キ上の空論

小説もどきや日常などの雑文・覚え書きです。

エスケイプあるいは三十年分の肉厚

2020年04月12日 | 二次創作
 風花雪月黒鷲捏造親世代。5年後にベストラ侯が生きているくらいのがっつり捏造なので、無理っぽい人は無理に読まないで欲しい。
 願望のみを乗っけた捏造設定をぶっ込み放題にぶっ込んだやつ。
 こういういかにもな二次創作は書いてて楽しかったです。
 登場人物の名前がほぼ出てこないのは二次慣れしてないのと、この話ではわざとです。
 前半部分をあとから書き足しました。このベストラ父さんは金鹿ルート。
 うちはルートによってベストラ父さんのキャラが違うので。そのせいでエーギル父さんまで違っちゃいましたという話。
 基本的に会話が成立していないので、混乱しやすい方はお気をつけて。
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 肩に食い込む重みがそろそろ指先の感覚を奪う頃だ。
 脱走したことになっている恩人は、ここに移送された。近く、騒動に巻き込まれて死ぬ予定になっている。おそらく、本人に否やはない。私の背中の死体が、覆してくれると良いのだけれど。
 自重を超える荷物を背負うにはコツがある。一度下ろしてしまうと、もう一度持ち上げたいとはなかなか思わぬものだ。
「身の丈に合わぬことをひとりでするものではないぞ」
 もう三十年は前のことだ。叱られたことのない子供だった私は、呆れて自分をたしなめる青年に驚いた。何でも一人でやるしかなかったから、そうでない選択肢があると、にわかに理解できなかった。けれどその時、ようやく少しだけ世界が広く見えた。追い詰めてくるばかりの窮屈なものではなくなった。
 今は一人で何でもやる。背に負った重い荷物は自分で選んだものだ。だから心は軽い。
 大きめの商家の倉庫だった建物を、雑に作り替えた自警団の番所。一部が寝泊まりできるようになっている、その中でも最も小さな部屋に罪人を閉じ込めておくことがある。中央からの役人に引き渡すこともあれば、そのまま始末することもある。自警団は領主が変わってから隣接の領地の密かな援助を受けて結成された。先代はその余裕を与えなかったが失脚した。領民は新領主を歓迎したが、期待は手ひどく裏切られ、怒りと憎しみに変わった。新領主は恨みのはけ口として旧領主を差し出すことにした。
 何もかもが間違っている。
 改築された倉庫に人の出入りし居住できる強度はない。罪人を取り戻そうとする賊が襲撃してくれば、ひとたまりもないつくりだ。投石にも焼き討ちにも弱い。何より、組織だった防衛がしにくい。せめて設計からやり直せ。
 先代領主は故あって領内を金銭的に締め上げた。その分、帝国に巣くう敵を慎重に排除していたはずだ。搾取の部分を猿真似をした者が破綻させ、事ここに至った。咎があるなら現領主の方だろう。
「ここにいる罪人と話がしたいのだけれど、表立って許可は出せないようでね」
 番兵は訝しげに私を見た。
 私の姿形を知る者は多くない。けれど、似た色合いを持つ人物は知っているだろう。
 今、ここに罪人は一人しかいない。その事情を知る部外者。当然、警戒はする。
 兵は後ろの扉を見た。番所の内側から、入り口前にいる人物を確かめることができない。本当に、ひどいつくりだ。
「お待ちください」
 慎重に言い置いて兵は扉の内側へ去った。図面通りなら、正面から一人ずつ殺していけば、騒がれることも、ことが発覚することも当分はない。けれど、なるべくそうしないと決めた。彼らを地域の防衛に足りる集団にするには、時間と教育が要る。まずは領主が別の誰かに変わるのが望ましいのだけれど、その前に個人的な事情ごときで全滅させてはいけない。これからの帝国を、あるいは別の何かを担っていく者たちだ。
 紋章酔いの症状は出ないから、ここにいる紋章持ちは公一人。
