Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

ピアノ発表会を聴く

2015-02-28 23:53:18 | Weblog

 一年前に5年間通っていたピアノ教室を辞めた。丁度母が脳梗塞で倒れ、その介護が理由であったが、その後母も他界した。それ以降ピアノに触ることなく歳月は流れた。昨年秋ごろであったか、同じピアノ教室に通っていたIさんから手紙をいただいた。そこには「また一緒にピアノをやりませんか」と云った内容であった。その時は、落着いたらまたやりたいことを返信した。今年に入ってから、ピアノ教室のKI先生から「2月28日(日)18時より「あざれあ大ホールでピアノ発表会がありますが見学に来ませんか」という内容の手紙をいただいた。そこで直ぐ「当日見学に行かせていただきます」と話した。

 私が通っていた頃のピアノ教室には子供さん達が多く学んでいたが、大人は男性3人、女性が5人の8人であった。この8人は概ね70代の年齢の人で。特に男性3人は、その後の打上げ会でビールなど飲んで話すのが楽しみになっていた。しかし私が辞めた1年間に男性2人、女性2人になっていた。開演の18時少し回ったころ発表会会場に入った。

 既に幼稚園児が舞台で弾いていた。プログラムを見ると子供17名、大人4名の21名が参加していた。直ぐ客席にいた大人4人に挨拶し、一緒に座席に座って演奏を聴いた。子どもたちは、みんな上がることもなく素直に弾いていた。その中には、才能を予感するような素晴らしい内容の人が3人ほどいた。その中の一人はピアノ教室で順番が、私の直ぐ後に弾いていた人で、3年ほど彼が弾くのを見てきた。しかし、この一年で急に成長していることを思った。、戻ってきた彼に「上手くなったね」と褒めると両親も来ていて喜んでいた。

 小学生達はみんな上手くなるのは早い。大人の4人も上手く弾いていたが発表会前は猛特訓したのだろう。私も練習では完璧のように思っても、いざ舞台に立つと、練習の半分ぐらいの出来になってしまった。しかし4人は間違えることなく弾いていた。終わったあと、大人たちの打上げ会を、駅ビルの6階の寿司屋で行った。それに先生と私も入れてもらい6人で行った。ここでも盛上った。そこで私も4月からピアノ教室に復帰したいことを話した。みんな拍手をして喜んでくれたが、皆さんのレベルまでに追いつくのは大変だろう。しかしピアノを弾くことは脳を刺激し、ボケ防止になるので、これからも続けていこうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


毘沙門天に行く

2015-02-27 22:56:07 | Weblog

 毎年旧暦1月7日~9日の3日間 富士市妙法寺で行われる毘沙門天大祭には、ここ10数年行っている。この毘沙門天は五穀豊穣、商売繁盛の神様と云ので、商売などしていない我家には結びつきは薄いのか知れないが、家内安全等を願って行っている。今年の大祭は新暦2月25日~27日であり、最終日の今日自動車で出かけた。強い風が吹いていて、昼食を外食することにし妻と午前11時前に家を出た。国道1号線を通って、高架橋から田子の浦方面行きで降り右折すると、妙法寺への参道は直ぐ近くである。そこを進むと空いている駐車場がいくつかあったが、入口にガードマンが立っていて入れない。少し戻ってやっと駐車場に入れた。ガードマンは関係者以外は、入らさない為にいたのだ。

 300m程歩いて参道に出た。そこから妙法寺まで200m程であったが、最終日にしては余り混雑していない。多分夕方からは混むものと思うが、以前来たとき人をかき分けながら歩いてことを思うと、そうした雰囲気ではなかった。境内を登ると両側にダルマの店が並び、客引きが話しかけてくる。納めるダルマを持っていると、「新しいダルマは、登りダルマが御利益があるから、ここで買っていきなさい」こんなことを云った。登りダルマがなぜ良いのかわからないが1000円ほどまけさせ買った。

