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高野山駅から乗ったバスを千手院橋で降り、細い道を10分ほど歩くと、ひっそりとした金剛三昧院があります。

金剛三昧院の前身は、源頼朝と頼家の菩提を弔うため北条政子が1211年に高野山に建立した禅定院で、その落慶法要には禅宗の祖、栄西禅師(当時71歳、1141~1215年)が導師となったといいます。

1219年に実朝が暗殺されると北条政子は禅定院を廃して金剛三昧院を建立(1223年)、幕府は、金剛三昧院の住職として12代に渡って禅僧を任命、金剛三昧院に現存する多宝塔(国宝)や経蔵(重文)は、創建時のものです。

金剛三昧院は、密教、禅宗、律宗、浄土宗の四宗兼学寺院として鎌倉幕府によって設立され、幕府推薦の禅僧が歴代住職を務めてきています。

鎌倉幕府は、金剛三昧院を通じて宗教書の木版印刷事業(高野版と呼ぶ)や参詣道の距離票となる町石五輪卒塔婆の整備事業にも積極的に援助しています。

鎌倉幕府と言えば、源頼朝(1147~1199年)の子息で妾腹から生まれた貞暁(1186~1231年)は、北条政子の嫉妬迫害を受けて仁和寺で出家、1208年には高野山に入っていました。

1208年、北条政子(62歳)は、頼朝と頼家(1182~1204年)を弔うために熊野詣に旅立ち、その途中に高野山麓の丹生都比売神社で貞暁(23歳、1186~1231年)と面会しています。

1218年、二度目の熊野詣に出た北条政子(62歳)は、丹生都比売神社で貞暁と再会、病弱な実朝(27歳、翌年死亡)に代わって頼朝の後継者(将軍)となる意思があるかどうか問うていますが、貞暁(33歳)からきっぱりと断られたようです。

しかし貞暁は、尼将軍政子の帰依を受け高野山に五坊寂静院を建立、高野山を監視する立場(鎌倉法印)となって隠然たる勢力を持つことになるのですが、政子の死(1225年)から6年後に高野山で入寂しています。

1280年には北条時宗が金剛三昧院に勧学院と勧修院を寄進、このころには幕府の力を背景にした金剛三昧院が高野山の中心寺院となっていて、本来の高野山僧との間で軋轢があったようです。

参考文献:戦国武将と高野山奥之院 木下浩良著

 



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