 血が薄まったためか、先祖が受けた呪いとも言うべきものが、目に見える不都合として現れるようになった。紋章酔いはそのひとつ。比較的マシな部類だ。
 帝国でない何かが何になるのか、手を離してしまった私にはどうでもいい話だ。
 ガルグ=マクにいた頃、鷲獅子戦の感想戦で、亡友が言っていたという言葉を思い出す。
「宮内卿が前線にいるなら帝国は末期だ」
 残念ながら、遠からずきっとそうなる。
 けれど、宮城の外に現れる宮内卿のおかげで、必要な小細工の数が減った。良し悪しだ。
 ヒューベルトとは、同じ者を敵としながら、決して共に戦うことはなかった。裏切り者など背を預けるには値しないのだろう、それでいい。皇帝を皇帝たらしめるのがベストラならば、私はとうにベストラであることをやめた。
 番兵が戻ってきた。
 兵装も武器も足りていないのだろう、鎧が身体に合っていない。少しの挙動でずれては直し。年齢の割に苦労が染みついているのか、表情が疲れている。きっと三十を少し過ぎたくらいで老人に見えるようになる。生きていればの話だけれど。
「お入りください。……その、話をしに来られたとのことですが」
 扉を大きく開ける。警戒した様子を見せる兵が二人、テーブルの奥に座っている。テーブルの板は分厚く、作戦机にもなっているようだ。
「うん、話をするだけです」
 事態が動くのはまだ先だから。何かをするのはそのあと。
「どのようなお話を」
「その荷物は何ですか」
 番兵を遮り、座っているうちの一人が声をかけてくる。責任感が強すぎて前のめりになる性行があるようだ。
「死体ですよ」
 番兵が一歩離れた。安全距離としては不十分だが通路は狭い。
「あなたはいずれこうなると、知らせてやりたくなりまして」
 嘘は言っていない。役に立つかは知らないが、女神に誓ってもいいだろう。
「改めても?」
「構いません。疫病で死んだものでもありませんから」
 言い足して、その知識のないものに言っても仕方のないことを言ったと思った。
 座っていたもう一方が腰を上げた。
「疫病で死んだ者だと、何か問題があるのでしょうか」
 リーダー格の号令担当と頭脳労働担当、その後者。確か、近所の子供に読み書きを教えることもあったと。
「最悪の場合、ここにいる全員がその疾病で死にますね」
 流行病の恐ろしさは、呪いの比ではない。教団が科学と医学の進歩を差し止める、その傲慢から来る災厄であるにも関わらず、人は流行の終焉を神に祈る。このばかばかしさと来たら。
「その者はもう死んでいるのにですか」
 病は宿主と同時には死なない。医者の残した記録が裏付けている。三四半世紀前に国境の領地をまるごと焼いた魔人は、およそ四半世紀前に同じ病を広がる前に焼いて封じたと手紙を寄越して、それからまもなく死んだ。その翌年、ガルグ=マクで直弟子と出会い、さらにその翌年、直弟子も死んだ。
「焼くしかないものも、いまだありますよ」
 白魔法で救うことのできない者はいる。祈りでは助けられない。コルネリアがもたらしたのが緩い公衆衛生でなく特効薬であったなら、教団は言いがかりをつけ彼女を魔女として血祭りに上げただろう。魔人は自らの領地を焼く狂人を演じなければならなかった。
「あなたは、お医者様ですか」
 似たようなことなら、いくらか。人体に関わる知識はそれこそ千年分はある。けれど私は医者にはなれない。
「亡友に医者がいました」
 魔人の直弟子。彼を消すことに関しては、教団と敵との利害が一致した。
 皇帝を盾に取る敵と、帝国を作った教団と。もっと早くに自分を諦めていたなら、誰かは助けられたかもしれない。起こるとわかっていた水害から。起こるとわかっていた紛争から。起こるとわかっていた虐殺から。けれど、諦められなかった。私は彼らを助けない選択をした。その報いが、死ぬとわかっている我が子を止められないことならば、随分と軽い。