 この妙法寺は日蓮宗の寺である。大祭にはダルマや植木市などをやっていて、境内は余り広くは感じなかったが、この寺には仏教がインドから中国を通って伝わってきていることを感じさせる建物が混在してある。ここは仏教伝来が分る寺である。先ずこの一年間守ってくれたダルマを返納し、境内の中央にある香炉にて線香を焚き、新しく買ったダルマを祈願してもらうため祈祷所に預けた。ここで片目を入れてもらい来年満願となったら両目を入れ納める。これが祈願ダルマのならいである。我家は昨年母を亡くしているが、不慮の事故でもなく96歳の生涯を全うできたことで両目を入れて持っていった。因みに今年は祈祷所で左目を入れてくれたがその意味は解らなかった。

 私はここに来ることが年中行事となっているので、祈願が済むと一安心する。境内を出ると既に午後2時を回っていた。帰りに美味しいものでも食べるつもりでいたが、参道両側の屋台からは、いい匂いがしていた。朝食を食べてから6時間ほど過ぎていたので、小腹を満たすため、富士宮焼きそばを買った。それを駐車場の車の中で食べた。食べると食欲も満たされ落ち着き、静岡に着いてから食事をすることにした。しかしまだ小腹は満たされていることから、夕食を外食にすることにした。家で休んでから再度食べに行った。毘沙門天に願い事もしたし今年は良い年になってほしい。

 


オペラ鑑賞から

2015-02-25 22:59:15 | Weblog

 オペラ「後宮からの逃走」の公演が静岡市民文化会館大ホールであった。昨年11月頃であったか、この公演が静岡で行われることを知って前売券を予約したものである。開演は午後6時30分からであり午後6時には会場に入った。始まるころには1階席の9割ほどの席が埋まっていた。この会場の一階は数えると1500人ほどの収容できるようであり、少なくとも1300人近くの人が見えていた。観客の中に何人かの著名な人はいたが、挨拶を交わすような知人はいなかった。多くの人がマスクなどしていて分らなかったこともあると思う。それにしてもこの会場がほぼ満席になるほどであり、静岡のオペラ愛好者が多いことを感じた。

 オペラ「後宮への逃走」はモーツアルト作曲で、18世紀のトルコの宮廷(ハーレム)が舞台で、海賊にとらわれたスペイン人とイギリス人3人がトルコ太守(セリム)の奴隷となった。その3人はスペイン青年貴族ベルモントの恋人コンスタンツェと、その侍女ブロンテと、その恋人でベルモンテの従僕ペトリロである。それに宮廷の門番オスミンが絡み合い、それに太守のコンスタンツェへの恋心もあって面白い。そこにベルモントがやってきて、太守の宮廷から3人を救う救出劇となっている。恋あり、横恋慕あり、嫉妬あり、そして最後はどんでん返しがあり、ハッピーエンドの喜劇となっている。演出もよかったが、出演者が各々が個性のある演技に劇中に引きこまれる素晴らしさであった。

 今回のオペラは原語(ドイツ語)だけでなく、台詞は日本語で行い、解りやすい内容となっていた。それ故原語だけでの堅苦しさはなく、アドリブ等も上手く使って聴きやすいオペラであった。その中で印象に残ったものは、太守役は台詞のみで高徳な役回りを演じた演技力は、この劇を引き締めている印象であった。またコンスタンツェ役のSさんの声は透明感のある高音は響きがあり丁寧に歌い上げていた。また脇役と思える門番役のバスの声は、役に合っていて、声も然ることながら演技も素晴らしい人であった。それ以外主役のベルモント、侍女役のブロンデ、その恋人役のペドリロも役もその役に、はまっていて良かった。

 このオペラの時代背景18世紀のトルコで、13世紀から20世紀初めまで続いたオスマントルコ帝国が、弱体化して行く過程の中でスペインとかイギリスが国力を増しているときの物語であり、国力は衰えたとはいえ未だ優位であったトルコの太守が、3人に示した扱いの妙、そして取り戻そうとやってきたスペインの青年貴族の純真さ、そして救出は叶わず4人が捕まり悲劇かと思ったが、最後に示した太守の人徳な振る舞い。これらにも、この時代背景があったものと思った。良いものを見せて頂いた。


