いていたが、携帯電話で連絡して、中間地点である元箱根の芦ノ湖埠頭付近の食堂で、落ち合い昼食を食べてから行くことにした。
 火曜日であまり天気もよくないが、観光地箱根には多くの人が出ていて、賑わっていた。
 2階の食堂からは、芦ノ湖の遊覧船が到着したばかりであり、降りてくる人と乗り込む人が桟橋上を人が溢れていた。
 そこから強羅までは直ぐであった。旅館についたが、ロビーで20分ほど待たされた。
強羅は箱根の中でも高地にあり、外気は寒さを感ずる気温となっていた。そのロビーは、外と暖簾のようなもので分断しているが、外気がロビーまで入ってくる構造になっている。その冷気で、身体が寒さでぞくぞく感じであり、持ってきたセーターを羽織った。
 この旅館は若者用に作られていて、多くの若者達がロビーにいて、受付を待っていた。やっと鍵が渡され、部屋に入った。
 部屋は2階に連続した2部屋であり、6人のきょうだいは母を妹達が一部屋に、私と弟達は別の一部屋に入った。
 夕食までの時間、温泉に入った後、母達の部屋に行って、きょうだいは車座になって四方山話に花を咲かせた。気兼ねしない旅はリラックスできる。