「あの罪人は、あなたにとって、それほど憎い方なのですか」
 死体を見せつけたくなるほどに。
 なるほど、それが普通の感性か。私は恩人にひどいことをしに来た。そうなるのか。
「憎いわけではありません。むしろ、恩返しのようなものです」
 返すべくもないけれど。
「そうですか、でしたらどうぞ、奥へお進みください」
 座ったままのもう一方が驚いて名を呼ぶ。
「改めなくても?」
「はい」
 きっぱりと肯定した。彼女は恩人にそれなりの敬意を持っている。ここから逃がすでもなく、害意もないことを確かめられれば良かったようだ。
 自警団は思想的にも一枚岩ではないのが見て取れる。
「後日になりますが、ここの改築案を届けさせますよ。今のままでは、拠点としてまるで役に立ちませんから」
 少しでも、自らを守ることができるようになるといい。
「ありがとうございます、閣下」
 隣で、確かに不便なところはあるけどなどと、もごもご言っている。
「爵位は既に倅が継いでいます」
 皇帝を皇帝たらしめるベストラとして。
「それでは何と」
「呼び名などなくとも、もうここへは来ません」
 番兵は混乱のあまり口許が笑い始めた。
 気難しげに息を吐く彼女のような者には、まだ生きにくい世の中だ。考えすぎる、察しが良すぎる、わかりすぎる。そうした人たちを摩耗させても女神はどこまでも赦すだろう。学問を押しとどめるとはそういうことだ。学び得る者はどこにでもいるというのに。
 動けなくなっている番兵を置いて、奥へと進む。建物自体がそう広くないから端の方というだけ。気づかれないまま軟禁されている罪人を連れ出すのに特に苦労はしない。
 けれど、今はそうしない。
 ドアには一応、錠がかけてある。
 幼い私は恋に狂った皇帝を、皇帝としてあるべき姿に変えようとした。狂った者を変えようなどと、どれほど愚かで驕慢なことか。狂気は人の力の及ぶところではない。
 自ら望んで手にした帝位、継承権を持つきょうだいを遠ざけ、時に命を奪った。にもかかわらず、皇帝でない何かに成り下がろうとする先帝を、認められなかった。
 皇帝は不逞の輩にその力を奪われたものであり、自ら力を振るうにふさわしからぬ者になったわけではない。そういう形にしておきたかった。
 最初から、何もかもが間違っていた。
 これは私の過ちだ。他の誰かに何を負わせることがある。
 指先が冷たい。背中の荷物はそこまで重いものだったろうか。
 ドアを開け、部屋の中に向かって声をかける。
「お久しぶりです、元宰相殿」
 樽のような体型の恩人は窓の外を見て振り返りもしない。後頭部に残る東雲色は、以前より量を減らしている。
 ドアを閉め、目的を伝える。
 話をすると言っても、それほど会話が成立したことはない。それで伝わるし、それで十分だった。これまでは。
 背の荷物を下ろす。この死体と、この恩人とを見比べるために。
 箱の蓋を開けると、恩人は心持ち眉間の皺を深くしながら振り返った。


 結局、取り返された。敵の手に渡る物資、資金の話だ。
 まず、既に敵の影響下にあったフリュム領から、私の名で敵に関わる者を締め出した。少しでも余計に手を出せば何も取れなくなるほどに締め上げていたから、敵がその配分と調整を理解できなければ、領民が暴動を起こす。豊かな帝国領内で、近隣領地からの援助を完全に絶つことはできない。締め上げすぎたら死ぬが、さもなければ必ず余力がある。人体実験をするくせに、人間の強度と紋章の相性をろくに理解していないと聞いたから、こちらの方もそんなものだろう。暴動に巻き込まれるのは、立場と状況を考えれば仕方がないことと言えた。領民にしてみたら領主が代わったところで敵の名前がすげ替えられただけの話だったので、どちらも許しがたいだろう。後釜については、過去の印象が良いだけに失望も大きいはずだ。