マンリョウの移植

2015-02-24 22:07:32 | Weblog

 もう2ケ月ほど前であったが、「駿河TBG」仲間のENさんが我家に来て話していった。何の話しだったのか、今はっきり覚えていないが、「駿河TBG」の幹事である私に何かの伝言があったことのような気がする。その時ENさんが、雑談で我家の庭のことを話した。丁度落葉樹が葉を落とし、その中でマンリョウの実と緑が鮮やかになっていた時期であった。このマンリョウは亡父が植えたもので、その実を鳥が食べ、庭のあちこちに実生のマンリョウが芽をだし成長し増えていったものである。それ故あまり珍しいものとは思っていなかったが、ENさんと話すと、珍しいと云いほしいと云った。

 しかし植物には移植は時期があって、いつでもできるものではない。25年ほど前、勤めていた会社のアパートに住んでいた時、父から貰ったマンリョウをベランダで育てようとした。その頃は植物を育て方も分らず、鉢を日向に置き、肥料や水を掛けたりした。しかし段々苗木は弱っていき、最後は枯れてしまった。育つことに願いを掛けていたので、その時は非常に残念であった。そのことがあったので、ENさんに「移植に適した時期があるので、その時に鉢に植え替えて持っていくので少し待ってほしい」と話し持っていくことを約した。

 植木の本を読むと、「移植時期は根が活動しる前の3月が良く、根が付くまで肥料も、水も掛けないこと」と書いてあった。3月では遅すぎると思い、1月下旬に、マンリョウの高さ30cnほどの形が良いものを2本選んでスコップで根切りをしておいた。このようにすると若い根が育ち植替えに良いと思ったからである。2月10日ごろであったか、その苗を直径25cmほどの2つの鉢に移し、直射日光がかからない木の陰に置いた。2本のマンリョウは最初の一週間ほどは葉が閉じるような形になり、弱った状態が続いた。しかし、その後1本のマンリョウは葉が元気を取り戻し、地植えのものと変わらないようになった。

 しかしもう一本の苗は、未だ葉は閉じて下を向いていた。このマンリョウは、根切りのとき、太い根をスコップで切ってしまったことが原因のようで、まだ根が付いたとは言えない。しかし、葉は付いていて、枯れてしまうようには見えなかった。しかし一本は完全に根が付き葉も勢いが出ていた。そこでENさんに電話連絡し持っていくことを伝えると、「私が取に行くから」と云って午前9時ごろ見えた。ENさんは私より7~8歳上の方であり、植木のことは私より詳しい方かと思ったが、私のにわか知識で、マンリョウの育て方を伝えた。彼は丁寧にお礼を言って持っていった。残った一本のマンリョウは、いま鉢の上にワラを敷いて元気になるのを待っている。


明治天皇と山岡鉄舟

2015-02-23 23:39:45 | Weblog

 山岡鉄舟は 明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下り、慶応4年6月静岡藩藩政補翼となる。明治4年、廃藩置県に伴い新政府に出仕、静岡県権大参事となるが、西郷隆盛のたっての依頼によって、明治5年に宮中に出仕する。その時10年間の約束で侍従として明治天皇に支えることになった。彼は、国を挙げての大戦に敗れた幕臣であり、「朝敵家来」である山岡鉄舟が、明治維新でできた新政府国家の天皇陛下の侍従にと推挙したのは、西郷隆盛であった。官軍総参謀 西郷のところに、一人決然として現われ、幕府将軍 徳川慶喜の意思を伝え江戸城無血開城の筋道を説いた。これは予備会談であったが、彼の勇気と無我無私の忠胆なる鉄舟の振る舞いに感銘したことによるものだと思う。