 印象はあらかじめ作り、積み上げておくものだ。大きな金額を動かす日常があると思われていれば、その数字に多少の揺らぎがあっても、御用商人がうまくやったと認識されるに過ぎない。宮城にまで入り込んだ、味方の顔をした敵と戦うに当たって、近衛ですら役に立ったことはない。敵の向こう側にいるのが、他ならぬ皇帝だったからだ。その皇帝から力を奪ったとは言え、そのまま帝国領内を好き放題に食い散らされるわけにはいかない。となれば、戦うための資金も人も、戦うと決めた者たちで用意するしかない。正直に言うなら教団との戦争は避けたかった。相容れないと誰にもわかる態度でいられたのは、この認識の違いによる。
 それにしても、アレだの敵だのと。共通の通称すらないのは不便なものだ。
 いずれ忘れ去られるべき者に、その名で呼ぶ価値はないと言っていた男は、予告通りに死んだと聞いた。本当に、今の帝国にあの敵と戦うだけの力があるのか、いずれそうする余地ができる算段が付いたのか、まともな情報が入ってこない軟禁場所で把握できる術はない。
 帝国が終わるにしろ、そうでないにしろ、フレスベルグの意志によるべきだ。そのための皇帝は立った。あとはなるようになるだけだ。となれば、私も役割を十分に果たしたと言えよう。些かの不名誉は取るに足らぬことだ。
「お久しぶりです、元宰相殿」
 声と共に、部屋のドアが開いた。錠がついていたはずだが、声の主にはどうということもないようだ。
 窓の外を見ているふりをして、振り返らないことにした。関わると本当にろくなことがなかったのだから、せめてもの抵抗だ。死んだはずだとか、常識外だとか、場をわきまえるべきだとかは求めてはいけない概念だと身にしみている。
 もう少し驚いた方が良かったのかもしれないが、とてもそんな気にはなれなかった。
 この男は死の使い方を知っている。
「そろそろ貴方に死んでいただこうと思いまして、その準備に参りました」
 こういうことは本当にうれしそうに言うのだな。
 声だけを聞いていると、感情を取り逃がす。大事なことほど、取るに足らぬことのように、投げ捨てるような言い方をする。
 窓を見ると、相変わらずどこか絶望を含んだ顔をしていた。口許だけが笑っている。
 生意気な青二才にうっかり道理を説いてやったせいで(私も若かった)、変になつかれたのが運の尽き。
「死人はお前の方だろう」
 男は背負った大きな箱を下ろすと、声を立てて笑った。今は何と呼ぶべきか。互いに名では呼ばないし、これからもそうかもしれない。味方であると知られることが互いの命を危うくする。そういう時期が長かった。
「ええ、まあ。病死でも自殺でもないということは、そういうことです」
 軽く言っているから、言いたくないことが多々あったようだ。
 一見穏やかに当主が交代したときの方が、血なまぐさい事件が起きている家柄だ。
 家督を継いだ子息とは、外見だけは余り似ていない。余人には髪と瞳の色が同じなら似ているように見えるものらしいが。
「それでですね」
 箱を開けると、折りたたまれた人間が出てきた。さすがに振り返る。
「ここに、伝え聞く貴方の風貌と共通点があるのを良いことに、重税のついでで余計なことをして幾人かの商人を吊らせた賊の死体があります」
 まだ死体ではない。箱に収めるためか、いくつかの関節がはずされ、意識はないものの、死んではいない。
「特徴的な違いがある部分をつぶしておき、それが目立たなくなる頃合いを見計らって発見してもらうこととします」
 長年の重圧と過労と不摂生が作ったこの身体と、賊とやらの体格は、近いと言えるものだろうか。
「そこでですね」
 男は賊の額近くの髪を無造作に掴んで引き抜いた。
「わあああ」
「何故貴方が悲鳴を?」
 心底不思議そうに言ってくるのが恨めしい。自身の手に負えないものを、配分も含めてどれだけこちらに丸投げしてきたと思っているのか。本当に、度し難い。
「普段身につけておられる下着の素材と形を確認したいのですが」
 下着?
「気の毒な元宰相殿は混乱のさなか、どこからか沸いて出た物取りに遭って、身ぐるみ剥がされてしまうので」
 ちょっと待て、その筋書きは何だ。滑稽小話でもあるまいし。
 実際には、追い詰められた者ほど辻褄の合わない行動を取る。もしかしたら、私もそうかもしれない。気の毒かどうかはさておき。
「細部はどうでも、これが貴方の死体だと認識されれば良いのです」
 男が引きちぎった髪を燃やすと、嫌な臭いがした。どこであれ、人の身体が燃えるのは嫌なものだ。
「替えの服ならその戸棚にある」
 広くもない部屋の大きくもない戸棚。寝台が部屋の三分の一を占めており、椅子はあるが机はない。
「まがい物にはまがい物で十分かと」
 ならば、現物を見れば良いだけだ。だが、言葉の意図は理解したらしく、不満を隠そうともしない。
「私の名で死ぬのだろう」
 状態はどうあれ。詳細を入念に確かめる者はないだろうが、疑いの余地は少しでも減らした方が良い。
 諦めたのか、男は戸棚から下着だけを一枚ずつ取り出した。賊に合わせて多少の調整はするはずだ。
「帝国が続くにしろ、そうでないにしろ、元宰相殿は障害か老害にしかなりませんから、どこかで静かに暮らしていただけると良いのですが」
 知っている。はっきりと死んだことにしておきたい理由も。立ったばかりの皇帝が反体制側を引き寄せるのに使うには、元宰相の立場ではことが大きくなりすぎてしまう。
「ご希望は?」
「お前は?」
 質問に質問で返す。希望などない。何ならその筋書き通りに死んでもかまわない。悪辣な領主は片方だけでも早々に酷たらしく死んだ方が、領民の不満は収まりやすい。敢えて助ける理由もないものを、何を求めて来たというのか。
 案の定、途方に暮れた顔をしている。
 今更別の場所で別人のように生きて何になる。
 これ以上のこともほかの選択もできなかったろう、お互いに。
 身動きが取れなくなると、人の顔を見に来る。頼られたからこその今。何かを間違えたわけでもなく、破綻したわけでもなく訪れた結末。これでいいと言ったら。
 返事はない。それが返答。
 全く、余計なことにばかり口が回るくせに言外の要求が多い。
 手を出すまいと決めたこと以外に、できることが何もない。主も友も妻も、みんな死んでしまった、だから何かをすべき相手もいない。ほかに引き受ける者などおるまい、だから私の元に来た。
「いくつか聞いておきたい」
「お答えできるものでしたら」
 あからさまに安堵する。何に怯えることがある? 思い描く未来などなかった。一つの手違いでもあれば帝国は生まれ変われなかった。もう報われているというのに。
「調査員は何人残った?」
 正確にはフリュム領から搾り取るのに必要な調査をまとめていた者たちだ。そのまま敵に使われる気もない者もいるだろう。
「生存が確認できた二十七人はエーギル領に帰しました、倅が」
 近々に起こる暴動は確定済みか。よくもこれだけ持ったものだ。領民や敵から身を守る名目で、調査員を元いた土地に帰すのは皇帝の温情にも見える。混乱に巻き込まれて元宰相が死ぬのは不可抗力、と。
 理屈がよくわかっている。あとは、経験だ。その機会があれば良いが。
「敵の名を知っているな」
 名がない敵。何より味方にものを伝えるに当たって不便で仕方がなかった。
「ええ、まあ。私はアレだの敵だのとしか呼びませんが、倅は呼称で呼んでおります」
 勝手に呼称をつけてもまた不都合があるだろう。
「そういう問題ではない」
 名を知っている。つまり敵には特定の名がある。
「父祖に倣ったものです。実例としては、ネの付くアレについた蚤、モグラもどき、言葉の意味が変わったので現在では口にすれば良識が疑われる文言になったもの、長すぎて結局あのアレと呼ぶに至ったものなどと、連中が名乗った名で呼んだ者はおりません」
 恐らくその言葉の意味が変わったのは、ほかならぬベストラのせいだろう。
「私の代では既に帝国内に入り込まれていて、当の本人共に何の話をしているのか知られる恐れがありましたので」
 ほかの物事には符丁や隠語を使うのに、あの敵にはそうしない。せめて特定の呼称でもつけておいてくれれば良いものを。……待て。さきほど挙げた実例以外の統一された呼称で子息が敵を呼んでいるなら、それが「呼称で呼んでいる」という言い方になるのか。
「それで、その呼称とやらは」
「私は呼びません」