 鉄舟が侍従になったのは30代半ばの壮年であった。剣、禅、書を嗜み精神面の修業は、常人には計り知れない大丈夫であった。まだ20代前半であった明治天皇の教育係として、彼は最適任者であると考えたのだ。彼は全身全霊を奉げて明治天皇のため尽くした。幾つかのエピソードが残っているが、その中から一つを話すと「明治天皇が鉄舟たち侍従と酒の席で、鉄舟に相撲を挑まれ、鉄舟を押し倒そうとされました。普通なら天皇に勝を譲るところですが、鉄舟は飛び掛かられた際に横にかわし、天皇は鉄舟の後ろに倒れてしまった。周囲は鉄舟に謝罪を勧めたが、鉄舟はこれに応ぜず。天皇としての振る舞いを諫言し、それでも陛下が私が悪いと仰せられるなら、謹んでこの場で自刃してお詫び申し上げる覚悟であること」を決然と言った。

 明治天皇は鉄舟の言葉をお聞きになり「私が悪かった」と仰せになられた。決死の覚悟で御諫めになった鉄舟、非を素直に認めた若き日の明治天皇。このような、君臣互いに信頼の絆で結ばれていたことがうかがえる。また明治6年に皇居仮宮殿が炎上した催、鉄舟は淀橋の自宅からいち早く駆け付け、天皇擁護と跡処置にあたった。

 明治15年、約束どおり致仕いた後も明治天皇との信頼の絆は結ばれていて、山岡鉄舟が晩年胃癌に侵され食も細くなっていることを聞いた明治天皇は、何度も侍医や見舞いの品をお遣わせになった。あるとき自分も呑んでいたワインを贈り、病気に効くことを伝えた。このころワインは貴重なものであり病気に良いと錯覚して贈ったもののようだ。それに対し山岡鉄舟は陛下の優しさに感涙して「数ならぬ 身のいたつきを 大君の みことうれしく かしこみにけり」と詠んだという。 明治二十一年七月一九日、臨終には、皇居の方を向き、白扇を手にし、南無阿弥陀仏を称えつつ満場に笑みを見せ、妙然として現生の最後を遂げられた。絶命してなお、正座し、びくとも動かなかったと云う。歴史的評価は今一薄いが、幕末から明治維新を駆け抜けた一等の人物であったと思う。


久能寺と山岡鉄舟

2015-02-21 23:27:42 | Weblog

 現在の久能山東照宮のある所に飛鳥時代藤原氏出身の 久能忠仁が堂を建立した。このお堂は奈良時代に僧行基が久能寺と号した。平安時代には天台宗に改められ、当時坊中360、宗徒1500人もいる寺として豪勢をほこった。鎌倉時代も繁栄をつづけ貴重な文献や仏像、仏画、納経など現在も残っている。その後戦国時代の騒乱の中で、今川氏を攻略した武田信玄が、この地に城を構えるため、天正3年(1575)に現在の地に移築した。徳川幕府も古来からの名刹久能寺を愛護し御朱印地をたまわった。

 しかし明治維新の混乱の中で、久能寺は、次第に散乱し、住職のいない廃寺となっていった。このころ東京に居を構えていた山岡鉄舟のところに、清水次郎長は良く訪ねていった。話の中で歴史のある久能寺が荒廃してしまっていることを聞き、山岡鉄舟は久能寺再興せんことを願って、広く寄進を募ることにした。この時鉄舟は48歳であったが、募金のためたくさんの書を揮毫して次郎長に与えている。この時次郎長に渡された募金趣意書が「鉄舟寺庫裡建立墓緑山本長五郎簿」であった。

 それから五年後、鉄舟は明治二一年七月五十三歳で世を去り、鉄舟寺の完成を見ることは出来なかった。しかし清水次郎長はじめ多くの人が鉄舟の意志をつぎ、明治四十三年三月完成を果たした。久能寺がどのような経緯で鉄舟寺となったか分らないが、これは鉄舟の意思ではなく、趣意書に同意した多くの人達が、彼の功績を讃え決めたものと思う。また鉄舟は明治16年に東京台東区に明治維新で殉死した御霊を弔うため「全生庵」を創建し開基となっている。鉄舟はここに眠っている。

 鉄舟寺(久能寺)には、国宝・重要文化財がいくつかある。その中でも国宝 「紙本墨書法華経(久能経)」永治元年(1141)鳥羽上皇が出家の折、上皇と当時栄華を誇っていた藤原一門の手で写されたもので、鳥羽の安楽寿院に納められたものが、後に久能寺に移されたもので、当初30巻のものが散逸し現在鉄舟寺には19巻が残っている。装飾文様が施された荘厳経として厳島の平家納経と並び天下の逸品である。また重要文化財の錫杖は康治元年(1142)に造られたもの、及び「新羅三郎義光伝来の薄墨笛」は源 義経が牛若丸時代から愛用していた横笛がある。これは平安末期に義経から久能寺に寄進されたものと云われている。

 


清水次郎長と山岡鉄舟

2015-02-20 22:12:19 | Weblog

 山岡鉄舟を調べていると、侠客清水次郎長と懇意であったことが伺えた。以前にもふれたが、官軍に追われ由比の「望嶽亭」の主人松永七郎平が転機に助けられた山岡鉄舟は、七郎平によって海岸から櫓舟で江尻湊(清水港)に向わせた。そこから次郎長宅で匿われ、慶応4年3月8日はそこで過ごした。清水次郎長を感心するのは、彼は官軍から街道警護役を言い渡されていた。それなのに幼馴染の松永七郎平からの伝言を受け、幕臣 山岡鉄舟が官軍の参謀 西郷隆盛と、維新を実行するため直談判することをサポートしたことである。

 そして翌9日朝に、次郎長は山岡鉄舟を守り、久能海道を通って駿府に入り、無事官軍の参謀がいる松崎屋まで送り届けている。西郷と会った鉄舟は、幕臣と云っても身分は低かったが、決死の覚悟で西郷と交え、主張すべきはきちっと話し会談を成功させた。その時清水次郎長達は、山岡鉄舟を上伝馬町の松崎屋源兵衛宅に入る手前で別れ、道端にたたずんでいたとあった。また同年8月旧幕府海軍副総裁 榎本武揚が率いる艦隊の内、咸臨丸は房州沖で破船し修理のため清水港に停泊していた。それを新政府海軍に発見され交戦となり船は沈没し、乗組員全員が死亡し、湾内に浮遊する屍となった。それを集め浜辺に埋葬して葬ったのが次郎長であった。その行為が駿府藩の耳にとまり、出頭、詰問を受けたが、そこで次郎長は「死ねば仏だ。仏に官軍も賊軍もない。仏を埋葬することが悪いと云うなら、次郎長どんな罪でも喜んでおうけします」と応えた。後でそのことを聞いた駿府藩大参事の山岡鉄舟は、改めて次郎長の義侠心に深く感じ入った。鉄舟は明治21年に亡くなるまで親交は続いた。

 次郎長は自分より17歳も年下である鉄舟に心酔し「自分の親分は山岡鉄舟」と公言するほどであった。また剣・禅・書に長けた鉄舟を師とあがめ、彼から多くのことを学んだ。また鉄舟は、清水の由緒ある久能寺が荒れ果てていたのを惜しんで再興を図った。そしてたくさんの書と共に募金の趣意書を次郎長に与えた。そこには「鉄舟寺庫裡建立募縁山本長次郎簿」とあり ≪寺を建てても何にもならぬ。親を大事にしても何にもならぬ。わが身を大事にしてもなんにもならぬ。何にもならぬところをよくよく観すればまた何かあらん。山本長五郎御往時を考えここに尽力することあり、諸君何にもならぬことを諒察あらば多少の喜捨あるもまた、何にもならぬ何かがあるの異なり≫ 明治21年2月山岡鉄舟記す。これは鉄舟寺にある。