 頑なだな。自分にとっては呼称ではない、で通すつもりらしい。
 敵の名を呼ぶ機会など、ない方が良い。同じ間違いが起こるのでなければ。そのための記録を残すに当たって、名が書けないままだと骨が折れる。
「敵が宮城で最初に殺したのは皇弟か?」
「いいえ」
 となると、敵が最初に入り込んでいたのは、この元宮内卿が爵位を継ぐ前、表向き出入りできなかった後宮か。寵姫の入内に強硬に異を唱えたのは彼女を敵から守るため。
 皇帝も敵も、後宮での事情を、年端も行かぬ宮内卿の嫡子が知っているとは思っていなかった。本来職務に当たるはずの宮内卿が臥せっていたこともあり、両者ともに自由を奪われまいとした結果、事態が悪い方向に傾いた。
 かの寵姫が入内を果たし、敵が皇帝の子と妃を幾人か葬ったあと、ようやくベストラの代が代わったときには、帝国は、いつ乗っ取られてもおかしくはない状況ができあがっていた。
「どこへ行くつもりだった」
 彼は理由を余人に知られぬまま皇帝から離心した。だからそれが誰もが目を背けてきた人物か、後宮に由来していると想像はつく。先帝を皇帝とは見なせなくなることが起こった、あるいは。離心したように見せることで、敵を見誤ってきた皇帝に距離を取らせようとしたか。
「いつの話でしょう」
 ベストラは、帝国のはじめの時から言わば宮城に閉じ込められてきた。帝国中から集まる情報を受け取りはしても、自らが帝国中のどこへでも行けるわけではない。
 だからこそ、どこかへ行くつもりだったはずだ。帝国を見限って。あるいは、皇帝を後ろめたさから救うために。
 全盛期にはフォドラ全土を巡っていた情報網は見る影もなく寸断され、秘密警察たる私兵は皇帝の命で解体され、頼るべきを背にかばう立場に置かされていた、幼さ故に、立場故に助けを求める言葉は事前に遮断されていた。それでも守ると決めた皇帝にはそのために疎まれ、敵と戦うに当たっては枷としかならなかった。絶望が表情に張り付いているのは当たり前だ。打てる手はすべて打っているのに、良からぬ事態が起こると知っていてそうなるのだから。長くそうしていたら、そういう顔になる。一つの間違いが帝国を終わらせてしまうと自らを追い立ててきた私の眉間の皺と同じように。
「……飛竜を駆って、できるだけ遠くへと思ったことならありますよ。若い頃ですが」
「若……?」
 随分年下だと思っていた者から意外な単語が出てくると、なかなかに衝撃的だ。
「アレについて最初にご相談申し上げたのが何年前だったと」
 もう三十年近く前だ。互いにまだ家督を継ぐ前。父の名代として公務に当たることもある年少者に、なぜだか私は年長者として実利を説くべきだと思い込んでいて。薄気味悪い話を薄気味悪い者から聞いたようなつもりでいた。公務にすら出ていたのだから、正式な継承がなかっただけで、実態は当時から彼が当主だったのだろう。子供とみて話を聞かなかった父は戦力とみなされず、対応がその分遅れた。
「何がおかしい」
 元宮内卿が笑ったままうなずく。
「意外なほど筒抜けだったのだなと」
 心情的に距離を取られているなら、ごまかせているはずだと。そういう希望的観測は、だいたい的外れだ。距離は、他人が自分を見ていない保証にはならない。
「お前は顔に出すぎる」
 他者への失望と、諦めとを。
 ただの裏返しでもあり、引き受けてきたものの多さでもあり、それ故の実感の乏しさでもある。どうしようもなく、ほかのやり方を知らない。守る側でしかなかった者は、守られてしまった者の悲しみや、守られすぎた者の増長を理解しない。
 理解は共感ではない。が、この扱いの面倒くさい危険物はおそらく誰の手にも余る。
 見込み違いだと言ってやりたいが、放っておいてもどうせ死ぬ身だ。毒を食らわば皿までといこうか。
 できるだけ遠くへ。海を越えて、紋章と関わりを持たずにいられる場所を確保していたのではないか。
 私が障害か老害にしかならないというなら、フォドラの外に行くのが良いはずだ。
「腹芸ができないとはご指摘の通りです」
 そんなことも言ったな。
 小さく息をつき、笑いを収める。この世の終わりのような顔をして。
「言葉も通じない場所にお連れしても?」
 地獄とどちらがましかは、後で考えることにしよう。
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