 これは、山岡鉄舟が亡くなる5カ月前に書き、清水次郎長(山本長五郎)に託したものである。現在荒れ果てた旧久能寺は鉄舟寺として蘇っているが、ここにも鉄舟と次郎長の繋がりを見ることができる。

 


犬のその後

2015-02-18 22:05:40 | Weblog

 朝7時ごろ犬小屋を見ると、耳を横にして喜んでいるしぐさをした。しかし後ろ足はまだ地面に付けていないが、散歩に行きたいのか、小屋から出てきて、庭の周りをびっこを引きながら歩いた。昨日は動物病院に連れて行かなければと思ったが、今は少し回復しているようで、少し様子を見ることにした。骨折はしていないようなので捻挫でもしたのかと思った。

 今日は義弟の兄の葬儀があり。10時までに斎場がある葵区千代田町いった。昨日は同じ場所で通夜があり200人近くの人が来ていた。今日は130人ぐらいの親戚知人が集まっていた。故人は享年92歳で、実家の林業を継いで、みんなに見守られ天寿を全うしたような人生であった。確か7人きょうだいの長男で、皆から慕われていたし、仲に良いきょうだいであった。子供さんやお孫さんに囲まれた良い人生であったと思う。葬儀からも、そうした空気が漂っていた。多くの人に囲まれ西方浄土へ旅立っていった。斎場での葬儀が終わり、火葬場に行くことになったが、私はそこでお見送りをして家に帰った。

 家に着いたのは午後1時30分近くであった。直ぐ犬小屋のところにいったが、まだ小屋の中で横になっていて、近くに行くまで来たことが分らないで寝ていた。声を掛けると起きて普段の表情に戻った。そして体を伸ばして小屋から出て、尾っぽを振って近づいてきた。その仕草を見て耳も遠くなり、急に老犬になったように感じた。しかし今日は道を隔てた前のところで新築工事の地鎮祭が行われていて業者の出入りが多かった。その都度に人が来たことを知らせるように吠えた。これは今までの吠え方と同じで元気であった。

 夕方、ハガキを出すため近くの郵便ポストに行った。その時犬の散歩も兼ねて出かけた。丁度往復300m程の距離であり様子を見ようと思った。普段なら私の前に出てリードを引張っていくのに、私の横について歩いていた。その内に慣れてきたのか悪い右足も左足と変わらないように地面に着いて歩いた。通りすがりに会った犬を連れた人にも尾っぽを振って近づいていった。以前に比べ歩きは遅かったが、回復を実感した。もうすぐ14歳になるので、身体機能は衰えてきている。それ故若い時なら何でもない走りでも捻挫を起こし動けなくなった。しかしこのまま時間が経てば直ると思った。これなら動物病院に行かなくてもよさそうである。

 


犬の怪我なのか

2015-02-17 22:46:23 | Weblog

 朝から冷たい雨が降る寒い一日となった。雨の日は犬の散歩はしないが、今日は雨が降ったり止んだりしている。犬は散歩に行きたいのか、犬小屋の中から私を見ていた。少し小降りになったので、犬小屋から出し散歩に行くことにした。小屋から出すと門のところまで、全速力で駆けていった。いつも門のところでリードを付け、散歩するのが常であり、リードを付けようとすると、右後足を付けないで、びっこを引いていた。走って門のところにいった時、何かにつまずいたのかと思った。こうしたことは以前にもあって、少し経つと元気になっていた。しかし今回は、そこから動こうとはしなかった。顔もどこか悲しげな顔をしていた。

 散歩は無理と思い、玄関の軒下に連れて来て、右後足の腿から足先まで触って痛いところがあるかみた。しかし痛そうな仕草も泣いたりもしなかった。抱きかかえ犬小屋に戻したが、その後は小屋の中で、足をかばう様に横になっていた。原因が何処にあるかわからないので、休ませ様子を見ることにした。昼ごろになって、再度見たが犬小屋の奥で横になっていて元気はなかった。今日は午後1時30分より、カルチャー講座があり、その後も親類の通夜があり行くことになっている。そして明日は、その葬儀があり、動物病院にも連れて行けない。病院に連れて行くのは19日以降になるが心配である。

 我家の犬も13歳9カ月になる。人間の年齢なら90歳を過ぎていることになる。犬は若い時に比べ落着いた感じになったが、近づいてくる人には、尾っぽを振って、うれしい表情をあらわす。動作は少し緩慢になっているが元気であった。以前は、早足で5kmほどの距離を散歩したが、その間私が持つリードを引張っていたが、昨年夏ごろからか2kmほどの距離を歩くと、最初はリードを引張って進むが、後半は私がリードを引張るようになっていた。また嗅覚も少し衰えたようだし、音の反応も鈍くなった。とは言え番犬としての役目は果たしているので、年齢なりに老化しているだけと思っていた。

 夕食をやろうと、犬小屋に行ったが、小屋の中でまだ横になり、それでも尾っぽを振って喜んだ仕草をしていたが、いつもの様に小屋の外に出てきて、声を出して喜びを表現することはなかった。原因は分らないが、今までに2匹の飼い犬の最後を見てきた。いずれも後ろ足が弱くなり歩くことがままならなくなっていった。この愛犬はまだそのような状態でないが、悲しそうな目で私を見ている姿にがんばれと言って頭を撫でてやった。近々のうちに病院に連れて行こう。


介護施設でボランティア

2015-02-16 22:21:00 | Weblog

 毎月行っているT介護施設でのボランティアが午後2時からある。このボランティアを始めて7~8年経つが施設利用者の皆さんが本当に喜んでくれているのかといつも自問している。それでの毎月30名近い人が来てくれるからと思い行くようにしている。そして選曲はいつも悩む、既に100曲ほどを模造紙に書いてあるが、その内から20曲ほどを選んで持っていっている。皆さんがよく知られた曲を選んでいるが、冬の歌は、どうしても淋しいとか悲しい曲が多く苦労する。昨夜の内に何とか選べ終え、今日の午前中は曲の合間に話すことなど纏めた。

 そして午後1時30分にはT介護施設に入った。この施設は県内各地に大型施設を構えていて、この施設も6階建で、デーサービスも含め多くの利用者を預かっている。この利用者の大部分が顔なじみで元気な姿を見るとホッとする。今日も30人近い人が見えてくれた。しかし最近最高齢者103歳のOOさんが見えないのは気になる。車椅子で最前列の中央部にいて、一緒に歌い、私の話しに相槌を打ってくれていたが、体調を崩したのか心配であった。

 午後2時になり、皆さんの前に立った。オープニングの歌は「ふるさと」である。ここに来るようになってから、変わらずこの歌から始めている。この曲はみんなが知っていて、施設利用者も大きな声を出して歌ってくれた。次に「青い目をした人形」を歌った。歌う前にこの歌ができたいきさつを話した。『丁度日露戦争に勝利した日本は、満州に足場を築き、領地拡大の道を進めた。しかしこのことはアメリカを含む列強国との間で険悪な関係になっていった。そんな中、アメリカの牧師が日本に13000近い人形を贈り、日本の幼稚園や小学校に寄付した。これは民間レベルで互いに仲良くしようとの思いがあった。その返礼として、財界人で教育者であった渋沢栄一氏が音頭を取り、日本の市松人形をアメリカの子どもたちに贈った。その数は60個ほどで少なかったが、思いは通じたものと思った。そのような情勢下で「青い目をした人形」の歌は作られたのです』こんな話しをした。

 そのほかに歌ったのは「うれしいひな祭り」「赤い靴」「たき火」「ペチカ」「早春賦」「ゴンドラの唄」「四季の歌」「かあさんの歌」「雪の降る町を」「浜辺の歌」「知床旅情」「昴」「見あげてごらん夜の星を」であった。各々にその歌にまつわる話などしながら歌った。午後3時までの60分はあっけなく過ぎた感じであった。皆さんの心の内は分らないが、歌いながら遠い昔を思い出しているのか顔の表情が変わっていくのを見ていた。